2025年10月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
伝道礼拝(世界の平和を願って)
聖 書:イザヤ書9章1~6節
エフェソの信徒への手紙2章14~18節
説教題:「預言者イザヤが望み見た永遠の平和」
きょうの伝道礼拝では、「平和」をテーマにしています。聖書辞典によれば、『新共同訳聖書』で「平和」という言葉が用いられている回数は、旧約聖書では217回、新約聖書では87回、計およそ300回ということになります。平和を意味する旧約聖書のヘブライ語は「シャローム」、新約聖書のギリシャ語は「エイレーネー」ですが、原語が同じでも「平和」と訳されたり「平安」と訳されたりしますし、平和を意味する言葉が用いられていなくても、平和を語っている個所も数多くありますので、数だけで論じることはできませんが、いずれにしても、聖書は全体的に、平和について深い関心を寄せ、平和を深く教えていると言えますし、わたしたちが信じている神、そしてわたしたちの救い主であられる神のみ子、主イエス・キリストは平和の王、平和の主であることは言うまでもありません。
聖書が教える平和には、大きく3つの分野、領域があります。一つは、国と国、民族と民族、また人と人とが争わず、互いに相手を敵視して戦うことなく、互いに協力し合い、共に生きていることが平和です。二つには、社会の中で正義が行われ、差別や格差、偏見といったゆがんだ秩序がなく、特にイスラエルの社会では、弱い立場にある子どもや夫に死別した寡婦、老人、また他国からの寄留者などが保護され、正しく支援されてる社会秩序を平和と言います。単に争いや戦争がないというだけでなく、社会的な不正や権力者による搾取がない社会のことです。三つ目には、一人一人の人間、わたしが、本当に平安な状態にあることです。それは、主なる神とわたしとの関係に破れがないこと、神が常にわたしと共におられること、わたしが常に主なる神に従い、神のみ心を行い、神に感謝をして生きていることによって与えられるのですが、わたしがそのような平安の中にあること、それが平和です。そのような3つの分野、領域の平和ということを考えながら、きょうはイザヤ書が教えている平和について学んでいきたいと思います。
8月10日の秋田教会平和祈念礼拝のときには、イザヤ書2章1~5節のみ言葉を学びました。もう一度その箇所を読んでみましょう。【1~5節】(1063ページ)。その時には紹介しませんでしたが、実は、ニューヨークにある国連本部に「イザヤの壁」と呼ばれる場所があり、その壁にこの4節のみ言葉「彼らは剣を打ち直して……もはや戦うことを学ばない」と英語で刻まれているそうです。国連に加盟している193か国の指導者たちが、重要な会議に出席するためにここに集う際に、彼らはこの壁に書いてあるイザヤ書のみ言葉をどのように読むのでしょうか。年々、核兵器の保有数を増やし、より大きな空母を製造し、より強力なミサイルを増設し合っている国々の代表者たちが、この聖書のみ言葉をどう理解するのでしょうか。「もはや戦うことを学ばない」と言われる神のみ言葉に真っ向から対抗して、「もっともっと戦うことを学ぼうではないか」と協議するのでしょうか。しかし、そうであってはならないと、わたしたちは言い続けなければなりません。キリスト教国と言われる国であろうと、そうでない国であろうとも、国連の建物に刻まれているこの聖書のみ言葉に、この建物に出入りする人は皆、責任を負わなければならないのではないかと、わたしたちは訴え続けなければなりません。たとえ、秋田に住むわたしたちの声が遠くて小さくあったとしても。
きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書9章4節に、同じようなみ言葉が書かれています。【4節】。2章では、戦争で兵士が手に持つ剣と槍が、農民が手に持つ鋤と鎌に打ち直されると言われていましたが、ここでは兵士自身が身に着けていた靴と軍服が火で焼き尽くされると書かれています。これによって、もはや再び兵士がそれを身に着ける必要がなくなった。今や戦争は終わって、永遠の平和が訪れたからだということが表現されているのです。
預言者イザヤの時代、紀元前8世紀のイスラエルは、まさに激動の時代、戦争の時代でした。イスラエルの北には、当時近東諸国に破竹の勢いで支配を広げていたアッシリア帝国が迫り、南にはエジプト第25王朝が、馬にひかれた戦車を誇り、いまだ強い権力を保持していました。イスラエル北王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダもアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。
1節の、「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」とは、常に戦争の脅威に脅かされ、文字どおりに日夜死と隣り合わせで生活しているイスラエルのことを言っていると思われます。わたしたちが生きている今日にも、それと同じ状況にいる人々が多くいることを、わたしたちは見ています。
そのような戦国の時代に、預言者イザヤは、もはや再び武器を持たない、もはや再び軍服を着ない、平和を預言したのでした。イザヤが預言し、望み見ていたこの平和は、当時の指導者たちが考えていた国の課題とは、根本的に違っていました。イザヤが預言者活動をしていた紀元前742年から701年までの40年間にイスラエル南王国ユダの王はウジヤからヨタム、アハズ、ヒゼキヤと変わりましたが、それらの王たちは、ある時にはアッシリアに貢物を送り、ある時にはエジプトの戦車を頼り、またある時には他国との同盟に助けを求めていました。いずれの王たちも、それが国に平和をもたらすと考えていました。イスラエルだけでなく、周辺の他の諸国も同様でした。そのことは、今日の世界の諸国の指導者たちも同じであると言えます。
