2024年10月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
宗教改革記念礼拝(日本キリスト教会神学校日)
聖 書:創世記15章1~6節
ローマの信徒への手紙3章21~26節
説教題:「イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる」
宗教改革者マルチン・ルターは1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルクの教会の扉に、『九十五カ条の論題』を貼り付けました。これが、宗教改革の始まりと言われています。この『九十五カ条の論題』は、当時のローマ・カトリック教会が販売していた「贖宥状」(「免罪符」と一般に言われている)の発行と販売に反対して、ルターが公開の論争を持ちかけたものでした。ルターはその論題の中で、ローマ教皇が販売している贖宥状は、主キリストに対する真実の信仰と真実の悔い改めがなくても、お金で罪の償いをすることができると教えているのであって、それは主キリストの福音から離れた、間違った教えであると、教会を厳しく批判しました。
贖宥状を購入することによって、自分の罪の償いをすることができるという考えの根源には、人間の行いも救いにとって有効であるというカトリック教会の古くからの理解がありました。カトリック教会はこう教えていました。人間は肉に支配されている弱い者、罪を犯さざるを得ず、神から離れようとする罪びとではあるが、そのような弱い者ではあっても、人間にはまだ少しの善(良いもの)のかけらが残っている。だから、努力して、善い行いを積み重ねることによって、神に近づくことができる。罪の償いのために良い行いをして、いわば罪を帳消しにすることができる。贖宥状の購入もそのような良い行いの一つであり、教会の経済を助ける善行だと理解されていました。
このような、人間が罪から救われるためには主イエス・キリストを信じる信仰だけでなく、人間の良い行いも必要であるという考えは、今日のカトリック教会にも残っていますが、実は、わたしたちプロテスタント教会の中にも、形を変えて常に付きまとっている誘惑なのです。自分のわざを誇り、神に帰すべき栄光を、自らのものに奪い取ろうとする人間の傲慢は、今なお、わたしたちの中に残っています。
宗教改革者ルターやカルヴァンは、そのような人間の罪、誇り、傲慢を、人間から徹底的に取り去り、ただ主なる神だけが人間の罪をおゆるしになるのであって、それは神の側からの一方的に差し出された憐れみであり、恵みであり、愛によるのであるということを、強調したのです。そのことは、聖書そのものが最初から語り、教えていた神の真理であったということを、聖書を深く読むことによって、聖書から再発見したのです。
きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙3章21節以下に目を向けてみましょう。この箇所には、ルターが「信仰義認」という言葉で表現したプロテスタント教会の信仰の中心が語られています。ルターは、それまでラテン語でしか読めなかった聖書を、だれでも自由に読めるようにと、母国語であるドイツ語に翻訳した際に、きょう朗読した少しあとの28節、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という個所を、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰のみによる」と訳しました。原典のギリシャ語にはない、「のみ」という言葉を付け加えました。ルターはこの箇所の意味を強調するために、そしてまた当時のカトリック教会の理解に反論するために、原典にはない「のみ、それだけ」という意味のドイツ語「アライン」をあえて付け加えたのです。それは21節以下で語られている内容からの当然の結論であったからです。
では、21~24節を読んで、ルターが「のみ、だけ」を付け加えなければならなかった必然性をみていきましょう。まず、21節に、「ところが今や、神の義が示されました」とあります。「神の義」とは、神が義なる方、正しい方で、まっすぐで少しの歪みもなく、硬くて、どんな外圧によっても壊れることなく、常にご自身の義、正しさを保ち続けておられる、そのような方であることを意味する、旧約聖書時代から証しされている神の性質のことです。「神の義」と言う場合、神以外のすべてのものは義ではありえない、他のすべてのものは、もちろん人間を含めて、この世界や宇宙を形成しているものすべては、義ではないということを意味しています。この時代に正しいと言われ、この社会で正義と言われるものでも、時が移り場所が移動すればそうではなくなります。どんなにまっすぐなものであれ、どんなに硬いものであれ、風圧や高い熱によって歪み、形を変えていきます。しかしながら、ただ主なる神だけが永遠に、普遍的に、義であられ、ご自身の正しさを保ち続けておられます。それが「神の義」です。
「神の義」の前では、人間はみな不義であり、罪びとです。使徒パウロはこの手紙で1章18節から、神に逆らう人間の不義について、神のみ言葉に背く人間の罪について語っています。神のみ前では、正しい人は一人もいない、神を求める人はだれもいない、すべての人間は罪の中に閉じ込められており、滅びにしか値しないということを繰り返して語っています。【10節b~12節】。ところが、その人間の罪の歴史に神が終止符を打つかのように、神の義が現わされたと、ここで語っているのです。それは、天の父なる神からやって来た、神の義です。人間の側からの関与は全くありません。23節に、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」書かれているように、人間の一切の言葉も行動も、意志や良心と言われるものも、すべてが役立たなくなっているのです。
