6月29日説教「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

2025年6月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則)

聖 書:申命記8章1~10節
使徒言行録14章21~28節

説教題:「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならな
い」


パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行は、使徒言行録14章20節で名前が挙げられいるデルベという町が最後になります。そこから、もと来た道を引き返しながら、以前に福音を宣べ伝えた町々を再び訪れ、教会員を励ましたことが、きょうの箇所で語られています。【 14章21~22節】。
22節でパウロが諸教会の弟子たち、教会員たちを励まして語った言葉は、パウロたちの第一回世界伝道旅行の、いわばまとめであり、結論であり、パウロたちのこれまでの歩みの集大成を意味していると言ってよいのではないでしょうか。パウロたちは行く町行く町で、主にユダヤ人から迫害を受け、苦難と試練を経験しなければなりませんでした。その迫害と苦難の歩みを経験したのちの結論、あるいはそこで教えられた最終的な真理が、これであったのです。
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。
きょうはこの真理を深く学びたいと思いますが、その前に、直前にパウロが経験した迫害について、振り返ってみましょう。パウロは14章8節以下に書かれているリストラという町で、生まれつき足が不自由だった男の人をいやし、歩けるようにしたという奇跡を行ったために、ギリシャの神々が人間となって下って来たのだと思われ、礼拝の対象にされそうになりました。パウロは彼らにイスラエルの神、主イエスの父なる神こそがまことの唯一の神であり、天地万物を創造され、それらを今もなおご支配しておられる神であることを証ししました。おそらくこの騒ぎを聞きつけて、前に宣教活動を行った町々でパウロたちを迫害したユダヤ人たちがリストラの町まで押しかけてきて、パウロをリンチにかけて殺そうとしました。
【19~20節】。アンティオキアとイコニオンからリストラまでは百数拾キロも離れていますが、彼らユダヤ人は何とかしてパウロをなき者にしようと追いかけてきたようです。「石を投げつけ」とは、ユダヤ人の処刑の仕方「石打ちの刑」と思われます。もちろん正式な裁判で死刑を宣告したのではなく、いわばリンチにかけたのですが、旧約聖書では最も重大な犯罪や神を冒涜する罪は石打ちの刑で処刑すべきと定められていました。使徒言行録7章54節以
下には、最初の殉教者ステファノも石打ちの刑で殺されました。また、パウロ自身コリントの信徒への手紙二11章で、彼が経験した数多くの迫害を列挙している中で、「死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度」(23~25節)と書いていますが、それがリストラでのことだと思われます。
群衆はパウロが死んだものと思い、町の外に引きずっていきましたが、しかしパウロは奇跡的に息を吹き返したと書かれています。石打ちの刑は、犯罪人を取り囲んで一斉に石を投げつけ、石に埋もれて犯罪人の体が見えなくなるまで石を投げ続けるのですから、そこから息を吹き返すということはほとんどあり得ません。弟子たちに取り囲まれている中で、パウロが起き上がったということは、神の奇跡としか言えません。しかも、20節には、翌日デルベに向か
ったと書かれていますから、石で打たれて深く傷ついた体で、パウロはどのようにして歩いて行ったのでしょうか。わたしたちには不思議としか言いようがありません。「パウロは起き上がって」と訳されている言葉は「復活する」という意味でも用いられます。まさに、パウロは神によって死から復活させられたのだと言うべきでしょう。
パウロとバルナバはリストラからさらに西へ百キロ余りにあるデルベという町に伝道旅行を続けました。その町での伝道活動については詳しくは書かれていませんが、「多くの人を弟子にした」とありますから、ここでも豊かな実りが与えられたことが分かります。激しい迫害と死の危険をも乗り越えて、主キリストの福音は前進していきました。その福音に仕えるパウロたちもまた、体に大きな痛みを伴いながらも、勇気と希望とをもって前進していきました。神
の言葉は、この世のいかなる鎖によっても決してつながれることはありません。
わたしたちが何度も確認してきたように。
ちなみに、デルベからさらに西へ250キロ行くと、パウロの生まれ故郷であるタルソがありますが、パウロはそこまでは行かずに、デルベから帰路につくことにしました。その理由については何も書かれてはいません。デルベから引き返して、石打ちの刑で殺されそうになったリストラへ、そして迫害によって町を追い出されたイコニオン、アンティオキアを通って、それ
ぞれの町に再び立ち寄り、誕生して間もない教会の群れを励ましました。それらの町々を再び訪れることには、迫害の危険が待ち構えていましたが、パウロはそのことを全く恐れてはいません。自らの身に起こるかもしれない危険を顧みず、誕生した教会がこれからも経験するであろう迫害と試練の時に備えるために、教会の兄弟姉妹たちを強めることこそが、パウロの使命だったからです。
パウロはこう言って彼らを励ましました。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。パウロは誕生したばかりのまだ若い教会に、迫害も試練もない、安全な成長の道を約束するのではありません。いやむしろ、教会はこの世では、迫害や試練を避けては通ることはできないし、もっと多くの困難なことを経験しなければならないと言うのです。これが若い教会にとって励ましになるのでしょうか。不安や恐れを与えることになるのではないでしょうか。そのような疑問が当然起こるでしょう。けれどもパウロは言うのです。「あなたがたには神の国が約束されている。教会はこの世で得ることができる、どのような誉れや成功よりも、もっと大きな、豊かな、はるかにまさった永遠の宝を、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を」(ペトロの手紙一1 章4節)神の国で受け継ぐという約束を与えられていると言うのです。そして、そのためにはさらに「多くの苦しみを経なくてはならない」と言うのです。「多くの苦しみ」の中には、パウロ自身が経験した迫害が含まれていることは確かでしょう。ピシディア州のアンティオキアで、イコニオンで、リストラで、彼自身が経験した迫害と石打ちの刑。それだけでなく、パウロ以前にわたしたちが使徒言行録で読んできたように、ペトロやヨハネなどの使徒たちが受けた迫害、ステファノの殉教、エルサレム教会に対する大迫害、ヨハネの兄弟ヤコブの殉教、それらの数々の迫害や殉教をも含んでいると理解できます。それらのすべての苦しみは、教会の民が神の国に入るためには必ず経験しなけれ
ばならないものだったのだと、パウロは言うのです。
過去に経験した苦しみのことだけではありません。パウロの言葉には、これから教会が経験するであろう迫害や苦難のことを含んでいるのは当然です。パウロ自身がユダヤ人から受けた迫害に加え、やがてローマ帝国によるキリスト教会全体に対する迫害が始まろうとしています。教会はそれらの試練にどうやって対処し、それを乗り越えていくことができるのでしょうか。
パウロは「信仰に踏みとどまるように励ました」と書かれています。教会が経験するすべての苦しみ、試練を乗り越えていくために必要なのは、信仰です。

