5月31日説教「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

2026年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章27~31節

    ルカによる福音書12章22~34節

説教題:「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

 ルカによる福音書12章22節以下で、主イエスはわたしたち人間を日々の思い煩いから解放するために、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われます。人間は、何としばしば、毎日毎日、きょうは何を食べようか、何を着ようかなどと、この世のさまざまなことで思い悩み、思い煩うことことか。主イエスはそのようなわたしたちの果てしない欲望や願い、あるいは迷いや不安をご存じです。わたしの心がいくつにも分裂して、この世の過ぎ去り行くものに縛り付けられ、ついには永遠なるものを見失い、神を見失っている現実を、主イエスは知っておられます。

 そこで、主イエスはわたしたち目を、まず初めに、わたしの肉の目で見ることができる空の鳥や野の花へと向けさせます。それは、誰にでもできます。いつも身近に見ています。そして、そこから、空の鳥や野の花を日々に養い、美しく装ってくださる、造り主なる神へと、わたしたちの信仰の目を向けさせるのです。種を蒔くことも刈り取ることもしない空の鳥、また、紡ぎもせず糸を織ることもしない野の花。彼らをも日々に必要なものすべてを備えてくださる神。そして、その神は、あの空の鳥や野の花よりも、何十倍も、いや何万倍もの大きな愛をもって人間を創造された神。今もなお、その偉大なる愛によって守り導いておられる神。その神へとわたしたちの信仰の目を向けさせるのです。そのような神がいますのであるから、その神があなたにとって必要なものを日々に備えてくださらないことなどあるだろうか、と主イエスは言われるのです。そのようにして、主イエスはわたしたちをすべての思い悩み、思い煩いから解放してくださり、わたしたちの信仰の目を父なる神へと向けさせてくださるのです。

 28節以下で主イエスはこのように言われます。【28~30節】。「異邦人」とは、神に選ばれた信仰の民であるイスラエル、ユダヤ人以外の、信仰を持っていない諸国民、神を知らない人々を指しています。神を知らない人は、神がどれほどに人間一人一人を愛しておられるかを知りませんし、神が天地万物を創造され、人間をご自身のかたちに似せて、被造物の冠として創造されたことも知りません。ですから、彼らは神のご配慮を信じることができずに、すべてを自分の力で手に入れなければならないと考えて、毎日あくせくと動き回り、自分の欲望がかなえられなければ、思い悩み、不安になるのです。

 けれども、主イエスは言われます。「あなたがたは父なる神を知っているではないか。その神は、あなたがたに必要なものが何かを知っていてくださるではないか。あなたがたが本当は必要でないものまでも追い求めて心を煩わしているときに、あなたがたの父であられる神は、子どもであるあなたがたに今何が必要であるのかを最もよく知っておられるので、それを与えてくださらないはずがないではないか」と。

 30節の言葉でもう一つ注目したいのは、神が「あなたがたの父」と言われている個所です。神を「わたしの父、わたしたちの父」と呼ぶことは、旧約聖書では非常にまれでした。というのは、イスラエルの信仰においては、神はいと高き天におられる神であり、すべての造られたもの、被造物のはるか上に君臨しておられる絶対的な存在ですから、その神を人間の親子の関係で表現することは神の尊厳を損なうことになりかねないので、イスラエルでは避けられていました。

 新約聖書になってから、神を人間の親子関係と同じように、「父なる神」と呼ぶようになったのは、言うまでもなく、主イエスが神をご自分の父と呼ばれたからです。事実、主イエスは父なる神の御ひとり子であられます。すでにわたしたちが読んだ箇所ですが、10章21節以下を改めて読んでみましょう。【21~22節】(126ページ)。主イエスはここではっきりと神をご自身の父と呼ばれ、父であられる神が主イエスにその父のみ心をすべて明らかにされたと言っておられます。神のひとり子であられる主イエスによって、わたしたちもまた神を「天におられるわたしたちの父なる神よ」と、親しく呼びかけることが許されているのです。

