2月23日説教「終わりの日に備えて生きる」

2025年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(40)

聖 書:マラキ書3章19~24節

    マタイによる福音書24章29~44節

説教題:「終わりの日に備えて生きる」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。終末論とは、終わりの日、終わりの時、最後のことに関する教えです。キリスト教の時の理解は、時には初めがあり、終わりがあるという理解です。これと対比されるのが、一般的に言われる輪廻思想です。輪廻思想では時の流れは円周のように、またはらせん状のように繰り返しますから、はじめも終わりもありません。キリスト教では、聖書の構造がそうであるように、初めに神の天地創造があり、終わりに神の国の完成であるヨハネの黙示録があることからも分かるように、すべての時の初めがあり、そしてすべての時の終わりがある。そして、そのすべての時を神がご支配しておられるというのが、キリスト教の時の理解です。

 では、わたしたちの『信仰告白』では、終末論はどのように取り扱われているのかを次に見ていきましょう。最初にも言いましたように、『信仰告白』の前文では、大きな項目の「教会論」と言われている教理の中で、終末論が取り扱われています。『信仰告白』の後半の『使徒信条』では、第2項の「キリスト論」の中の最後で、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白されている個所が終末論になります。また第3項の「聖霊論」あるいは{教会論}の中では、「体の復活、永遠のいのちを信じます」も終末論に属します。『使徒信条』では「キリスト論」と「聖霊論」の中で「終末論」が取り扱われているということが分かります。このように、終末論はいずれの場合にも、それが単独で論じられているのではなくて、「教会論」の中で、「キリスト論」「聖霊論」との関連の中で語られているのです。

 その理由は、おそらくは他の諸宗教で一般的に論じられる終末論と混同されることを避けるためであろうと推測されます。いつの時代でも、世界や社会が混乱し、世情が不安定になってくると、さまざまな終末論が盛んに論じられるようになります。世紀末の終末論と言われたりします。しかし、キリスト教の終末論は、世界や社会の動向には左右されず、聖書そのものから導き出された終末論ですから、それらの一般的な終末論と混同されないように、キリスト教教理全体との関連の中で、創造論やキリスト論、救済論、教会論、聖霊論との関連の中で、終末論を考えることが重要になります。

 では次に、『日本キリスト教会信仰の告白』で終末論が教会論の中で告白されていることの意義について考えていくことにしましょう。「終わりの日に備えつつ、主が来られるの待ち望みます」。この文章の主語はこの段落の冒頭にある教会です。つまり、教会とは、終末の時に備えて生きている信仰者の群れであり、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望んでいるキリスト者の群れであるということが告白されているのです。一般的に、キリスト教の終末論とは何かとか、わたしたちがどのような終末信仰を持つべきだとかが教えられているのではなく、教会とは、また教会に集められているわたしたち一人一人は、そもそも終末論的な共同体であり、終末論的な存在なのだということが告白されているのです。

 教会はこの世に建てられています。今の時代の中で、今のこの場所に生きています。しかし、教会は今のこの世を基準にして生きているのではありません。今のこの時代にある目標を目指して生きているのではありません。教会は終末の時に備えて、終末の時に完成される神の国を基準にして、それを目標にして生きています。教会は終末論的存在であり、終末論的共同体なのです。

 ヘブライ人への手紙11章では、旧約聖書の族長たちもまたそのような終末論的な信仰を持ち、終末論的な信仰に生きていたということが語られています。11章13節以下を読んでみましょう。【13~16節】(415ページ)。族長たちはアブラハムもヤコブもイサクも、だれもまだ神の約束の地を実際には取得してはいませんでしたが、神の約束の言葉を信じながら、地上では旅人、寄留者として信仰の歩みを続けました。この手紙の著者はその彼らの信仰を、彼らがこの地上をはるかに超えた「天の故郷を熱望していた」からだと言います。そして、神は彼らに確かに天の都を用意しておられたのだと言います。フィリピの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と。わたしたち教会の民は、終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ、神の約束の言葉によって今すでに神の国に生きている者として、この地上では旅人、寄留者としての信仰の歩みを続けるのです。

 わたしたちが天に本来の国籍を持ち、地上では旅人、寄留者として生きるとは、具体的にどのような生き方を言うのでしょうか。第一には、わたしたちがこの世で見たり経験したりするすべての出来事、すべての現象は、それは最後の究極的なものではなく、それらは過ぎ去り行くもの、暫定的なものであり、途中のものであるということを、わたしたちに悟らせるのです。なぜならば、終わりの日に、神の国が完成されるときにこそ、最後のもの、究極的なものが現れるからです。

 使徒パウロはコリントの信徒への手紙7章29節以下で、「定められた時が迫ってきている。だから、今持っている人は持っていない人のように、今泣いている人は泣かない人のように、今喜んでいる人は喜ばない人のように、今この世とかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。なぜならば、この世のありさまはみな過ぎ去るからです」と言っています。

