2024年11月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
逝去者記念礼拝
聖 書:出エジプト記3章4~6節
マルコによる福音書12章18~27節
説教題:「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」
きょうの逝去者記念礼拝で朗読されたマルコによる福音書12章18節以下には、サドカイ派の人々と主イエスとの復活に関する論争が記されています。サドカイ派とは、当時のユダヤ教の一派で、ファリサイ派と勢力を競い合っていました。この両派は同じユダヤ教で、同じ旧約聖書を聖典にしていますが、考え方はずいぶん違っていました。復活に関しては、ファリサイは復活はあると信じていました。神を信じて、死に至るまで信じぬいて、神に自分の命をささげた殉教者や働き人を、神は決してお見捨てになることはない、必ずや終わりの時には復活の命を与えてくださるとファリサイ派は信じていました。
他方、サドカイ派は復活はないと主張しました。彼らはどちらかと言えば現実主義者であり、生きている今の時が重要だ、今神を信じ、神に仕え、この現実の中で信仰を貫くことを神はお喜びになるのであると考え、死後のことには関心を示しませんでした。
けれども、福音書を読むと、不思議なことに、サドカイ派もファリサイ派も共に主イエスに反対し、主イエスを十字架につけることでは一致していたということを、わたしたちは知ることができます。たとえ、人間の考え方や思想信条が違ってはいても、人間はすべて罪びとであり、主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされなければならないという点では、人間はみな一致しているのであり、当時のサドカイ派とファリサイ派の人々も同じだということを、聖書は語っているのです。
ところで、わたしたちは復活についてどのように考えるでしょうか。クリスチャンであっても、復活について、特に自分自身の復活については、常日頃から深く考えたり、信じたりしている人は少ないのかもしれません。主イエスの復活については、わたしたちは礼拝のたびごとに、『使徒信条』を告白し、「主イエスは……三日目に死者のうちから復活し」と告白していて、主イエスが死の墓から復活されたことは聖書に何度も書いてありますから、信じることができるとしても、自分自身の復活については、同じ『使徒信条』で、「わたしは……体の復活、永遠のいのちを信じます」と告白していても、それが自分自身の復活とは直接にはなかなか結びつかないというのが実感ではないでしょうか。おそらくそれは、わたし自身がまだわたしの死を経験していないからだと思われます。死の経験がなければ、復活の信仰も、いわば架空のものとしかとらえられないからなのでしょう。
でも、きょうわたしたちは家族や教会員という身近な人たちの死を思い起こしながら礼拝しています。このような機会に、彼らすでにこの世を去った信仰の先輩たちの死と復活を覚えるとともに、わたし自身の死というものをより身近に覚えながら、わたし自身に約束されている体の復活について、わたし自身の死と復活を深く考え、またそれを信じる信仰へと導かれることを願いながら、今日の聖書のみ言葉を聞いていきたいと願います。
復活を否定していたサドカイ派の人たちがここで持ち出している例は、イスラエルの古くからの慣習が背景になっています。申命記25章5節以下に規定されている結婚の制度で、今日それをレビラート婚と呼んでいます。長男が結婚して子どもがいない場合、その弟が長男の嫁であった人と結婚して子どもをもうけなさいという規定です。この制度は、その家の名前を絶やすことなく長く受け継ぐという目的とともに、イスラエルの民が神から賜った土地と家・財産、またその家の祝福を絶えることなく受け継ぐための制度でした。あるいはまた、神が約束されたメシア・救い主がイスラエルの家から、つまり自分の家から生まれるというかすかな可能性を担う意味もありました。
サドカイ派が問題にしたのは、7人の兄弟が次々に子どもを残さないで死んだ場合、復活したときに彼女はだれの妻になるのか、7人の夫がいたのだから、そのうちのだれと結婚することになるのか。だれと結婚するにしても、それは不合理であり、不公平であるから、死後の復活はありえない、というのがサドカイ派の結論でした。
ちなみに、復活を信じていたファリサイ派は、復活後には最初の夫と結婚すると考えていましたが、それに対して、サドカイ派は、復活の時には着物を着て復活するのか、その服装は死んだときに着ていたものか、本人が最も気に入っていた服装か。あるいはまた、生きていたときに悩んだり、矛盾を抱えたりしていた人は、復活のときにもそれをそのまま持って復活するのか。そうだとすれば、復活によっても、現世の問題は何も解決されないではないか。そうであれば、現世をありのまま受け入れて、それに適応して生きていくのが最も良いのではないか。サドカイ派はそのように考えて、徹底して現実主義で、今を精いっぱい生きていればそれでよい、という考えに貫かれていました。
今日でも、そのような人生観を持っている人が少なくないと思います。キリスト者の中にもそのような考えに近い人がいるのではないでしょうか。復活ということを真剣に考える機会が少なく、自分自身のこととしてとらえることができないのは、そのあたりにも原因があるのではないでしょうか。
