4月27日説教「神の言葉によって生じた分裂」

2025年4月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記30章15~20節

    使徒言行録14章1~7節

説教題:「神の言葉によって生じた分裂」

 使徒パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行の記録が使徒言行録13章4節から始まっています。地中海のキプロス島から小アジアと言われる地域、今のトルコ共和国になりますが、当時のローマ帝国の区分ではピシディア州のアンティオキアという町での宣教活動が13章13節から詳しく描かれています。パウロの説教を聞いて、多くのギリシャ人、異邦人が主イエス・キリストの福音を信じ、永遠の命にあずかる神の民とされました。ところが、そのことがユダヤ人たちの反感をかって、パウロたちは迫害を受け、町から出ていかざるを得なくなりましたが、パウロはその時、自分たちの福音宣教の使命がユダヤ人だけではなく、ユダヤ人以外の異邦人にこそあるのだということを強く意識したのでした。13章46節以下にこのように書かれています。【46~49節】。

 ユダヤ人による迫害が、異邦人、ギリシャ人への伝道の門戸を大きく開くきっかけになったのです。わたしたちが使徒言行録を読んでしばしば確認してきたように、神の言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれることはありません。いやむしろ、神の言葉はこの世の様々な抵抗や攻撃という迫害の中で、いよいよその力と命とを発揮し、そのような迫害を乗り越え、貫いて前進していくのです。

 それゆえに、パウロとバルナバはこの迫害によって伝道活動を諦めて、帰路に着くというのではなく、むしろ、51節に書かれているように、パウロたちも、またアンティオキアに誕生した教会も、より大きな喜びに満たされ、聖霊に導かれながら、宣教活動を続けていったのでした。

 このこともまた、わたしたちが使徒言行録で繰り返して確認してきたことでした。最初に誕生したエルサレム教会で大迫害が起こり、多くのユダヤ人キリスト者たちがエルサレムから追放されましたが、追放された彼らがパレスチナ周辺地域へと散っていき、新しい町で主イエスの福音を宣べ伝えました。それによって、パレスチナ全域に主の教会が拡大していったのでした。アンティオキアの町を追い出されたパウロたちもまた、次の町イコニオンへ出かけていき、そこで主イエスの福音を宣べ伝えたのです。

 14章1節から、イコニオンでの伝道活動が描かれます。アンティオキアからイコニオンまでは、よく整備されたセバステ街道を西に130キロほどの道のりで、当時は交通の要所であり、かなり繁栄した町であったようです。

【1節】。パウロたちは、前のアンティオキアでもそうしたように、まずユダヤ人の会堂で伝道活動を始めました。13章46節でパウロは、「わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言しましたが、これは、ユダヤ人がもはや伝道の対象ではなくなったという意味ではなく、主イエスの福音はユダヤ人にも異邦人にも、すべての人に語り伝えられなければならないということは変わりはありません。どんなにかたくなで、不信仰な人ユダヤ人であっても、神の救いから全く除外されているのではありません。パウロたちはこのあとでも、新しい町に行った時には、まずユダヤ人会堂を探して、そこを拠点として伝道活動を広げていくという方法をとっています。神が最初にユダヤ人をお選びになったという選びの秩序は、変更されません。

イコニオンでも多くのユダヤ人や異邦人が信仰に入ったと書かれています。迫害によって前の町を追い出されたパウロたちでしたが、それでもなおも語り続けるとき、神はご自身の命のみ言葉によって働いてくださり、新しい町で多くの救われる人を生み出してくださいます。わたしたちもまたそのことを信じて、この時代に、この場所で、語り続けていきたいと願います。

【2~3節】。イコニオンでもユダヤ人たちが迫害の先頭に立ちました。なぜに、ユダヤ人たちはこれほどまでに不信仰でかたくなに、パウロたちが語った主イエスの福音を信じなかったのでしょうか。全世界の諸国民に先立って神よって選ばれ、神との契約の民とされ、神の救いの恵みを多く受け取ってきたはずなのに、彼らは主イエスの福音を信じることができませんでした。その理由については、使徒言行録全体や新約聖書全体の教えから推測できます。ユダヤ人たちは神に愛され、神の恵みをたくさん受け取ってきたのに、それに心から感謝をせず、自分たちが選ばれた民であることを誇って、かえって傲慢になり、自分たちには神から与えられた律法があり、神に最も近い民であり、神の国の世継ぎとして定められていることに安住していたと言えるでしょう。

