10月27日説教「イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる」

2024年10月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

           宗教改革記念礼拝(日本キリスト教会神学校日)

聖 書:創世記15章1~6節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる」

 宗教改革者マルチン・ルターは1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルクの教会の扉に、『九十五カ条の論題』を貼り付けました。これが、宗教改革の始まりと言われています。この『九十五カ条の論題』は、当時のローマ・カトリック教会が販売していた「贖宥状」(「免罪符」と一般に言われている)の発行と販売に反対して、ルターが公開の論争を持ちかけたものでした。ルターはその論題の中で、ローマ教皇が販売している贖宥状は、主キリストに対する真実の信仰と真実の悔い改めがなくても、お金で罪の償いをすることができると教えているのであって、それは主キリストの福音から離れた、間違った教えであると、教会を厳しく批判しました。

 贖宥状を購入することによって、自分の罪の償いをすることができるという考えの根源には、人間の行いも救いにとって有効であるというカトリック教会の古くからの理解がありました。カトリック教会はこう教えていました。人間は肉に支配されている弱い者、罪を犯さざるを得ず、神から離れようとする罪びとではあるが、そのような弱い者ではあっても、人間にはまだ少しの善(良いもの)のかけらが残っている。だから、努力して、善い行いを積み重ねることによって、神に近づくことができる。罪の償いのために良い行いをして、いわば罪を帳消しにすることができる。贖宥状の購入もそのような良い行いの一つであり、教会の経済を助ける善行だと理解されていました。

このような、人間が罪から救われるためには主イエス・キリストを信じる信仰だけでなく、人間の良い行いも必要であるという考えは、今日のカトリック教会にも残っていますが、実は、わたしたちプロテスタント教会の中にも、形を変えて常に付きまとっている誘惑なのです。自分のわざを誇り、神に帰すべき栄光を、自らのものに奪い取ろうとする人間の傲慢は、今なお、わたしたちの中に残っています。

宗教改革者ルターやカルヴァンは、そのような人間の罪、誇り、傲慢を、人間から徹底的に取り去り、ただ主なる神だけが人間の罪をおゆるしになるのであって、それは神の側からの一方的に差し出された憐れみであり、恵みであり、愛によるのであるということを、強調したのです。そのことは、聖書そのものが最初から語り、教えていた神の真理であったということを、聖書を深く読むことによって、聖書から再発見したのです。

きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙3章21節以下に目を向けてみましょう。この箇所には、ルターが「信仰義認」という言葉で表現したプロテスタント教会の信仰の中心が語られています。ルターは、それまでラテン語でしか読めなかった聖書を、だれでも自由に読めるようにと、母国語であるドイツ語に翻訳した際に、きょう朗読した少しあとの28節、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という個所を、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰のみによる」と訳しました。原典のギリシャ語にはない、「のみ」という言葉を付け加えました。ルターはこの箇所の意味を強調するために、そしてまた当時のカトリック教会の理解に反論するために、原典にはない「のみ、それだけ」という意味のドイツ語「アライン」をあえて付け加えたのです。それは21節以下で語られている内容からの当然の結論であったからです。

では、21~24節を読んで、ルターが「のみ、だけ」を付け加えなければならなかった必然性をみていきましょう。まず、21節に、「ところが今や、神の義が示されました」とあります。「神の義」とは、神が義なる方、正しい方で、まっすぐで少しの歪みもなく、硬くて、どんな外圧によっても壊れることなく、常にご自身の義、正しさを保ち続けておられる、そのような方であることを意味する、旧約聖書時代から証しされている神の性質のことです。「神の義」と言う場合、神以外のすべてのものは義ではありえない、他のすべてのものは、もちろん人間を含めて、この世界や宇宙を形成しているものすべては、義ではないということを意味しています。この時代に正しいと言われ、この社会で正義と言われるものでも、時が移り場所が移動すればそうではなくなります。どんなにまっすぐなものであれ、どんなに硬いものであれ、風圧や高い熱によって歪み、形を変えていきます。しかしながら、ただ主なる神だけが永遠に、普遍的に、義であられ、ご自身の正しさを保ち続けておられます。それが「神の義」です。

「神の義」の前では、人間はみな不義であり、罪びとです。使徒パウロはこの手紙で1章18節から、神に逆らう人間の不義について、神のみ言葉に背く人間の罪について語っています。神のみ前では、正しい人は一人もいない、神を求める人はだれもいない、すべての人間は罪の中に閉じ込められており、滅びにしか値しないということを繰り返して語っています。【10節b~12節】。ところが、その人間の罪の歴史に神が終止符を打つかのように、神の義が現わされたと、ここで語っているのです。それは、天の父なる神からやって来た、神の義です。人間の側からの関与は全くありません。23節に、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」書かれているように、人間の一切の言葉も行動も、意志や良心と言われるものも、すべてが役立たなくなっているのです。

