10月26日説教「あなたの内側を清めなさい」

2025年10月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章1~9節

    ルカによる福音書11章37~44節

説教題:「あなたの内側を清めなさい」

 主イエスが、あるファリサイ派の人の家に招かれ、食事をされたとき、食前に手を洗わなかったことから、ファリサイ派との間に論争が起こったことが、37節から書かれています。主イエスはファリサイ派の人たちの偽善的な信仰を見抜かれ、彼らに厳しい非難の言葉を語られました。40節では、彼らを「愚か者たち」と呼び、また42節、43節、44節では、彼らを「不幸だ」と決めつけています。「不幸だ」と訳されている言葉は、もう少し厳しい響きを持っています。『口語訳聖書』では「災いだ」と訳されていました。「災いだ」というこの言葉は、主イエスがお語りになった「幸いだ」という言葉と対照的な意味を持っています。「幸いだ」は、天の父なる神から救いと祝福を約束され、その救いへと招かれている信仰者の幸いを意味していますが、それに対して、「災いだ」は、神の最終的な救いを拒んでいる、あるいはそれから外れている滅びの状態、神の永遠の裁きによって呪われている状態を意味している言葉なのです。主イエスは客人として招かれているファリサイ派の人の家で、「あなたがたは愚か者だ」「あなたがたは災いだ」と言われたのです。これはなんという失礼で、また厳しく、激しい言葉でしょうか。

 わたしたちはこの箇所を読むときに、主イエスのみ言葉の厳しさ、裁きの性格を見るように思います。多くの人が主イエスに対して抱いているイメージは、温厚で寛容なお心を持ち、わたしたちにゆるしと慰めのみ言葉をお語りくださる方というのが一般的だと思います。確かに主イエスはそのようなお方ではありますが、それと同時に、主イエスは厳しいお言葉で怒られ、裁かれ、災いをもお語りになります。そして、そのような温厚さと厳しさは、単に主イエスの人間としての性格や感情の二面性というのではなく、そのいずれもが父なる神の権威に基づくものであり、また主イエスの救いのみわざそのものなのです。主イエスがわたしたちを罪から救おうとなさるその熱心さ、あるいは確かさ、豊かさの現われなのです。主イエスは父なる神の権威によって、わたしたちに罪のゆるしと慰めのみ言葉をお語りになり、また、神の権威によってわたしたちの中に潜む偽善を見抜き、裁きのみ言葉をお語りになるのです。主イエスのみ言葉聞くときには、わたしたちはいつでも神の権威の前に立たされ、恐れおののかざるを得ないのです。

 詩編130編の詩人はこのように叫んでいます。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」と。これはわたしたちの叫びでもあります。しかしまた、わたしたちはこの詩人と共に、続けてこう告白しなければなりません。「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」と。わたしたちは今、わたしの中に潜む偽善と罪を見抜き、裁かれる主イエスのみ前に恐れおののきつつ、しかしまた、わたしたちのすべての罪をゆるされる主イエスのみ前に感謝と平安に満たされながら立つことが許されているのです。

 では、きょうの箇所を読んでいきましょう。【37節】。ルカ福音書では主イエスが食事の席に招かれたという場面を数多く記しています。5章29節以下では、12弟子の一人となった徴税人レビの家で、7章36節以下では、あるファリサイ派の人の家で、14章1節以下では、ファリサイ派の議員の家で、食卓に招かれたことが書かれています。また15章2節には、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とファリサイ派の律法学者たちが主イエスを非難したことが書かれています。主イエスは当時の宗教的指導者たちの家や、社会では罪びととして見捨てられていた人たちとも、しばしば食卓を共にされました。食卓を共にすることは、最も親しい交わりのしるしでした。主イエスは多くの人たちと食卓を共にすることによって、その人たちの近くに接近され、その人の心の中に入られ、親しい交わりを持たれました。そのもっとも典型的な場面は、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐であったと言えましょう。わたしたちにとっては聖餐式がそうです。

 ところで、そのような親しい交わりのしるしである共同の食卓の席では、必ずと言ってよいほど、何かの対立や論争が引き起こされるということを、わたしたちは確認することができます。きょうの箇所では、主イエスが食前に手を洗わなかったということからファリサイの人との間に論争が起こり、その論争の中で主イエスはファリサイ派の偽善的信仰を明らかにし、また本当に清めるとはどういうことなのかをお語りになりました。5章27節以下の徴税人レビの家での食事のときには、ファリサイ派と律法学者たちから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」という非難の声が上がったことが書かれています。その非難に対して主イエスは、「健康な人には医者はいらない。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と宣言されました。7章36節以下のあるファリサイ派の人の家での食事のときには、一人の罪深い女の人が香油を主イエスに振りかけたことから、このファリサイ派の人が、「この人が預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言って主イエス非難したことが書かれています。主イエスはその時、「この人は多くの罪を赦されたから、多くの愛をわたしに示した」と言われ、女の人に「あなたの罪は許された」と宣言されました。更に、14章1節以下の安息日に、あるファリサイ派の人の家での食事のときには、主イエスがその席にいた水腫を患っている人をいやされたことから、安息日に病気をいやすことが安息日の律法に違反しているかどうかという論争が始まりました。そこで、主イエスは「安息日に自分の息子が井戸に落ちたら、すぐに引き上げてあげないことがあろうか」とお答えになりました。主イエスは安息日にこそ、わたしたちの命を救うためのみわざをなさるのだということが、そこでは明らかにされています。

