2025年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(40)
聖 書:マラキ書3章19~24節
マタイによる福音書24章29~44節
説教題:「終わりの日に備えて生きる」
『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。終末論とは、終わりの日、終わりの時、最後のことに関する教えです。キリスト教の時の理解は、時には初めがあり、終わりがあるという理解です。これと対比されるのが、一般的に言われる輪廻思想です。輪廻思想では時の流れは円周のように、またはらせん状のように繰り返しますから、はじめも終わりもありません。キリスト教では、聖書の構造がそうであるように、初めに神の天地創造があり、終わりに神の国の完成であるヨハネの黙示録があることからも分かるように、すべての時の初めがあり、そしてすべての時の終わりがある。そして、そのすべての時を神がご支配しておられるというのが、キリスト教の時の理解です。
では、わたしたちの『信仰告白』では、終末論はどのように取り扱われているのかを次に見ていきましょう。最初にも言いましたように、『信仰告白』の前文では、大きな項目の「教会論」と言われている教理の中で、終末論が取り扱われています。『信仰告白』の後半の『使徒信条』では、第2項の「キリスト論」の中の最後で、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白されている個所が終末論になります。また第3項の「聖霊論」あるいは{教会論}の中では、「体の復活、永遠のいのちを信じます」も終末論に属します。『使徒信条』では「キリスト論」と「聖霊論」の中で「終末論」が取り扱われているということが分かります。このように、終末論はいずれの場合にも、それが単独で論じられているのではなくて、「教会論」の中で、「キリスト論」「聖霊論」との関連の中で語られているのです。
その理由は、おそらくは他の諸宗教で一般的に論じられる終末論と混同されることを避けるためであろうと推測されます。いつの時代でも、世界や社会が混乱し、世情が不安定になってくると、さまざまな終末論が盛んに論じられるようになります。世紀末の終末論と言われたりします。しかし、キリスト教の終末論は、世界や社会の動向には左右されず、聖書そのものから導き出された終末論ですから、それらの一般的な終末論と混同されないように、キリスト教教理全体との関連の中で、創造論やキリスト論、救済論、教会論、聖霊論との関連の中で、終末論を考えることが重要になります。
では次に、『日本キリスト教会信仰の告白』で終末論が教会論の中で告白されていることの意義について考えていくことにしましょう。「終わりの日に備えつつ、主が来られるの待ち望みます」。この文章の主語はこの段落の冒頭にある教会です。つまり、教会とは、終末の時に備えて生きている信仰者の群れであり、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望んでいるキリスト者の群れであるということが告白されているのです。一般的に、キリスト教の終末論とは何かとか、わたしたちがどのような終末信仰を持つべきだとかが教えられているのではなく、教会とは、また教会に集められているわたしたち一人一人は、そもそも終末論的な共同体であり、終末論的な存在なのだということが告白されているのです。
教会はこの世に建てられています。今の時代の中で、今のこの場所に生きています。しかし、教会は今のこの世を基準にして生きているのではありません。今のこの時代にある目標を目指して生きているのではありません。教会は終末の時に備えて、終末の時に完成される神の国を基準にして、それを目標にして生きています。教会は終末論的存在であり、終末論的共同体なのです。
ヘブライ人への手紙11章では、旧約聖書の族長たちもまたそのような終末論的な信仰を持ち、終末論的な信仰に生きていたということが語られています。11章13節以下を読んでみましょう。【13~16節】(415ページ)。族長たちはアブラハムもヤコブもイサクも、だれもまだ神の約束の地を実際には取得してはいませんでしたが、神の約束の言葉を信じながら、地上では旅人、寄留者として信仰の歩みを続けました。この手紙の著者はその彼らの信仰を、彼らがこの地上をはるかに超えた「天の故郷を熱望していた」からだと言います。そして、神は彼らに確かに天の都を用意しておられたのだと言います。フィリピの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と。わたしたち教会の民は、終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ、神の約束の言葉によって今すでに神の国に生きている者として、この地上では旅人、寄留者としての信仰の歩みを続けるのです。
わたしたちが天に本来の国籍を持ち、地上では旅人、寄留者として生きるとは、具体的にどのような生き方を言うのでしょうか。第一には、わたしたちがこの世で見たり経験したりするすべての出来事、すべての現象は、それは最後の究極的なものではなく、それらは過ぎ去り行くもの、暫定的なものであり、途中のものであるということを、わたしたちに悟らせるのです。なぜならば、終わりの日に、神の国が完成されるときにこそ、最後のもの、究極的なものが現れるからです。