 したがって、終末信仰に生きる人は今の現実によって束縛されることはありません。たとえ、わたしが今この世で絶望とどん底に突き落とされたような艱難や災いにあうとしても、それがわたしの最終的は敗北でも最後でもありません。あるいは、たとえわたしがこの世のすべての繁栄と名誉とを手に入れることができたとしても、それがわたしの最終的な勝利でも幸いでもありません。最終的な判断は、終わりの日に、最後の審判者であられる主イエス・キリストが羊と山羊とを右と左に分けるように、すべての人を救いと滅びにお分けくださるのですから、その時まで待たなければなりません。

 それと同時に、たとえわたしが絶望の淵に突き落とされるようなときにも、わたしはなおも再び立ち上がり、わたしの救い主であられる主イエス・キリストに向かって頭を高く上げ、すべての艱難や災いをも忍耐強く耐え忍ぶことができるのであり、あるいはわたしがどれほどの繁栄を手に入れようと、それに頼ることなく、主イエス・キリストのみ前に謙遜にお仕えしていくことができるのです。

 終わりの日に備えて生きるキリスト者の生き方の第二の特徴は、未来に向かって常に目覚めていることです。ローマの信徒への手紙13章で、使徒パウロはこう言っています。「更に、あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(11~12節)と。終わりの日に備えて生きる信仰者は、たとえ今がどんなに暗い闇に閉ざされていても、夜明けが近いことを知っているゆえに、眠っていることはできません。目覚めて朝を待つのです。

 また、主イエスは小黙示録と言われるマタイによる福音書24章、25章の終わりの日についての説教の中で、繰り返して「目を覚ましていなさい」と呼びかけておられます。24章42節では、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られられるか、あなたがたには分からないからである」。また、25章13節でも、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 目を覚ましているとは、過ぎ去り行くこの世からは目を離して、永遠に変わることのない主イエスのみ言葉を聞きながら、終わりの日の主の再臨を待ち望んでいることです。主イエスが再びおいでになるときには、主の約束のみ言葉はすべて主ご自身によって成し遂げられるでしょう。その時には、わたしたちの救いは完成し、永遠に主なる神がわたしたちと共にいてくださり、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)神の国での永遠の命をわたしたちに授けてくださるでしょう。

 主イエスがマタイ福音書24章、25章で教えておられる、終末に備えて生きる生き方の特徴の第三は、主イエスから託された務めを忠実に果たすということです。目覚めるとは、単に目を覚まして起きていることではありません。主イエスがいくつものたとえ話で教えておられるように、旅に出る前にご主人から託された務めを忠実に果たす僕(しもべ)であるということです。24章45~47節を読んでみましょう。【45~47節】(49ページ)。このたとえでは、家の主人が留守の間、家の使用人たちに時間どおりに食事を与える務めを僕に託したことが語られています。また、25章14節以下では、旅行に出る主人が僕たちにタラントンを預けるたとえが語られています。

 主イエスは復活されてから40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされたあとで、天に昇られました。その際に、弟子たちに務めをお与えになりました。マタイ福音書28章19節以下ではこのように命じられています。【19~20節】(60ページ)。また、使徒言行録1章8節ではこのように命じられています。【8節】(213ページ)。わたしたち教会の民は主イエスから託された福音宣教の務めを果たしながら、終わりの日に備えて、再び来られる主イエス・キリストを待ち望んでいるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが天地万物を創造されてお始めになったこの世界の歴史を、あなたは終わりの日の完成に向かって、この日もまたみ心のままに進めてくださいます。あなたの救いのご計画は、どのような人間たちの罪や不信仰によっても、決して変更されることも止まることもありません。どうかわたしたちがそのことを固く信じて、どのような困難な時代にあっても、あなたの忠実な僕として、あなたから託されている務めをこの日もまた果たしていくことができますように、聖霊の導きをお与えください。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月16日説教「イスラエルに与えられた神の救いの言葉は主イエスによってわたしたちに与えられた」

2025年2月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    使徒言行録13章26~41節

説教題:「イスラエルに与えられた神の救いの言葉は主イエスによってわたし

たちに与えられた」

 使徒言行録に記録されている初代教会の説教は、2章のペンテコステの日のペトロの説教をはじめ、7章の殉教者ステファノの説教も、そして今学んでいる13章のパウロの説教も、すべては同じ構造になっています。つまり、まず旧約聖書に描かれている神の救いのみわざが語られ、次にその旧約聖書の神の救いのみわざが、主イエス・キリストによって今ここで最終的に、完全なかたちで、成就している、神の救いが完成している、と語っています。今日のわたしたちの言葉で表現すれば、旧約聖書は来るべき主イエス・キリストを預言し、待ち望んでいる旧約聖書の民イスラエルの救いの歴史であり、新約聖書は預言と約束の成就としてこの世においでになられた主イエス・キリストの十字架と復活によって、神の救いのみわざが今や全世界のすべての人々の救いの出来事として、その最終目的に達したことを語っている。そのようにまとめることができるでしょう。

