2024年12月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編145編1~9節
ルカによる福音書11章1~4節
説教題:「神のみ名が崇められますように」
主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の原型はルカ福音書11章とマタイ福音書6章の2か所に記録されています。わたしたちが礼拝などで祈っている「主の祈り」はマタイ福音書がテキストになっています。二つを比較してみると、マタイ福音書よりもルカ福音書の方が全体的に簡潔で、短くなっています。なぜこのような違いが生じたのかについては、詳細は分かっていませんが、おそらくは主イエスの祈りがのちの時代に伝承されていく過程で、それぞれに地域や教会で違って受け継がれていったからであろうと推測されます。ちなみに、主イエスが実際に弟子たちに教えられたのがおよそ紀元30年ころ、マタイとルカ福音書が書かれたのがおよそ紀元70年代とすれば、紙などの記録手段が乏しかった時代背景を考えれば、その間40年の間に主の祈りの内容に違いが生じることはありうると言えます。わたしたちはこれからルカ福音書をテキストにして「主の祈り」を学んでいきますが、その中で両者の違いについても触れたいと思います。
まず、主の祈りの全体的な構造についてみていきましょう。マタイ福音書では、前半の三つの祈り(祈願)は「御名」「御国」「御心」についての祈りで、「御」とは原文のギリシャ語では「あなた」、つまり神のことです。ルカ福音書では「御名」「御国」の二つの祈願になっていますが、いずれも祈りの前半では、まず神についての祈りがなされます。主イエスが教えられた「主の祈り」では、この点が第一に重要です。主イエスはまず第一に、あなたの神について、神のことを祈りなさい、神が正しく神であるように祈りなさい、あるいは、神があなたにとってどのような方であるのかを正しく知ることが重要なのだと教えておられるのです。
祈りとは、人間が自分の願いを神に聞いていただくことだから、まず神に自分のことを知ってもらうことが重要だと考えるかもしれません。だから、できるだけ言葉を尽くして自分を神に訴えることが重要だと考えるかもしれません。しかし、主イエスが教えられた主の祈りはそうではありません。なぜならば、主イエスは言われるのです。「あなたのことは、あなた自身よりも、主なる神の方がもっとよく、もっと深く、あなたのことをご存じなのだ。あなたに今何が最も必要なのか、あなたに欠けているものは何か、あなたが何を求めるべきかを、神ご自身が最もよく知っておられるのだ」と。だから、あなたのことを最もよく知っておられ、あなたの最も奥深いところまでをも知っておられる神のことをまず祈りなさい、と主イエスはお命じになるのです。
次に、神への呼びかけについてです。ルカ福音書では、単純に「父よ」ですが、マタイ福音書6章9節では「天におられるわたしたちの父よ」となっています。どうしてこのような違いが生じたのかについてはよく分かりませんが、両者に共通していることは、ルカもマタイも神を「父」と呼んでいることです。
実は、神を父と呼ぶのはイスラエルにおいては非常に珍しいことです。旧約聖書で、神を父と表現している個所はわずか数か所だけで、しかも直接に神に向かって「父よ」と呼びかけている例は全くありません。彼らにとって神は、いと高き天におられる聖なる存在であり、人間が近寄りがたい恐るべき存在であったからです。その神を人間の親子の関係のように親しく「父よ」と呼ぶことは、神を冒涜することになりかねないからです。
では、なぜ主イエスは神を父と呼ぶように教えられたのでしょうか。その理由はわたしたちにも推測できます。すなわち、主イエスこそが父なる神の御一人子としてこの世に誕生されたからです。主イエスにとっては、まさに神は父であられ、「わたしの父」であられるからです。主イエスはしばしば神に向かって「父よ」と呼びかけられました。最も印象深い場面を取り上げてみましょう。主イエスの十字架の場面で、ルカ福音書23章34節では、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。46節では、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われて息を引き取られました。父と子の関係が今まさに断ち切られようとしている死の間際の、痛みと苦悩の極みにあって、主イエスは神を「父よ」と呼ばれ、父なる神のみ心に従順に服従されたのです。
主イエスがわたしたちに、神に対して「父よ」と呼びかけるように教えられたのは、まさに主イエスがそのことを可能にされたからです。主イエスご自身が、神とわたしたち人間との間にあった罪を取り除いてくださって、神をわたしたちとを霊による親と子という、親密で、永遠に消え去ることがない固い交わりの中へと招き入れてくださっておられる、そのような主イエスの十字架による救いのみわざによって、わたしたちは神を「父よ」と呼びかけることができるようにされているのだということが分かります。
ヨハネの第一の手紙3章1、2節にこう書かれています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。……わたしたちは、今すでに神の子なのです……」。わたしたちが、祈りにおいて神に向かって「父よ」と呼びかけることがゆるされている、それは何という大きな神の愛であり恵みであることでしょうか。