使徒パウロはコリントの信徒への手紙7章29節以下で、「定められた時が迫ってきている。だから、今持っている人は持っていない人のように、今泣いている人は泣かない人のように、今喜んでいる人は喜ばない人のように、今この世とかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。なぜならば、この世のありさまはみな過ぎ去るからです」と言っています。
したがって、終末信仰に生きる人は今の現実によって束縛されることはありません。たとえ、わたしが今この世で絶望とどん底に突き落とされたような艱難や災いにあうとしても、それがわたしの最終的は敗北でも最後でもありません。あるいは、たとえわたしがこの世のすべての繁栄と名誉とを手に入れることができたとしても、それがわたしの最終的な勝利でも幸いでもありません。最終的な判断は、終わりの日に、最後の審判者であられる主イエス・キリストが羊と山羊とを右と左に分けるように、すべての人を救いと滅びにお分けくださるのですから、その時まで待たなければなりません。
それと同時に、たとえわたしが絶望の淵に突き落とされるようなときにも、わたしはなおも再び立ち上がり、わたしの救い主であられる主イエス・キリストに向かって頭を高く上げ、すべての艱難や災いをも忍耐強く耐え忍ぶことができるのであり、あるいはわたしがどれほどの繁栄を手に入れようと、それに頼ることなく、主イエス・キリストのみ前に謙遜にお仕えしていくことができるのです。
終わりの日に備えて生きるキリスト者の生き方の第二の特徴は、未来に向かって常に目覚めていることです。ローマの信徒への手紙13章で、使徒パウロはこう言っています。「更に、あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(11~12節)と。終わりの日に備えて生きる信仰者は、たとえ今がどんなに暗い闇に閉ざされていても、夜明けが近いことを知っているゆえに、眠っていることはできません。目覚めて朝を待つのです。
また、主イエスは小黙示録と言われるマタイによる福音書24章、25章の終わりの日についての説教の中で、繰り返して「目を覚ましていなさい」と呼びかけておられます。24章42節では、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られられるか、あなたがたには分からないからである」。また、25章13節でも、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
目を覚ましているとは、過ぎ去り行くこの世からは目を離して、永遠に変わることのない主イエスのみ言葉を聞きながら、終わりの日の主の再臨を待ち望んでいることです。主イエスが再びおいでになるときには、主の約束のみ言葉はすべて主ご自身によって成し遂げられるでしょう。その時には、わたしたちの救いは完成し、永遠に主なる神がわたしたちと共にいてくださり、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)神の国での永遠の命をわたしたちに授けてくださるでしょう。
主イエスがマタイ福音書24章、25章で教えておられる、終末に備えて生きる生き方の特徴の第三は、主イエスから託された務めを忠実に果たすということです。目覚めるとは、単に目を覚まして起きていることではありません。主イエスがいくつものたとえ話で教えておられるように、旅に出る前にご主人から託された務めを忠実に果たす僕(しもべ)であるということです。24章45~47節を読んでみましょう。【45~47節】(49ページ)。このたとえでは、家の主人が留守の間、家の使用人たちに時間どおりに食事を与える務めを僕に託したことが語られています。また、25章14節以下では、旅行に出る主人が僕たちにタラントンを預けるたとえが語られています。
主イエスは復活されてから40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされたあとで、天に昇られました。その際に、弟子たちに務めをお与えになりました。マタイ福音書28章19節以下ではこのように命じられています。【19~20節】(60ページ)。また、使徒言行録1章8節ではこのように命じられています。【8節】(213ページ)。わたしたち教会の民は主イエスから託された福音宣教の務めを果たしながら、終わりの日に備えて、再び来られる主イエス・キリストを待ち望んでいるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたが天地万物を創造されてお始めになったこの世界の歴史を、あなたは終わりの日の完成に向かって、この日もまたみ心のままに進めてくださいます。あなたの救いのご計画は、どのような人間たちの罪や不信仰によっても、決して変更されることも止まることもありません。どうかわたしたちがそのことを固く信じて、どのような困難な時代にあっても、あなたの忠実な僕として、あなたから託されている務めをこの日もまた果たしていくことができますように、聖霊の導きをお与えください。
〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。