ここで、もう一人の宗教改革者カルヴァンがそのことを人間の「全的堕落」という言葉で説明したことについて少しふれます。カルヴァンはフランスで宗教改革の運動を受け継ぎ、プロテスタント教会の福音信仰をより深め、高めました。彼が強調した人間の「全的堕落」とは、二つの意味を持っています。一つは、人間は皆、最初に罪を犯したアダム以来、すべての人、全人類が罪の中に閉じ込められており、神のみ前で正しい人は一人もいないという、罪の普遍性です。もう一つは、人間がその全存在、全人格、言葉も行動も、人間の意志や良心も、人間全体が罪の支配下にあって、罪に対して抵抗することが全くできず、救いに至るひとかけらも人間の中に見いだすことができないとカルヴァンは言います。
カルヴァンが人間の「全的堕落」を強調したのは、もちろん人間を罪の中にいつまでも閉じ込めておくためではなく、そのような罪の人間を救ってくださる神の愛と恵みの大きさ、主イエス・キリストの福音の大きさ、豊かさを強調するためであったのは言うまでもありませんが、それによってローマ・カトリック教会の、人間の良き行いも救いに役立つという教えに対して徹底的な否を突きつけるためであったのです。
ルターもカルヴァンも、主なる神のみ前にある人間の罪ということを、真剣に、また冷静に、そしてまた厳格にとらえました。人間に対して少しも楽観的な、中途半端な、あるいは妥協的な見方をしませんでした。それは、彼らが主なる神を真剣にとらえ、主なる神への恐れと尊敬とを失わず、そしてまた主なる神に対する強い信頼と徹底した服従の信仰を持ち続けていたからです。主なる神の救いのみわざに絶対的により頼み、主イエス・キリストの父なる神こそが全人類の唯一の救いを完全に成し遂げてくださるとの信仰に生きていたからです。その信仰から、人間とは何者かを見たのです。
21節の「神の義が示された」をさらに説明して、22節では「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」とパウロは語ります。この節には深い内容が含まれており、また議論の多い箇所でもあります。「イエス・キリストを信じること」は直訳では「イエス・キリストの信仰」、あるいは「イエス・キリストの信実」となります。二つの理解が可能です。一つは、「主イエスご自身の父なる神に対する信仰による神の義」という意味です。もう一つの理解では、「わたしたちが主イエス・キリストを信じる信仰による神の義」という意味です。『新共同訳』では後者の理解で翻訳しています。その両者を含んでいると理解してよいと思います。というのは、わたしたちが主イエスを信じる信仰は、主イエスが父なる神に対して全き服従をささげ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって神の義を満たされ、成就された主イエスご自身の信実とその救いのみわざを信じる、それがわたしたちの信仰ですから、その両者を含んでいると言えるからです。
つまり、この箇所では主イエスご自身が明らかにされた神の義、主イエスご自身によってなし遂げられた神の義、成就された神の義が語られているのです。この後で、24節では、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して」と語られ、25節では、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と語られているように、主イエス・キリストの十字架によって成し遂げられた神の義です。主イエスはこの十字架の死に至るまで、忠実に父なる神に服従されることによって、神の義を満たされ、神の義をお示しになったのです。神の義、神の正しさとは、ご自身の最愛のみ子をもわたしたち人間の罪を贖うためにおささげくださった神の愛によって示されたのです。
また、22節の後半を直訳すると、「その神の義は信じるすべての人たちに及ぶ」となります。この文章は、神の義の働きの無限の大きさを暗示しています。主イエスが成し遂げてくださった神の義は、圧倒的な力と豊かで限りなく大きな恵みによって、信じるすべての信仰者に及ぶということがここでは強調されているのです。それを受け取る人間の側には、何一つ制限はありません。ただ信仰をもってこれを受け入れるほかにありません。
最後に、宗教改革の実りの一つとして、1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』60問を紹介します。
問60 どのようにしてあなたは神のみ前で義とされるのですか。
答 ただイエス・キリストを信じるまことの信仰によってのみです。…神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも、罪びとであったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従を、すべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れるときだけなのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによって成し遂げてくださった十字架の救いの恵みを、どうかわたしたち一人一人に、また全世界のすべての人々にもお与えください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。