2024年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(35)
聖 書:申命記7章6~8節
コリントの信徒への手紙一1章1~3節
説教題:「神に召された世々の聖徒の交わり」
『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は、キリストの体、神に召された世々の聖徒の……待ち望みます」。
この箇所は、キリスト教教理では「教会論」と言われますが、ここでは教会とは何かについて二つの中心的なことが告白されています。一つには、前回学んだように、「教会は主キリストの体である」ということ、もう一つは、きょう学ぶ「教会は聖徒の交わりである」ということです。
「教会は主キリストの体である」という告白は、新約聖書のパウロ書簡の中に頻繁に用いられています。エフェソの信徒への手紙1章23節には、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられる場です」とあります。同じ4章12節では、「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を作り上げてゆき」と書かれています。教会は、わたしたちのために十字架で死なれ、三日目に復活され、今は天に昇られ、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストのお体として、今も主キリストご自身がそこで救いのみわざをなしておられる場なのです。
もう一つの中心的なことは、「教会は聖徒の交わりである」という告白です。この言い方は、そのままでは聖書の中には見いだせません。これは、『信仰告白』の後半の『使徒信条』で用いられている表現です。『使徒信条』第3項目で、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり……を信じます」と告白されていますが、おそらくは、その『使徒信条』の「聖徒の交わり」という告白の前に、「神に召された世々の」という言葉をさらに付け加えて、わたしたちの教会の特徴を表現したのであろうと推測されます。
「主キリストの体」と「聖徒の交わり」、教会についてのこの二つの信仰告白は、教会とは何かを理解する上での、基本的な、また重要なポイントになります。わたしたちがそれぞれの群れである教会にお仕えし、健全な教会形成を目指すうえでも、この二つの視点を絶えず見失わずに考えていくことが重要になります。
まず初めに、「聖徒」という言葉を取り上げましょう。信仰者を、また教会員を「聖徒」と表現することは、使徒言行録やパウロ書簡などに数多く見出されます。「聖徒」とは、聖なる者たちという意味であり、もっと正確に言うならば、神によって聖別された者たちという意味です。そもそも聖書で、「聖」という言葉は、この世の世俗のものからは区別されたもの、神にささげられるために他のものから区別されたたもの、神に属するものという意味を持ち、それが動物や収穫物の場合には、聖なるいけにえ、聖なる供え物と言われ、それが人間の場合には、「聖なる者」「聖徒」と言われます。
「聖なる者たち」「聖徒たち」という言葉は、全世界の諸教会の信者たち、キリスト者たちを指す一般的な言い方として、新約聖書の中で数多く用いられています。ローマの信徒への手紙1章7節では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」とあり、またコリントの信徒への手紙一1章2節にはこう書かれています。【2節】(299ページ)。
ここから分かることは、「聖なる者たち」とは、神の愛によって、また主キリストによって、神に召しだされ、聖とされた者たちを言います。もともとは彼らもまたこの世に属する者でしたが、神が一方的な愛によって彼らをこの世から選び分かち、神ご自身のものとしてくださったのです。主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷から買い戻され、主キリストのもの、主キリストの僕(しもべ)とされているのです。
したがって、「聖徒」という言葉の中には、聖人君子というような道徳的に優れている人物とか、カトリック教会が言うような、功績を積んだ聖人というような意味は、本来全く含まれてはいません。「聖徒」「聖なる者」という言葉が意味する第一のことは、この世に属するのではなく、この世から選び分かたれて、神のものとされている、主キリストの僕であるということが最も重要な点です。したがって、この世の罪と死と滅びとに支配されている世界から贖いだされ、救い出され、解放されて、主なる神のものとされている、それゆえにまた、神の国を受け継ぐ約束を与えられ、神の救いの恵みと天からの祝福と平安へと招き入れられているという、このことが強調されているのです。そのすべては、神から差し出されている、一方的な神の恵みなのです。
パウロがコリントの教会にあてて書いた二つの手紙には、この教会の問題が数多く上げられ、パウロはその一つひとつに主キリストの福音による解決策を講じています。教会内の分派争い、不道徳や貧富の差からくる諸問題、偶像礼拝や異端的な教え、それらの諸問題は、とても主キリストの教会内で起こっていることとは思えないような、教会の命を脅かすほどに深刻な問題が多くありました。それでも、パウロはその手紙の冒頭で、先ほど読んだように、「コリントにある神の教会……キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と彼らに呼びかけているのです。コリント教会はどのようなときでも、「神の教会」でなくなることはありません。そこに集められている信者が「聖徒たち」でなくなるのでもありません。そのような深刻な問題に直面している教会であるからこそ、パウロはそのことを強調しているのです。
