8月25日説教「親切なサマリア人のたとえ」

2024年8月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記24章17~22節

    ルカによる福音書10章25~37節

説教題:「親切なサマリア人のたとえ」

 一人の律法の専門家が主イエスのもとを訪ね、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができますか」と聞きました。主イエスは、「あなたが日々学んでいる神の律法の言葉をそのとおり行いなさい。そうすれば、あなたは神からまことの命を与えられます」とお答えになりました。彼がその主イエスのお答えに忠実に従っていれば、彼は永遠の命を受け継ぐことができたはずでした。

ところが、「彼は自分を正当化しようとした」とルカ福音書10章28節に書かれています。「自分を正当化する」とは、直訳すれば「自分を義とする」になります。それは16世紀の宗教改革者たちが強調した、プロテスタント信仰の中心である「義とされる」ことの正反対です。つまり、わたしたちが救われるのは、わたしが罪びとであるにもかかわらず、わたしのために十字架で死んでくださった主イエス・キリストをわたしの救い主と信じるならば、その信仰によって、わたしには何らの功績がないにもかかわらず、ただ一方的な神の恵みによって、わたしが神に義と認められ、救われる。これが、いわゆる「信仰義認」という、プロテスタント福音主義信仰ですが、それとは全く反対に、自分で自分を義とする、神のみ前に自分を罪なしとして、自分の罪を認めず、悔い改めることもしない、それがこの律法の専門家の生き方であったということなのです。それは、今主イエスが彼に差し出そうとしておられる救いの恵みを拒むことにほかなりません。そしてそれはまた、彼が主イエスに求めていた永遠の命を拒むことになるのです。

この律法の専門家の悔い改めようとしない、かたくなな罪の姿は、彼の次の質問にも表れています。「では、わたしの隣人とは誰ですか」。彼は旧約聖書に教えられている神の律法の中心は、「主なる神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」の二つの愛の戒めにあるということを知っていました。そしてまた、彼はその戒めを守っていると自負していました。けれども、彼のこの質問から判断すれば、彼は本当の意味で神をも隣人をも愛していなかったことが明らかになります。というのは、彼はだれが自分にとって隣人であるか隣人ではないかを自分で判断して、彼の隣人でない人は愛する義務がないと考えているからです。神の律法を自分にとって都合が良いように狭めて考えているからです。それでは、本当の意味で神を愛し、神に服従していることにはなりませんし、隣人を愛し、心から隣人に仕えていることにもならないからです。

主イエスは救いから遠いこの律法の専門家を救いへとお招きになるために、一つのたとえ話をお話になりました。これは「親切なサマリア人のたとえ」と言われています。このたとえ話を3つの出会いの場面に分けて読んでいくことにしましょう。

第一の出会いの場面は、旅人と追はぎとの出会いです。【30節】。これは本来の意味での出会いとは言えませんが、わたしたちの人生の中でも、しばしばこのような悪しき出会いが起こりえます。追はぎの立場からまず考えてみましょう。追いはぎは、他人から物を奪い取るために、旅人を物色していました。彼らは暴力や脅しで他者から物を奪い、他者を傷つけます。彼らは人間を自分たちが利用できる物としてしか見ていません。自分たちの欲望を満たすために利用できる物であって、人間とは見ていません。当然、そこには真実の出会いは起こりえません。

実は、わたしたちの人生の中でも、もしかしたらそのような出会いが多いのではないでしょうか。他者から奪い取るために、他者を自分の利益のために利用しようとして、その人に近づく。自分からその人に与えようとはしないし、その人との人格的な関係を築こうともしない、利用価値がなくなれば、その人から立ち去っていく、そのような悪しき出会いが、わたしたちの人生の中にも、もしかしたらあるのではないでしょうか。だとすれば、わたしもまたあの追いはぎの一味なのではないかと思わざるを得ません。

次に、旅人の立場から考えてみると、彼にとっても、これは願わしい出会いではありません。できれば避けたい出会いです。エルサレムからエルコへと下っていく道は、谷間の暗く危険な道であり、強盗がよく出るということは知っていても、どうしてもその道を通らなければならない事情があったと思われます。注意していても避けられない災いもあります。わたしたちはしばしばこのような思いもかけない災いや災害に、あるいは人災と言われる被害にあうことがあります。だれかの意図的な策略によって、危険な目にあうこともあります。だれもが、そのような望まない災いや危険な経験を避けて通りたいと願います。そのような悪しき出会いはわたしの人生を不幸にするだけだと考えます。

けれども、必ずしもそうとばかりは言えないのだということを、聖書は教えています。むしろ、信仰者にとっては自分が願わなかった苦難や試練、他者から強制されたような災いや重荷であっても、わたしがそれを信仰をもって受け止めるならば、それはわたしにとって決して不幸な出会いや経験ではなく、わたしの人生にとってのマイナスな出来事であるのでもなく、それはむしろ、幸いであり、わたしの信仰を強め鍛えるために、神から賜った恵みの機会ともなりうるのだということを、聖書はいたるところで教えています。なぜならば、苦難や試練の中で、わたしをそこから救い出してくださる神との出会いが与えられるからです。主なる神がわたしをすべての敵の手から、すべての災いと危険の中から、強いみ手をもって、わたしを救ってくださると約束していてくださることを知らされるからです。