けれども、パウロたちが語った主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、そのようなユダヤ人の選民意識や特権意識を、根本から打ち砕くものでした。すなわち、だれであっても、主イエス・キリストがわたしの罪のために十字架で死んでくださったことを信じ、主イエスの復活によってわたしに罪と死に対する勝利が与えられていることを信じて、主イエスをわたしの救い主と信じ、告白するならば、すべての人が、自らには何の功績がなくても、主イエス・キリストによって罪ゆるされ、救われる。これがパウロたちが語った主イエスの福音だからです。わたしたちはこの救いの恵みを、感謝をもって、また真実の悔い改めをもって受け取るのです。それがわたしたちの救いです。

パウロとバルナバは繰り返されるユダヤ人による迫害にも、決して屈することなく、失望することなく、その町に長くとどまり、忍耐強く、勇敢に語り続けました。3節の「勇敢に語った」という言葉は、使徒言行録の中で何度も用いられる特徴的な言葉です。いくつか読んでみましょう。【13章46節】(240ページ)。【9章27節】(231ページ)。ここでは、同じ言葉が「大胆に」と訳されています。【4章29節、30節】(220ページ)ここでも「大胆に」と訳されています。いずれの箇所でも、敵対する人々に囲まれながら、恐るべき迫害のただ中で、苦痛や死の恐れのただ中で、しかしなおも勇気を失わず、希望を持ち続けて、主イエス・キリストの福音を語り続ける、勇ましい使徒たちの姿を「大胆に、勇気をもって」という言葉で表現しています。

パウロたちがこのように大胆に語ることができたのは、彼らが雄弁であったからではありません、また彼らの性格がだれをも恐れない強さを持っていたからでもありません。きょうの箇所の3節では、「主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」と書かれているように、主なる神が彼らと共にいてくださり、彼らに特別な恵みの賜物をお与えくださったからにほかなりません。主なる神ご自身が、ご自身の言葉の命と力とを働かせてくださったからです。そのようにして、主なる神の言葉の命と力とを信じて、パウロたちは大胆に、力強く、勇気をもって主イエス・キリストの福音を語りました。語ることができたのです。

【4~7節】。パウロとバルナバは、激しい迫害にあいながらも、かなりの長い期間イコニオンに滞在して伝道活動を続けました。その結果、パウロたちとユダヤ人の対立だけでなく、町の住民全体が二つの派に分かれるほどの騒ぎに発展していきました。一方はユダヤ人の側につき、他方はパウロたちの側に着くというように、パウロたちを中心にして町の住民が二つに分裂しました。パウロたちを中心にしてというよりは、主イエス・キリストを中心にしてというべきかもしれません。主イエス・キリストの福音を受け入れる人たちと、それを拒絶する人たちに分裂したのです。このような分裂は。聖書の中でしばしば起こる分裂です主イエスが救いのみわざがなされるときには、いつもこのような分裂が生じます。それは主イエスご自身がひき起こされる分裂なのです。

マタイ福音書10章34節以下で、主イエスはこのように言われます。【34~39節】(19ページ)。これは何とも厳しい主イエスのみ言葉でしょうか。人間の関係の中で最も近しい親と子の間に、家族との間に、主イエスは剣を投じるために来たのだと言われるのです。平和な家族に分裂をもたらすために主イエスは来たのだと言われるのです。この主イエスのみ言葉の厳しさに驚かない人がいるでしょうか。わたしたちは主イエスのみ言葉の厳しさを、少しも割引をしないで受け止めなければなりません。それと同時に、そのみ言葉に含まれている大きな、豊かな救いの恵みを十分に受け取らなければなりません。

主イエスは38節で、【38節】(19ページ)と言われます。主イエスはここでご自分の十字架の福音を先取りして語っておられるのです。そして続けて【39節】とも言われます。主イエスの十字架の死はわたしたちをまことの命に生かすための死であったのです。罪のない神のみ子が、わたしたち罪びとたちに代わって、父なる神の裁きを受けて十字架で死んでくださいました。そして、罪も汚れもない尊い血をわたしたちのために流され、わたしたちを罪から贖ってくださいました。罪ゆるされたわたしたちは、永遠に神と共にある命に生かされるのです。主イエスの十字架の福音を聞き、それを信じるとは、まさにこのような永遠なる神との霊的な交わりの中に招き入れられることなのです。

わたしたちが神との霊的な交わりの中で生きるために、わたしたちはひとたび肉にある関係のわたしを殺さなければなりません。古い罪の中にあったわたしが、主イエス・キリストの十字架によって、死ななければならないのです。主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、信じるとは、そのような古いわたしの死と、新しいわたしの復活が起こるということなのです。それゆえに、信じる人と、信じない人との間には決定的な違いが生じます。分裂が生じます。

この時代、紀元1世紀中ごろから2世紀にかけて、ローマ帝国は長く平和が続きました。それを「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)と呼びます。ローマ帝国が強力な力によって全世界を支配していたので、暴動や反乱が起こらなかったからです。イコニオンの町もそのような「ローマの平和」を享受していたのに違いありません。けれども、その町に主イエスの十字架の福音がもたらされると、町の平和は乱れて、大きく二つに分断されました。

