3月2日説教「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

2025年3月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記5章1~23節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

 イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すという、神の大いなる救いのみわざに仕えるために、神の召命を受けたモーセは、兄弟のアロンと一緒にエジプトの王ファラオのもとへと出かけていき、王に直接に自分たちの要求を申し出ました。出エジプト記5章1節を読みましょう。【1節】。

 エジプト王ファラオは絶大な権力を持っていましたので、奴隷の民であったヘブライ人のモーセとアロンが、簡単に面会ができたかどうかという疑問は残りますが、モーセは生まれてから40年間は王宮でファラオの娘の子として育てられたということが2章に書かれていましたから、そのような王宮との関係があったから、容易に面会できたのかもしれません。

 とは言っても、奴隷の民の一員であったモーセとアロンがファラオの前に立つのには、大きな勇気がいることであったことは間違いありません。しかも、モーセは2章15節に書かれてあったように、エジプト人の監督を殺したことでその当時の王から命を狙われていましたから、自らの命の危険を覚悟しての行動でもあったのです。

 にもかかわらず、モーセもアロンも少しも恐れずにファラオの前に立っています。そして、自分たちの要求を申し出ています。それは、自分たちの要求と言うよりは、イスラエルの主なる神のご計画でした。また、前の3章と4章で何度も繰り返して語られていた、神の約束があったからにほかなんりません。3章12節で神はモーセにこのように言われました。【12節】(97ページ)。4章12節では、【12節】(99ページ)。主なる神がモーセと共にいてくださる。主なる神が彼に語るべき言葉を授けてくださる。そして、語る勇気と力をお与えくださる。それゆえに、彼らは少しも恐れることなく、ファラオの前に立ち、語ることができたのです。

 モーセとアロンは、「イスラエルの神、主がこう言われました」とファラオに告げています。彼らは自分たちの意見とか願いを言うのではありません。神が語れとお命じになった言葉を語るのです。神の命令は、3章18節にもう少し詳しく語られていました。【18節】(97ページ)。5章3節でも同じように語られています。【3節】。

 「荒れ野への3日の道のり」とは、おそらくシナイ半島のホレブの山、シナイ山を指していると思われます。とすれば、神が計画しておられたのはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出し、彼らを「乳と密の流れる土地」、族長たちに約束されたカナンの地へと導き上ることであったのか。それとも少しの間だけ、シナイ山で神を礼拝するために一時的な自由を与えることが、当初の神の計画であったのか。これまで読んできた出エジプト記の記述では、その両方の理解が可能です。あるいは、エジプトからの解放と新しい土地への導きが神の最終的な計画であったのだが、ファラオに初めからそのように要求したら拒否されることが分かりきっていたから、神を礼拝するための一時的な自由を、はじめに要求したと考えられるかもしれません。

 いずれにしても、ここで重要なことは、イスラエルの真の解放、救いとは、ただ単にエジプトの国から政治的、経済的に独立することにあるのではなく、また苦しい労役から解放されることでもなく、イスラエルが神を礼拝する民になるということ、このことこそが彼らの真の解放であり、救いなのだということ、神はそのことを目指しておられたのだということです。

 モーセとアロンの要求に対して、それがイスラエルの主なる神の要求であるとしても、エジプト王ファラオの答えは当然このように予想されます。【2節】。エジプトではファラオは神の子と考えられ、エジプトの最高神である太陽神アトンの化身として、絶対的権力を持っていました。そのファラオがイスラエルの神が言うことに服従するのは、ファラオの神の子としての地位を失うことでもあったので、モーセとアロンの要求に答えることはできません。ファラオはイスラエルの神をも否定します。

わたしたちはここで、主なる神を中心として、三つの立場の違ったグループが取り巻いている構図を見ることができます。一つのグループは、神の救いのみわざのために選び出され、神の使者として仕えているモーセとアロン、二つ目のグループはモーセとアロンの要求を聞いて、それを拒否するエジプト王ファラオとその民、三つ目のグループはエジプトでの重労働に苦しんで、神に助けを呼び求めているイスラエルの民、この三者によって、これから神の救いのみわざが行われていくことになります。

まず、モーセとアロンに焦点を当ててみましょう。彼らはエジプト王ファラオの前では奴隷の民の一員にすぎません。何の力も権力をも持ってはいません。しかし、彼らはこの世の権力を決して恐れていません。神が彼らと共におられるゆえに、彼らは固く立つことができます。彼らが神の救いのみわざに仕えるときに、神は必要な勇気と語るべき言葉を彼らに与えられます。彼らが主なる神の命令に従うとき、彼らはこの世のいかなる権力をも恐れません。恐れる必要はありません。

次に、エジプト王ファラオを見ていきましょう。ファラオはここでモーセ、アロンと面会しています。でも、ファラオ自身もすでに最初から気づいていたように、彼はイスラエルの主なる神と対峙しているのです。というのも、モーセとアロンは主なる神のみ名によって語っているからです。3節後半では、神の要求を拒むならば、ファラオに対して神の厳しい裁きが降るであろうとも語られています。ファラオはイスラエルの主なる神のみ前で決断することを迫られているのです。