 このように、主イエスを中心にした食卓においては、ある種の論争が起こり、その論争をとおして、人間の中に潜む罪が明らかにされ、また真実が何であるかが明らかにされるということが、それぞれの場面に共通しています。主イエスがわたしたちと共に食卓を囲まれるとき、主イエスはわたしたちの心の中にまで入ってきてくださいます。わたしたちがその主イエスを、心を開いて受け入れるならば、主イエスは真実の救いへとわたしたちをお招きくださいます。けれども、心を閉ざし、かたくなに罪の中にとどまり続けるならば、主イエスの裁きが明らかにされます。そこでは、人間の中に潜んでいる罪や偽善が浮かび上がってくるのです。

 次に、38節を読みましょう。【38節】。ファリサイ派は旧約聖書の律法を厳格に守り、それだけでなく、律法をさらに細分化して多くの細かな規則を作っていました。食事の前に念入りに手を洗うこと、また食器などもていねいに洗い清めることもその一つでした。これは、衛生上の理由からではなく、宗教的な汚れから身を清く保つためでした。外出中に気づかずに宗教的に汚れたものに触れているかもしれない。その手で食事をすると、口からその汚れが体の中に入ると彼らは考えました。それを防ぐために、律法には書かれていないことまで細かに規定して、手を洗い、身を清めることに気を使っていたのでした。それが神に対する信仰だと考えていたのでした。

 しかし、主イエスは彼らの偽善的な信仰を見抜かれます。【39~41節】。ファリサイ派の人たちは手を洗ったり食器を清めたりして、外側から入ってくる汚(よご)れを防ぐことによって、あたかも自分の内側も清められたかのように錯覚しているが、しかしそれは、自らは清い罪のない人間であるかのように思い込み、自分の罪を隠そうとしている傲慢でかたくなな人間であることの証拠であると主イエスは言われます。それこそが主なる神に対する反逆なのであり、罪なのです。そもそも、罪や汚れは人間の外側から入ってくるものではなく、ましてや口から食べ物を介して入ってくるものでもありません。罪や汚れは、人間の中にあるものであり、その人自身の中に住みついているのであり、その人の心と魂が神から離れている、神のみ心に背いているところに人間の罪があるのであり、外側を洗い清めて、それで罪がないと考えることは、彼らの偽善であり、悪意に満ちた罪そのものなのだと主イエスは言われるのです。

 では、清くなるとはどういうことなのでしょうか。どうすれば罪や汚れから清められるのでしょうか。主イエスはまずわたしたちの目を創造者なる神に向けさせます。「外側をお造りになった神は、内側をもお造りになったではないか」と。わたしたちの外なる体、肉体も、また内なる心、魂も、共にみな神が創造されたものです。両者を分離することはできません。わたしたちの体も心も、造り主なる神のものです。その全体をもって、造り主なる神を崇め、神に感謝し、お仕えする者として、神は人間を創造されたのです。

 更に、主イエスは続けて「器の中にある物を人に施せ。そうすればあなたたちのすべては清くなる」と言われました。「器の中にある物」とは、直訳すれば「内にあるもの」で、『新共同訳聖書』ではそれを器の中にある物と理解して翻訳していますが、むしろ40節との関連から理解すれば、神の創造された人間の内側、その人の心と魂とを神に差し出せと命じられていると理解すべきと考えます。すなわち、あなたの内側である心と魂とを、あなたの外側である体と一緒に、主なる神に差し出しなさい、ささげなさい。そうすればあなたのすべてが清くされる、という意味に理解するのが良いと思います。神はわたしたちの罪に汚れた心を体をも、主イエス・キリストの十字架の血によって清め、受け入れてくださいます。

 42節からはファリサイ派に対する三つの「不幸だ」が語られています。最初にお話ししましたように、これは神の滅びの運命にある災いを語る厳しい裁きの言葉です。その内容については次回45節以下を学ぶ際に確認しますが、ここでもファリサイ派の偽善的で、自らの罪を覆い隠そうとする傲慢な思いだけでなく、他の人をも罪へと導く悪意に満ちた罪が語られています。

 42節で主イエスは、「正義の実行と神への愛」とを語っておられます。わたしたちの救い主であられる主イエスこそが、神の義を全うされ、神の愛に生きられ、十字架への道を進み行かれました。主イエスが十字架で成就してくださった神の義と愛によって、わたしたちは罪ゆるされ、救われています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしの中に潜んでいる傲慢な思いやかたくなな思い、罪や汚れを、どうか主キリストの血によって清めてください。そして、わたしたちをあなたのみ心にかなう者たちとして受け入れてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