ここで、もう一人の宗教改革者カルヴァンがそのことを人間の「全的堕落」という言葉で説明したことについて少しふれます。カルヴァンはフランスで宗教改革の運動を受け継ぎ、プロテスタント教会の福音信仰をより深め、高めました。彼が強調した人間の「全的堕落」とは、二つの意味を持っています。一つは、人間は皆、最初に罪を犯したアダム以来、すべての人、全人類が罪の中に閉じ込められており、神のみ前で正しい人は一人もいないという、罪の普遍性です。もう一つは、人間がその全存在、全人格、言葉も行動も、人間の意志や良心も、人間全体が罪の支配下にあって、罪に対して抵抗することが全くできず、救いに至るひとかけらも人間の中に見いだすことができないとカルヴァンは言います。

カルヴァンが人間の「全的堕落」を強調したのは、もちろん人間を罪の中にいつまでも閉じ込めておくためではなく、そのような罪の人間を救ってくださる神の愛と恵みの大きさ、主イエス・キリストの福音の大きさ、豊かさを強調するためであったのは言うまでもありませんが、それによってローマ・カトリック教会の、人間の良き行いも救いに役立つという教えに対して徹底的な否を突きつけるためであったのです。

ルターもカルヴァンも、主なる神のみ前にある人間の罪ということを、真剣に、また冷静に、そしてまた厳格にとらえました。人間に対して少しも楽観的な、中途半端な、あるいは妥協的な見方をしませんでした。それは、彼らが主なる神を真剣にとらえ、主なる神への恐れと尊敬とを失わず、そしてまた主なる神に対する強い信頼と徹底した服従の信仰を持ち続けていたからです。主なる神の救いのみわざに絶対的により頼み、主イエス・キリストの父なる神こそが全人類の唯一の救いを完全に成し遂げてくださるとの信仰に生きていたからです。その信仰から、人間とは何者かを見たのです。

21節の「神の義が示された」をさらに説明して、22節では「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」とパウロは語ります。この節には深い内容が含まれており、また議論の多い箇所でもあります。「イエス・キリストを信じること」は直訳では「イエス・キリストの信仰」、あるいは「イエス・キリストの信実」となります。二つの理解が可能です。一つは、「主イエスご自身の父なる神に対する信仰による神の義」という意味です。もう一つの理解では、「わたしたちが主イエス・キリストを信じる信仰による神の義」という意味です。『新共同訳』では後者の理解で翻訳しています。その両者を含んでいると理解してよいと思います。というのは、わたしたちが主イエスを信じる信仰は、主イエスが父なる神に対して全き服従をささげ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって神の義を満たされ、成就された主イエスご自身の信実とその救いのみわざを信じる、それがわたしたちの信仰ですから、その両者を含んでいると言えるからです。

つまり、この箇所では主イエスご自身が明らかにされた神の義、主イエスご自身によってなし遂げられた神の義、成就された神の義が語られているのです。この後で、24節では、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して」と語られ、25節では、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と語られているように、主イエス・キリストの十字架によって成し遂げられた神の義です。主イエスはこの十字架の死に至るまで、忠実に父なる神に服従されることによって、神の義を満たされ、神の義をお示しになったのです。神の義、神の正しさとは、ご自身の最愛のみ子をもわたしたち人間の罪を贖うためにおささげくださった神の愛によって示されたのです。

また、22節の後半を直訳すると、「その神の義は信じるすべての人たちに及ぶ」となります。この文章は、神の義の働きの無限の大きさを暗示しています。主イエスが成し遂げてくださった神の義は、圧倒的な力と豊かで限りなく大きな恵みによって、信じるすべての信仰者に及ぶということがここでは強調されているのです。それを受け取る人間の側には、何一つ制限はありません。ただ信仰をもってこれを受け入れるほかにありません。

最後に、宗教改革の実りの一つとして、1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』60問を紹介します。

問60 どのようにしてあなたは神のみ前で義とされるのですか。

答   ただイエス・キリストを信じるまことの信仰によってのみです。…神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも、罪びとであったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従を、すべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れるときだけなのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによって成し遂げてくださった十字架の救いの恵みを、どうかわたしたち一人一人に、また全世界のすべての人々にもお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月20日説教「わたしたちに祈りを教えてください」

2024年10月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちに祈りを教えてください」

 わたしたちが礼拝等で祈っている「主の祈り」は、マタイよる福音書6章9節から13節に、頌栄の部分(「国とちからと栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」)を付け加えたものですが、「主の祈り」の原型は、きょう朗読されたルカ福音書11章にもあります。いずれも、主イエスが弟子たちに「このように祈りなさい」と教えてくださった「主の祈り」です。両者を比較してみると、父なる神に対する呼びかけが少し違っているほかに、ルカ福音書の方では第3の祈りが省略されていること、また言葉遣いが両者で若干違っています。これらの違いについては、これからルカ福音書の中で語られている「主の祈り」を続けて学んでいきますから、その際に説明していくことにします。