 きょうの箇所で説教者パウロは、旧約聖書の出エジプトの出来事から始まるイスラエルのすべての救いの言葉が、主イエスの直前に現れた洗礼者ヨハネの登場を経て、今やこの世においでになった主イエス・キリストによって、この時代に生きるわたしたちに送られている神の救いの言葉であると、26節で語ります。【26節】。「アブラハムの子孫の方々」と「神を畏れる人たち」という呼びかけは、説教の冒頭の16節にもありました。この呼びかけもまた、主イエス・キリストによって成就された救いの完全性を言い表しています。「アブラハムの子孫」とは、神に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人のこと、「神を畏れる人たち」とは、まだ正式にユダヤ教には改宗していないが、旧約聖書の神をあがめ、聖書の言葉の真理を信じている、ユダヤ人以外の信奉者のことです。すなわち、選ばれて民ユダヤ人だけでなく、他のすべての人々、異邦人と言われる全世界の人々も、主イエスの福音によって、神の救いの恵みへと招き入れられているということを、この二つの呼びかけは意味しているのです。

 次にパウロは27節以下で、主イエスご自身によって成就された救いの出来事について語ります。パウロの説教の内容を順にみていくと、27~28節では、ユダヤ人指導者たちによる主イエスに対する偽りの裁判と十字架による処刑のこと、29節では主イエスの墓への葬り、30節では主イエスの復活、31節では、復活された主イエスがそのお姿を弟子たちに現わされた復活の顕現、そして32節では、教会による主イエスの福音の宣教活動へと続きます。これを見ると、パウロの説教はわたしたちが今日、礼拝で告白している『使徒信条』の内容とほとんど一致していることに気づきます。『使徒信条』では、「主は……ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちより復活し……」と告白されています。パウロの説教の内容とほとんど一致しています。

 パウロの第一回世界伝道旅行でのこの説教は、紀元40年代の後半と考えられています。『使徒信条』がまとめられたのは紀元3~4世紀ころと推測されますから、パウロのこの説教から2、300年の初代教会の神学的な研鑽の時を経て、今日の『使徒信条』が完成したと言えます。パウロのこの説教が『使徒信条』が形成されていく一つの原形となったのかもしれません。

 では、この箇所でのパウロの説教の特徴をいくつか見ていくことにしましょう。27~29節までの、主イエスのご受難を語る箇所の主語は、27節冒頭の「エルサレムに住む人々やその指導者たち」です。彼らが、主イエスに対する妬みや憎しみ、誤解や不信仰によって、主イエスを偽りの裁判で裁き、主イエスには死に値する罪を全く見いだせなかったにもかかわらず、ローマ総督ピラトに頼み込んで、死刑の宣告をしてもらい、主イエスを十字架につけ、そして主イエスのお体を十字架から降ろし、墓に葬りました。それらの行為のすべての主人公は、彼らエルサレムの指導者たちです。彼らは、神から遣わされたメシア・救い主である主イエスを受け入れず、拒絶するという大きな罪を犯しているのですが、彼ら自身はまだそのことには気づいてはいませんでした。

 この箇所の文章の主語はすべて「彼ら」です。しかし注意深く読むと、そこには隠された神のみ心が働いていたことをパウロは何度も語っているのです。27節では、「(彼らは)預言者の言葉を理解せず、……その言葉を成就させたのです」と言われています。29節では、「イエスについて書かれていることがすべて実現した」とも言われています。彼らユダヤ人指導者たちの無理解と不信仰という罪の中で、しかし旧約聖書に預言されていた神の言葉が不思議にも成就されていき、神の救いのみ心とご計画が成就されていったのだと、パウロは強調しています。

 主イエスのご受難の歩みにおいて主導権を握っているのは、彼らユダヤ人指導者ではなく、ピラトでもなく、十字架の下で主イエスをあざ笑っていた民衆でもなく、主なる神の言葉なのです。神がお遣わしになったメシア・救い主を受け入れない彼らユダヤ人たちの無理解やかたくなさの中で、罪のない神のみ子を裁こうとした人間の傲慢や罪の中で、そのすべてを貫いて、神の救いのみ心が行われ、神の言葉が実現されていったのです。

 パウロの説教のもう一つの特徴は、30節から突然に主語が変わり、「しかし、神は」という、力強い言葉で始められていることです。【30節】。ある人は、これは「偉大なる、しかし、だ」と表現しています。人間たちの考え、行動、歩み、歴史、そのすべてが罪に傾いて、罪に向かって進んでいくときに、「しかし、神は」という言葉が、その罪の歩みをとどめ、罪と死から人間を救い出す、神の命の言葉が語られていくのです。天地万物を創造された全能の神、無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神が、主イエスを死者の中から復活させてくださったのです。そのようにして、新しい人間の歩みを、世界の新しい歴史を、神は始めさせてくださるのです。