10月19日説教「預言者イザヤが望み見た永遠の平和」

2025年10月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              伝道礼拝(世界の平和を願って)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    エフェソの信徒への手紙2章14~18節

説教題:「預言者イザヤが望み見た永遠の平和」

 きょうの伝道礼拝では、「平和」をテーマにしています。聖書辞典によれば、『新共同訳聖書』で「平和」という言葉が用いられている回数は、旧約聖書では217回、新約聖書では87回、計およそ300回ということになります。平和を意味する旧約聖書のヘブライ語は「シャローム」、新約聖書のギリシャ語は「エイレーネー」ですが、原語が同じでも「平和」と訳されたり「平安」と訳されたりしますし、平和を意味する言葉が用いられていなくても、平和を語っている個所も数多くありますので、数だけで論じることはできませんが、いずれにしても、聖書は全体的に、平和について深い関心を寄せ、平和を深く教えていると言えますし、わたしたちが信じている神、そしてわたしたちの救い主であられる神のみ子、主イエス・キリストは平和の王、平和の主であることは言うまでもありません。

 聖書が教える平和には、大きく3つの分野、領域があります。一つは、国と国、民族と民族、また人と人とが争わず、互いに相手を敵視して戦うことなく、互いに協力し合い、共に生きていることが平和です。二つには、社会の中で正義が行われ、差別や格差、偏見といったゆがんだ秩序がなく、特にイスラエルの社会では、弱い立場にある子どもや夫に死別した寡婦、老人、また他国からの寄留者などが保護され、正しく支援されてる社会秩序を平和と言います。単に争いや戦争がないというだけでなく、社会的な不正や権力者による搾取がない社会のことです。三つ目には、一人一人の人間、わたしが、本当に平安な状態にあることです。それは、主なる神とわたしとの関係に破れがないこと、神が常にわたしと共におられること、わたしが常に主なる神に従い、神のみ心を行い、神に感謝をして生きていることによって与えられるのですが、わたしがそのような平安の中にあること、それが平和です。そのような3つの分野、領域の平和ということを考えながら、きょうはイザヤ書が教えている平和について学んでいきたいと思います。

 8月10日の秋田教会平和祈念礼拝のときには、イザヤ書2章1~5節のみ言葉を学びました。もう一度その箇所を読んでみましょう。【1~5節】(1063ページ)。その時には紹介しませんでしたが、実は、ニューヨークにある国連本部に「イザヤの壁」と呼ばれる場所があり、その壁にこの4節のみ言葉「彼らは剣を打ち直して……もはや戦うことを学ばない」と英語で刻まれているそうです。国連に加盟している193か国の指導者たちが、重要な会議に出席するためにここに集う際に、彼らはこの壁に書いてあるイザヤ書のみ言葉をどのように読むのでしょうか。年々、核兵器の保有数を増やし、より大きな空母を製造し、より強力なミサイルを増設し合っている国々の代表者たちが、この聖書のみ言葉をどう理解するのでしょうか。「もはや戦うことを学ばない」と言われる神のみ言葉に真っ向から対抗して、「もっともっと戦うことを学ぼうではないか」と協議するのでしょうか。しかし、そうであってはならないと、わたしたちは言い続けなければなりません。キリスト教国と言われる国であろうと、そうでない国であろうとも、国連の建物に刻まれているこの聖書のみ言葉に、この建物に出入りする人は皆、責任を負わなければならないのではないかと、わたしたちは訴え続けなければなりません。たとえ、秋田に住むわたしたちの声が遠くて小さくあったとしても。

 きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書9章4節に、同じようなみ言葉が書かれています。【4節】。2章では、戦争で兵士が手に持つ剣と槍が、農民が手に持つ鋤と鎌に打ち直されると言われていましたが、ここでは兵士自身が身に着けていた靴と軍服が火で焼き尽くされると書かれています。これによって、もはや再び兵士がそれを身に着ける必要がなくなった。今や戦争は終わって、永遠の平和が訪れたからだということが表現されているのです。

 預言者イザヤの時代、紀元前8世紀のイスラエルは、まさに激動の時代、戦争の時代でした。イスラエルの北には、当時近東諸国に破竹の勢いで支配を広げていたアッシリア帝国が迫り、南にはエジプト第25王朝が、馬にひかれた戦車を誇り、いまだ強い権力を保持していました。イスラエル北王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダもアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。

1節の、「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」とは、常に戦争の脅威に脅かされ、文字どおりに日夜死と隣り合わせで生活しているイスラエルのことを言っていると思われます。わたしたちが生きている今日にも、それと同じ状況にいる人々が多くいることを、わたしたちは見ています。

