2025年5月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:申命記11章13~21節
使徒言行録14章8~20」節
説教題:「生ける神に立ち帰りなさい」
使徒パウロとバルナバの第一回世界伝道旅行の舞台は、地中海の北、小アジアと言われる地域、今のトルコ共和国になりますが、当時はローマ帝国のいくつかの州に分けられていた地域が、その舞台になっています。最初の伝道地はピシディア州のアンティオキアでした。そこから東に130キロにあるイコニオン、さらにそこから南に30キロにあるリストラでの伝道活動が、きょう読んだ14章8節以下に書かれています。
これまでの彼らの道のりを振り返ってみると、ある共通点が見えます。それは、迫害が彼らの次の新しい伝道地を切り開いてきたということです。13章50~51節にこのように書かれていました。【50~51節】(240ページ)。また、【14章5~7節】。そして、きょうの箇所の終わりでも、【19~20節】。その町でパウロたちを襲ってきた迫害、そして命の危険から逃れることが、彼らの次の伝道地を用意していた、生み出していたということが分かります。彼らが自分たちで相談して、次の伝道地を決めていたのではありませんでした。迫害を逃れて、というよりはむしろ、迫害を契機として、迫害をばねとして、迫害を新しいエネルギーとして、彼らは世界伝道を続けていったのでした。
そして、そのたびごとにわたしたちが確認してきた二つのことを、きょうももう一度思い起こしてみましょう。一つは、主なる神の言葉、主イエスの福音は、この世のどのような圧力によっても、人々の不信仰と攻撃によっても、決してその力を失うことはないということ、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないということです。神の言葉をそれらのすべてを打ち砕き、突き破って、前進していく、命と力とを持つ、永遠の言葉であるのだということです。
二つには、使徒たちはその神の言葉を固く信じて、どのような困難や迫害の中でも、神の言葉だけにより頼み、恐れることなく、むしろますます大胆に、熱心に神の言葉を語り続けたということです。
迫害や試練、困難にあるときほど、わたしたちは真剣に、また忠実に、神の言葉に聞くことが大切です。すべての力と希望は、神の言葉から与えられるからです。主イエス・キリストの十字架と復活の福音こそが、罪と死と滅びに支配されているこの世を救い、変革し、また主キリストの教会を固く立てることができるからです。
では、きょうの8節以下を読んでいくことにしましょう。【8~10節】。リストラにはユダヤ人住民が少なく、ユダヤ教の会堂がなかったのかもしれません。13節には、「町の外にゼウスの神殿があった」と書かれていますので、ギリシャの神々を信奉する人が多かったと推測されます。
ここでは、生まれつき足が不自由で一度も立って歩いたことがない人を、パウロが立ち上がらせたという一つの奇跡がクローズアップされていますが、その奇跡の根本にはパウロが語った神の言葉、主イエス・キリストの福音があったということに注目しなければなりません。9節に、「この人が、パウロが話すのを聞いていた」と書かれてあるように、この奇跡が起こったのはパウロの説教が語られ、それを信じた信仰者がいたということにその始まりがあったのです。ここにはパウロの説教は具体的に記されてはいませんが、彼が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語ったことは疑う余地はありません。
13章16節~41節までには、パウロの長い説教が書かれていました。そして、それを多くの異邦人が信じたと48節に書かれていました。14章3節には、パウロとバルナバが勇敢に語り、その説教と彼らが行ったしるしと不思議なわざのことが書かれていました。そこでは常に、使徒たちが語った神の言葉と信仰、そしてしるしと不思議なわざとが結びつけられています。きょうの箇所でも同様です。使徒たちが行ったしるしと不思議なわざは、彼らが語った神の言葉の命と力が具体的な出来事となって現れた実例なのであり、主イエス・キリストの救いの恵みが信じる人を新しい命によって生きる者とする具体的な実例なのです。
語られた神の言葉から分離して、奇跡そのものだけを特別視することは誤りであり、また、奇跡を行った使徒たちを、神の言葉から分離して特別視するのも誤りです。初代教会も、またその後の2千年間の教会においても、奇跡のわざそのものを教会の宣教の課題にしたり、伝道の道具のように利用したりすることは決してありえませんでした。
パウロはこのリストラの町でも神の言葉を語ります。主イエス・キリストの福音を語ります。そして、その説教を聞いて信じる信仰者が起こされます。そこから、奇跡が始まるのです。
9節に、「パウロは彼を見つめ」と書かれています。「見つめる」という言葉は、3章4節でも用いられていました。そこでは、「じっと見る」と訳されていました。その箇所で起こった奇跡ときょうの奇跡とは非常によく似ていますので、そこを読んでみましょう。【3章4~7節】(217ページ)。
「見つめる」「じっと見る」というこの言葉は、その人の顔や外見を肉の目で見るのではなく、その人のこれまでの苦悩に満ちた歩みのすべてを感じ取り、今神の言葉の説教を聞いて、彼に救いの道が開かれていることを知らされ、信仰を受け入れる備えが彼にできていることを見る、そして彼がこれからも主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じて歩み続けようとするする決意があることを見る、そのように、その人の過去、現在、未来のすべてを、その人の全体を見ることを意味しています。