このことは、紀元1世紀の終わりころ、ローマ帝国による教会に対する組織的迫害が起こることを暗示しているように思われます。平和なローマ帝国に主イエス・キリストの十字架の福音が大きなくさびを打ち込んだのです。ローマ帝国はそれに対して教会を迫害するという道を選びましたが、教会はその迫害に屈することはありませんでした。やがて、ローマ帝国は二つに分裂し、滅びていきました。しかし、わたしたちは永遠に終わることがない神の王国に招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉は、どのような困難の中でも、迫害にあっても、決してその働きを止めることはありません。また、あなたがわたしたちにお与えくださった主イエス・キリストの福音は、どのような時代の中でも、信じる人を生み出し、教会を建てます。わたしたちがそのことを信じて、喜んで、また大胆に、あなたのみ言葉に仕えていく者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月20日説教「主イエス・キリストの死と復活にあずかる」

2025年4月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              復活日(イースター)礼拝

聖 書:詩編130編1~8節

    ローマの信徒への手紙6章1~11節

説教題:「主イエス・キリストの死と復活にあずかる」

 きょうの復活日(イースター)礼拝で朗読された聖書、ローマの信徒への手紙6章1~11節では、わたしたち人間の死ぬことと生きることが取り上げられています。ここには、死ぬという言葉と、生きるという言葉が何度も用いられています。しかも、その二つの言葉はいつでも一つの文章の中で一緒に連なって用いられています。いくつか読んでみましょう。2節、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょうか」。それから、4節。【4節】。また、8節でも。【8節】。最後に、11節。【11節】。

 わたしたちが人間の死ぬことと生きることを考える場合、いつでもその二つのことを切り離さずに、それぞれの関連とつながりの中で考えなければならないということを聖書は教えています。死を考える場合には命と生きることとの関連の中で、命や生きることを考える場合には死と死ぬこととの関連の中で考えることが重要です。両者を切り離して、死や死ぬことだけを独自に考えるのではなく、また命や生きることだけを独自に考えるのでもなく、その両者が互いに分かちがたく結びついているものとしてとらえることが重要だということです。

 それから、きょうの箇所でのもう一つの特色は、先ほど挙げた4つの文章では、いつの場合にも、死と死ぬことが先に言われ、次に生きることが言われているということです。これは、人間の一生を考える場合、普通の順序ではないと言わなければなりません。わたしたちはだれもみな、生まれ、生きて、そして死んでいきます。生きることが先にあり、次に死ぬことが続きます。そして、死ぬことで最後となります。

 ところが、きょうの聖書の箇所では、それが全く逆になっています。しかも、4つの文章がみなそうなっています。死ぬことが先にあり、つぎに生きることが続いています。そして、最後は復活と新しい命に生きることが語られているのです。聖書は、はっきりと意識して、普通の順序を逆転させているということに気づきます。

 なぜ、意識的に逆転させているのでしょうか。その答えは、きょうの箇所で「わたしたち」という言葉と共に用いられている「キリスト・イエス」にあります。この方、主イエス・キリストが人間の、生きるから死ぬへと至る順序を、逆転させたからです。

 神のみ子である主イエスのご生涯は、わたしたち人間と同じように、ヨセフとマリアの子としてお生まれになり、赤ちゃんだった時があり、12歳だった時があり、30歳のころに、神の国の到来を告げる説教者として立ち、およそ3年余りの活動期間を経て、エルサレムでユダヤ人指導者たちによって捕らえられ、裁判にかけられ、ローマ帝国の地方総督ピラトによって十字架刑の判決を受け、受難週の金曜日に十字架上で息を引き取られました。

 ここまでは、わたしたち人間と同じ順序でした。ところが、主イエスは墓に葬られてから三日目の日曜日の朝早くに、墓から出て、復活されたのです。主イエスの亡骸は墓にはありませんでした。数人の婦人たちや弟子たちがその証人となりました。そのあと、40日間にわたって、主イエスは復活されたお姿を多くの人たちの前に現わされました。

 主イエスの復活の目撃証人となった弟子たちは、十字架につけられた主イエスが復活されたことを信じ、その復活信仰によって形成された教会の民となりました。主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、復活信仰から始まっています。死によっては終わらない、復活信仰によって生きる、新しい命に生きる教会の民が形成されたのです。それによって、生きるから死へと至る人間の一生とは違う、死から新しい命に生きるという、逆転が起こったのです。

