2025年1月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(39)
聖 書:レビ記20章22~26節
マタイによる福音書18章15~20節
説教題:「信仰による信徒の訓練」
『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その後半の部分、「主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し」という個所では、教会の務め、使命について3つが挙げられています。宗教改革者ルターとカルヴァンは、一つ目の「正しくみ言葉を宣べ伝える」ことと二つ目の、「聖礼典を行うこと」を、真実の教会であることの目印、基準であると言いました。彼らから少しあとの時代の、改革教会の信仰告白では、その二つに、「信仰の訓練」、あるいは「教会の訓練」、わたしたちの教会の信仰告白では「信徒の訓練」ですが、これを三つ目の目印、基準として付け加えるようになりました。
その代表的な二つを紹介します。1561年に制定された『ベルギー信仰告白』の第28条ではこのように告白されています。「まことの教会が認識されるしるしは、これである。すなわち、教会が福音を純粋に説教しているかどうか、キリストの訓令に従って正しくサクラメント(聖礼典)が執行されているかどうか、生活をただすために教会訓練を守っているかどうかである」。前年の1560年に制定された『スコットランド信仰告白』の第18条ではもう少し説明を加えています。「神の真の教会のしるしは、まず第一に神のみ言葉の真の説教であると、われわれは信じ、告白し、明言する。預言者と使徒の文書が明らかにしているように、神はそのみ言葉によってご自身をわれわれに啓示されたからである。第二は、キリスト・イエスの聖礼典の正しい執行である。聖礼典は、神のみ言葉と約束がわれわれの心に封印され、確実にされるように、それらに結合されていなければならない。最後は、神のみ言葉の規定に従って、正しく行われる教会規律である。それによって、悪徳が抑制され、善き行いが養われるのである。これらのしるしが認められ、常に継続しているところではどこでも、疑いなく真のキリストの教会が存在する」。
秋田教会もまた、真実の、主キリストの体なる教会であり続けるために、この三つのしるしを常にみんなで確認し合いながら、歩んでいきたいと願っています。主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章20節)と約束しておられます。
では、きょうのテーマである「信徒の訓練」とは何を言うのかを学んでいきましょう。最初に確認しておくべきことは、この訓練は「信徒の」訓練、あるいは信仰の訓練とか、教会訓練と言われるように、すでに信仰を告白し、主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされていることを信じているキリスト者が、その信仰をより確かにし、主キリストの教会のためにより正しく仕えていくための訓練であるということです。すなわち、その訓練によって、何か新しい信仰を生み出すとか、何か新たな悟りを開くとかいうのではなく、また主イエスの福音以外の何かを付け加えるための訓練、あるいは修練とかではないということです。むしろ、いよいよ主イエスの福音のみに集中し、主イエスの福音以外の何ものにも頼らない信仰者となるための訓練です。
したがって、信徒の訓練、信仰の訓練、教会訓練は、徹底して聖書のみ言葉に基づいて行われなければなりませんし、主イエスの福音にふさわしくなされなければなりません。そしてまた、主イエスの体である教会を健全に建てるための訓練でなければなりません。
そこで、あらためて注目したいことは、『信仰告白』の中で、「主の委託により」という文章が「正しくみ言葉を宣べ伝え」と「聖礼典を行い」とに続いて、三つ目の「信徒を訓練し」にも、直接的ではないにしても、ある程度関連していると理解すべきだということです。信仰の訓練は主イエスのみ心に従ってなされなければなりませんし、主イエスのみ言葉の宣教と聖礼典の正しい執行との関連でなされなければなりません。したがって、信仰の訓練は何よりもまず主の日の礼拝をとおしてなされなければなりません。礼拝で主なる神のみ言葉を、わたしをまことの命に生かす唯一の生ける神のみ言葉として聞き、主イエス・キリストの福音を、わたしを罪から救う唯一の命のみ言葉として聞くことから、信仰の訓練が始まっていくということです。そして、み言葉で語られた命と救いの恵みの、目に見えるしるしである聖礼典によって、わたしの信仰がより確かにされ、聖霊によってわたしの中に封印されていくのです。そのようにして、信仰の訓練が継続されていきます。さらには、神の祝福と派遣のみ言葉によってこの世へと派遣されていく信仰者は、この世にあって神のみ言葉を携え、神のみ言葉に導かれつつ、いまだ罪が支配しているこの世にあって、罪の誘惑と戦いながら、主イエス・キリストを証しして生きていきます。その全体が、信仰の訓練の時なのです。主イエス・キリストの体なる教会は、そのようにして、み言葉の説教と聖礼典と信徒の訓練とが固く結びあってなされることによって、健全に建てられていくのです。
