8月31日説教「エルサレム使徒会議でのペトロの証言」

2025年8月31(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    使徒言行録15章6~11節

説教題:「エルサレム使徒会議でのペトロの証言」

 使徒言行録15章に記されているエルサレム使徒会議が開催されたのは、パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行が終わって間もなく、紀元48年か49年と推測されています。主イエスの十字架の死と復活、そしてペンテコステの聖霊降臨とエルサレム教会誕生が紀元30年ころとすれば、それからわずか20年足らずの間に、教会は驚くべき発展と成長を遂げてエルサレムから北のサマリア地方、さらにはその北のシリア州へ、その中心はパウロとバルナバが属していたアンティオキア教会でしたが、そしてさらにその北の小アジアの各地へと拡大していったということを、わたしたちはこれまで読んできました。

 このような教会の急激な成長・発展のエネルギー源は、神の言葉そのものの力と命であり、主イエス・キリストの福音の恵みの豊かさであり、そして聖霊なる神のお働きであるということをも、わたしたちは何度も確認してきました。神の言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはありません。聖霊は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神であられます。そのことは、今日のわたしたちの時代にも全く変わりません。わたしたちもまたそのことを固く信じて、福音宣教の務めに仕えていきたいと思います。

 主キリストの福音がパレスチナ地域から全世界へと拡大していったことは、同時に、ユダヤ人からユダヤ人以外の異邦人へと広がっていったことでもありました。そしてそこから、いわゆるユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に、信仰理解の違いが生じようになりました。15章1節にこのように書かれています。【1節】。ユダヤ人キリスト者は、生まれて8日目に男子はみな割礼を受けていましたが、異邦人キリススト者にはその習慣はありません。割礼はユダヤ人が神に選ばれ、神の契約の民となったことのしるしとして、アブラハム以来最も重要な慣習として守り続けてきた儀式です。割礼を受けていない異邦人キリスト者も割礼を受けて、旧約聖書以来の神の契約の民の仲間に加わらなければ、洗礼だけでは不十分だと、ユダヤ人キリスト者たちは考えたのでした。

 エルサレム教会はほとんどがユダヤキリスト者でしたから、そのような意見が特に強く、一方、アンティオキア教会の多くはギリシャ人で、割礼を受けていない人がほとんどでしたから、エルサレム教会から来た人たちがアンティオキア教会にやって来て、「あなたがたも割礼を受けなければ救われない」と主張したということです。そこで、アンティオキア教会を代表するパウロやバルナバとエルサレム教会から来た人たちとの間に激しい論争が生じました。そこで、この問題を協議するために、エルサレム教会に集まって教会会議を開催することになりました。これがエルサレム使徒会議です。

 6節にこう書かれています。【6節】。この教会会議に出席した代議員は「使徒たちと長老たち」と書かれています。22節でも、使徒たちと長老たちと言われています。使徒とは、教会の中で主に説教の務めを担当し、時には教会の外へ出張伝道の働きをする務めを指し、長老とは、教会の中で選ばれ、信徒の教育や指導、貧しい人たちへの配慮などを担当していたと推測されます。説教をする、いわば聖職者だけでなく、教会で選ばれた長老の代表者をも加えた教会会議であったと推測できます。

これは、今日のわたしたちの教会、日本キリスト教会の長老制とほぼ同じです。説教職の牧師だけで会議をする監督制ではなく、牧師と信徒全員が集まる会衆制でもなく、牧師と教会で選ばれた長老の代議員で会議をする長老制をわたしたちの教会が採用しているのは、聖書に記録されている初代教会の教会運営の在り方に最も近いからです。

 アンティオキア教会の使徒職はパウロとバルナバ、長老職は2節にあるように数名が出席し、エルサレム教会からはおそらく主イエスの12弟子を受け継ぐ使徒たち、そのリーダーはペトロですが、それから教会で選ばれた長老たち、彼らが最初に選ばれたのは、6章1節以下にある最初の殉教者となったステファノをはじめとする7人でした。また、13節で発言しているヤコブ、この人は主イエスの実の弟で、主イエスの復活ののちにエルサレム教会員となり、このころはペトロと共に教会の指導的な立場にありました。彼はエルサレム教会の長老であったと思われます。二つの教会以外に他の地域からの出席者があったのかどうかについてははっきりしませんが、このエルサレム使徒会議での決議事項は当時の世界の諸教会全体の決議として公認されたことが、22節以下の使徒書簡が諸教会で回覧されたことから推測できます。

 では次に、7節からのペトロの証言の前半について読んでみましょう。【7~9節】。ペトロは主イエスの12弟子のひとりであり、エルサレム教会のリーダーでした。彼はユダヤ人であり、割礼を受けたキリスト者でしたが、彼は5節のファリサイからキリスト者になった人たちとは違った意見を表明します。ペトロがここで証言している出来事は、10章に詳しく書かれていた、カイサリアでのコルネリウスと彼の一族が集団で洗礼を受けたことです。コルネリウスはローマ軍の百人隊長でした。ユダヤ人ではない異邦人でしたが、ペトロと出会い、ペトロの働きによって、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰へと導かれたのでした。これは、最初の異邦人伝道の大きな成果として、使徒言行録ではかなり長い10章全体をさいて記録しています。主なる神はこの最初の異邦人伝道のために、ペトロをお用いになってのです。

 それを簡略に振り返ってみましょう。ある日、ペトロは不思議な幻を見ました。空から大きな入れ物が降りてきて、その中にはユダヤ人が食べてよいと律法で定められていた清い動物と。食べるなと命じられていた汚れた動物が一緒に入っていました。その時、神はどの動物もすべては清い動物になったのだから、どれでも食べなさい、と言われました。同じことが3度もあったので、ペトロはそのことの深い意味を考え、これは神が今まではユダヤ人と異邦人とを区別しておられたが、主イエスが全人類の救い主となられたのだから、今はその区別がなくなった。すべての人が神の救いへと招かれている。そのことを、神はこの不思議な幻でお示しくださったのだということに、ペトロは気づたのでした。

