2024年7月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記3章1~6節
使徒言行録7章30~35節
説教題:「燃え尽きない柴の奇跡」
キリスト教会の最初の殉教者となったステファノが、死の直前の説教でモーセの生涯について語っています。使徒言行録7章30節にこのように書かれています。「四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました」。ステファノはモーセの120年の生涯を40年ずつに区切って語っていますが、彼の説教によれば、モーセがエジプトから逃亡したのち、ミデアンの地で、エトロのもとで生活していた期間は40年であり、シナイ山で燃え尽きない柴の奇跡を見たのは、彼が80歳になってからであるということになります。
では、その時のことを記した出エジプト記3章1節を読んでみましょう。【1節】。モーセは誕生してから40年間はエジプト王宮の中で、王ファラオの娘の子として育てられました。40歳の時、同胞のヘブライ人が過酷な労働で苦しめられていることを知り、同胞の一人を守るためにエジプト人の監督を殺してしまいました。そのことがファラオに知られ、命をねらわれることになったために、遠いアラビアのミデアンに逃亡し、そこで、神に仕える祭司の働きをしていたエトロの娘と結婚し、子どもが与えられました。その40年の間にも、エジプトでのヘブライ人の過酷な労働は続きました。モーセはミデアンの地で、もしかしたら同胞の苦しみのことを忘れていたことがあったかもしれません。けれども、神はヘブライ人の苦しみとその嘆きを決してお忘れにはなりません。2章の終わりにこのように書かれていました。【2章23~25節】。
モーセがこの40年間、祭司エトロの家で具体的にどのような生活をしていたのかについては、聖書は何も語っていませんが、いくつかのことは推測できます。3章1節にも2章16節にも、エトロは祭司であったと書かれています。祭司とは、神に仕え、人々の礼拝の儀式などを整える務めです。エトロが仕えていた神が、族長アブラハム、イサク、ヤコブが信じていたイスラエルの神であるのか、それとも他の神々に仕えていたのかは分かりません。いずれにしても、モーセはエテロのもとで、神に仕える務めの重要性を学んだことは確かです。人間社会の中で他の人とどのように生きるかという課題だけでなく、神とどのような関係を持つか、神にどのようにお仕えしていくかを学ぶことは、そののちのモーセにとって、非常に重要な意味を持つことになりました。彼はこののちに、神によって召されて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出す指導者とされ、またイスラエルの民を神礼拝の民として整える務めを神から託されることになるからです。
10節と12節にはこのように書かれています。【10節】。【12節】。モーセは神とイスラエルの民との間に立って、民の心を神に向かわせ、神のみ心を民に伝える祭司の務めを果たすための準備を、祭司エトロのもとでしていたのです。もっとも、モーセ自身はまだそのことには気づいてはいませんでしたが、これは永遠なる神のご計画だったということを、わたしたちは教えられます。
また、エトロが羊飼いであったということが2章16節や3章1節から知られますが、このこともまたモーセにとって貴重な経験だったと推測されます。モーセはのちになって、エジプトを脱出したイスラエルの民を、荒れ野の40年間の旅を導くことになるのですが、それはまさに羊の群れを安全に牧草地へと導く牧者、羊飼いの務めでありました。モーセはそのための訓練をミデアンの地、エテロのもとで受けていたのだと言えます。それはモーセにとって貴重な40年であったし、また彼にとって必要な40年であったのです。
ある人はこう考えるかもしれません。神はなぜモーセを、その人生の最盛期ともいえる40~80歳代の時にお用いにならなかったのか。80歳を過ぎて、人生の終わり近くになってから、初めてその務めに召されたのかと。モーセが40歳の時に、民族意識に目覚め、正義感に燃え、同胞のヘブライ人を守るためにエジプト人を殺したあの時にではなく、それから40も過ぎたこの時になって、彼をこの務めに任じたのはなぜかと。この間にも、エジプトでのヘブライ人の苦しみはいよいよ増加し、過酷になっていったのではないかと、問うかもしれません。
しかし、わたしたちにはその問いに対する答えはすでに分かっています。神がなさることは、人間の思いや計画とは違っており、モーセの思いとも違っていて、最もふさわしい時に、最もふさわしい仕方で、最も良き方法で神はご自身の計画を遂行なさるということをわたしたちは知っています。モーセがこれからより困難な務めを担うためにも、エジプト王宮での40年間のエジプトの学問と教育の成果よりもはるかにまさったミデアンの地での40年間の経験が重要なのです。彼の民族意識とか正義感とかでもなく、むしろそれらを捨てて、神のみ言葉を聞くことこそが、そして神によってその務めに就かされることこそが、重要なのです。
さて、ある日モーセは父親であるエトロの羊の群れを導いて、荒れ野の奥地、神の山ホレブのふもとへやって来ました。ホレブは別名シナイ山のことです。今日ヘブライ語で「ジュベル・ムーサ」(モーセの山)と呼ばれるシナイ半島サウジアラビアにある標高2285メートルの山であると推測されています。1節でもそうですが、出エジプト記ではこのあとでも何度か「神の山」と言われています。なぜそういわれるのかは諸説ありますが、最も有力な説は、12節で言われているように、エジプト脱出のあと、モーセがこの山の頂で神と出会い、神から十戒を授かって、神とイスラエルの民との正式な契約が結ばれたことからそう呼ばれるようになったと考えられています。モーセはエテロの羊を飼いながら、神に導かれてこの山にふもとへとやって来ました。
