3月30日説教「アブラハムとの契約を実行される神」

2025年3月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記6章1~13節

    ローマの信徒への手紙4章13~25節

説教題:「アブラハムとの契約を実行される神」

 イスラエルの民が奴隷の家エジプトから脱出して、神の約束の地カナンへと導かれたという出エジプトの出来事には、聖書全体を貫いている大きなテーマがいくつも盛り込まれています。

第一には、出エジプトは神の民であり旧約聖書の民であるイスラエルの誕生という出来事です。それは、イスラエルの民の中から出た一人のメシア・救い主の誕生と、新約聖書の民、教会の誕生へと続いていきます。

第二には、出エジプトの出来事はエジプトで奴隷であった民がその奴隷状態から解放されて自由の民とされたということにとどまらず、主なる神によって贖われ、救われ、真実の神を礼拝する民とされたということでもあります。それは、主イエス・キリストの十字架と復活によって罪の奴隷から解放され、救われ、自由な礼拝の民とされた教会へと受け継がれていきます。

第三には、出エジプトの出来事は、神の救いのみわざを信じるイスラエルの信仰を生み出します。出エジプトの出来事は最初から最後まで神ご自身の救いのみわざですが、それは同時にイスラエルの信仰と服従を求めます。そこではまず、イスラエルの不従順、不信仰、かたくなさが明らかにされます。しかしまた、神はそのようなイスラエルの罪を克服し、彼らを信仰の民とするために、さまざまなしるしと奇跡とを行ってくださいます。それによって、イスラエルはただ信仰によって真実の救いの道を生きる民とされていくのです。これもまた、新約聖書の民・教会へと受け継がれていきます。

そして第四に、神はご自身の救いのみわざである出エジプトの出来事のために、モーセという奉仕者、働き人を備えられます。モーセは、自分が神の働き人となるには全くふさわしくない欠けと破れだらけの人間であることを自覚していましたが、神はあえてそのような弱さをもったモーセをお選びになり、彼をお用いになり、ご自身の出エジプトという偉大なる救いのみわざをなさるのです。そしてこのこともまた、主イエス・キリストの救いのみわざのために仕える教会の民、わたしたち一人一人へと受け継がれていきます。

以上のことを念頭に置きながら、きょうの聖書のみ言葉を読んでいくことにしましょう。【出エジプト記6章1節】。これまで4章、5章で読んできた内容から、エジプト王ファラオとイスラエルの民とモーセの、三者の立場と考え方をまとめてみましょう。ファラオはエジプト王国の絶対的権威者として、奴隷にしているイスラエルの民を自国の経済発展に利用する労働力としか考えていません。イスラエルの神の言葉にも、その神の僕(しもべ)として仕えるモーセの言い分にも、全く耳を傾けようとはしません。イスラエルの民が、「自分たちが神を礼拝するために少しの期間、休みをください」と要求したのに対して、「お前たちは怠け者だ。働きたくないから、神を礼拝する時間をくれなどと要求しているのではないか。そんな怠け者には、もっと重い労働を課してやるのがよい」というのがファラオの答えでした。

イスラエルの民は、自分たちの労働の量がより増えた現状を見て、「こんなに労苦が増し加わったのはモーセよ、お前のせいだ。お前がファラオに我々を嫌わせるようなことをしたからだ。お前は我々の命を殺す剣をファラオに渡したようなものだ」と、指導者モーセを非難します。イスラエルの民は自分たちの肉体的な命や現実的な労苦のことしか頭にありません。真の救いと平安がどこにあるのかを考えてはいません。それを求めようとはしていません。

そのような両者の間に挟まれて、モーセは苦悩しています。彼の苦悩について、5章の終わりに書かれていました。【22~23節】。モーセはファラオの絶対的権力の前で、自分の無力さを嘆いています。神の約束のみ言葉を聞いてはいたが、それが直ちに実行されないことにいら立ってもいます。我が民イスラエルが自分を信頼せず、この世の現実に縛り付けられている様を見て、失望しています。そして、彼は主なる神に助けを求め、訴えるほかにありません。

そのモーセの訴えに、主なる神はお答えになります。それが6章1節です。神はここで言われます。「ファラオは、今はかたくなにイスラエルの民を去らせることを拒んでいるが、やがて主なる神であるわたしが強い手によって彼を動かすことによって、彼は最終的にはイスラエルの民をエジプトから追い出すようになるであろう」と。神の強いみ手の働きが、奴隷の民イスラエルの解放をかたくなに拒んでいたファラオを、ついには自ら進んで彼らを追い出すようにさせるであろうと言うのです。

ここには、人間の予想や願いや可能性をはるかに超える、神の不思議な救いのみわざが語られています。イスラエルの民が自分たちに課せられた重い労働を嘆き、指導者モーセを非難したのでしたが、その彼らに増し加えられた試練もまた、彼らを救われる神の偉大なみ力をよりはっきりと証明するために役立てられるのです。あるいはまた、「なぜあなたはこの民により厳しい災いをくだされるのですか」というモーセの嘆きを、神の救いのみわざの驚くべき偉大さを知るモーセの喜びと感謝へと変えるのです。そのようにして、出エジプトという神の救いの出来事は、イスラエルの民のより困難で試練の多い状況の中でこそ、その救いの恵みの大きさを明らかにするのです。また、その救いのみわざに仕える指導者モーセのより困難で試練の多い状況の中でこそ、彼の使命の重さが自覚されるのです。

さらには、出エジプトという出来事が、単に奴隷の民イスラエルがその重い労働の苦役から解放されるための神のみわざなのではなく、彼らが真実な神の民とされ、神に救われた民とされ、神を礼拝する民とされるための、神の偉大な救いのみわざなのだということを、わたしたちに理解させるのです。そのために、イスラエルの民と指導者モーセは、ファラオから「仕事をさぼるために神礼拝をさせろと要求する怠け者だ」とあざけられねばならなかったのであり、より重い労働を強いられ、より大きな試練を経験しなければならなかったのであり、命の危険すらも経験するようにされたのです。そのようにして、真実の神礼拝に向けての解放と救いは、まさにまことの命に向けての解放であり、救いなのだということが明らかにされるのです。