日本キリスト教会では一時期、信徒が良く学び、頻繁に修養会などを開催し、教会の青年会、婦人会などで読書会を開いたりして、勉強熱心であることが信仰の訓練であると言われていたことがありました。もちろん、そのようなことも信仰の訓練の一つではありますが、中心ではありません。他の宗教団体やスポーツクラブなどの、修練とか鍛錬と言われるものではありませんし、新たな悟りを開いたり、真理を見いだすためになされるものでもありません。「信徒の訓練」が教会論という大きな枠の中で告白されていることからもわかるように、真実の教会を形成していくためになされるものです。一人の信仰者の信仰の成長のためと言うよりは、教会という、健全な群れの形成のためになされる訓練です。宗教改革以後の信仰告白で、「教会訓練」「教会規律」と言われているのは、そのような意味を持っています。
したがって、信仰の訓練は、信仰者一人一人に与えられている信仰の賜物を互いに分かち合うことによってなされます。あるいはまた、喜んで互いの重荷を担い合うことによってなされます。泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜びながらなされます。
では次に、聖書に教えられている実例から学んでいきましょう。一つには、イスラエルの民がエジプトを脱出してからの荒れ野の40年間が、彼らを神が訓練された期間であったと旧約聖書で教えられています。申命記8章2節以下では、神がイスラエルの民を荒れ野に導いたのは、彼らの信仰を訓練するためであり、彼らが神の戒めを守るかどうかを試し、神のみ言葉だけが彼らが荒れ野で生きていくための糧であることを知るためであったと書かれています。神がイスラエルの民を荒れ野、すなわち砂漠地帯の何もない、食料も水もなく、住む家も商店街もない、そのような困難な状況の中に彼らを導かれたのは、その困難の中でただ主なる神の口から出る一つひとつのみ言葉をこそ信じ、それによって生きるべきことを学ぶためであったのです。それは、イスラエルが一つの礼拝の民として形成されていくための訓練の時であったと言ってよいでしょう。イスラエルの荒れ野の訓練は、一つの礼拝の群れを形成することを目指していたのです。
そして、新約聖書でも至る箇所で、神は信仰者に信仰による訓練をお与えになり、その訓練によって、天にある永遠の宝をいよいよ強く追い求めるように導いてくださることが語られています。わたしたちの魂の父であられる天の父なる神は、地上の親が子どもを愛し、訓練するように、いな、それ以上の大きな愛と報いとをもって、わたしたち信仰者を訓練なさいます。それは、わたしたちが地上にある朽ちゆく命を養うためでなく、「朽ちず、汚れず、しぼまない」「天に蓄えられている財産を受け継ぐため」(ペトロの手紙一1章3節以下参照)だと教えられています。
また、ペトロの手紙二3章16、17節にはこのように書かれています。「聖書はすべて神の霊によって書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」。わたしたちは主イエス・キリストの僕(しもべ)として、主イエスを証しし、主イエスの救いのみわざのために仕える務めを与えられています。聖書のみ言葉はそのための訓練をも導きます。
信仰の訓練にはもう一つの側面があります。それは「戒規」と言われます。信仰の道からそれないための訓練のことです。主イエスはマタイ福音書18章15節以下でこのように教えておられます。【15~17節】(35ページ)。改革教会では、ここから「戒規」とか「訓練規程」という制度と規則を設けました。日本キリスト教会では規則第18条で「戒規」について定めています。
戒規は、信仰者が主イエス・キリストの福音からそれて、罪の道へと進んでいくことを防ぎ、再び信仰の道へと連れ戻すための制度、規則であり、また教会を偽りの教えや不正義、混乱から守り、秩序ある群れとして整えることを目的とした制度、規則です。したがって、これは信仰者のあやまちを裁く法廷では決してありませんし、怠惰で不真面目な信仰者をむち打つ罰でもありません。迷った信仰者を主イエスのもとへと連れ戻すための福音であり、また罪を犯した信仰者を悔い改めへと導くための福音なのです。
主イエスが教えておられるように、信仰の訓練とは、あるいは教会訓練、戒規、訓練規程とは、罪の中にあって傷つき、病んでいる兄弟姉妹を、その病の中から導き出し、悔い改めと信仰へと進ませ、そのようにして、失われつつあった兄弟姉妹を再び獲得することなのです。そのようにして、主イエス・キリストから教会に託されている、尊い神の国のカギの権能を、恐れをもって行使することなのです。そのすべては主イエス・キリストの福音によって行われるものなのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、わたしたちは弱く、くずおれやすく、罪と悪の誘惑に対して抵抗する力を持ちません。どうか、あなたがみ言葉の力と命によって、わたしたちをすべての悪しき力からお守りくださいますように。日々に、わたしたちをみ言葉によって訓練し、養い、育て、あなたのみ心に従順に従う者としてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和とがこの世界を支配しますように。すべての人が唯一の主であり王であられるあなたを恐れる者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。