2025年2月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:申命記8章1~10節
ルカによる福音書11章1~4節
説教題:「わたしたちの日々の糧を与えてください」
ルカによる福音書11章で主イエスが弟子たちに教えられた祈りをテキストにして、「主の祈り」について学んでいます。きょうは3節の、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りについてです。ルカ福音書ではこれは第三番目の祈りになりますが、マタイ福音書6章と、それをテキストにした式文の「主の祈り」では、これは第四の祈願になります。つまり、ルカ福音書では第三の祈願にあたる「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」が省略されているのです。なぜ省略されているのかは、はっきりとは分かっていません。第二の祈願である、「御国が来ますように」の祈りの中に、神のみ心が地においてもなるようにとの願いが含まれていると理解されたために、省略されたのではないかと推測することはできます。
では、ルカ福音書の第三の祈願、マタイ福音書では第四になりますが、この祈りについて学んでいきましょう。ここから、主の祈りの後半になります。前半では、み名、み国、そしてマタイではみ心、すなわち、神ご自身のことについて祈られていましたが、後半ではわたしたちのことが祈られます。前にも指摘しましたが、この順序が重要です。この順序を反対にすることはできません。まず、神ご自身のことが祈られ、その次に、わたしたち人間のことが祈られる、それが正しい祈りの順序であると、主イエスは教えておられるのです。
まず、神のお名前がわたしたち人間によって正しくあがめられ、他のどのような名前よりもはるかに高く、尊く、力と権威を持つお名前として礼拝されるように。次に、神が唯一の王として支配しておられる神の国が待ち望まれ、地のすべての王たち、支配者たちが天におられる永遠の王のみ前にひれ伏すように。そして、神のみ心が地においても行われ、地のいたるところで神の愛と救いの恵みが人々に分かち与えられるように。そのように祈り求められているところにこそ、わたしたち人間にとって必要なものが正しく祈り求められるのだということです。
たとえば、きょう学んでいる日々のパンを求める祈りですが、この祈りを神なき世界で祈られたらどうなるでしょうか。「わたしたちのパンが」とか、「わたしたちにパンを」という祈りが、世界の至る所で、神抜きで祈られるとしたら、それはおそらく、自分たちのパンを求める果てしない争いになり、パンを奪い合う醜い戦いになるに違いありません。人類はそのようにして自分たちが食べるための食料を奪い合って、数々の戦争を繰り返してきたのではないでしょうか。今もなお、より多くの食料を手に入れようとして、武力による食料の争奪戦を続けているのではないでしょうか。それだけでなく、わたしたちの日々の生活の中でも、より多くの、より質の良いパンを求め、より豊かな食卓を手に入れようとする欲望が、共に生きることを困難にし、隣人愛を破壊し、互いに傷つけあう災いや不幸を招いているのではないでしょうか。神がいない世界では、神が正しく礼拝されていない世界では、人間のすべての祈りや願いは、悪魔化していくほかにないのです。
それゆえに、主イエスはわたしたちに、まず神ご自身のために祈りなさいとお命じになっておられます。神を正しく神とすること、そして人間を正しく人間とすること、つまり、人間は決して神ではないし、また神なしではないのだということ、そして、人間は神に愛され、神によってすべての必要なものを備えられる者なのだということを教えておられるのです。
次に注目したいことは、後半の祈りでは「わたしたち」という言葉が初めて用いられているということ、しかも、何度も頻繁に用いられているということです。「わたしたちの」「わたしたちに」「わたしたちを」という言葉が、日本語の翻訳では省略されているものもありますが、3節では2回、4節では4回、計6回、用いられています。ここから教えられる第一のことは、前に確認したように、前半の祈りで、神が正しく神であるようにと祈られるならば、神はこれほどまでに深く、親しく、わたしたち人間にかかわってくださるということです。神はわたしたちのすべてを知っておられます。わたしたち人間の必要をすべて満たしてくださいます。
ここで教えられる第二のことは、主の祈りはわたしたちの祈りだということです。わたし個人の祈りではありません。わたしたち人間のすべてを結び合わせる、わたしたちの祈りです。主の祈りは世界を包む祈りだと言われます。主の祈りによって、わたしたちは一つの人類となり、わたしたちという共同体となるのです。だれ一人として、この「わたしたち」から除外される人はいません。
では次に、「糧」と訳されているもとのギリシャ語は「パン」という意味です。聖書ではこの言葉によって、わたしたち人間が食べたり飲んだりするすべての食料を意味しています。主の祈りの後半、すなわち、わたしたち人間に関する祈りの最初で、わたしたちの糧、パンのことが祈られているということには、非常に意味深いものがあります。二つのことに注目しましょう。一つには、わたしたち人間はパンによって命をつないでいる、つまり、パンを必要としている生き物であるということ、パンに飢えて苦しんだり、パンで満腹して楽しくなったりする生き物であるということです。二つ目のポイントは、そのことを主イエスは知っておられるということです。それゆえに、パンを求めなさい、パンを求めてよいと言われるのです。