 30節で語られている「しかし、神は」という、強い響きを持った言い方が、このあとも余韻を残しながら繰り返されています。33節では、「神はイエスを復活させ」、34節でも「イエスを死者の中から復活させ」、そして37節では、「神が復活させたこの方は」と、神が主イエスを復活させたことが3度も強調されて繰り返されているのです。まさに、神は死から命を生み出される神であられます。罪と滅びから救いと新しい歩みを始めさせてくださる神です。主イエスを死から復活させてくださった偉大なる神は、わたしたち罪びとをも、罪と死と滅びから救い出してくださることを信じる信仰へと、わたしたちは招き入れられているのです。

 30節から始まる神の新しい救いのみわざの展開を見ていきましょう。31節では、主イエスの復活の顕現と、神が主イエスの復活の証人たちをお立てくださったことが語られています。復活された主イエスは、12弟子をはじめ、ガリラヤやエルサレムで主イエスに従った多くの信仰者たちに、40日間にわたってご自分のお姿を現されました。十字架で死なれた主イエスが確かに復活されたことを多くの人々にお示しになりました。彼らが主イエスの復活の証人として立てられ、教会が形成されたのです。教会は彼ら復活の証人たちの証言を土台にして建てられています。教会は彼らの証言を信じる信仰によって、その後も生き続けています。主イエスはヨハネ福音書20章29節で、「見ないで信じる人は幸いである」と言われました。わたしたちは主イエスの復活のお姿を直接に見てはいませんが、初代教会の彼ら目撃証人たちの証言を聖書で聞き、主イエスの復活を信じる幸いへと招かれているのです。

次の32節も、主イエスの復活の証人たちの働きについて語っています。【32節】。ここでは、復活の証人たちの宣教の働きについて語られます。彼らが復活の証人として立てられたのは、彼らが次の世代の人々に主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝えるためなのです。

「証人」という言葉が使徒言行録全体で非常に重要な意味を持つ言葉として繰り返して用いられていることをもう一度確認しておきましょう。最初は1章8節です。【8節】(213ページ)。次に、1章22節では、イスカリオテのユダに変わる12使徒を選ぶ際には、「主の復活の証人になるべきです」と言われています。2章32節では、【32節】(216ページ)とあります。この後にも、何度も証人という言葉が用いられます。この言葉は、紀元1世紀終わりころに、ローマ帝国による組織的な教会迫害が始まる時代になると、「殉教者」という意味が付け加えられるようになりました。そして、今日、このギリシャ語から造られた英語のmartyr(マーター)という言葉は、証人とか目撃者という本来の意味はほとんど薄れて、殉教者という意味で用いられます。

わたしたちが主イエスの復活の証人として立てられるということは、究極的な意味合いで、わたしたちが殉教者となるということに他なりません。「たとえわたしの命が脅かされることがあろうとも、わたしはこの証言を変えません。なぜならば、死から復活された主イエスこそが、わたしにまことの命をお与えくださる唯一の主だからです」と告白するのが、主イエスの証人だからです。

33節以下でパウロは、主イエスの復活の出来事の大きな、そして深い意味について、旧約聖書のみ言葉を引用しながら語ります。【33~37節】。主イエスの復活は、死者がもう一度生き返った蘇生ではありません。罪と死に対する完全な勝利です。それゆえに、主イエスを信じるわたしたちに、朽ち果てることのない永遠の命の保証を与えるのです。

パウロの説教の三つ目の大きな特徴は、38節以下で語られています。【38~39節】。ここで語られていることは、わたしたちプロテスタント教会の中心的な教えである「信仰義認」のことです。のちにパウロがローマの信徒への手紙などで詳しく展開していく教え、16世紀の宗教改革者たちが再発見したプロテスタント教会の教え、信じる人はだれであれ、ただその信仰によってのみ神に義とされ、罪ゆるされ、救われるという、「信仰義認」の教えが、ここですでに語られているのです。わたしの救いに必要なことはすべて主イエスによって成し遂げられています。たとえ、わたしには神の律法の一つをも守り行うことができなくても、罪多く、欠けや破れに満ちている人間であったとしても、わたしのために救いのみわざを成し遂げてくださった主イエスを、わたしの救い主と信じる信仰によって、神はわたしのすべての罪をゆるしてくださり、わたしを神のみ前で罪なき者とみなしてくださり、ただ神から差し出される一方的な恵みによって、神はわたしを義と認めてくだるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたから差し出されている救いの恵みを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの恵みに応えて、復活の主イエスを証しする者とされますように。

〇この世界にあなたの義と平和が実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月9日説教「わたしたちの日々の糧を与えてください」

