世界平和祈念礼拝 8月11日説教「十字架によって分断と敵意とを滅ぼされた主イエス」

2024年8月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    「世界平和祈念礼拝」

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

説教題:「十字架によって分断と敵意とを滅ぼされた主イエス」

 わたしたちの国では、8月のこの時期、8月6日は広島平和祈念日、広島に世界最初の原子爆弾が投下された日、8月9日は長崎に2番目の原爆が投下された日、そして今週の8月15日は終戦の日と、かつて日本の国が経験した戦争の悲惨さを思い起こすとともに、平和を強く祈念する日々が続きます。さらに今年は、2年以上に及ぶロシアとウクライナの戦争、また今年新たに発生したガザ地域におけるイスラエルとハマスとの戦争、いずれも戦争の終結の糸口すら見えず、さらなる拡大が懸念される状況の中で、わたしたちの平和のための祈りはより一層切実なものになっています。戦争という名のもとで、何人の人間の命が失われ、いくつの家々が破壊されれば、人間は、世界は、戦争という悪魔の束縛から解放されるのでしょうか。

わたしたちはきょうの平和祈念礼拝で、「主なる神よ、どうかあなたのみ心によって、あなたの愛とゆるしによって、この地に平和を来たらせてください」と、みなで心を一つにして祈るほかにありません。わたしたちがこの礼拝で平和を祈るということは、まさに礼拝の本質に即しています。というのは、礼拝こそは神と人間との平和のしるしだからです。神と人間との平和の時だからです。かつて、神と人間とが敵対していた時には、人間が神を礼拝することはありませんでした。人間は神から身を隠し、神のみ前から逃亡し、あるいは神に反逆していたからです。

けれども神は、そのような罪の人間たちを繰り返し繰り返し探し求められ、罪のゆるしのみ声をかけて、み前に招き寄せてくださり、ご自身を礼拝する民として召し集めてくださいました。ノアの時代もそうでした。アブラハムの時代、モーセの時代、イザヤの時代もそうでした。そして、ついに主イエス・キリストの時になって、神はみ子の十字架の血によってすべての人の罪を無条件でゆるしてくださり、ご自身の民としてくださったのです。わたしたちの礼拝は、そのようにして与えられた神との永遠の平和の祭典なのです。全世界のすべての民族、すべての人がこの平和の祭典である神礼拝へと集められるようにと、わたしたちは切に祈り求めます。

そこできょうの平和祈念礼拝では、神から与えられた平和の福音をさらに深く学んでいくことにします。エフェソの信徒への手紙2章14節にこのように書かれています。【14節a】。ここでは、主イエス・キリストご自身が「わたしたちの平和である」と言われています。この表現は、新約聖書の中にいくつかある、主キリストはわたしたちにとって何であるかを言い表した特徴的な言い方です。ほかには、「主キリストはわたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリントの信徒への手紙一1章30節)、あるいは「主キリストはわたしたちの命である」(コロサイ3章4節)、「希望である」(テモテ一1章1節)、「罪の贖いである」(ヨハネ一2章2節)などの表現があります。いずれの場合もそうですが、主キリストがわたしたちのためにそれを獲得してくださった、わたしたちのためにそのような方となってくださった、そのみわざを実現してくださったという意味と内容を持っています。本来わたしたちはそれらのものを持っていませんでした。それらから遠く離れていて、不義なる罪びとであり、死すべき者であり、希望を失い、罪の奴隷であった者であったのですが、主キリストによって罪ゆるされて義なる者とされ、まことの命に生きる者とされ、神の国に招かれている希望を与えられているのです。

「主キリストがわたしたちの平和である」も同じです。主キリストが、平和ではなかったわたしたちに平和をお与えくださった、憎しみや分断や争いだけが繰り返されていたわたしたちに平和を創造してくださった、その平和の中にわたしたちを招き入れてくださったということを意味しています。