次に、教会は「聖徒の交わりである」と告白されています。「交わり」とは、ギリシャ語では「コイノーニア」です。交わり、交流、分かち合い、仕え合いという意味を持っている言葉です。教会が聖徒たちの団体とか、聖徒たちの集いと言われるだけでなく、「交わり」であると言われている点に注意を向けたいと思います。教会は信仰者たちがただ一緒に集まっているだけではありません。そこには、交わり、コイノーニアあるのです。
もちろん、聖徒の交わりと言われる場合、その基礎には、主キリスト、あるいは神と信仰者との交わりがなければならないのは、言うまでもありません。それが、信仰者たちだけの交わりであるならば、「聖徒の交わり」ではありません。神と主キリストによって聖なる者とされている、そのことを知っている、そのことを信じている信仰者たちの交わりであるということを忘れてはならないのです。したがって、「聖徒の交わり」とは、主キリストからいただいている救いの恵みに共にあずかっている、その恵みを共に分かち合っている、その恵みによって共に生かされている、そしてそのことを共に喜び合い、感謝し合っている、そのような交わりなのです。
それゆえにまた、教会の聖徒の交わりは、教会が主キリストのゆえに経験しなければならない迫害や試練、苦難をも、喜んで共に担い合う交わりでもあります。互いに重荷を負い合い、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く、そのような交わりでもあります。
次に、聖徒の交わりに付け加えられている「神に召された世々の」という告白について考えていきます。教会に集められている信仰者たち、聖徒たちは、自分の意志や願いによって集まってきたのではありません。多くの人は初めはそう思っていたかもしれませんが、のちになって知らされることは、自分がこの道を選び、この教会を選んできたというよりも、それよりもはるか以前に、神がわたしを選んでくださって、神がわたしを信仰の道へと導いてくださっていたのだということを、わたしたちはやがて知るようになるのです。
エレミヤ書1章5節にはこのように書かれています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と。また、パウロもガラテヤの信徒への手紙1章16節で、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言っています。神の召し、呼びかけ、それは神の選びもでありますが、それは神の永遠のご計画のうちにあって、神の方からの一方的な恵みとして、わたしに差し出されるものなのです。
新約聖書のギリシャ語で教会を意味するエクレーシアは、呼び出された人々という意味であることを、何度も学んできました。神に呼び出されたわたしの方には、何かのすぐれた点とか選ばれる資格があったからではなく、むしろ、神は小さな貧しい民であり、奴隷の民であったイスラエルを選んでご自分の宝の民とされたように、わたしたちもまた、人間的な知恵や能力、地位において、無に等しい、取るに足りないものであったにもかかわらず、神はあえてそのような貧しい者たちを教会の民としてお選びくださったのです。それは、わたしたちのだれも神のみ前で誇ることがないためです。ただ、主なる神をこそ誇るためです(コリントの信徒への手紙一1章26節以下参照)。
最後に、「世々の」という告白についてですが、これには二つの意味が含まれます。一つは、旧約聖書時代の古い教会の民であるイスラエルから2千年の教会の民の歴史、そのすべての時代のすべての国民、民族が、すべて一つの公同の教会に連なっている聖徒たちであるということ。もう一つには、今地上にある教会と、すでに地上での信仰の戦いを終えて天に移された教会、そしてまた、終わりの日に完成される神の国の民とが、一つの公同の教会に連なっている聖徒たちであるということ。わたしたち教会の民、聖徒たちは、時代と場所とを超えて、永遠普遍の一つの信仰の交わりのうちに招き入れられているのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの救いのご計画は、天地創造の時から世の終わりまで、またみ国の完成の時に至るまで、永遠に続けられています。わたしたち秋田教会の群れと、ここに集められている一人一人もまた、あなたの永遠の救いのご計画の中にあって、導かれておりますことを覚え、心から感謝をささげます。どうか、この地で、この日本の国で、また世界各地において、主キリストのみ名によって立てられている一つ一つの教会が、託されている福音宣教の使命を力強く果たしていくことができますように、聖霊の導きと支えをお与えくださいますように。弱っている群れを、小さな群れを、厳しい信仰の戦いを強いられている群れを、あなたが顧みてくださり、励ましと希望とをお与えください。
〇主なる神よ、争いと混乱の中にある今日の世界を顧みてください。あなたから与えられる平和と共存によって、小さな命や傷つき弱っている命が守られ、重んじられる世界になりますように。
〇天の父なる神よ、不安と恐れの中で生きている人たち、重荷を負って苦しんでいる人たち、道に迷っている人たち、悲しんでいる人たちに、あなたからの助けのみ手が差し伸べられますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。