主イエス・キリストの十字架の死と復活によって教会に与えられている救いの恵みと、神が約束してくださる終わりの日の勝利と完成の希望です。その信仰こそが、教会をあらゆる迫害や苦難の中でも、決して落胆せず、失望することなく、なおも前進させる力の源なのです。
「経なくてはならない」という個所の、「ねばならない」という意味のギリシャ語は「デイ」という小さな言葉ですが、これは福音書やその他の箇所でも非常に重要な意味を持つ言葉としてたびたび用いられています。その一つを読んでみましょう。【マタイ福音書16章21節】(32ページ)。これは主イエスによる第一回受難予告ですが、ここで「必ず……することになっている」というように、日本語の翻訳では別れて訳されているのが、ギリシャ語の「デイ」です。ほかの受難予告でも同様です。
この言葉は、神の必然を意味していると言われます。つまり、神がそのように計画しておられ、予定しておられ、それが神のみ心であり、必ずそのようになる、という意味です。そこには、神の永遠の救いのご計画と神の強い意志が言い表されています。わたしたちはここから二つの神のみ心を知らされます。一つには、神は教会の民をご自身の永遠の救いのご計画の中で、終わりの日に、神の国の民としてくださるという固い約束。もう一つには、教会が神の国の民とされるには、多くの苦しみを経験しなければならない、すなわち、教会が経験するであろう迫害や試練、苦難のすべては、教会が神の国の民とされるためにぜひとも通らなければならない道であり、いわば必要条件なのだということです。それが、神の永遠の救いのご計画なのである、神の強い意志なのだということです。
なぜそうなのでしょうか。先ほど、マタイ福音書16章で読んだように、来るべき神の国の王として君臨される主イエス・キリストご自身が、苦難と十字架への道を進み行かれることによって、わたしたちの救いを成し遂げてくださったからです。教会の主であられる主イエス・キリストが、試練と苦難の道をわたしたちに先立って進まれたからです。わたしたちはそのあとを辿るのです。
第二には、主イエスご自身が弟子たちに、また、のちの時代の教会に対して、苦難と迫害を予告しておられたからです。【ルカ福音書21章12~19節】(151ページ)。主イエスは世の終わりの終末が来る前に弟子たちや教会が経験しなければならない苦難や迫害を予告しておられました。しかしまた、その苦難と迫害の時こそが、信仰の証しの、最後の最も良い機会となるであろうと語っておられました。主イエスが苦しむ信仰者たちと共にいてくださり、必
要な助けを与えてくださり、言葉と知恵とを授けてくださると、約束しておられました。そして、最後の完全な勝利を約束しておられました。苦難と迫害は、わたしたちがより一層主イエス・キリストに信頼し、主イエス・キリストからすべての助けと恵みとを期待し、来るべき神の国に備えて、主イエス・キリストにある最後の勝利をいよいよ確信するためなのです。神の国のための苦しみは信仰者にとって幸いであり、祝福なのです。


(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、わたしたちの教会がこの世で経験しなければならない激しい嵐や試練の中で、あなたがいつもわたしたちと共にいてくださいますように。
また、あなたの確かな約束を固く信じ、終わりの日のみ国の完成を目指して、信仰の道を歩み続けることができますように、お導きください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月22日説教「求めなさい。そうすれば、与えられる」

2025年6月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書557章6~11節

    ルカによる福音書11章5~13節

説教題:「求めなさい。そうすれば、与えられる」

 主イエスの弟子たちが、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたとき、主イエスは祈りの模範として、『主の祈り』を教えられました。それに続いて、ルカ福音書11章5節からは、祈りの仕方、その実践について、一つのたとえを用いてお話になりました。弟子たちは、そしてわたしたちもそうですが、祈るべき言葉、何を祈るべきか、祈りの内容を主イエスから教えられなければならないとともに、祈りとは何か、祈りの本質について、あるいはなぜ祈らなければならないのかについても、主イエスから教えられなければなりません。

 5節以下のたとえ話は、一読したところ、熱心に祈り求めることの大切さを教えているように読めますが、本当の中心点は、求める側にあるのではなく、求められている側、つまり友人の願いにこたえて、その願いを聞いてあげる人の方に、あるのです。たとえ話の結論の部分の8節を読んでみましょう。【8節】。ここで言われている人は、真夜中に突然の来客を迎えて、もてなすパンがなくて困り果て、友だちに助けを求めた人ではなく、その友だちの願いに応えて、起き上がって必要なものを差し出した人のことが、ここで言われているのです。祈りの例に当てはめれば、祈り求める人の方ではなく、その祈りを聞いてくれる人の方に重点が置かれているのです。つまり、わたしたちの祈りの熱心さについて教えているというよりは、わたしたちの祈りに必ずや応えてくださる神の側に、わたしたちに必要なすべてのものを備えてくださる神の恵みについて教えているたとえ話なのです。

 同じことは、9節以下に語られる主イエスの説教についてもあてはまります。ここでも、わたしたちが熱心に求め、探し、門をたたくことが重要だと教えられているというよりは、わたしたちの祈りに必ず応えてくださる神の約束の確かさ語られているのです。【10節】。また【13節】。わたしたちが願い求めるものを、神は必ず与えてくださいます。わたしたちが探し求めるならば、神は必ず備えてくださいます。わたしたちが門をたたくなら、神は必ず道を開いてくださいます。そのような神の愛と恵みの大きさ、豊かさ、神の約束の確かさが、ここでは強調されているのです。そのような神の約束の確かさがあるからこそ、わたしたちは熱心に祈り続け、探し続け、門をたたき続けることができます。そして、その祈りが決して無駄に終わることはないと、信じることができるのです。