では、主キリストはどのようにして、また具体的にどのような平和を与えてくださったのでしょうか。【14b~16節】。ここには、主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちと全世界のすべての人に与えられたまことの救いとまことの平和について語られています。まず、「二つのものを一つにし」と言われています。「二つのもの」とは、前後の文脈から、それはユダヤ人とそれ以外の異邦人を指していることが分かります。11節以下に、その両者の違いが説明されています。旧約聖書の民、イスラエル・ユダヤ人にとっては、神の契約の民とそれ以外の諸国の民とは決定的な違いでした。ユダヤ人以外の異邦人には、神との契約はなく、また契約のしるしであった割礼もなく、神の律法は与えられていませんでした。ですから、救いの道は全く閉ざされていたのでした。

ところが今や、主キリストによってユダヤ人と異邦人の間の壁は取り除かれ、両者の間にあった敵意も取り除かれました。両者を決定的に分けていた律法も廃棄されました。ユダヤ人だけでなく、全世界のすべての人が主イエス・キリストによる新しい神との契約に招き入れられたのです。律法を守り行うという人間のわざによって救われるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人が救われるのです。神の救いの前では、人間の側にあったすべての違いや区別、分断、敵意、妬み、その他人間の側にあったあらゆる違いはすべて取り除かれました。世界の民は一つの神の民とされたのです。

そのことを、15節では「双方を一つの新しい人に造り上げ」と表現し、16節では「両者を一つの体として」とも言われています。神が世界創造の初めに人間アダムを創造されたように、今、分断されていた世界を一つにするために、神は新しい創造のみわざをなしてくださり、一人の新しい人間を創造された、一つの体を創造されたということです。

この一つの新しい人間、一つの体とは何を言うのでしょうか。19節では「聖なる民」「神の家族」と言われ、21節では「聖なる神殿」、22節では「神の住まい」とも言われている、主キリストの体なる教会のことです。ユダヤ人とギリシャ人、全世界のすべての民が、すべての人が、主キリストによって罪ゆるされている一人の新しい人間として再創造され、一つの主キリストの体なる教会の民とされている、これがエフェソの信徒への手紙が語っている教会論です。

では、この新しい契約の民はどのようにして誕生したのでしょうか。もう一度きょうの聖書のみ言葉全体に目を移してみましょう。14節では「御自分の肉において」と書かれていました。16節になって、はっきりと「十字架を通して」「十字架によって」とあるように、主イエス・キリストの十字架の死がそれらのすべてを実現したと言われています。ユダヤ人とギリシャ人の区別を取り去り、律法を廃棄し、人間を分断させていた敵意や憎しみを滅ぼし、一人の新しい人間を創造し、全世界の民を一つの主キリストの体なる教会の民とした、そのすべてが主イエス・キリストの十字架の死によって実現したのです。 

1章7節にこのように書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」。主キリストが十字架で流された血は、罪のない、聖なる神のみ子の血です。しかも、だれかの暴力によって、強制的に、あるいは何かの事故によって流された血ではなく、父なる神のみ前に徹底的に服従されたみ子の血であり、またわたしたち罪びとたちの僕(しもべ)となって流された血であったからです。この神のみ子の血こそが、すべての人の罪をゆるし、すべての民を一つにするのです。またこの神のみ子の血こそが、人間たちの間にあったすべての敵意や憎しみ、争い、分断を取り除くのです。この神のみ子の十字架で流された血の偉大な力を、無限の力を、永遠の力と命をわたしたちは信じます。

きょうの箇所でもう一つの見落とすことができない重要なポイントを、最後に取り上げたいと思います。16節に「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」と書かれています。この箇所全体では、ユダヤ人とギリシャ人(すなわち異邦人)とが一つとされることがテーマになっていますので、そのことが注目されますが、この16節ではその両者の和解と一致が神との和解の上に成立していることが語られているのです。主キリストの十字架の血によって、神とユダヤ人の間に和解が成立し、また神とギリシャ人(異邦人)との間にも和解が成立し、神と全人類との和解が成立し、その神からの和解に基づいて、両者が一つにされ、全世界が一つの新しい神の民となって、主キリストの体である一つの教会が建てられるということなのです。わたしたち人間の和解と平和は、また世界の和解と平和は、神との和解の上に成立するのです。

わたしたちは今世界の平和を祈り求めています。この世界にある数々の分断や敵意や憎しみを取り除いた主イエス・キリストの十字架の福音を信じつつ、共に祈りましょう。

(執り成しの祈り) 【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 (「聖フランシスコの平和の祈り」から)

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