2024年12月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(38)
聖 書:出エジプト記12章21~28節
コリントの信徒への手紙一11章23~26節
説教題:「主イエスが制定された聖礼典(二)」
『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その後半の部分、「主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し」という個所では、教会の務め、使命について3つが挙げられています。きょうはその第二の「聖礼典を行い」についての二つめ、聖餐について学びます。
宗教改革者ルターとカルヴァンは、真実の教会であることの目印として、神のみ言葉である聖書が正しく解き明かされ、説教され、聞かれていること、また同時に、聖礼典が主イエスの制定のごとくに、聖書のみ言葉に従って正しく執行されていること、この二つを真実の教会であることの目印として挙げました。そしてまた、彼ら宗教改革者たちは、ローマ・カトリック教会が7つの秘跡を行っていたのに対して、洗礼と聖餐、この二つだけを聖礼典(サクラメント)と定めました。その基準は、主イエスご自身が制定されたことがはっきりと確認できるかどうかにあります。洗礼と聖餐、この二つは主イエスご自身が制定されたという聖書の記録が確かに確認されますが、ローマ・カトリック教会が挙げている他の5つの秘跡、堅信、告解、終油、叙階はいずれも、のちになって教会が考え出したものであるので、わたしたちプロテスタント教会は聖礼典には数えていません。
主イエスが洗礼を聖礼典として制定された聖書の根拠は、前回わたしたちが学んだように、まず主イエスご自身がヨルダン川で洗礼を受けられことにあります。主イエスは罪のない聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとの中に入ってきてくださり、罪びとと同じ洗礼を受けられ、罪びとの一人に数えられて十字架で死んでくださった、ここにその根拠があります。
もう一つは、復活された主イエスがマタイ福音書28章19節で、弟子たちにこのようにお命じになったことにあります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」。このように、洗礼を授けて新しい信仰者を生み出し、新しい信仰の民を増し加えていく務め、使命、そして権能を、教会は主イエスから託されたのです。
では次に、聖餐についての聖書の証言を見ていきましょう。きょう朗読されたコリントの信徒への手紙一11章では、聖餐は「主の晩餐」と言われています。11章20節にその言葉が出てきます。これは今日の聖餐式のことです。わたしたちの教会での聖餐式では、小さなパンと小さなコップのぶどう液が用いられますが、初代教会では普通の夕食のような共同の食事を伴った式であったので、「主の晩餐」と言われました。
『日本キリスト教会式文』では、11章23節以下のみ言葉が、聖餐式の「制定語」として読まれます。その制定語で、使徒パウロは「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と語り、聖餐=主の晩餐が主イエスご自身によって制定されたものであることを明らかにしています。主イエスご自身が制定された聖餐とは、言うまでもなく、弟子たちと共に食べた最後の夕食のことです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書(共観福音書)にほぼ同じ言葉で記されています。主の晩餐=聖餐はこの最後の晩餐を受け継いだものです。
主イエスと弟子たちの最後の晩餐は、さらにさかのぼれば、旧約聖書の出エジプトの時代にその起源があります。エジプトの地で長く奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を救うために、神はイスラエルの家の門とかもいに子羊の血を塗るようにお命じになりました。その血をご覧になって、神はイスラエルの家の前を過ぎ越され、災いから守られました。エジプトの家々では、人間の長男も家畜の初子もみな滅ぼされて、国中が大混乱になっている間に、イスラエルの民はエジプトの奴隷の家から脱出することができました。
これを記念して、イスラエルではその後毎年、過ぎ越しの祭りを祝い、ニサンの月の14日の夕方には、家族ごとに過ぎ越しの食事をする習わしになりました。主イエスが十字架につけられる前日に弟子たちと一緒に囲んだ夕食が、この過ぎ越しの食事でした。
過ぎ越しの食卓では、家の主人はこの日の特別な食事の意味を家族に説明します。「この子羊は、神がわたしたちの家を過ぎ越して、わたしたちを奴隷の家エジプトから救い出されたしるしである」。「この苦菜は、エジプトでのわたしたちの苦しみのしるしであり、またその苦しみから主なる神が救い出されたしるしである」と。ところが、主イエスは弟子たちとの最後の晩餐の席で、その過ぎ越しの食事に新しい意味を付け加えられました。「このパンは、あなたがたのためのわたしの体である」。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と。