2025年2月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの日々の糧を与えてください」

 ルカによる福音書11章で主イエスが弟子たちに教えられた祈りをテキストにして、「主の祈り」について学んでいます。きょうは3節の、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りについてです。ルカ福音書ではこれは第三番目の祈りになりますが、マタイ福音書6章と、それをテキストにした式文の「主の祈り」では、これは第四の祈願になります。つまり、ルカ福音書では第三の祈願にあたる「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」が省略されているのです。なぜ省略されているのかは、はっきりとは分かっていません。第二の祈願である、「御国が来ますように」の祈りの中に、神のみ心が地においてもなるようにとの願いが含まれていると理解されたために、省略されたのではないかと推測することはできます。

 では、ルカ福音書の第三の祈願、マタイ福音書では第四になりますが、この祈りについて学んでいきましょう。ここから、主の祈りの後半になります。前半では、み名、み国、そしてマタイではみ心、すなわち、神ご自身のことについて祈られていましたが、後半ではわたしたちのことが祈られます。前にも指摘しましたが、この順序が重要です。この順序を反対にすることはできません。まず、神ご自身のことが祈られ、その次に、わたしたち人間のことが祈られる、それが正しい祈りの順序であると、主イエスは教えておられるのです。

 まず、神のお名前がわたしたち人間によって正しくあがめられ、他のどのような名前よりもはるかに高く、尊く、力と権威を持つお名前として礼拝されるように。次に、神が唯一の王として支配しておられる神の国が待ち望まれ、地のすべての王たち、支配者たちが天におられる永遠の王のみ前にひれ伏すように。そして、神のみ心が地においても行われ、地のいたるところで神の愛と救いの恵みが人々に分かち与えられるように。そのように祈り求められているところにこそ、わたしたち人間にとって必要なものが正しく祈り求められるのだということです。

 たとえば、きょう学んでいる日々のパンを求める祈りですが、この祈りを神なき世界で祈られたらどうなるでしょうか。「わたしたちのパンが」とか、「わたしたちにパンを」という祈りが、世界の至る所で、神抜きで祈られるとしたら、それはおそらく、自分たちのパンを求める果てしない争いになり、パンを奪い合う醜い戦いになるに違いありません。人類はそのようにして自分たちが食べるための食料を奪い合って、数々の戦争を繰り返してきたのではないでしょうか。今もなお、より多くの食料を手に入れようとして、武力による食料の争奪戦を続けているのではないでしょうか。それだけでなく、わたしたちの日々の生活の中でも、より多くの、より質の良いパンを求め、より豊かな食卓を手に入れようとする欲望が、共に生きることを困難にし、隣人愛を破壊し、互いに傷つけあう災いや不幸を招いているのではないでしょうか。神がいない世界では、神が正しく礼拝されていない世界では、人間のすべての祈りや願いは、悪魔化していくほかにないのです。

 それゆえに、主イエスはわたしたちに、まず神ご自身のために祈りなさいとお命じになっておられます。神を正しく神とすること、そして人間を正しく人間とすること、つまり、人間は決して神ではないし、また神なしではないのだということ、そして、人間は神に愛され、神によってすべての必要なものを備えられる者なのだということを教えておられるのです。

 次に注目したいことは、後半の祈りでは「わたしたち」という言葉が初めて用いられているということ、しかも、何度も頻繁に用いられているということです。「わたしたちの」「わたしたちに」「わたしたちを」という言葉が、日本語の翻訳では省略されているものもありますが、3節では2回、4節では4回、計6回、用いられています。ここから教えられる第一のことは、前に確認したように、前半の祈りで、神が正しく神であるようにと祈られるならば、神はこれほどまでに深く、親しく、わたしたち人間にかかわってくださるということです。神はわたしたちのすべてを知っておられます。わたしたち人間の必要をすべて満たしてくださいます。

 ここで教えられる第二のことは、主の祈りはわたしたちの祈りだということです。わたし個人の祈りではありません。わたしたち人間のすべてを結び合わせる、わたしたちの祈りです。主の祈りは世界を包む祈りだと言われます。主の祈りによって、わたしたちは一つの人類となり、わたしたちという共同体となるのです。だれ一人として、この「わたしたち」から除外される人はいません。

 では次に、「糧」と訳されているもとのギリシャ語は「パン」という意味です。聖書ではこの言葉によって、わたしたち人間が食べたり飲んだりするすべての食料を意味しています。主の祈りの後半、すなわち、わたしたち人間に関する祈りの最初で、わたしたちの糧、パンのことが祈られているということには、非常に意味深いものがあります。二つのことに注目しましょう。一つには、わたしたち人間はパンによって命をつないでいる、つまり、パンを必要としている生き物であるということ、パンに飢えて苦しんだり、パンで満腹して楽しくなったりする生き物であるということです。二つ目のポイントは、そのことを主イエスは知っておられるということです。それゆえに、パンを求めなさい、パンを求めてよいと言われるのです。