 主イエスがきょうの箇所で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と言われたことの深い意味を、ここでわたしたちは気づかされます。主イエスによってわたしたちの父となってくださった神は、わたしたちに今最も必要なものが何であるのかを知っておられ、またそれをお与えくださる神なのだということです。わたしたちをこの世のすべての思い煩いから解放してくださり、まことの喜びと平安をお与えくださる神は、わたしたちを罪の奴隷からお救いくださるために、ご自身のひとり子であられる主イエスをご受難と十字架への道へとお導きになられたということを、わたしたちはここで気づかされるのです。

 わたしたち人間がまだ自らの罪に気づかずにいたときに、罪と戦うこともなく、罪から救われたいと願うことすらまだしていなかった時、いやむしろ、罪の中に安住し、自ら気づかずに死と滅びへと向かっていたときに、父なる神はわたしたちを罪から救い出すために、ひとり子なる主イエスをこの世にお遣わしくださり、主イエスの十字架の死によってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったのです。それによって、わたしたちの罪がゆるされること、そして神との交わりが回復されること、わたしたちが神の子どもたちをされること、神から与えられる永遠の命に生かされること。それこそが、わたしたち人間にとって今最も必要なことであるということを、わたしたちの父であられる神が知っておられ、そのことを実現されるために、み子主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださったのです。パウロはローマの信徒への手紙8章でこのように言います。「ご自身のひとり子さえも惜しまずにわたしたちの罪の贖いのための供え物としてお与えくださった神が、み子のみならず、万物をも賜らないはずがあろうか」(8章32節参照)と。

 そこで、主イエスは続けて31節でこのように言われます。【31節】。「神の国」とは、主なる神が唯一の王として支配しておられる王国を言います。主イエスが宣教された福音は「神の国の福音」と言われます。罪が支配し、人間の邪悪や悪の霊が満ちているこの世界に、今や神のみ子が来てくださり、十字架への道を進んでおられるこの時に、神の新しいご支配が始まった。神の愛と恵みによるご支配が始まった。だから、人は皆、自分の罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰りなさい。これが、主イエスが語られた神の国の福音です。

 主イエス・キリストの十字架と復活を信じるわたしたちキリスト者にとっては、神の国、神の愛と恵みのご支配はすでに始まっています。主イエスが十字架の死と復活によって、罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。この神の国の福音を信じているわたしたちにとっては、パウロが語っているように、み子だけでなく、万物がすでに与えられているのです。

 主イエスは32節でこのように続けます。【32節】。31節と32節は似たような構文になっています。まず、主イエスの命令文があり、そのあとに主イエスの約束が語られています。「神の国を求めよ」。「そうすれば、これらは与えられる」。「恐れるな」。「なぜなら、あなたがたの父は喜んで神の国をお与えくださる」。このように、主イエスがわたしたちに何かをお命じになるときには、いつもその命令には大きな恵みの約束が伴っています。主イエスは言われます。「求めよ」。「そうすれば、与えられる」。「探せ」。「そうすれば、見いだす」。「門をたたけ」。「そうすれば、開けてもらえる」。「祈れ」。「そうすれば、あなたの願いは聞かれる」。「悔い改めよ」。「そうすれば、神があなたの方に近づいてきてくださる」。「信じよ」。「そうすれば、救われる」。そのように、わたしたちが主イエスの言葉に聞き従う時、それは決して空しく終わることはありません。豊かな救いの約束を伴っているからです。

 31節と32節のもう一つの関連は、31節で「神の国を求めなさい」と命じられており、32節では「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束が語られています。わたしたちが神の国を求めることができるのは、わたしたちに神の国を与えようとされる父なる神の強い意志があるからであり、み心があるからなのです。わたしたちが、何よりもまず第一に、神の国を求めなさいと命じられているのは、このような神のみ心があるからなのです。

