8月18日説教「神に召し出されたモーセ」

2024年8月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章4~10節

    使徒言行録7章30~35節

説教題:「神に召し出されたモーセ」

 『新共同訳聖書』では、読む人の理解を助けるという趣旨で「小見出し」を付けています。出エジプト記3章の初めには「モーセの召命」と書かれています。この小見出しは、聖書原典にはありません。翻訳者が読者の理解のためにつけたもので、参考になる場合もありますが、厳密に言えば、本来聖書本文にはない言葉を書き加えることには問題があると思われます。ではありますが、きょうは「召命」という言葉について少し説明したいと思ましたので、これを参考にします。

 「召命」という言葉は、英語のcalling、ドイツ語のBeruf、ラテン語の

vocatioの訳として、ほとんどキリスト教の専門用語として用いられます。召命とは、信仰者が神の恵みによって特別な務めへと召されることを言います。イザヤやエレミヤなどが預言者の務めに任じられるとき、あるいはペトロやアンデレが主イエスの12弟子に選ばれるとき、彼らは「神の召命を受けた」と表現します。今日では、信仰者が牧師として献身することを言ったり、広い意味では、洗礼を受けて信仰者になったことをも意味する場合もあります。

 召命という言葉で強調されているのは、その主体が神にあるということです。英語のcallingもドイツ語のBeruf、ラテン語のvocatio、いずれも神の呼びかけを聞いてそれに応える、神のみ声を聞いてそれに従うという意味を持つ言葉です。したがって、その務めに召すのは神です。本人の願いや意志ではなく、また本人がその務めを担う資格や能力があるかどうかは問題ではなく、そこに神の強い意志があり、神の恵みの選びがあるということが強調されます。したがってまた、召命を受けた信仰者は、常に、徹底して神を信頼し、神がその務めを全うしてくださることを信じるという、絶対的な服従が必要だということです。

 では、モーセの召命について、きょうのみ言葉から学んでいきましょう。【4~5節】。モーセは、ミディアンの祭司で、妻の父であるエトロの羊の群れを飼って神の山ホレブ、すなわちシナイ山のふもとまで来たときに、砂漠の中で柴が燃えていて、しかもいつまでも燃え尽きないという不思議な光景を見ました。4節には、そのモーセを主なる神がご覧になったと書かれています。そして、モーセの名を呼んで、声をかけられました。このようにして、モーセの召命が始まりました。神がモーセに目をお止めになります。神がモーセに声をかけられます。これは神の選びです。モーセの召命も、またわたしたち一人一人の信仰も、このようにして始まるのです。

 福音書に書かれている主イエスの12弟子の召命の場合もそうでした。主イエスは、ガリラヤ湖で網を打って漁をしていたペトロとアンデレをご覧になり、彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。主イエスはわたしたちの職場や家庭で、あるいはわたしの道の途中で、わたしの生活のただ中で、わたしたちのすべての歩みをご覧になっておられ、その時にふさわしいみ言葉をお語りになり、わたしたちをそれぞれの務めへと召してくださいます。わたしたちはそのみ声を信仰の耳を開いて聞かなければなりません。

 「神は柴の間から声をかけられ」とありますが、荒れ野で燃えていて、しかも燃え尽きることがない柴は神の現れ、顕現であったことが分かります。神は燃え尽きない柴によってご自身をモーセに現わされました。それが何を象徴しているのかについては説明されていませんが、神の永遠性、神の激しい情熱、大きな愛を読み取ることは間違っていないと思います。そして、その神の激しい情熱、大きな愛が、エジプトの奴隷の家で長く苦しんでいたイスラエルの人々に向けられていたということを、モーセはあとで知らされます。

 「モーセよ、モーセよ」という神の呼びかけに、モーセが「はい」と答える、この形は、旧約聖書の召命の記録で何度か繰り返されています。創世記22章では、アブラハムが彼の一人子イサクを燔祭の犠牲として神にささげようとしたときに、神が「アブラハム、アブラハム」と呼びかけると、彼は「はい」と答えたと書かれています(11節参照)。サムエル記上3章では、少年サムエルが神に召されたときに、またイザヤ書6章にはイザヤが預言者として召されたときにも、同じようにして、神の呼びかけに「はい、ここにおります」と答えたことが書かれています。

 4節で「はい」と訳されている元のヘブライ語は、直訳すれば「見よ、わたしだ」となります。英語では多くHere I am.と訳されます。日本語では「ここに、わたしがいる」と訳するのが良いと思います。神の呼びかけに対して、「ここにわたしがいる」と応答することには深い意味が込められているように思います。神によって名前を呼ばれ、わたしがそれに答えるときに、わたしがどこにいるのか、わたしが何者であるのかが分かるようになるからです。神がわたしを探し求め、わたしの名を呼び、わたしを身もとへと召してくださるときに、わたしは本当の自分というものを見いだし、わたしがどこにいるのか、どこに行くべきなのか、何をなすべきなのかが、明らかにされるからです。