実は、この言葉は福音書の中では、主イエスが12弟子たちを召されたときにもたびたび用いられていました。主イエスはガリラヤ湖で漁をしていたペトロとアンデレをご覧になり、「わたしについて来なさい」とお命じになりました。また、ヤコブとヨハネが船の中で網の手入れをしているのをご覧になり、彼らをお呼びになりました。すると、彼らはすぐに主イエスの招きに応えて、すべてを捨てて主イエスに従ったと書かれています(マタイ福音書4章18節以下参照)。弟子たちをご覧になり、ご自身の弟子としてお招きになられた主イエスの目が、使徒ペトロとパウロにも与えられているのです。もちろん、この目もまた、信仰の目であり、霊の目であり、神の言葉、主イエス・キリストの福音の宣教と固く結びついている目であることは言うまでもありません。神の言葉の説教者であるペトロとパウロは、説教を聞いていたその人の中に芽生えつつある信仰を見て取り、そして実際に、その人の信仰が豊かな救いの恵みを受け取ることを可能にするのです。
パウロは、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と命じます。すると、その人がすぐに立ち上がり、歩き出すという奇跡が起こったのです。これはパウロの口を通して語られた言葉ですが、その言葉の中で実際に働いておられたのは主なる神です。神は、神の言葉の宣教のために仕える人たちの口と言葉とをお用いになって、今もこのような救いのわざをなしてくださいます。
ところが、この奇跡がパウロたちに大きな問題を引き起こす原因となりました。【11~13節】。リストラにはゼウス神殿があり、ギリシャの神々が礼拝されていました。ゼウスはギリシャ神話の最高の位にある主神であり、ヘルメスはゼウスの子どもであり、神々の使いとされていました。町の人々はパウロとバルナバをゼウスとヘルメスの神々が人間の姿をとって下って来たのだと考え、彼らに犠牲をささげようとしました。最初のうちは、パウロたちにとっては現地の言葉が理解できずに、何が起こっているのか分からなかったようですが、犠牲にささげる動物や花輪を目の前に差し出されて、二人は初めて事の成り行きを察し、あわてて、驚きと怒りをあらわにして、人々の行動を必死にやめさせようとしました。
【14~15節】。14節では、「使徒たち」という言葉が用いられています。5節でも用いられていました。いずれの場合にも、パウロとバルナバが主なる神から遣わされた神の仕え人であることが強調されています。14節では、二人は旧約聖書の神、イスラエルの神を信じ、その神にお仕えし、その神によってこの町に伝道者として派遣されているということが意識されているように思われます。
すなわち、イスラエルの神、また主イエス・キリストの父なる神を信じている信仰者にとっては、その主なる神以外には神はいない、その主なる神以外は礼拝しない、他の神々と言われているものはすべて偶像に過ぎないという信仰が当然だということです。それゆえに、神ではない偶像の神々を礼拝することは最も神を冒涜する罪であり、神の厳しい裁きを受けねばなりません。天地万物と人間を創造された主なる神のみが唯一の、信じ、仕え、礼拝すべき神です。他のものはすべて、自然であれ、宇宙であれ、あるいは人間であれ、それらはみな神によって創造された被造物なのであって、神にはなり得ないのです。礼拝の対象にはなり得ないのです。これが旧約聖書以来、今日の教会へと受け継がれている信仰の土台です。
パウロとバルナバはギリシャの神々を信じている人々に対して、「このような偶像礼拝から離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と語ります。天地万物の創造者なる神、また主イエス・キリストの父なる神こそが、全世界に唯一の生ける神です。
「生ける神」という言葉には二つの意味が込められています。一つには、ご自身が唯一の生ける神、命の神、永遠に生きている神であるということです。他のものはすべて、過ぎ去り行くもの、朽ち果てる者もの、死ぬべきものです。
もう一つには、生かす神であるということ、この世界に存在するすべてのものに命を与え、その命を支え、その命を導く神であるということです。主なる神は、無から有を呼び出だすようにして新しい命を生み出し、また死から命を生み出すようにして、死すべきものに復活の命をお与えになります。
その生ける主なる神が、十字架につけられた主イエスを墓から復活させ、罪と死とに勝利した復活の命をお与えになり、また、罪の中にあって死すべきであるわたしたち一人一人にも、罪のゆるしと永遠の祈りの保証をお与えくださるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、わたしたちをすべての偶像礼拝からお救いください。唯一の生ける神であられるあなただけを礼拝し、お仕えする者となりますように。また、罪と死とに勝利され、今は天におられてわたしたちのために執り成していてくださる主イエス・キリストを、わたしの唯一の救い主と信じて、どのような時にも、信仰の上に固く立つことができますように、お支えください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。