2024年8月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:申命記24章17~22節
ルカによる福音書10章25~37節
説教題:「親切なサマリア人のたとえ」
一人の律法の専門家が主イエスのもとを訪ね、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができますか」と聞きました。主イエスは、「あなたが日々学んでいる神の律法の言葉をそのとおり行いなさい。そうすれば、あなたは神からまことの命を与えられます」とお答えになりました。彼がその主イエスのお答えに忠実に従っていれば、彼は永遠の命を受け継ぐことができたはずでした。
ところが、「彼は自分を正当化しようとした」とルカ福音書10章28節に書かれています。「自分を正当化する」とは、直訳すれば「自分を義とする」になります。それは16世紀の宗教改革者たちが強調した、プロテスタント信仰の中心である「義とされる」ことの正反対です。つまり、わたしたちが救われるのは、わたしが罪びとであるにもかかわらず、わたしのために十字架で死んでくださった主イエス・キリストをわたしの救い主と信じるならば、その信仰によって、わたしには何らの功績がないにもかかわらず、ただ一方的な神の恵みによって、わたしが神に義と認められ、救われる。これが、いわゆる「信仰義認」という、プロテスタント福音主義信仰ですが、それとは全く反対に、自分で自分を義とする、神のみ前に自分を罪なしとして、自分の罪を認めず、悔い改めることもしない、それがこの律法の専門家の生き方であったということなのです。それは、今主イエスが彼に差し出そうとしておられる救いの恵みを拒むことにほかなりません。そしてそれはまた、彼が主イエスに求めていた永遠の命を拒むことになるのです。
この律法の専門家の悔い改めようとしない、かたくなな罪の姿は、彼の次の質問にも表れています。「では、わたしの隣人とは誰ですか」。彼は旧約聖書に教えられている神の律法の中心は、「主なる神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」の二つの愛の戒めにあるということを知っていました。そしてまた、彼はその戒めを守っていると自負していました。けれども、彼のこの質問から判断すれば、彼は本当の意味で神をも隣人をも愛していなかったことが明らかになります。というのは、彼はだれが自分にとって隣人であるか隣人ではないかを自分で判断して、彼の隣人でない人は愛する義務がないと考えているからです。神の律法を自分にとって都合が良いように狭めて考えているからです。それでは、本当の意味で神を愛し、神に服従していることにはなりませんし、隣人を愛し、心から隣人に仕えていることにもならないからです。
主イエスは救いから遠いこの律法の専門家を救いへとお招きになるために、一つのたとえ話をお話になりました。これは「親切なサマリア人のたとえ」と言われています。このたとえ話を3つの出会いの場面に分けて読んでいくことにしましょう。
第一の出会いの場面は、旅人と追はぎとの出会いです。【30節】。これは本来の意味での出会いとは言えませんが、わたしたちの人生の中でも、しばしばこのような悪しき出会いが起こりえます。追はぎの立場からまず考えてみましょう。追いはぎは、他人から物を奪い取るために、旅人を物色していました。彼らは暴力や脅しで他者から物を奪い、他者を傷つけます。彼らは人間を自分たちが利用できる物としてしか見ていません。自分たちの欲望を満たすために利用できる物であって、人間とは見ていません。当然、そこには真実の出会いは起こりえません。
実は、わたしたちの人生の中でも、もしかしたらそのような出会いが多いのではないでしょうか。他者から奪い取るために、他者を自分の利益のために利用しようとして、その人に近づく。自分からその人に与えようとはしないし、その人との人格的な関係を築こうともしない、利用価値がなくなれば、その人から立ち去っていく、そのような悪しき出会いが、わたしたちの人生の中にも、もしかしたらあるのではないでしょうか。だとすれば、わたしもまたあの追いはぎの一味なのではないかと思わざるを得ません。
次に、旅人の立場から考えてみると、彼にとっても、これは願わしい出会いではありません。できれば避けたい出会いです。エルサレムからエルコへと下っていく道は、谷間の暗く危険な道であり、強盗がよく出るということは知っていても、どうしてもその道を通らなければならない事情があったと思われます。注意していても避けられない災いもあります。わたしたちはしばしばこのような思いもかけない災いや災害に、あるいは人災と言われる被害にあうことがあります。だれかの意図的な策略によって、危険な目にあうこともあります。だれもが、そのような望まない災いや危険な経験を避けて通りたいと願います。そのような悪しき出会いはわたしの人生を不幸にするだけだと考えます。
けれども、必ずしもそうとばかりは言えないのだということを、聖書は教えています。むしろ、信仰者にとっては自分が願わなかった苦難や試練、他者から強制されたような災いや重荷であっても、わたしがそれを信仰をもって受け止めるならば、それはわたしにとって決して不幸な出会いや経験ではなく、わたしの人生にとってのマイナスな出来事であるのでもなく、それはむしろ、幸いであり、わたしの信仰を強め鍛えるために、神から賜った恵みの機会ともなりうるのだということを、聖書はいたるところで教えています。なぜならば、苦難や試練の中で、わたしをそこから救い出してくださる神との出会いが与えられるからです。主なる神がわたしをすべての敵の手から、すべての災いと危険の中から、強いみ手をもって、わたしを救ってくださると約束していてくださることを知らされるからです。
