12月22日説教「貧しいお姿になられた神」

2024年12月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

               (クリスマス礼拝)

聖 書:詩編148編1~14節

    ルカによる福音書2章8~20節

説教題:「貧しいお姿になられた神」

 主イエスが誕生されたクリスマスの出来事は、マタイによる福音書1章とルカによる福音書2章の2か所に書かれています。両者を読み比べてみると、それぞれの強調点は違ってはいますが、大筋では共通しています。主イエス誕生の舞台は、イスラエルの北部、ガリラヤ地方にある町ナザレ。主イエスの両親となったのは、まだ正式に結婚していない婚約中のヨセフとマリア。そのマリアとヨセフに神のみ使い、天使が現れて、「マリアの胎内の子は聖霊による子であり、聖なる神のみ子である。生まれてくる子をイエスと名付けなさい」と告げる。ここまでは、マタイとルカの二つの福音書は共通しています。

 ルカ福音書ではさらに、ヨセフは身重のマリアと一緒に住民登録をするために、南に100キロ以上も離れたエルサレム近郊のベツレヘムまで旅をする。そのころ、羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、「きょうダビデの町で、あなたがたのための救い主がお生まれになった」とのみ告げを聞く。彼らは急いでベツレヘムへ出かけ、そこで幼子主イエスを探し当てる。これがルカ福音書だけにある記録です。

 この二つの福音書を、内容的にもっと深く読み比べてみると、両者に共通している一つのことに気づきます。それは、全体的にみて、非常に地味で、小さな、目立たない要素に貫かれているということです。神のみ子の誕生、全世界の救い主の到来、ということを描く聖書としては、その舞台も、そこに登場する人物も、その内容も、むしろ貧しく、貧弱で、目立たないものばかりである、ということに少し不思議さを思えます。

 クリスマスと言えば、世界中のあらゆる場所で、あらゆる分野で、一年中で最もにぎやかな、華やかで、大きく、目立った景色を競い合う時期です。きらびやかなイルミネーションが町を飾り、みんなが高いアドバルーンを上げ、大きな音量で叫び声をあげます。みんなに自分たちの存在を知ってほしい、自分たちの価値を認めてほしいと願っているからです。

 でも、聖書のクリスマスはそうではありません。神はむしろ、目立たない方法で、小さな人や貧しい出来事によって、クリスマスのことをわたしたちに知らせようとしておられるように思われます。

 救い主・主イエスの両親となるのは、ガリラヤ地方ナザレに住む若いヨセフとマリアです。ヨセフは大工の息子でした。マリアは普通の娘でした。当時世界を支配していたローマ帝国の皇帝がローマにいましたし、ユダヤのヘロデ王家がエルサレムの宮殿に住んでいました。そうであるのに、彼らのだれ一人として、クリスマスの出来事の主人公ではありませんし、ローマもエルサレムもクリスマスの中心的な舞台ではありません。

 ここには、不思議な神の選びがあるのです。神は大きなものや強いもの、高いものや高価なものをお選びになるのではなく、むしろ貧しく、小さく、みすぼらしいもの、無価値なもの、見捨てられているようなものを、あえてお選びになるのです。そこには、神の側からの一方的な愛があるからです。選ばれる側には何らの誇り得るものはありません。神から差し出される大きな愛と恵みを感謝するだけです。その神からの愛と恵みを受け取るためにわたしたちに必要なのは、ただ信仰だけです。信仰をもって、神に向かう人にだけ、クリスマスの大きな、豊かな恵みと祝福が与えられるのです。

 では、きょうの聖書の中から、クリスマスのしるしの中で小さな、目立たないものを、ひとつ取り上げてみましょう。【ルカ福音書2章12節】(103ページ)。「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」がクリスマスのしるしであると言われています。9節に書かれているような羊飼いたちが見たまばゆいばかりの天からの主の栄光と、10節に書かれている全世界に伝えられる大きな喜びの知らせ、そして11節に書かれているすべての人の罪をゆるす救い主の誕生、その偉大なるクリスマスの出来事の目に見えるしるしが、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」だと言われているので