 そして、彼は異邦人コルネリウスの家に入り、主イエスの十字架の死と復活の福音を語りました。10章44節以下を読んでみましょう。【44~48節】(234ページ)。

 このようにして、神はユダヤ人キリスト者であるペトロをお用いになって、異邦人であるコルネリウスとその一族に聖霊をお授けになり、主イエス・キリストを信じる信仰をお与えになり、彼らの罪をおゆるしになって、神の国の民にお加えになったのです。神はユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、したがって、割礼があるかないかにも関係なく、律法を守っているかどうかにも関係なく、主イエスの福音を信じる信仰だけによって、信じる人に聖霊を注ぎ、救いの恵みをお与えくださったのです。ペトロはそのことを彼自身が体験し、知らされたのだと、ここで証言しているのです。

 ペトロは続けてこういいます。【10~11節】。「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」とは、イスラエルの民に与えられた「律法」のことです。ペトロはユダヤ人が重んじていた律法を、だれもそれを負うことができない、つまり、だれもそれを完全に守り行うことができない重荷であると言うのです。これは主イエスご自身のお考えと一致しています。主イエスはマタイ福音書23章で、律法学者たちを批判してこのように言われます。「彼らは追いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない」(23章4節)と。

 律法は神がイスラエルにお与えになった戒めです。それはイスラエルが誤った道に進まないように導く、いわばたずなのようなものでした。また、律法はだれもそれを完全に守り行うことができると誇ることができない、いわば高いハードルでもあり、重荷、軛でもありました。なぜならば、だれも完全に神のみ心を行うことができず、律法を行おうとすればするほどに、律法を完全に行うことができない人間の罪が明らかにされるからです。パウロがローマの信徒への手紙3章20節で、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と書いているとおりです。

 主イエスはそのような律法の重荷からイスラエルの民と全人類とを解放するために、この世界に来てくださったのです。マタイ福音書11章28以下で、主イエスはこうに言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(28~30節)。

主イエスご自身が、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、だれも人間が行うことができなかった律法を完全に成し遂げられました。したがって、もはやだれも律法を行うことによって救われる道を歩む必要はなくなり、主イエスを信じる信仰によって救われる道が開かれたのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、だれ一人律法の重荷やくびきを負う必要は、もはやありません。パウロは、ローマの信徒への手紙3章22節以下でこのように書いています。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべての与えられる神の義です。……ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(22~24節)。

 使徒会議の証言に立ったペトロは、11節でこう言います。【11節】。ユダヤ人も異邦人・ギリシャ人も、そしてわたしたち一人一人も、ただ神の恵みによってのみ、そしてこの救いを信じる信仰によってのみ、神のみ前に義とされ、罪ゆるされ、救われるのです。その救いの真理を、ペトロはコルネリウス一族の異邦人伝道によって経験したのでした。このペトロの証言によって、ユダヤ人と異邦人の救いに関する論争がテーマであったエルサレム使徒会議の議論に終止符が打たれ、会議の出席者全員がこの救いの真理を承認したのでした。そしてそれが、今日の全世界の救いの真理として、すべての教会で信じ告白されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは、かくも偉大であり、永遠であり、確かな真理であります。あなたは罪びとであるわたしたちを罪から救うために、あなたの聖なるみ子を十字架におささげくださるほどに、わたしたちを愛してくださいました。あなたのこの大きな愛からわたしたちを引き離すものは、何もありません。罪も死も、この世の悪の力も、どのような試練や災いも、この救いの真理からわたしたちを引き離すことができないことを、固く信じさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月24日説教「ヨナのしるしと主イエスのしるし」

2025年8月24(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ヨナ書2章1~11節

    ルカによる福音書11章24~32節

説教題:「ヨナのしるしと主イエスのしるし」

 前回学んだルカ福音書11章16節に、こう書かれていました。【16節】。きょう朗読された29節からの主イエスがお話になったヨナのしるしについての説教は、しるしを求めるユダヤ人に対する主イエスのお答えです。ユダヤ人が主イエスに天からのしるしを求めたという記録は、ルカ福音書ではこの箇所だけですが、マタイ福音書では12章38節以下と16章1節以下の2か所に記されています。いずれも、ファリサイ派やサドカイ派という当時のユダヤ教の指導者たちが、主イエスに対して、主イエスが確かに神から遣わされたメシア・救い主であるならば、その証拠となるしるしを見せて欲しいと、要求しています。彼らは主イエスが神の国の説教をしたり、罪のゆるしを宣言したり、また驚くべき奇跡をしているのを見て、どうしてそのようなことができるのか、その権威はどこからきているのかを確かめたいと願ったのでしょう。

 パウロはコリントの信徒への手紙一1章22節で、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探す」と言っています。ユダヤ人はしばしば主イエスに対して、「天からのしるしを見せて欲しい。それを見たら、信じよう」と要求していました。そして最後には、「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ福音書27章42節)と言って、十字架の主イエスをあざ笑いました。しかし、パウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」(コリントの信徒への手紙一1章23節)と宣言しています。わたしの罪のために、わたしに代わって十字架につけられた主イエスをわたしの救い主と信じる信仰こそが、わたしをすべての罪から救うのです。

 ルカ福音書の前の箇所、14節以下で、主イエスが神からの権威によって悪霊を追い出していると言うのなら、そして、主イエスが神の指で悪霊を追い出す時に、神の国はあなたがかのところに来ていると言うのなら、その証拠を見せて欲しい、確かなしるしを見せて欲しいと、彼らは要求しているのです。

けれども、そのような目に見えるしるしを求める信仰、しるしを必要とする信仰は、本当の信仰と言えるでしょうか。どうか、考えてみてください。自分が信じ、従おうとしている神が、もしかして、やがて自分を裏切って信じるに値しない神になるのではないかと疑いながら信じる信仰が、はたして本当の信仰と言えるでしょうか。この信仰にわたしの全生涯をかけてもよいかどうかを疑いながら信じる信仰、あるいは、わたしが信じる神が唯一の永遠の真理であるのかどうかを証明する証拠や目に見えるしるしを求める信仰は、本当の信仰と言えるでしょうか。わたしがもはや一点の疑いもないほどに、わたしが再び迷ったりつまずいたりしないで済むような確かな保証としるしを要求する信仰は、いったい本当の信仰と言えるでしょうか。