 では、1節を読んでみましょう。【1節】。まず、わたしたちはここでも主イエスご自身の祈りのお姿を目にします。ルカ福音書は、他の福音書よりも多く主イエスの祈りのお姿を記録していることをわたしたちはすでに学んできました。3章21節以下では、主イエスが洗礼をお受けになられたとき、「主イエスが祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と書かれていました。6章12節には、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とありました。9章18節以下には、主イエスが一人で祈っておられたときに、ペトロの信仰告白がなされました。9章28節以下では、主イエスが3人の弟子たちを連れて山に登られ、そこで祈っておられたときに、主イエスのお姿が真っ白に輝きました。「山上の変貌」と言われる場面です。それからこのあとで、22章39節以下には、十字架につけられる前日に、オリーブ山で汗を血の滴りのように地に落としながら祈られたお姿が描かれ、23章34節では、十字架につけられたその痛みと苦悩の中で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたことが書かれています。

 主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスは祈りによって、父なる神との交わりを深められ、神のみ心を尋ね求められ、祈りによって父なる神のみ心に服従され、祈りによってあらゆる試みに勝利され、十字架の死に至るまで、従順であられました。祈りはすべての主イエスのお働き、救いのみわざの原動力であり、力と勇気の源であり、希望と勝利の確かな保証でもありました。

 祈りはまた、わたしたち信仰者の信仰生活の中心でもあります。祈りのない信仰生活は原動力を持たない車のように、すぐに止まってしまい、やせ衰えていくしかありません。祈りは信仰者にとって、なくてならないもの、必要不可欠なものです。1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』では、祈りは、第三部「救われた人の感謝の生活」の中で取り上げられ、第116問ではこのように教えられています。「なぜキリスト者には祈りが必要なのですか」。その答えは、「なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」。祈りによって、わたしたちは主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされ、救われていることを神に感謝し、また神がわたしたちにお与えくださろうとしておられる恵みを、喜びをもって受け取るのです。

 主イエスの祈りのお姿に刺激されて、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。ヨハネとは、洗礼者ヨハネのことです。3章に書かれていたように、ヨハネは主イエスが登場される少し前に、来るべきメシア・救い主がすく近くまで来ておられるゆえに、罪を悔い改めて、メシアをお迎えする備えをせよと説教し、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。彼の説教は激しく、また信仰と情熱にあふれていたので、多くの人々が彼のもとに集まりました。ヨハネ自身は、「自分はメシア・キリストではない。自分の後においでになる方こそがメシアである」と証言していました。

ヨハネはやがてガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって処刑されますが、彼の弟子たちは主イエスの弟子たちとは別のグループを作って活動を続けていたようです。ヨハネのグループはヨハネから教えられた自分たちを特徴づける祈りを持っていたと思われます。それを見た主イエスの弟子たちは、自分たちにも独自の祈りが欲しいと願って、教えられたのが「主の祈り」です。

ここで、「主の祈り」が持っている一つの特色に気づきます。それは、「主の祈り」が主イエス・キリストを信じる信仰の民、教会の民を特徴づけ、またその民を一つに結びつける働き、役割があるということです。「主の祈り」はわたしたちを主イエス・キリストに結びつけます。また、共に「主の祈り」を祈っている信仰共同体を一つに結びつけます。それだけでなく、「主の祈り」は全世界のすべての教会、すべてのキリスト者を一つの神の民として結びつけます。「主の祈り」は世界を包む祈りであると言われます。

「わたしたちにも祈りを教えてください」という願いには二つの意味が含まれています。一つには、祈りそのものについて教えてくださいという意味です。祈りとは何か、祈るとはどういうことなのか、正しい祈りとは何か、あるいは祈りの重要性とか、なぜ祈るべきなのか、それを教えてくださいという願いです。二つには、何を祈るべきなのか、祈りの内容についてです。

弟子たちのこの願いは、わたしたちすべての人間の願いを代弁していると言えます。弟子たちもわたしたちも、主イエスを信じる信仰者にとって祈りとは何かとか、何をどのように祈るべきなのかということを、主イエスから教えられなければならないからです。主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、救われているわたしたちにふさわしい祈りとは何かを教えられなければなりません。当時のユダヤ教の祈りとは違う、また洗礼者ヨハネの弟子たちの祈りとも違う、主イエスの弟子にふさわしい祈りについて、主イエスから教えられなければなりません。