次に、2~4節を読みましょう。【2~4節】。2節で神は、「わたしは主である」と言われます。同じ表現は、6節8節、28節でも繰り返されています。これは神の自己紹介であり、自己宣言、自己啓示です。主と訳されている個所には神のお名前が書かれています。そのお名前については3章14節で、初めて神はモーセにお告げになりました。【3章14節】(97ページ)。「わたしはある」というのがそのお名前です。これをヘブライ語でどう発音するのかは、忘れられてしまったので、そのお名前が書かれている個所は、ヘブライ語で主を意味する「アドナイ」と発音するしきたりになりました。「わたしはある」とは、イスラエルの神こそが唯一の永遠なる存在者であり、すべての存在するものの存在の根源であり、すべてを存在へと至らしめ、その存在を支える、存在の主であられる神であるということです。その神が、今新たにモーセにそのお名前を告げられ、エジプトの地でその存在を失っているイスラエルの民に、新たに神の民、礼拝の民としての存在をお与えになるということが、ここで語られています。

それは、神がすでに創世記で族長アブラハム、イサク、ヤコブに対して約束された契約を成就するためであったと、4節に、またこのあと8節にも語られています。わたしたちはここでもまた、創世記から出エジプト記に至るまでのおよそ400数十年の時間の空白を埋めることができるでしょう。創世記の終わりは、ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どもたちがその家族を連れてエジプトに移住した記録で終わっています。族長時代は、およそ紀元前18世紀から17世紀にかけてと考えられます。次の出エジプト記はそれから400数十年後の紀元前13世紀後半の出来事が描かれています。その間の400数十年については、聖書にとっての空白の時代です。

しかし今ここで、族長時代の神、全能の神として族長たちに現れ、彼らと契約を結ばれた神が、今モーセに対して「主」(わたしはある)というお名前でご自身を啓示された神と同じ神であることを証ししておられるのです。それだけでなく、族長たちと結ばれた契約を今ここで成就されることによって、同じ神であることを証しすると言われるのです。

神と族長たちとの契約の内容は主に三つありました。一つは、アブラハムとその子孫に神の祝福が永遠に受け継がれるということ。二つめは、アブラハムの信仰を受け継ぐ子孫は空の星の数ほどに増えるであろうという約束。三つめは、アブラハムが寄留していた地、カナンの地をその子孫が永遠に受け継ぐであろうという約束。神は400周十年を経て、この契約をエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民に対して成就すると言われます。

5節に、「わたしの契約を思い起こした」とありますが、これは、忘れていたけれども今になって思いだしたという意味ではありません。本来は、「覚えている」という意味の言葉で、神はアブラハムの時代から500年、600年が過ぎたその間も、今も、アブラハムとの契約を決して忘れることなく、いつも覚えたおられたという意味です。アブラハムも、イサクもヤコブも、飢饉のときには神との契約を忘れ、食料を求めてエジプトに移住したことがありました。エジプト滞在400数十年のイスラエルの民も、神との契約を忘れていたかもしれません。しかし、その時でも、神は決してアブラハムとの契約をお忘れにはなりませんでした。そして、今、彼らの苦難の時に、彼らの死が迫っているその時に、神は彼らとの契約を成就されるのです。彼らを死から命へと導かれるためです。

最後に、【6節】。ここでは、神のみわざが三つの動詞で言い表されています。「導き出す」「救い出す」「贖う」。この三つの言葉に、出エジプトの出来事の意味が言い表されています。それは、新約聖書の民であるわたしたちにも受け継がれています。この三つを、今日のわたしたちに当てはめてみましょう。

主イエス・キリストの十字架と復活の福音はわたしたちをこの世での束縛や、重荷や、思い煩いから導き出し、わたしたちを神の福音と恵みの中へと招き、わたしたちを真実の自由に生きることを可能にします。

主イエスの十字架と復活の福音は、わたしたちを罪の奴隷から救い出し、まことの命に生かし、神のもとにある平安と慰めへと招き入れます。

主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、わたしたちを主キリストに属する者とし、滅びゆくしかないこの世から贖いだされ、神の国の民とされた祝福に生きる者とします。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画は今に至るまで、また終わりの日に至るまで続けられていることを信じさせてください。わたしたち一人一人をもその救いのご計画の中にお招きくださいますことを感謝いたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月16日説教「主イエスの再臨を待ち望む教会」

2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(41)

聖 書:ダニエル書7章11~14節

    使徒言行録1章6~11節

説教題:「主イエスの再臨を待ち望む教会」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。きょうはその後半、「主が来られるのを待ち望みます」という告白について学びます。

 『使徒信条』では、第二項目の主イエスについての告白の最後で、「かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審き給はん」と告白されています。第三項目の聖霊についての告白の最後にある、「体の復活、永遠の生命を信ず」も終末論です。

 このように、終末論は、『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の最後でも、また『使徒信条』の第二項と第三項の最後でも、重要な告白として取り上げられていることが分かります。終末論は、終わりの日のこと、最後のことに関する教えですから、キリスト教教理の最後で取り扱われるのが一般的ですが、しかし終末論は最後の付録のようなものではありません。キリスト教教理全体を締めくくり、完成させる、くさびのような役割を果たすとともに、キリスト教教理と信仰を基礎づける役割をも果たす、土台であり、出発点であるとも言えます。

 ある人はこのような言い方をしています。「キリスト者は終末論によって生きる者である。あるいは、終わりから生きる者である。終わりの日に完成される神の国を基準にして、その終わりの日に向かって、その終わりの日の救いの完成を確信しながら、その終わりの日の約束の希望の中で生き続ける者だ」と。「主が来られるのを待ち望みます」という告白は、まさにそのようなわたしたちの信仰を言い表しているのです。

 では、終末論について教えられている聖書の箇所を読んでいきましょう。使徒言行録1章6節以下には、主イエスの昇天のことが書かれています。主イエスは受難週の金曜日、十字架につけられて死なれ、すぐに墓に葬られました。三日目に、墓から復活され、それから40日間にわたって、弟子たちに復活のお姿を現されました。そして、9節に書かれてあるように、天に昇られ、父なる神のみもとへとお帰りになりました。その時、神のみ使いがこのように言われました。【11節】。

