11月24日説教「主イエスが制定された聖礼典(一)」

2024年11月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(37)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    マタイよる福音書3章13~17節

説教題:「主イエスが制定された聖礼典(一)」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その後半の部分、「主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し」という個所では、教会の務め、使命について3つが挙げられています。一つは、「み言を宣べ伝えること」、二つには「聖礼典を行うこと」、三つめは「信徒を訓練すること」です。

 宗教改革者ルターとカルヴァンは前者の二つを、真実の教会であることの目印と規定しました。つまり、神のみ言葉である聖書が正しく解き明かされ、説教され、聞かれている教会、また同時に、聖礼典が、プロテスタント教会では洗礼と聖餐ですが、その二つが主イエスの制定のごとくに、聖書のみ言葉に従って正しく執行されている教会、そのような教会であれば、どこの国に立てられた教会であれ、どのような民族、人種、階級によって構成された教会であれ、規模の大小や経済力の違いや礼拝堂があるなしにかかわらず、そこに真実の教会が存在すると宗教改革者たちは規定しました。のちになって、改革教会はそれに三つめの「信徒の訓練」をも教会の目印として加えました。

 きょうの礼拝では「聖礼典を行い」という告白について、二つの聖礼典のう

ちの洗礼について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいくことにします。前回にも確認したことですが、「主の委託により」という言葉は、そのあとに続いている三つの教会の務めのすべてにかかっていると理解することが、非常に重要です。と言うのは、特に二つめの「聖礼典を行い」に関して、ローマ・カトリック教会は主イエスによって定められたとは考えられない他の儀式をも、彼らが言う「秘跡」に加えているからです。

 まず、このことについて少しふれておきたいと思います。ローマ・カトリック教会は、宗教改革の時代も今日も変わりませんが、7つの秘跡を定めています。しかし、宗教改革者たちはそれを二つに限定しました。その基準は、主イエスご自身がそれを制定されたかどうかにありました。洗礼と聖餐、カトリック教会では聖餐を「聖体」(あるいはミサ)と言いますが、この二つは、その意味と執行の仕方には違う点もありますが、主イエスがそれらを制定されたという点ではプロテスタント教会とカトリック教会は一致しています。しかし、他の5つの秘跡については、主イエスご自身が制定されたという聖書の記述は見いだすことはできないとわたしたちは考えます。たとえば、「堅信」ですが、これは幼児のときに洗礼を受けた信者が青年になって自分で信仰を言い表す儀式です。これについて主イエスが聖書のどこかで定められたという記録はありません。プロテスタント教会では信仰告白と一般に言いますが、主イエスが定められたのではありませんから、これは聖礼典には数えてはいません。

 「告解」とは、信者が告解室に入って司祭に自分が犯した罪を告白して、その罪の償いをするという制度ですが、その制度があの悪名高い「免償符」(「免罪符」)の販売へとつながっていくのですが、主イエスがそのような制度を制定されたという聖書の記述もどこにもありません。そもそも、罪をゆるしたり罰したりするのは、主なる神おひとりがなさることであり、人は主イエスの十字架の福音を信じる信仰によってのみ罪ゆるされ、教会の民、神の国の民に加えられるのですから、わたしたちプロテスタント教会は「告解」そのものを認めていません。その他に、カトリック教会は「終油」「叙階」「婚姻」を加えていますが、これらも主イエスが定められたという聖書は見あたりませんから、わたしたちは聖礼典とは認めていません。

 では次に、「洗礼」について、主イエスがどのように定められたか、またその意味は何かを学んでいきましょう。日本キリスト教会の『式文』では、洗礼式の「制定語」として、マタイによる福音書28章18~20節を挙げていますから、まずその箇所を読んでみましょう。【18~20節】(60ページ)。マルコ福音書16章15~16節でも同様に主イエスは弟子たちにこのようにお命じになりました。「それからイエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける』」。

 この二つの聖書の箇所に共通している重要な点は、洗礼を授けることと福音を宣べ伝えることが結びついていることです。この二つのことは、父なる神から天と地の一切の権能を授かっておられる主イエスの命令であり、また委託です。弟子たちは、またのちの教会の民であるわたしたちは、主イエスを通して、全能の父なる神から与えられるこの権能を授かっているのです。委託されているのです。わたしたちは大きな恐れと感謝とをもって、主イエスから委託されたこの権能を行使するのです。