【2~3節】。「主の御使い」とは、ここでは天使のような何らかの姿を持ったものというよりは、神ご自身が顕現された、ご自身が現れたという意味であると考えられます。5節では「神は言われた」と書かれています。神は炎や光の中にご自身を現わされます。聖書の中には、神が霊とか風、雷、雲によってご自身を顕現されることが数多く記されています。そこには二つの意味が含まれています。一つには、神がそれらの特異な自然現象の中でご自身の存在そのものと、力や偉大さ、崇高さ、威厳を現わされるということ。もう一つには、神がご自身のお姿をその中に隠されるという意味もあります。というのは、神は直接に人間の目で見られるような姿かたちを持っておられないからであり、また、罪に汚れた人間の目が直接に神のお姿を見るならば死ななければならないからです。6節で、「モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った」とあるのはその理由によります。
モーセはその時、不思議な光景を目撃します。「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」という現象です。柴とは、砂漠地帯に生えている背の低い灌木であり、熱い太陽に焼かれ、燃え上がればたちまちに燃え尽きてしまうものです。そうであるはずなのに、それがいつまでも燃え尽きないという不思議な現象です。3節で「不思議な光景」と訳されているもとのヘブライ語を直訳すれば、「何とも大きな現象」であり、『口語訳聖書』では「この大きな見もの」と訳されていました。モーセは砂漠の中の小さな現象に過ぎないこの光景に、偉大なる神の存在と、驚くほどの大きな神のお働きを見たのです。
モーセが見たこの現象は一体何を表しているのでしょうか。出エジプト記の文脈の中で、いくつかの点について考えてみたいと思います。第一には、ここでは主なる神の偉大さが語られていると言えるでしょう。神はこの世のあらゆるものを燃やす尽くす炎であられます。この世の朽ちるもの、過ぎ去りゆくもの、そのすべては神の裁きの炎によって燃やされ尽くされます。それゆえに、わたしたちは火で焼かれるようなこの世に宝を積むのではなく、朽ちず、汚れず、過ぎ去ることのない天にこそ、宝を積まなければなりません。
もう一つは、神の永遠性が語られています。神は燃え尽きることのない炎として、いつの時にも、この世を清める炎であられます。また、神はみ国が完成される日まで、永遠にこの世を明るく照らす炎であられます。その炎は決して燃え尽きることはありません。この世がどれほどに暗く、冷たくなっても、また多くの信仰者の心が冷えて、情熱を失っても、神は絶えず明るく暑く温かい炎でこの世と教会の民を包んでくださるでしょう。神の愛の炎は決して消え去ることはありません。
ここでは神のことだけではなく、イスラエルの民についても暗示されているように思われます。柴を燃やしているのは寄留の民ヘブライ人を悩ましているエジプトの鉄の炉を暗示しているように思われます。エジプトの真っ赤に燃えた鉄の炉の中で苦しむヘブライ人は、しかし決して燃え尽きることはなく、滅びることもありません。なぜなら、主なる神が彼らをお守りくださるからです。2章23節以下に書かれていたように、神はヘブライ人の苦難の叫びを確かに聞いておられます。神は族長たちと結ばれた契約を決してお忘れにはなりません。神はエジプトの鉄の炉の中で焼かれているヘブライ人を顧みてくださいます。
2005年に日本キリスト教会は台湾基督長老教会と宣教協約を結びました。この教会のシンボルマークには、中央に大きく「燃えた柴」が描かれ、その周りにはラテン語で「燃え尽きない柴」と書かれています。それは、この教会の長い迫害の歴史を語っています。19世紀末に台湾はフランスと戦争していましたが、教会が敵国フランスの側に立っていると批判され、多くの教会堂が焼き討ちにあいました。戦争が終わって、焼かれた教会堂が建て直されましたが、その教会堂の正面に、柴が燃えている絵と、その下には「柴が燃えて、しかも燃え尽きることがない」と書かれていました。それがそのままこの教会のシンボル、ロゴマークとなりました。
モーセがシナイの荒れ野で見た燃え尽きない柴の奇跡は、いつの時代にもわたしたち教会が見るべき、また見ることを許されている神の偉大な奇跡なのです。教会はいつの時代にも、苦難や試練、時に迫害を経験します。様々な炎によって、内からも外からも焼かれるでしょう。しかしながら、教会の頭なる主イエス・キリストは教会が燃え尽きてしまうことをお許しにはなりません。わたしたちもまた、この困難な時代の中で、燃え尽きることのない柴の奇跡を信じて、希望と勇気をもって主キリストとその体である教会にお仕えしていきましょう。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの弱さや貧しさ、また試練や苦難を知っていてくださいます。その中で、わたしたちに必要な助けと導きをお与えくださいます。どうか、いつでも、どのような時でも、十字架と復活の主イエス・キリストを見上げつつ、あなたがお示しくださる道を前進していくことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。