しかし、わたしたちはここで、サドカイ派の人たちが自ら語っている内容に、実は深刻な課題が隠されていることに気づかなければなりません。19節で、「兄が死に」、20節でも、「死にました」、21節でも、「死に」、22節では、「最後にその女も死にました」と、何回も、「死んだ」「死んだ」と繰り返されているのです。たとえ現実主義者のサドカイ派にとっても、人間の死の現実と死の重さは変わりません。家族や親しい人の死は、大きな悲しみであり、痛みであり、喪失であることには変わりないでしょう。死の厳粛さと言うか、いやむしろ、死の恐ろしさ、残酷さ、残忍さ、だれもそれに抵抗できない死の恐るべき悪魔的な力、それはサドカイ派にとっても、もちろんわたしたちにとっても、避けて通ることができない厳しい現実なのではないでしょうか。その死の現実を、目をそらさずにしっかりと見ることがなければ、生とか、生きることとかを正しく考えることはできないのではないでしょうか。
わたしたちはここで、きょうの聖書の主イエスとサドカイ派の論争の結末を読む前に、主イエスご自身に目を向けたいと思います。復活を考える場合、主イエスのご自身の復活から始めなければ、正しい結論を望めないからです。この世界に存在するものはすべて、人間も、自然も、宇宙も、時と共に移り変わり、消え去り行くものであり、すべて死と滅びに支配されているからです。
では、主イエスの死はどうだったでしょうか。主イエスは神のみ子であり、罪も汚れもなく、それゆえに永遠なる存在でしたが、父なる神によって、罪のこの世に派遣されました。罪びとたちと共に歩まれ、神の国の福音を語られ、そしてついには、自ら神のみ子であることを投げ捨てて、ご自身が罪びとの一人に数えられるほどに、わたしたち罪びとの罪と死とをご自身に担われたのです。そして、ご受難と十字架の死を経験されました。十字架の上で、「父よ、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれるほどに、神から見捨てられて死ぬほかにないわたしたち罪びとの死を、わたしたちに代わって、わたしたちを代表して、十字架の激しい痛みの中で、死んでくださったのでした。
父なる神は、このようにして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に神に従われた主イエスを、死から引き上げられ、天にあるご自身の右の座に着かせ給うたのです。主イエスの復活は、父なる神の厳しい裁きをくぐりぬけてきた復活です。
そして、主イエスの復活はすべての信じる者たちの初穂としての復活であると聖書に書かれています。主イエスの十字架の福音を信じる信仰者を、神はその罪をおゆるしになり、死と滅びから救ってくださいます。主イエスの復活は、主イエスを救い主と信じる信仰者の初穂なのです。最初に収穫する初穂には次の収穫が続きます。主イエスを信じる信仰者には復活の命が約束されているのです。すでにこの世を去って、天にある勝利の教会に移されたわたしたちの信仰の先輩たちもこの約束を信じて天に召されました。そのことは、この礼拝に招かれているわたしたちにとっての大きな保障です。
きょうの聖書の結論部分を読んでみましょう。【24~27節】。まずわたしたちはここで、復活とは過去の、古い、そのままのわたしに復活するのではなく、この世界に生きていたわたしとは全く違った、新しい命に復活するのだということを確認しておきましょう。聖書が永遠の命と言う場合にも同様です。永遠の命とは今の命がいつまでも延長して続くというのではなく、神から与えられるまったく新しい命のことであり、もはや再び朽ちることのない命のことです。
復活もそうです。かつてのわたしと同じ体の復活ではありません。「もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)、いつも永遠に神が共にいてくださる新しい天と新しい地における復活です。25節で、主イエスは「天使のようになるのだ」と言っておられます。聖書には「霊の体」という表現もあります。全能の父なる神は天地万物と人間を、無から有を呼び出だすように創造されました。死から命を生み出すように、わたしたちの朽ちる体から復活の永遠の命を生み出されます。
神の国が完成されるときにわたしたちに与えられる復活の命は、わたしたちを一つの神の家族に結びつけます。肉にある親と子や兄弟の関係よりもはるかに固く豊かな交わりを持った主にある兄弟姉妹とされます。その関係は何ものによっても壊されることはありません。一人の父なる神と一人の救い主イエス・キリストによって結ばれた一つの霊にある関係だからです。
神は族長アブラハムの父なる神であられます。彼の死後もそうであり続けてくださいます。その子イサクにとっても、その子ヤコブにとってもそうであり続けます。アブラハムへの約束のみ言葉は彼の死後も有効です。イサク、ヤコブへと、神の約束は受け継がれます。神のみ言葉、神の救いの恵みは、その人の死後にもその人から取り去られることなく、最後の成就を目指して進んでいきます。神の約束のみ言葉は信仰者の死後も変わりません。神の命のみ言葉は信仰者の死後もその人と固く結びついています。神の命のみ言葉は人間の死よりも強く、人間の死を超えて約束の成就へと進んでいきます。そのようにして、神はいつも生きている人の神であり続けられ、また死んだ者をも生かす神であり続けます。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉を信じる者にしてください。そのみ言葉によって生きる者としてください。朽ち果て、移り行くものに心と目とを奪われることなく、永遠なるあなたのみ言葉を信じる者としてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和をこの世界にお与えください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。