たとえ話の第二の出会いの場面は、傷つき倒れた旅人と祭司、レビ人との出会いです。【30~32節】。しかし、これも真実の出会いではありません。すれ違いと言うべきでしょう。祭司とレビ人は、追いはぎのように、他者から奪ったり、他者を傷つけたりはしていませんが、死にかけている旅人を助けることもしません。実は、このようなすれ違いのような、出会いとは言えないような出会いもまた、わたしたちの人生の中には多いのではないでしょうか。だれかと会って、時に楽しく会話をし、時に食事をし、同じ仕事に励み、一緒に遊んだりもするけれども、お互いに助け合うことはなく、お互いの重荷を担い合うこともしない、お互いの心の痛みを知ろうともせず、時が過ぎると別れていく。そのような出会いを、わたしたちはいくつ繰り返してきたでしょうか。わたしたちもまた、死にかけている旅人のわきを通り過ぎて行った祭司、レビ人とほとんど変わらないのではないでしょうか。

でも、だからと言って、死にかけている旅人を助けなかった祭司、レビ人をここで直ちに罪びとだとか悪人だと決めつけることはできないかもしれません。彼らはだれかに被害を加えたわけではなく、何かを奪い取ったのでもありません。彼らはおそらく、一週間のエルサレム神殿での勤めを終えて、エリコにある家に帰る途中だったと思われます。家には家族と温かい食事が待っています。疲れた体を引きずって家路を急いでいる彼らには、倒れている旅人のわきを通り過ぎる理由はいくつもあったのですから、彼らを直ちに責めることはできないでしょう。

でも、わたしたちは次に聞きます。そのあとで通りかかったサマリア人が倒れていた旅人に近寄って、その傷の手当てをし、彼を宿屋にまで連れて行ったということを。その時になって、前に通り過ぎて行った祭司、レビ人の罪が浮き彫りになってくるのを、わたしたちは知らされるのです。

では、第三の出会いの場面を読んでみましょう。【33~35節】。ここにこそ、真実の出会いがあります。傷つき倒れ、死にかけている人のそばに近寄り、助け、自分の時間と労力、持ち物をささげて、その人の隣人となって愛するという、真実の出会いがここにあります。

この時代、ユダヤ人とサマリア人とは長く民族的・宗教的な敵対関係にありました。ユダヤ人はサマリア人を汚れた民と呼び、軽蔑し、嫌っていました。そのサマリア人がユダヤ人の旅人を助けたのです。長い敵対関係を超えて、サマリア人の方からユダヤ人の隣人となったのです。ここには、神に背いて、神と敵対していたわたしたち罪びとに近づいてこられ、わたしたち罪びとたちの真実の隣人となってくださった主イエスご自身の愛が暗示されているのです。

33節に、「その人を見て憐れに思い」と書かれています。これが、祭司、レビ人が「道の向こう側を通って行った」のと、サマリア人が倒れた旅人に「近寄って」行ったのとの、決定的な違いを生む動機となっています。実は、「憐れに思う」あるいは「深く憐れむ」という言葉は、福音書の中で主イエスが主語の時にしか用いられない、いわば専門用語なのです。これは、主イエスの十字架の愛を示しています。もとのギリシャ語では「スプランクニゾマイ」という言葉で、これは内臓を意味する「スプランクス」という言葉の動詞形です。内臓を揺るがすような、激しい感情を意味する言葉です。日本語でも同じような用法があります。激しく強い感情を言い表す際に、「はらわたが煮えくり返る」とか「五臓六腑に染み渡る」「肝を冷やす」という言い方をします。「憐れむ」とは、主イエスがご自身のお体を十字架につけ、その腹をやりで刺し貫かれ、その肉を裂き、血を流すほどに、激しく、強く、わたしたち罪びとたちを愛された、そのような主イエスの十字架の愛を言い表す言葉なのです。その愛によって、主イエスはわたしたち罪びとたちの隣人となってくださり、わたしたちの罪を贖ってくださったのです。

最後に36節以下で、もう一度主イエスと律法の専門家との出会いの場面があります。【36~37節】。ここで主イエスは、自分を義とし、罪を悔い改めようとしない律法の専門家を、もう一度、救いへとお招きになります。そして、こう言われます。「あなたも行って、あなたの隣人を愛しなさい。あなたが隣人として近づく人はだれでもみな、あなたの隣人です。あなたは新しい隣人を見いだし、新しい隣人関係を築くために、この世に派遣されているのです。すべての人が、あなたが愛するように命じられ、また招かれている、あなたの隣人なのです」と言われました。