 そこで、きょうの聖書の箇所の三つ目の大きな特徴に注目しなければなりません。ここでは、わたしたちの死ぬことと生きることとが、主イエス・キリストの死ぬこと、生きることとの密接な関係の中で語られているということです。主イエス・キリストご自身が生きるから死ぬへと至る順序を、死ぬから生きるへと逆転させてくださったのですから、わたしたちが主イエス・キリストと固く結ばれているならば、わたしたちもまた、主イエス・キリストと同じように、死ぬから生きることへと変えられることになるのです。

 では、それがどのようにして起こるのでしょうか。主イエス・キリストが起こしてくださった逆転が、どのようにしてわたしたちの逆転になるのでしょうか。そのことを探っていきましょう。

 この手紙の著者である使徒パウロは、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、どのようにしてわたしたち信仰者の死と新しい命に生きることに結びつくのかを、洗礼という儀式で説明しています。洗礼は元来、ユダヤ教の改宗者の入会儀式であったと推測されています。ヨルダン川に身を沈めることによって、今まで信じてきた諸宗教の神々と死に別れ、川から上がってきた時にはユダヤ教の神を信じる新しい信仰者に生まれ変わるということを、言い表していました。そのユダヤ教の洗礼が、洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を経て、主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰を告白する儀式へと変わっていきました。それによって、洗礼には新しい意味が付け加えられたのです。

 キリスト教信仰による洗礼の第一の意味は、3節に書かれているように、「主イエス・キリストの死にあずかる洗礼」です。主イエス・キリストが十字架で死んでくださったその死が、洗礼によってわたしの死となり、罪に支配されていた古いわたしがそこで死ぬのです。それは単に象徴的な意味で死ぬということではなく、主イエス・キリストが十字架の死によってわたしの罪のために代わって神の裁きを受けてくださり、わたしに代わって死んでくださったという事実によるわたしの死なのです。主イエスご自身は罪のない神のみ子でしたから、本来裁かれることも死ぬこともあり得なかったのですが、主イエスは徹底してこのわたしのために、わたしの罪のために死んでくださったからです。4節の前半にこのように書かれています。【4節a】。

同じようにして、主イエス・キリストの復活もまた、わたしのための復活であり、わたしを新しい命へと生かすための復活であったことが、4節後半に書かれています。【4節b】。これがキリスト教信仰による洗礼の第二の意味です。主イエス・キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって神の義を満たされ、神の救いのみわざを成就されました。それによって、主イエス・キリストは罪と死とに勝利されたのです。神は主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださいました。そして、洗礼によって、主イエス・キリストの罪と死に対する勝利が信仰者の勝利とされるのです。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰者は罪の支配から解放され、新しい命に生きる者とされるのです。

洗礼は、主イエス・キリストの死と復活を、洗礼を受ける信仰者、わたしたちの死と復活の命に固く結びつけます。そのことを言い表す言葉が、きょうの聖書箇所には数多く用いられています。3節では、「キリスト・イエスに結ばれる」、4節では、「キリストと共に」、5節では、「キリストと一体なって」、6節と8節でも、「キリストと共に」、11節では、「キリスト・イエスに結ばれて」、これらの言葉によって二つのことが強調されています。

一つは、洗礼によって主イエス・キリストの出来事がわたしの出来事となるのですが、その出来事の主体は、常に主イエス・キリストの側にあるということです。主イエス・キリストのご生涯とご受難十字架の死、そして復活のすべてが、わたしのためであったということです。わたしはその救いの恵みを、洗礼をとおして、感謝をもって受け入れるのです。

もう一つには、その救いの恵みの大きさ、力の偉大さが強調されているのです。主イエス・キリストの神のみ子としての十字架と復活の出来事は、ただ一回で、完全で、永遠で、普遍の力と命を持っています。その救いの恵みは、すべての時代のすべての人に及ぶのです。だれであれ、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受ける信仰者に、この救いの恵みが与えられます。8節に書かれているように、【8節】という、この信仰によって、すべての信仰者は生きるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死すべきであったわたしたちのために、苦しみを受けられ死なれ、そして三日目に復活された主イエス・キリストの救いの恵みを、どうかわたしたち一人一人に豊かに与えてください。また、多くの人々にも与えてください。

〇この後で行われる洗礼式、入会式の上に、あなたからの豊かな祝福がありますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月13日説教「ロバに乗ってエルサレムに入場された平和の王」

2025年4月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              棕櫚の主日(受難週)

聖 書:詩編98編1~9節

    ルカによる福音書19章28~44節

説教題:「ロバに乗ってエルサレムに入場された平和の王」

 ルカ福音書19章28節にこのように書かれています。【28節】。主イエスのエルサレムへの最後の旅は、いよいよ終わりに近づきました。主イエスの地上の歩みの最後の1週間が、ここから始まります。それは、教会の暦で言えば、受難週の始まりです。主イエスは受難週の日曜日に、ろばに乗ってエルサレムに入場されました。それから、ほとんど毎日エルサレム神殿とその近くで説教されました。木曜日の夕方、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をされ、その夜はゲツセマネの園で徹夜の祈りをされ、金曜日の朝方ユダヤの役人たちによって捕らえられ、裁判を受け、十字架につけられ、午後3時ころに十字架の上で息を引き取られました。その日のうちに墓に葬られ、翌日の安息日を挟んで3日目の日曜日の朝早くに、墓から復活されました。これが、主イエスの受難週から復活に至る1週間の歩みです。