 「またおいでになる」と言われているように、主イエスが再び地上においでになるとき、つまり主イエスの再臨の時、それが終末の時です。主イエスが最初に地上においでになられたとき、それがクリスマスの誕生の時です。これが第一の来臨です。旧約聖書の民イスラエルは、この第一の来臨の時を、メシア・救い主の到来を待ち望む神の民でした。新約聖書の民であるわたしたち教会の民は、主イエス・キリストの第二の来臨のとき、すらわち、わたしたちの救いが完成され、神の国が完成される主イエスの来臨の時を待ち望む神の民です。このように言ってもよいでしょう。「教会の民、わたしたちキリスト者は、主イエスの第一の来臨の時から第二の来臨の時、すなわち再臨の時までの時の間を生きている神の民である。神の救いの完成を目指して、その時を待ちつつ、またその完成に向かって急ぎつつ、生きている者たちであるのだ」と。

 主イエスの来臨の教えと約束は、主イエスご自身にまでさかのぼることができます。主イエスは福音書の中で、特に神の国のたとえの中で、人の子であられる主イエスが終わりの日に再臨され、最後の審判を下される、そして救いを完成されるということを繰り返してお話しされました。マタイ福音書24章、25章は、福音書の黙示録と言われる箇所ですが、ここで主イエスは終末の時についての教えを説教しておられます。25章では、10人のおとめがともし火を持って花婿を迎えるたとえや、主人からタラントンを預けられた僕たちのたとえによって、終末の時の主イエスの再臨に備えて生きるべきことを教えておられます。その最後の箇所で、31節以下にはこのように教えられています。【31~33節】(50ページ)。このみ言葉は、『使徒信条』で「そこか来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という告白と関連します。終末の時、主イエスはすべての信じる者たちに永遠の救いを、信じない人たちには永遠の滅びを宣言なさいます。

 また、マルコ福音書13章24節以下をも読みましょう。【24~27節】(89ページ)。終わりの時、人の子・主イエスは全世界に散らされていたご自身の民、教会の民を呼び集められ、一つのみ国の民とされます。主イエスは、ご自身の十字架の死と復活によって全人類を罪から救い出してくださいました。その救いを信じる信仰によって、わたしたち一人一人を教会の民としてお招きになり、わたしたちの信仰を導かれました。そして、終わりの日には、すべての教会の民を一つの神の民としてくださり、救いを完成させてくださいます。もはや何ものも、わたしたちを父なる神との交わりから引き離すものはありません。神が永遠にわたしたちと共にいてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの傍らに立たれ、そのことを保証していてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの信仰の完成者となってくださるからです。

 わたしたち信仰者にはこの約束と保証があるゆえに、今がどのような困難な時であれ、今どのような苦しい信仰の闘いのただ中にいようとも、あるいは多くの弱さや欠けや破れの中にあろうとも、決して失望することなく、喜びと希望とをもって、再臨の主イエスを待ち望むことが許されているのです。終末の信仰は、いついかなる状況にあろうとも、わたしたち信仰者にとっては、希望の信仰です。喜びの信仰です。わたしたちの信仰の闘いには、再臨の主イエスによる最後の勝利が約束されているからです。

 福音書で主イエスが語られた人の子の再臨の教えは、初代教会と使徒パウロたちに受け継がれました。しかも、強く、生き生きとした、切迫感を持った信仰として受け継がれていたことを、わたしたちは初代教会の祈りで確認することができます。コリントの信徒への手紙一の終わりの16章22節にはこう書かれています。「マラナ・タ」、これはアラム語で「主よ、来てください」という意味です。ヨハネの黙示録22章20節、これはヨハネの黙示録の最後の言葉であり、聖書全巻の最後の言葉でもありますが、そこにはこう書かれています。「以上すべてを証しする方が、言われる、『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」。

 「主よ、来てください。マラナ・タ」が初代教会の切なる祈りであったことが分かります。初代教会は、すでに教会誕生の紀元30年代から、ユダヤ教からの迫害を受けました。紀元60年代からは、ローマ帝国による迫害が始まりました。紀元90年代になると、多くの殉教者を出すようになっていきました。そのような厳しい信仰の闘いの中で、彼らの「主イエスよ、来たりませ」という祈りは、いわば命をかけた、殉教の血をふり絞るかのような祈りであったのでした。

 このほかにも、初代教会の信仰者たちが主イエスの再臨を熱心に待ち望んでいたことを表す聖書の箇所は数多くあります。彼らは、きょうかあすか、すぐにでも主イエスの再臨があり、終わりの日が来て、神の国が完成されるという信仰を強く持っていました。そして、主イエスの再臨に備えた生き方をしていました。日々に、主イエスの再臨を待ち望む生活をすることが、彼らの信仰生活の基本であり、あるいはすべてであったと言ってもよいかもしれません。

 すべて信じる人たちの罪のゆるしのために、ご受難と十字架の死の道を進まれた主イエス、そして三日目に復活されて罪と死とに勝利された主イエス。今は、天の父なる神の右に座しておられ、我らのために執り成しておられる主イエス。その主イエス・キリストが、終わりの日に再び地上においでくださり、わたしたちの信仰と救いを完成してくださる。その主イエスの再臨を待ち望みつつ、その再臨の時に備えて生きる。これが、使徒パウロや初代教会の信仰者たちの生き方でありました。これが、それ以来2千年の世界の教会の生き方でした。また、今日のわたしたちの生き方でもあります。

 主イエスの再臨を待ち望むという初代教会の信仰に、ある問題が生じることになりました。それは、終末の遅延、主イエスの再臨の遅延ということでした。ある人たちは強く熱心な信仰によって、主イエスの再臨を待ち望みつつ、厳しい信仰の闘いに取り組んでいましたが、他方では、主イエスの十字架と復活、昇天から20年、30年、50年が経過していくにつれて、「わたしはすぐに来る」と言われた主イエスの約束が、まだ実現していない、いったい、いつまで待てばよいのか、もう待つのに疲れた。あるいは、主イエスの再臨はもしかしたらないのではないか、という疑いを持つ人たちが増えてきたのです。