主イエスは、ご自身の十字架の死によって成就されるであろう全人類の罪のゆるしと救いの約束としるしを、十字架の死の前に、あらかじめ弟子たちとのちの教会の民のために制定されたのです。共観福音書で語られている主イエスご自身の聖餐=主の晩餐の制定の言葉が、初代教会に受け継がれ、パウロはおそらくそれをアンティオキア教会で受け取り、コリントの教会へと受け渡しているのです。
聖餐=主の晩餐は、主イエスの十字架の死によってわたしたちに与えられた罪のゆるしと救いの恵みを、わたしの目で見て、口で味わって、わたしの体全体で経験するしるしです。中世の神学者アウグスティヌスは「見えない神の恩寵の目に見えるしるしである」と説明しました。また、宗教改革者たちが、「聖礼典は、聖書のみ言葉に従って正しく執行されることが重要である」ことを強調しました。聖礼典が人間の動作や儀式だけになってしまうと、それは魔術化し、真の意味がゆがめられていきます。聖礼典は神の言葉である聖書のみ言葉と密接に結びついて執行されなければなりません。聖書のみ言葉の解き明かしである説教と固く結びついて執行されなければなりません。聖餐式だけが執行されるということはあり得ません。説教で語られた主イエス・キリストの十字架と復活の福音が目に目えるしるしとして執行され、差し出されるのが聖餐式です。ローマ・カトリック教会のように、説教を伴わないミサだけが行われる礼拝に対しては、わたしたちは異議を唱えなければなりません。また、ことさらに聖餐式をありがたがるような考えも改めなければなりません。
宗教改革以降、聖餐についての議論、聖餐論と言いますが、これがカトリック教会とプロテスタント教会、またプロテスタント教会の諸教派間で激しく議論されてきました。わたしたちの教会、改革教会の聖餐論を深く理解するうえで、他の考えをも知っておくことは助けになるでしょう。大きく4つのパターンに分けて、簡単に分類してみましょう。一つは、ローマ・カトリック教会の説です。それによれば、司祭が「これはわたしの体である」と言えば、パンが実質的に主イエスの体に変化するという説です。これを「実体変化説」あるいは「化体説」と言います。実際に目撃したことはありませんが、映像で見ると、司祭の言葉と共に鐘かベルのような音が響いていて、それとともにパンの実体が主イエスの体に変化するのだそうです。もちろん、わたしたちはそうは考えません。パンはいつまでもパンであり、ぶどう酒、ぶどう液もいつまでもそれが何かに変化することはありません。
二つめは、「共在説」と言われ、これはマルチン・ルターの説で、今でも主にルター派教会などで言われている節です。これは、パンとぶどう酒の実体は変わらないが、そのかたわらに主イエスの体と血の実体が共に存在しているという考えです。
三つめには、フリードリッヒ・ツヴィングリが唱えた「象徴説」です。パンとぶどう酒はそれぞれ主イエスの体と血とを象徴している記号であるという考えです。
実は、わたしたち日本キリスト教会の理解はこの「象徴説」であると言われることがあるのですが、それは間違いです。「象徴説」では、そこには信仰も聖霊のお働きも、必要なくなってしまうからです。聖餐式が単なる目に見える儀式、お芝居のようになってしまうからです。
カルヴァンはツヴィングリの「象徴説」に対しては激しく反対しました。そこでは信仰が何も養われることがないからです。カルヴァンは聖餐においての聖霊のお働きと、それを信仰をもって受け取ることの重要性を強調しました。パンはパンのままであり、ぶどう酒もぶどう酒のままで変化することはありませんが、それをわたしたちが主イエスの制定のみ言葉を聞きつつ、信仰をもってそれを食し、それを飲み、味わうときに、そこに聖霊が働き、説教で聞いた救いの恵みをわたしの目と口を通して体全体で受け止め、わたしの信仰をより強め、確かにするのだと、カルヴァンは教えました。
『日本キリスト教会式文』では、このように言われています。「栄光の主は、聖霊において、わたしたちの食卓にともにいまし、信仰をもってこれにあずかる者のうちに働き、交わりを新たにし、罪の赦しと、永遠の生命の約束を堅くし、教会の一致を保たせてくださいます」。
最後に、聖餐の終末論的な意味を確認しておきましょう。きょうの聖書の26節に「主が来られるときまで」と書かれています。共観福音書では「神の国で新たに飲むその日まで」(マルコ福音書14章25節)と言われています。聖餐は終わりの日の神の国での大宴会の日まで続けられます。その終わりの日の祝宴を先取りして行われます。わたしたちの目から涙が全くぬぐい取られ、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)、全く新しくされた神の国での祝宴を待ち望みながら、またその祝宴を先取りするように、聖餐は行われます。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたがこの一年、わたしたちの教会とわたしたち一人一人と、いつも共にいてくださり、すべての必要なものを備えてくださり、わたしたちの信仰の道を守り、導いてくださいましたことを覚え、心から感謝をささげます。わたしたちの不信仰や多くの欠けや破れにもかかわらず、あなたの恵みが多くあったことを覚え、今深い悔い改めとともに、大きな喜びを覚え、あなたのみ名をほめたたえます。
〇願わくは、あなたの義と平和が全世界のすべての国民、すべての地域、すべての人々の上に与えられますように、切に祈ります。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。