 そのような主イエスの歩みを思いながら、28節の「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」というみ言葉を読むとき、ここに深い意味が込められていることに気づくのです。主イエスはご自身の受難と十字架への道を、これまでにもそうであったように、エルサレムに近づいていよいよ確かな決意をもって、弟子たちの先頭に立って進み行かれるのです。弟子たちだけでなく、わたしたちすべての人間の先頭に立って進み行かれるのです。なぜならば、ただお一人、神のみ子であり、また人の子となられた主イエスだけが、わたしたちの罪をゆるすことがお出来になるからであり、主イエスの十字架の死だけがわたしたち人間の罪を完全に贖うことができるからです。

 この世の人のうち、いったいだれが他の人のために自ら進んで苦難と十字架への道を選び取ろうとするでしょうか。人々の先頭に立ちたいと願う人はたくさんいるでしょう。多くの人は、列の先頭に立ちたい、だれよりも先に進みたいと願って、競い合っています。他の人よりも大きな名誉を得ようと、競争し合っています。けれども、困難な道、険しい道、屈辱と苦難の道では、だれも先頭に立ちたいとは願いません。ましてや、自分のためではなく、他の人のための苦難の道だとすれば、なおさらに、だれもがそれを避けたいと思うに違いありません。

 しかし、主イエスはそうではありませんでした。ご自身が進んで、強い決意をもって、そしてまた喜びつつ、ご受難と十字架への道を、先頭に立って進み行かれたのです。そして、わたしたちの罪のために、わたしたちをすべての罪から贖いだすために、ご自身の罪も汚れもない、神のみ子としての尊い血を流され、その命をおささげになったのです。ここにこそ、わたしたちを罪から救う主イエスの大きな愛があり、それゆえにまた、わたしたちのすべての罪をゆるし、神との豊かな交わりへと導く命と力があるのです。

 ご受難と十字架の死への道を先頭に立って進み行かれて主イエスは、また、わたしたち一人一人の人生の歩みの先頭に立って導いてくださいます。わたしたちが時として道に迷い、不安や恐れに襲われるとき、試練や困難に出合い悩むとき、大きな壁に突き当たって一歩も前に進めなくなるとき、主イエスはわたしの先頭に立って、わたしのために道を切り開いてくださり、最も良い道を備えてくださいます。わたしたちはどのような時にも、先頭に立って進み行かれる主イエスに従い、信頼して、わたしのすべてをお委ねすることができます。

 さて、主イエスはエルサレムに入場される際に、ろばの子にお乗りになりました。普通、王が戦いに勝利して凱旋帰国するするときや、新しい王が即位する式では、立派な軍馬にまたがって入場行進するのですが、この時の主イエスは軍馬ではなく、ろばの子に乗ってエルサレムに入られました。エルサレムは敵からの攻撃に備えて周囲を高い壁で囲まれていましたから、あたかも城の城壁のようなので、エルサレム市街に入るときには入場という表現を用います。

 主イエスはなぜ軍馬ではなくロバの子に乗ってエルサレムに入場されたのでしょうか。マタイ福音書21章4節には、それは旧約聖書の預言が成就されるためであったと書かれています。その預言の箇所を読んでみましょう。【ゼカリヤ書9章9~11節】(1489ページ)。ここに預言されている王は、柔和で謙遜な王であり、戦いのために武器をもって軍馬にまたがる王ではなく、むしろ戦いのための戦車や武器をすべて投げ捨てて、もはや戦いのことを学ぶことのない真の平和をもたらす王であり、そして永遠の契約を守り実行するために、捕らわれていた人々を解放する王であると言われています。主イエスはまさにそのような柔和で謙遜な王として、平和の王として、救いの王として、この受難週の日曜日に、エルサレムに入場されたのです。

 当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。エルサレムの住民の多くは、神の民であるユダヤ人が異邦人ローマの支配から解放されて、自由の民となることを願っていました。一部の人たちは、武器を持ってでも、ローマの支配に立ち向かう、勇敢で英雄的な王を期待していました。そのような王ならば、たくましい軍馬に乗ってエルサレムに入場されるかもしれません。あるいはまた、支配者階級にある指導者たちの多くは、強大なローマと戦っても勝ち目がないので、その支配に甘んじ、抵抗しないで、今の状態の平和を選び取るべきだと考えていました。だれかがローマの支配に抵抗して暴動を起こしたら、かえってローマ政府の締め付けが厳しくなることを恐れてもいました。そのような状況の中で、主イエスはエルサレムに入場されたのです。

