2025年5月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:創世記3章1~7節
ルカによる福音書11章1~4節
説教題:「わたしたちを誘惑にあわせないでください」
ルカによる福音書11章で教えられている「主の祈り」を学んできました。きょうはその最後になります。4節後半の「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」、この祈りは、マタイ福音書6章13節では、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」となっており、マタイ福音書をテキストにしている式文の「主の祈り」では「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」となっています。少しずつ違いがありますのが、その違いについてはのちほど説明をします。
「わたしたちを誘惑にあわせないでください」。この祈りによって、わたしたち人間とはどのような者であるのかについて、二つのことをわたしたちは告白します。一つは、わたしたち人間はだれもみな、多くの誘惑、試み、試練に取り囲まれているということです。わたしたちの人生は危険に満ちています。だれにとっても、それは決して安易な道のりではありません。特にも、主イエスを信じて歩む信仰者の道は、そうでない人に比べても、より多くの危険に満ちており、信仰者は他の人よりも多くの誘惑や試みとの戦いを強いられるかもしれません。主イエスはそのことをよくご存じであられます。だから、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈るように命じておられます。
さらに、わたしたち人間はそのような誘惑や試みに対して、自分の知恵や力で立ち向かい、勝利することができない、弱い者であるということを、この祈りによって告白するのです。わたしたちは小さな誘惑や試練にあっても、すぐに心を乱し、悩み、迷い、あるいは泣き言を言い、不安に襲われます。どんなに頭脳や体力を鍛えても、ささいなことでつまずき、弱音を吐き、くずおれてしまいます。主イエスもまた、わたしたちがそのように弱い者であることをよく知っておられます。それゆえに、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈ってよいと言われるのです。わたしたちは英雄的な信仰者である必要はありません。自ら進んで危険と冒険の道を選び取っていく必要もありません。日本の戦国時代の武士、山中鹿之助のように、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈るのではなく、「我を試みにあわせないでください」と祈りなさいと、主イエスはお命じなっておられます。
16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、「わたしたち人間はだれもみな周囲を危険な試みに取り囲まれ、だれもみな自分の力ではその試みに勝つことができない弱い人間なのだ」と言っています。彼は、当時の腐敗した教会に対して、迫害や死をも恐れずに、その誤りを告発し、国家の指導者たちの脅迫に対しても決して屈せず、聖書の真理と福音を証し続け、ついにはローマ教会から破門されたのでしたが、彼は決して改革の英雄として立ち上がったのではなく、ただひたすら忠実な主イエスの僕(しもべ)たろうとしたのであって、彼自身は自分の弱さを最もよく知っていたのです。それゆえに、「主よ、我を試みにあわせないでください」と、主なる神の守りと導きとを信じて、真剣に祈ったのでした。
主イエス・キリストを救い主と信じてキリスト者になるということは、誘惑や試みが全くない、平穏無事で楽な人生を歩む保証を得たということでは決してありません。ご利益主義の宗教はそれを約束します。しかし、主イエスはマタイ福音書10章16節で、弟子たちのこのように言われました。「わたしがあなたがたを遣わすのは、羊を狼の群れに送り込むようなものである」と。また、ヨハネ福音書16章33節では、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。さらに、ペトロの手紙一1章4節などでは、キリスト者が経験する試練は、信仰がためされ、鍛えられるためのものであるから、むしろそれを喜びなさいとも、勧められています。
したがって、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」という祈りは、試みを避けて、安全な道だけを通ることができるようにと願っているのではありません。この祈りは、どのような誘惑や試練、あるいはそこからやってくる迷いや悩みの中でも、それがわたしを神から引き離す原因とさせないでください。むしろ、わたしがそれらに勝利することができるように、わたしを守り、導いてくださいということを願う祈りなのです。「次々にわたしを襲ってくる試み、試練、災い、不安、恐れの中で、わたしを守るのは、主なる神よ、ただお一人、あなただけなのですから、わたしはあなたのもとに逃れ、あなたにわたしのすべてをお委ねする以外にありません。わたしにはそれらからわが身を守る知恵も力もありません。しかし、主よ、あなたにはすべての力と知恵とがあります。あなたはわたしたちを耐えられないような試練にあわせることをなさらないだけでなく、それに耐えることができるように、逃れの道を備えてくださいます。それゆえに、わたしはあなたにこう祈ります。どうか、わたしを試みにあわせないでください」と。
