2024年9月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:イザヤ書61章1~4節
使徒言行録13章1~3節
説教題:「アンティオキア教会から世界伝道へ」
アンティオキア教会は、ユダヤ人以外の異邦人に対して初めて組織的に伝道活動をして誕生した、ユダヤ人と異邦人が混合した教会でした。その誕生の次第については使徒言行録11章19節以下に書かれていました。改めてそのことを確認しますと、その誕生のきっかけとなったのが、8章1節以下に書かれていた、エルサレム教会が経験した大迫害であったということを思い起こします。エルサレム市内から追放されたユダヤ人キリスト者たちが、アンティオキアでギリシャ語を話す人たちに主イエス・キリストの福音を語り、多くのギリシャ人が福音を信じて教会に加えられ、ここにユダヤ人とギリシャ人とが共に礼拝をささげる教会が形成されていったのでした。アンティオキア教会の誕生の次第がまさに世界的広がりを持っていたように、やがてこの教会から、全世界へと主キリストの福音が拡大されていくことになったのです。
アンティオキアの町はローマ帝国時代のシリア州の中心都市であり、現在のトルコの南東部に当たります。大きな川によって地中海とつながっており、キプロス島から地中海を渡ってギリシャ、ローマ、ヨーロッパへと続く海路の出発地点となっています。陸のシルクロードの一つの拠点でもあったと考えられているようです。使徒パウロはこのアンティオキア教会を拠点として、計3回の世界伝道旅行へと出かけ、主キリストの福音をギリシャ・ヨーロッパへと広めるために仕えました。
アンティオキア教会には、まずバルナバがエルサレム教会から派遣されました。バルナバは故郷タルソスにいたサウロ(パウロ)を呼び寄せて、一緒に伝道と教会形成に励んでいました。12章25節によれば、バルナバとパウロはエルサレム教会からさらにヨハネ・マルコを連れて帰ったと書かれています。このようにして、アンティオキア教会はいよいよ強められていきました。
13章1節には、アンティオキア教会の何人かの中心的なメンバーが紹介されています。バルナバが先頭に上げられていますから、彼がこの教会のリーダー的存在だったと思われます。サウロ・パウロは最後に挙げられていますから、バルナバよりは年下であったと考えられます。「ニゲルと呼ばれるシメオン」、ニゲルはラテン語で黒人を意味します。3人目は「キレネ人のルキオ」、キレネはアフリカ大陸の都市です。シメオン、ルキオの二人は世界に離散していたディアスポオラと呼ばれていた離散のユダヤ人であったと推測されます。4人目の「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」、領主ヘロデはガリラヤ地方とヨルダン川東のペレア地方の領主であったヘロデ・アンティパスのことで、彼と一緒に王宮で育ったマナエン(その名の意味は「慰める人」)は、ある程度社会的地位があった人と思われます。そして、最後にサウロ・パウロの名が挙げられています。
このように、アンティオキア教会はエルサレム教会の迫害をきっかけとして誕生し、また世界各地からの多種多様な賜物を持った信仰者たちが集まっていたことが分かります。まさに、主キリストの教会は、迫害と殉教が生み出した実りであり、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないという真理の証しなのだということを、わたしたちはここでもまた再確認するのです。
1節の終わりでは、彼らは「預言する者や教師たち」であると言われています。初代教会ではまだ預言者の活動が行われていました。けれども、旧約聖書時代と新約聖書時代の預言者の働きは根本的に違っていました。旧約聖書の預言者は、神がやがてイスラエルと全世界の救い主・メシアをこの世にお遣わしになることを預言し、その時を待望するように民に呼びかけました。それに対して、新約聖書の預言者はすでに来られたメシアなる主イエス・キリストの十字架と復活の福音を告げ、神が終わりの日に完成される神の国を待ち望むようにと呼びかけます。彼らはやがて説教者と呼ばれるようになります。
次の2節を読みましょう。【2節】。ここで、まずわたしたちは紀元1世紀中ごろのアンティオキア教会の活動の様子を垣間見ることができます。教会では礼拝がささげられ、断食と祈りとが定期的に行われていました。礼拝がユダヤ人の習慣にならって土曜日に行われていたのか、あるいはすでにアンティオキア教会では主イエスの復活を記念する日曜日に変更されていたのかについては、確定できません。断食と祈りは明らかにユダヤ人の習慣を受けついています。断食は、人間の欲望の一つである食欲を断つことによって、心を神に集中させることを目的としました。断食は礼拝と結びつき、また祈りと結びついて、信仰者をこの世から聖別し、神に向かって心を開き、信仰者の心と体全体を神に集中させる役割を果たしていました。
そのようは断食と祈りとに結びついた礼拝において、聖霊なる神がお働きになりました。聖霊なる神ご自身が、世界宣教の計画者であられ、その発動者となられたということを、わたしたちはここで聞きます。世界宣教は、聖霊なる神のみわざであるということを、わたしたちはここで改めて知らされるのです。世界宣教は、教会員や教会の指導者のだれかの発案によるのではなく、あるいは教会の決議によって始められたのでありません。世界宣教は天地創造の始めからの神ご自身のご計画であり、神ご自身のご命令であり、また徹底して神ご自身のみわざなのです。教会はその神の宣教計画にお仕えしていくのです。