ユダヤ人がそのようなしるしを求めたのに対して、主イエスはこうお答えになりました。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしは与えられない。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(29節)と。主イエスは、しるしを求める時代は邪悪でよこしまであると言われます。主イエスはこのような時代について他の箇所では、不義な時代、不信仰な時代、曲がった時代、罪深い時代とも言われます。しるしを求める信仰、しるしを必要とする信仰は、もはや信仰ではなく、いや、むしろそれは不信仰なのであり、罪なのだと言われるのです。

ではここで、主イエスご自身のご生涯のことを考えてみましょう。主イエスはご自身が神のみ子であり、キリスト・メシア、救い主であることを保証するしるしを、ことごとく拒否されたということに、わたしたちは気づきます。誕生の時にすでにそうでした。主イエスは全人類の唯一の救い主として誕生されましたが、だれにも注目されない、そまつで貧しい家畜小屋の飼い葉おけの中に布にくるまれて寝かされておりました。ルカ福音書2章12節には、「これがあなたがたへのしるしである」と書かれています。

荒れ野での誘惑の時にもそうでした。悪魔は「おまえが神の子ならば……」と、三度主イエスを誘惑しましたが、主イエスは三度とも神のみ子であることのしるしを拒否されました。主イエスの裁判の時には、ことさらに一切のしるしを拒否されたことをわたしたちは知っています。裁判の席でヘロデ王の前に立たれた主イエスは、しるしや奇跡を期待していたヘロデ王に何もお答えになりませんでした。

そして、十字架の上では、「もしあなたが神の子ならば自分自身を救え。そして、十字架から降りてこい。そうしたら信じよう」と叫ぶ人々の要求を、主イエスはすべて拒否され、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」との祈りによって息を引き取られました。主イエスはこのようにして、地上での全ご生涯において、ご自身が神のみ子であり、メシア・キリストであることを保証するしるしを一切お用いにはなりませんでした。

また、復活された主イエスは、疑う弟子のトマスに対して、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました(ルカ福音書20章29節)。ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」と。

わたしたちの信仰は、しるしを見て信じる信仰ではありません。何かの化学的、物理的論証や実験によって証明されるような信仰でもありません。わたしたちの信仰を確かなものとして保証するのは、神ご自身です。神の言葉である聖書です。聖書に証しされ、宣べ伝えられた主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、そして信じる信仰です。主イエス・キリストがわたしの罪のために十字架に死んでくださり、ご自身の汚れのない尊い血によってわたしの罪をすべて贖ってくださった。それによって、わたしの罪が永遠にゆるされている。そのことをわたしが信じ、告白するならば、神はわたしをご自身のみ国の民の一人としてくださり、み国での永遠の命を約束してくださいます。その信仰によって、わたしは救われるのです。その信仰はいかなるしるしをも必要としません。神ご自身が、聖霊によって、わたしの信仰を保証し、確かなものとしてくださるからです。したがって、わたしたちは他のすべてのしるしや保証を放棄することによって、その信仰が強めらるのです。ただ信仰によって生きるときに、その信仰がわたしの希望となり、生きる力となり、また永遠の慰めとなるのです。

主イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。これは、ヨナのしるしだけで、十分だ、ヨナのしるしを見て、聞いて、信じることを、神はあなたがたに求めておられるのだという意味です。

では、そのヨナのしるしとはどのようなものでしょうか。30節と32節を読んでみましょう。【30、32節】。並行箇所であるマタイ福音書12章40節以下では。もう少し詳しく語られていますので、そこを参考に読んでみましょう。【40~41節】(23ページ)。ヨナの説教を聞いて罪を悔い改め、神に立ち帰ったニネベの人たちにとって、ヨナがしるしとなったように、否、ヨナにもはるかにまさる主イエスこそが今の時代に対してより大きな、確かなしるしとなるであろうと、主イエスは教えておられるのです。

主イエスが今の時代に対してヨナ以上のしるしとなるとは、具体的にどのようなことを言うのでしょうか。3つのポイントにまとめてみましょう。第一点は、ヨナが三日三晩大魚の中にいたように、主イエスは十字架で死んで、墓に葬られ、三日目に墓から復活されたというしるし、このしるしによって、主イエスはご自身が神が約束しておられたメシア・キリストであり、全世界の唯一の救い主であることを、今の時代の人々に証しをされたということです。このしるし以外には、他のしるしは今の時代に対して何も与えられることはない。否、このしるしだけで十分である。それゆえに、主イエスの十字架の死と復活の福音を宣べ伝え、その福音を聞いて信じる以外には、わたしたちが救われる道はどこにもない、否、この道だけで十分であるという意味です。

第二点は、ニネベの人々がヨナの説教によって罪を悔い改めたように、主イエスはこの時代のユダヤ人とすべての罪びとたちを、悔い改めへと招いておられるということです。そして、悔い改めるすべての罪びとを、罪のゆるしへと招いておられるということです。悔い改めとは方向転換のことです。これまでは神から遠ざかる方向へと歩んでいた罪びとが、方向転換して、神の方へと向き変わる。そうすれば、神ご自身の方から罪びとへと近づいて来てくださる。主イエスはその道を開かれたのです。神と人間を隔てていた罪という厚い壁を主イエスは取り除いてくださり、わたしが神と出会う道を備えてくださったのです。

第三点は、ニネベの人々がヨナの説教によって悔い改め、救われたという旧約聖書の出来事は、今の時代になってもかたくなに信じようとしないユダヤ人に対する神の最後の裁きのしるしとなるであろうということです。この点については、ソロモン王の知恵を聞くために、南の国からはるばるやって来た女王の例も挙げられています。悔い改めて信じたニネベの人たちも、ソロモンを訪ねて来た南の国の女王も、不信仰で悔い改めることをしないユダヤ人にとっては、神の裁きのしるしとなるのです。

ニネベの人たちも南の国の女王も、ユダヤ人から見れば異邦人であり、神に選ばれた民ではありませんでしたが、その異邦人が悔い改めて救われたということは、自ら選ばれていることを自認し、誇っていたにもかかわらず、悔い改めず、不信仰なユダヤ人に対しては、大きな辱めとなり、神の厳しい裁きのしるしとなるのです。

主イエスの救いは、その背後に、神の厳しい裁きを伴った救いであり、神の最後の裁きからの救いであるということが、ここでは明らかにされています。それゆえに、その救いは、力あるもの、真実なもの、そして大きな、永遠の恵みに満ちた救いなのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエスは不信仰でかたくななわたしたちをもみ前にお招きくださいます。どうか、わたしたちを従順な者としてください。あなたの救いの恵みを感謝して受け取り、またその恵みに応えて、あなたのご栄光をあらわす者としてください。

