2024年11月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:ホセア書14章2~10節
使徒言行録13章4~12節
説教題:「キプロス島での宣教活動」
バルナバとサウロ(すなわちパウロ)、それにヨハネ・マルコの一行が、アンティオキア教会から送り出されて第1回世界伝道旅行に出発したのは、紀元47年か48年ころであろうと推測されています。主イエスの十字架の死と復活が紀元30年ころとすれば、同じ年のペンテコステの時期、5~6月に最初の教会であるエルサレム教会が誕生して、わずか十数年でこのような世界規模での宣教活動が行われるように成長した教会の力の源はどこにあったのでしょうか。使徒言行録13章4節の冒頭に、「聖霊によって送り出された」と書かれています。教会のすべての命と力の源は聖霊なる神です。聖霊が、主イエスの十字架から逃げ去った弟子たちを再び呼び集めました。聖霊が彼らに主イエスの福音を語らせ、聖霊がそれを信じる教会の民を誕生させました。聖霊が教会の迫害者であったパウロを、主イエスの福音を宣べ伝える宣教者に変えました。聖霊がこの地アンティオキアにユダヤ人とギリシャ人とが共に主なる神を礼拝する教会をお建てになりました。聖霊がこの教会の祈りを導き、世界宣教の幻を彼らにお与えくださいました。そして今、聖霊が彼らを送り出して、世界伝道へと派遣されたのです。すべては聖霊なる神のお働きであり、ご計画なのです。
【4~5節】。バルナバがサウロよりも前に名前が挙げられているのは、バルナバの方が年上だったからではないかと考えられています。ヨハネ・マルコは二人の助手としてしばらく手伝いますが、途中でエルサレムに戻ることになったと13章13節に書かれています。セレウキアは地中海に面した港町です。アンティオキアからはオロンテス川を下って30キロほどの距離です。そこから、彼らは地中海に船出してキプロス島に向かいました。この島が最初の宣教の地となりました。
キプロス島はセレウキアの港から西に200キロメートル、地中海に浮かぶ大きな島で、クレテ島と並んで地中海の交通の要所でした。この島はバルナバの生まれ故郷であると4章36節で紹介されていました。この島にはすでに、エルサレム教会の大迫害で散らされたキリスト者によって主キリストの福音が宣べ伝えられていたということが11章19節に書かれていましたが、きょうの箇所ではそれとの関連については何も触れられてはいません。
キプロス島の東海岸の町サラミスに着いて、彼らはすぐにユダヤ人の会堂で神の言葉を告げ知らせました。ここから、彼らの世界伝道旅行の特徴を見ることができます。それは、彼らの伝道旅行の目的がユダヤ人の会堂で神の言葉を宣べ伝えることであったということです。キプロス島はバルナバの生まれ故郷でしたから、親せきや知り合いの人たちが何人かはいたはずです。あるいは、すでに主キリストの福音が宣べ伝えられていましたから、何人かの信者がいたかもしれません。まず、その人たちを頼って、あいさつ代わりにというか、その人たちを集めて集会を持つということが考えられたかもしれません。その方が簡単だし、また有効な手段でもあると言えるのかもしれませんが、バルナバとパウロはそうしませんでした。彼らはユダヤ人の会堂に入り、そこで神の言葉を語りました。なぜならば、旧約聖書において、神が初めにイスラエルの民・ユダヤ人をお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。主イエス・キリストの福音はまず第一に彼らにこそ語られなければならないからです。
実は、この宣教方法はこの後のパウロたちの活動に受け継がれていきます。次の伝道地であるピシディア州のアンティオキアでも、14節に「安息日に会堂に入って」と書かれています。14章1節の、イコニオンでの宣教活動も、まずユダヤ人の会堂から始まっています。パウロはこの神の救いの秩序、順序というものを重要視しました。のちに彼が異邦人・ギリシャ人の宣教者と言われるようになるのは、ユダヤ人が主キリストの福音を拒んだからでした。
「神の言(ことば)を告げ知らせた」とありますが、これは主イエス・キリ
ストの十字架の福音を語り伝えることを言い表す決まった言い方です。使徒言行録でこれまでに語られていた使徒ぺトロの説教、最初の殉教者ステファノの説教、そしてこの後に書かれている使徒パウロの説教、それらのすべての説教の中心は、神が全人類を罪から救うためにこの世にお遣わしになった主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。この福音を聞いて信じる人に神の救いが無償で与えられるという神の大きな恵みです。2千年の教会の説教は、あるいはこののち数千年の教会の説教も、この点においては全く変更されることはありません。
キプロス島にはかなりの数のユダヤ人がいたと推測されます。彼らは離散のユダヤ人(ディアスポラ)と呼ばれていました。次に6節以下で登場してくるバルイエスという魔術師もユダヤ人で、偽預言者であったと紹介されています。【6~8節】。パフォスはキプロス島の西側に位置し、ここにはローマ帝国の行政府が置かれ、地方総督が常駐していました。ここでもわたしたちは使徒パウロが計3回の世界伝道旅行で最終的に目指した福音宣教の対象が何であったのか、その片鱗をうかがい知ることができます。当時世界を支配していたローマ帝国とその最高位の権力を誇っていたローマ皇帝に対して、「彼は決して神ではないし、主ではない、彼の国は決して神の国でもない。わたしたちの罪のために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストこそが、全世界の唯一の救い主であり、すべての人がそのみ前にひれ伏して礼拝し、信じ、従うべき唯一の主である」という福音を、ローマ皇帝の前で、ローマ皇帝に支配されている帝国の人々に語ること、これがパウロの世界宣教の最大の目標であったのです。キプロス島でローマ地方総督セルギウス・パウルスと出会ったということは、まさにその福音宣教の最前線に今パウロは立っているということを意味しています。