けれども、イザヤはまったく違った平和を預言したのです。軍備の増強ではなく、どこの国と手を組むかでもない、そのような戦いの勝利のための手段ではなく、戦いそのものを放棄する、戦いを止めて、もはや戦いのことを学ばない、戦いの準備も必要がない、そのような平和を預言したのです。
では、イザヤが預言した平和とはどのような平和のことなのでしょうか。その平和はどのようにしてやって来るのでしょうか。いくつかの基本的なことをまず確認しておきましょう。イザヤ書2章の預言では、4節の冒頭に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と書かれてあるように、主なる神が諸国の最終的な裁判官としてお裁きになることを信じて、すべての国民が一人の主なる神を礼拝する神の民となることから、真の平和が来るであろうと教えています。
また、9章では、天におられる神が天からまことの光で照らしてくださり、大きな喜びで満たしてくださるときに、諸国の間の憎しみや不安、恐れが消え去り、そこにまことの平和が訪れるであろうと預言されています。後半の5節以下では、そのとき一人のみどり子がわたしたちのために誕生し、その男の子によって全世界が治められ、永遠の平和が打ち立てられ、その平和の国は永遠に続くであろうと預言されています。
以上の三つのこと、すなわち全世界のすべての民が一人の主なる神を礼拝する一つの神の民となること、天におられる神から与えられるまことの光と喜びにすべての民が満たされること、そして一人のみどり子の誕生によって築かれるであろう永遠の王国、これが平和の基本であると教えられます。
けれども、まだ何か漠然としており、神を信じているイスラエルにとってはそうであるでしょうけれど、他の諸国に同じことを強要することはできないであろうし、そもそもイザヤの時代に、その預言がどのように成就されたのかということも、わたしたちにははっきりとは分かりません。イザヤの平和の預言には現実性が乏しい、あるいは理想論だと反論する人もいるでしょう。
そこで、今日の聖書学者はこう考えます。このイザヤの預言は2章2節にあるように、「終わりの日」の預言であり、いわゆる終末論的に理解されなければならない。終末の時の理想の平和がここでは語られているのだと。またこう考えます。9章の「一人のみどり子」とは主イエス・キリストのことであり、この預言が新約聖書に至って、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就されたのだと。
この二つの的理解に、わたしたちは100パーセント同意してよいでしょう。そして、その理解を更に深めていくことが大切と思われます。イザヤの預言には、確かに終末論的な要素が濃くあります。今この時に、この時代の中で、すべてのことが直ちに実現することを預言しているのでは必ずしもありません。とは言っても、キリスト教の終末論は、現在のことには関連しない未来のことだけを言うのではありません。神が、未来にこうなるであろう、終わりの日にはこのことが起こるであろうと言われるときに、信仰者はその未来を、いわば先取りして、未来に起こるべきことが今すでに起こると固く信じて、あたかもそのことが今すでに起こっているかのように固く信じて、行動をするのです。それがキリスト教の終末論であり、イザヤの預言もまたそのように理解されるのです。
まだ、世界の多くの国々は武器を増強し、核兵器までをも無限に増やそうとしています。宗教の違いと、そこから生じる理解の違いがあり、それはますます深まっていくように思われます。世界の現状はイザヤの平和預言からは遠く、遠くあるように思われます。けれども、わたしたちはイザヤの預言から、真の平和がどこにあるのか、どのようにしてその平和がこの地に築かれるのかを、はっきりと示されているのです。その平和のために、祈ることへと導かれているのです。そして、その平和は確かに主なる神によってこの地に、全世界にもたらされるのです。
エフェソの信徒への手紙2章14節14節以下にはこのように書かれています。【14~18節】(354ページ)。イザヤが預言した真の平和、永遠の平和は主イエス・キリストによって成就された、実現した、完成したのだと、わたしたちは信じます。そして、この福音を全世界に宣べ伝えることが、この平和の中にすでに生かされているわたしたちに託された使命なのです。教会の使命なのです。教会は、また教会に招かれているわたしたち一人一人は、この使命に生きることによって平和のために仕えるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、永遠の平和の主であれれる主イエス・キリストにあるまことの平安をわたしたちにお与えください。また、世界のすべての人々にお与えください。特にも、きょうの命が脅かされ、不安と恐れの中で暗闇を歩んでいる人々を、天からの光によって照らし、希望と平安とをお与えください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
イザヤ書の平和思想
〇2章1~5節、平和という言葉はない。終末論的。エルサレム・シオン伝承。主の律法と礼拝。武器から農具へ。戦うことを学ばない、永遠の平和。
〇7章14節、「インマヌエル預言」。
〇8章8~10節、インマヌエル、すべての戦略の放棄。
〇9章1~6節、「平和の君」の誕生。
〇11章1~5節、エッサイの株から出る芽。
〇11章6~10節、狼と小羊とが共存する。
〇26章1~6節、主に信頼する平和。
〇26章12節、平和をお授けください。
〇32章15~20節、霊が下される時の平和。
〇48章17~19節、「平和は大河のように」。
〇54章13~17節、神の義による平和。
〇57章18~21節、神のいやしと平和。
〇66章12節、「平和を大河のように」。