 そのような戦国の時代に、預言者イザヤは、もはや再び武器を持たない、もはや再び軍服を着ない、平和を預言したのでした。イザヤが預言し、望み見ていたこの平和は、当時の指導者たちが考えていた国の課題とは、根本的に違っていました。イザヤが預言者活動をしていた紀元前742年から701年までの40年間にイスラエル南王国ユダの王はウジヤからヨタム、アハズ、ヒゼキヤと変わりましたが、それらの王たちは、ある時にはアッシリアに貢物を送り、ある時にはエジプトの戦車を頼り、またある時には他国との同盟に助けを求めていました。いずれの王たちも、それが国に平和をもたらすと考えていました。イスラエルだけでなく、周辺の他の諸国も同様でした。そのことは、今日の世界の諸国の指導者たちも同じであると言えます。

 けれども、イザヤはまったく違った平和を預言したのです。軍備の増強ではなく、どこの国と手を組むかでもない、そのような戦いの勝利のための手段ではなく、戦いそのものを放棄する、戦いを止めて、もはや戦いのことを学ばない、戦いの準備も必要がない、そのような平和を預言したのです。

 では、イザヤが預言した平和とはどのような平和のことなのでしょうか。その平和はどのようにしてやって来るのでしょうか。いくつかの基本的なことをまず確認しておきましょう。イザヤ書2章の預言では、4節の冒頭に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と書かれてあるように、主なる神が諸国の最終的な裁判官としてお裁きになることを信じて、すべての国民が一人の主なる神を礼拝する神の民となることから、真の平和が来るであろうと教えています。

 また、9章では、天におられる神が天からまことの光で照らしてくださり、大きな喜びで満たしてくださるときに、諸国の間の憎しみや不安、恐れが消え去り、そこにまことの平和が訪れるであろうと預言されています。後半の5節以下では、そのとき一人のみどり子がわたしたちのために誕生し、その男の子によって全世界が治められ、永遠の平和が打ち立てられ、その平和の国は永遠に続くであろうと預言されています。

 以上の三つのこと、すなわち全世界のすべての民が一人の主なる神を礼拝する一つの神の民となること、天におられる神から与えられるまことの光と喜びにすべての民が満たされること、そして一人のみどり子の誕生によって築かれるであろう永遠の王国、これが平和の基本であると教えられます。

 けれども、まだ何か漠然としており、神を信じているイスラエルにとってはそうであるでしょうけれど、他の諸国に同じことを強要することはできないであろうし、そもそもイザヤの時代に、その預言がどのように成就されたのかということも、わたしたちにははっきりとは分かりません。イザヤの平和の預言には現実性が乏しい、あるいは理想論だと反論する人もいるでしょう。

 そこで、今日の聖書学者はこう考えます。このイザヤの預言は2章2節にあるように、「終わりの日」の預言であり、いわゆる終末論的に理解されなければならない。終末の時の理想の平和がここでは語られているのだと。またこう考えます。9章の「一人のみどり子」とは主イエス・キリストのことであり、この預言が新約聖書に至って、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就されたのだと。

この二つの的理解に、わたしたちは100パーセント同意してよいでしょう。そして、その理解を更に深めていくことが大切と思われます。イザヤの預言には、確かに終末論的な要素が濃くあります。今この時に、この時代の中で、すべてのことが直ちに実現することを預言しているのでは必ずしもありません。とは言っても、キリスト教の終末論は、現在のことには関連しない未来のことだけを言うのではありません。神が、未来にこうなるであろう、終わりの日にはこのことが起こるであろうと言われるときに、信仰者はその未来を、いわば先取りして、未来に起こるべきことが今すでに起こると固く信じて、あたかもそのことが今すでに起こっているかのように固く信じて、行動をするのです。それがキリスト教の終末論であり、イザヤの預言もまたそのように理解されるのです。

まだ、世界の多くの国々は武器を増強し、核兵器までをも無限に増やそうとしています。宗教の違いと、そこから生じる理解の違いがあり、それはますます深まっていくように思われます。世界の現状はイザヤの平和預言からは遠く、遠くあるように思われます。けれども、わたしたちはイザヤの預言から、真の平和がどこにあるのか、どのようにしてその平和がこの地に築かれるのかを、はっきりと示されているのです。その平和のために、祈ることへと導かれているのです。そして、その平和は確かに主なる神によってこの地に、全世界にもたらされるのです。

エフェソの信徒への手紙2章14節14節以下にはこのように書かれています。【14~18節】(354ページ)。イザヤが預言した真の平和、永遠の平和は主イエス・キリストによって成就された、実現した、完成したのだと、わたしたちは信じます。そして、この福音を全世界に宣べ伝えることが、この平和の中にすでに生かされているわたしたちに託された使命なのです。教会の使命なのです。教会は、また教会に招かれているわたしたち一人一人は、この使命に生きることによって平和のために仕えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、永遠の平和の主であれれる主イエス・キリストにあるまことの平安をわたしたちにお与えください。また、世界のすべての人々にお与えください。特にも、きょうの命が脅かされ、不安と恐れの中で暗闇を歩んでいる人々を、天からの光によって照らし、希望と平安とをお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