祈る際に、最初に神への呼びかけをするということを、初心者は覚えておくのがよいと思います。祈り心はだれにでもあると言われますが、しかし実際に声に出して祈ってみなさいと言われると、何をどう祈ってよいのか、口ごもってしまいます。とにかく、まず「父よ」とか、「天におられる父なる神よ」と声を出して呼びかけてみると、次の祈りが言葉になりやすくなります。わたしの近くにいてくださり、わたしのすべてを知っていてくださる父なる神が、何をどう祈るべきかを聖霊によって教えてくださいます。そして、終わりの結びに、「この祈りを主イエス・キリストのお名前をとおして、み前におささげします。アーメン」と祈れば、だれでも戸惑うことなく、恥ずかしがることなく、人前でも一人でも、すぐに祈ることができるようになります。どうぞ皆さま、日々の祈りの生活を続けてください。
次は、第一の祈願です。マタイ福音書もルカ福音書も「御名が崇められますように」と、全く同じです。「御」とは、最初に説明しましたように、原文では「あなた」、すなわち神のことです。神のお名前のことが、第一に祈られているということに改めて注目したいと思います。わたしの名前のことではなく、だれかの名前でもなく、神のお名前こそが、この世界のどんな名前よりも、最も崇められますようにとの祈りです。
宗教改革者のルターは、この第一の祈願について、「わたしたちは深い罪の自覚と悔い改めなしには、この祈りを祈ることはできない」と書いています。と言うのは、わたしたちの日常生活の中で、またしばしばわたしの祈りの中でも、神のお名前よりは自分自身の名前の方がより重要な意味を持っていることが多いからです。神のお名前が崇められることのために生きているのではなく、自分の名前や、他のだれかの名前のために生きているのがほとんどです。それによって、神のお名前が無視され、軽んじられ、あるいは踏みにじられ、卑しめられたりしている、そのような生活をわたしたちは認めざるを得ないのでないでしょうか。そのことに気づかされ、そのような罪を告白し、悔い改めることなしには、だれもこの祈りをすることができない、とルターは言うのです。
わたしたちは自分の名誉が傷つけられることを嫌います。時には、肉体的な傷を負わされるよりも、自分の権利や誇りや名誉が侵害されることの方が、より大きな苦痛を感じることがあります。わたしたちの生活はいつでも自分の名前が中心になっていて、自分の名前が一番大切な位置を占めています。信仰生活の中でもしばしばそういうことが起こり得ます。教会で奉仕するとき、愛の業に励むとき、捧げものをするとき、また祈るときにも、神のお名前が崇められることを願うよりも、自分の名前が高められることのためであったり、だれかの名前のためであったりすることがあります。わたしたちは深い罪の自覚と悔い改めなしには、この祈りを祈ることはできません。そのことを第一に告白しなければなりません。
では、神のお名前を崇めるとはどういうことでしょうか。名前は、その人を他から区別するための単なる記号ではありません。その人の名前には、その人の存在、人格、あるいは名誉や権利のすべてが結びついています。古代社会においては、また特に聖書の世界においては、今日のわたしたちが考えるよりもはるかに強く、名前とその人の人格、存在、またその人の言葉、行動、考えのすべてが固く結びついていました。
創世記1章、2章の、神が天地万物を創造された箇所で、神が創造されたものを、「神は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」(1章5節)。「神は大空を天と呼ばれた」(8節)と繰り返されていますが、神が創造されたものに名前を付け、その名前を呼ばれるということは、神がそのものをご自身の所有として永遠に支配されるという意味が込められています。名前を付ける、あるいは名前を呼ぶということは、その名前を持つ人との深い関係、交わり、時に支配、服従、時に導き、守りというような意味を含んでいるのです。
モーセの十戒の第三の戒めで、「あなたの神、主のみ名をみだりに唱えてはならない」と命じられているのも、それに関係しています。神のお名前は、天におられる聖なる神、全能の父なる神の存在、そのお働き、その尊厳と密接に結びついています。人がそのお名前を自分勝手な目的のために用いることは、神の尊厳性、神の永遠性を損なうことになることを恐れ、神のお名前を口に出すことを戒めたのです。旧約聖書の民は、その戒めを厳格に守ったために、やがて神のお名前をどう発音するのかを忘れたほどでした。
「崇められますように」との祈りも、そのことと関連しています。「崇める」という言葉は本来「聖とする」という意味を持ちます。神のお名前を他のすべての名前から区別し、それらと混同しないように、ただ神のお名前だけに、そのお名前にふさわしい尊厳、栄光、名誉を帰しなさいという命令です。主なる神を、他のいかなる偶像の神々とも混同しないように、あるいは人間や他の被造物とも混同しないように、ただ主なる神だけを全世界の唯一の神とし、わたしの唯一の主なる神としなさいという命令です。主イエス・キリストによってわたしたちを愛され、罪から救われた主なる神だけに仕え、従うときに、神はわたしの祈りのすべてをお聞きくださり、わたしに最も必要な恵みをお与えくださいます。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちを常に祈る者としてください。あなたはわたしたちの願いにはるかにまさった豊かな恵みをもって応えてくださる方であることを固く信じて、たゆまずに、熱心に祈る者としてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。