 5節で神は、「あなたが立っている場所は聖なる土地だから」と言われます。今モーセがいる場所は、シナイ半島の山、神の山と言われていたホレブ・シナイ山のふもとだと推測されますが、ここはのちにモーセが神から十戒を授かる場所でもあります。その場所が聖なる地であると言われているのは、今そこに主なる神がおられるから、聖なる神が現臨しておられるからにほかなりません。天におられる聖なる神が、地に下って来られ、地の上にお立ちになるとき、そしてその地でみわざをなさるとき、その地が聖なる地、聖なる場所になります。

地に住む人間は、聖なる神のみ前では、自ら罪ある者であることを知らされます。自ら死すべき者、滅ぶべき者であることを自覚せざるを得ません。ここから、モーセの召命が始まります。

罪ある人間は神のみ前に立つことはできません。神が「ここに近づくな」とお命じになったのは、罪ある人間が神の裁きによって死ぬことを避けるためです。6節で、モーセが「神を見ることを恐れて顔を覆った」のもそのためです。

 神はまた「足から履物を脱ぎなさい」とお命じになりました。これには二つの意味が考えられます。一つには、聖なる神に対する畏敬の態度を示すためです。罪ある人間は聖なる神のみ前では靴を脱ぎ、汚れたものを少しでも体からはぎ取って、神のみ前にひれ伏すほかにありません。もう一つには、モーセが歩んできたこれまでの道のすべてを捨て去ることです。彼が歩んできた土埃と汗がしみ込んだ靴を脱ぎ捨て、今から全く新しい歩みを始めるということです。彼なりに努力してきた好ましい過去もあったでしょうし、そうでない恥と失敗の過去もあったでしょう。そのすべてを投げ捨てて、今から神が始められる新しい歩みを、神と共に始めるのです。このようにして、モーセの召命は始まります。

【6節】。神はこのように自己紹介をされました。神の自己紹介はモーセにとっては神の啓示を意味します。今、神はモーセにご自身を啓示されたのです。ここで神とモーセとの出会いが起こります。ここでは、それ以上に大きな神の真理が明らかにされます。創世記と出エジプト記との間にあった400数十年という月日が、今神ご自身のみ言葉によって埋められたのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神と今モーセにご自身を啓示しておられる神が同じ神であることが明らかにされ、かつての族長たちの時代とモーセの時代とが、今結合されたのです。それとともに、かつて神が族長たちにお与えになった契約が、今もなお有効であり、神はかつての約束を決してお忘れにはならなかったということが、今神ご自身のお言葉によって明らかにされたのです。

わたしたちはこう信じます。アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、彼らとの契約を思い起こされる神は、今モーセの神として、彼を召し、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される神であり、その同じ神は、ご自身のみ子主イエス・キリストの十字架と復活によって、全人類を罪の奴隷から救い出してくださった神であるということをわたしたちは信じています。

【7~10節】。この箇所では、神がご自身の神であるイスラエルの民の苦しみをみ心にとめておられることが繰り返し語られています。すでにそのことは2章23~25節でも語られていました。7節で、「わたしは彼らの苦しみをつぶさに見た、わたしが彼らの叫び声を聞いた、わたしは彼らの痛みを知った」と、「見た」「聞いた」「知った」と繰り返されています。たとえイスラエルの民が神を忘れていたとしても、神は彼らをお忘れにはなりません。

また、7節と10節では、神はイスラエルを「わたしの民」と呼んでおられます。イスラエルはエジプトの奴隷の民として、その市民権も、生存権をも奪われていたとしても、それでもなおも彼らはエジプト王ファラオの民ではなく、神の民なのです。神ご自身がそう呼んでくださるのです。神は、イスラエルの民がエジプトの鉄の炉の中で燃え尽きてしまうことをお許しにはなりません。なおも彼らを離さず、ご自身の民として、彼らの苦悩の姿を天から見ておられ、その叫び声を天で聞いておられるのです。

それだけでなく、「わたしは降って行き、わたしは彼らを救い出し、わたしは彼らを導き上る」と8節に書かれています。神は高き天で、イスラエルの民の苦しみのすべてを見ておられ、知っていてくださるだけでなく、イスラエルの民を奴隷の家から救い出すために、ご自身が天から下って来られると言われるのです。苦しむ民のすぐ近くにまで天から降りてこられ、いわば神ご自身が彼らの手を引いて、約束の地に導き上るのだと言われるのです。

そして、そのために、モーセをお用いになるのだと言われます。モーセは、主なる神の永遠の救いのご計画のために仕えます。主なる神の救いのみ心と救いのみわざのために仕えるために召されました。これがモーセの召命です。

わたしたちは最後に、かつて苦しむ奴隷の民イスラエルを救い出すために天から下って来られた主なる神が、そののちになって、わたしたちと全人類を罪の奴隷から救い出すために、天から下って来られたことを知っています。人間のお姿になって、ご自身が僕(奴隷)となられて、わたしたち罪びとのために十字架の血を流されるまでに愛された主イエス・キリストこそが、全世界のすべての人の唯一の救い主であると告白します。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちが罪の中で滅びてしまうことをお許しにはなりませんでした。わたしたちを罪と死と滅びから救い出すために、み子の十字架の血をお用いになりました。わたしたちはみ子の尊い十字架の血によって贖い取られ、あなたの民とされた一人一人です。どうか、わたしたちがあなたの民として、あなたのご栄光を表し、あなたの救いのみわざにお仕えするものとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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