 まず、そのことを確認したうえで、さらに詳しくみていきましょう。【5~7節】。このたとえ話には、当時の生活様式がよく反映されていると言われます。パレスチナ地方では、日中は暑いので、旅をする人は夕方、涼しくなってから出かけることがあると言います。真夜中になってから目的地に着くこともあるようです。たとえ話のこの人は、おそらく予定していなかった急な旅行客を真夜中に迎えて、パンの用意がなかったために、友人の家の戸を叩いて、パンを3個貸してくれるようにお願いします。この友人ならば、真夜中でも自分の願いを聞いてくれるに違いないと、信頼と期待を持っていたことが推測できます。

 このような場面設定から、わたしたちはいくつかのことを知らされます。まず、神に選ばれた民であるイスラエルにおいては、旅人を厚くもてなし、客人を愛をこめてお迎えする習慣があったということです。旧約聖書でも新約聖書でも、そのことが神によって勧められていた、と言うよりは、命じられていたことが書かれています。なぜならば、イスラエルの民は族長時代から放浪の民であり、エジプトで寄留の民であったという経験から、本国を持たない寄留の民は互いに助け合うことの重要さを知らされていたからです。またそれ以上に、神が寄留の民を顧みてくださり、必要なものをすべて備えてくださったことを経験していたからです。急に客人を迎えたこの人も、また彼から真夜中にパンを貸してくれるように依頼された友人も、旅人を厚くもてなし、客人を愛をもってお迎えすることの大切さをよく心得ていたことが、このたとえ話全体を暖かく包んでいるように思われます。

 細かな点をも注意深くみていくと、さらにいくつかのことが分かります。一般の家では、夕方に次の日の家族の分のパン粉をこねて、一晩寝かせ、朝にパンを焼きます。その日のうちに食べ尽くすのが普通ですから、余分なパンを保存しておくことはありません。でも、その友人の家には何かしらの余裕があることを彼は知っていたのでしょう。真夜中にもかかわらず、彼はその友人を頼りにしています。当時の家の造りは、入り口の扉を角材や鉄の棒を渡して錠をしていましたから、それを取り外すのは力が要りますし、音も出ます。一部屋に家族みんなが寝ている家がほとんどですから、子どもが目をさましてしまうことも心配です。「パンを分けてくれ」と依頼されたその友人は初めのうちは「面倒をかけないでくれ」と言って断っていましたが、何度もしつようにお願いされて、彼は放っておくことをしないで、起き上がって必要なものを分け与えようとします。やはり、神に選ばれた民であるイスラエルは、隣人を愛することをおろそかにはしません。寝ている子どもや家族みんなに面倒をかけることになっても、その友人のために立ち上がって、必要なものを分け与えるのです。神の愛を知っている信仰者は、隣人への愛をおろそかにはしません。隣人への労苦を惜しむことはしません。

 「パンを三つ貸してください」とお願いしていますが、パン3個はたぶん一人分の量だと思われます。彼は必要以上の量を求めているのではありません。客人一人の一食分だけのパンを貸してくれとお願いしています。主イエスが『主の祈り』で教えられたことを思い起こします。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈るように、主イエスは教えられました。何日分も、何年分もではなく、きょう一日の必要なパンを、しかもわたしだけのパンでなく、わたしたちみんなのパンを、主なる神に祈り求めるようにと教えられているわたしたちは、世界中の人々がパンを分かち合うことの大切さをも教えられているのです。

 先ほども少しふれましたように、このたとえ話には、神に選ばれ、神に愛されているイスラエルの民の信仰と生活がしみ込んでいます。寄留の民、奴隷の民、苦難の民であったイスラエル、しかし、神に選ばれ、神に愛され、神の救いの恵みによって生かされてきたイスラエル。そして、その神の愛によって愛されている彼らの愛と分かち合いの生活。それがこのたとえ話全体を暖かく包んでいるのです。8節の結論部分をもう一度読んでみましょう。【8節】。どんなに無理なお願いでも、信じて熱心に頼めば、その願いを聞いてくれる信仰の友、友人がいるからこそ、困難や困窮の中にあっても、希望を失うことなく前進していくことができます。わたしたちのすべての必要を知っていてくださり、それを備えてくださる主なる神がおられるゆえに、わたしたちはいつでも、どのような時でも、熱心に神に祈り求めることができるのです。わたしたちの罪のゆるしのために、ご自身の一人子さえも惜しまずに、十字架におささげくださった主なる神がおられるゆえに、わたしたちは失望しないで絶えず祈り続けることができるのです。

 9節以下の主イエスの教えでも、強調点は、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」にあるのではなく、それに続く「そうすれば、与えられる」「そうすれば、見つかる」「そうすれば、開かれる」の方がより強調されています。10節を読めば、それが直ちに明らかになります。【10節】。わたしたちが祈っている神は、「天におられるわたしたちの父なる神」です。わたしの祈りを聞いてくれるかどうかが疑わしい偶像の神ではありません。「わたしに、求めなさい。そうすれば、与えられる。わたしはあなたに今、何が必要かを最もよく知っている、あなたの魂の父であるゆえに、あなたになくてならないものを与えよう」と神は言われます。「わたしのところに来て、探しなさい。そうすれば、わたしはあなたに進むべき道を示し、あなたに真理が何であるかを教えよう」と神は言われます。「わたしの名によって神の国の門をたたきなさい。そうすれば、わたしはあなたを神の国の民として迎えよう」と神は言われます。重要なことは、神がこのように約束していてくださることです。神はわたしのすべての必要をご存じであられます。わたしはしばしば、不必要なものを求めたり、むしろ自分を滅ぼしてしまうことを欲しがったりする愚かな者です。しかし、主なる神はわたしをまことの命によって生かすために主イエス・キリストによって十字架の死と復活の福音をお示しくださいました。神はわたし以上に、わたしをよく知っておられます。神はわたしの弱さや貧しさ、わたしの重荷や苦悩、迷いや疑いのすべてをご存じであられます。そのようなわたしを、み子によって愛してくださいます。ですから、わたしたちはどのような時にも、希望を失わずに、あきらめずに、熱心に神に祈り、求め、探し、門をたたくことができるのです。

 11節以下では、もはや祈る側の熱心さについては全く語られず、わたしたちの祈りをお聞きくださる神ご自身のことだけが語られています。【11~13節】。ここでは、人間の父親と天におられるわたしたちの魂の父であられる神とが、比較、対象されています。本来、人間と神とが同じ平面で比べられることなどできませんが、主イエスはあえて神を、いわば人間の地平にまで引き下げるようにして、わたしたちに理解しやすいようにして両者を比較、対象しているのです。