第一の点について、別の言葉で言えば、わたしたち人間は神によって造られた被造物であるということ、土から造られ、やがて死んで、土に帰っていく肉なる存在だということです。人間は神ではありません。永遠者ではありません。人間は神によって造られた被造物です。一切れのパンを必要としている肉なる者です。時に、飢えや渇きを覚え、苦しみや痛みを味わい、悩んだり迷ったりしながら、やがて肉体が衰え、死にいく者です。わたしたちは自らがそのような者であることを忘れてはなりません。また、そのような者であるゆえにこそ、パンを求める祈りを真剣にしなければなりません。
第二の点をもう少し深く掘り下げてみましょう。主イエスはわたしたち人間のそのような弱さや痛みや迷いのすべてを知っておられます。そしてまた、主なる神がそのような肉なる者に過ぎない人間をどんなにか愛しておられるかを、わたしたちに悟らせようとされます。主イエスはルカ福音書12章22節以下で、「何を食べようか、何を着ようかと体のことで思い悩むな。空の鳥を見よ。野の花を見よ。働きも紡ぎもしないのに、神はこのように養っていてくださるではないか。ましてや、あなたがた人間にとって必要なものが何であるのかを神は知っておられ、それらのすべてを備えてくださる。だから、まず神の国を求めなさい。そうすればその他のものはすべて添えて与えられるであろう」と(12章22~34節参照)。
事実、わたしたちは主イエスのご生涯によってそのことを知らされています。神はわたしたち罪の中にあって死すべき人間をこよなく愛してくださり、ご自身の一人子を人間のお姿でこの世にお遣わしになり、そのみ子の罪も汚れもない聖なる、尊い血によって、わたしたちを罪の奴隷から贖いだしてくださったのだということを、わたしたちは知らされているのです。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章32節でこのように言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と。神のみ子主イエス・キリストは、わたしたち人間の弱さや死すべき存在をご自身の全存在をもって担ってくださいました。そして、十字架で死んでくださり、三日目に罪と死に勝利されて復活なさいました。その主イエスご自身が、「あなたがたはこう祈りなさい。父よ、わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りによって、わたしたち一人ひとりを今救いの恵みへと招き入れてくださっておられるのです。
ある神学者は次のような詩を書いています。「パンの背後には粉がある。粉の背後には水車があり、水車の背後には太陽と雨と麦と父なる神のみ心がある」。わたしたちの食卓の上に置かれたパンの背後には、数えきれないほどの父なる神の愛のみ心があるのだということを、この神学者は歌っています。わたしたちは食卓のパンを見るたびに、そのことを知らなければなりません。神がこの大地を創造され、これを支配され、祝福しておられます。神は太陽を登らせ、雨を降らせ、大地に豊かな実りをお与えくださいます。神はまたわたしたちの労働を祝福され、食卓のパンを祝福され、わたしたちの肉体の命を養ってくださいます。このような神の深い愛のご支配と大きな祝福が、一切れのパンの中には満ち溢れているのです。わたしたちがそのことを知り、神に対する感謝と恐れとをもってパンを食するならば、わたしたちに本当の命が与えられ、本当に生きる者となるでしょう。
ある神学者はまたこうも言っています。「パンが目の前に置かれている時はいつも、人間は自分たちがいつも神に依存している者であり、神の賜物なくしては生きれない者であることを知るべきである」と。わたしたちの命はすべて神によって支えられているのです。神がわたしの命に必要なものすべてを備えてくださるのです。食卓の上のパンを目の前にするごとに、わたしたちそのことを覚えるのです。
それゆえに、「わたしたちに必要なパンをお与えください」とのこの祈りは、わたしたちの命を支える一切のものは神から与えられるのであり、神がそれらのすべてを備えてくださることを信じる者の祈りなのです。それゆえにまた、わたしの思い煩いも、悩みや苦しみも、すべてを神にお委ねする者の祈りです。
ルカ福音書11章3節では、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と言われていますが、マタイ福音書6章11節では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と、少し違った表現になっています。「毎日」も「今日」も同じ意味と考えてよいでしょう。きょう一日のパンであり、一週間分とか、一年分を求めているのではありません。今生きるのに必要なパンです。必要以上のものを求めるべきではありません。むしろ、他者に分かち与えるべきです。パンを求める祈りは、わたしたちの祈りです。世界を包む祈りです。全人類を一つの共同体とする祈りです。教会がこの祈りをささげるとき、全世界のすべての人々に平等にパンが分配され、互いにパンを分かち合う社会となるようにと祈っているのであり、またそのための教会の務めを自覚しつつ祈るのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、パンを奪い合い、そのために血を流し合っているこの世界を憐れんでください。奪うのではなく、与える者の幸いをわたしたちに教えてください。この世界をあなたの義と平和で満たしてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。