1月19日説教「イスラエルの民を導かれた神」

2025年1月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記26章5~11節

    使徒言行録13章16~25節

説教題:「イスラエルの民を導かれた神」

 使徒パウロの第一回世界伝道旅行は、地中海のキプロス島から小アジア(今のトルコ)のパンフィリア州ペルゲに上陸し、そこから奥地への険しい山道を北上して、ピシディア州アンティオキアに到着しました。その町でのユダヤ人会堂でなされたパウロの説教が使徒言行録13章15節から記されています。前回はその初めの部分を学びましたので、きょうは18節あたりから読んでいくことにしましょう。

 この説教の初めで、パウロは神がイスラエルの民をお選びになり、エジプトの奴隷の家から導き出されたことを語っています。旧約聖書の出エジプト記に書かれていることです。モーセをリーダーにしたイスラエルの民は、エジプトを脱出したのち、荒れ野、砂漠地帯を40年間、旅することになります。

18節に、【18節】と書かれています。イスラエルの荒れ野の40年間は、神がイスラエルの人々の行いを忍耐された期間であったとパウロは理解しています。エジプトから約束の地カナンまでは、直線距離では400から500キロ程度ですから、ゆっくり旅しても1、2か月で着くことができたのに、神は彼らを荒れ野に40年間もさまよわせたのでした。それは、神の忍耐を彼らに示すためであったと、パウロは言うのです。この理解は、申命記で言われている内容と一致します。申命記8章2節以下を読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。荒れ野の40年間は、神がイスラエルの信仰を訓練する期間であり、彼らが神のみ言葉によってのみ生きるべきであり、また生きることができるのだということを学ぶ期間でもあり、彼らの神に対する不信仰や不従順を神が忍耐された期間であり、神の大いなる愛と憐れみが示された期間であったのです。

彼らは荒れ野で、のどが渇き、空腹に襲われたときに、モーセを非難してこう言いました。「あなたは我々をここで餓死させるために我々を荒れ野に連れてきたのではないのか。エジプトでは腹いっぱい肉鍋を食べ、飲み水に不自由したことはなかったのに」。彼らは何度もそのように言っては、神の救いのみわざを疑い、エジプトでの奴隷の生活を懐かしんだのでした。神はそのたびに彼らの不信仰を嘆かれ、怒られましたが、しかし、それにもかかわらず、神は彼らをお見捨てになることはなさらず、忍耐と憐れみとをもって、必要なすべてのものを彼らに備え、荒れ野の40年間を導かれたのでした。

それはなんのためであったのか。パウロは26節で、「この救いの言葉はわたしたちに送られました」と結論づけています。荒れ野の40年間のイスラエルの民の繰り返された神に対する罪と反抗、しかしそれにもかかわらず、絶えることがなかった神の忍耐と憐れみ、そして愛と慈しみに満ちた信仰の訓練の時、それは、主イエス・キリストの福音によって、今のわたしたちに与えられている救いの言葉なのだというのです。

荒れ野の40年間だけでなく、パウロが続いて語る土地の取得や、裁き司、士師の時代、イスラエル王朝の時代、ダビデ王への神の宣言、洗礼者ヨハネの登場、それらのすべてが、今のわたしたちに語られている神の救いの言葉なのだと、言うのです。パウロはこのようにして、旧約聖書で語られているイスラエルのすべての歴史、民の歩み、その中で示された主なる神の愛と憐れみ、慈しみが、主イエス・キリストによって成就している、今のわたしたちに差し出されている救いの言葉なのだということを語っているのです。

荒れ野の40年の後は、約束の地カナンの土地取得です。【19節】。最初に、族長アブラハムに与えられた約束の地カナンの取得は、アブラハムから数えると、族長時代200年間、エジプト移住時代400年間、荒れ野の40年間を合計すると、実に650年もの時を経て実現されたのです。

次の、預言者サムエルまでの士師の時代、神はイスラエルの民を神の言葉によって裁き、導く士師たちをお立てくださいました。12人の士師たちの働きについては、士師記に記されています。イスラエルが約束の地に長く住み慣れてくるにつれて、次第に神から離れ、偶像礼拝や神に背く罪を犯し、その結果として外国からの攻撃に悩まされ、国が危機に陥ったときに、神はデボラ、ギデオン、サムソンなどの士師たちをお立てになりました。彼ら士師たちはイスラエルの民に神の言葉を語り、再び神に立ち返らせるために仕えました。このような士師たちの働きは、のちの時代の王や預言者たちへと引き継がれていくことになります。

21節からは、王制の時代について語られています。【21~22節】。「人々が王を求めたので」と書かれています。この表現には、イスラエルの王制は神のみ心によって始まったというよりは、人々からの要請によるという、パウロ自身の理解があるように思われます。実は、旧約聖書の中には、その二つの理解が混同というか、共存というか、二つが並行してあると、今日の多くの聖書学者はみています。