 その際に、13節でははっきりと、「あなたがたは悪い者でありながらも」と言われています。人間はみな罪びとであり、邪悪であり、心がゆがんでいる。そういう人間であっても、父は子どもの求めを聞き、それに愛をもって応えようとするではないか。そうであるならば、天におられる神は聖なるお方であり、善なるお方、愛なるお方であるのだから、わたしたちの願いを聞いてくださらないことなどあり得ようか。いや、わたしたちの願いにはるかにまさった良い物を与えてくださるのだということを強調しているのです。

 その良い物とは、聖霊であると主イエスは言われます。聖霊こそが神から与えられる最高の贈り物なのです。聖霊はわたしたちに主イエス・キリストを指し示し、この主イエス・キリストこそがわたしの、わたしたちの唯一の救い主であるという信仰を与えます。聖霊はわたしたちに神のみ心が何であるかを教えます。わたしたちがその神のみ心に従って歩むことができるように、導かれます。聖霊は、主イエスの体なる教会を建て、教会をとおしてこの世界の救いのために働かれます。聖霊は終わりの日に神の国が完成される日まで、わたしたちと共におられ、わたしたちの信仰を導き、わたしたちに慰めと励ましを与え、希望と喜びとを与えてくださいます。この聖霊の賜物をいただくために、熱心に祈り続けましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの祈りにはるかにまさった恵みをもってお応えくださる愛の神であられます。どうか、わたしたちの祈りをいよいよ強めてください。この地に、あなたのみ心が行われるようにと、熱心に祈ることができますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月15日説教「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡(二)」

2025年6月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記7章14~24節

    ローマの信徒への手紙9章14~18節

説教題:「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡(二)」

 神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から脱出させるために、その指導者としてモーセと彼の兄アロンを協力者としてお立てになりました。モーセとアロンは神の代理者として、また代弁者として、エジプト王ファラオの前に進み出て、神に命じられた言葉を告げます。7章16節にこのように書かれています。【16節】。神はイスラエルの民を「わたしの民」と呼んでおられます。イスラエルは400年以上の間、エジプトに寄留し、その後、奴隷の民としてエジプトでの建築作業のために過酷な労働を強いられてきました。けれども、彼らはファラオの民ではありません。神が族長アブラハムの時から選ばれた神の民です。今、神はアブラハムとの契約を実行され、彼らを約束の地へと導き入れようとされるのです。

わたしたちはここで、出エジプト記の中心的な主題の一つを再確認します。それは、族長アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を神は決してお忘れにはならず、400数十年のちになって、しかも彼らが最も困難な現実を迎えているこの時になって、神はその約束を果たそうとしておられるということです。その神の強い意志と永遠のみ心、救いのご計画が、出エジプト記全体に貫かれている大きな主題だということです。そして、この主題は、旧約聖書全体にも貫かれ、新約聖書で主イエス・キリストによってその完全な成就を見るのです。そしてさらには、今日の教会の歩みの中にも神の永遠の救いのみ心が貫かれているのは言うまでもありません。

もう一つの出エジプト記の中心的な主題は、出エジプトは何を目指しているのかということと関連しています。16節に、「荒れ野でわたしに仕えさせよ」と言われています。3章18節、5章3節でも、「三日の道のりを荒野へ行かせて、主なる神に礼拝をささげさせてください」と言われていました。これは、おそらくはシナイ山での礼拝を意味していると考えられますが、最終的な目的は、約束の地カナンでの永続的な神礼拝が、出エジプトの主題であることは明らかです。イスラエルの出エジプトは真実の神礼拝へ向けての解放であったのです。イスラエルがエジプトの奴隷の家から救い出され、約束の地カナンへと導かれたのは、彼らが神を礼拝する民となるためでした。今日、わたしたちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪から救われているのも、わたしたちが真実の礼拝する群れとなるためなのです。その最終目的は、来るべき神の国において全世界のすべての国、民族、すべての人が、神を礼拝する一つの民となることです。

出エジプトの時代は、エジプト第19王朝、紀元前13世紀ころと考えられていますが、その時代のエジプト王朝も、その王であるファラオも、絶大な権力を持っていました。その中で、寄留の民、奴隷の民であったイスラエルが一つの民族として独立するとか、本国から集団脱出するということが実際にできたのかどうかについては、政治的な力関係から言ってほとんど不可能であったと思われます。奴隷の民であったモーセやアロンが直接ファラオの前に出て交渉することができたということも、現実的にはほとんど考えられません。そのようは困難さをモーセ自身も自覚していたということを、彼がその指導者としての務めを神から託されたときに、自分にはそれができないと何度も断ったことからも推測されます。そして、きょう学ぶエジプトでの数々のしるしと奇跡が、その困難さをはっきりと物語っていると言えるのではないでしょうか。

つまり、7章14節から11章10節までには、エジプトでモーセが行った10の災いについて記されていますが、これらの数多くのしるしと奇跡はイスラエルの出エジプトという出来事がいかに困難であり、あり得ないことであり、まさに神の奇跡としてしか起こり得ない出来事であったということを物語っているのです。強大なエジプト王国とその王ファラオの力と権力に対抗するために、あるいはファラオのかたくなさと不信仰を打ち砕くために、さらにはエジプトの神々や魔術師たちに敗北を宣言するために、神が何度も何度もその偉大なみ力を発揮されて、これらのしるしと奇跡を行われたのでした。エジプト王国とファラオの権力が強大であればあるほどに、神はまたご自身のその偉大なみ力を何度も繰り返して現わされるのです。エジプトでの10の災いはそのような神の偉大なみ力の現われなのであり、それはまた同時に、神のイスラエルの民に対する愛の大きさ、その救いのみわざの大きさをも、わたしたちに語っているのです。

きょうは、7章14節から10章の終わりまでに書かれている9つの災いについてまとめて学ぶことにします。

一般には「エジプトでの10の災い」と言われますが、エジプトの国とその王ファラオにとっては当然それらは恐るべき災いであり、彼らに対する神の大いなる裁きなのですが、出エジプト記の中では「しるしと奇跡」と言われており、イスラエルにとっては、それは主なる神がその偉大なみ力によってイスラエルの民を守り、彼らを奴隷の家エジプトから解放し、救われる神の大いなる恵みのしるしであり、神の不思議なみわざ、奇跡のみわざなのです。