そうでなければ、わたしたちは多く間違った祈りの理解をし、間違った願いを祈る者だからです。自分の欲望や願いをかなえるためだけの祈りであるならば、それはどれほどに真剣な祈りであっても、正しい祈りであるとは言えません。そのような祈りは真実の信仰を養う祈りではないでしょうし、真実の信仰共同体としての教会を健全に建てることにはならないでしょう。わたしたちはしばしば、間違ったものを求め、本当に必要ではないものを、むしろ信仰にとって有害なものを求めたりもするのです。わたしたちの命を本当に養うために何を祈り求めるべきなのかを、主イエスから教えられなければなりません。主イエスこそが、わたしたちを神の真理に導き、わたしたちを本当の命へと導かれる唯一の救い主であられるからです。わたしたちを罪から救うために、ご自身がご受難と十字架の死への道をお選びになられたほどに、わたしたちを愛してくださった主であられるからです。

ここで、主イエスがわたしたちに「主の祈り」を教えてくださったことの、根本的な意味について考えてみましょう。それは、主イエスがわたしたちに祈りの道を開いてくださったということです。わたしたち人間はそもそも神を知らず、神から遠く離れ、神に背いている罪びとでした。神との交わりは破壊され、閉ざされていました。わたしたち人間と神との間には、罪という厚い壁があり、深い溝があって、わたしたちは神と語り合うことができず、神に祈ることもできませんでした。

けれども、そのようなわたしたち罪びとのために、主イエスは苦難と十字架への道を歩まれ、わたしたちの罪を贖い、罪の奴隷からわたしたちを解放するために、ご自身の尊い命を犠牲としておささげくださったのです。今や、わたしたちは主イエス・キリストによって神との交わりを回復され、神の子どもたちとされ、神と親しく会話し、神に祈り求めることができるようになったのです。わたしたちに祈りの道が開かれたのです。「主の祈り」で、神を「父よ」と呼びかけることができるのはそのためです。また、祈りの中で、神を「あなた」と呼ぶことができるのもそのためです。

では次に、「主の祈り」の内容について学んでいきましょう。きょうは、神に対する呼びかけと「主の祈り」全体の構造を取り上げます。

まず、呼びかけですが、ルカ福音書では「父よ」となっています。マタイ福音書では「天におられるわたしたちの父よ」(式文では、「天にまします我らの父よ」)となっています。神に対する呼びかけだけでなく、祈りの内容にも少し違いがみられますが、なぜ、マタイとルカで違いがあるのかについては、主イエスが教えられた「主の祈り」がそれぞれの地域の信者や教会に伝承されていく過程で、何らかの事情でいくつかの違いが生じたのではないかと推測されています。神に対する呼びかけの違いもその理由が考えられますが、もう一つの説明として、主イエスご自身は神を単純に「父よ」と呼ばれましたが、ルカ福音書ではその主イエスご自身の呼びかけが強く反映されていると考えられます。

他方、旧約聖書では神を「父よ」とか「わたしの父よ」と呼びかける例はほとんどありません。神は人間からはるか遠い天におられる聖なる存在と考えられていたからです。マタイ福音書の呼びかけは、その旧約聖書の伝統が強く反愛されていると考えられます。

いずれにしても、いと高き天におられる神を「わたしたちの父よ」とか「父よ」と呼びかけることが許されるのは、主イエスがわたしたちのために開いてくださった救いの道があるからにほかなりません。主イエスによって、神はわたしたちの永遠の父となってくださったのです。父親がわが子を愛するように、神はわたしたち一人一人を永遠に愛してくださいます。ご自身の一人子なる主イエスを十字架の死に引き渡されるほどにわたしを愛してくださいます。

「主の祈り」の全体の構造は、前半では「御名」「御国」について、すなわち神ご自身のことについて祈られており、後半で「わたしたち」のことが祈られているという構造は、マタイ福音書とルカ福音書は同じです。これは、神が神として知られ、信じられ、あがめられているときにこそ、わたしたち人間の幸いがあるということを語っています。わたしたちが主の日ごとに神を礼拝し、神をあがめ、神に栄光を帰し、神のみ言葉に聞き従うときに、わたしの真実の幸いと永遠の喜びと、尽きることのない希望とをわたしたちは祈り求めることが許されるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちの永遠の父となってくださったことを、感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたのみ国の民として、日々養い育ててくださいますように。

〇主なる神よ、この地にあなたの義と平和とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月13日説教「わたしは、あってある者である(二)」