 そのような、終末の遅延、再臨の遅延という問題についても、新約聖書の中には少なからず語られています。その一か所を読んでみましょう。ペトロの第二の手紙3章です。【3~4節】(439ページ)。また、【8~13節】。

 ここでは、終末の遅延、主の再臨の遅延について、積極的な意味が語られています。それは、すべての人が救われることを望んでおられる神の忍耐なのだと。その神の愛による忍耐は、今に至るまで続いているのです。神は全世界のすべての人が罪を悔い改め、主イエスの救いを信じ、救われるために、きょうの日も忍耐しておられます。それゆえに、わたしたちは希望と喜びをもって、主イエスが来られるのをきょうも待ち続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、「主よ、来たりませ」というわたしたちの祈りを、いよいよ強く、熱心なものとしてください。わたしたちの目と心とを、終わりの日のみ国の完成の時に向けさせてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月16日説教「神の言葉はユダヤ人から全世界へと広げられる」

2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編100編1~5節

    使徒言行録13章42~52節

説教題:「神の言葉はユダヤ人から全世界へと広げられる」

 パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行は、地中海北部の、小アジアと今日一般に呼ばれている地域、今のトルコ共和国ですが、当時のローマ帝国ではピシディア州のアンティオキアでの活動について、使徒言行録13章14節から記されています。その町でのユダヤ人会堂でのパウロの説教が16~41節まで続きます。パウロはその説教の終わりで、主イエスの復活と、その主イエスによる罪のゆるしの福音を信じる信仰によってすべての人に与えられる神の義と救いについて語りました。このような福音の説教を、その町の人はまだだれも聞いたことがありませんでした。そこで、多くの人たちは驚きと感謝とをもって、パウロたちの福音の説教を、また次の安息日の礼拝でも聞きたいと願い出ました。42節に、このように書かれています。【42節】。

 パウロの説教を聞いた人たちは、それまで安息日ごとにユダヤ人会堂で聞いてきた説教とは、根本的に、まったくと言ってよいほどに違っていると感じたのでした。当時のユダヤ人会堂での説教は旧約聖書の解き明かしでした。その点においては、両者は同じでした。けれども、その中味はまったく違っていました。パウロの説教は旧約聖書のみ言葉に示された神の預言や約束を説きあかし、そのみ言葉によって神が今わたしたちに何を語ろうとしておられるかを明らかにするだけでなく、その旧約聖書のみ言葉が、今や主イエス・キリストによって完全に成就されたのだということを語ったのです。34~37節を読んでみましょう。【34~37節】。旧約聖書のダビデに約束されていた復活の命、朽ち果てることのない永遠の命が、今や主イエスによって成就したのだとパウロは語ったのです。また、【38~39節】。旧約聖書の律法によってはだれ一人として神のみ前で義とはされ得なかったのに、今や主イエスを信じる信仰によってすべての人が義とされ、罪ゆるされ、救われるのだとパウロは語ったのです。

 このような旧約聖書の解き明かしは、これまでだれも聞いたことがありませんでした。神が旧約聖書をとおして語られた預言と約束のみ言葉が、今や、主イエス・キリストによって成就されたのです。神の救いのみわざが主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって成就されたのです。この初めて聞く驚くべき福音に接した多くの人たちが、次の安息日の礼拝でもまたこれと同じ説教を聞きたい、そして救いの確信を強めたいと願ったのでした。このように、神の救いのみ言葉を心から慕い求めて、また次の礼拝でも神のみ言葉を聞きたい、神の救いの恵みにあずかり、自分の信仰を強めたいと熱心に願う、そのような思いを、わたしたちもまた持ち続けたいものです。

 42節に、「次の安息日にも」と書かれていますが、ユダヤ人会堂では、彼らの安息日である土曜日に礼拝がささげられていました。パウロたちも最初はその習慣を受け継ぎました。しかし、初代教会では次第に、主イエスが復活された日曜日を主の日として、この日に礼拝するように変わっていきました。

 次に、43節を読みましょう。【43節】。安息日の礼拝が終わってからも、多くの人たちがパウロたちの周りに集まってきました、これは、いわば、礼拝後に開かれた聖書研究会のようなものと考えてよいでしょう。パウロはそこで、神の恵みのもとに生き続けるように勧めました。礼拝からこの世へと出ていくと、たくさんの誘惑が待ち構えています。信仰者を神の恵みから引き離そうとする悪しき力が多く働いています。教会で開かれる聖書研究会やその他の勉強会、研修会は、わたしたちがこの世の誘惑に負けることなく、礼拝で聞いた福音の説教のもとにとどまり続け、その恵みによって生き続けるための、訓練の機会となります。

 では次に、【44~45節】。「ほとんど町中の人」とありますが、当時このアンティオキアの町の人口がどれくらいあったのかは分かりませんが、そんなに大きくもなかったと思われるユダヤ人の会堂にあふれるほどの人たちが、そのほとんどはユダヤ人以外のギリシャ人だったと思われますが、多く集まってきたのを見て、ユダヤ人は自分たちの会堂が異邦人たち占領されていると感じたのかもしれません。

 ユダヤ人たちの妬みや怒りにはいくつかの原因があったと思われます。第一に、自分たちの神聖な礼拝場所が異邦人に占領されているという不満、それだけでなく、自分たちがユダヤ教の宣教活動をしてもこれほどの人々が集まらないのに、よそ者のパウロたちがたくさんの人を集めているのとへの妬み、さらには、パウロが語った説教の内容に対する不満や反対も大きかったと思われます。ユダヤ教では、律法を守ることによって人は救われ、神の国に入ることができると教えられていたのに、パウロが語った福音は、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる人はすべて、律法のわざなしに救われると教えている。これはユダヤ教が重んじている律法を否定することだと、かたくなで悔い改めることをしないユダヤ人は考えたと思われます。