では次に、わたしたち信仰者にとっての誘惑、試み、試練とはどのようなものなのかを聖書からさぐっていきましょう。実は、主イエスご自身が宣教活動を始められる前に、悪魔の誘惑にあわれたということを、マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書が一致して伝えています。ルカ福音書では4章1節から記されています。そこに記されている悪魔の誘惑をみると、それは必ずしも、最初から悪意に満ちたものではなかったということが分かります。悪魔は表面的には優しい顔をして、人の同情をかうかのようにして近づいて来て、思いやりのある言葉を語り、相手の興味や関心、心の中に眠っている欲望を引き出すように語ります。
「イエスよ、お前が神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ。お前自身の空腹が満たされるだけでなく、多くの人たちを飢餓から救うことだってできるのだから」。また、悪魔は誘惑します。「イエスよ、お前にこの国の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしお前がわたしに仕えるならば、すべてはお前のものになる」。悪魔は続けます。「お前が神の子ならば、神殿の屋根から飛び降りてみよ。神は天使たちによってお前を助けるだろから。そして、多くの人々の前でお前が神の子であることを証明して見せよ」。
そのようにして、悪魔は最終的には人間が神なしでも生きていけるように錯覚させ、人間が自ら神のようになれると思いこませるのです。そのようにして、人間をついには神から引き離そうとするのです。これが悪魔の試みの最も恐るべき実体なのです。創世記3章に書かれている誘惑者蛇もまた同様だったことを思い起こします。
わたしたちが信仰者として生きていくとき、日々の信仰の歩みの中でもまた同じような誘惑や試みがわたしたちを襲ってきます。わたしが願っていなかった苦しみとか重荷、突然にやってくる災いや試練が、わたしの信仰を脅かすことがありますが、それ以上に、悪魔は時として好ましい姿で、優しい顔でわたしと神との間に入り込み、わたしを神から引き離そうとすることがあります。あるいはまた、この世の栄誉や地位への誘惑が、あるいは人間の正義感や倫理、道徳、勤勉であること、健康志向や理想を追い求めること、その他あらゆることが、わたしを神なしでも生きていくことができるという誤った自信や傲慢な思いを生み出す原因となるのです。
わたしたちの人生は、日々に多くの危険に取り囲まれています。そうであるからこそ、主イエスは、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈るように命じておられるのです。この祈りなしには、わたしたちは一歩も安全に信仰の道を進むことができないのです。主なる神の助けと導きとを祈り求めることなしには、わたしたちはだれもみな信仰の歩みを全うすることはできません。
エフェソの信徒への手紙6章10節以下では、厳しい信仰の戦いの中で苦闘する信仰者を、このように励まし、勇気づけています。【10~18節】(359ページ)。わたしたちが悪魔の誘惑に打ち勝って、固く立つことができるために、神はこのように多くの信仰の武具をわたしたちに授けてくださいます。その中でも祈りは最大、最強の武具です。なぜなら、祈りは神ご自身がわたしのために戦ってくださることだからです。祈りによって、わたしたちは神に結ばれます。祈りによって神に結ばれることで、わたしを神から引き離そうとする悪魔の誘惑をすぐに悟ることができるようになります。祈りによって、わたしたちは悪魔の誘惑の正体を正しく知ることができるようになるからです。
ここで、マタイ福音書とルカ福音書、また式文の違いについて少しふれておきましょう。ルカ福音書では、マタイ福音書にある「悪い者から救ってください」が省略されています。なぜ省略されたのかは、はっきりとは分かっておりませんが、たぶんルカ福音書では「わたしたちを誘惑にあわせないでください」の中に「悪い者から救ってください」という祈りも含まれていると理解したからではないかと、推測されています。また、マタイ福音書では「悪い者」となっているのに対して、式文では「悪より」となっているのは、翻訳の違いです。もとのギリシャ語では、中性名詞と男性名詞とが同じ表記になるために、どちらに訳すことも可能です。ただし、今日多くの学者は男性名詞と理解し「悪しき者」と訳すべきだと主張しています。聖書の悪は、抽象的なものではなく、人格的な、生き物のような存在として人間を襲ってくるように描かれているからです。
最後に、わたしたちは主イエスがその宣教活動の始めに悪魔の誘惑にあわれ、それに勝利されたことを思い起こしながら、主イエスはまたそのご生涯の最後には、最も恐るべき悪魔と罪の誘惑に最終的に勝利されたことを確認しておきたいと思います。ヘブライ人への手紙4章15節にこのように書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。
また、2章18節には、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けているいる人たちを助けることがおできになるのです」。
主イエスはわたしたちを罪と死から救い出すために、ご自身が十字架の死という大きな試み、試練を経験されました。そして、父なる神への全き服従によって、罪と死に勝利されました。この主イエス・キリストが共にいてくださるならば、どのような試練も災いも、死すらも、わたしたちを神から引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、わたしたちは多くの悪しき者や罪の誘惑にさらされています。また、その誘惑に負けてしまう弱い者たちです。神よどうか、わたしたちをお守りください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。