2024年10月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章14~22節

    ヨハネによる福音書8章21~30節

説教題:「わたしは、あってある者である(二)」

 旧約聖書の民であるイスラエルは、出エジプト記ではヘブライ人と呼ばれていますが、彼らはモーセの十戒の第三の戒めである、「あなたの神の名前をみだりに唱えるな」を厳格に守りとおして、神の名前を口に出すことを避けてきたので、いつしか神の名前をどのように発音するのかを忘れてしまいました。旧約聖書の原典であるヘブライ語聖書を朗読する場合には、神の名前は4つのヘブライ語の子音(英語表記に移せばYHWH)で表記されていますが、その箇所はヘブライ語で「主」を意味する「アドーナイ」と読むのが習わしです。日本語の翻訳でも、神の名前が書かれてある箇所は「主」と訳されています。ちなみに、きょうの箇所では、15節と16節、また18節の二つの「主」は皆、神の名前であるヘブル語の4つの子音が書かれています。ここを読むときには「アドーナイ」と発音する決まりになっています。

 そのようなわけで、神の名前を正確にどう発音するのかは今日でもわかっていませんが、多くの学者は「ヤーウェ」ではないかと推測しています。かつては、神の名前は「エホバ」であるとされていましたが、この呼び方は4つの子音文字YHWHと、「主」を意味するヘブライ語の「アドーナイ」の母音を組み合わせた、便宜的な読み方であって、正確な発音ではありません。

 神の名前の意味については、神ご自身がモーセに対して説明しておられるように、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)、これが神の名前の意味です。ここでは、神ご自身が第1人称で「わたしはある」と言っておられますが、モーセがそれをイスラエルの民に伝える際には「彼はある」と言い換えたと推測されます。聖書原典に書かれている子音4文字は3人称単数の形になっていることから、そのように考えるのが一般的です。

 では、神ご自身がここで明らかにされた神の名前について、その意味をさらに深く学んでいくことにしましょう。【14~15節】。わたしたちはここで改めて、創世記の神と出エジプト記の神は同じ神であるということを確認することができます。創世記では、神は族長アブラハムの神として、イサクの神としてまたヤコブの神として、彼らに現れ、語られ、彼らの歩みを導かれました。そのアブラハム、イサク、ヤコブの神と、今モーセに語っておられる神とが同じ神であり、その神が今ご自身の名前をモーセに明らかにしておられるのです。

 創世記の最後50章と、出エジプト記の最初1章との間には、400年以上の空白がありました。ヤコブすなわちイスラエルの12人の子どもたちがエジプトに移住してからの400年余りの彼らの歩みについては、聖書は何も語っていません。モーセ自身は、エジプトの王宮で育てられ、40歳になってからの40年間はアラビア半島のミディアンの地で、祭司エトロの家で羊を飼っていました。祭司エトロが族長たちの神と同じ神に仕えていたのかも分かりません。モーセに現れた神は一体どなたなのでしょうか。モーセとはいったい何者であり、どの神に仕える者なのでしょうか。それらの疑問が、今ここで神ご自身によって、すべて明らかにされているのです。

 すなわち、族長たちの神は今ここでモーセに現れた主なる神と同じ神であり、モーセは、アブラハム、イサク、ヤコブが仕えた神と同じ神に今仕えているのだということが明らかにされたのです。創世記と出エジプト記とが連続しており、同じ神がその二つの書の主人公であられ、同じ神がこの二つの書で救いのみわざを行っておられるのだということが明らかにされたのです。さらにわたしたちは、創世記で学んできてことを思い起こしながら、このように言うことができるでしょう。アブラハム、イサク、ヤコブに語られた神の約束・契約は、400年以上の時を経過したこの出エジプト記においても、モーセに対しても、同じように継続されているのであり、「わたしはあなたの子孫を祝福し、星の数ほどに増やす」という約束と、「この地カナンにあなたの子孫を導き、その地をあなたの嗣業として与える」という神の約束が、今も有効なのであり、その実現に向かって進んでいるのだということです。

そのことについては、すでに2章23節以下で語られていましたし、モーセに対しても7~10節で語られていました。そしてさらに、16節以下でも、繰り返して語られています。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、ヤコブ・イスラエルの子孫がエジプトに移住した400年以上の歩みを導かれた神であられ、また彼らが今エジプトの奴隷の家で強制労働に苦しめられ、叫びをあげている、その苦難の民と今も共におられる神であり、彼らの叫びを聞いておられ、彼らをエジプトの奴隷の家から導き出そうと決意された神であり、そしてまた、そのためにモーセを指導者として遣わされる神であられるのです。それらのすべてを導いておられる主なる神が、ここでご自身の名前を明らかにしておられるのです。

ではその名前の意味するところを、今日の聖書のみ言葉との関連でみていくことにしましょう。「わたしはある。わたしはあるという者だ」、口語訳聖書では「わたしは、有って有る者」と訳されていましたが、このヘブライ語は文法的には未完了形の動詞ですから、現在と未来のことを表現しています。そこから、さまざまな翻訳が試みられていることを、前回ご紹介しました。「わたしはあるであろう」、「わたしはなろうとする者になる」「わたしは存在するものを存在せしめる」などです。

