7月20日説教「神の国はあなたがたのところに来ている」

2025年7月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~15節

    ルカによる福音書11章14~23節

説教題:「神の国はあなたがたのところに来ている」

 主イエスはある日、口がきけない人から悪霊を追い出されると、その人は口が聞けるようになったと、ルカ福音書11章14節に書かれています。ところが、主イエスに反感を抱く人たちが、「彼は悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出しているのだ」と非難し始めました。それに対して、主イエスは彼らの批判が間違っていることを論証され、敵対者たちに反論しておられるだけでなく、ご自身が宣べ伝えておられる神の国の福音とは何かという、その本質を明らかにされました。このように、主イエスに敵対する人たちとの論争をとおして、主イエスの福音の本質がよりいっそう明らかにされていくという例が、福音書の中にはいくつも語られています。主イエスの福音が、当時のユダヤ人やユダヤ教の考えや教えとは全く違った全く新しいものであることが、ここでは語られているのです。

 まず、「悪霊」について考えてみたいと思います。聖書では、「悪霊に取りつかれている」とか「悪霊を追い出す」という表現が何度も用いられています。今日のわたしたちにはあまり実感がないかもしれませんが、聖書の時代の人々にとっては、悪霊とは、いわば人格化された悪のように考えられていたようです。「悪霊に取りつかれた人」と言えば、何か精神的な病のように考えるかもしれませんが、当時の人にとっては精神的な病であれ肉体的な病であれ、すべては悪霊がその人に取りついて、その人を支配していると考えました。病気だけでなく、何かの災いや不幸な出来事もまた悪霊によってもたらされると考えていました。今日のわたしたちにとっては化学や医学で説明がつくことでも、当時の人たちにとっては、すべてが悪霊の働きによると思われていたからです。特に、聖書では、悪霊、または悪とは、神に敵対する力のことであり、また信仰者たちを神から引き離し、その信仰を疑いに変え、神に対する不信を大きくさせる働きをするのが、悪霊の働きです。

 きょうの聖書の箇所では、口をきけなくする悪霊に取りつかれた人が登場します。この人は悪霊の力によって、口と舌の機能が奪われ、言葉を語ることができませんでした。人間から言葉が失われると、自分の考えや意志を相手にうまく伝えることができず、人と人とのコミュニケーションも制限されます。言葉で神を賛美することもできません。彼は社会生活からも、宗教共同体からも阻害されていました。それは、この人にとってどんなにか大きな痛みであり重荷であり、また孤独であったことでしょうか。

 主イエスはこの人から彼を苦しめていた悪霊を追い出されました。彼は言葉を取り戻しました。それは単に肉体の病がいやされ、口と舌の機能が回復されたということにとどまらず、この人の全人格が悪霊の支配から解放されて、自由になり、生まれ変わって新しい人にされたことを意味します。主イエスのいやしみわざが、そのような大きな意味を持っていることが、主イエスのみ言葉によってさらに明らかにされていきます。

 主イエスはこう言われました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)と。主イエスが神から遣わされたメシア・救い主・キリストとして、父なる神の権威と力によって悪霊を追い出されるときに、そこにすでに神の国が到来し、神の恵みのご支配が始まっていると、主イエスはここで言われます。神が恵みと救いとをもってご支配される神の国がそこに到来し、その人は悪霊の支配から解放され、主なる神のご支配のもとに移されている。その人はもはや悪霊の支配の中で生きるのではなく、神のご支配の中で生きる者とされているのです。

 ところが、その奇跡を見たある人たちが、主イエスを非難しだしました。この人たちは、並行箇所のマタイ福音書12章24節によれば、ファリサイ派の人たちでした。ファリサイ派は当時にユダヤ教の最大教派の一つで、旧約聖書の律法を重んじ、律法に従って生きることを目標にしていました。彼らは主イエスが力強い働きをされ、民衆から注目されていることを妬ましく思っていました。彼らは言います。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している。そうでなければ、あれほどの不思議は奇跡を行えるはずがない。彼は悪霊の仲間に違いない」と。また、ほかの人たちは、彼が悪霊の仲間ではなく、神から遣わされたメシア・キリストであるならば、その証拠を見せてほしいとしるしを要求しました。

 わたしたちはここで、主イエスと、主イエスを非難している彼らとの立場の違い、根本的な違いに気づかされるのです。主イエスは、長くこの病める人を苦しめてきた重荷から彼を解放し、彼を自由にし、彼の病をいやされただけでなく、彼に新し命を注ぎ込みました。けれども、主イエスに敵対する彼らは、一人の人がいやされ、救われたことを喜ぶことができず、神の救いのみわざを感謝することができず、自らの誉れを求め、救い主であられる主イエスを非難しているのです。ここに、彼らユダヤ人の罪が、人間の罪が浮き彫りにされているのです。