主イエスはわたしたち罪びとたちに対して、深い憐れみをもって、十字架の血を流して、わたしたちを愛され、わたしたちすべての人の隣人となってくださいました。わたしたちもまた、互いに愛し合うように命じられ、招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅びるほかなかったわたしたちを、あなたは見いだしてくださり、み子の十字架の血によって罪から贖いだしてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちを一つのみ国の民として、共にあなたと隣人に仕える者としてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたからの真実の和解と平和と共存をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月18日説教「神に召し出されたモーセ」

2024年8月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章4~10節

    使徒言行録7章30~35節

説教題:「神に召し出されたモーセ」

 『新共同訳聖書』では、読む人の理解を助けるという趣旨で「小見出し」を付けています。出エジプト記3章の初めには「モーセの召命」と書かれています。この小見出しは、聖書原典にはありません。翻訳者が読者の理解のためにつけたもので、参考になる場合もありますが、厳密に言えば、本来聖書本文にはない言葉を書き加えることには問題があると思われます。ではありますが、きょうは「召命」という言葉について少し説明したいと思ましたので、これを参考にします。

 「召命」という言葉は、英語のcalling、ドイツ語のBeruf、ラテン語の

vocatioの訳として、ほとんどキリスト教の専門用語として用いられます。召命とは、信仰者が神の恵みによって特別な務めへと召されることを言います。イザヤやエレミヤなどが預言者の務めに任じられるとき、あるいはペトロやアンデレが主イエスの12弟子に選ばれるとき、彼らは「神の召命を受けた」と表現します。今日では、信仰者が牧師として献身することを言ったり、広い意味では、洗礼を受けて信仰者になったことをも意味する場合もあります。

 召命という言葉で強調されているのは、その主体が神にあるということです。英語のcallingもドイツ語のBeruf、ラテン語のvocatio、いずれも神の呼びかけを聞いてそれに応える、神のみ声を聞いてそれに従うという意味を持つ言葉です。したがって、その務めに召すのは神です。本人の願いや意志ではなく、また本人がその務めを担う資格や能力があるかどうかは問題ではなく、そこに神の強い意志があり、神の恵みの選びがあるということが強調されます。したがってまた、召命を受けた信仰者は、常に、徹底して神を信頼し、神がその務めを全うしてくださることを信じるという、絶対的な服従が必要だということです。

 では、モーセの召命について、きょうのみ言葉から学んでいきましょう。【4~5節】。モーセは、ミディアンの祭司で、妻の父であるエトロの羊の群れを飼って神の山ホレブ、すなわちシナイ山のふもとまで来たときに、砂漠の中で柴が燃えていて、しかもいつまでも燃え尽きないという不思議な光景を見ました。4節には、そのモーセを主なる神がご覧になったと書かれています。そして、モーセの名を呼んで、声をかけられました。このようにして、モーセの召命が始まりました。神がモーセに目をお止めになります。神がモーセに声をかけられます。これは神の選びです。モーセの召命も、またわたしたち一人一人の信仰も、このようにして始まるのです。

 福音書に書かれている主イエスの12弟子の召命の場合もそうでした。主イエスは、ガリラヤ湖で網を打って漁をしていたペトロとアンデレをご覧になり、彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。主イエスはわたしたちの職場や家庭で、あるいはわたしの道の途中で、わたしの生活のただ中で、わたしたちのすべての歩みをご覧になっておられ、その時にふさわしいみ言葉をお語りになり、わたしたちをそれぞれの務めへと召してくださいます。わたしたちはそのみ声を信仰の耳を開いて聞かなければなりません。

 「神は柴の間から声をかけられ」とありますが、荒れ野で燃えていて、しかも燃え尽きることがない柴は神の現れ、顕現であったことが分かります。神は燃え尽きない柴によってご自身をモーセに現わされました。それが何を象徴しているのかについては説明されていませんが、神の永遠性、神の激しい情熱、大きな愛を読み取ることは間違っていないと思います。そして、その神の激しい情熱、大きな愛が、エジプトの奴隷の家で長く苦しんでいたイスラエルの人々に向けられていたということを、モーセはあとで知らされます。

 「モーセよ、モーセよ」という神の呼びかけに、モーセが「はい」と答える、この形は、旧約聖書の召命の記録で何度か繰り返されています。創世記22章では、アブラハムが彼の一人子イサクを燔祭の犠牲として神にささげようとしたときに、神が「アブラハム、アブラハム」と呼びかけると、彼は「はい」と答えたと書かれています(11節参照)。サムエル記上3章では、少年サムエルが神に召されたときに、またイザヤ書6章にはイザヤが預言者として召されたときにも、同じようにして、神の呼びかけに「はい、ここにおります」と答えたことが書かれています。

 4節で「はい」と訳されている元のヘブライ語は、直訳すれば「見よ、わたしだ」となります。英語では多くHere I am.と訳されます。日本語では「ここに、わたしがいる」と訳するのが良いと思います。神の呼びかけに対して、「ここにわたしがいる」と応答することには深い意味が込められているように思います。神によって名前を呼ばれ、わたしがそれに答えるときに、わたしがどこにいるのか、わたしが何者であるのかが分かるようになるからです。神がわたしを探し求め、わたしの名を呼び、わたしを身もとへと召してくださるときに、わたしは本当の自分というものを見いだし、わたしがどこにいるのか、どこに行くべきなのか、何をなすべきなのかが、明らかにされるからです。