多くの学者は、この神の名前には、存在の根源的な意味が込められていると推測しています。多くの解釈がなされています。それらを分かりやすく3つのポイントにまとめてみましょう。

一つには、神は真の存在者であるということです。神が「わたしはある」と言われるとき、他のすべてのものは真の存在者ではありえないということを神が宣言しておられるということです。ただ、神だけが唯一、「わたしはある」ということができる真の存在者なのです。

第二には、神はいつでも、どこにあっても「わたしはある」と言われます。すなわち、神は永遠者であり、普遍者であるということです。神がおられなかった時、時代はありません。神がおられない場所、世界はありません。

以上の二つのことは、わたしたち人間の存在と深くかかわっています。わたしたち人間は、真の存在者であられる神によって、自分の存在を与えられています。わたしの存在も、全世界、全宇宙のすべて存在も、神によって支えられています。真の存在者である神を離れては、だれも、何ものも、存在することはできません。また、神がわたしたち一人一人の限りある人生に常に伴っておられることを信じ、その神はいついかなる時にもわたしを離すことはない、わたしを見捨てることはないと信じることが、わたしたちの信仰となるのです。この信仰に生きるときにこそ、わたしは神のみ前で、また神と共に、真の存在者であることでできるのです。

三つめに挙げられることは、神は「わたしはある」と言われるゆえに、他のいかなるものにも依存しておらず、自由な主権者として存在しておられ、行為されるということです。人間は多くのものによって制限を受けています。自分がしたいと思うこと、このようになりたいと願うこと、その多くが自分の内からも外からも制限を受け、そのようにはなりません。

けれども、主なる神には何も制限がないということは、わたしたちにとっては大きな恵みであり、希望です。神は義と平和の神であり、愛と慈しみに富みたもう神であられるからです。神はその全能の力をわたしたちのためにお用いくださいます。そして、どのような状況の中でもご自身の主権を妨げられることなく、自由にみ心を行うことでできるのです。

以上挙げた、「わたしはある」という名前から推測される神の特質と神のみわざは、出エジプト記3章のみ言葉からも確認することができます。7節以下にこのように書かれています。【7~9節】。エジプトの奴隷の家では、ヘブライ人の人権は無視され、その命と存在は軽視され、踏みにじられています。けれども、「わたしはある」という名前の主なる神が、彼らと共におられるゆえに、彼らは見捨てられた人たちではありません。死んでいる民族ではありません。主なる神によって顧みられ、見守られている、神の民です。

そしてまた、主なる神はモーセに対して、10節では「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われ、14節では、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」と言われました。モーセは「わたしはある」という名前の主なる神によって、モーセになるのです。11節で、「わたしは何者でしょう」と言って、自分がだれであるのか、何をなすべきかを知らずに、不安と恐れの中にあったモーセは、今や「わたしはある」という名前の主なる神によって新しい務めを与えられ、新しいモーセという人間とされ、神によって遣わされていくのです。モーセもまた神のみ前で彼の存在を与えられるのです。

16節以下を読みましょう。【16~17節】。今や、モーセは神の言葉をイスラエルの民に伝える神の代弁者とされ、また神の救いのみわざに仕える者とされているのです。モーセは、イスラエルの長老たちの前でも、エジプト王ファラオの前でも、少しも恐れることもたじろぐこともなく、神の言葉の代弁者として、大胆に語ることができます。「わたしはある」という名前の主なる神が、モーセにこの存在とこの務めとをお与えになったからです。

最後に18節の後半の言葉に注目しましょう。「どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」。ここには、イスラエルの出エジプトの最終目的が暗示されています。すなわち、彼らがエジプトの奴隷の家から救い出されるのは、彼らが神を礼拝する民になるためだということです。「わたしはある」という名前の主なる神によって、自らの存在を守られ、すべての束縛から解放され、自由にされた民イスラエルは、神を礼拝する民となることによって、自らのその存在を再確認するのです。

わたしたちもまた主の日ごとに神を礼拝することによって、主イエス・キリストによって罪ゆるされ、永遠の命の約束を与えられているという自らの存在を再確認するのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物を、み言葉によって、無から創造されました。また、今も、創られた全被造物を、み言葉をもって支え、導いておられます。わたしたちはあなたを離れてはひと時も存在することも、命をつなぐこともできません。主よ、どうか、あなたのみ子、わたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストによって、わたしたちにまことの命をお与えください。わたしたちと罪と死と滅びから救い出し、あなたのみ国の民としてください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月6日「主の委託により正しくみ言葉を宣べ伝える教会」

2024年10月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(36)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    テモテへの手紙二4章1~8節

説教題:「主の委託により正しくみ言葉を宣べ伝える教会」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は、キリストの体、神に召された世々の聖徒の……待ち望みます」。