順を追ってみていきましょう。第一のしるしは、7章14~24節、モーセが神の杖でナイル川を打つと、ナイル川の水もその他エジプト全土の川や井戸の水も血に変わり、魚はみな死に、人々は飲み水がなくなったというしるし。第二は、7章25節~8章11節、ナイル川から上がってきたおびただしい数の蛙がエジプトの家々に入り込み、あらゆる場所に群がり、人々を悩ませたというしるし。第三は、8章12節~15節、エジプト全土にぶよが大量発生し、人と家畜を襲ったというしるし。第四は、8章16節~28節、あぶの大群がエジプト全国の家々に被害を与えたというしるし。第五は、9章1節~7節、恐ろしい家畜の疫病がエジプトで流行し、すべての家畜が死んだというしるし。第六は、9章8節~12節、エジプト全土の家畜と人に膿が出るはれ物が大流行したというしるし。第七は、9章13節~35節、大きな雹が降ってきて、地に生えているものすべてを打ち砕いたというしるし。第八は、10章1節~20節、イナゴが大発生し、雹の害を逃れた他のすべての野菜や草木を食べ尽くしたというしるし。そして第九は、10章21節~29節、濃い暗闇がエジプトの全地を覆い尽くし、だれもお互いの顔を見ることができず、だれも立って歩くこともできなくなったというしるし。

これらの9つのしるしには、段階的にいくつかの変化が見られます。初めに、エジプトの魔術師たちとの関連についてみていきましょう。8章8節以下で、10のしるしが始まる前の、いわば序曲として、モーセが持っていた杖が蛇に変わったとき、エジプトの魔術師たちも同じように杖を蛇に変えることができましたが、モーセの蛇が魔術師たちの蛇を飲み尽くしたことが書かれていました。第一のしるしと第二のしるしでは、エジプトの魔術師たちもモーセと同じように、水を血に変え、蛙を発生させるしるしを行うことができましたが、第三のしるしでは、エジプトの魔術師たちも秘術によってぶよを出そうとしましたか、彼らにはそれができなかったと書かれています。8章15節にこのように書かれています。【15節】(105ページ)。エジプトの魔術師たちはモーセが行ったしるしと奇跡はイスラエルの神が行った奇跡のみわざであるということを自ら認めざるを得なくなったのです。これ以降、彼らはモーセの真似をすることが完全にできなくなりました。第六のしるしの時、はれ物がエジプトに蔓延した際には、魔術師自らの体にもはれ物ができて、彼らはモーセの前に立つことができなくなったと、9章11節に書かれています。ここからは、彼らの姿がまったく消え去ります。イスラエルの神がエジプトの魔術と神々に完全に勝利したのです。

次に、8章18~19節を読んでみましょう。【18~19節】(106ページ)。同じように、【9章4節】、また、【9章26節】(108ページ)、そして、【10章23節】(110ページ)。このように、エジプト全国に下された災い、神の裁きは、イスラエルの人々が住むゴシェンの地には及ぶことはなく、エジプトでの災いの中でイスラエルの守り、救いがいよいよ明らかにされていったのです。エジプトに対する神の裁き、彼らに与えられた災いは、イスラエルの民にとっては神の守りであり、救いであり、恵みなのです。神はご自分が選ばれた民をこのようにして最後の救いの完成へとお導きくださいます。

最後に、ファラオの反応についてみていきましょう。出エジプト記の中では、エジプトの王ファラオがかたくなであったという表現と、神が彼をかたくなにされたという表現が入り交ざって用いられています。前者は7章22節など、後者は9章12節などです。主なる神はファラオのかたくなな心をもご自身のみ手に治めておられます。この世の権力と不信仰によって塗り固められているかのようなその心をも、神はご自身の救いのみわざのために自由にお用いになり、それによっていよいよそのみ力を発揮され、救いのみわざを力強く押し進められるのです。

第二のしるしが行われたとき、8章8節でファラオはモーセにこのように言いました。【8節】(105ページ)。しかし、災いが一段落すると、11節にはこう書かれています。【11節】。15節でも同様です。【15節】。ファラオは主なる神の奇跡を見せられても、神のみ力を認めようとはせず、かえって心をかたくなにして神に逆らいます。第七の災い、雹がエジプトの国中の植物、動物、家畜を打ってすべてが死に絶えたときには、9章27~28節でファラオはこう言います。【27~28節】(108ページ)。しかし、今回もまたファラオは心をかたくなにしました。【34~35節】(108ページ)。

けれども、神はこのように何度も心を翻し、かたくなにして、モーセの要求を拒み続けたファラオのかたくなさをお用いになって、ご自身が全地を支配しておられる全能の神であることを証しされ、またご自身の民であるイスラエルを必ずやお救いくださることを明らかにされたのです。人々のかたくなさや罪の中で神の救いのみわざは進められていきます。そのことを信じましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは、どのような人間の悪や罪やかたくなさにであっても、決して変更されることを中止されることもありません。今のこの時代の中でも、あなたはご自身の救いのご計画を力強く進めておられます。わたしたちにそのことを信じさせてください。そして、あなたの救いのみわざのためにお仕えする者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月8日説教「真理の霊が降るとき、あなたがたは自由を与えられる」

2025年6月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    ヨハネによる福音書16章1~15節

説教題:「真理の霊が降るとき、あなたがたは自由を与えられる」

 きょうは聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝です。主イエスのご受難と十字架の死と葬り、三日目の復活と復活の顕現、そして40日目の昇天、50日目の聖霊降臨と教会の誕生、これらの一連の出来事が、わたしたちの信仰と救いの原点となっています。きょうはヨハネによる福音書16章のみ言葉を中心にして、聖霊降臨の出来事と聖霊なる神のお働きについて学んでいきたいと思います。

 まず確認しておきたいことは、聖霊は三位一体の神であるということです。父なる神、み子なる神、そして聖霊なる神は、それぞれの位格を持ち、それぞれのお働きと特徴を持ちつつ、一つの実体を持った一人の神であり、永遠の神であるという、三位一体論がキリスト教信仰の基本です。旧約聖書では、子なる神と聖霊なる神はまだはっきりとはお姿を現してはいませんでしたが、天地創造の始めから父なる神と共に存在しておられ、共に働いておられ、預言者たちによって預言されていました。新約聖書において、み子なる神が主イエス・キリストとして実際に人間のお姿で現れ、また聖霊なる神として実際に洗礼をお受けになられたれた主イエスの上に鳩の姿で現れ、そしてペンテコステの日には、激しい風と炎のような形で弟子たちの上に注がれました。聖書の中で、「聖霊」または時には単に「霊」と書かれている聖霊は、父なる神、み子なる神と同じ唯一の神、三位一体の神です。