 実は、これこそがまさに、主イエスご自身がエルサレムでユダヤ人指導者によって捕らえられた原因でもあったのです。そして、わたしたちがこれまで読んできたように、初代教会がユダヤ人から迫害を受けた主たる原因であったのでした。さらには、パウロの世界伝道旅行で幾度も繰り返されるユダヤ人による迫害の原因でもありました。

 しかしながら、パウロたちはユダヤ人の反対や攻撃に決して屈することはありませんでした。というのは、彼らは主なる神のみ言葉に仕えているという確信があったからです。自分たちの考えや主張を語っているのではありません。自分たちの利益を求めて活動しているのでもありません。主イエス・キリストの福音に仕えているからです。パウロたちを支えているのは主なる神ご自身であり、罪と死とに勝利された主イエス・キリストであるからです。

 【46~47節】。パウロとバルナバはまず神の選びの秩序について語ります。神が全世界の民の中からイスラエルの民、ユダヤ人をお選びになられ、この民と契約を結ばれ、この民にみ言葉をお語りになって、ご自身の救いのみわざを始められました。この神の選びの秩序は重んじられます。パウロはすでに16節以下の説教でもそのことを語っていました。【17節】。46節では、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした」と言われていますが、「はずである」と訳されているギリシャ語は、本来は「ねばならない」という強い意味を持つ言葉であり、神の強い意志と永遠のご計画を意味しています。

 ところが、彼らユダヤ人は神から与えられた特別の恵みを拒否し、自ら投げ捨ててしまったのです。神がこの世にお遣わしになったメシア・キリスト・救い主であられる主イエスを受け入れず、十字架につけて処刑することによってそのことが明らかになりました。そして、今またパウロたちが語った主イエスの福音を受け入れず、その活動を妨害しようとしていることによって、いよいよユダヤ人のかたくなさと罪とが明らかにされたのです。

 彼らユダヤ人には「永遠の命」を約束されていました。彼らが主イエスを救い主と信じて、主イエスの福音を受け入れるならば、約束されていた永遠の命が彼らに与えられるはずでした。しかし、彼らは最後の目標の前でつまずき、神の恵みを拒絶し、自らを滅びの道へと誘いこんでしまったのです。

 けれども、イスラエルの民・ユダヤ人が神の救いの恵みを拒絶したことによって、神の救いのみわざそのものが終わってしまうのではありません。いやむしろ、イスラエルのかたくなさによって、主イエス・キリストによって与えられる永遠の命への道が、異邦人にも開かれるようになったのだと、パウロが語ります。

 47節に引用されている旧約聖書のみ言葉は、イザヤ書49章6節と思われます。イザヤ書49章1~6節は、イザヤ書の中で特別に重要な意味を持つ「主の僕(しもべ)の歌」と言われている4つの歌の中の第二の歌です。その箇所を読んでみましょう。【49章1~6節】(1142ページ)。この歌で、神から直接に「わたしの僕(しもべ)」と呼びかけられているのが、神によって特別な使命を託されて選び出された「主の僕」です。この主の僕は「いたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たし」たけれども、しかし、それによって主の僕は諸国民の光としての務めを果たし、神の救いを地の果てにまで、全世界へと告げ知らせるようになると預言されています。

 実は、このイザヤ書のみ言葉は、ルカ福音書2章28節以下では、エルサレムの神殿で、幼な子・主イエスを抱き上げたシメオンが語った言葉の中にも引用されています。シメオンはイザヤが預言した主の僕が今エルサレム神殿に現れたのだと告白しています。パウロもまたイザヤ書に預言されていたこの主の僕こそが主イエス・キリストのことであると理解し、それゆえに主イエスの福音が今や自分たちによって異邦人へと、全世界のすべての民へと宣べ伝えられるのだと語っているのです。

 わたしたちがこれまで使徒言行録を読んできて何度も見てきたことでしたが、主イエスの福音がユダヤ人だけにではなく、ユダヤ人以外の異邦人にも宣べ伝えられ、彼らもまた主の教会の民へと加えられていったことを確認してきましたが、今やここでよりはっきりと、ユダヤ人からの迫害をきっかけにして、パウロが異邦人の使徒パウロとしての自覚をいよいよ強くし、異邦人に主イエスの福音を宣教する使命をより強く決意させたのでした。

 【48~49節】、ユダヤ人たちのつまずきと不信仰にもかかわらず、またそれによってより激しくなるユダヤ人による迫害にもかかわらず、神のみ言葉が前進していきます。新しい救いと命とを生み出していきます。

 パウロたちは反対者たちの迫害によって、アンティオキアの町を追い出されることになりました。しかし、52節にはこう書かれています。【52節】。ここには、主イエスの福音を聞いて信じた人たちが「弟子たち」と呼ばれ、ユダヤ人会堂からは独立して、主イエスの教会を建てたことが暗示されています。神の言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはなく、新しい弟子たち、新しい信仰者たちを誕生させ、新しい教会を生み出していくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画は、この世の反対や不信仰にもかかわらず、いつの世にも、力強く前進していくことをわたしたちに信じさせてください。その希望をもって、どのように困難は時代にあっても、み言葉を宣べ伝える務めにいそしむことができますように、わたしたちを支え、導いてください。

〇主なる神よ、重荷を負っている人、試練の中にある人、病んでいる人、道に迷っている人を、どうぞあなたが助けてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とが、この世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月9日説教「わたしたちの罪をゆるしてください」

2025年3月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編130編1~8節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの罪をゆるしてください」

 ルカによる福音書11章で教えられている主の祈りをテキストに学んでいます。きょうは4節の、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも……赦しますから」、この主の祈りの後半の二つ目の祈りについて学びます。マタイ福音書6章では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、ルカ福音書とは少し違っている個所があります。マタイ福音書をテキストにした式文の「主の祈り」では、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」となっています。それぞれの違いについては、のちほど説明をします。

 すでに学んできましたように、主の祈りの後半の初めで、わたしたちの日々のパンについての祈りがまず挙げられていました。わたしたちはパンなしでは生きていけない、肉なる者であり、飢え乾く者、弱い存在であることを、まず自覚させられます。しかし、そのような肉なる者、弱い存在であるからこそ、その命を支えてくださる主なる神に、熱心にパンを求める祈りをささげるように、主イエスは教えておられます。