〇父なる神よ、重荷を負っている人たち、道に迷っている人たち、飢え乾いている人たちを、どうか憐れんでください。あなたからの顧みがありますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月17日説教「エジプトで祝う過ぎ越しの祭り」

2025年8月17(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章1~20節

    マルコによる福音書14章22~26節

説教題:「エジプトで祝う過ぎ越しの祭り」

 出エジプト記12章には、のちにイスラエルの最大の祭りとなる過ぎ越しの祭りとそれに続く種入れぬパンの祭り(『新共同訳聖書』では除酵祭)が制定されたことが記されています。前後との関連を見てみると、11章では、エジプトで起こる第10番目の災い、すなわち、その日の真夜中に、エジプト王ファラオの家からすべての家々の長男と家畜の初子がみな死ぬという災いについての予告が、神からモーセに、そしてモーセからエジプト王ファラオへと告げられていました。12章では、イスラエルの民の家々で、その同じ夜に、過ぎ越しの祭りを祝うことによって、彼らは災いから守られたことが書かれています。そして、12章29節からは、実際にエジプトで起こった大いなる恐るべき災いを恐れたファラオは、イスラエルの民をエジプトから追い出す決断を下し、イスラエルの民は安全に、また多くの金銀を携えてエジプトから脱出したことが書かれています。

 ここに書かれている過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りは、イスラエルがまだ奴隷の家エジプトに滞在しているときに、その最後の夜に、まだ実際には実現していない救いの出来事を、いわば先取りするようにして、祝っていることになります。そして、こののち、エジプトを脱出した彼らが荒れ野の40年の旅の間も、約束の地に到着してからの千年以上の彼らの歩みの中でも、毎年毎年、絶えず繰り返して、救われた恵みを感謝して守り続けてきた祭りでした。そしてそれはまた、わたしたち教会の民が、主イエス・キリストによって新たに制定された聖餐式として、終わりの日まで守り続けるべき大切な祭りとなったのです。わたしたちはこの出エジプト記12章で、その聖餐式の原形となった祭りについて学ぼうとしているのです。

 【1~2節】。1節に「エジプトの国で、主は……言われた」と書かれています。主なる神はまだそのことが起こる前に、そのことが起こるに備えて、エジプトに対する第10番目の災いから救われるために、イスラエルの民に過ぎ越しの祭りを祝うように命じておられます。したがって、ここでは信仰が求められています。神がやがて確かに、エジプトに対する災いを起こしてくださることを信じ、イスラエルの民をその災いから救ってくださることを信じて、そのことをいわば先取りして、彼らはこの最初の過越祭を祝うのです。そしてその次の年からは、神が確かに約束のとおりに彼らを救ってくださったことを感謝し、これからもまた変わることなくすべての災いから救ってくださることを信じて、この過越祭を祝うのです。

今日の聖餐式においてもそうです。主イエスは受難週木曜日の夜に、ご自身がまだ十字架につけられる前に、ご自身の裂かれる肉と流される血とを弟子たちに分かち与えられました。そして、そののち教会の民は実際に主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血とを受け取るのです。

 2節も、神の救いの恵みの先取りと言ってよいでしょう。イスラエルが奴隷の家エジプトから解放され、救われるこの日、この月が、イスラエルの誕生の時であり、彼らにとっての初めの月、正月と定められました。ヘブライ語ではアビブの月と言います。アビブは大麦の穂という意味です。大麦を収穫する初めのころ、春3月から4月のころであり、のちにバビロン捕囚以後にはニサンの月と呼ばれるようになりました。

 出エジプトはイスラエルの民の誕生のときであり、過ぎ越しの祭りはその誕生を祝う重要な祭りであるということは、旧約聖書で繰り返し語られています。申命記7章6節以下では、神の選びとの関連で語られています。【申命記7章7~8節】(292ページ)。ここでは、イスラエルを選ばれ、奴隷の家エジプトから彼らを救い出され、ご自身の宝の民とされたのは、神の一方的な、そして強い愛であることが強調されています。主なる神がイスラエルの新しい歩み、新しい歴史を始めさせてくださったのです。イスラエル自身が自分たちの独立運動や革命や戦争によって国を興したのではありませんでした。主なる神の側からの一方的に注がれた強い愛による選び、大いなる救いの恵みによって、イスラエルは誕生し、またそののちも、常に神の側からの一方的な愛の選びと救いの恵みによって生きていくのです。過ぎ越しの祭りはそのことを覚え、感謝し、祝う祭りなのです。

 では、その祭りはどのように行われるのでしょうか。【3~4節】。「イスラエルの共同体全体」とは、神に呼び集められた礼拝の民を指す言葉です。6節の「会衆」と訳されている言葉と同じ意味です。新約聖書の「教会」も同じように、神に呼び出された群れという意味です。過ぎ越しの祭りを祝う食事は、家族ごとに子羊を屠って食べる、家々での祭りですが、それはイスラエルという一つの神の民、礼拝の民に属している家々であるということが、ここでは強調されているのです。のちの時代になって、紀元前7世紀のヨシヤ王の改革を期にして、過ぎ越の祭りはエルサレム神殿を中心にして祝う祭りへと変化していったと考えられています。

一つの家族で小羊一匹を食べきれない場合には、隣りの家族と一緒に食べるように定められたいます。のちになって、一つのグループは10人を下ってはならないと定められました。これは、食べ残しを防ぐためでした。聖なる食事である過ぎ越しの食事で、肉などが残って、それが捨てられたり、他の食事に用いられるのを禁じるためでした。

次に、【5~7節】。1歳になった雄の小羊または小山羊の中から傷のないものを選び分け、それをアビブの月14日までの間、他の家畜から区別しておくように命じられています。それは、神にささげられるべきものとして、聖別されなければならないからです。

アビブの月の14日の夕方にそれを屠り、その血を家の入り口の二つの柱とかもいに塗るように命じられています。そのことの意味については、あとで12節以下に説明されます。【12~13節】。22節以下では、もう少し詳しく説明されています。【22~23節】。