 37節で、「弟子たちの群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」と書かれてあり、それに続いて38節では詩編118編26節のみ言葉から、【38節】と書かれてありますが、この賛美がロバの子に乗られた主イエスのことを正しく理解したうえでの賛美であったのかどうかについては、いくつかの解釈が可能です。

 一つには、この弟子の群れは、12弟子をも含んで、ガリラヤ地方から主イエスと共に過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに上って来た人々全体を指しているようですが、彼らは主イエスの驚くべき奇跡のみわざを多く見ていましたので、主イエスこそが神がイスラエルの救いのためにお遣わしになったメシア・救い主であると信じて、その救いのみわざがこれからエルサレムで完成されるのではないかという期待をもって、主イエスのエルサレム入場を歓迎していると理解することができます。

 また、39節では、ファリサイ派の人たちがその群衆の歓声を抑えようとしたことが書かれていますが、彼らは群衆が騒ぎを起こして暴動にでも発展したら、ローマ政府からより厳しく弾圧されるかもしれないと恐れていたと思われます。もしそうなれば、自分たちの宗教活動が自由にできなくなるからです。

 あるいはまた、他の福音書を読むと、エルサレムの住民の多くが主イエスをローマの支配から解放してくれる政治的メシアと理解して、熱狂的に歓迎していたことが分かります。

 以上のように、ガリラヤ地方から主イエスについてきた弟子たちと、ファリサ派に代表されるイスラエルの宗教指導者たちと、そしてローマからの解放を期待する民衆と、三者三様に、主イエスのエルサレム入場を理解していたと推測されます。

 けれども、結論的に言えば、彼らのだれも、主イエスのご受難と十字架の死をあらかじめ予想してはいなかったし、彼らのだれも、主イエスのご受難と十字架の死を正しく受け止めることができなかった、その意味を正しく理解できてはいなかったということが、このあと福音書を読み進んでいけば明らかになるのです。したがって、ここでも、だれ一人として、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場されたことの本当の意味を理解してはいなかったのだと言わなければなりません。主イエスは確かに、12弟子たちからも見捨てられ、ユダヤ人指導者たちからは神を冒涜する者だと訴えられ、民衆からは、メシアならまず自分自身を十字架刑から救い出してみよ、そうしたら信じようと侮られ、すべての人に見捨てられ、ただお一人でご受難と十字架への道を進み行かれたのです。そして、父かる神のみ心に従順に従い、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に服従され、それによって父なる神の救いのみ心を完全に成し遂げられたのです。

 主イエスはご自身が乗るろばの子を、ご自身で用意されました。30節から34節には、不思議なことが書かれています。主イエスが二人の弟子たちに、向こうの村に行ってロバの子を連れてくるようにとお命じになりました。顔見知りとは思えない人に、「主がお入り用なのです」と言えば、その人はそのろばの子を提供してくれるからと言われました。そして、実際にそのようになりました。ある人は、主イエスがあらかじめその人と打ち合わせをしておられたと考えます。でも、そうだとすれば、そのことをなぜ弟子たちに話さなかったのか疑問が残ります。主イエスはその人が知り合いかどうかということは全く問題にしておられません。

「主イエスが言われる。『主がお入り用なのです』」。このことだけが重要なのです。主イエスはご自身に託された神の権威と主権をもって、ご自分が乗られるロバの子を選ばれたのです。そこには、柔和と謙遜によってこの世界にまことの平和をもたらすために、十字架の死に至るまでご自身を低くされ、貧しくされ、卑しくされる道を選ばれた主イエスの固い決意が表されているように思われます。まだだれをも乗せたことのないロバの子が、ご受難と十字架の道を進まれる主イエスを初めて乗せるために用いられます。

主イエスは平和の王として、ろばの子に乗って、この受難週にわたしたちのところにおいでくださいました。ご受難と十字架の主として、わたしたちのところにおいでくださいました。それは、神とわたしたち人間との間の、まことの平和、永遠の平和をもたらすためです。神が永遠にわたしたち人間と共にいてくださることによって与えられる平和、神との豊かな交わりの中に招き入れられている平和、平安、祝福を、わたしたち一人一人に与えるためです。この神と間の平和こそが、わたしたちの日々の生活全体の平和の基礎であり、この社会と国家、また全世界のまことの平和の基礎でもあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、み子主イエス・キリストのご受難を思い、自らの深い罪をみ前に告白するとともに、あなたがみ子の血によってわたしたちのすべての罪をおゆるしくださいましたことを、大きな喜びと感謝とをもって信じ、告白いたします。願わくは、主よ、あなたの大いなる愛とゆるしの福音が、罪と分断と争いに覆われ、闇に閉ざされているこの世界に、まことの光と平和をもたらしますように、切に祈ります。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月6日説教「わたしたちの罪を赦してください(二)」