イザヤ書の平和思想

〇2章1~5節、平和という言葉はない。終末論的。エルサレム・シオン伝承。主の律法と礼拝。武器から農具へ。戦うことを学ばない、永遠の平和。

〇7章14節、「インマヌエル預言」。

〇8章8~10節、インマヌエル、すべての戦略の放棄。

〇9章1~6節、「平和の君」の誕生。

〇11章1~5節、エッサイの株から出る芽。

〇11章6~10節、狼と小羊とが共存する。

〇26章1~6節、主に信頼する平和。

〇26章12節、平和をお授けください。

〇32章15~20節、霊が下される時の平和。

〇48章17~19節、「平和は大河のように」。

〇54章13~17節、神の義による平和。

〇57章18~21節、神のいやしと平和。

〇66章12節、「平和を大河のように」。

10月12日説教「出エジプトと初子の奉献」

2025年10月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記13章1~16節

    ルカによる福音書2章22~32節

説教題:「出エジプトと初子の奉献」

 イスラエルの民はアビブの月の15日早朝に、それまで400年以上寄留していた奴隷の家エジプトを脱出し、神がお導きになる約束の地カナンに向けて旅立ちました。彼らがエジプトに滞在していた期間は出エジプト記12章40節によれば430年、創世記15章13節の預言によれば400年でした。二つの説があったようです。アビブの月は、のちにはニサンの月と言われるようになりましたが、今日の太陽暦では春3月から4月にかけてのころです。この月がイスラエルにとっての新しい年の初め、正月に定められたことが、すでに12章1節に書かれていました。なぜならば、神の民イスラエルは出エジプトから始まったからです。出エジプトはイスラエルの民誕生の原点であり、彼らの歩み、歴史、そして信仰の原点であるからです。それはちょうど、主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活がわたしたちキリスト者の命と存在、信仰と生活の原点であるのと同様です。

 出エジプトの出来事はイスラエルののちの時代にまで続く重要な三つの祭り、祭儀とも言いますが、それと関連づけられています。一つは、イスラエルで最も重要な祭りである過越し祭、二つめは、過越し祭のあと7日間続く除酵祭(種入れぬパンの祭り)、そして三つめは初子(ういご)の奉献です。初子の奉献については、きょうのテキストである出エジプト記13章1~2節と、少し飛んで11~16節に記されています。3節から10節は除酵祭に関する内容です。初子の奉献については、ほかに22章28節以下や34章19節以下、それにレビ記、民数記にも初子奉献の規定が書かれています。過越し祭と除酵祭については、すでに学んだ12章と13章3節以下に繰り返して書かれていましたし、旧約聖書全体で幾度となく言及されていて、イスラエルにとって重要な祭りであったことが分かります。イスラエルの民はこれらの祭り、祭儀、礼拝をとおして、毎年毎年、また安息日ごとに、出エジプトの出来事を思い起こして、自分たちの命と存在の原点とその歩みの原点へと立ち返り、そこに現わされた主なる神の恵みを感謝し、その神が今もなお自分たち一人一人と共にいてくださり、苦難や試練の時にも、救いのみわざをなしてくださることを信じ、告白したのです。

 では、きょうは初子の奉献について、それが出エジプトの出来事とどのように関連づけられているのかを学んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、出エジプトの出来事と初子の奉献との関連については触れられずに、一般的に人間と動物の初子は神のものであるので、それを聖別して神にささげるべきことが命じられています。11~13節でも同様です。ここではより詳しく、人間の男子で初めて生まれた長男と、家畜の最初に生まれたオスはすべて神にささげるべきことが命じられています。ただし、ろばは宗教的に汚れた動物とされ、神にささげることができないので、その場合には小羊によって贖うように定められています。贖うとは、神にささげるべきものを他の清い動物を代わりにささげることによって神から買い取るということです。

 また、人間の命はこれを殺して神にささげることはできませんので、他のもので贖わなければなりませんが、何によって贖うのかは、ここには明記されていません。民数記18章16節では、生後1か月後の男子を贖う金額は銀5シェケルとあります。1シェケルは10グラムほどと推測されます。また、民数記のこの箇所には、農作物や果物の初物もまた神にささげるべきと定められています。

 このように、初子や初物を特別視するという習慣は古代の他の民族にも一般的にみられます。特にイスラエルにおいては、人間の命はもちろん動物の命も、すべての命は神から与えられたものであるという信仰が強くありました。また、農作物や果物なども神から与えられたものと考えられました。そのために、初子や初物は特別に大きな神の恵みと祝福に満ちたものであって、それを感謝して神にささげることは最高のささげものであったのです。また、初子や初物を神に感謝してささげることは、そのあとに続く命と収穫もまたすべて神からの賜物であるという信仰告白であり、さらには、初子と初物にはそのあとに次ぎ次ぎと神の豊かな収穫と恵みが続くということの確かな保証でもありました。

