2025年6月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝
聖 書:ヨエル書3章1~5節
ヨハネによる福音書16章1~15節
説教題:「真理の霊が降るとき、あなたがたは自由を与えられる」
きょうは聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝です。主イエスのご受難と十字架の死と葬り、三日目の復活と復活の顕現、そして40日目の昇天、50日目の聖霊降臨と教会の誕生、これらの一連の出来事が、わたしたちの信仰と救いの原点となっています。きょうはヨハネによる福音書16章のみ言葉を中心にして、聖霊降臨の出来事と聖霊なる神のお働きについて学んでいきたいと思います。
まず確認しておきたいことは、聖霊は三位一体の神であるということです。父なる神、み子なる神、そして聖霊なる神は、それぞれの位格を持ち、それぞれのお働きと特徴を持ちつつ、一つの実体を持った一人の神であり、永遠の神であるという、三位一体論がキリスト教信仰の基本です。旧約聖書では、子なる神と聖霊なる神はまだはっきりとはお姿を現してはいませんでしたが、天地創造の始めから父なる神と共に存在しておられ、共に働いておられ、預言者たちによって預言されていました。新約聖書において、み子なる神が主イエス・キリストとして実際に人間のお姿で現れ、また聖霊なる神として実際に洗礼をお受けになられたれた主イエスの上に鳩の姿で現れ、そしてペンテコステの日には、激しい風と炎のような形で弟子たちの上に注がれました。聖書の中で、「聖霊」または時には単に「霊」と書かれている聖霊は、父なる神、み子なる神と同じ唯一の神、三位一体の神です。
次に、共観福音書および使徒言行録に書かれている聖霊のお働きと、ヨハネによる福音書に書かれている聖霊のお働きは若干違っていますので、その点を確認しておきましょう。マタイ福音書28章19節以下にはこのように書かれています。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがっとともにいる」。復活された主イエスは弟子たちにこのようのお命じになりました。
使徒言行録1章8節では、主イエスが天に昇られる直前に弟子たちにこのように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤやとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。そして、そののち10日ほどしてから、実際に弟子たちに聖霊が注がれ、聖霊を受けた彼らが主イエス・キリストの福音を力強く語りだしました。それを聞いて信じた人々が、その日に3千人ほどが洗礼を受け、世界最初の教会、エルサレム教会が誕生しました。これが、最初のペンテコステの日の記録です。
このようにみてくると、共観福音書と使徒言行録に書かれている聖霊は、弟子たちに主イエス・キリストの福音を語る力と勇気とを与え、また、それを聞いた人に信仰を与え、教会の宣教の働きを導かれる神であるということができます。そして、これは旧約聖書のヨエル書で預言されていた聖霊のお働きと共通していると言えます。ヨエル書3章1節にはこのように書かれています。「そののち、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」。この預言が、主イエスの十字架の死と復活ののちに、ペンテコステの日に成就したのです。
これに対して、ヨハネ福音書で語られている聖霊は少し趣を異にしています。
ヨハネ福音書14~16章は、主イエスの告別説教と言われ、主イエスが十字架につけられる直前の木曜日に弟子たちと共にした夕食、最後の晩餐の席で語られた説教がまとめられていますが、その中で主イエスは何度も、ご自分がこの世から取り去られたあと、聖霊をあなたがたに送ると約束されました。その聖霊の特徴を見ていきましょう。
14章16節では、聖霊は「別の弁護者」と言われています。人々の不信仰と暴力によって主イエスが地上から取り去られても、主イエスは弟子たちを孤児にはしない、聖霊がいつまでも弟子たちと共にいてくださる、だから安心せよ、と主イエスは約束しておられます。
「別の弁護者」、つまり、主イエスのあとに、主イエスとは別の弁護者である聖霊と言われていますが、この弁護者という言葉(ギリシャ語ではパラクレートス、直訳すると、「そばに呼び出された者」ですが)、これは「助けぬし」とか「慰めぬし」と訳されることもありますが、『新共同訳聖書』では本来の意味を考慮して「弁護者」と訳しています。主イエスが地上におられたときには、弟子たちにとっては、主イエスが彼らの弁護者、いつも彼らのそばに立って、彼らをあらゆる危険から守ってくださる助けぬしでした。ガリラヤ湖で乗っていた船が嵐にあって沈みそうになって時に、主イエスその力強いみ言葉で嵐を沈めてくださいました。主イエスはいつでも弟子たちと共におられ、すべての必要なものをもって彼らを養ってくださいました。そして、最後には、彼らに代わって罪の裁きを受け、十字架で死んでくださいました。彼らに永遠の命の保証を与えるために、復活なさいました。その主イエスが、天に昇られ、弟子たちの前からその姿もその存在も消えてしまったあとでも、「わたしはいつまでも、世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われた約束を果たすために、主イエスは別の弁護者として聖霊を弟子たちに派遣すると言われたのです。