父なる神は、わたしたち罪びとたちのために、ご受難と十字架の道を歩まれた主イエスによって、罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた主イエスに、罪と死に対する勝利を賜り、三日目に復活させられました。わたしたち教会の民は、その主イエスの罪と死に対する勝利を、洗礼と福音宣教によって、全世界のすべての人々に継承していく使命を託されているのです。教会は主イエスから授かっている権能によって、信仰を告白し、悔い改める受洗志願者に罪のゆるしの宣言をし、神の国の民と永遠の命の保証を与え、洗礼を授けます。それは、教会が何かの権限をもってなすことではなく、まただれかが何かの能力を発揮してなすのでもなく、ただ主イエスから託された権能と主イエスご自身の十字架と復活のみわざによってなしうることです。

また、洗礼と世界宣教の使命は固く結びついています。今からおよそ2千年前のペンテコステの日に、聖霊を受けた3千人ほどの人が洗礼を受け、最初の教会、エルサレム教会が誕生しました。それ以後の初代教会の目覚ましい成長と発展については、わたしたちが使徒言行録から学んできました。教会の世界宣教の使命は、世界をキリスト教化することによって成し遂げられるのではありません。キリスト教の文化や慣習を広めることでもありません。教会が政治的指導者となって世界を支配することでもありません。洗礼によって一人の信仰者が誕生することが世界宣教の始まりです。自分の罪を告白し、悔い改め、洗礼を志願する人が一人誕生すること、そして洗礼式が執行され、教会の民、神の国の民が一人誕生すること、そこから世界宣教の使命が始まるのです。

洗礼は復活された主イエスから教会に託された務めですが、実は、それ以前に主イエスご自身がわたしたちに先立って洗礼をお受けになり、わたしたちのために洗礼の道をあらかじめ開いておられたということを、マタイ福音書3章は語っています。【13~17節】(4ページ)。主イエスが洗礼をお受けになったことは、マルコ福音書1章9節以下とルカ福音書3章21節以下にも、多少違った表現で書かれています。共観福音書が一致して語っている主イエスの受洗を、わたしたちはどのように理解すべきでしょうか。

そもそも洗礼は、罪びとであるわたしたちが、自らの罪を告白し、主イエスがなしてくださった十字架と復活のみわざをわたしのための救いのみわざと信じ、告白して、わたしの罪がゆるされていることのしるしとして洗礼を授けられるのですが、主イエスは罪をゆるされなければならなかったというのでしょうか。いや、そうではありません。洗礼者ヨハネ自身が、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのです」と、自らの告白しているように、ヨハネは罪びとですが、主イエスは神のみ子であり、罪も汚れもない聖なるお方です。洗礼をお受けになる必要は全くなかったはずです。そうであるのに、主イエスは「今は、そうするのが正しいことだ」と言われました。それが、父なる神、義なる神のみ心であるという意味です。

ここにすでに主イエスの十字架への道が備えられていたということを、わたしたちは知らされます。主イエスの宣教の開始と受洗のこの時から、神はご自身のみ子を罪びとたちの一人としてこの世へと派遣され、自ら罪びとの一人に数えられるほどに、わたしたち罪びとと歩みを共にされることを計画しておられたのです。それが父なる神の義なるみ心だということを、主イエスご自身もまた知っておられ、全き服従をもって十字架への道をお進みになられたのです。そのようにして、主イエスはわたしたちのために洗礼の道を開いてくださいました。

使徒パウロはしばしば洗礼について、主イエスの死と復活との関連で語っています。ローマの信徒への手紙6章3節以下を読んでみましょう。【3~11節】(280ページ)。ここでパウロが強調していることは、主イエスの十字架の死と復活が、わたしたちが受ける洗礼の意味と非常によく似ているという、いわば比ゆ的、象徴的な意味のことではありません。そうではなく、それは信仰の事実として、確実に、現実的に、主イエスの死と復活の出来事がわたし自身の出来事として起こるのだということなのです。洗礼において、主イエスの十字架の死と復活がわたし自身の死と復活の出来事として起こるのだということです。主イエスの十字架の死と復活それ自体が持っている偉大な力、永遠の救いの恵みの大きさ、豊かさが強調されているのです。洗礼において、古い罪のわたしが主イエスと共に十字架につけられて死ぬという出来事がわたしの身に起こり、また、主イエスの復活の命が新しくされたわたしの命としてわたしに与えられ、わたしが主イエスと共に生きる者とされるという出来事がわたしの身に起こるのです。

洗礼の時に起こるこの救いの出来事は、わたしたちが主の日ごとに礼拝をささげるこの時にも、わたしたち一人一人に起こっているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死すべき者であったわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活によって救い出してくださり、あなたから与えられる新しい命に生きる者とされておりますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたの救いのみわざのための働き人としてお用いください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に与えられますように。この世界のすべての国々が、剣を鋤に変え、槍を鎌に変えて、もはや戦いを学ばない平和の民とされますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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