 次に、共観福音書および使徒言行録に書かれている聖霊のお働きと、ヨハネによる福音書に書かれている聖霊のお働きは若干違っていますので、その点を確認しておきましょう。マタイ福音書28章19節以下にはこのように書かれています。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがっとともにいる」。復活された主イエスは弟子たちにこのようのお命じになりました。

 使徒言行録1章8節では、主イエスが天に昇られる直前に弟子たちにこのように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤやとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。そして、そののち10日ほどしてから、実際に弟子たちに聖霊が注がれ、聖霊を受けた彼らが主イエス・キリストの福音を力強く語りだしました。それを聞いて信じた人々が、その日に3千人ほどが洗礼を受け、世界最初の教会、エルサレム教会が誕生しました。これが、最初のペンテコステの日の記録です。

 このようにみてくると、共観福音書と使徒言行録に書かれている聖霊は、弟子たちに主イエス・キリストの福音を語る力と勇気とを与え、また、それを聞いた人に信仰を与え、教会の宣教の働きを導かれる神であるということができます。そして、これは旧約聖書のヨエル書で預言されていた聖霊のお働きと共通していると言えます。ヨエル書3章1節にはこのように書かれています。「そののち、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」。この預言が、主イエスの十字架の死と復活ののちに、ペンテコステの日に成就したのです。

これに対して、ヨハネ福音書で語られている聖霊は少し趣を異にしています。

ヨハネ福音書14~16章は、主イエスの告別説教と言われ、主イエスが十字架につけられる直前の木曜日に弟子たちと共にした夕食、最後の晩餐の席で語られた説教がまとめられていますが、その中で主イエスは何度も、ご自分がこの世から取り去られたあと、聖霊をあなたがたに送ると約束されました。その聖霊の特徴を見ていきましょう。

 14章16節では、聖霊は「別の弁護者」と言われています。人々の不信仰と暴力によって主イエスが地上から取り去られても、主イエスは弟子たちを孤児にはしない、聖霊がいつまでも弟子たちと共にいてくださる、だから安心せよ、と主イエスは約束しておられます。

 「別の弁護者」、つまり、主イエスのあとに、主イエスとは別の弁護者である聖霊と言われていますが、この弁護者という言葉(ギリシャ語ではパラクレートス、直訳すると、「そばに呼び出された者」ですが)、これは「助けぬし」とか「慰めぬし」と訳されることもありますが、『新共同訳聖書』では本来の意味を考慮して「弁護者」と訳しています。主イエスが地上におられたときには、弟子たちにとっては、主イエスが彼らの弁護者、いつも彼らのそばに立って、彼らをあらゆる危険から守ってくださる助けぬしでした。ガリラヤ湖で乗っていた船が嵐にあって沈みそうになって時に、主イエスその力強いみ言葉で嵐を沈めてくださいました。主イエスはいつでも弟子たちと共におられ、すべての必要なものをもって彼らを養ってくださいました。そして、最後には、彼らに代わって罪の裁きを受け、十字架で死んでくださいました。彼らに永遠の命の保証を与えるために、復活なさいました。その主イエスが、天に昇られ、弟子たちの前からその姿もその存在も消えてしまったあとでも、「わたしはいつまでも、世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われた約束を果たすために、主イエスは別の弁護者として聖霊を弟子たちに派遣すると言われたのです。

 このようにして、聖霊は、今は天におられる主イエスを弟子たちと、またわたしたちとを固く結びつける働きをしてくださるのです。特に、「弁護者」と訳された言葉に注目するならば、わたしたちは次のことを確認することができます。すなわち、聖霊は終わりの日の最後の裁きの時に、神の法廷でわたしたちの傍らに立ってくださり、わたしたちを主イエスの忠実な弟子たち、僕(しもべ)たちとして弁護してくださり、わたしたちに永遠の救いと命を受け継ぐにふさわしい者としての判決を導くためにお働くださるという約束が、ここには含まれているのです。

 また、同じ14章26節にはこのように書かれています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。ここでは、聖霊は主イエスのみ言葉とわたしたちとを固く結びつけ、主イエスがお語りくださったすべての救いのみ言葉とその恵みとを、わたしたちにもたらす働きをされることが語られています。聖霊は父なる神がみ子なる主イエスによってわたしたちのためになしてくださった救いのみわざのすべてを、わたしたちに教え、悟らせ、また信じさせてくださる働きをされます。神がこの罪の世を愛され、救おうとされ、ご自身が人間のお姿によってこの世においでくださったこと、そのみ子の十字架と復活の福音によって全人類を罪から救い、神の国の民としてくださったこと、そして終わりの日に、すべての信じる人を永遠のみ国で永遠に神と共におらせてくださること、そのことをわたしたちに悟らせ、信じさせてくださる、それが聖霊のお働きなのです。

 15章26節でも、同じようなことが語られています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。ここで注目したいことは、ここでは主イエスが聖霊を遣わすと言われていることです。14章26節では、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われていましたが、ここでは「主イエスが父なる神のもとから遣わす聖霊」と言われています。聖霊は、父なる神からとみ子なる主イエスから、すなわち両者から派遣されると読むことができます。

このように理解しているのが、西方教会、ローマ・カトリック教会です。プロテスタント教会の多くは、わたしたち日本キリスト教会もこの理解に立っています。それに対して、東方教会、ギリシャ正教は父なるかからのみ聖霊が派遣されると考えます。日本ではハリストス正教会と呼ばれています。函館ハリストス正教会や東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)などがギリシャ正教に属しています。

それから、ここでも聖霊が「真理の霊」と言われています。14章17節でもそうでした。また、16章13節でもそうです。【16章13節】。聖霊が真理の霊と言われていることが、ヨハネ福音書の大きな特徴です。では、「真理の霊」とは、聖霊のどのような本質を言うのでしょうか。また、どのようなお働きを言うのでしょうか。

「真理の霊はあなたがたを真理へと導く」と言われています。この真理とは、神の真理のことであるのは言うまでもありません。哲学的な真理とか、化学とかその他の学問の真理のことではありません。それらの真理は、人間を賢い生き物にし、さまざまな技術の進歩には役立つでしょうが、人間の罪をゆるすとか、人間の魂を救うことはできません。