2025年4月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編51編1~14節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの罪を赦してください(二)」

 主イエスが弟子たちに教えられた、祈りの模範である「主の祈り」は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章で、少し違った形で書かれています。式文の主の祈りは、マタイ福音書6章をもとにしていますが、「新共同訳聖書」と式文では、日本語の翻訳が違っています。きょうは、マタイ福音書、ルカ福音書、そして式文の三つの違いに注目しながら、わたしたちの罪のゆるしの祈りについて、深く学んでいきたいと思います。

 まず、これは言うまでもないことですが、わたしたちは自分たちの罪のゆるしについて、主なる神に祈り求めなければならないということを、あらためて確認しておきましょう。罪のゆるしについて、だれかほかの人に願い求めるとか、何かほかの手段や方法を願い求めるのではなく、ただ主なる神にのみ祈り求めなければなりません。なぜならば、主なる神だけがわたしたちの罪をゆるすことがおできになる唯一の方だからです。

と言うよりは、そもそも罪とは、主なる神に対する罪だからです。わたしたち人間は造り主なる神のみ心を悟らず、そのみ言葉に背き、また、神から与えられている恵みに気づくこと遅く、それに感謝すること少なく、神の栄誉と栄光を神から奪い取って自らのものとしている罪びとであり、神に対して無限の負債を負っている罪多き者、それがわたしたち人間なのだと聖書は教えています。それゆえに、主イエスは「神よ、わたしたちの罪を赦したまえ」と祈るように教えておられるのです。

 マタイ福音書6章12節の「新共同訳聖書」では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」となっていますが、ルカ福音書11章4節では、前半は「わたしたちの罪を赦してください」となっているのに対して、後半では、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていて、前半と後半で罪と負い目を使い分けているように思われるかもしれませんが、前回にも説明したように、罪と負い目は全く同じ意味で用いられていると考えるべきで、罪の性質の違いとかその特徴を二つの言葉で言い表していると理解すべきだと思います。マタイ福音書6章をテキストにしている式文の主の祈りも、同じような意味で、負い目を罪と言い換えています。

 人間の罪を神に対する負い目、すなわち借金と考えることの背景には、わたしたち人間は神から多くの恵みを不断にいただいているという考えがあります。わたしたち人間がそのことにはまったく気づいていないとしても、神はいつでも、ずっと前から、使徒パウロの言葉で言えば、「わたしを母の胎内にあるときから、選び分け、恵みによって召し出してくださった神」(ガラテヤの信徒への手紙1章15節)に、わたしたちはのちになって初めて気づかされるのですが、そのように、神の恵みはすでにわたしにも豊かに与えられているのです。

 けれども、わたしたちは不信仰であって、神の多くの恵みに気づかず、その恵みを無駄に投げ捨てたり、それをあたかも自分の手で得たかのようにして、神から奪い取って、日々に神に対する負債を増し加えているのです。それが人間の罪です。しかも、人間は神に背き、神から離れて生きていることには気づかずに、本来目指すべき的からそれて、いよいよ自らの努力と力とをふり絞って、神から遠い所へと向かっていくしかないのです。これが、生まれつき罪に傾いている人間の姿です。

 その罪をゆるしてくださるのは、神お一人です。主なる神以外のだれも、もちろんわたし自身も、わたしの罪をゆるすことはできません。神がお遣わしになった神のひとり子、わたしたちの罪のゆるしのために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト以外に、わたしたちの救い主はどこにもいません。使徒言行録4章12節で使徒ペトロが説教しているように、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないからです」。それゆえに、わたしたちは主イエス・キリストのみ名をとおして、父なる神に、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈り求めるのです。

 次に、罪のゆるしの祈りは前半と後半に分かれています。式文の主の祈りでは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」が先にあり、「我らの罪をも赦したまえ」が後になっていますが、マタイ福音書でもルカ福音書でも、「新共同訳聖書」では、「わたしたちの罪を赦してください」が先にあり、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」、あるいは、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という順次になっています。実は、この聖書の翻訳の方が原文のギリシャ語に忠実な訳し方です。

 ここからまず確認されることは、主なる神に対して、「わたしたちがあなたに対して犯した罪をどうぞゆるしてください」というのが中心的な祈りであるということです。すなわち、後半の、「わたしたちが他の人の罪をゆるします」は、前半の祈りの条件になっているのではなく、むしろその結果、その次に続くこととして理解されねばならないということです。