そして、ここで注目したいことは、後半の最初の祈りであるパンを求める祈りと、次の罪のゆるしを求める祈りの間に、日本語では訳されてはいませんが、「そして」という接続詞(ギリシャ語ではカイという言葉です)があって、二つの文章をつないでいるのです。

このことは、二つの文章が関連性を持っていることを意味しています。わたしたち人間がこの地上で肉体の命を維持していくためにはパンを必要としているように、わたしたちが神から与えられている霊の命を維持していくために、罪のゆるしを必要としているということを、わたしたちはここから教えられるのです。わたしたちがきょう生きるために「主よ、きょうのパンをお与えください」と、真剣に祈るように、それと同じ真剣さと、現実性と、緊急性とをもって、「主よ、わたしの罪をおゆるしください」と祈るべきだと、主イエスは言われるのです。わたしの肉体が生きていくためにパンを必要としているのとまったく同様に、わたしの魂が生きていくために常に罪のゆるしを必要としているのです。そしてまた、主なる神はきょうの体の命のためにわたしにパンを備えてくださり、わたしの魂の命のために罪のゆるしをお与えくださると、主イエスは約束しておられるのです。

パンを求める祈りと罪のゆるしを求める祈りとが密接に関連しているもう一つの重要なポイントは、わたしたちはこの二つの祈りをいずれも神に向かって祈るのだということです。天の父なる神に向かって、「どうぞ、パンをお与えください」と祈り、同じ神に「どうぞ、罪をおゆるしください」と祈るのです。

パンを求めるために、食料を提供してくれる生産者とか食料を販売している店に行きなさいと、主イエスは言われたのではありません。パンを手に入れるために熱心に働きなさとお命じになったのでもありません。天の父なる神に、あなたのパンを求めなさいとお命じになられたのです。なぜ、パンを神に求めるべきなのか、その隠された理由を、わたしたちはここで教えられるのです。

 それは、天の父なる神こそがわたしたち人間の罪をゆるすことができる唯一のお方だからです。そして、事実、わたしたちの罪をゆるすためにご自身のみ子を十字架に犠牲としておささげくださったからです。ご自身の一人子さえも惜しまれずに、わたしたちの罪のゆるしのためにみ子をおささげくださった方は、み子のみならず、万物をもお与えくださるのは当然だからです(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。それゆえに、わたしたちの罪をおゆるしになる神にこそ、「きょうのパンをお与えください」と祈るようにと命じられているのです。

 では次に、罪のゆるしの祈りは、キリスト教信仰の中心的な主題であることについて考えてみましょう。キリスト教は他のどの宗教よりも、人間の罪を問題にし、その罪のゆるしこそがわたしたちの本当の救いであると教えています。また、罪のゆるしは主イエスのご生涯全体、その説教、みわざ全体とも関連しています。主イエスの誕生から十字架の死と復活に至るまでのすべてが、わたしたちの罪のゆるしのためであったと言うことができるでしょう。

 わたしたちが主イエスの誕生の時にクリスマスのメッセージとして聞く、マタイ福音書1章21節のみ言葉はこうです。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。また、主イエスは中風の人をいやされたあとでこのように言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされる」(マタイ福音書9章2節)。そして、マタイ福音書9章13節では、主イエスはこのように言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」と。さらに、主イエスは十字架の上でこう祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのかを知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と。最後に、復活されて弟子たちにそのお姿を現された主イエスはこう言われました。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」ルカ福音書24章46~48節参照)と。

 このように、罪のゆるしは主イエスのご生涯の中心であり、また全体です。それはキリスト教信仰の中心です。主の祈りが主イエスの福音の要約であると言われるのは、まさにそのとおりです。わたしたちが「我らの罪をゆるしたまえ」と祈ることによって、わたしがキリスト者であるということをまさに自覚し、告白するのです。

 それでは、罪とは何か、また罪のゆるしとは何かという、より中心的なテーマに入りましょう。キリスト教は人間の罪を最も真剣に取り上げ、問題にします。また、罪のゆるしを救いの中心とします。でも、一部の人はそれが日本でのキリスト教の成長を妨げていると言います。人間の罪という、いわば暗い、じめじめしたテーマを表に出さないで、人間の理想とか可能性、人生の幸せとか喜びの方を強調する方が、教会に人が集まるのにと言う人がいます。実際、そのようなことを説く新興宗教や人間開発セミナーのような集会に多くの若者が集まったりします。

 しかし、わたしたちはそのような意見には賛成しません。もし、教会が罪と救いを抜きにした別のテーマを掲げて人集めをしたとしても、それは真実の教会形成にはならないからです。もし、教会が罪を語らず、罪のゆるしを語らなくなれば、主イエスがこの世においでになられたことは無意味になりますし、主イエスの十字架の死も復活も、すべてが無意味になってしまうからです。

 むしろ、わたしたちはこう考えるべきでしょう。人間の罪について真剣に考えることが少ない日本だからこそ、罪について、丁寧に、また力を込めて語らなければならないでしょう。罪の意識が薄く、罪のゆるしを真剣に求める人が少なく、それよりは、人生の幸福とか繁栄、健康といったものを求めるに熱心なこの国の人たちに対して、正しく人間の罪について語り、罪のゆるしの福音のすばらしさを語らなければならないでしょう。罪のゆるしを願い求める祈りの重要さを語らなければならないでしょう。罪のゆるしの福音こそが、わたしたちの本当の救いであり、命であり、祝福なのだということを語らなければならないでしょう。

 さて、聖書で罪という言葉は、旧約聖書が書かれているヘブライ語でも、新約聖書が書かれているギリシャ語でも、元来は「的を外す」という意味を持っています。この言葉は罪の本質というものをよく言い表していると言えます。的とは、神に向かうことです。人間は神によって創造され、神と共に歩む者、また隣人と共に歩む者として創造されました。けれども、人間はその神に背き、神から離れて生きる罪びととなりました。人間が一生懸命に、努力して生きようとすればするほど、人間は気づかないうちにますます神から離れ、的から離れて、罪に落ちていくしかありません。また、的からそれている人間の歩みは、神から離れるだけでなく、そのすべてが、隣人との関係においても、社会生活においても、自然との関係も、すべてがゆがんでいくしかありません。聖書は、そのような罪の人間の歴史を描いています。人間はだれもがみな、的から外れ、罪と死と滅びへと向かっていると聖書は教えています。