 古い時代からあったそのような初子、初物を特別視する考え方に、出エジプトの出来事が結びついたのではないかと推測されています。きょうの聖書箇所の14~16節を読んでみましょう。【14~16節】。前の12章に書かれていたように、アビブの月の14日の夕暮れに、エジプトに寄留していたイスラエルの民は、家々で1頭の子羊を屠り、その血を家の柱とかもいに塗り、肉は種入れぬ固いパンと苦菜とを一緒に食べなさいと神に命じられていました。これがのちの過越しの食事です。この最初の過越しの食事は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から解放し、救い出してくださることを信じ、その前祝いとして、共同の食事を食べました。その夜、アビブの月の深夜、神から派遣された滅ぼす者によって、王ファラオの家からエジプト全土のすべてのエジプト人の家々の初子が、人も家畜もみな撃たれ、死んだために、エジプトに大いなる恐れと混乱が生じ、ついに王ファラオはイスラエルの民をエジプトから追い出すことにしたのでした。しかし、イスラエルの家々には小羊の血が塗られていたので、滅ばす者がその前を過ぎ越し、彼らの初子は守られました。

 このことから、子羊の血によってイスラエルの民の初子が贖われ、滅びから救われたと考えられ、それだけでなく、その子羊の血によってイスラエルの民全体がエジプトの奴隷の家から贖いだされたと考えられ、彼らにとっては初子は二重にも三重にも、主なる神のものであり、主なる神から賜った大いなる恵みと信じられるようになったのです。そこから、初子を神にささげるという儀式が出エジプトの出来事と関連づけられて行われるようになったと考えられます。

 ルカによる福音書2章22節以下によれば、主イエスの両親であるヨセフとマリアは生後40日が過ぎてからエルサレム神殿で清めの儀式と初子奉献の儀式を行ったことが書かれています。22、23節にこのように書かれています。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、エルサレム神殿に連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」。おそらく、このとき両親は初子の贖い金として銀5シェケルを神殿にささげ、幼子主イエスを贖って、神から買い戻したのであろうと思われます。

 主イエスの両親は旧約聖書の律法に忠実に従いました。主イエスご自身もまたそうであられました。主イエスもまた、というよりは、主イエスこそが完全な意味で、神の律法を成就されました。主イエスの両親は贖い金を神にささげて、神から買い戻したのですが、しかし主イエスご自身はご自分の全存在、全生涯を父なる神のためにおささげになられ、そしてついにはそのご生涯の終わりには、実際にご自身の命をおささげになられたのです。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられ、わたしたち全人類の罪の贖いのために、ご自身の命を十字架におささげくださったのです。出エジプトのときに、出エジプトの救いの出来事との関連によって定められた初子奉献の律法は、完全な意味で主イエスによって成就されたのでした。

 主イエスのご両親の初子奉献の場面で、もう一つ教えられることは、両親が幼子主イエスを抱いてエルサレム神殿に入ったときに、預言者シメオンがその主イエスを自らの腕に抱いてこのように言ったと、ルカ福音書2章29節以下に書かれています。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民の誉れです」(29~32節)。預言者シメオンは神がお遣わしになるメシア・救い主に会うまでは決して死なないとの神からのお告げを受けていましたが、今このとき、彼は幼子主イエスの奉献のこの時に、その神の約束が成就されたことを悟り、それによって彼の長い待望のときが終わり、彼の人生が満たされたことを知ったのです。わたしたち人間の人生、歩み、命は、救い主・主イエスと出会うことによって、本当の意味で満たされるのです。

 出エジプト記に戻りましょう。14節にこのように書かれています。【14節】。これと同じようなみ言葉は、8節では除酵祭に関連して、【8節】、また12章26節では過越しの食事に関連して、語られています。【26節】(112ページ)。過越し祭、除酵祭、そして初子奉献、これらはみな出エジプトという神の偉大なる救いと解放のみわざを覚え、感謝する重要な祭りとしてイスラエルの家庭で受け継がれ、また信仰の継承と子どもたちの信仰教育の場として毎年続けられてきたのです。それがのちには、エルサレム神殿での祭儀、礼拝の中で継承されていきました。そして、主イエスの十字架と復活によって、全人類の救いと解放が成就されたのです。