神の真理は、人間の本質的な命に迫ります。人間が本当に生きるとはどういうことなのかに迫ります。神の真理は人間の体の命と魂の命に迫ります。そして、人間のまことの救い、まことの平安、幸い、喜び、希望に迫ります。

ここでまず思い起こすのは、主イエスが14章6節で言われたみ言葉です。【14章6節】。主イエスこそが、神に至る唯一の道であり、神の真理へとわたしたちを導く唯一の主であり、まことの救い、まことの命へとわたしたちを導き入れる唯一の救い主です。弟子たちはそのことを主イエスから日々に教えられていましたが、彼らはそれを理解できませんでした。主イエスを信じませんでした。主イエスの十字架から逃亡し、十字架の主イエスにつまずきました。彼らは自分たちの命を守ろうとして、十字架の主イエスを見捨てたのです。

けれども、復活された主イエスは別の弁護者、助け主である聖霊を彼らに送り、主イエスの十字架の死にこそ、罪びとたちを救う父なる神の大きな愛があったことを悟らせ、そこにこそ真の罪のゆるしと救いがあることを信じさせたのです。聖霊を注がれて、弟子たちは自分たちのつまずき、失敗に気づかされました。このような弱い自分たちの罪をゆるされ、再びお招きくださった主イエスの愛を知らされました。聖霊によって弟子たちは再び立ち上がることがゆるされました。これが主イエスによって明らかにされた神の真理です。

主イエスは8章31節以下でこのように言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。神のみ言葉を聞かず、主イエスのみ言葉から離れるならば、その人は罪の奴隷になるほかありません。人間は生まれながらに神を知らず、神に背く罪びとだからです。罪に支配されているならば、だれも自由ではありません。

罪を犯す人は罪の奴隷です。しかし、主なる神の僕(奴隷)となるとき、罪の奴隷から解放されます。聖霊によって、主イエスをわたしの救い主と信じる信仰を与えられるとき、わたしたちも罪の支配から解放され、自由にされ、神の真理に生きる者とされるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの聖なる霊をわたしたちに注いでください。わたしたちの罪の思いや、すべての不安、恐れから解放してください。あなたがみ子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛してくださったその大いなる愛を信じて、真の自由の中を歩ませてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月1日説教「使徒的信仰の伝統にしたがって」

2025年6月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(43)

聖 書:詩編135編1~21節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「使徒的信仰の伝統にしたがって」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んできました。きょうは『使徒信条』の前に付けられた「前文」の最後の文章、「わたしたちもまた、使徒的信仰の伝統にしたがい、讃美と感謝とをもってこれを共に告白します」、この箇所について学びます。

まず、「使徒的信仰」という言葉についてですが、古い時代には『使徒信条』は主イエスの12弟子たちによって書かれたと言い伝えられていました。12弟子たちが、もちろんこの12弟子とは、主イエスを裏切って死んだユダではなく、その後に選ばれたマティアを含んだ12弟子ですが、彼らが『使徒信条』の一項目ずつを書いたと考えられていました。しかし、16世紀の宗教改革の時代のころには、「使徒的信仰」とは12弟子たちが直接に書いたというのではなく、初代教会の指導者であった12弟子たちや他の使徒たちの信仰を正確に受け継いでいるという意味に理解されるようになりました。前回もお話ししたように、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一15章で書いているように、彼が他の教会から受け取り、それをコリント伝道の際に彼らに伝えた、1世紀中ごろのごく初期の信仰告白や、また紀元2世紀ころにローマにある教会で洗礼式の際に告白していたと考えられる『ローマ信条』などを土台にして、初代教会のオリジナルな、正統的な信仰が正確に言い表され、告白されているという意味で、「使徒的信仰」と表現されているのです。

では、初代教会の「使徒的信仰の伝統を受け継ぐ」とは、具体的にどのような信仰の内容を含んでいるのか、二つのポイントを挙げて、さらに考えてみましょう。第一点は、使徒的信仰とは、地上を歩まれた主イエスと行動を共にし、主イエスから直接に教えを受け、そして主イエスの十字架の死と復活、昇天を自らの目で直接に目撃した12弟子たちの体験と証言に基づき、また12弟子たちと共に初代教会の形成に仕えたパウロやその他の使徒たち、それらの使徒たちの信仰が『使徒信条』に告白されているということです。

そして、第二点は、わたしたちの教会、日本キリスト教会はその使徒的信仰を受け継ぎ、それを正確に、正しく受け止めながら、今日の日本の地でどのような教会であろうとしているのか、どのように主キリストの福音を宣教し、どのように主キリストの体なる教会を建て、どのようにわたしたちの信仰を養っていこうとしているのか、そのことが『日本キリスト教会信仰の告白』で表明されているということです。そして、特にその使徒的信仰がこれまで学んできた「前文」の中で告白されていたということを、ここで改めて振り返っているのです。

この二つのポイントを中心にして、『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴についてより深く学んでいきたいと思います。

前回にも学んだことですが、信仰告白とは、聖書に書かれている神の言葉、神の救いの出来事の記録を、短く、その中心点をまとめたものです。宗教改革時代までの信仰告白を、一般に「信条」と言い、それ以後に作成されたプロテスタント諸教派の告白文書を「信仰告白」と呼ぶのが習わしになっています。その信条、信仰告白の源泉は言うまでもなく聖書ですが、その聖書は、その時代の信仰者が実際に体験し、目撃し、聞いた出来事を記しているのであって、その人が体験したその出来事が、その人にとってある特別な重要な意味を持ち、その人の人生を大きく変えるほどの信仰の体験となった、その記録を神のお導きによって書いたのが、今日、聖書として保存されているわけです。

つまり、聖書、またそれをもとにして作成された信仰告白は、その時代の信仰者の実際の体験と目撃証言が記録されているということです。だれかが机の上で考えたり、議論してまとめたり、書物を読んで研究したものではないということです。したがって、今の時代のわたしたちが聖書を読む、また信仰告白を告白するということは、わたし自身がその出来事と、その出来事を体験した信仰者の信仰を、追体験することが大切であると言えます。しかも、その追体験はわたしの人生に大きな衝撃を与え、時にそれまでの古いわたしを根本から破壊し、時にわたしを新しいわたしに造り変え、時に暗闇に迷うわたしを希望の光で照らし、時に打ちひしがれているわたしを新しい命に生き返らせるような、そのような信仰による救いの体験を与える、そのような追体験をわたしたちに可能にするのです。

