6月1日説教「使徒的信仰の伝統にしたがって」

2025年6月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(43)

聖 書:詩編135編1~21節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「使徒的信仰の伝統にしたがって」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んできました。きょうは『使徒信条』の前に付けられた「前文」の最後の文章、「わたしたちもまた、使徒的信仰の伝統にしたがい、讃美と感謝とをもってこれを共に告白します」、この箇所について学びます。

まず、「使徒的信仰」という言葉についてですが、古い時代には『使徒信条』は主イエスの12弟子たちによって書かれたと言い伝えられていました。12弟子たちが、もちろんこの12弟子とは、主イエスを裏切って死んだユダではなく、その後に選ばれたマティアを含んだ12弟子ですが、彼らが『使徒信条』の一項目ずつを書いたと考えられていました。しかし、16世紀の宗教改革の時代のころには、「使徒的信仰」とは12弟子たちが直接に書いたというのではなく、初代教会の指導者であった12弟子たちや他の使徒たちの信仰を正確に受け継いでいるという意味に理解されるようになりました。前回もお話ししたように、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一15章で書いているように、彼が他の教会から受け取り、それをコリント伝道の際に彼らに伝えた、1世紀中ごろのごく初期の信仰告白や、また紀元2世紀ころにローマにある教会で洗礼式の際に告白していたと考えられる『ローマ信条』などを土台にして、初代教会のオリジナルな、正統的な信仰が正確に言い表され、告白されているという意味で、「使徒的信仰」と表現されているのです。

では、初代教会の「使徒的信仰の伝統を受け継ぐ」とは、具体的にどのような信仰の内容を含んでいるのか、二つのポイントを挙げて、さらに考えてみましょう。第一点は、使徒的信仰とは、地上を歩まれた主イエスと行動を共にし、主イエスから直接に教えを受け、そして主イエスの十字架の死と復活、昇天を自らの目で直接に目撃した12弟子たちの体験と証言に基づき、また12弟子たちと共に初代教会の形成に仕えたパウロやその他の使徒たち、それらの使徒たちの信仰が『使徒信条』に告白されているということです。

そして、第二点は、わたしたちの教会、日本キリスト教会はその使徒的信仰を受け継ぎ、それを正確に、正しく受け止めながら、今日の日本の地でどのような教会であろうとしているのか、どのように主キリストの福音を宣教し、どのように主キリストの体なる教会を建て、どのようにわたしたちの信仰を養っていこうとしているのか、そのことが『日本キリスト教会信仰の告白』で表明されているということです。そして、特にその使徒的信仰がこれまで学んできた「前文」の中で告白されていたということを、ここで改めて振り返っているのです。

この二つのポイントを中心にして、『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴についてより深く学んでいきたいと思います。

前回にも学んだことですが、信仰告白とは、聖書に書かれている神の言葉、神の救いの出来事の記録を、短く、その中心点をまとめたものです。宗教改革時代までの信仰告白を、一般に「信条」と言い、それ以後に作成されたプロテスタント諸教派の告白文書を「信仰告白」と呼ぶのが習わしになっています。その信条、信仰告白の源泉は言うまでもなく聖書ですが、その聖書は、その時代の信仰者が実際に体験し、目撃し、聞いた出来事を記しているのであって、その人が体験したその出来事が、その人にとってある特別な重要な意味を持ち、その人の人生を大きく変えるほどの信仰の体験となった、その記録を神のお導きによって書いたのが、今日、聖書として保存されているわけです。

つまり、聖書、またそれをもとにして作成された信仰告白は、その時代の信仰者の実際の体験と目撃証言が記録されているということです。だれかが机の上で考えたり、議論してまとめたり、書物を読んで研究したものではないということです。したがって、今の時代のわたしたちが聖書を読む、また信仰告白を告白するということは、わたし自身がその出来事と、その出来事を体験した信仰者の信仰を、追体験することが大切であると言えます。しかも、その追体験はわたしの人生に大きな衝撃を与え、時にそれまでの古いわたしを根本から破壊し、時にわたしを新しいわたしに造り変え、時に暗闇に迷うわたしを希望の光で照らし、時に打ちひしがれているわたしを新しい命に生き返らせるような、そのような信仰による救いの体験を与える、そのような追体験をわたしたちに可能にするのです。

『使徒信条』やその他の『信仰告白』の中心として告白されている主イエス・キリストのご受難、十字架の死、三日目の復活、そして40日目の主イエスの昇天という出来事を例に挙げてみましょう。主イエスの12弟子たち、初代教会の使徒たちは実際にその目撃者となりました。実際に、復活された主イエスのお姿をその目で見、主イエスの言葉をその耳で聞きました。そして、そこで驚くべき信仰の体験をしました。ペトロをはじめとする12弟子たちは、最後の最後になって躓き、主イエスを見捨てて、十字架から逃げ去ったのでした。ところが、愛し、慕っていた主イエスを失って失意のどん底にあった弟子たちに、復活の主イエスが現れて、彼らの罪をゆるし、彼らに平安を与え、罪と死の力に打ち勝った勝利の言葉をお語りになった主イエスに出会ったのです。とのとき、弟子たちは自らの罪を悟り、悔い改めへと導かれたのでした。そして、復活された主イエスを信じる信仰へと導き入れられたのです。