この日の夜に、主なる神はエジプト全土で第10番目の災いを行われるために滅ぼす者となって出て行かれ、エジプトの王ファラオの家をはじめ、エジプトのすべての家々の長男の命を滅ぼされ、またすべての家畜の初子をも滅ぼされますが、しかし、イスラエルの家々には、その入り口の柱とかもいに小羊の血が塗られているので、その前を通り過ぎられ、イスラエルの家は神に打たれることなく、彼らを守られると約束されています。エジプト王ファラオとエジプトの神々に下された神の災いと裁きは、神の民イスラエルにとっては奴隷の家からの解放であり、救いであったのです。神はイスラエルの解放と救いのために、小羊の血をお用いになりました。それによって、のちに新約聖書では、わたしたち罪びとたちを、罪の奴隷から解放し、救うために十字架で死なれた主イエス・キリストを「過越しの小羊」と呼ぶようになりました。

8節からは、過ぎ越しの食事の定めが続きます。小羊または小山羊の肉は火で焼いて食べなければならないと定められています。その理由はよく分かっていませんが、火が汚れを焼き清める働きをすると考えられたからかもしれません。酵母を入れないパンを食べるのは、この夜に急いでエジプトを脱出しなければならないので、あらかじめパン種を仕込んで発酵するのを待っている時間がなかったからです。また、一緒に食べる苦菜は、エジプトでの奴隷の苦しみを忘れないためであり、またその苦しみから救い出された神の大きな恵みを忘れないためでもありました。10節で、食べ残したものはすべて火で焼き、焼却しなければならないと命じられているのは、先ほども少し触れましたように、過ぎ越しの食事は神のみ前で祝う聖なる食事であり、その肉もその他の食物もすべて神にささげられるべき聖なるものであるゆえに、残ったものを捨てたり、他の世俗の食事に用いてはならないからです。

イスラエルの民はここで命じられている最初の過ぎ越しの食事を、旅支度をしながらあわただしく済ませ、その夜のうちにエジプトを脱出することになります。11節にはこのように書かれています。【11節】。この最初の過ぎ越しの食事は、ゆっくりと楽しみながらではなく、「腰帯をしめ、靴を履き、杖を手にし、急いで食べ」なければなりません。神の救いの時がすぐ間近に迫っているからです。

そして、14節ではこのように命じられています。【14節】。過ぎ越しの祭りは毎年この月に、アビブの月の14日に、これからのちとこしえに守り続けなればならないと定められています。ここで定められた過ぎ越しの食事は、福音書に記されている、主イエスと弟子たちとの、いわゆる最後の晩餐が、文字通り、最後の過ぎ越しの食事となりました。新約聖書で誕生した教会の民は、旧約聖書で定められていた過ぎ越しの祭りを同じようにして祝うことはありません。なぜならば、主イエスが神のみ子としての罪も汚れもない清く聖なる血を、すべての人々の罪を贖う血として、十字架でおささげくださったからです。もはや、動物の血を繰り返してささげる必要はありません。主イエスの1回限りの十字架の血の贖いが、すべての時代のすべての人に対して有効に働くからです。わたしたちは主イエスが新しくお定めくださった聖餐式によって、その救いの恵みを覚え、感謝し、繰り返して再体験するのです。

15節から、種入れぬパンの祭り、除酵祭の規定について書かれています。過ぎ越しの祭りに続いて7日間、酵母が入らない固いパンを食べる祭りです。8節に、過ぎ越しの食事の際にも酵母が入らない固いパンを苦菜と一緒に食べるとありましたが、その酵母が入らない固いパンを、そのあと1週間食べ続けるのが除酵祭です。なぜ除酵祭が過ぎ越しの祭りとは別々の祭りとなったのか、また二つがどのようにして結びついたのかについては、はっきりとは分かっておりません。1週間家の中から酵母菌を取り除くことによって、古くなった酵母菌を一掃することが目的だったのではいかとも考えられています。主イエスの時代には、この二つの祭りは完全に一つに合体して、「過越祭」または「除酵祭」と言われるようになりました。

いずれにしても、過越祭の除酵祭も、出エジプトの出来事と直接に関連付けられています。過越祭についてはすでに学びました。除酵祭については、17節でこのように言われています。【17節】。

主イエスは弟子たちと共に祝った最後の過ぎ越しの食事の席で、イスラエルの民が食べていた酵母菌が入らない固いパンを手に取って、「これはわたしの体である」と言われたのです。また、葡萄酒の杯を手に取り、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。主イエスが十字架で流された血と、裂かれた体によって、全人類の罪が贖われ、ゆるされ、すべての人が救われたのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが奴隷の民イスラエルをエジプトからお救いくださったように、今はまたわたしたちを罪の奴隷から解放してくださいました。そのために、あなたはご自身のみ子の血を十字架におささげくださるほどに、わたしたちを愛してくださいました。あなたのその強い愛によって、わたしたちを永遠にあなたのみ国につなぎとめてください。わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月10日説教「剣を鋤に、槍を鎌に、もはや戦うことを学ばないために」

2025年8月10(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             世界平和祈念礼拝

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    マタイによる福音書5章1~12節

説教題:「剣を鋤に、槍を鎌に、もはや戦うことを学ばないために」

 預言者イザヤが活動した時代について、1章1節でこのように説明されています。【1節】(1061ページ)。6章1節以下に、イザヤがエルサレム神殿の中で神と出会って、預言者として召されたのは、ウジヤ王が死んだ年であると書かれていますので、それは紀元前742年のことでしたから、それからヒゼキヤ王の治世まで、おそらくは紀元前701年までであったと推測されていますが、およそ40年間がイザヤの活動の期間でした。

 イザヤの時代にイスラエルの周辺地域がどのような状況であったのかを概観すると、西は地中海沿岸から、その一角にイスラエルがあり、東はペルシャ湾にいたる中東諸国は、紀元前732年にシリア帝国を倒したアッシリア帝国が強大な軍事力で領土を拡大しつつありました。イスラエル北王国は722年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダも常にアッシリアの脅威にさらされ、時にエジプトに頼ったり、時に反アッシリア同盟に助けを求めたり、時にアッシリアに貢物を送ったりと、左右に揺れ動いていました。