 16節に、【16節】。同じようなみ言葉は除酵祭に関連して8節にもありました。【8節】。「腕に付けて」とは、手に墨で何かの文字やしるしを書いたのであろうと推測しています。「額に付けて」とは、頭に何かの飾りをつけてそれを目と目の間に垂らしていたらしいと推測されています。9節の「口ずさむ」とは文字どおり出エジプトに関する何らかの文章を口で唱えることです。このように、手と目と口によって、出エジプトの神の救いの恵みを絶えず忘れないために、何かを身に着けていたようです。のちには、主イエスの時代も、また今日のユダヤ人もそうですが、テフィリンと言われる聖書のみ言葉を書いた紙を収めた小さな箱にバンドを付けて、手や額に巻き付けるという習慣になりました。手を伸ばして何かをつかもうとするとき、手首に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、目を動かして何かを見るとき、目の前に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、また口を動かして何かを発言するとき、いつも口ずさんでいた神のみ言葉を思い起こすため、イスラエルの民はそのような工夫をしました。わたしたちもまた、わたしが何かをなすとき、何かを話す時、何かを考えるとき、あらゆる機会に神の救いのみ言葉を思い起こすために、神のみ言葉をいつも身近に置いておく訓練をし、神のみ言葉を思い起こすように心がけたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉はわたしの足を導くともし火、わたしの道を照らす光です。どうか、いつもわたしたちにあなたの命のみ言葉を熱心に慕い求める信仰をお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

10月5日説教「わたしたちの主イエス・キリスト」

2025年10月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「わたしたちの主イエス・キリスト」

 使徒パウロがローマの信徒への手紙を執筆した主な動機の一つに、彼自身の自己紹介と彼が宣べ伝えていた主キリストの福音をローマの教会に知ってもらうことがありました。世界の中心都市であったローマに、パウロはまだ足を踏み入れたことがありませんでした。ローマの教会員との面識もほとんどありませんでした。パウロは当時、なんとかしてローマに行きたい。そこで福音を語りたい。それから、ローマを足掛かりにしてさらにその西の果てイスパニアまで伝道の範囲を広げたいとの切なる願いを持っていました(15章22節以下参照)。そこで、これから訪ねるローマの教会に自分のことを知ってほしい、いやそれ以上に、自分が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかを、ぜひとも知ってほしい、その思いがこの手紙を執筆する動機になったのです。

 手紙の冒頭から、パウロのそのような、はやる思いをうかがい知ることができます。彼は当時の手紙の書式を破って、まず自分の名前を書いた後で次に相手の名前を書くべきところを、1節の「神の福音」という言葉を受けて、2節からすぐにもその神の福音について語りだしているのです。それが6節まで続きます。7節になってようやく、手紙の受取人であるローマの教会の名前が出てきます。2節から6節までの長い挿入文によって、パウロは手紙の本文で書くべき神の福音について、主イエス・キリストについて書いているのです。

 きょうは3節から4節を学ぶことにします。【3~4節】。「神の福音」、福音とは良い知らせ、幸いな善きおとずれという意味ですが、それは「御子に関するもの」であると、パウロは言います。神のみ子である主イエス・キリストが神の福音の中心であり、全内容であり、神の福音そのものであると言うのです。ここで重要なポイントは、福音とは神のみ子である主イエス・キリストという、一人の人格的な存在者に関するものであるということです。たとえば、何らかの真理とか、哲学や思想とかではなく、また、金とかダイヤモンドとかの物質でもなく、あるいはまた、ある種の世界観や人生観とかでもなく、主イエス・キリストという一人の人間となられた神のみ子であり、まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリスト、神がこの世にお遣わしになられた一人の救い主、主イエス・キリストこそが、福音の中心、全内容、福音そのものであるということです。

 これは神の福音と言われているように、神を起源とし、神からやってくるものです。この世のどこかで創り出されたものではありません。この世にも福音と呼ばれるものがあるでしょうが、パウロが今問題にしている福音は、この世のものでも人間の発見でもなく、天におられる全能の父なる神から与えられる福音なのです。したがってそれは、すべての人にとっての永遠の福音です。神が、罪に支配されているこの世をお見捨てにならず、神を見失っているこの世界をなおもみ心にかけてくださり、この地に住んでいるわたしたち一人一人を愛してくださり、罪から救い出すためにみ子を世にお遣わしになられた、このみ子の派遣こそが神の福音なのです。

 わたしたちは福音を求めて遠くへ出かける必要はありません。それを探すために天に上らなければならないのでもありません。あるいはまた、それを受け取るために、何らかの資格や努力が必要だということもありません。神ご自身が、天から降って来られ、この地に降りて来てくださったのです。そして、神ご自身がわたしたちに近づいて来てくださり、わたしたちを尋ね求め、見いだしてくださったのです。ここに神の福音の初めがあります。そして、すべての人がこの福音を聞くことができるように、神はわたしたちに聖書を与え、また教会をお建てくださり、わたしたちひとり一人を礼拝へとお招きくださったのです。

 3節後半から4節では、み子主イエス・キリストの肉による存在と、聖なる霊による存在という、全く性質が違った二つの存在が一つの人格の中に共存していることが語られます。まず、肉という言葉ですが、これは聖書では、弱くもろいもの、やがて朽ちていくほかないもの、それゆえに死と滅びから逃れることができない人間の性質全体を表現しています。神のみ子はこの人間の肉を身にまとわれたということです。神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間と全く同じ肉の姿となられ、肉の存在としてこの世にお生まれになり、この世界の中で、罪びとたちの歴史の中で、一人の紛れもない人間として生きられたのです。神が人間となられたということです。これを受肉と言います。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4節にはこう書かれています。「時が満ちると、神は、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。また、ヘブライ人への手紙5章7節以下にはこうあります。「キリストは、肉において生きられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(7~10節)。このようにして、神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間を罪から救うために、わたしたち肉にある者たち、罪びとたちの一人となってくださったのです。

