7月14日説教「永遠の命を受け継ぐために」

2024年7月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編116編1~19節

    ルカによる福音書10章25~37節

説教題:「永遠の命を受け継ぐために」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書10章25節以下は「親切なサマリア人のたとえ」としてよく知られている、ルカ福音書特有の記事です。その前半の箇所、25~29節の主イエスと一人の律法の専門家との出会いと会話の部分は、マタイ福音書とマルコ福音書では別の文脈で語られています。マタイ福音書19章6節以下とマルコ福音書10章11節以下では、一人の金持ちの人が主イエスに「先生、永遠の命を受け継ぐために何をしたらよいでしょうか」と質問した時の主イエスとその金持ちの人との対話が、同じように書かれています。主イエスの最終的なお答えは、マタイとマルコ福音書では、「あなたが持っているたくさんの財産をみな売り払い、それを貧しい人たちに施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。そして、わたしに従ってきなさい」と言われ、その人をお招きになりましたが、彼はたくさんの財産を捨てきれなかったために、悲しみながら主イエスのもとから立ち去ったと書かれています。

 このように、前半の主イエスと一人の人が出会って、永遠の命を受け継ぐための問答がなされるという部分は、3つの福音書に共通しています。マタイとマルコの二つは非常によく似ていますので同じ記事だと推測されますが、ルカは後半の部分が全く違いますので、二つの福音書とは別の記事であるかもしれません。いずれにしても、主イエスの時代のユダヤの国イスラエルでは、非常にまじめに、また真剣に生きている人たちが、永遠の命を受け継ぐためにどう生きたらよいのかという問いを持っていたということが分ります。律法の専門家であったり、青年で多くの富を持っていた人であったり、また多くの財産を所有していた人であったり、彼らは神のみ心に従って誠実に生きていましたが、それだけで信仰の道が満たされるとは思っていませんでした。この世の富や朽ちていく肉の命ではなく、永遠の命があると信じていました。そして、その永遠の命に何とかしてたどり着きたいと願い、その道を熱心に訪ね求めていたのです。神に選ばれた信仰の民ユダヤ人は、そのようにして、まさに信仰に生きる民であったのです。主イエスはそのような信仰の民を神の国での永遠の命へと導き入れるために、この世に誕生されたのです。

 わたしたちもまたこの世の朽ちる命ではなく、過ぎ去るつかの間の命ではなく、主イエスによって約束されている、永遠に朽ちず、しおれず、しぼむことのない、まことの命に生きる者となることを願い求めながら、きょうのみ言葉を聞きたいと思います。きょうは主イエスと律法の専門家との出会いの場面、25~29節を学びます。

 【25節】。「律法の専門家」とは、旧約聖書の律法を研究していた専門職の学者を言います。彼らは、紀元前6世紀のバビロン捕囚以後、イスラエル宗教の学問的指導者で、「ラビ、先生」と呼ばれ、その多くはファリサイ派に属していました。彼らの務めは、第一にヘブライ語でトーラーと言われる旧約聖書の律法を解釈する権限を与えられていました。彼らは律法の意味を人々に教え、またその細則を作ったりして、どのようにその律法を守るべきかを教えていました。第二の務めは、旧約聖書を筆記してその写本を作成し、神の言葉である旧約聖書をのちの代に長く継承することです。使徒パウロはキリスト教徒になる以前は律法の専門家であったと考えられています。

 一人の律法の専門家が、ある日主イエスと出会います。そして、永遠の命について主イエスに質問します。彼は律法解釈の専門家ですから、聖書のことなら何でも知っているとの自負がありました。ですから、主イエスから何かを聞いて、それによって自分の考えや生き方を変えようとは最初から思ってはいませんでした。「イエスを試そうとして言った」と書かれているのはその理由によります。彼は、最近ガリラヤから出てきた主イエスの評判を耳にして、その人が確かな聖書の知識を持っているかどうかを試そうとして、主イエスに会いに来たのです。そのような姿勢で主イエスのもとを訪れても、主イエスと対話しても、そこでは真実の出会いは起こりません。

 わたしたちはここで、礼拝で聖書のみ言葉を聞き、主イエスと出会う際に大切な基本姿勢を考えておかなければなりません。もしだれかが、自分には自分の生き方、考え方がある、自分なりに努力もしているし、ここまで順調にきている。でも、とりあえず聖書になんて書いてあるのか、主イエスはどう言われるのかを聞いておこう、そのような姿勢で礼拝に臨むとすれば、この律法の専門家と同じです。そこでは、主イエスとわたしとの真実な出会いは起こりません。わたしが主イエスと出会うことによって、わたしが根本的に変えられ、全く新しいわたしに造り変えられることを願う時にこそ、主イエスとわたしの真実な出会いが起こり、わたしに天の神からの救いの恵みが与えられるのです。詩編42編の詩人のように、「鹿が谷川を慕いあえぐように、乾いた魂が命の水を求めるように」主イエスにわたしの救いを願い求めるときにこそ、主イエスとわたしとの真実な、生ける出会いが起こるのです。

 この律法の専門家はまだそのことに気づいてはいません。主イエスこそが彼を罪から救い出してくださる救い主だということを、まだ知りません。それだけでなく、彼が主イエスに質問している永遠の命が、まさにその主イエスのもとにこそあるのだということにも、まだ気づいていません。