 イザヤの時代が終わってからも、紀元前612年には新バビロニア帝国がアッシリアを倒し、紀元前597年に南王国ユダはこの新バビロニアによって滅ぼされ、イスラエル王国は完全に歴史から姿を消すことになります。そののちも、549年にはペルシャ帝国がさらに領土を広げてこの地域を支配することになりました。そして、538年には、ペルシャ帝国キュロス王によってバビロン捕囚の民イスラエルがエルサレムに帰還することがゆるされました。

 このようにして、紀元前9世紀から6世紀までの間に、シリア帝国からアッシリア帝国、新バビロニア帝国、そしてペルシャ帝国へと、4つの巨大帝国が次々と現れては消え、戦いを繰り返していました。預言者イザヤの時代は、まさに戦争の時代の真っただ中にあったのでした。小さな国であり、常備の軍隊を持っていなかったイスラエルは、その中で文字通り翻弄されていたのでした。

 きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書2章1~5節の預言は、そのような時代背景の中で語られたのです。1節にこのように書かれています。【1節】。預言者イザヤが見た幻とは、1章1節にも同じ言葉がありましたが、彼が想像や空想で思い描いたことという意味ではありません。1節のヘブライ語を正確に翻訳すれば、「イザヤが見た言葉」となりますが、これでは日本語として通じませんから、「幻に見たこと」と翻訳したと思われます。つまりこれは、本来は「言葉」、神の言葉なのです。神が預言者にお語りなった言葉なのです。その言葉が、単に耳から響いてくる言葉としてではなく、あたかも目でも見ている出来事のように、鮮明に、現実的に、イザヤに示され、感じ取られたということを、このように表現しているのです。これは、神が確かに、現実的に、この世界に起こしてくださる出来事なのだということが強調されているということです。

 では、その確かな現実とは、どのようなことでしょうか。2節の冒頭に「終わりの日に」とあります。終わりの日とは、終末のことです。歴史の終わりの時のことです。旧約聖書でも新約聖書でも、ヘブライ人の時間、時の理解は、初めがあり、終わりがあるという、いわば一直線の時の理解をします。聖書の最初の書物、創世記1章に書かれているように、神は初め天と地とを創造されました。第一日目に「光あれ」と言われ、光が創造されました。ここから世界の歴史が、時がスタートします。そして、聖書の最後、ヨハネの黙示録にはこの世界の歴史が終わり、古いものすべてが崩壊し、そののちに全く新しい神の国が現れることが語られています。世界の歴史、時、すべての時間、そしてまたわたしの一生も、神が始められ、神がこれを終わらせ、完成されるというのがキリスト教の歴史理解、終末論です。

 預言者イザヤが今見ているのが、その終わりの時のことです。イザヤが生きていた時代は戦争が繰り返され、覇権争いと殺戮と破壊が繰り返されている世界でしたが、今イザヤはその現実を超えて、より確かな終わりの日の現実を見ているのです。彼はその終わりの日のことを、あらかじめ神によって示され、だれもまだ見ていないその出来事をあたかも現実として目で見ているかのようにはっきりと、見ているのです。したがって、イザヤにとっては、また神の言葉を聞く信仰者にとっては、それは遠い未来のことではなく、今すでに見ており、経験しており、現実となっていることとして、理解されているのです。

 2節、3節には、終わりの日に、シオン・エルサレムの神殿に多くの民が集い、主なる神を礼拝するようになると預言されています。イザヤはこのあと4節で、戦いの武器をすべて捨て去って、再び戦うことを学ばない真の、永遠の平和のことを語るのですが、その前に、全世界の民がみな一人の主なる神を礼拝するようになると語ります。

 3節のカギかっこの中に書かれている諸国の民の言葉は、正確に翻訳すれば「さあ、わたしたちは主の山に、ヤコブの神の家に上ろう。主はわたしたちにご自身の道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。ここでは、「わたしたち」という言葉が何度か繰り返されています。つまり、諸国の民は一つの神の民、一つの神を礼拝する民、「我々、わたしたち」になるということが強調されているのです。イザヤの時代も、今の時代もそうですが、人々や国々はみな、「わたしは、我が国は」と自己主張をします。「わたし」が物事の中心となり、「わたし」が善悪の判断の基準だと考えます。しかし、そこでは「わたしたち、我々」という言葉は忘れ去られています。それゆえに、そこには平和はありません。自己主張と争い、戦争が、ますます人間の関係を破壊し、社会と世界、自然を破壊していきます。しかし、イザヤは戦争が繰り広げられている時代の中で、しかし、彼の信仰の目は、終わりの日の真の、永遠の平和を見ています。

 イザヤはここに人間の罪の終わりを見ているのです。終わりの日に、全世界の諸国民が、すべての人々が、一人の主なる神を礼拝するようになり、主なる神の教えを聞き、主なる神のみ言葉を聞くときに、人々は神との正しい関係を回復し、神によって罪をゆるされ、互いに「わたしたち」という関係につながれるのです。なぜなら、罪は神との関係を分断し、また人間の関係を分断する悪の力だからです。新約聖書のエフェソの信徒への手紙2章では、主イエス・キリストの十字架の福音が敵意という隔ての壁を取り壊して、二つもものを一つにし、一人の新しい人に造り上げて平和を実現させたと書かれています(2章14節以下)。イザヤは主イエスが到来されるはるか700年前に、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられる平和を、あらかじめ見ているのです。

 4節で、その平和についてこのように書かれています。【4節】。ここには、真の平和の基となる神を礼拝することと、もう一つの平和の土台が示されています。それは、神が唯一の裁き主となることです。神が全世界の唯一の主として神の法廷に立たれ、国々を裁かれるとき、もはやだれも他者を裁く必要はありません。すべての人が、すべての国が、神の裁きに服し、神を恐れるとき、世界には争いや略奪は不要になります。戦争や破壊は不要になります。みなが神を礼拝する一つの民となるからです。みなが神の裁きのもとで、神によって罪ゆるされた一つの群れとなるからです。

 その平和はどのようにして実現するのでしょう。「彼らは剣を打ち直して……。もはや戦うことを学ばない」(4節)とイザヤは語ります。これまでは戦うための武器として用いていた剣を熱い熱で溶かして、畑を耕す道具である鋤に鋳直し、これまでは人を突き刺す武器として用いていた槍を、これも鋳直して麦を収穫する道具である鎌にする。そのようにして、人間の命を奪い、この世界と自然を破壊するための武器がすべて、人間の命を養い、地球と自然を実り豊かな大地とするための農機具に変えられる、とイザヤは語ります。これが、終わりの日に神によって与えられる真の、永遠の平和なのです。