 第一の点について、別の言葉で言えば、わたしたち人間は神によって造られた被造物であるということ、土から造られ、やがて死んで、土に帰っていく肉なる存在だということです。人間は神ではありません。永遠者ではありません。人間は神によって造られた被造物です。一切れのパンを必要としている肉なる者です。時に、飢えや渇きを覚え、苦しみや痛みを味わい、悩んだり迷ったりしながら、やがて肉体が衰え、死にいく者です。わたしたちは自らがそのような者であることを忘れてはなりません。また、そのような者であるゆえにこそ、パンを求める祈りを真剣にしなければなりません。

 第二の点をもう少し深く掘り下げてみましょう。主イエスはわたしたち人間のそのような弱さや痛みや迷いのすべてを知っておられます。そしてまた、主なる神がそのような肉なる者に過ぎない人間をどんなにか愛しておられるかを、わたしたちに悟らせようとされます。主イエスはルカ福音書12章22節以下で、「何を食べようか、何を着ようかと体のことで思い悩むな。空の鳥を見よ。野の花を見よ。働きも紡ぎもしないのに、神はこのように養っていてくださるではないか。ましてや、あなたがた人間にとって必要なものが何であるのかを神は知っておられ、それらのすべてを備えてくださる。だから、まず神の国を求めなさい。そうすればその他のものはすべて添えて与えられるであろう」と(12章22~34節参照)。

 事実、わたしたちは主イエスのご生涯によってそのことを知らされています。神はわたしたち罪の中にあって死すべき人間をこよなく愛してくださり、ご自身の一人子を人間のお姿でこの世にお遣わしになり、そのみ子の罪も汚れもない聖なる、尊い血によって、わたしたちを罪の奴隷から贖いだしてくださったのだということを、わたしたちは知らされているのです。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章32節でこのように言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と。神のみ子主イエス・キリストは、わたしたち人間の弱さや死すべき存在をご自身の全存在をもって担ってくださいました。そして、十字架で死んでくださり、三日目に罪と死に勝利されて復活なさいました。その主イエスご自身が、「あなたがたはこう祈りなさい。父よ、わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りによって、わたしたち一人ひとりを今救いの恵みへと招き入れてくださっておられるのです。

ある神学者は次のような詩を書いています。「パンの背後には粉がある。粉の背後には水車があり、水車の背後には太陽と雨と麦と父なる神のみ心がある」。わたしたちの食卓の上に置かれたパンの背後には、数えきれないほどの父なる神の愛のみ心があるのだということを、この神学者は歌っています。わたしたちは食卓のパンを見るたびに、そのことを知らなければなりません。神がこの大地を創造され、これを支配され、祝福しておられます。神は太陽を登らせ、雨を降らせ、大地に豊かな実りをお与えくださいます。神はまたわたしたちの労働を祝福され、食卓のパンを祝福され、わたしたちの肉体の命を養ってくださいます。このような神の深い愛のご支配と大きな祝福が、一切れのパンの中には満ち溢れているのです。わたしたちがそのことを知り、神に対する感謝と恐れとをもってパンを食するならば、わたしたちに本当の命が与えられ、本当に生きる者となるでしょう。

ある神学者はまたこうも言っています。「パンが目の前に置かれている時はいつも、人間は自分たちがいつも神に依存している者であり、神の賜物なくしては生きれない者であることを知るべきである」と。わたしたちの命はすべて神によって支えられているのです。神がわたしの命に必要なものすべてを備えてくださるのです。食卓の上のパンを目の前にするごとに、わたしたちそのことを覚えるのです。

それゆえに、「わたしたちに必要なパンをお与えください」とのこの祈りは、わたしたちの命を支える一切のものは神から与えられるのであり、神がそれらのすべてを備えてくださることを信じる者の祈りなのです。それゆえにまた、わたしの思い煩いも、悩みや苦しみも、すべてを神にお委ねする者の祈りです。

ルカ福音書11章3節では、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と言われていますが、マタイ福音書6章11節では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と、少し違った表現になっています。「毎日」も「今日」も同じ意味と考えてよいでしょう。きょう一日のパンであり、一週間分とか、一年分を求めているのではありません。今生きるのに必要なパンです。必要以上のものを求めるべきではありません。むしろ、他者に分かち与えるべきです。パンを求める祈りは、わたしたちの祈りです。世界を包む祈りです。全人類を一つの共同体とする祈りです。教会がこの祈りをささげるとき、全世界のすべての人々に平等にパンが分配され、互いにパンを分かち合う社会となるようにと祈っているのであり、またそのための教会の務めを自覚しつつ祈るのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、パンを奪い合い、そのために血を流し合っているこの世界を憐れんでください。奪うのではなく、与える者の幸いをわたしたちに教えてください。この世界をあなたの義と平和で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月2日説教「エジプト滞在のイスラエルの民の中に戻ったモーセ」