 そのような人間の罪は、負債という言葉でも表現されます。ルカ福音書11章では、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていますが、マタイ福音書6章12節では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも負い目のある人を赦しましたように」と、前半でも後半でも「負い目」(これは負債という意味ですが)という言葉を用いています。罪と、負い目(負債)は全く同じ意味と考えてよいでしょう。

 負債とは借金のことです。つまり、わたしたち人間は神に対して負債を負っている、借金がある、神に返すべきものを返していない、むしろ日々に借金を増やしているというのです。この考え方の背景には、人間は本来、神から多くの恵みと賜物とをいただいている、そうであるのに、その恵みに気づかず、気づこうともせず、それゆえに感謝もせず、神の恵みに応えることをせず、かえって神から与えられた恵みを自らの欲望のままに浪費している。本来神からいただいたものである恵みを、自らの手で獲得したものだと主張し、いよいよ神から奪い取っている。だから、それは神に対する無限の負債なのだという考えです。

 わたしたちはここから、神に対する人間の罪と負債がいかに大きいかということを教えられるのですが、また同時に、わたしたち人間にはすでに神からの多くの恵みが与えられているのだということにも気づかされるのです。「我らの罪をゆるしたまえ」と祈るときに、わたしたちがすでに神から多くの恵みを与えられており、今また主イエス・キリストの十字架の福音によって、すべて信じる人に与えられている罪のゆるしの恵みがいかに大きいかということを、わたしたちは知らされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは罪の中で滅びようとしていたわたしたちを顧みてくださり、わたしたちを罪から救うために、み子の尊い十字架の血を流されるほどにわたしたちを愛してくださいましたことを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちが再び罪の奴隷のくびきにつながれることがありませんように、あなたから与えられた罪のゆるしの恵みに、心からの感謝をささげて、その恵みの応答し、あなたと隣人とに喜んでお仕えする者となりますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とがこの世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月2日説教「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

2025年3月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記5章1~23節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

 イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すという、神の大いなる救いのみわざに仕えるために、神の召命を受けたモーセは、兄弟のアロンと一緒にエジプトの王ファラオのもとへと出かけていき、王に直接に自分たちの要求を申し出ました。出エジプト記5章1節を読みましょう。【1節】。

 エジプト王ファラオは絶大な権力を持っていましたので、奴隷の民であったヘブライ人のモーセとアロンが、簡単に面会ができたかどうかという疑問は残りますが、モーセは生まれてから40年間は王宮でファラオの娘の子として育てられたということが2章に書かれていましたから、そのような王宮との関係があったから、容易に面会できたのかもしれません。

 とは言っても、奴隷の民の一員であったモーセとアロンがファラオの前に立つのには、大きな勇気がいることであったことは間違いありません。しかも、モーセは2章15節に書かれてあったように、エジプト人の監督を殺したことでその当時の王から命を狙われていましたから、自らの命の危険を覚悟しての行動でもあったのです。

 にもかかわらず、モーセもアロンも少しも恐れずにファラオの前に立っています。そして、自分たちの要求を申し出ています。それは、自分たちの要求と言うよりは、イスラエルの主なる神のご計画でした。また、前の3章と4章で何度も繰り返して語られていた、神の約束があったからにほかなんりません。3章12節で神はモーセにこのように言われました。【12節】(97ページ)。4章12節では、【12節】(99ページ)。主なる神がモーセと共にいてくださる。主なる神が彼に語るべき言葉を授けてくださる。そして、語る勇気と力をお与えくださる。それゆえに、彼らは少しも恐れることなく、ファラオの前に立ち、語ることができたのです。

 モーセとアロンは、「イスラエルの神、主がこう言われました」とファラオに告げています。彼らは自分たちの意見とか願いを言うのではありません。神が語れとお命じになった言葉を語るのです。神の命令は、3章18節にもう少し詳しく語られていました。【18節】(97ページ)。5章3節でも同じように語られています。【3節】。

 「荒れ野への3日の道のり」とは、おそらくシナイ半島のホレブの山、シナイ山を指していると思われます。とすれば、神が計画しておられたのはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出し、彼らを「乳と密の流れる土地」、族長たちに約束されたカナンの地へと導き上ることであったのか。それとも少しの間だけ、シナイ山で神を礼拝するために一時的な自由を与えることが、当初の神の計画であったのか。これまで読んできた出エジプト記の記述では、その両方の理解が可能です。あるいは、エジプトからの解放と新しい土地への導きが神の最終的な計画であったのだが、ファラオに初めからそのように要求したら拒否されることが分かりきっていたから、神を礼拝するための一時的な自由を、はじめに要求したと考えられるかもしれません。

 いずれにしても、ここで重要なことは、イスラエルの真の解放、救いとは、ただ単にエジプトの国から政治的、経済的に独立することにあるのではなく、また苦しい労役から解放されることでもなく、イスラエルが神を礼拝する民になるということ、このことこそが彼らの真の解放であり、救いなのだということ、神はそのことを目指しておられたのだということです。

 モーセとアロンの要求に対して、それがイスラエルの主なる神の要求であるとしても、エジプト王ファラオの答えは当然このように予想されます。【2節】。エジプトではファラオは神の子と考えられ、エジプトの最高神である太陽神アトンの化身として、絶対的権力を持っていました。そのファラオがイスラエルの神が言うことに服従するのは、ファラオの神の子としての地位を失うことでもあったので、モーセとアロンの要求に答えることはできません。ファラオはイスラエルの神をも否定します。

わたしたちはここで、主なる神を中心として、三つの立場の違ったグループが取り巻いている構図を見ることができます。一つのグループは、神の救いのみわざのために選び出され、神の使者として仕えているモーセとアロン、二つ目のグループはモーセとアロンの要求を聞いて、それを拒否するエジプト王ファラオとその民、三つ目のグループはエジプトでの重労働に苦しんで、神に助けを呼び求めているイスラエルの民、この三者によって、これから神の救いのみわざが行われていくことになります。