ファラオはどのように決断するでしょうか。【4~9節】。ファラオはモーセとアロンの要求を拒みます。イスラエルの神の命令をも拒絶します。かえって、奴隷の民に、より厳しい労働を強いるように命じます。このファラオの反応をモーセたちの行動と比較してみたらどうでしょうか。ファラオは明らかにモーセたちを恐れています。彼らが信じ、従っているイスラエルの主なる神を恐れています。奴隷の民イスラエルの数が増えていることを恐れています。彼らの労働力が失われることを恐れています。彼の神の化身としての地位が脅かされていることを恐れています。この世の権力を誇り、それにしがみつこうとする者はみなこのように、恐れるに値しないものを恐れざるを得ません。

それにしても、ここでファラオが語っている言葉に、今日わたしたちが様々なところから聞く声と共通点があることに気づかされるのです。「おまえたちは怠け者だ。おまえたちは働きたくないから、自分たちに神を礼拝する時間を与えてくれなどと言うのだ」(8節参照)。17節でもファラオはこう言います。「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ」と。神なき世界に住むこの世の多くの人たちがこのように言うのを、わたしたちはしばしば耳にするのです。モーセの時代、今から3千年以上も前のエジプトにあっても、今日のこの国やこの世界の神を知らない人たちの中にあっても、わたしたちは同じような声を、至る所で聞くのです。国の政治の指導者たちから、経済界のリーダーたちから、あるいは職場の上司や同僚から、時に家族から、もしかしたらそれは自分自身にささやく内なる声であったりもするのです。わたしたちはいたる所で、あらゆる時に、あらゆる機会に、同じような誘惑の声、ささやきの声として、時に厳しい命令として聞くのです。わたしたちはどのようにしてそのような誘惑や試練と戦うのでしょうか。どのようにしてその戦いに勝利するのでしょうか。

一方には、神のみ心と招きに応えて、神を礼拝する生活を中心に据えて生きる神の民がおり、他方には、レンガ造りに汗を流し、高いビルを建設することを生きがいとする神なき民がいて、神を礼拝することを非生産的で、愚かな時間つぶしとみなし、宗教よりはミサイルや爆弾が大事で、信仰よりもパンの方が先と考え、神礼拝よりも日曜日の行楽が重要だと考える人たちがいる。しかも、後者の方が圧倒的な多数を占めるわたしたちの社会にあって、さて、モーセとアロンは、そしてわたしたちはいったいどうするのでしょうか。

ここで、先に挙げた主なる神を中心にした三つの目のグループ、イスラエルの民について見ていきましょう。モーセたちの申し出に反対したファラオは、イスラエルの民により過酷な重労働を強いるようになりました。それまでは、レンガに入れるわらはエジプト側から提供されていましたが、これからはわらも自分たちで集め、しかもレンガの生産量は少しも減らすなという命令をファラオは与えました。

奴隷の民イスラエルは、モーセたちのおかげで自分たちがより厳しい労働を強いられるようになったことを知り、二人を激しく非難します。【21節】。モーセとアロンは異教の王ファラオとの戦いには勝利することはできても、同胞の民イスラエルの不信仰との戦いには勝利することはできるのでしょうか。さて、モーセとアロンはいったいどうするのでしょうか。

22節の冒頭に、「モーセは主のもとに帰って、訴えた」と書かれています。モーセは彼を遣わされた神のもとへと帰ります。神の約束のみ言葉へと立ち返ります。神の約束のみ言葉こそが彼の出発点であり、また彼が目指すべき目的地点でもあるからです。神はモーセに再び神の使命に生きる道を備えてくださり、その使命を果たすために新しい約束をお与えくださいます。6章以下でそのことが語られます。

わたしたちもまた、わたしの歩みの出発点である礼拝から始め、またそこへと戻っていきます。たとえ、この世にあってのわたしたちの信仰の戦いがどれほどに厳しく、労苦が多いものであったとしても、わたしたちは帰るべき礼拝という場所があるのです。また、そこから新しい歩みを始めることが許されているのです。

奴隷の民イスラエルにとって、神礼拝こそが奴隷の家からの解放と救いへと向かう確かな道であったように、わたしたちにとっては神礼拝こそが主イエス・キリストの十字架と復活の福音による罪の奴隷からの解放と救いへと向かう唯一の道なのです。イスラエルの民が奴隷の家エジプトで腹いっぱいに肉鍋を食べることができたとしても、そこには真の救いも慰めもなく、真の喜びも祝福もないように、わたしたちにとって主イエスによる罪のゆるしがないならば、どんなにレンガを高く積み上げても、ミサイルやロケットを飛ばしても、そこには真の平和も共存もなく、真の喜びも祝福もありません。神礼拝こそが、わたしたちが目指すべき目的地であり、またわたしたちが生きるべき真実の命の道への出発点なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子の尊い十字架の血によってわたしたちを罪の奴隷から救い出してくださいましたことを感謝いたします。この大きな喜びと感謝と祝福とを、いよいよわたしたちに増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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