 これはごく単純な論理であるように思われます。人を殺害するための武器を製造するではなく、自然や地球を破壊するための武器を製造するのでもなく、人間の命を養うための農具、自然や地球を守り、豊かにするための農具を製造することが、どんなにか人間にとって、地球全体にとって有益であるかを、だれもが知っています。そして、そうすることは、高い技術を必要とする高価な武器を製造するよりも、はるかに簡単であり、容易であることをも、みな知っています。そうなれば、だれも戦いのことを学ぶ必要がなくなり、高性能で高価な武器を製造するための技術を学ぶ必要もありません。

 世界の国々が年々増額する軍事費を、干ばつや洪水の災害で食料難に苦しむ人たちのパンを購入するために用いるならば。土地を失い家を失ってさまよう難民たちのテントや飲み水のために用いるならば。貧しい地域の子どもたちのミルクや薬のために用いるならば。ほかにももっともっと有益な用い方をいくつも挙げることができるであろうに。だれもがそれを知っており、そうしたいと願っているのに。多くの平和を願う人たちがそのように訴え、叫んでいるのに。機関銃ではなく、ペンを手にもって世界平和を訴える作家がいます。すべての武器を楽器にと歌う反戦平和歌手がいます。「世界に平和を」と祈る広島や長崎の子どもたちがいます。

 そうであるのに、なぜこの世界から戦争がなくならないのでしょう。なぜ、人間は戦うのでしょう。奪い合い破壊し合うのでしょう。なぜ、より悲惨で残酷で破壊的な戦いのために日夜研究を重ね、膨大なお金を投じるのでしょうか。 

聖書はそれが罪の人間の避け得ない現実だと言います。主なる唯一の神を見失い、神無き世界に住む罪の人間、神を畏れることをしない人間の罪の姿だと言います。そうです。人間には罪のゆるしの福音が必要です。主イエス・キリストの十字架と復活の福音こそが、真の平和への第一歩となるのであり、永遠の平和の土台となるのです。

 平和を祈るわたしたちの声は小さく、全世界には到底届かないでしょう。しかし、わたしたちの祈りをお聞きくださるのは天におられる父なる神です。父なる神はわたしたちの言葉にはならないうめきをも聞いてくださいます。すべての人の平和のための訴えを聞いてくださいます。そのことこそが、祈りの力なのです。そのことを信じて、わたしたちも祈りましょう。ご一緒に、「世界の平和を願う祈りを」祈りましょう。

(執り成しの祈り)

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞ、この世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今、切にあなたに祈り求めます。

世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 (「聖フランシスコの平和の祈り」から)

8月3日説教「神の福音のために選び出されたパウロ」

2025年8月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章6~11節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「神の福音のために選び出されたパウロ」

 先月から月1回の割で、ローマの信徒への手紙を読んでいます。キリスト教信仰とキリスト教教理の中心、または基礎を取り扱っている聖書ですから、短い聖句を取り上げて、一字一句を丁寧に、深く学んでいくことを心がけようと思っています。

 前回は1節の「キリスト・イエスの僕(しもべ)」の「僕」について学びましたが、もう少しこの言葉を掘り下げてみます。僕、奴隷のことですが、パウロは自分をローマ教会に自己紹介するにあたって、最初に「自分はキリスト・イエスの僕、奴隷だ」と言っているわけですが、これにはパウロのどのような信仰が言い表され、どのような意図、自己主張が含まれているのでしょうか。

 自分が「キリスト・イエスの僕」であるとは、「わたしの主はキリスト・イエスだけである」ということを第一に意味しています。わたしの主、わたしの所有者、わたしが服従すべき主、わたしの存在と命のすべてをささげてお仕えすべき主は、ただお一人、主イエス・キリストであるという信仰告白がここでは言い表されているのです。

 したがって、わたし自身はわたしの主ではない、この世のだれか、この世の何かがわたしの主であるのでもない、名誉や地位や財産がわたしの主であるのではない。あるいはまた、ローマ皇帝がわたしの主であるのでもない。わたしの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に復活され、それによってわたしの罪をゆるし、わたしに新しい命をお与えくださったナザレの主イエスこそが、わたしの唯一の主である。パウロはまず第一に、自分はそのような者であると言うのです。

 このパウロの自己紹介は、もちろん彼自身が自分をアッピールするために考えついたものではありません。彼がこれから語ろうとするこの手紙の中心的な内容そのものであるのです。6章1節以下で、パウロは主キリストから与えられる救いの恵みについて語りますが、その中で、人はみな罪の奴隷であったが、主キリストの十字架の死と復活によって、罪から解放されていると語っています。それゆえに、主キリストの救いを信じる信仰者は罪の奴隷から解放され、自由にされているのです。同じことを、コリントの信徒への手紙一7章22節ではこう言っています。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身とされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。」

 主キリストによって罪から解放され、自由にされた信仰者は、主キリスト以外の何ものの奴隷でもなく、すべての束縛から自由されているのであり、ただ主キリストの奴隷、僕であるということです。パウロはこの自由によって、何ものによっても妨げられず、自由に、大胆に福音を語り、喜びをもって神と臨人とに仕えることができたのです。

 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』という書物の冒頭に、次のような二つの命題を掲げています。一つは、「キリスト者はあらゆるものの最も自由な主であって、何ものにも隷属しない」。二つには、「キリスト者はあらゆるものの最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している」。そして、結論のところではこう言っています。「キリスト者は自分自身のために生きるのではなく、キリストと隣人のために生きる。そうでなければキリスト者ではない。信仰によってキリストに生き、愛によって隣人に生きる」。

 次に、「キリスト・イエス」についてですが、これについては何度も学んでいますので、簡潔にまとめておきます。「キリスト」はギリシャ語の「クリストス」ですが、これは旧約聖書のヘブライ語では「メシア」、油注がれた者と言う意味です。イスラエルでは、王、祭司、預言者がその務めに任じられる際に、頭からオリブ油を注がれるという習慣があり、終わりの日に神はイスラエルと世界を救うために、まことの、永遠の王、祭司、預言者であるメシア、油注がれた者をお遣わしになるという信仰から、メシア(ギリシャ語でクリストス)、救い主の到来を待望するという信仰がイスラエルに強くなりました。主イエスこそが、そのメシア・キリスト・救い主なのです。イエス・キリストという表現の中には「イエスこそがキリストである」という信仰告白が含まれているのです。