そのような使徒たちの生き生きとした目撃証言と信仰体験が、福音書や書簡として、聖書にまとめられました。そして、その聖書を短くまとめたそれぞれの時代の信仰者たちも、同じ信仰体験を繰り返しながら、信仰告白としてまとめました。そしてまた、その信仰告白を今礼拝で告白しているわたしたちもまた、同じような信仰体験を繰り返し、追体験しながら、「主イエスはポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、三日目に復活し、天に上られた」と告白しているのです。『信仰告白』を共に告白することによって、わたしたちは同じ信仰の体験をこの礼拝の場で共有しているのです。信仰告白は信仰共同体を形成すると言われるのは、まさにそのことを言うのです。

では次に、日本キリスト教会が「使徒的信仰の伝統」を受け継いでいるということについてもう少し詳しくみていくことにしましょう。日本キリスト教会の歴史は、1872年(明治5年)の日本最初のプロテスタント教会である横浜公会(現横浜海岸教会)にまでさかのぼることができますが、今日と同じ名称の教会として出発したのは1890年(明治23年)になります。この年に、日本基督教会として、現在の信仰告白とほぼ同じ内容の『信仰告白』を制定して、誕生しました。この時に誕生した教会は、この時点で、だれかが新しい運動を起こして教会を造ったというのではなく、紀元1世紀の初代教会時代の使徒たちの信仰の伝統を受け継いで、その使徒的信仰を土台として建てた教会であるということを、その時代の先輩たちは強く意識していたのです。それは、日本基督教会が公同の教会であるということです。

この点が、異端的キリスト教会との決定的な違いです。いわゆる統一教会やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、その他の異端と言われるキリスト教新興宗教は、19世紀、20世紀になって、一人の創始者が直接に神からの啓示を受けて、活動を始めています。彼らは一様に、初代教会からの信仰の伝統や宗教改革の信仰や神学をほとんど無視します。したがって、『使徒信条』やその他の信条、信仰告白などを告白することもしません。自分たちが新しく創作した教理や組織、秩序だけを重んじます。しかし、それはキリスト教信仰の根源である聖書と使徒的信仰の伝統からはかけ離れたものであることは疑いえません。正統的なキリスト教会は、かたくななまでに、聖書そのものと、聖書を生み出した使徒的信仰の伝統に固執し、そこへと帰り、またそこから出発します。

「讃美と感謝とをもってこれを共に告白します」という告白で「前文」は終わります。この「讃美と感謝」は、もう少し言葉を補えば、「神のみ名とその救いのみわざ、またその救いの恵みに対する讃美と感謝とをもって」となります。つまり、信仰告白とは、神の救いのみわざに対する信仰者の応答であり、それは神賛美と神への感謝とならざるを得ません。もちろん、信仰告白の中には、人間の罪の告白も含まれます。神への悔い改めも含まれます。人間の信仰の応答とか神への奉仕とかも含まれます。それらのすべてをも含んで、最終的には神賛美であり、神への感謝のささげものとしての信仰告白なのです。

詩編135編を読みました。ここには旧約聖書の民イスラエルの信仰告白が表明されています。神が族長ヤコブをお選びになり、ヤコブ、すなわちイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されてご自身の宝の民とされたこと、約束の地カナンへと導かれ、彼らの嗣業としてその土地を与え、シオン、すなわちエルサレムを神の家と定め、そこに神殿を建てさせ、その神殿での礼拝をとおして、ご自身のみ名を賛美させ、主なる神の救いの恵みを感謝させ、そのようにして信仰の民イスラエルを養い育てられたことが告白されています。

わたしたちもまた信仰告白によって、すべての栄光と誉れとを主なる神に帰し、ただ神のみ名だけを崇め、神のみ名のみに服従し、わたしたちを罪から救ってくださった主イエス・キリストの父なる神に、すべての感謝をささげて礼拝するのです。

最後に、「共に告白する」という言葉についてですが、使徒パウロはローマの信徒への手紙10章9節以下で、信仰告白についてこのように書いています。【9~13節】(288ページ)。9節と10節で「公に言い表す」と訳されているもとのギリシャがは「ホモロゲイン」という言葉で、「ホモ」は「同じ、共に」という意味、「ロゲイン」は「ロゴス」すなわち言葉を語るという意味です。一人で、その人の心の中で信じている信仰は、まだ本物の信仰ではありません。だれかと一緒に、公の場で、信仰を言い表す、告白する、そうすることによって、心の中で信じていることが実体を伴うものとなり、現実となり、主イエス・キリストの救いのみわざがわたし自身のものなる、そのようにしてわたしの救いが出来事となるのです。教会とはそのような信仰告白共同体なのです。

【執り成しの祈り】

〇天の父なる神よ、わたしたちをきょうの礼拝へとお招きくださり、あなたの命と救いのみ言葉を聞くことがゆるされ、主イエス・キリストによって与えられた救いを受け取ることができましたことを、心から感謝いたします。この救いのみ言葉を携えて、この世へと出ていくわたしたち一人一人を、どうぞお導きください。あなたへの讃美と感謝とをもって、歩んでいけますように。

〇主なる神よ、どうかこの世界にあなたの義と平和が実現しますように。世界の為政者たちに、主なる神を恐れる信仰をお与えください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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