2025年10月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:申命記6章1~9節
ルカによる福音書11章37~44節
説教題:「あなたの内側を清めなさい」
主イエスが、あるファリサイ派の人の家に招かれ、食事をされたとき、食前に手を洗わなかったことから、ファリサイ派との間に論争が起こったことが、37節から書かれています。主イエスはファリサイ派の人たちの偽善的な信仰を見抜かれ、彼らに厳しい非難の言葉を語られました。40節では、彼らを「愚か者たち」と呼び、また42節、43節、44節では、彼らを「不幸だ」と決めつけています。「不幸だ」と訳されている言葉は、もう少し厳しい響きを持っています。『口語訳聖書』では「災いだ」と訳されていました。「災いだ」というこの言葉は、主イエスがお語りになった「幸いだ」という言葉と対照的な意味を持っています。「幸いだ」は、天の父なる神から救いと祝福を約束され、その救いへと招かれている信仰者の幸いを意味していますが、それに対して、「災いだ」は、神の最終的な救いを拒んでいる、あるいはそれから外れている滅びの状態、神の永遠の裁きによって呪われている状態を意味している言葉なのです。主イエスは客人として招かれているファリサイ派の人の家で、「あなたがたは愚か者だ」「あなたがたは災いだ」と言われたのです。これはなんという失礼で、また厳しく、激しい言葉でしょうか。
わたしたちはこの箇所を読むときに、主イエスのみ言葉の厳しさ、裁きの性格を見るように思います。多くの人が主イエスに対して抱いているイメージは、温厚で寛容なお心を持ち、わたしたちにゆるしと慰めのみ言葉をお語りくださる方というのが一般的だと思います。確かに主イエスはそのようなお方ではありますが、それと同時に、主イエスは厳しいお言葉で怒られ、裁かれ、災いをもお語りになります。そして、そのような温厚さと厳しさは、単に主イエスの人間としての性格や感情の二面性というのではなく、そのいずれもが父なる神の権威に基づくものであり、また主イエスの救いのみわざそのものなのです。主イエスがわたしたちを罪から救おうとなさるその熱心さ、あるいは確かさ、豊かさの現われなのです。主イエスは父なる神の権威によって、わたしたちに罪のゆるしと慰めのみ言葉をお語りになり、また、神の権威によってわたしたちの中に潜む偽善を見抜き、裁きのみ言葉をお語りになるのです。主イエスのみ言葉聞くときには、わたしたちはいつでも神の権威の前に立たされ、恐れおののかざるを得ないのです。
詩編130編の詩人はこのように叫んでいます。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」と。これはわたしたちの叫びでもあります。しかしまた、わたしたちはこの詩人と共に、続けてこう告白しなければなりません。「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」と。わたしたちは今、わたしの中に潜む偽善と罪を見抜き、裁かれる主イエスのみ前に恐れおののきつつ、しかしまた、わたしたちのすべての罪をゆるされる主イエスのみ前に感謝と平安に満たされながら立つことが許されているのです。
では、きょうの箇所を読んでいきましょう。【37節】。ルカ福音書では主イエスが食事の席に招かれたという場面を数多く記しています。5章29節以下では、12弟子の一人となった徴税人レビの家で、7章36節以下では、あるファリサイ派の人の家で、14章1節以下では、ファリサイ派の議員の家で、食卓に招かれたことが書かれています。また15章2節には、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とファリサイ派の律法学者たちが主イエスを非難したことが書かれています。主イエスは当時の宗教的指導者たちの家や、社会では罪びととして見捨てられていた人たちとも、しばしば食卓を共にされました。食卓を共にすることは、最も親しい交わりのしるしでした。主イエスは多くの人たちと食卓を共にすることによって、その人たちの近くに接近され、その人の心の中に入られ、親しい交わりを持たれました。そのもっとも典型的な場面は、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐であったと言えましょう。わたしたちにとっては聖餐式がそうです。
ところで、そのような親しい交わりのしるしである共同の食卓の席では、必ずと言ってよいほど、何かの対立や論争が引き起こされるということを、わたしたちは確認することができます。きょうの箇所では、主イエスが食前に手を洗わなかったということからファリサイの人との間に論争が起こり、その論争の中で主イエスはファリサイ派の偽善的信仰を明らかにし、また本当に清めるとはどういうことなのかをお語りになりました。5章27節以下の徴税人レビの家での食事のときには、ファリサイ派と律法学者たちから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」という非難の声が上がったことが書かれています。その非難に対して主イエスは、「健康な人には医者はいらない。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と宣言されました。7章36節以下のあるファリサイ派の人の家での食事のときには、一人の罪深い女の人が香油を主イエスに振りかけたことから、このファリサイ派の人が、「この人が預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言って主イエス非難したことが書かれています。主イエスはその時、「この人は多くの罪を赦されたから、多くの愛をわたしに示した」と言われ、女の人に「あなたの罪は許された」と宣言されました。更に、14章1節以下の安息日に、あるファリサイ派の人の家での食事のときには、主イエスがその席にいた水腫を患っている人をいやされたことから、安息日に病気をいやすことが安息日の律法に違反しているかどうかという論争が始まりました。そこで、主イエスは「安息日に自分の息子が井戸に落ちたら、すぐに引き上げてあげないことがあろうか」とお答えになりました。主イエスは安息日にこそ、わたしたちの命を救うためのみわざをなさるのだということが、そこでは明らかにされています。
