10月13日説教「わたしは、あってある者である(二)」

2024年10月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章14~22節

    ヨハネによる福音書8章21~30節

説教題:「わたしは、あってある者である(二)」

 旧約聖書の民であるイスラエルは、出エジプト記ではヘブライ人と呼ばれていますが、彼らはモーセの十戒の第三の戒めである、「あなたの神の名前をみだりに唱えるな」を厳格に守りとおして、神の名前を口に出すことを避けてきたので、いつしか神の名前をどのように発音するのかを忘れてしまいました。旧約聖書の原典であるヘブライ語聖書を朗読する場合には、神の名前は4つのヘブライ語の子音(英語表記に移せばYHWH)で表記されていますが、その箇所はヘブライ語で「主」を意味する「アドーナイ」と読むのが習わしです。日本語の翻訳でも、神の名前が書かれてある箇所は「主」と訳されています。ちなみに、きょうの箇所では、15節と16節、また18節の二つの「主」は皆、神の名前であるヘブル語の4つの子音が書かれています。ここを読むときには「アドーナイ」と発音する決まりになっています。

 そのようなわけで、神の名前を正確にどう発音するのかは今日でもわかっていませんが、多くの学者は「ヤーウェ」ではないかと推測しています。かつては、神の名前は「エホバ」であるとされていましたが、この呼び方は4つの子音文字YHWHと、「主」を意味するヘブライ語の「アドーナイ」の母音を組み合わせた、便宜的な読み方であって、正確な発音ではありません。

 神の名前の意味については、神ご自身がモーセに対して説明しておられるように、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)、これが神の名前の意味です。ここでは、神ご自身が第1人称で「わたしはある」と言っておられますが、モーセがそれをイスラエルの民に伝える際には「彼はある」と言い換えたと推測されます。聖書原典に書かれている子音4文字は3人称単数の形になっていることから、そのように考えるのが一般的です。

 では、神ご自身がここで明らかにされた神の名前について、その意味をさらに深く学んでいくことにしましょう。【14~15節】。わたしたちはここで改めて、創世記の神と出エジプト記の神は同じ神であるということを確認することができます。創世記では、神は族長アブラハムの神として、イサクの神としてまたヤコブの神として、彼らに現れ、語られ、彼らの歩みを導かれました。そのアブラハム、イサク、ヤコブの神と、今モーセに語っておられる神とが同じ神であり、その神が今ご自身の名前をモーセに明らかにしておられるのです。

 創世記の最後50章と、出エジプト記の最初1章との間には、400年以上の空白がありました。ヤコブすなわちイスラエルの12人の子どもたちがエジプトに移住してからの400年余りの彼らの歩みについては、聖書は何も語っていません。モーセ自身は、エジプトの王宮で育てられ、40歳になってからの40年間はアラビア半島のミディアンの地で、祭司エトロの家で羊を飼っていました。祭司エトロが族長たちの神と同じ神に仕えていたのかも分かりません。モーセに現れた神は一体どなたなのでしょうか。モーセとはいったい何者であり、どの神に仕える者なのでしょうか。それらの疑問が、今ここで神ご自身によって、すべて明らかにされているのです。

 すなわち、族長たちの神は今ここでモーセに現れた主なる神と同じ神であり、モーセは、アブラハム、イサク、ヤコブが仕えた神と同じ神に今仕えているのだということが明らかにされたのです。創世記と出エジプト記とが連続しており、同じ神がその二つの書の主人公であられ、同じ神がこの二つの書で救いのみわざを行っておられるのだということが明らかにされたのです。さらにわたしたちは、創世記で学んできてことを思い起こしながら、このように言うことができるでしょう。アブラハム、イサク、ヤコブに語られた神の約束・契約は、400年以上の時を経過したこの出エジプト記においても、モーセに対しても、同じように継続されているのであり、「わたしはあなたの子孫を祝福し、星の数ほどに増やす」という約束と、「この地カナンにあなたの子孫を導き、その地をあなたの嗣業として与える」という神の約束が、今も有効なのであり、その実現に向かって進んでいるのだということです。

そのことについては、すでに2章23節以下で語られていましたし、モーセに対しても7~10節で語られていました。そしてさらに、16節以下でも、繰り返して語られています。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、ヤコブ・イスラエルの子孫がエジプトに移住した400年以上の歩みを導かれた神であられ、また彼らが今エジプトの奴隷の家で強制労働に苦しめられ、叫びをあげている、その苦難の民と今も共におられる神であり、彼らの叫びを聞いておられ、彼らをエジプトの奴隷の家から導き出そうと決意された神であり、そしてまた、そのためにモーセを指導者として遣わされる神であられるのです。それらのすべてを導いておられる主なる神が、ここでご自身の名前を明らかにしておられるのです。