 5節で神は、「あなたが立っている場所は聖なる土地だから」と言われます。今モーセがいる場所は、シナイ半島の山、神の山と言われていたホレブ・シナイ山のふもとだと推測されますが、ここはのちにモーセが神から十戒を授かる場所でもあります。その場所が聖なる地であると言われているのは、今そこに主なる神がおられるから、聖なる神が現臨しておられるからにほかなりません。天におられる聖なる神が、地に下って来られ、地の上にお立ちになるとき、そしてその地でみわざをなさるとき、その地が聖なる地、聖なる場所になります。

地に住む人間は、聖なる神のみ前では、自ら罪ある者であることを知らされます。自ら死すべき者、滅ぶべき者であることを自覚せざるを得ません。ここから、モーセの召命が始まります。

罪ある人間は神のみ前に立つことはできません。神が「ここに近づくな」とお命じになったのは、罪ある人間が神の裁きによって死ぬことを避けるためです。6節で、モーセが「神を見ることを恐れて顔を覆った」のもそのためです。

 神はまた「足から履物を脱ぎなさい」とお命じになりました。これには二つの意味が考えられます。一つには、聖なる神に対する畏敬の態度を示すためです。罪ある人間は聖なる神のみ前では靴を脱ぎ、汚れたものを少しでも体からはぎ取って、神のみ前にひれ伏すほかにありません。もう一つには、モーセが歩んできたこれまでの道のすべてを捨て去ることです。彼が歩んできた土埃と汗がしみ込んだ靴を脱ぎ捨て、今から全く新しい歩みを始めるということです。彼なりに努力してきた好ましい過去もあったでしょうし、そうでない恥と失敗の過去もあったでしょう。そのすべてを投げ捨てて、今から神が始められる新しい歩みを、神と共に始めるのです。このようにして、モーセの召命は始まります。

【6節】。神はこのように自己紹介をされました。神の自己紹介はモーセにとっては神の啓示を意味します。今、神はモーセにご自身を啓示されたのです。ここで神とモーセとの出会いが起こります。ここでは、それ以上に大きな神の真理が明らかにされます。創世記と出エジプト記との間にあった400数十年という月日が、今神ご自身のみ言葉によって埋められたのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神と今モーセにご自身を啓示しておられる神が同じ神であることが明らかにされ、かつての族長たちの時代とモーセの時代とが、今結合されたのです。それとともに、かつて神が族長たちにお与えになった契約が、今もなお有効であり、神はかつての約束を決してお忘れにはならなかったということが、今神ご自身のお言葉によって明らかにされたのです。

わたしたちはこう信じます。アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、彼らとの契約を思い起こされる神は、今モーセの神として、彼を召し、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される神であり、その同じ神は、ご自身のみ子主イエス・キリストの十字架と復活によって、全人類を罪の奴隷から救い出してくださった神であるということをわたしたちは信じています。

【7~10節】。この箇所では、神がご自身の神であるイスラエルの民の苦しみをみ心にとめておられることが繰り返し語られています。すでにそのことは2章23~25節でも語られていました。7節で、「わたしは彼らの苦しみをつぶさに見た、わたしが彼らの叫び声を聞いた、わたしは彼らの痛みを知った」と、「見た」「聞いた」「知った」と繰り返されています。たとえイスラエルの民が神を忘れていたとしても、神は彼らをお忘れにはなりません。

また、7節と10節では、神はイスラエルを「わたしの民」と呼んでおられます。イスラエルはエジプトの奴隷の民として、その市民権も、生存権をも奪われていたとしても、それでもなおも彼らはエジプト王ファラオの民ではなく、神の民なのです。神ご自身がそう呼んでくださるのです。神は、イスラエルの民がエジプトの鉄の炉の中で燃え尽きてしまうことをお許しにはなりません。なおも彼らを離さず、ご自身の民として、彼らの苦悩の姿を天から見ておられ、その叫び声を天で聞いておられるのです。

それだけでなく、「わたしは降って行き、わたしは彼らを救い出し、わたしは彼らを導き上る」と8節に書かれています。神は高き天で、イスラエルの民の苦しみのすべてを見ておられ、知っていてくださるだけでなく、イスラエルの民を奴隷の家から救い出すために、ご自身が天から下って来られると言われるのです。苦しむ民のすぐ近くにまで天から降りてこられ、いわば神ご自身が彼らの手を引いて、約束の地に導き上るのだと言われるのです。

そして、そのために、モーセをお用いになるのだと言われます。モーセは、主なる神の永遠の救いのご計画のために仕えます。主なる神の救いのみ心と救いのみわざのために仕えるために召されました。これがモーセの召命です。