このように、主イエスを中心にした食卓においては、ある種の論争が起こり、その論争をとおして、人間の中に潜む罪が明らかにされ、また真実が何であるかが明らかにされるということが、それぞれの場面に共通しています。主イエスがわたしたちと共に食卓を囲まれるとき、主イエスはわたしたちの心の中にまで入ってきてくださいます。わたしたちがその主イエスを、心を開いて受け入れるならば、主イエスは真実の救いへとわたしたちをお招きくださいます。けれども、心を閉ざし、かたくなに罪の中にとどまり続けるならば、主イエスの裁きが明らかにされます。そこでは、人間の中に潜んでいる罪や偽善が浮かび上がってくるのです。
次に、38節を読みましょう。【38節】。ファリサイ派は旧約聖書の律法を厳格に守り、それだけでなく、律法をさらに細分化して多くの細かな規則を作っていました。食事の前に念入りに手を洗うこと、また食器などもていねいに洗い清めることもその一つでした。これは、衛生上の理由からではなく、宗教的な汚れから身を清く保つためでした。外出中に気づかずに宗教的に汚れたものに触れているかもしれない。その手で食事をすると、口からその汚れが体の中に入ると彼らは考えました。それを防ぐために、律法には書かれていないことまで細かに規定して、手を洗い、身を清めることに気を使っていたのでした。それが神に対する信仰だと考えていたのでした。
しかし、主イエスは彼らの偽善的な信仰を見抜かれます。【39~41節】。ファリサイ派の人たちは手を洗ったり食器を清めたりして、外側から入ってくる汚(よご)れを防ぐことによって、あたかも自分の内側も清められたかのように錯覚しているが、しかしそれは、自らは清い罪のない人間であるかのように思い込み、自分の罪を隠そうとしている傲慢でかたくなな人間であることの証拠であると主イエスは言われます。それこそが主なる神に対する反逆なのであり、罪なのです。そもそも、罪や汚れは人間の外側から入ってくるものではなく、ましてや口から食べ物を介して入ってくるものでもありません。罪や汚れは、人間の中にあるものであり、その人自身の中に住みついているのであり、その人の心と魂が神から離れている、神のみ心に背いているところに人間の罪があるのであり、外側を洗い清めて、それで罪がないと考えることは、彼らの偽善であり、悪意に満ちた罪そのものなのだと主イエスは言われるのです。
では、清くなるとはどういうことなのでしょうか。どうすれば罪や汚れから清められるのでしょうか。主イエスはまずわたしたちの目を創造者なる神に向けさせます。「外側をお造りになった神は、内側をもお造りになったではないか」と。わたしたちの外なる体、肉体も、また内なる心、魂も、共にみな神が創造されたものです。両者を分離することはできません。わたしたちの体も心も、造り主なる神のものです。その全体をもって、造り主なる神を崇め、神に感謝し、お仕えする者として、神は人間を創造されたのです。
更に、主イエスは続けて「器の中にある物を人に施せ。そうすればあなたたちのすべては清くなる」と言われました。「器の中にある物」とは、直訳すれば「内にあるもの」で、『新共同訳聖書』ではそれを器の中にある物と理解して翻訳していますが、むしろ40節との関連から理解すれば、神の創造された人間の内側、その人の心と魂とを神に差し出せと命じられていると理解すべきと考えます。すなわち、あなたの内側である心と魂とを、あなたの外側である体と一緒に、主なる神に差し出しなさい、ささげなさい。そうすればあなたのすべてが清くされる、という意味に理解するのが良いと思います。神はわたしたちの罪に汚れた心を体をも、主イエス・キリストの十字架の血によって清め、受け入れてくださいます。
42節からはファリサイ派に対する三つの「不幸だ」が語られています。最初にお話ししましたように、これは神の滅びの運命にある災いを語る厳しい裁きの言葉です。その内容については次回45節以下を学ぶ際に確認しますが、ここでもファリサイ派の偽善的で、自らの罪を覆い隠そうとする傲慢な思いだけでなく、他の人をも罪へと導く悪意に満ちた罪が語られています。
42節で主イエスは、「正義の実行と神への愛」とを語っておられます。わたしたちの救い主であられる主イエスこそが、神の義を全うされ、神の愛に生きられ、十字架への道を進み行かれました。主イエスが十字架で成就してくださった神の義と愛によって、わたしたちは罪ゆるされ、救われています。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしの中に潜んでいる傲慢な思いやかたくなな思い、罪や汚れを、どうか主キリストの血によって清めてください。そして、わたしたちをあなたのみ心にかなう者たちとして受け入れてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