たとえ話の第二の出会いの場面は、傷つき倒れた旅人と祭司、レビ人との出会いです。【30~32節】。しかし、これも真実の出会いではありません。すれ違いと言うべきでしょう。祭司とレビ人は、追いはぎのように、他者から奪ったり、他者を傷つけたりはしていませんが、死にかけている旅人を助けることもしません。実は、このようなすれ違いのような、出会いとは言えないような出会いもまた、わたしたちの人生の中には多いのではないでしょうか。だれかと会って、時に楽しく会話をし、時に食事をし、同じ仕事に励み、一緒に遊んだりもするけれども、お互いに助け合うことはなく、お互いの重荷を担い合うこともしない、お互いの心の痛みを知ろうともせず、時が過ぎると別れていく。そのような出会いを、わたしたちはいくつ繰り返してきたでしょうか。わたしたちもまた、死にかけている旅人のわきを通り過ぎて行った祭司、レビ人とほとんど変わらないのではないでしょうか。
でも、だからと言って、死にかけている旅人を助けなかった祭司、レビ人をここで直ちに罪びとだとか悪人だと決めつけることはできないかもしれません。彼らはだれかに被害を加えたわけではなく、何かを奪い取ったのでもありません。彼らはおそらく、一週間のエルサレム神殿での勤めを終えて、エリコにある家に帰る途中だったと思われます。家には家族と温かい食事が待っています。疲れた体を引きずって家路を急いでいる彼らには、倒れている旅人のわきを通り過ぎる理由はいくつもあったのですから、彼らを直ちに責めることはできないでしょう。
でも、わたしたちは次に聞きます。そのあとで通りかかったサマリア人が倒れていた旅人に近寄って、その傷の手当てをし、彼を宿屋にまで連れて行ったということを。その時になって、前に通り過ぎて行った祭司、レビ人の罪が浮き彫りになってくるのを、わたしたちは知らされるのです。
では、第三の出会いの場面を読んでみましょう。【33~35節】。ここにこそ、真実の出会いがあります。傷つき倒れ、死にかけている人のそばに近寄り、助け、自分の時間と労力、持ち物をささげて、その人の隣人となって愛するという、真実の出会いがここにあります。
この時代、ユダヤ人とサマリア人とは長く民族的・宗教的な敵対関係にありました。ユダヤ人はサマリア人を汚れた民と呼び、軽蔑し、嫌っていました。そのサマリア人がユダヤ人の旅人を助けたのです。長い敵対関係を超えて、サマリア人の方からユダヤ人の隣人となったのです。ここには、神に背いて、神と敵対していたわたしたち罪びとに近づいてこられ、わたしたち罪びとたちの真実の隣人となってくださった主イエスご自身の愛が暗示されているのです。
33節に、「その人を見て憐れに思い」と書かれています。これが、祭司、レビ人が「道の向こう側を通って行った」のと、サマリア人が倒れた旅人に「近寄って」行ったのとの、決定的な違いを生む動機となっています。実は、「憐れに思う」あるいは「深く憐れむ」という言葉は、福音書の中で主イエスが主語の時にしか用いられない、いわば専門用語なのです。これは、主イエスの十字架の愛を示しています。もとのギリシャ語では「スプランクニゾマイ」という言葉で、これは内臓を意味する「スプランクス」という言葉の動詞形です。内臓を揺るがすような、激しい感情を意味する言葉です。日本語でも同じような用法があります。激しく強い感情を言い表す際に、「はらわたが煮えくり返る」とか「五臓六腑に染み渡る」「肝を冷やす」という言い方をします。「憐れむ」とは、主イエスがご自身のお体を十字架につけ、その腹をやりで刺し貫かれ、その肉を裂き、血を流すほどに、激しく、強く、わたしたち罪びとたちを愛された、そのような主イエスの十字架の愛を言い表す言葉なのです。その愛によって、主イエスはわたしたち罪びとたちの隣人となってくださり、わたしたちの罪を贖ってくださったのです。
最後に36節以下で、もう一度主イエスと律法の専門家との出会いの場面があります。【36~37節】。ここで主イエスは、自分を義とし、罪を悔い改めようとしない律法の専門家を、もう一度、救いへとお招きになります。そして、こう言われます。「あなたも行って、あなたの隣人を愛しなさい。あなたが隣人として近づく人はだれでもみな、あなたの隣人です。あなたは新しい隣人を見いだし、新しい隣人関係を築くために、この世に派遣されているのです。すべての人が、あなたが愛するように命じられ、また招かれている、あなたの隣人なのです」と言われました。
主イエスはわたしたち罪びとたちに対して、深い憐れみをもって、十字架の血を流して、わたしたちを愛され、わたしたちすべての人の隣人となってくださいました。わたしたちもまた、互いに愛し合うように命じられ、招かれているのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、罪の中で滅びるほかなかったわたしたちを、あなたは見いだしてくださり、み子の十字架の血によって罪から贖いだしてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちを一つのみ国の民として、共にあなたと隣人に仕える者としてください。
〇主なる神よ、この世界にあなたからの真実の和解と平和と共存をお与えください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。