わたしたちは最後に、かつて苦しむ奴隷の民イスラエルを救い出すために天から下って来られた主なる神が、そののちになって、わたしたちと全人類を罪の奴隷から救い出すために、天から下って来られたことを知っています。人間のお姿になって、ご自身が僕(奴隷)となられて、わたしたち罪びとのために十字架の血を流されるまでに愛された主イエス・キリストこそが、全世界のすべての人の唯一の救い主であると告白します。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちが罪の中で滅びてしまうことをお許しにはなりませんでした。わたしたちを罪と死と滅びから救い出すために、み子の十字架の血をお用いになりました。わたしたちはみ子の尊い十字架の血によって贖い取られ、あなたの民とされた一人一人です。どうか、わたしたちがあなたの民として、あなたのご栄光を表し、あなたの救いのみわざにお仕えするものとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

世界平和祈念礼拝 8月11日説教「十字架によって分断と敵意とを滅ぼされた主イエス」

2024年8月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    「世界平和祈念礼拝」

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

説教題:「十字架によって分断と敵意とを滅ぼされた主イエス」

 わたしたちの国では、8月のこの時期、8月6日は広島平和祈念日、広島に世界最初の原子爆弾が投下された日、8月9日は長崎に2番目の原爆が投下された日、そして今週の8月15日は終戦の日と、かつて日本の国が経験した戦争の悲惨さを思い起こすとともに、平和を強く祈念する日々が続きます。さらに今年は、2年以上に及ぶロシアとウクライナの戦争、また今年新たに発生したガザ地域におけるイスラエルとハマスとの戦争、いずれも戦争の終結の糸口すら見えず、さらなる拡大が懸念される状況の中で、わたしたちの平和のための祈りはより一層切実なものになっています。戦争という名のもとで、何人の人間の命が失われ、いくつの家々が破壊されれば、人間は、世界は、戦争という悪魔の束縛から解放されるのでしょうか。

わたしたちはきょうの平和祈念礼拝で、「主なる神よ、どうかあなたのみ心によって、あなたの愛とゆるしによって、この地に平和を来たらせてください」と、みなで心を一つにして祈るほかにありません。わたしたちがこの礼拝で平和を祈るということは、まさに礼拝の本質に即しています。というのは、礼拝こそは神と人間との平和のしるしだからです。神と人間との平和の時だからです。かつて、神と人間とが敵対していた時には、人間が神を礼拝することはありませんでした。人間は神から身を隠し、神のみ前から逃亡し、あるいは神に反逆していたからです。

けれども神は、そのような罪の人間たちを繰り返し繰り返し探し求められ、罪のゆるしのみ声をかけて、み前に招き寄せてくださり、ご自身を礼拝する民として召し集めてくださいました。ノアの時代もそうでした。アブラハムの時代、モーセの時代、イザヤの時代もそうでした。そして、ついに主イエス・キリストの時になって、神はみ子の十字架の血によってすべての人の罪を無条件でゆるしてくださり、ご自身の民としてくださったのです。わたしたちの礼拝は、そのようにして与えられた神との永遠の平和の祭典なのです。全世界のすべての民族、すべての人がこの平和の祭典である神礼拝へと集められるようにと、わたしたちは切に祈り求めます。

そこできょうの平和祈念礼拝では、神から与えられた平和の福音をさらに深く学んでいくことにします。エフェソの信徒への手紙2章14節にこのように書かれています。【14節a】。ここでは、主イエス・キリストご自身が「わたしたちの平和である」と言われています。この表現は、新約聖書の中にいくつかある、主キリストはわたしたちにとって何であるかを言い表した特徴的な言い方です。ほかには、「主キリストはわたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリントの信徒への手紙一1章30節)、あるいは「主キリストはわたしたちの命である」(コロサイ3章4節)、「希望である」(テモテ一1章1節)、「罪の贖いである」(ヨハネ一2章2節)などの表現があります。いずれの場合もそうですが、主キリストがわたしたちのためにそれを獲得してくださった、わたしたちのためにそのような方となってくださった、そのみわざを実現してくださったという意味と内容を持っています。本来わたしたちはそれらのものを持っていませんでした。それらから遠く離れていて、不義なる罪びとであり、死すべき者であり、希望を失い、罪の奴隷であった者であったのですが、主キリストによって罪ゆるされて義なる者とされ、まことの命に生きる者とされ、神の国に招かれている希望を与えられているのです。

「主キリストがわたしたちの平和である」も同じです。主キリストが、平和ではなかったわたしたちに平和をお与えくださった、憎しみや分断や争いだけが繰り返されていたわたしたちに平和を創造してくださった、その平和の中にわたしたちを招き入れてくださったということを意味しています。