 17節に、主イエスは「彼らの心を見抜いて言われた」と書かれています。主イエスはわたしたち人間の心の中に潜んでいる悪しき思いと罪のすべてを見抜かれます。主イエスの救いのみわざを喜んで受け入れようとしない傲慢でかたくなな思い、自らの名誉や地位を守るために他者を排斥しようとする独善的で自己中心的な思い、自分の罪を覆い隠し、自らを飾ろうとする偽善的な思い、主イエスはそのようなわたしたちの中にある罪のすべてを見抜いておられます。そして、わたしたちを罪のゆるしと新しい神の恵みのご支配に生きる道へと、招いてくださいます。

 17節以下で主イエスが言われたことを、あらためて説明するまでもないでしょう。国家であれ、家庭であれ、内部で分裂していれば、その集団は崩壊してしまうほかにありません。ですから、悪霊の頭によって悪霊を追い出すということはあり得ないと主イエスは言われます。主イエスが口をきけなくする悪霊を追い出され、その人をいやされたのは、悪霊の頭によってではなく、そのベルゼブルをも含めたすべての悪霊に勝利される神のみ力によったのであると、主イエスは言われます。

 【20節】。「神の指」とは。神のみ力のことです。神の権威、神の強い意志と言ってもよいでしょう。詩編8編4節に、このよう歌われています。「あなたの天をあなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたの配置なさったもの」と。神の指とは、天にあるもろもろの天体、太陽、月、星のすべてを創造し、地のすべての被造物を創造した神のみ力のことです。その神の偉大なみ力は、すべての悪霊よりも、また悪霊の頭と言われるベルゼブルよりも、さらに強く大きな力なのです。その神のみ力によって、主イエス悪霊を追い出されたのです。そして、神に敵対していた悪霊の滅びは、また神を信じる者たちを攻撃する悪霊の滅びは、神の新しいご支配が始まり、神の国がすでに来ていることのしるしなのです。この主イエスが共にいますところ、この主イエスを救い主と信じる人々が集まっているところ、そこではすべての悪霊と罪の力とはすでに敗北と滅びとを宣言されているのであり、ただ神のみが唯一の永遠の王としてご支配しておられる神の国がすでに来ているのです。主イエスの悪霊追放のみわざは、この神の国到来の確かなしるしなのです。

 ルカ福音書で「神の指」と言われている個所は、マタイ福音書12章28節では「神の霊」となっています。両者は同じ意味です。神の霊、聖霊が今主イエスと共にこの世で神の指としての創造のみわざを新たに始められました。聖霊なる神が新しい信仰者を生み出し、また教会を生み出し、主イエスによって成し遂げられ救いのみわざを、力強く前進させておられます。それが、神の国到来の明らかなしるしなのです。

 この点においては、主イエスの悪霊追放と、他の人たちのそれとは全く違った意味を持っています。19節で主イエスが、「あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と言っておられることから推測されるように、当時のユダヤ人社会では悪霊追放のような奇跡を売り物にしている魔術師たちや祈祷師たちが多くいたようです。彼らもそれなりの力を発揮して病気をいやしたりしていました。けれども、彼らの行為は一時的にその人から悪霊を追い出すことができても、悪霊そのものを滅ぼすことはできませんでした。悪霊は人間の力では最終的に滅ぼすことはできません。神のみ子だけがそれをなさいます。そのことについては、24節以下で主イエスが語っておられますので、次回さらに学ぶことにいたします。

 21節以下は、多少理解に困難な箇所と言われています。【21~22節】。主イエスここで、地上における人間たちの力の差について語っておられます。地上では人間たちがお互いの力を競い合っています。そして、より強い力を持っている人が、他の人の国を侵略し、奪い取ります。その戦いには終わりはありません。やがてより強い力を持つ人が現れるからです。それはまさに、今わたしたちが住んでいるこの世界の現実の姿であると言ってよいでしょう。

 しかし、主イエスは23節で、【23節】と言われます。これはどういう意味でしょうか。主イエスがこの世に到来されたことにより、この世は「わたし」すなわち主イエスに敵対するか、それとも主イエスに味方するかのどちらかにはっきりと分けられるようになるというのです。中立的な、どちらでもないような、あるいは、今回はこちらで次回はあちらというようなあいまいで、優柔不断な立場は、主イエスが到来されたのちにはあり得ないというのです。主イエスが天の父なる神から遣わされたメシア・キリスト、救い主としてこの世においでになり、神の霊の力によって悪霊を追い出され、悪霊に勝利されたからには、悪霊に対する勝利を信じて主イエスの側に立つのか、すなわち、神の国のご支配に生きるのか、それとも、いまだ悪霊の支配に服従して悪霊の側に立ち、悪霊の支配の中で生きるのか、そのどちらか一方でしかあり得ないと言うのです。なぜならば、主イエスが父なる神の権威とみ力によって、悪霊の支配に勝利され、悪霊を滅ぼしておられるからです。

 主イエスはわたしたちを神の救いと恵みに満ちた神のご支配へと、神の国へと招いてくださいます。そのために、主イエスはわたしたちの罪を滅ぼし、わたしたちを罪から救うために十字架への道を進み行かれたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはみ子の十字架の死と復活によって、わたしたちを罪と死と悪霊の支配から解放してくださり、わたしたちが真理と自由の聖霊によって生きる道を備えてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように、常にわたしたちを聖霊によってお導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが唯一の主なる神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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