2025年2月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記4章18~31節

    ローマの信徒への手紙9章1~5節

説教題:「エジプト滞在のイスラエルの民の中に戻ったモーセ」

モーセはエジプトのナイル川から救い上げられてから40年間、王宮で育てられ、教育を受けましたが、その後40年間はアラビア半島のミディアンの地で、祭司エトロの家で訓練を受けました。そして今、神の召命を受け、イスラエルの民を奴隷の家エジプトから救う神のみわざに仕えるために、新しい歩みを始めようとしています。

モーセは40年間過ごした妻の父エトロの家があるミディアンに行き、エトロに別れのあいさつをしています。18節で、「エジプトにいる親族のもとに帰らせてください」とモーセはエトロに話していますが、その親族とは、もちろん彼が育てられたエジプトの王宮のことではありません。彼を生んで、その後ファラオの命令によってナイル川に彼を捨てざるを得なかったヘブライ人の父や母、兄弟たちのことです。あるいは、エジプトで苦しめられている同胞のイスラエルの民をも含んでいるのかもしれません。モーセはエジプト王宮で育てられましたが、エジプト人にはなりませんでした。そして今、イスラエルの民の一人として、新たな使命、務めを神から託されて、エジプトで苦しんでいる同胞のイスラエルの民の中へと帰っていくのです。ここからモーセの新しい歩みが始まります。

【19~20節】。19節に、「主はモーセに言われた」とあり、また21節でももう一度、「主はモーセに言われた」と書かれています。モーセの新しい歩み、彼の新しい使命、務めは、神の命令により、神のみ言葉に導かれて始められます。彼のこののちのすべての歩みと務めもまたそうです。その時、彼は強く、固く立って、神が定められた道を進んでいくことができます。わたしたちが4章の前半で聞いてきた、何度も神の招きを拒絶し、弱音を吐き、尻込みし、逃げ回っていたモーセの姿は、ここにはもはやありません。

20節には、「手には神の杖を携えて」と書かれています。17節にも神の杖のことが言われていました。モーセはこの杖で、エジプト王の前で、驚くべき神の奇跡を行います。神の杖は、神が常にモーセと共におられることのしるしです。この杖は、神がモーセを導く杖でもあるのです。もはやモーセには迷いも不安も恐れもありません。神の召しに応え、神の招きに従順に従います。神が彼の歩みに常に伴っていてくださり、彼が語るべき言葉を授けてくださり、彼がなすべきことを示し、導いてくださるからです。モーセはそのことを信じる信仰者として、新しい一歩を踏み出すのです。

21節以下で、神はもう一度、モーセに約束されます。【21~23節】。ここには、神の僕(しもべ)とされたモーセに対する神の約束が語られていますが、同時にそれはまた、モーセの務めの困難さをも語っているように思われます。神は、「わたしはファラオの心をかたくなにするので」と言われます。エジプト王ファラオは絶対的な権力を誇っていました。奴隷として倉庫の建設などに利用していたイスラエルの民を、やすやすと手放すことはしません。イスラエルを解放してほしいというモーセの要求を簡単に受け入れることはしません。それは当然予想されることでした。しかしここでは、それは神がなさることだと言われているのです。神ご自身がファラオの心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろうと言われているのです。それはいったい何を語っているのでしょうか。

一つには、ファラオのかたくなさが強調されていることです。モーセは何度も繰り返してフアラオにイスラエルの解放を要求します。それがファラオによって拒絶されると、モーセは神の杖によって奇跡を行い、エジプト全土に大きな災いと被害を与えます。ファラオは災いの大きさに困り果てて、いったんは解放を認めますが、すぐにまたそれを撤回します。それが9度も繰り返されます。そしてついに、10番目の災いが23節で語られている、エジプトの王ファラオの長男をはじめとしてエジプト全土のすべての家庭の長男の死となります。ファラオのかたくなさゆえに、これらの10の災いがエジプトに大きな災害をもたらすことになります。それは神のみ心であり、神がなさることだと言われているのです。

しかし第二には、そのファラオのかたくなさもまた神のみ手の中にあるということが強調されています。イスラエルの主なる神はエジプト王ファラオをも支配しておられ、ご自身の救いのみわざのためにお用いになるのです。

そして第三には、ファラオがどれほどにかたくなであったとしても、イスラエルの解放を幾度も拒絶するとしても、それにもかかわらず、神はご自身の救いのご計画を確かに実行なさるのだということです。そのようにして、主なる神は人間のあらゆるかたくなさや不従順や不信仰にもかかわらず、いやむしろそれらのすべてをお用いになって、ご自身の救いのみわざをなしたもうのだということが、ここでは最終的に強調されているのです。

神は22節で、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と言われます。かつて族長時代、創世記に描かれているように、アブラハムに約束された神の祝福がその子イサクに受け継がれ、またその子ヤコブに受け継がれたように、そして今神の祝福が神の長子として選ばれたイスラエルの民に受け継がれているのです。神は最愛の長子であるイスラエルが、奴隷の家エジプトで苦しめられているのを、そのまま見過ごしになさることはありません。彼らの叫びと祈りとをお聞きになります。そして、そこから救い出すために働かれます。