 永遠の命とは何でしょうか。このユダヤ人がどのような理解を持っていたのかは分かりませんが、旧訳聖書には「永遠の命」という言葉はありません。また、旧約聖書時代のユダヤ人にもそのような考え方はなかったと言われています。というのは、ユダヤ人にとっては今現在、この時に主なる神とどのような関係を築くべきか、神にどのように仕えるべきかという課題が強いために、今の世とは別の世を考えたり、死後のこととか、あるいは復活とかをあまり重要視しませんでした。ところが、国が滅び、民がバビロンに捕囚になって、エルサレム神殿も約束の地をも失い、さらにはその後にも幾度も経験した厳しい迫害の時代を経て、主イエスのころには復活とか、永遠の命、新しい神の国の到来とかを信じる信仰が芽生えてきたと言われます。この律法の専門家も、この世の肉の命だけではなく、この世を越えた世に属する永遠の命というものを、漠然と考えていたのかもしれません。ギリシャ語で永遠の命は、この世、この時を意味する「アイオーン」というギリシャ語の複数形で言い表しています。つまり、この世ではなく、もう一つの、「来るべき世の」の命という意味です。永遠の命とは、この世の命がいつまでも続くことではなく、別の世、来るべき世に属する命ということです。

 そこで、本題に戻りますと、この律法の専門家自身はまだそのことに気づいてはいませんでしたが、彼が漠然とした考えで、この世を越えた永遠の命があるらしいが、それはどうしたら手に入るのかを考え、ある意味では彼自身もその永遠の命をどこかで求めていたのであろうと推測されます。そして今彼は、その永遠の命を持っておられる救い主のみ前に立っているのです。彼が主イエスに対して彼自身を明け渡し、生ける神のみ言葉を慕い求めるようにして、主イエスに聞くならば、彼はその永遠の命を受け継ぐ者とされたに違いありません。

 彼は「何をしたら」と問いかけています。彼は律法の専門家らしく、旧約聖書の律法を正しく理解し、それを熱心に守り行うことに努めてきましたから、その延長に永遠の命があると考えていたようです。ただ、彼の考えには正しい点もありました。永遠の命を「受け継ぐ」と表現している点です。受け継ぐとは、自分の力で手に入れるというよりは、他のところから受け取るという意味があるからです。彼はどれほどに一生懸命に律法を学び、またそれを実行しようとしても、自分には、あるいはだれにも、それは完全にはできないと、薄々感づいていたのかもしれません。いずれにしても、この時点では、彼はまだ主イエスとの真実の出会いの可能性は残されていたと言えます。

 【26~28節】。主イエスは律法の専門家の質問に対して、永遠の命は、彼が毎日熱心に携わっている律法、つまり神の言葉と深く関連していることをお示しになりました。つまり、神の言葉である聖書の中にこそ、その答えがあるということです。律法の専門家は旧約聖書全体の律法、戒めを、神を愛することと臨人を愛することにまとめました。これを「愛の二重の戒め」と呼びます。前半の「神を愛しなさい」という戒めは申命記6章5節からの引用、後半の「隣人を愛しなさい」はレビ記19章18節です。このように、旧約聖書全体の律法、戒めを「愛の二重の戒め」としてまとめることは、主イエスもマルコ福音書12章29節以下でしておられます。律法の専門家の答えは主イエスご自身の理解とまったく同じでした。

 主イエスは、「その神の言葉を信じ、それに従い、神と隣人を愛して生きるなら、あなたは永遠の命に生きるでしょう」とお答えになりました。神の言葉の中にこそ永遠の命があるのです。なぜなら、イザヤ書40章8節にこのように書かれてあるからです。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。世は移り、時代は過ぎ去り、この世にあるものすべてはみな崩れ去るときも、神の言葉は永遠に生きて、信じる者たちに命を与えるからです。

 実は、主イエスはこの父なる神の言葉に服従し、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。それゆえに、神は主イエスを死からよみがえらせ、罪と死とに勝利させ、天にあるご自分の右の座につかしめさせたのです。そして、主イエスを信じる者すべてに、来るべき神の国における永遠の命を約束されたのです。わたしたちは主イエスのみ前に自らの罪を告白し、悔い改めて、主イエスをわたしの救い主と信じる信仰によって、主イエスがわたしたちのために勝ち取ってくださった罪と死とに勝利された永遠の命を受け取るのです。

 律法の専門家もまたこの主イエスから与えられる永遠の命へと招かれています。ところが彼はそれを受け取ることを拒みました。29節で、【29節】と答えているからです。「自分を正当化する」とは、自分で自分を正しいとし、自分の罪を認めないことです。主イエスによる救いを拒むことです。

 主イエスは今なお救いから遠く、永遠の命からも遠いこの律法の専門家に対して、「親切なサマリア人のたとえ」をお話しになりました。かたくなで、信じることができないわたしたち一人一人をも、なおも忍耐と憐みと、大いなる愛をもって、ご自身の救いへと、み国における永遠の命へと、招いておられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちの心を、永遠に変わることのないあなたのみ言葉に固く結びつけてください。この世の過ぎ去り行くものから目を離して、天にある永遠のみ国へと向けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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