 「肉によればダビデの子孫から生まれ」とあります。マタイ福音書、ルカ福音書によれば、主イエスの父ヨセフはダビデの家系に属していました。ダビデ家のヨセフからお生まれになったということは、主イエスの誕生が旧約聖書の預言の成就であったことを語っています。サムエル記下7章に預言されているように、神はダビデ王に「あなたの家系から永遠の王が出るであろう」と約束されました。これをダビデ契約と言います。神は天地創造の初めから計画しておられた救いのみわざを、イスラエルの民の選びとダビデとの契約によって前進させ、ついに時満ちて、ダビデの子孫であるヨセフとマリアの子として、主イエスをこの世に誕生させました。それによって、ご自身の永遠の救のご計画を成就されたのです。主イエスは父なる神の永遠の救いのご計画の中で、肉となられ、まことの人となられ、クリスマスの日に誕生されました。そして、わたしたちのための救いを成就されたのです。

 「神の御子と定められた」とありますが、主イエスが復活によって始めて神のみ子になったということではありません。主イエスは永遠の始めから神のみ子でしたが、肉にある間は、そのことはいわば隠されていました。復活によって、神のみ子であることがはっきりと示されたという意味です。死から命を生み出される神の全能の力だけが、人間の罪と死とに勝利することができます。

 主イエスはこのように、全く違った二つの性質、二つの存在、肉にあるまことの人間としての存在と、神の霊によるまことの神としての存在、その二つの存在によって、わたしたちの救いを完全なものにしてくださったのです。主イエスはまことの人として、わたしたち人間の弱さや痛みのすべてを知っていてくださいます。そして、わたしたち罪びとたちの一人となってくださり、罪の重荷を担ってくださいました。

 しかしまた、主イエスはまことの神として、聖なる神の霊のみ力によって、肉なるものを打ち破り、罪と戦い、復活によって罪と死とに勝利されたのです。主イエスは人間としてのすべての試練や痛みを経験されたゆえに、試練や痛みの中にある人を思いやることができます。しかも、試練の中で父なる神の全き服従を貫かれて、十字架の死に至るまで従順であられることによって、罪と死とに勝利されたのです。それゆえにまた、試練の中にある人に勇気と希望を与え、試練に打ち勝つ力を与えることができるのです。

 4節の「死者の中からの復活」とある「死者」は複数形です。主イエスは死者たちの中から復活されたという意味です。十字架につけられ死なれた主イエスが三日目に復活されたということは、主イエスを信じるすべてのキリスト者たちの中から復活されたということであり、主イエスは罪のゆえに死すべきわたしたちすべての人間たちの、その代表として死なれたのであり、またその初穂として復活されたという意味です。主イエスの十字架の福音を信じるキリスト者にとっては、主イエスの復活はその初穂であり、またその保証なのです。わたしたちはまことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、罪ゆるされ、救われ、永遠の命の約束を与えられているのです。

 「この方が、わたしたちの主イエス・キリストである」とパウロは結んでいます。ここには、初代教会の最も初歩の信仰告白があると言われています。「わたしたちの主イエス・キリスト」とは、「イエスはわたしたちの主であり、キリストである」という文章をちぢめたものです。この信仰告白は新約聖書の中にたびたび出てきます。フィリピの信徒への手紙2章11節には「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べ伝えて、父である神をほめたたえる」とあります。「イエスはキリストであり主である」、これが信仰告白の原点であり、ここから発展して、『使徒信条』や宗教改革期の多くの信仰告白が作成され、またわたしたちの『日本キリスト教会信仰の告白』も制定されたのです。

 イエスは名前です。旧約聖書音ヘブライ語ではヨシア、ヨシュア、「神は救いである」という意味の、ユダヤ人に一般的な名前です。主イエスの場合、決定的に違う点は、神がこの名前の名付け親であるということ、また主イエスが生まれる前から神がこの名前を決めておられたということ、そして事実、神はこの主イエスによってご自身の救いのみわざを成就されたということです。

 キリストはヘブライ語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルでは、王や預言者、祭司がその職に任じられる際には頭からオリブ油を注がれました。主イエスは、まことの永遠の王として、また、まことの永遠の預言者として、そして、まことの永遠の祭司として、父なる神から託された全人類のための救いのお働きを完全に成し遂げられたメシア・キリスト・救い主であられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはみ子、主イエス・キリストによってわたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。わたしたちはもはや罪の奴隷ではありません。死と滅びに支配されている者でもありません。あなたからの新しい命によって生かされ、来るべきみ国での永遠の命を信じます。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。