このようにして、聖霊は、今は天におられる主イエスを弟子たちと、またわたしたちとを固く結びつける働きをしてくださるのです。特に、「弁護者」と訳された言葉に注目するならば、わたしたちは次のことを確認することができます。すなわち、聖霊は終わりの日の最後の裁きの時に、神の法廷でわたしたちの傍らに立ってくださり、わたしたちを主イエスの忠実な弟子たち、僕(しもべ)たちとして弁護してくださり、わたしたちに永遠の救いと命を受け継ぐにふさわしい者としての判決を導くためにお働くださるという約束が、ここには含まれているのです。
また、同じ14章26節にはこのように書かれています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。ここでは、聖霊は主イエスのみ言葉とわたしたちとを固く結びつけ、主イエスがお語りくださったすべての救いのみ言葉とその恵みとを、わたしたちにもたらす働きをされることが語られています。聖霊は父なる神がみ子なる主イエスによってわたしたちのためになしてくださった救いのみわざのすべてを、わたしたちに教え、悟らせ、また信じさせてくださる働きをされます。神がこの罪の世を愛され、救おうとされ、ご自身が人間のお姿によってこの世においでくださったこと、そのみ子の十字架と復活の福音によって全人類を罪から救い、神の国の民としてくださったこと、そして終わりの日に、すべての信じる人を永遠のみ国で永遠に神と共におらせてくださること、そのことをわたしたちに悟らせ、信じさせてくださる、それが聖霊のお働きなのです。
15章26節でも、同じようなことが語られています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。ここで注目したいことは、ここでは主イエスが聖霊を遣わすと言われていることです。14章26節では、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われていましたが、ここでは「主イエスが父なる神のもとから遣わす聖霊」と言われています。聖霊は、父なる神からとみ子なる主イエスから、すなわち両者から派遣されると読むことができます。
このように理解しているのが、西方教会、ローマ・カトリック教会です。プロテスタント教会の多くは、わたしたち日本キリスト教会もこの理解に立っています。それに対して、東方教会、ギリシャ正教は父なるかからのみ聖霊が派遣されると考えます。日本ではハリストス正教会と呼ばれています。函館ハリストス正教会や東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)などがギリシャ正教に属しています。
それから、ここでも聖霊が「真理の霊」と言われています。14章17節でもそうでした。また、16章13節でもそうです。【16章13節】。聖霊が真理の霊と言われていることが、ヨハネ福音書の大きな特徴です。では、「真理の霊」とは、聖霊のどのような本質を言うのでしょうか。また、どのようなお働きを言うのでしょうか。
「真理の霊はあなたがたを真理へと導く」と言われています。この真理とは、神の真理のことであるのは言うまでもありません。哲学的な真理とか、化学とかその他の学問の真理のことではありません。それらの真理は、人間を賢い生き物にし、さまざまな技術の進歩には役立つでしょうが、人間の罪をゆるすとか、人間の魂を救うことはできません。
神の真理は、人間の本質的な命に迫ります。人間が本当に生きるとはどういうことなのかに迫ります。神の真理は人間の体の命と魂の命に迫ります。そして、人間のまことの救い、まことの平安、幸い、喜び、希望に迫ります。
ここでまず思い起こすのは、主イエスが14章6節で言われたみ言葉です。【14章6節】。主イエスこそが、神に至る唯一の道であり、神の真理へとわたしたちを導く唯一の主であり、まことの救い、まことの命へとわたしたちを導き入れる唯一の救い主です。弟子たちはそのことを主イエスから日々に教えられていましたが、彼らはそれを理解できませんでした。主イエスを信じませんでした。主イエスの十字架から逃亡し、十字架の主イエスにつまずきました。彼らは自分たちの命を守ろうとして、十字架の主イエスを見捨てたのです。
けれども、復活された主イエスは別の弁護者、助け主である聖霊を彼らに送り、主イエスの十字架の死にこそ、罪びとたちを救う父なる神の大きな愛があったことを悟らせ、そこにこそ真の罪のゆるしと救いがあることを信じさせたのです。聖霊を注がれて、弟子たちは自分たちのつまずき、失敗に気づかされました。このような弱い自分たちの罪をゆるされ、再びお招きくださった主イエスの愛を知らされました。聖霊によって弟子たちは再び立ち上がることがゆるされました。これが主イエスによって明らかにされた神の真理です。
主イエスは8章31節以下でこのように言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。神のみ言葉を聞かず、主イエスのみ言葉から離れるならば、その人は罪の奴隷になるほかありません。人間は生まれながらに神を知らず、神に背く罪びとだからです。罪に支配されているならば、だれも自由ではありません。
罪を犯す人は罪の奴隷です。しかし、主なる神の僕(奴隷)となるとき、罪の奴隷から解放されます。聖霊によって、主イエスをわたしの救い主と信じる信仰を与えられるとき、わたしたちも罪の支配から解放され、自由にされ、神の真理に生きる者とされるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの聖なる霊をわたしたちに注いでください。わたしたちの罪の思いや、すべての不安、恐れから解放してください。あなたがみ子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛してくださったその大いなる愛を信じて、真の自由の中を歩ませてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。