バルイエスという名前はユダヤ名で「イエスの息子」という意味です。彼にはもう一つの名前がありました。それは8節で紹介されていますが、エルマ、ギリシャ語で魔術師を意味します。彼には、ユダヤ人としての伝統と、ギリシャ社会の異教の宗教・文化とが混ざり合っていました。「エルマ・魔術師」という名前は彼が得意とする仕事の内容からつけられた名前であることは分かりますが、「バルイエス・イエスの息子」という名前にどのような意味が込められていたのかはよく分かりません。もしかしたら彼は自分が主イエスの再来だと主張していたのかもしれません。あるいは、イエスという名前は「神は救いである」という意味を持つ、ありふれたユダヤ人の名前でしたから、主イエスとは直接には結びついていないのかもしれません。
いずれにしても、ここで重要なことは、イスラエルにおいては旧約聖書で命じられているように、魔術は厳しく禁じられていたということです。また、偽預言者は神を欺く者としてこれもまた厳しく処罰されました。イスラエルの民はただ主なる神のみ言葉に聞き従うべきであり、主なる神は彼らの救いに必要なすべてのみ言葉を語ってくださるので、他のいかなるものをも信頼すべきではなく、他のいかなる言葉にも耳を傾けるべきではないと命じられていました。パウロが10節以下で厳しい言葉で魔術師エルマを断罪しているのはその理由によるのです。
総督セルギウス・パウルスはバルナバとパウロとを招いて主イエスの福音を聞きたいと願っていました。しかし、魔術師エルマはそれを妨げようとしていたことが8節に書かれています。総督は高い地位にありましたが、神の真理に真摯に耳を傾けようとする求道の心を持っていました。それに対して、魔術師エルマは、おそらく総督のそばに付きまとい、総督に都合の良い魔術を行ったり、預言したりしていたように推測されます。もし、総督がパウロたちの福音を信じるようになれば、自分の偽りが暴かれ、収入減が絶たれることになることをも恐れたのに違いありません。それで、何とか総督をパウロたちから遠ざけようとしていました。エルマは二重にも三重にも、神の救いのみわざに反抗していたのです。
9節以下を読みましょう。【9~12節】。ここで初めてパウロという名前が現れます。そして、これ以降は使徒言行録では一貫してパウロという名前になり、またバルナバの名前の前に挙げられます。なぜ、ここでサウロからパウロに変更されたのかについては何も説明されていませんが、キプロス島で世界伝道の最初のキリスト者となったセルギオ・パウルスの名前にちなんで、ヘブライ語のサウロからラテン語のパウロに変更したのではないかと考えられています。
パウロはここで、神から与えられている権威によって、魔術師・偽預言者の偽りと邪悪に対決し、それに勝利しています。魔術師・偽預言者は、主なる神のまっすぐな道をねじ曲げる者であり、主なる神のみ力に対抗しようとする者であり、神の救いの道を妨げる者であるゆえに、神からの厳しい裁きを受けなければならないと宣言するのです。
わたしたちはここでもまた、神の言葉は決してつながれないというテモテへの第二の手紙2章9節の言葉を思い起こします。神の言葉は、どのような迫害や試練の中でも決してつながれることがないように、どのような異教の神々の妨害の中でも、決してつながれることはないのです。
「目が見えなくなる」という神からの罰は、迫害者であったパウロ自身も受けたものでした(使徒言行録9章)。これは永遠の裁きではありません。パウロは三日目に回心してキリスト者となったときに、再び目が見えるようになりました。魔術師エリマの場合も同じです。彼にも回心の可能性が残されており、再び目が見えるようになる可能性が残されています。パウロはここで神の厳しい裁きを語るだけでなく、神の憐れみと信仰への招きをも語っています。
総督はパウロが語った主イエス・キリストの福音を聞き、またパウロが語った神の言葉によって起こった奇跡の出来事を見て、主イエスを信じ、主イエスを救い主として受け入れました。「主の教えに非常に驚き、信仰に入った」と書かれているように、パウロが語った言葉は人間の言葉ではなく、全能の主なる神の力の言葉であり、全人類の唯一の救い主、主イエス・キリストの救いの言葉なのです。その主の言葉が人間を支配していた罪と死と滅びに勝利し、わたしたち信じる人すべてをまことの命によって生かすのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉は死んでいたわたしたちに新たな命を注ぎ込み、罪に支配されていたわたしたちを罪の奴隷から解放し、まことの命に生かす命のみ言葉です。どうかあなたのみ言葉によって、わたしたちをすべての迷信や偶像崇拝から解放してください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に行われますように。すべての人間が主なるあなたを恐れる者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。