2025年8月31(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:イザヤ書56章1~8節
使徒言行録15章6~11節
説教題:「エルサレム使徒会議でのペトロの証言」
使徒言行録15章に記されているエルサレム使徒会議が開催されたのは、パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行が終わって間もなく、紀元48年か49年と推測されています。主イエスの十字架の死と復活、そしてペンテコステの聖霊降臨とエルサレム教会誕生が紀元30年ころとすれば、それからわずか20年足らずの間に、教会は驚くべき発展と成長を遂げてエルサレムから北のサマリア地方、さらにはその北のシリア州へ、その中心はパウロとバルナバが属していたアンティオキア教会でしたが、そしてさらにその北の小アジアの各地へと拡大していったということを、わたしたちはこれまで読んできました。
このような教会の急激な成長・発展のエネルギー源は、神の言葉そのものの力と命であり、主イエス・キリストの福音の恵みの豊かさであり、そして聖霊なる神のお働きであるということをも、わたしたちは何度も確認してきました。神の言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはありません。聖霊は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神であられます。そのことは、今日のわたしたちの時代にも全く変わりません。わたしたちもまたそのことを固く信じて、福音宣教の務めに仕えていきたいと思います。
主キリストの福音がパレスチナ地域から全世界へと拡大していったことは、同時に、ユダヤ人からユダヤ人以外の異邦人へと広がっていったことでもありました。そしてそこから、いわゆるユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に、信仰理解の違いが生じようになりました。15章1節にこのように書かれています。【1節】。ユダヤ人キリスト者は、生まれて8日目に男子はみな割礼を受けていましたが、異邦人キリススト者にはその習慣はありません。割礼はユダヤ人が神に選ばれ、神の契約の民となったことのしるしとして、アブラハム以来最も重要な慣習として守り続けてきた儀式です。割礼を受けていない異邦人キリスト者も割礼を受けて、旧約聖書以来の神の契約の民の仲間に加わらなければ、洗礼だけでは不十分だと、ユダヤ人キリスト者たちは考えたのでした。
エルサレム教会はほとんどがユダヤキリスト者でしたから、そのような意見が特に強く、一方、アンティオキア教会の多くはギリシャ人で、割礼を受けていない人がほとんどでしたから、エルサレム教会から来た人たちがアンティオキア教会にやって来て、「あなたがたも割礼を受けなければ救われない」と主張したということです。そこで、アンティオキア教会を代表するパウロやバルナバとエルサレム教会から来た人たちとの間に激しい論争が生じました。そこで、この問題を協議するために、エルサレム教会に集まって教会会議を開催することになりました。これがエルサレム使徒会議です。
6節にこう書かれています。【6節】。この教会会議に出席した代議員は「使徒たちと長老たち」と書かれています。22節でも、使徒たちと長老たちと言われています。使徒とは、教会の中で主に説教の務めを担当し、時には教会の外へ出張伝道の働きをする務めを指し、長老とは、教会の中で選ばれ、信徒の教育や指導、貧しい人たちへの配慮などを担当していたと推測されます。説教をする、いわば聖職者だけでなく、教会で選ばれた長老の代表者をも加えた教会会議であったと推測できます。
これは、今日のわたしたちの教会、日本キリスト教会の長老制とほぼ同じです。説教職の牧師だけで会議をする監督制ではなく、牧師と信徒全員が集まる会衆制でもなく、牧師と教会で選ばれた長老の代議員で会議をする長老制をわたしたちの教会が採用しているのは、聖書に記録されている初代教会の教会運営の在り方に最も近いからです。
アンティオキア教会の使徒職はパウロとバルナバ、長老職は2節にあるように数名が出席し、エルサレム教会からはおそらく主イエスの12弟子を受け継ぐ使徒たち、そのリーダーはペトロですが、それから教会で選ばれた長老たち、彼らが最初に選ばれたのは、6章1節以下にある最初の殉教者となったステファノをはじめとする7人でした。また、13節で発言しているヤコブ、この人は主イエスの実の弟で、主イエスの復活ののちにエルサレム教会員となり、このころはペトロと共に教会の指導的な立場にありました。彼はエルサレム教会の長老であったと思われます。二つの教会以外に他の地域からの出席者があったのかどうかについてははっきりしませんが、このエルサレム使徒会議での決議事項は当時の世界の諸教会全体の決議として公認されたことが、22節以下の使徒書簡が諸教会で回覧されたことから推測できます。
では次に、7節からのペトロの証言の前半について読んでみましょう。【7~9節】。ペトロは主イエスの12弟子のひとりであり、エルサレム教会のリーダーでした。彼はユダヤ人であり、割礼を受けたキリスト者でしたが、彼は5節のファリサイからキリスト者になった人たちとは違った意見を表明します。ペトロがここで証言している出来事は、10章に詳しく書かれていた、カイサリアでのコルネリウスと彼の一族が集団で洗礼を受けたことです。コルネリウスはローマ軍の百人隊長でした。ユダヤ人ではない異邦人でしたが、ペトロと出会い、ペトロの働きによって、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰へと導かれたのでした。これは、最初の異邦人伝道の大きな成果として、使徒言行録ではかなり長い10章全体をさいて記録しています。主なる神はこの最初の異邦人伝道のために、ペトロをお用いになってのです。