ではその名前の意味するところを、今日の聖書のみ言葉との関連でみていくことにしましょう。「わたしはある。わたしはあるという者だ」、口語訳聖書では「わたしは、有って有る者」と訳されていましたが、このヘブライ語は文法的には未完了形の動詞ですから、現在と未来のことを表現しています。そこから、さまざまな翻訳が試みられていることを、前回ご紹介しました。「わたしはあるであろう」、「わたしはなろうとする者になる」「わたしは存在するものを存在せしめる」などです。

多くの学者は、この神の名前には、存在の根源的な意味が込められていると推測しています。多くの解釈がなされています。それらを分かりやすく3つのポイントにまとめてみましょう。

一つには、神は真の存在者であるということです。神が「わたしはある」と言われるとき、他のすべてのものは真の存在者ではありえないということを神が宣言しておられるということです。ただ、神だけが唯一、「わたしはある」ということができる真の存在者なのです。

第二には、神はいつでも、どこにあっても「わたしはある」と言われます。すなわち、神は永遠者であり、普遍者であるということです。神がおられなかった時、時代はありません。神がおられない場所、世界はありません。

以上の二つのことは、わたしたち人間の存在と深くかかわっています。わたしたち人間は、真の存在者であられる神によって、自分の存在を与えられています。わたしの存在も、全世界、全宇宙のすべて存在も、神によって支えられています。真の存在者である神を離れては、だれも、何ものも、存在することはできません。また、神がわたしたち一人一人の限りある人生に常に伴っておられることを信じ、その神はいついかなる時にもわたしを離すことはない、わたしを見捨てることはないと信じることが、わたしたちの信仰となるのです。この信仰に生きるときにこそ、わたしは神のみ前で、また神と共に、真の存在者であることでできるのです。

三つめに挙げられることは、神は「わたしはある」と言われるゆえに、他のいかなるものにも依存しておらず、自由な主権者として存在しておられ、行為されるということです。人間は多くのものによって制限を受けています。自分がしたいと思うこと、このようになりたいと願うこと、その多くが自分の内からも外からも制限を受け、そのようにはなりません。

けれども、主なる神には何も制限がないということは、わたしたちにとっては大きな恵みであり、希望です。神は義と平和の神であり、愛と慈しみに富みたもう神であられるからです。神はその全能の力をわたしたちのためにお用いくださいます。そして、どのような状況の中でもご自身の主権を妨げられることなく、自由にみ心を行うことでできるのです。

以上挙げた、「わたしはある」という名前から推測される神の特質と神のみわざは、出エジプト記3章のみ言葉からも確認することができます。7節以下にこのように書かれています。【7~9節】。エジプトの奴隷の家では、ヘブライ人の人権は無視され、その命と存在は軽視され、踏みにじられています。けれども、「わたしはある」という名前の主なる神が、彼らと共におられるゆえに、彼らは見捨てられた人たちではありません。死んでいる民族ではありません。主なる神によって顧みられ、見守られている、神の民です。

そしてまた、主なる神はモーセに対して、10節では「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われ、14節では、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」と言われました。モーセは「わたしはある」という名前の主なる神によって、モーセになるのです。11節で、「わたしは何者でしょう」と言って、自分がだれであるのか、何をなすべきかを知らずに、不安と恐れの中にあったモーセは、今や「わたしはある」という名前の主なる神によって新しい務めを与えられ、新しいモーセという人間とされ、神によって遣わされていくのです。モーセもまた神のみ前で彼の存在を与えられるのです。

16節以下を読みましょう。【16~17節】。今や、モーセは神の言葉をイスラエルの民に伝える神の代弁者とされ、また神の救いのみわざに仕える者とされているのです。モーセは、イスラエルの長老たちの前でも、エジプト王ファラオの前でも、少しも恐れることもたじろぐこともなく、神の言葉の代弁者として、大胆に語ることができます。「わたしはある」という名前の主なる神が、モーセにこの存在とこの務めとをお与えになったからです。

最後に18節の後半の言葉に注目しましょう。「どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」。ここには、イスラエルの出エジプトの最終目的が暗示されています。すなわち、彼らがエジプトの奴隷の家から救い出されるのは、彼らが神を礼拝する民になるためだということです。「わたしはある」という名前の主なる神によって、自らの存在を守られ、すべての束縛から解放され、自由にされた民イスラエルは、神を礼拝する民となることによって、自らのその存在を再確認するのです。

わたしたちもまた主の日ごとに神を礼拝することによって、主イエス・キリストによって罪ゆるされ、永遠の命の約束を与えられているという自らの存在を再確認するのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物を、み言葉によって、無から創造されました。また、今も、創られた全被造物を、み言葉をもって支え、導いておられます。わたしたちはあなたを離れてはひと時も存在することも、命をつなぐこともできません。主よ、どうか、あなたのみ子、わたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストによって、わたしたちにまことの命をお与えください。わたしたちと罪と死と滅びから救い出し、あなたのみ国の民としてください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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