 「イエス」というお名前は、ギリシャ語では「イエスース」、これはヘブライ語の「ヨシュア、ヨシア」ですが、意味は「主は救いである」、ユダヤ人の一般的な名前ですが、主イエスの場合には、ルカ福音書1章31節にあるように、まだお生まれになる前から、主なる神がそのお名前を決めておられました。ということは、神はご自身がイエス「主は救いである」というお名前をお与えになったこの主イエスによって、実際に神の救いのみわざを成し遂げようとの、神の強い意志、永遠の救いのご計画をそこで明らかにされたのでした。

 キリスト・イエスという言い方と、イエス・キリストという言い方には、意味の違いはないと考えられます。4節と6節、7節では後者になっています。

 では次に、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」という個所を学んでいきましょう。先ほど、宗教改革者ルターの言葉を紹介しましたように、「キリスト・イエスの僕」とされた自由人は、神と隣人とのために、自由と喜びとをもって仕え、生きるという新しい務めを与えられます。それが、パウロの自己紹介の続きで明らかにされます。すなわち、罪の奴隷から解放され、自由人とされたパウロは、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」パウロであるのです。ここで言われている4つの言葉「神の福音」「選び出され」「召されて」「使徒となった」、それぞれの意味を考えながら、パウロが主イエス・キリストから託された務めについてみていくことにします。

 ギリシャ語原典の順序では「召されて」という言葉が最初にあります。同じ言葉が6節と7節でも用いられています。こちらでは、ローマの教会員について、「あなたがたは召されてイエス・キリストのものとなれた」、「あなたがたは召されて聖なる者となった」と言われています。パウロもローマの教会員も、そしてわたしたちもそうなのですが、共に「召された」者たちです。「召された」は受動態です。聖書の中で意味上の主語が隠されていて、受動態で言い表される場合は、ほとんどの場合、主語は神と考えられます。つまり、「神によって召されて」という意味です。また、「召す」と訳されている言葉は「呼ぶ」という意味です。

 パウロもローマ教会の使徒たちも、またわたしたちも、キリスト者はみな、神によって自分の名前を呼ばれ、神のみ前に呼び出されて、神に召された人たちです。自分の願いや意志とか好みとかによってではなく、あるいは何らかの能力とか資格とかによってでもなく、それらのすべてに先立って、神がわたしにみ声をかけてくださり、わたしの名を呼んでくださり、わたしを召してくださったのです。その招きに応答して、わたしはキリスト者となったのです。

 パウロがどのようにして召されたのかを見ていきましょう。使徒言行録9章に書かれています。彼はユダヤ教ファリサイ派の学者でした。律法を重んじるその信仰熱心から、キリスト教を激しく迫害していました。ある日パウロが迫害の息を弾ませながら、エルサレムからダマスコに行く途中、突然に天からの強い光に打たれて気を失い、地に倒れました。彼が再び立ち上がったとき、彼は復活された主イエスのみ声を聞き、その時から彼は主イエス・キリストの福音を宣べ伝える宣教者とされたのです。彼はキリスト教を迫害する者からキリスト教を宣教する者へ、彼自身が迫害される者へと変えられました。それは彼がもともと願っていたことではなく、むしろ彼の願いにまったく反して、主イエスの一方的な招きによることであり、天からの強い光による、神の圧倒的な力による呼びかけであり、招きだったのです。

 召されるということは直ちに、一つの新しい務め、使命を与えられることです。神の召しとは、神の務めへの召しです。ルターが言ったように、主キリストの僕となるということは、信仰によって喜んで主キリストに仕え、また愛によって隣人に仕える人になるということです。パウロは復活の主イエスと出会ったときに、全世界に福音を宣べ伝えるという使命を与えられました。それをパウロのここで「使徒となった」と言います。

 使徒とは、遣わされた者という意味です。主イエス・キリストによって遣わされた、主イエス・キリストの全権大使として、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を携えて、全世界のすべての人々に罪のゆるしと救いを宣言し、語り伝えることが使徒の務めです。それゆえに、使徒の背後には。彼を遣わした方、主イエス・キリストの権威があります。その恵み、力、光栄があります。パウロはその権威によって、今、ローマの教会に語ろうとしているのです。彼がこれから語る内容は、彼自身に関することではもちろんありません。彼が発見したり、作り出した真理とかでもなく、あるいはだれか人間の知恵とかによる教えでもありません。彼が語るべき言葉は、彼を派遣された主イエス・キリストが語れと命じた神の言葉であり、主イエスご自身がその十字架の死と復活によって全世界のすべての人たちのためになし遂げてくださった罪のゆるしと救いの出来事であり、主イエス・キリストの福音以外ではありません。

 次は、「選び出され」についてです。これも受動態で、意味上の主語は神です。神によって選び出されたということです。パウロは自分の選びについて、ガラテヤの信徒への手紙1章15、16節でこう語っています。【15~16節】(343ページ)。神の選びは、人間の側の能力や資格、条件の一切に関係なく、神の側からの一方的な恵みの選びです。預言者エレミヤの選びについてはこう言われています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者とした」(エレミヤ書1章5節)。神の選びは人間のすべてのことに先立つ、神の先行的な選びです。ここに、わたしたちの選びの確かさがあるのです。わたしが神よって選ばれてキリスト者とされているという選びの確かさは、神ご自身が保証しておられるのです。

 「選び出された」という言葉には、分離された、聖別されたという意味があります。『口語訳聖書』では「選び分かたれ」と訳されていました。キリスト者は主キリストに属する者たちですから、もはやこの世に属する者ではありません。この世から選び分かたれ、神にささげられたもの、神によって生き、死ぬ者とされているのです。ここにこそ、わたしたちキリスト者の永遠の幸い、祝福があるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはみ子・主イエス・キリストによってわたしたち一人一人を召し、選び、あなたに救われた民として教会にお集めくださいました幸いを覚え、心から感謝をささげます。わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように、聖霊によってわたしたちを強くとらえてくださり、み国が完成される日までお導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが唯一の主なる神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。