この時代、紀元前11世紀ころの近東諸国は、エジプトをはじめとして多くは王制国家でした。一人の王の支配のもとで、国家がまとまり、一人の支配者によって強力な軍隊を持つ国家が、より安定した、また強力な国家になると考えられていたようでした。イスラエルの士師の時代には、何か国家の危機があったときにはひとりの士師が立てられ、イスラエルを治め、導いていましたが、国家が安定するとその士師の働きは終わり、部族ごとの緩やかな連合に戻るというのが、士師時代のイスラエルの政治形態だったのです。

でも、幾度も外国からの強い軍隊によって攻撃を受け続けたイスラエルには、永続的に国を治める王を立てることが、国の安定と強化を図るのに便利だという考えが起こってきました。それが、「人々が王を求めた」というパウロの表現になっていると思われます。

ところが、イスラエルにはもう一つの伝統的な考え方がありました。それが、イスラエルを治め、導くのは、ただお一人、主なる神だけである。神の言葉、神の律法だけが唯一の権威を持ち、イスラエルのすべての歩み、政治も市民生活をも、そして信仰をも導くのだから、地上の王を持つことは神に背くことになる。それゆえ、王制には反対だという考えです。サムエル記上8章以下に、そのような二つの考えがあったことが記されています。

イスラエルの初代の王サウルからダビデ、ソロモンへと王は移っていきますが、その間に、相対立したこの二つの考え方は次第に調整されていくことになりました。すなわち、地上の王は天の唯一の王であられる神のみ心を行うために神の委託によって立てられているのであるから、地上の王は民の上に君臨するよりも前に、神のみ前にへりくだり、神の僕(しもべ)として、神のみ心を行い、神とその民に仕える者であるべきだという考えです。

この考えのもとで、ダビデはイスラエルの理想的な王であると評価されるようになりました。そして、そのダビデに対して、神は重要な約束をお与えになりました。23節で、パウロはこのように言います。【23節】。これが、ダビデ契約と一般に言われるものです。サムエル記下7章に記されていますので、その個所を読んでみましょう。【12~16節】(490ページ)。神はダビデとこの契約を結び、彼の子孫から出る一人のメシア・油注がれた者、救い主をこの世に送ってくださる、その王国を固く据えると約束されたのです。

イザヤ書11章1節以下にはこう預言されています。「エッサイの株からひとつの芽が萌出いで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。これが、エッサイ(ダビデの父親の名前)の子孫から出て、全世界を神の義と愛によって治めるメシア・救い主であられる主イエス・キリストの誕生を預言するみ言葉として、クリスマスの時に読まれるようになったのです。

 そして、マタイ福音書1章1節の主イエスの家系図では、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」として、主イエスの父親となるヨセフについては、16節で、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と書かれています。ルカ福音書1章27節、32、33節でも、主イエスはダビデの子孫としてお生まれになったことが繰り返して語られています。【27節】。【32~33節】(100ページ)。

使徒パウロもまた。ローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」と言っています。旧約聖書のダビデ契約が、時満ちて、ダビデの遠い子孫であるヨセフを父としてお生まれになった主イエスによって成就したのだと、新約聖書は一致して語っているのです。

まさに、イスラエルの民に語られた神の救いの言葉が、今パウロの説教をとおしてアンティオキアのユダヤ人会堂に集っているユダヤ人やギリシャ人に届けられたのであり、また、使徒言行録のみ言葉をとおして、今日のわたしたちにも届けられているのです。神の永遠の救いのご計画の中に、わたしたちもまた招かれているのです。

24節からは、洗礼者ハネの登場について語られています。【24~25節】。洗礼者ヨハネの登場と彼の荒れ野での説教、悔い改めの洗礼については、共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカ福音書に詳しく語られています。洗礼者ヨハネは、最後には殉教の死を遂げますが、彼は彼の全存在と全生涯、そして彼の命そのものをかけて、彼のあとにおいでになられるメシア・救い主なる主イエス・キリストの到来を証ししたのです。

そして今、それらのすべての救いの言葉によって差し出されている神の豊かな恵みを受け取ったわたしたちもまた、わたしの生き方、わたしの行動、わたしの言葉によって、わたしたち全人類の救いのために十字架で死んでくださり、三日目に復活された主イエス・キリストを証しするように招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、天地創造の時から始められたあなたの永遠なる救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をもお招きくださっておられますことを、心から感謝いたします。あなたのこの救いのご計画から、だれ一人としてもれることがありませんように。全世界に建てられている主の教会の宣教の働きを、どうかあなたがお強めくださいますように。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和が到来しますように。国と国が、民族と民族が、そして一人と一人が、互いに分かち合い、協力し合い、許し合う一つの世界となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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