では、主キリストはどのようにして、また具体的にどのような平和を与えてくださったのでしょうか。【14b~16節】。ここには、主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちと全世界のすべての人に与えられたまことの救いとまことの平和について語られています。まず、「二つのものを一つにし」と言われています。「二つのもの」とは、前後の文脈から、それはユダヤ人とそれ以外の異邦人を指していることが分かります。11節以下に、その両者の違いが説明されています。旧約聖書の民、イスラエル・ユダヤ人にとっては、神の契約の民とそれ以外の諸国の民とは決定的な違いでした。ユダヤ人以外の異邦人には、神との契約はなく、また契約のしるしであった割礼もなく、神の律法は与えられていませんでした。ですから、救いの道は全く閉ざされていたのでした。

ところが今や、主キリストによってユダヤ人と異邦人の間の壁は取り除かれ、両者の間にあった敵意も取り除かれました。両者を決定的に分けていた律法も廃棄されました。ユダヤ人だけでなく、全世界のすべての人が主イエス・キリストによる新しい神との契約に招き入れられたのです。律法を守り行うという人間のわざによって救われるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人が救われるのです。神の救いの前では、人間の側にあったすべての違いや区別、分断、敵意、妬み、その他人間の側にあったあらゆる違いはすべて取り除かれました。世界の民は一つの神の民とされたのです。

そのことを、15節では「双方を一つの新しい人に造り上げ」と表現し、16節では「両者を一つの体として」とも言われています。神が世界創造の初めに人間アダムを創造されたように、今、分断されていた世界を一つにするために、神は新しい創造のみわざをなしてくださり、一人の新しい人間を創造された、一つの体を創造されたということです。

この一つの新しい人間、一つの体とは何を言うのでしょうか。19節では「聖なる民」「神の家族」と言われ、21節では「聖なる神殿」、22節では「神の住まい」とも言われている、主キリストの体なる教会のことです。ユダヤ人とギリシャ人、全世界のすべての民が、すべての人が、主キリストによって罪ゆるされている一人の新しい人間として再創造され、一つの主キリストの体なる教会の民とされている、これがエフェソの信徒への手紙が語っている教会論です。

では、この新しい契約の民はどのようにして誕生したのでしょうか。もう一度きょうの聖書のみ言葉全体に目を移してみましょう。14節では「御自分の肉において」と書かれていました。16節になって、はっきりと「十字架を通して」「十字架によって」とあるように、主イエス・キリストの十字架の死がそれらのすべてを実現したと言われています。ユダヤ人とギリシャ人の区別を取り去り、律法を廃棄し、人間を分断させていた敵意や憎しみを滅ぼし、一人の新しい人間を創造し、全世界の民を一つの主キリストの体なる教会の民とした、そのすべてが主イエス・キリストの十字架の死によって実現したのです。 

1章7節にこのように書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」。主キリストが十字架で流された血は、罪のない、聖なる神のみ子の血です。しかも、だれかの暴力によって、強制的に、あるいは何かの事故によって流された血ではなく、父なる神のみ前に徹底的に服従されたみ子の血であり、またわたしたち罪びとたちの僕(しもべ)となって流された血であったからです。この神のみ子の血こそが、すべての人の罪をゆるし、すべての民を一つにするのです。またこの神のみ子の血こそが、人間たちの間にあったすべての敵意や憎しみ、争い、分断を取り除くのです。この神のみ子の十字架で流された血の偉大な力を、無限の力を、永遠の力と命をわたしたちは信じます。

きょうの箇所でもう一つの見落とすことができない重要なポイントを、最後に取り上げたいと思います。16節に「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」と書かれています。この箇所全体では、ユダヤ人とギリシャ人(すなわち異邦人)とが一つとされることがテーマになっていますので、そのことが注目されますが、この16節ではその両者の和解と一致が神との和解の上に成立していることが語られているのです。主キリストの十字架の血によって、神とユダヤ人の間に和解が成立し、また神とギリシャ人(異邦人)との間にも和解が成立し、神と全人類との和解が成立し、その神からの和解に基づいて、両者が一つにされ、全世界が一つの新しい神の民となって、主キリストの体である一つの教会が建てられるということなのです。わたしたち人間の和解と平和は、また世界の和解と平和は、神との和解の上に成立するのです。

わたしたちは今世界の平和を祈り求めています。この世界にある数々の分断や敵意や憎しみを取り除いた主イエス・キリストの十字架の福音を信じつつ、共に祈りましょう。

(執り成しの祈り) 【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 (「聖フランシスコの平和の祈り」から)

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8月4日説教「天の神と地に住む人間との永遠の契約」

2024年8月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    「世界の教会を覚える日」

聖 書:創世記9章1~17節

    ヘブライ人への手紙1章1~4節

説教題:「天の神と地に住む人間との永遠の契約」

 8月第1週は、日本キリスト教会が定めた「世界の教会を覚える日」になっています。渉外委員会便りによれば、今年はパレスチナの諸教会を覚えて祈ってくださいとの依頼です。パレスチナと言えば、現在、ガザ地域でのイスラエルとイスラム原理主義ハマスとの戦争のことが毎日大きなニュースになっています。その地域での平和を願うということは大きな課題ですが、その前に、パレスチナのキリスト教会について少し考えてみたいと思います。