まず、モーセとアロンに焦点を当ててみましょう。彼らはエジプト王ファラオの前では奴隷の民の一員にすぎません。何の力も権力をも持ってはいません。しかし、彼らはこの世の権力を決して恐れていません。神が彼らと共におられるゆえに、彼らは固く立つことができます。彼らが神の救いのみわざに仕えるときに、神は必要な勇気と語るべき言葉を彼らに与えられます。彼らが主なる神の命令に従うとき、彼らはこの世のいかなる権力をも恐れません。恐れる必要はありません。

次に、エジプト王ファラオを見ていきましょう。ファラオはここでモーセ、アロンと面会しています。でも、ファラオ自身もすでに最初から気づいていたように、彼はイスラエルの主なる神と対峙しているのです。というのも、モーセとアロンは主なる神のみ名によって語っているからです。3節後半では、神の要求を拒むならば、ファラオに対して神の厳しい裁きが降るであろうとも語られています。ファラオはイスラエルの主なる神のみ前で決断することを迫られているのです。

ファラオはどのように決断するでしょうか。【4~9節】。ファラオはモーセとアロンの要求を拒みます。イスラエルの神の命令をも拒絶します。かえって、奴隷の民に、より厳しい労働を強いるように命じます。このファラオの反応をモーセたちの行動と比較してみたらどうでしょうか。ファラオは明らかにモーセたちを恐れています。彼らが信じ、従っているイスラエルの主なる神を恐れています。奴隷の民イスラエルの数が増えていることを恐れています。彼らの労働力が失われることを恐れています。彼の神の化身としての地位が脅かされていることを恐れています。この世の権力を誇り、それにしがみつこうとする者はみなこのように、恐れるに値しないものを恐れざるを得ません。

それにしても、ここでファラオが語っている言葉に、今日わたしたちが様々なところから聞く声と共通点があることに気づかされるのです。「おまえたちは怠け者だ。おまえたちは働きたくないから、自分たちに神を礼拝する時間を与えてくれなどと言うのだ」(8節参照)。17節でもファラオはこう言います。「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ」と。神なき世界に住むこの世の多くの人たちがこのように言うのを、わたしたちはしばしば耳にするのです。モーセの時代、今から3千年以上も前のエジプトにあっても、今日のこの国やこの世界の神を知らない人たちの中にあっても、わたしたちは同じような声を、至る所で聞くのです。国の政治の指導者たちから、経済界のリーダーたちから、あるいは職場の上司や同僚から、時に家族から、もしかしたらそれは自分自身にささやく内なる声であったりもするのです。わたしたちはいたる所で、あらゆる時に、あらゆる機会に、同じような誘惑の声、ささやきの声として、時に厳しい命令として聞くのです。わたしたちはどのようにしてそのような誘惑や試練と戦うのでしょうか。どのようにしてその戦いに勝利するのでしょうか。

一方には、神のみ心と招きに応えて、神を礼拝する生活を中心に据えて生きる神の民がおり、他方には、レンガ造りに汗を流し、高いビルを建設することを生きがいとする神なき民がいて、神を礼拝することを非生産的で、愚かな時間つぶしとみなし、宗教よりはミサイルや爆弾が大事で、信仰よりもパンの方が先と考え、神礼拝よりも日曜日の行楽が重要だと考える人たちがいる。しかも、後者の方が圧倒的な多数を占めるわたしたちの社会にあって、さて、モーセとアロンは、そしてわたしたちはいったいどうするのでしょうか。

ここで、先に挙げた主なる神を中心にした三つの目のグループ、イスラエルの民について見ていきましょう。モーセたちの申し出に反対したファラオは、イスラエルの民により過酷な重労働を強いるようになりました。それまでは、レンガに入れるわらはエジプト側から提供されていましたが、これからはわらも自分たちで集め、しかもレンガの生産量は少しも減らすなという命令をファラオは与えました。

奴隷の民イスラエルは、モーセたちのおかげで自分たちがより厳しい労働を強いられるようになったことを知り、二人を激しく非難します。【21節】。モーセとアロンは異教の王ファラオとの戦いには勝利することはできても、同胞の民イスラエルの不信仰との戦いには勝利することはできるのでしょうか。さて、モーセとアロンはいったいどうするのでしょうか。

22節の冒頭に、「モーセは主のもとに帰って、訴えた」と書かれています。モーセは彼を遣わされた神のもとへと帰ります。神の約束のみ言葉へと立ち返ります。神の約束のみ言葉こそが彼の出発点であり、また彼が目指すべき目的地点でもあるからです。神はモーセに再び神の使命に生きる道を備えてくださり、その使命を果たすために新しい約束をお与えくださいます。6章以下でそのことが語られます。

わたしたちもまた、わたしの歩みの出発点である礼拝から始め、またそこへと戻っていきます。たとえ、この世にあってのわたしたちの信仰の戦いがどれほどに厳しく、労苦が多いものであったとしても、わたしたちは帰るべき礼拝という場所があるのです。また、そこから新しい歩みを始めることが許されているのです。

奴隷の民イスラエルにとって、神礼拝こそが奴隷の家からの解放と救いへと向かう確かな道であったように、わたしたちにとっては神礼拝こそが主イエス・キリストの十字架と復活の福音による罪の奴隷からの解放と救いへと向かう唯一の道なのです。イスラエルの民が奴隷の家エジプトで腹いっぱいに肉鍋を食べることができたとしても、そこには真の救いも慰めもなく、真の喜びも祝福もないように、わたしたちにとって主イエスによる罪のゆるしがないならば、どんなにレンガを高く積み上げても、ミサイルやロケットを飛ばしても、そこには真の平和も共存もなく、真の喜びも祝福もありません。神礼拝こそが、わたしたちが目指すべき目的地であり、またわたしたちが生きるべき真実の命の道への出発点なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子の尊い十字架の血によってわたしたちを罪の奴隷から救い出してくださいましたことを感謝いたします。この大きな喜びと感謝と祝福とを、いよいよわたしたちに増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。