2025年1月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記4章10~17節
ヨハネによる福音書14章25~31節
説教題:「神の招きとモーセの拒否」
出エジプト記3章から、モーセの召命についての記述が続いています。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すという神の救いのみわざのために、その指導者として召し出されます。そのための神の招きのみ言葉とモーセの応答が、4章の終わりまで続きます。神とモーセとの対話がこれほどに長くなった理由については、前回学びましたように、モーセが何度も神の招きを拒否したからです。でもそれ以上に、モーセの度重なる拒否にもかかわらず、神が忍耐強く、繰り返してモーセをお招きになったからです。3章と4章には、神の招きとモーセの拒否が、実に計5回も繰り返されているのです。
このような計5回にもわたる神の招きとモーセの拒否は、出エジプトという神の救いのみわざに仕えるモーセの務めがいかに困難で、重いものであるのかを、あらかじめ予想しているように思われます。また、この5回にわたる神の招きとモーセの拒否の中で、神のお名前、「わたしはあるという者だ」という神のお名前が明らかにされています。また、モーセに神の杖が授けられ、その杖はエジプトでの神の不思議なしるし、奇跡を行うために用いられ、さらには出エジプト後の荒れ野の40年の旅を導くためにも用いられます。モーセの度重なる拒否と、神の忍耐強い繰り返しの招きの中で、神はこのような、思いもかけない、予想外の大きな恵みをもお与えになるのです。
ではきょうは、モーセの4回目の拒否と神の招きの箇所から読んでいくことにしましょう。【10~12節】。モーセはここで初めて、自分自身の能力の不足を、断る理由として挙げています。彼は自分が口下手であることを三度も繰り返しています。「弁が立たない」「口が重い」「舌が重い」、彼が実際そうであったのか、あるいは謙遜でそう言っているのか、もしかしたら神の招きを拒否したいからそんな理由をつけているのかは、はっきりしません。でも「あなたが僕(しもべ)にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです」というモーセの言い方から判断すると、ここには明らかにモーセの不信仰が現れていることが分かります。神は3章12節で、「わたした必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と約束されたにもかかわらず、また3章14節では、「わたしはある、わたしはあるという者だ」という神のお名前を明らかにされたにもかかわらず、そしてまた4章1節以下では、モーセが手にしていた杖によって神が奇跡を行ってくださったにもかかわらず、それでもなおも神を信じることができないモーセの不信仰が、ここにはあるということがわたしたちには分かります。
そうであるとは言え、わたしたちにはモーセが抱いていたであろう不安も理解できます。モーセはエジプトで奴隷として苦しめられていた民の中にはいませんでした。彼はエジプトの王宮で育てられました。イスラエルの民の指導者たちとの面識もありません。また、エジプト王ファラオからは一度は命を狙われていたこともありました。その王の前でイスラエルの民を解放してくださいなどと要求することが、どんなにか困難な務めであるのかを、モーセでなくても、だれしもが感じるに違いありません。
いや、そもそも、わたしたち人間が神から新しい務めを託されたときに、だれがいったいそれを自信をもって、直ちに引き受けることなどできるでしょうか。弱く、欠けや、破れが多いわたしたち人間が、神からの務めを担い、神のみ言葉をわが身に担うことが、果たしてできるでしょうか。旧約聖書の預言者たちも、その務めを担うことの困難と不安とを自覚していました。エレミヤは預言者としての召命を受けたときにこう言っています。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ書1章6節)。イザヤもまた神殿で神と出会ったときにこう叫びました。「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ書6章5節)。エレミヤもイザヤも、主なる神の招きのみ言葉を聞いた時、自らの罪と貧しさを告白するほかにありませんでした。
けれども神は、そのような貧しく弱く、罪と汚れの中にある彼らをお立てになって、イスラエルの偉大な預言者とされたのでした。モーセの場合もまた同じです。たとえモーセが、実際に口が重く、口下手で、弱さや欠けを多く持っている人物であるとしても、しかし神は、あえてそのようなモーセをお選びになる、神の大いなる救いのみわざのための奉仕者としてお用いになるのです。モーセが自分の知恵や能力を発揮してその務めを担うのではありません。むしる、彼の弱さの中でこそ、主なる神ご自身がお働きになられるからです。
神はモーセに言われました。【11~12節】。神は全世界、全被造物の造り主であられます。すべての人間の造り主であられます。モーセを創造されたのも主なる神です。モーセの命、存在、彼の体と魂も、彼のすべてを神が創造され、今も神がみ手のうちに治めておられます。その主なる神がモーセをお用いになるのですから、神は彼の弱さも欠けも、破れも、すべてをご存じであられ、そのようなモーセをお用いになるのです。たとえ彼が口下手であっても、手が不器用でも、足が遅くても、神はそのすべてをご存じであられ、そのような人をお用いになるのです。それゆえに、モーセの弱さや欠けは、神の招きを拒否する理由にはならないのです。神は言われます。「わたしはそのようなあなたをこの務めへと召し、そのようなあなたを用いるのだ。あなたはそのままでよい。だからこの道を行きなさい。わたしがあなたと共にいる。あなたにとって、この約束だけで十分だ」と。