それを簡略に振り返ってみましょう。ある日、ペトロは不思議な幻を見ました。空から大きな入れ物が降りてきて、その中にはユダヤ人が食べてよいと律法で定められていた清い動物と。食べるなと命じられていた汚れた動物が一緒に入っていました。その時、神はどの動物もすべては清い動物になったのだから、どれでも食べなさい、と言われました。同じことが3度もあったので、ペトロはそのことの深い意味を考え、これは神が今まではユダヤ人と異邦人とを区別しておられたが、主イエスが全人類の救い主となられたのだから、今はその区別がなくなった。すべての人が神の救いへと招かれている。そのことを、神はこの不思議な幻でお示しくださったのだということに、ペトロは気づたのでした。
そして、彼は異邦人コルネリウスの家に入り、主イエスの十字架の死と復活の福音を語りました。10章44節以下を読んでみましょう。【44~48節】(234ページ)。
このようにして、神はユダヤ人キリスト者であるペトロをお用いになって、異邦人であるコルネリウスとその一族に聖霊をお授けになり、主イエス・キリストを信じる信仰をお与えになり、彼らの罪をおゆるしになって、神の国の民にお加えになったのです。神はユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、したがって、割礼があるかないかにも関係なく、律法を守っているかどうかにも関係なく、主イエスの福音を信じる信仰だけによって、信じる人に聖霊を注ぎ、救いの恵みをお与えくださったのです。ペトロはそのことを彼自身が体験し、知らされたのだと、ここで証言しているのです。
ペトロは続けてこういいます。【10~11節】。「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」とは、イスラエルの民に与えられた「律法」のことです。ペトロはユダヤ人が重んじていた律法を、だれもそれを負うことができない、つまり、だれもそれを完全に守り行うことができない重荷であると言うのです。これは主イエスご自身のお考えと一致しています。主イエスはマタイ福音書23章で、律法学者たちを批判してこのように言われます。「彼らは追いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない」(23章4節)と。
律法は神がイスラエルにお与えになった戒めです。それはイスラエルが誤った道に進まないように導く、いわばたずなのようなものでした。また、律法はだれもそれを完全に守り行うことができると誇ることができない、いわば高いハードルでもあり、重荷、軛でもありました。なぜならば、だれも完全に神のみ心を行うことができず、律法を行おうとすればするほどに、律法を完全に行うことができない人間の罪が明らかにされるからです。パウロがローマの信徒への手紙3章20節で、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と書いているとおりです。
主イエスはそのような律法の重荷からイスラエルの民と全人類とを解放するために、この世界に来てくださったのです。マタイ福音書11章28以下で、主イエスはこうに言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(28~30節)。
主イエスご自身が、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、だれも人間が行うことができなかった律法を完全に成し遂げられました。したがって、もはやだれも律法を行うことによって救われる道を歩む必要はなくなり、主イエスを信じる信仰によって救われる道が開かれたのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、だれ一人律法の重荷やくびきを負う必要は、もはやありません。パウロは、ローマの信徒への手紙3章22節以下でこのように書いています。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべての与えられる神の義です。……ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(22~24節)。
使徒会議の証言に立ったペトロは、11節でこう言います。【11節】。ユダヤ人も異邦人・ギリシャ人も、そしてわたしたち一人一人も、ただ神の恵みによってのみ、そしてこの救いを信じる信仰によってのみ、神のみ前に義とされ、罪ゆるされ、救われるのです。その救いの真理を、ペトロはコルネリウス一族の異邦人伝道によって経験したのでした。このペトロの証言によって、ユダヤ人と異邦人の救いに関する論争がテーマであったエルサレム使徒会議の議論に終止符が打たれ、会議の出席者全員がこの救いの真理を承認したのでした。そしてそれが、今日の全世界の救いの真理として、すべての教会で信じ告白されているのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは、かくも偉大であり、永遠であり、確かな真理であります。あなたは罪びとであるわたしたちを罪から救うために、あなたの聖なるみ子を十字架におささげくださるほどに、わたしたちを愛してくださいました。あなたのこの大きな愛からわたしたちを引き離すものは、何もありません。罪も死も、この世の悪の力も、どのような試練や災いも、この救いの真理からわたしたちを引き離すことができないことを、固く信じさせてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