この箇所は、キリスト教教理では「教会論」と言われますが、きょうは教会の務め、教会の使命とは何かということについて、「主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え」という個所を、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいきます。

ここには、教会の務め、使命について3つが挙げられています。一つは、「み言を宣べ伝えること」、二つには「聖礼典を行うこと」、三つめは「信徒を訓練すること」です。この三つのことすべてに「主の委託により」とう言葉がかかっているのか。それとも、初めの二つのこと、すなわち「み言を宣べ伝えること」と「聖礼典を行う」ことだけが主の委託によることと考えるべきなのか、理解が分かれるところですが、わたくしは3つすべてが主の委託によると理解するのがよいと考えます。これから何回かにわたって、これら3つの教会の務めについて学んでいきますが、そのいずれも、主、すなわち主イエス・キリストによって直接に、あるいはまた間接的に命じられ、委託されているということを福音書などから確認できるからです。

16世紀の宗教改革者カルヴァンは『キリスト教綱要』という書物の中で、真実の教会の目印として二つを挙げています。一つは、神の言葉が正しく説教され、また聞かれていること。二つには、聖礼典(洗礼式と聖餐式を指します)が主の委託に従って執行されていること、この二つです。カルヴァンは信徒の訓練については教会の本質的な目印からは区別しているように思われますが、一般に改革教会は、『日本キリスト教会信仰の告白』のように、三つ目の信徒の訓練も教会の目印として加えています。

1560年に制定された『スコットランド信仰告白』第18条ではこのように告白されています。「真の教会の目印は、……まず第一に神の言葉の真の説教であって、その言葉によって神はご自身をわれわれに啓示される。第二に、イエス・キリストの聖礼典の正しい執行であるが、それは神の言葉と約束をわれわれの心に封印し、確かにするために神の言葉と結びついていなければならない。最後に、神の言葉の命令に従った教会訓練の厳しい遵守であって、それによって悪徳が抑制され、善い行いが養われるのである」。1561年に制定された『ベルギー信仰告白』でも同様です。わたしたちの教会の信仰告白でも、これらの伝統的な信仰告白と同様に、主から委託された務め、使命として、「正しくみ言を宣べ伝えること」、「聖礼典を行うこと」、そして「信徒を訓練すること」を挙げているのです。

ではまず、「主の委託により」という告白について学んでいきましょう。第一に重要なポイントは、教会は主イエス・キリストからの委託を受け、その委託に応え、主イエス・キリストに委託されたことを行うことによって存在しており、生きているのだということです。教会に集まって来ている人たちが協議をして、教会でどんな活動を行うかとか、どんな事業を展開し、何を語り、何を教えるべきかを考えだすのではありませんし、そうしなければならないのでもありません。教会がなすべきことはすべて主イエス・キリストがお命じになり、お示しくださいます。このことは、教会にとってどんなにか大きな恵みであり幸いであることでしょうか。たとえ、時代がどのように変わろうとも、民族や言語が違っていても、あるいは教会の教派や指導者が違っていても、教会は迷うことなく、ためらうことなく、主イエス・キリストから託されたことを一筋に励むべきであり、またそうしてよいのです。

もし、教会が主イエス・キリストの委託に不忠実であったり、委託されていること以外によって生きようとするならば、教会は真実の主キリストの体なる教会ではなくなるでしょう。まことの命を失った、単なる人間集団になってしまうほかにないでしょう。教会は主イエス・キリストの委託に応えることによってこそ、またそのようにしてのみ、真実の教会となり、生きた教会となるのです。

次に、主によって委託されている内容についてみていきましょう。第一に挙げられているのが、「正しくみ言を宣べ伝えること」です。主イエスがどのようにしてこの委託をされたのかを聖書から確認していきましょう。

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書をそう呼びます)では、復活された主イエスが弟子たちに、全世界のすべての人々に福音を宣べ伝えなさいとお命じになったことが、それぞれ多少違った表現で語られています。マタイ福音書28章16節以下、マルコ福音書16章15節以下、ルカ福音書24章44節以下です。ルカ福音書24章44節以下を読んでみましょう。【44~48節】(161ページ)、もう1か所、使徒言行録1章8節を読みましょう。この箇所は、主イエスが十字架で死んでから三日目に復活され、さらに40日目に天に昇られる直前に語られたみ言葉です。【8節】(213ページ)。このほかにも、主イエスがみ言葉を宣べ伝えなさいと弟子たちに、また教会にお命じになったことを記している個所はいくつもあります。

十字架で死なれ三日目に復活された主イエスは、弟子たちに、またのちの教会に、主イエスご自身が宣べ伝えられた神のみ言葉、神の国の福音、またその成就のみわざを、全世界のすべての人々に語り伝えなさいとお命じになりました。教会はこの主イエスのご命令に従うことによって、いわば主イエスのみわざを受け継ぎ、主イエスのみわざに仕えるのです。