神はご自身の救いのみわざのためにわたしたち人間の弱さや欠点をもお用いになります。使徒パウロがコリントの信徒への手紙二12章9節以下で語っているように、神の恵みと力はわたしたちの弱さの中でこそ完全にあらわされるからです。【9~10節】(339ページ)。モーセの場合も同じです。
ところが、今度もまたモーセは神の招きを拒否します。【13節】。この5回目のモーセの拒否には何の理由もつけられていません。これは明らかに神の招きに対する抵抗、または反抗、拒絶です。それは神が差し出された恵みを拒絶することであり、神に対する明から罪です。この罪に対しては、神は怒りをあらわにされます。これまでは、4回のモーセの拒否に対して、神はそのつど適切な回答をお与えになり、モーセに愛と憐れみとをもって、忍耐強く説得を試みてこられました。しかし、今回の5回目ではもはや説得するすべは残されていません。ありうるのは神の怒りのみです。
【14a】。神はここで、ついに忍耐袋の緒が切れたのでしょうか。神はここでモーセを諦めざるを得ないのでしょうか。モーセが言うように、だれはほかの人を召すことを考えなければならないのでしょうか。
ところが、驚くべきことに、神のモーセに対する招きのみ言葉はその神の怒りを超えて、さらに続くのです。【14節b~17節】。神がモーセの5回目の拒否に対して、怒りを覚えておられますが、そのあとで語られるみ言葉が、彼に対する裁きの言葉とか、あきらめの言葉とかではなく、なおもモーセをご自分につなぎ留めておくための招きの言葉であるということに、わたしたちは大きな驚きを覚えざるを得ません。何とも大きな神の忍耐であり、憐れみであり、そしてまた確かな、断固とした神の招き、召命であることでしょうか。神はひとたび選ばれた人を、ひとたび選ばれた民を、どのようなことがあろうとも決してお見捨てにはならず、その人の主なる神であることを、その民の主なる神であることを、決しておやめになることはありません。神の選びの愛と恵みは、モーセの5回にもわたる拒否よりもはるかに大きく、強いのです。モーセの弱さや欠け、不安や恐れ、ためらいやかたくなさ、しかしそれらよりもはるかに大きく、強い神の招きはモーセを捕らえて離しません。それはまた、奴隷の家イスラエルの民に対する神の愛と選びの大きさ、確かさでもあり、そして彼らをエジプトの奴隷の家から救い出される神のみ心の確かさ、強さであり、神の永遠なる救いのご計画の確かさでもあるのです。エジプトの奴隷の家で苦しむ彼らの叫びを聞かれ、その民を苦難から救い出し、約束の地カナンへと導き上ろうとされる神の強い意志、断固とした決意は、全人類を罪から救うために、ご自身の一人子なる主イエス・キリストを十字架の死に引き渡されるほどの大きな愛へと結集していくことになるのです。
モーセの5回目の拒否に対して、神は前にモーセが不安に思っていた口が重いという彼の弱さを補うために、彼と共に働く同労者として兄弟アロンをお選びになります。民数記26章59節の系図によれば、アムラムとヨケベドの夫婦に息子アロンとモーセ、および娘ミリアムが生まれたと紹介されています。出エジプト記1章22節で、エジプト王ファラオが、「イスラエルの家に生まれた男の子をみなナイル川に投げ込め」と命じる前に、モーセには兄アロンと姉ミリアムがいたということが分かります。神はそのアロンをモーセと共に働く同労者とされました。アロンは口が重いモーセに変わって、神がモーセに語られた言葉を、モーセがアロンに語り、アロンがそれをイスラエルの民とエジプト王ファラオに語るのです。モーセの口もアロンの口も、神の言葉の代弁者として用いられます。神はモーセの口と共にあり、またアロンの口と共にあると約束されています。ここに、旧約聖書の預言者の務めの原型があります。モーセもアロンも共に神の言葉にお仕えする預言者として、またその神の言葉を実際に実行する奉仕者として、神に召し出され、神の偉大な救いのみわざのために用いられることになるのです。神の言葉を聞き、また神の言葉を語る人は、なんと幸いな人でしょう。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたがかつて強いみ腕をもってイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されたように、今この時、あなたはみ子の十字架の血によってわたしたちを罪の奴隷から救いだされましたことを、心から感謝いたします。み子の十字架の血によって罪から贖われ、み国の民とされていることを感謝しつつ、あなたのご栄光のために日々信仰の歩みを続けることができますように、お導きください。
〇主なる神よ、この世界を顧みてください。あなたのみ心に背き、争いや分断、略奪や破壊を繰り返しているこの世界に、あなたの義と平和が実現されますように。為政者たちや指導者たち、またすべての人々が天におられる唯一の主であり全地の支配者であられるあなたの恐れ、あなたのみ心がなんであるかを尋ね求め、和解と共存を願う者とされますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。