ここではさらに、イスラエルが神の長子であることとエジプト王ファラオの長子とが対比されて語られています。これは、先ほども少し触れましたが、のちのエジプトに対する10番目の災いである長子の死について語っています。ファラオが繰り返してイスラエルの民の解放を拒絶したために、神の最も厳しい裁きとして、ファラオの家をはじめ、エジプト全土のすべてのエジプト人の家の長男と家畜の最初に生まれた雄とがみな神によって滅ぼされという災いが、ここであらかじめ予告されています。出エジプト記11章以下に書かれていることです。これは、エジプトにとっては最も恐ろしい神の裁きですが、イスラエルにとっては神の偉大な救いの出来事として、のちに過ぎ越しの祭りとして祝われることになります。

神の長子であるイスラエルに対する神の大きな愛について、ホセア書11章1節にはこのように書かれています。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。神の長子であるイスラエルに対する神の大きな愛は、ご自身の一人子なる主イエス・キリストを、わたしたち罪びとの罪を贖うささげものとして、十字架の死に引き渡された大いなる神の愛となって結集し、わたしたちに注がれたのです。

24~26節には、モーセがミディアンの地、エトロの家からエジプトに帰る旅の途中で起こった不思議な出来事について記されています。この箇所は、分からない点が多く、ここで何が語られているのか、はっきりと断定することは困難ですが、わかっている範囲でいくつかのことを読み取っていきたいと思います。

24節で、「神はモーセを殺そうとされた」と書かれています。なぜ、神がモーセを殺そうとされたのかについては全く書かれていませんし、わたしたちが何かの理由を考えることもほとんど不可能です。神はモーセをご自分の民イスラエルを救い出すための指導者として召されたのですから、そのモーセをいきなり殺すなどということは、考えられません。このあとのこととの関連で、モーセが割礼を受けていなかったことが原因なのではないかと推測する人もいますが、2章2節によれば、モーセは3か月間、両親の家で過していますので、おそらく割礼を受けていたと考えるのが自然です。

そもそも割礼は、最初アブラハムに神が契約のしるしとして定めたものでした。創世記17章9節以下に書かれています。アブラハムの子孫として生まれた男子はみな、生まれて8日目に、神に選ばれ、神の祝福を受け継ぐしるしとして、男性の生殖器の一部の皮を切り取るという手術をするように定められていました。きょうの箇所では、モーセの息子(この息子の誕生については2章22節に書かれていました)の割礼の儀式を、妻のツィポラが行ったことが書かれていて、それによって神はモーセを殺すことをやめたと読めますので、もしかしたら息子の割礼をモーセが忘れていたことが、神の怒りを招いたと理解されなくもありませんが、よく分かりません。いずれにしても、モーセはアブラハムの子孫として、神に選ばれ、神との契約に生きる民の一人として、神から託された務めを果たしていくのです。そのことがここで再確認されています。

27節からは、モーセと彼の兄弟アロンが荒れ野の神の山で会い、二人が協力し合ってエジプト脱出という神の救いのみわざのために仕えることの確認をしたこと、そして二人で、ここではモーセの代弁者として語るアロンが主体的に行動していますが、エジプトにいるイスラエルの民の代表者たちを集めて、彼らに神の救いのご計画について話したことなどが、簡潔に語られています。31節の「民は信じた」というのは、アロンが語った神の救いのご計画を信じたという意味と、アロンとモーセとを神から派遣された自分たちの指導者であることを認めたという、二つの意味が込められているように思われます。

この箇所で、一貫して強調されていることは、そのすべてを導いているのが主なる神の言葉であるということです。23節には、「主の言葉と、命じられたしるしをすべて」と書かれています。また、30節には、「主がモーセに語られた言葉をことごとく」とあり、そして最後の31節には、「民は信じた。また主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した」と書かれています。モーセとアロンを固く結びつけているものは、神の言葉です。モーセとアロン、そしてイスラエルの民を固く結びつけているのも、神の言葉です。わたしたちは神の言葉である聖書のみ言葉によって、主なる神と固く結び合わされ、また主なる神の救いの恵みに固く結び合わされ、そして一つの群れとして固く結び合わされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがアブラハムに語られ、モーセに語られ、イスラエルの民に語られたあなたの救いの言葉を、あなたは今あなたのみ子主イエス・キリストによって、わたしたちにもお語りくださいましたことを、感謝いたします。わたしたちがあなたのみ言葉を聞いた時、心をかたくなにして耳を閉ざすことがありませんように、またこの世の誘惑の言葉に負けてあなたのみ言葉を軽んじることがありませんように、従順にみ言葉に聞き従う者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和が、この世界で営まれる政治や経済、科学、文化、人々の日常生活のあらゆる分野で、固く据えられますよう。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。