 パレスチナと言えば、言うまでもなく、そこには主イエスが誕生した町があり、主イエスが十字架につけられたエルサレムがあります。また、わたしたちが使徒言行録で学んでいるように、世界最初の教会エルサレム教会が誕生し、そののち10年余りの間にパレスチナ各地に教会が建てられていきました。

 それから2千年の間に、パレスチナは激動の舞台になり、キリスト教会も激動の歴史を歩まされました。1990年代には、イスラエル政府の発表によれば、全人口の2パーセント、約27万人のキリスト者がいたとのことですが、今もなおユダヤ人やイスラム教徒からの迫害にあい、現在は20万人に減少しているとのことです。主に、ローマ・カトリック教会と聖公会の信者が多いとのことで、プロテスタント教会の信者はほとんどいないということです。

 現在のパレスチナの教会についての情報は少しですが、しかしわたしたちにとっては、そこは主イエスの誕生の地、世界教会発祥の地であることは、変わらない事実です。かつては、そこで神の国到来の福音が語られ、主イエス・キリストの十字架の福音が宣教され、初代教会に対する神の祝福が満ちあふれた地でした。その地が、今は、むごい戦争と殺戮の地になっている、子どもたちの泣き叫ぶ声とロケット弾による破壊と土煙が立ち上る地になっているということは、本当に心痛むことであり、なんとか早く平和の糸口を見出してほしいと切に祈るのみです。戦争の当事者間であれ、あるいは国際機関であれ、周辺諸国であれ、そしてまたわたしたちの国日本であれ、全世界の人たちがパレスチナに平和を来たらせるために、祈りと知恵とを結集するべきであると、強く訴えたいと思います。

 世界の教会を覚える日のきょうの礼拝で、創世記9章のみ言葉を聞きました。ノアの大洪水後の新しい世界についてのみ言葉です。【1節】。ノアの大洪水によって、ひとたび神の裁きにより滅ぼされた世界が、今新たにその歩みを始めようとしているその最初に、神の祝福のみ言葉が語られているということを、わたしたちはぜひ心に深く留めたいと思います。はじめ、神が創造された世界には、やがて人間の罪と悪がはびこり、神はみ心を痛められました。神はこの地を滅ぼそうと決意されました。そして、40日40夜、地に雨を降らせ、地にあるものすべてを大水によって滅ぼされました。ただ、神に導かれて、あらかじめ箱舟に逃れていたノアとその家族、ノアに導かれた生き物たちだけが、大洪水ののちに再び生きることをゆるされました。その生きのびた者たちに語られた最初の神のみ言葉が、祝福のみ言葉だったのです。

 神は罪と悪に満ちたこの世界を決してお見捨てにはなりませんでした。神の祝福を忘れて、罪と悪に明け暮れていたこの世界を最終的に滅ぼすことはなさいませんでした。そして、わたしたちは信じます。今、この世界がいかに人間たちの罪と悪に満ちていようとも、神の祝福を失い、人間たちの憎しみと悲しみとでおおわれていようとも、神は決してわたしたちの世界をお見捨てになることはないのだと。世界の教会をお忘れになることはないのだと。

 大洪水後の新しい世界でわたしたちが覚えなければならないもう一つのことは、5節以下で語られている人間の命についての神のみ心です。大洪水以前にも、人間の命の重さ、尊さについて言われていましたが、ここではそれがさらに強調されています。

 第一に強調されているのは、人間の命は神のものであるということ、人間の命における神の主権です。人間の命は神から与えられたものであり、神のものであり、その主権は神に属するゆえに、人間の命が侵害されるときには、神がその損害を要求されるということです。ここに人間の命の尊厳性、不可侵性があります。それは、人間それ自身のためであるというよりも、神のためであり、人道的な理由とかこの世の法律によるのはなく、神の深いみ心によって、人間の命の重さ、尊さ、尊厳性、不可侵性があるのだということです。

 したがって、国家とかその他の人間集団とかのために、一人の人間の命が犠牲にされたり、正義とか真理とかのために人間の命が犠牲にされたりすることはあってはならないのです。そうであるにもかかわらず、国家の主権を守るためにとか、領土を拡張するためとか、その他の様々な理由づけによって、いとも簡単に人間の命が犠牲にされ、投げ捨てられているという世界の現状を、わたしたちは決して日常のこととして通り過ぎるべきではありません。そこでは、神のみ心が踏みにじられているのであり、人間を創造され、これに命を授けたもう神のみわざが破壊されているのです。

 ここで人間の命の尊厳性が強調されているもうひとつの理由を考えるべきです。それは、ノアの洪水という神の裁きをくぐり抜けてきた、大いなる神の救いのみわざを経験したのちの人間の命の重さ、尊さということです。大洪水以前の人間の命も重いものでした。人間が神の形に似せて創造されたからです。人間の命の中には神の形が彫り刻まれているからです。しかし今、大洪水以後に、神の裁きと救いとを経験し、新たな神の祝福のもとに歩みを始めることをゆるされた人間の命には、さらなる重さが増し加えられているということを、わたしたちはここから読み取ることができます。人間の命には新たなる神の救いのみわざが彫り刻まれているからです。