それでは、宣べ伝えるべき「み言(ことば)」とは具体的にどのような内容を言うのでしょうか。『信仰告白』では、尊敬や丁寧を意味する「み」と、漢字の「言葉」の「言(げん)」とを組み合わせて、「みことば」と読ませています。つまりこの言葉とは、人間が語る人間の言葉ではなく、「神の言葉」であるということを意味しているのです。「神の言葉」とは、旧約聖書と新約聖書に書かれている神の言葉のことです。教会は「神の言葉」を宣べ伝える務め、使命を主から委託されているのです。それは、なんと重く、また光栄ある務めであることでしょう。しかも、教会はその神の言葉を宣べ伝える務めを、人間の言葉をもってなすのです。それは、主の委託がなければ到底果たしうる務めではありません。教会はその委託に大きな恐れと感謝とをもって応えるのです。

宣べ伝えるべき言葉は神の言葉ですが、より具体的には、肉となられた神の言葉である主イエス・キリストを宣べ伝えることであり、主イエス・キリストの救いのみわざを語ることです。新約聖書では様々な言い方がなされています。「主イエスの福音」「罪のゆるしと悔い改めの福音」「十字架と復活の福音」「和解の福音」などです。これらの神の言葉は、ただ教会だけが語ることができ、宣べ伝えることができる「福音」です。主なる神がみ子・主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざなのです。教会以外では、その福音を聞くことはできません。そのような、特別な「神の言」を宣べ伝える務めを教会は委託されているのです。その務めの重さ、また光栄を覚えざるを得ません。

「正しく」とはどのような意味を持つのでしょうか。第一には、それが神の言葉であるゆえに、神の言葉であるにふさわしく語り、また聞かれなければならないということです。聖書の言葉、主イエス・キリストの福音は、永遠に変わらない、生きた、命を持つ、人を生かす、救いの恵みに満ちた言葉ですから、そのような言葉として宣べ伝えられなければなりません。したがって、み言葉が宣べ伝えられるときに、そこで罪のゆるしという出来事が起こり、罪に死んでいた人が新しい命に復活するという出来事が起こり、滅びいくこの世に属する者が永遠なる神の国の民とされるという出来事が起こるのです。

しかし、そもそも人間は神の言葉を語ることができるのか、人間の集まりである教会が神の言葉を宣べ伝えることができるのかという疑問が生じるかもしれません。その疑問に対しては、多くの神学的な議論がなされなければなりませんが、きょうは単純明快な答えとして、それが教会に対する主の委託だからと答えるにとどまりましょう。天から下って来られ、人となられた主イエス・キリストが、わたしたち肉に過ぎない者たちに、永遠なる神のみ言葉を、ご自身の尊い福音という宝を、委託されたからです。教会はその委託によって、神の言葉を、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるという務めを果たすことができるし、また果たすべきです。当然、そこには神の言葉に対する恐れと慎み、感謝と喜びがあり、それとともに、いなそれ以上に、聖霊なる神のお導きがなければ、教会はその務めを果たすことはできません。

「正しく」とは、神のみ心に従ってということでもあります。人間の勝手な判断や理解を持ち込むのではなく、神がお語りになったその意図に従って、それに何も付け加えず、それから何も差し引かずに語るということです。そうは言っても、教会の長い歴史の中では、神の言葉が人間の思想とかこの世の価値観とかによってねじ曲げられ、ゆがめられるということが幾度も起こりました。今でもその危険が付きまとっています。

そこで、教会は神学という学問に真剣に取り組んできました。何が正しい神の教えであり、何が正しい聖書の理解であるかを、教会は絶えず吟味し、学びなおし、研究を積み重ねることに努力してきました。そのようにして形成された聖書の教えを「キリスト教教理」と言います。教会の宣教活動は、その正統的な教理に合致していなければなりません。

最後に、神のみ言葉を宣教する方法、手段についてです。これも「正しく」なければなりません。旧約聖書の時代には、モーセの十戒の第二戒で、神の像を造ることを禁止しています。目に見える像や形で神を表現したり、それを礼拝するのではなく、神のみ言葉を聞き、それを聞いて信じるという信仰によって、教会は神のみ言葉の命と力とを証しする以外にありません。それゆえに、わたしたちは主の日ごとに教会の礼拝堂に集い、共に神を礼拝しつつ、神の言葉の説教を聞くのです。主の日ごとの礼拝こそが、「正しく神のみ言を宣べ伝える」という教会の務め、使命の中心であり、基礎であり、出発点なのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なるみ言葉は、世が移り、草木が枯れようとも、決して変わることなく、わたしたちの命の源です。どうか、教会があなたのみ言葉を正しく語り、信じ、そのみ言葉に従っていくことができますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。