す。

 なぜそのようになったのかについては、少し前の6節、7節に目を向ける必要があります。ヨセフとマリアは皇帝アウグストゥスの命令に従って、住民登録をするためにベツレヘムに行きました。けれども、宿屋はみな満杯で二人が泊まれる部屋はありません。身重のマリアにさえ、あたたかくやわらかな布団がありませんでした。二人は家畜小屋の中で、赤ちゃんを産むほかなかったのでした。だから、生まれてきた赤ちゃんは「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている」ほかになかったのです。それが、クリスマスのしるしとなったのです。それは一体どういうことなのでしょうか。

 ここにも、神の不思議な選びがあるのです。しかし、それは神がだれかを選ばれたとか、神が何かを選ばれたというのではありません。神ご自身が、このようなみすぼらしい、貧弱な、いと小さな者となることを選ばれたということなのです。すなわち、神ご自身が家畜小屋の、薄暗い、じめじめした、人間が寝泊まりできそうもない、だれもがそこには目を向けず、だれもがむしろそこからは目をそむけたくなるような、そのような場所でお生まれになるという、神ご自身の選びがあるのです。そのように、神がご自身を貧しく、低く、いと小さなお姿でこの世においでになるという、神の自己卑下がここにはあるのです。神はこのクリスマスの日に、そのような貧しく低く、いと小さなお姿でわたしたちに出会ってくださったのです。それは何と大きな神の愛であることでしょうか。それは何と大きな神の恵みであることでしょうか。わたしたちはこのような貧しいお姿の神に出会うのです。わたしたちは神を求めて、天に至るまでの高い塔を積み上げる必要はありません。天にまで登ろうと努力を積み重ねる必要はありません。否、そうすべきではありません。神がわたしたちの低き所にまで下りてきてくださっておられるからです。神はわたしたちの罪の世界に人の子としておいでくださったのです。

 ご自身を徹底的に低く貧しくされた神、クリスマスの日にそのようにして全人類への大きな愛を示された神は、この日に誕生されたご自身のみ子・主イエスを、わたしたちの罪の贖いとして十字架の死へと引き渡されたということを、わたしたちは福音書の終わりで知らされます。クリスマスの時の神の偉大なる愛と恵みは、主イエスの十字架と復活にまで続いています。そこにおいて、ご自身を貧しくされた神の愛と恵みは、その頂点に達したのです。クリスマスの日にご自身を貧しくされ、低く小さくされた神は、み子・主イエス・キリストの十字架において、ご自身のすべてをわたしたち罪びとの救いのためにささげ尽くしてくださったのです。

 パウロはローマの信徒への手紙8章32節でこう言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子のみならず、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。そして、どんなものであれ、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(39節)と。

 クリスマスの日に貧しいお姿で、人となられてこの世においでくださった神の愛は、ご自身の一人子を十字架の死に引き渡されるほどにわたしたち罪びとを愛される偉大なる愛となって結晶したのです。その神の偉大なる愛によって、わたしたちは神と固く結ばれています。その神の偉大なる愛は、分断されているこの世界と孤立化している人間たちを固く一つに結ぶ力となります。

ねがわくは、全世界のすべての人々の上に、この神の偉大な愛が注がれますように。そして、すべての人たちがこの神の偉大な愛によって一つに結びつけられますように。

 

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、争いや分断、戦争や破壊が続くこの世界を顧みてください。住む家を失い、貧困に苦しむ人々、語り合える隣人を持たず、あすに希望を見いだせないでいる人々、重荷を負い、道に悩んでいる人々、すべてあなたの助けと導きとを必要としている人々に、どうかあなたが近くにいてくださり、慰めと励まし、希望をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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