 そう考えると、わたしたちはさらに一歩先に進むことができるでしょう。すなわち、今日、わたしたち人間の命には神のみ子の十字架と復活によって与えられた神の永遠の救いが彫り刻まれているということです。人間の命は神のみ子の尊い血によって贖い取られた命だということに、わたしたちは気づかされるのです。主イエス・キリストの救いのみわざを経験した人間の命は、全世界よりもはるかに重いのです(マタイによる福音書16章26節参照)。今、世界の教会が声を大にして宣教しなければならないのは、このことです。一人の人間の命よりも重いものは、世界のどこにも存在しないのだと。それゆえ、いかなる理由からであれ、人間の命をそこなう行為は正当化されることはないのだということ。世界の教会は主イエス・キリストの十字架の福音を共に声高く語らなければなりません。パレスチナにある小さな教会も、ロシアにある古い教会も、アメリカにある福音派教会も、もちろん日本にある諸教会もそうです。

 次に、8節からは、神が大洪水以後の世界と結ばれた契約についての記述が続きます。【8節】。1節でもそうであったように、ここでも主なる神がノアとその家族にお語りになります。大洪水以後の新しい世界においても、まず初めに神がお語りになり、人間はそれを聞くということから始まります。神の言葉を聞くことなしに、人間同士がどれほどに語り合っても、おそらくはそこに真実の平和と共存は望めないかもしれません。人間はいつも罪と悪に傾いており、自分の権利を優先させ、自分の利益を図るからです。神から与えられる平和、神から与えられる和解と共存を共に求めていくことなしには、地上に真実の平和と共存は成立しないのかもしれません。

 神がここでノアとその家族、また箱舟から出たすべての生き物たちと永遠の平和の契約を結ばれました。【11節】。また、15節でも繰り返されています。【15節】。神は二度とこの地を洪水によって滅ぼすことはないと約束されます。この契約は、神と人間との間の平和の契約です。

 この契約の特徴を3つ挙げましょう。一つは、この契約は神から一方的に差し出された契約です。人間の側からは何の提案も関与もありません。では、人間の側にはもはや何の問題もなくなったということなのでしょうか。かつて、人間の罪と悪が地に満ちたので、神はこれを滅ぼそうとされたのでしたが、もう人間の罪と悪がなくなったということなのでしょうか。いや、そうではありません。8章21節には、洪水後の人間も、相変わらず「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ということを神は知っておられるとあります。人間自体は洪水前も洪水後も何ら変わってはいないのです。そうであるにもかかわらず、神は罪と悪に満ちた人間を再び洪水によって滅ぼすことはしないと言われるのです。これは、神から一方的に差し出されている罪のゆるしの契約です。のちの時代になって、この神の平和と救いの契約が、主イエス・キリストによって成就されたのだということをわたしたちは知っています。

 二つ目の特徴は、この契約が16節で「永遠の契約」と言われていることです。【16節】。「永遠の」という言葉は、本来、神だけに適用される言葉です。神だけが唯一永遠なる存在だかです。他のすべてのものはみな移り行くもの、消え去るべきもの、死すべきものです。ただ神ご自身と神の言葉だけが永遠に変わることがありません。その神が永遠の契約を結んでくださると言われます。つまり、神は最終的に、最後の最後に、最も完全なかたちで、この契約を成就してくださるという約束なのです。この地上に生きるすべての人間と生き物とがこの神の永遠の契約によって常に、そして終わりまで、守られ、支えられているのです。わたしたちはここでもまた、主イエス・キリストの十字架と復活によって立てられた新しい神の国の契約を思い起こすのです。

 三つめは、この契約にはしるしが伴っているということです。それが、空にかかる虹です。虹を見るとき、わたしたちはきょうの雨があがったことを知るだけでなく、神がこの地の人間とすべての生き物たちと結んでくださった永遠の平和の契約を思い起こすのです。パレスチナにも、ウクライナにも、虹がかかります。そこでも、神から与えられる永遠の平和の契約を思い起こすことができます。

 「虹」と訳されるヘブライ語は他の箇所では「弓」と訳されています。戦争で使用する弓を神は手放され、それを放棄されて、空に掲げておられるしるしであると理解する人もいます。神は罪と悪とに満ちている人間を裁き、滅ぼそうとはしないと決意しておられます。その代りに、神はご自身の一人子を十字架に犠牲としておささげになるほどに、わたしたち人間を愛されたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子の尊い血の犠牲によって、全世界に主キリストの教会をお建てくださいましたことを感謝いたします。どうぞ、全世界の教会に、特に、紛争によって人間の命が奪われ、自然や建物が破壊されている地域の教会に、あなたから与えられる平和の福音を、力強く語らせてください。深い傷を負い、病んでいるこの世界を憐れんでください。救ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。