『使徒信条』やその他の『信仰告白』の中心として告白されている主イエス・キリストのご受難、十字架の死、三日目の復活、そして40日目の主イエスの昇天という出来事を例に挙げてみましょう。主イエスの12弟子たち、初代教会の使徒たちは実際にその目撃者となりました。実際に、復活された主イエスのお姿をその目で見、主イエスの言葉をその耳で聞きました。そして、そこで驚くべき信仰の体験をしました。ペトロをはじめとする12弟子たちは、最後の最後になって躓き、主イエスを見捨てて、十字架から逃げ去ったのでした。ところが、愛し、慕っていた主イエスを失って失意のどん底にあった弟子たちに、復活の主イエスが現れて、彼らの罪をゆるし、彼らに平安を与え、罪と死の力に打ち勝った勝利の言葉をお語りになった主イエスに出会ったのです。とのとき、弟子たちは自らの罪を悟り、悔い改めへと導かれたのでした。そして、復活された主イエスを信じる信仰へと導き入れられたのです。

そのような使徒たちの生き生きとした目撃証言と信仰体験が、福音書や書簡として、聖書にまとめられました。そして、その聖書を短くまとめたそれぞれの時代の信仰者たちも、同じ信仰体験を繰り返しながら、信仰告白としてまとめました。そしてまた、その信仰告白を今礼拝で告白しているわたしたちもまた、同じような信仰体験を繰り返し、追体験しながら、「主イエスはポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、三日目に復活し、天に上られた」と告白しているのです。『信仰告白』を共に告白することによって、わたしたちは同じ信仰の体験をこの礼拝の場で共有しているのです。信仰告白は信仰共同体を形成すると言われるのは、まさにそのことを言うのです。

では次に、日本キリスト教会が「使徒的信仰の伝統」を受け継いでいるということについてもう少し詳しくみていくことにしましょう。日本キリスト教会の歴史は、1872年(明治5年)の日本最初のプロテスタント教会である横浜公会(現横浜海岸教会)にまでさかのぼることができますが、今日と同じ名称の教会として出発したのは1890年(明治23年)になります。この年に、日本基督教会として、現在の信仰告白とほぼ同じ内容の『信仰告白』を制定して、誕生しました。この時に誕生した教会は、この時点で、だれかが新しい運動を起こして教会を造ったというのではなく、紀元1世紀の初代教会時代の使徒たちの信仰の伝統を受け継いで、その使徒的信仰を土台として建てた教会であるということを、その時代の先輩たちは強く意識していたのです。それは、日本基督教会が公同の教会であるということです。

この点が、異端的キリスト教会との決定的な違いです。いわゆる統一教会やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、その他の異端と言われるキリスト教新興宗教は、19世紀、20世紀になって、一人の創始者が直接に神からの啓示を受けて、活動を始めています。彼らは一様に、初代教会からの信仰の伝統や宗教改革の信仰や神学をほとんど無視します。したがって、『使徒信条』やその他の信条、信仰告白などを告白することもしません。自分たちが新しく創作した教理や組織、秩序だけを重んじます。しかし、それはキリスト教信仰の根源である聖書と使徒的信仰の伝統からはかけ離れたものであることは疑いえません。正統的なキリスト教会は、かたくななまでに、聖書そのものと、聖書を生み出した使徒的信仰の伝統に固執し、そこへと帰り、またそこから出発します。

「讃美と感謝とをもってこれを共に告白します」という告白で「前文」は終わります。この「讃美と感謝」は、もう少し言葉を補えば、「神のみ名とその救いのみわざ、またその救いの恵みに対する讃美と感謝とをもって」となります。つまり、信仰告白とは、神の救いのみわざに対する信仰者の応答であり、それは神賛美と神への感謝とならざるを得ません。もちろん、信仰告白の中には、人間の罪の告白も含まれます。神への悔い改めも含まれます。人間の信仰の応答とか神への奉仕とかも含まれます。それらのすべてをも含んで、最終的には神賛美であり、神への感謝のささげものとしての信仰告白なのです。

詩編135編を読みました。ここには旧約聖書の民イスラエルの信仰告白が表明されています。神が族長ヤコブをお選びになり、ヤコブ、すなわちイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されてご自身の宝の民とされたこと、約束の地カナンへと導かれ、彼らの嗣業としてその土地を与え、シオン、すなわちエルサレムを神の家と定め、そこに神殿を建てさせ、その神殿での礼拝をとおして、ご自身のみ名を賛美させ、主なる神の救いの恵みを感謝させ、そのようにして信仰の民イスラエルを養い育てられたことが告白されています。

わたしたちもまた信仰告白によって、すべての栄光と誉れとを主なる神に帰し、ただ神のみ名だけを崇め、神のみ名のみに服従し、わたしたちを罪から救ってくださった主イエス・キリストの父なる神に、すべての感謝をささげて礼拝するのです。

最後に、「共に告白する」という言葉についてですが、使徒パウロはローマの信徒への手紙10章9節以下で、信仰告白についてこのように書いています。【9~13節】(288ページ)。9節と10節で「公に言い表す」と訳されているもとのギリシャがは「ホモロゲイン」という言葉で、「ホモ」は「同じ、共に」という意味、「ロゲイン」は「ロゴス」すなわち言葉を語るという意味です。一人で、その人の心の中で信じている信仰は、まだ本物の信仰ではありません。だれかと一緒に、公の場で、信仰を言い表す、告白する、そうすることによって、心の中で信じていることが実体を伴うものとなり、現実となり、主イエス・キリストの救いのみわざがわたし自身のものなる、そのようにしてわたしの救いが出来事となるのです。教会とはそのような信仰告白共同体なのです。

【執り成しの祈り】

〇天の父なる神よ、わたしたちをきょうの礼拝へとお招きくださり、あなたの命と救いのみ言葉を聞くことがゆるされ、主イエス・キリストによって与えられた救いを受け取ることができましたことを、心から感謝いたします。この救いのみ言葉を携えて、この世へと出ていくわたしたち一人一人を、どうぞお導きください。あなたへの讃美と感謝とをもって、歩んでいけますように。

〇主なる神よ、どうかこの世界にあなたの義と平和が実現しますように。世界の為政者たちに、主なる神を恐れる信仰をお与えください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。