使徒言行録は、口語訳聖書では使徒行伝と名付けられていましたが、本来は聖霊行伝であると言われます。この書は主イエス・キリストの使徒たちの働きを記録していますが、その本来の主体は聖霊なる神であり、聖霊なる神が使徒たちをお用いになって、世界宣教のお働きをなされたという意味で、聖霊行伝と呼ぶべきだというのです。すぐ続けて4節には、「聖霊に送り出されたバルナバとサウロは」とあり、9節にも「サウロは聖霊に満たされて」と書かれているとおりです。今日においても、わたしたちの宣教・伝道活動および教会形成の働きを導いておられるのは聖霊なる神です。わたしたちは聖霊のお導きとお働きに信頼し、喜んでそのみわざのためにお仕えするのです。
主なる神ご自身が、福音を全世界に宣べ伝える世界宣教の主体であるということは、旧約聖書でも新約聖書でも同様です。イザヤ書52章では、神の良き音ずれがエルサレムを超えて全世界のすべての人々に語り伝えられるべきことが語られています。【7~10節】(1148ページ)。また、マルコ福音書16章15節で、復活された主イエスは天に挙げられる前に弟子たちにこのようにお命じになりました。【15~16節】(98ページ)。神の喜ばしい訪れ、福音を全世界のすべての人々に宣べ伝えるという世界宣教の働きは、主なる神が計画され、主イエス・キリストが始められ、聖霊なる神が導かれる、神ご自身のみわざなのです。パウロとバルナバ、そしてまたわたしたち一人一人は、その神のみわざのために用いられる器として選ばれた者たちなのです。
聖霊なる神は「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」と言われます。「わたしのために選び出す」とは、何か選挙とかくじによって選出するという意味ではなく、「神のために聖別する」という意味です。二人は神にささげられたもの、神のみわざ、神のお働きのために聖別された者たちです。ここでは、二人をとおして働かれる聖霊なる神のみ心、またその力と導きが強調されています。バルナバとパウロは自分たちの力や知恵でこの託された務めを果たすのではなく、聖霊なる神ご自身が彼らをお用いになって、その務めを果たさせてくださいます。二人は常にその聖霊の導きに従うのです。
次に、3節を読みましょう。【3節】。神がお始めになる世界宣教のお働きのために仕えるアンティオキア教会がなすべきことは、断食と祈りです。心と思い、そして体の全体を、主なる神に向けて集中させ、人間の思いや不安、恐れのすべてを主なる神にお委ねし、神のみ旨とご計画を信じ、神に服従すること、教会全体がそのために断食と祈りとをして、バルナバとパウロの奉仕に参加しているのです。
「二人の上に手を置く」とは、按手のことだと考えられますが、これは聖霊なる神が聖別して、その務めにつかせたことを、教会全体が確認することであり、その務めを遂行するために聖霊の注ぎを祈り求めることでもあります。それは聖霊なる神に対する教会の服従を言い表す行為でもあります。バルナバとパウロは、聖霊なる神の恵みに支えられ、導かれて、また全教会の祈りに支えられて、第1回の世界伝道旅行へと出かけました。
彼らがどのような旅支度をして、どのような世界地図を用意して、どれくらいの旅行費用を持参したのか、というようなことについては、聖書は何も記していません。今からから2千年も前の、誕生したばかりの小さな教会が、どのようにしてこの偉大な世界伝道をなしえたのか、わたしたちには想像もつきません。どんな困難や試練が待ち構えているのかもだれにも分かりません。けれども、聖書はそのようなことについては全く語りません。彼らはただ一つ、主イエス・キリストの福音だけを携えています。ただ主なる神のご命令だけを聞いて、ただひたすらに聖霊のお導きを信じて、旅立ちました。そして、宣教活動を続けました。
今日のわたしたちの教会もまた、そのようにして歩み続けていくほかありません。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画によって、今日、全世界の主キリストの教会が建てられておりますことを覚え、あなたの尊いみわざに心からの感謝をささげます。今なお、教会の歩みは遅く、またたどたどしく、迷いと弱さの中にあります。主よ、どうぞわたしたちの福音宣教の働きをあなたが強めてください。前進させてください。また、主キリストの福音を聞いていない多くの人たちがいます。道に迷い、不安や恐れの中にあって生きる希望を失いかけている人たちがいます。戦争や政治的混乱によって住む国と家とを追われてしまった人たちが多くおります。主なる神よ、彼ら一人一人の痛みと重荷を教会が担い、共に支え合い、分かち合い、支え合う世界となりますように。そのための教会の働きを強めてください。
〇神よ、施設に入所している教会員が多くおられます。家族や教会員から離れて生活しておられる一人一人と、あなたが常に共にいてくださいますように。一緒にこの礼拝堂に集まることはできませんが、一つの礼拝の群れに連なっていることを覚えさせてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。