式文の祈りではその順序が反対になっているので、時に、わたしたちが他の人の罪をゆるすことが、神から罪をゆるされることの条件のように誤解されがちですが、聖書の原典では、まず神に対する罪のゆるしの祈りがあり、その次に隣人に対する罪と負債のゆるしが語られているという順序になっていますので、そのような誤解が避けられます。「神よ、わたしたちの罪をおゆるしください」がこの文章の主文であり、「わたしたちもまた……」は従たる文です。したがって、わたしの隣人に対する罪のゆるしや負債の免除が、神からいただく罪のゆるしの条件になるようなことは、全くあり得ないということが、二つの文章の主と従の関係からも明らかです。また、その両者の質と量とを同じ平面では比較できないほどの、まったく比べものにはならないほどの違いからみてもそのことが明らかです。

そのことについて、少し詳しくみていくことにしましょう。主イエスは罪のゆるしについて教えておられる説教で、王さまから1万タラントンの借金をしていてゆるされた人が、隣人に貸していた100デナリオンの借金をゆるしてあげなかったというたとえを、マタイ福音書18章21節以下でしておられます。このたとえで、王さまに1万タラントンの借金をしていると言われているのは、わたしたち人間が神に対して莫大な負債を負っている罪びとであることを言い表しているのです。それに対して、100デナリオンの借金とは、わたしたち人間が隣人に対して負っている借金のことです。1タラントンは6000デナリオンに相当しますから、その両者の借金、負債額の差は、何百憶倍にもなります。わたしたちが神に対して負っている借金、負債は無限に大きいのです。とても、一生働いても、あるいは、どんなにしても返済できる額ではまったくないことを強調しています。神に対する借金と隣人に対する借金の額はまったくくらべものにはなりませんし、したがってまた、わたしたち人間が隣人に対する借金をゆるすことが、神に対する借金の返済のために何らかの役に立つということも全くあり得ません。

そのことを確認するとともに、わたしたちはここで、人間は確かに隣人に対してお互いが負債を負っている、借金をしている者だということをも知らされるのです。神に対して大きな負債を負っている人間、神との関係で罪びとであり、神との関係が歪み、壊れてしまっている人間は、隣人との関係においても、正しい関係を築くことはできないのです。神に対して返すべき借金を返すことができていない人間は、隣人に対しても、果たすべき愛の関係を正しく果たすことができなくなっているからです。互いに相手のものをむさぼり取ったり、奪い取ったり、傷つけあったりするほかにないからです。罪に支配されている人間は、共に生きることも、互いに協同することも与え合うことも、互いにゆるし合うこともできません。それは、人間の歴史と現実が、あるいはわたしたちの日々の歩みが証明していると言ってよいのではないでしょうか。

したがって、わたしたちの神に対する罪がまず先にゆるされなければならないのは当然のことです。その次に、隣人の負債をゆるすことが続きます。その二つの順序を逆転させることはできません。それと同時に、主イエスがたとえ話で教えておられることは、その二つのことは互いに切り離すことはできないということです。神によった大きな負債をゆるされた人は、隣人の小さな負債をゆるさないことはあり得ないということです。もし、後者のあり得ないことが起こっているとすれば、前者のことは起こっていなかったことになります。そこで、主イエスはこのように言われました。「隣人のわずかな借金をゆるしてあげなかった不届きな者よ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。お前の1万タラントンの借金をわたしに返すまで、お前は牢獄に入れられねばならない」と(マタイ福音書18章32~34節参照)。

神に対する大きな罪を無償で、無条件でゆるされている人は、そのゆるしの大きな恵みに心から感謝をし、隣人の負債を喜んでゆるしてあげることができるようにされるのです。神の大きな憐れみを受けて、神の一方的な恵みによって罪ゆるされている人は、隣人に対して憐れみをもってゆるし、仕え、分かち与えることでできるようにされるのです。主の祈りはわたしたちをそのような生き方へと導くのです。

宗教改革者Ḿ.ルターはこう言いました。「信仰によってのみ、人間は罪びとになる」と。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、人間の罪を知らされ、また同時にその罪がゆるされていることを信じている人は、罪の奴隷から解放され、自由にされて、喜んで隣人をゆるし、愛することができるようにされます。したがって、隣人をゆるし愛することもまた信仰によって可能になるのであり、それもまた主イエス・キリストによってわたしたちのすべての罪をおゆるしくださる神のみわざなのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちを罪から救うために御ひとり子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたちを愛してくださいました。その大きな恵みによって、わたしたちは今あるを得ています。願わくは主よ、わたしたちを日々新しく造り変えてくださり、あなたの大きな愛によって生かされ、またその愛に応答して生きる者としてください。どうか、罪のゆるしの福音が全世界のすべての人に届けられますように。そして、この世界があなたの愛によって造り変えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。