 主イエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」と呼びかけておられます。主イエスの弟子たちは選ばれた12人と、あと少しの仲間でした。主イエスに反対する勢力であるユダヤ人指導者たち、ファリサイ派、サドカイ派、またヘロデ王家の数に比べれば、本当に小さな群れでしかありませんでした。あるいはまた、当時世界を支配していたローマ帝国と比較するならば、大海に浮かぶ小さな木の葉にすぎませんでした。けれども、主イエスはそのような小さな群れにこそ、神の国をお与えになると言われるのです。なぜならば、彼らが主イエスの福音を信じ、神の愛と恵みのご支配を信じているからです。それゆえにまた、彼らは小さな群れではあっても、この世のどのように大きな権力であろうとも決して恐れるには及びません。天におられる主なる神が彼らの王であるからです。

 最後に、主イエスは33節以下でこのように言われます。【33~34節】。主イエスはわたしたちの目と心とを天に向けさせます。この地上の過ぎ去り行くものに目と心とを奪われ、あれも欲しい、これも手に入れようと、毎日思い煩っているわたしの目と心とを、地上のものから離して、父なる神がいましたもう天へと向けさせます。天にこそ、朽ちることのない永遠の宝が備えられているからです。

 きょうの主イエスの説教の前半、22節から語られていた内容と、終わりの部分31節以下で語られている内容とを比較してみてください。前半では、わたしたち人間が自分の命のことや体のことで、あれもこれも手に入れようと思い煩っていた様子が語られていました。ところが、わたしたちが主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれていることを知らされてからは、わたしが持っているものを喜んで隣人に分かち与えるように変えられていくことが語られています。神の国の福音に生きる人、主イエスの十字架の福音に生きる人は、そのようにして、すべての思い煩いから解放されます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが御ひとり子をわたしたちにお与えくださるほどに、わたしたち人間を愛してくださったことを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを、あなたがいます天へと向けさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月24日説教「ペンテコステの日のペトロの説教」

2026年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              ペンテコステ(聖霊降臨日)

聖 書:ヨエル書2章12~20節

    使徒言行録2章14~21節

説教題:「ペンテコステの日のペトロの説教」

 使徒言行録2章1節に書かれている「五旬祭」とは、イスラエルの三大祭りの一つで、旧約聖書では「七週の祭り」「初穂の祭り」などと呼ばれ、小麦の初穂を神にささげて感謝する祭りでした。主イエスの時代にはギリシャ語で「五十番目」を意味するペンテコステと呼ばれていました。50番目とは、イスラエル最大の祭りである過越祭から数えて50日目に祝われる祭りであったからです。

過越祭はイスラエル誕生の出来事であるエジプト脱出を祝う祭りであり、それから50日目の五旬祭は、約束の地カナンでの収穫の初穂を神にささげる祭りでした。そして、旧約聖書のこの二つの祭りは、新約聖書では主イエスによる救いの出来事と深く関連していました。すなわち、主イエスは過越祭の時期に、全人類を罪の奴隷から解放するためにささげられた過ぎ越しの小羊として、ご自身の命を十字架でおささげになりました。その十字架の出来事から50日目のペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊によって語られた主イエスの福音の説教を聞いて信じた人々3千人ほどが洗礼を受けてキリスト者となり、ここに世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生したのでした。主イエスの十字架の死と三日目の復活によって人間を罪の奴隷から解放する神の救いのみわざが、今やその収穫の初穂としての救われた人々の魂が、この日に主なる神にささげられ、教会が誕生したのです。神の永遠なる救いのご計画は、このようにして成就しました。

 きょうは、その日のペトロの説教についてご一緒に聞き、わたしたちもまたペンテコステに与えられた聖霊の恵みを共に受けたいと思います。4節に、【4節】とあり、また11節には、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」書かれていますが、聖霊に満たされて語った弟子たちの説教の一例が、12節で「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」と書かれている具体的な内容であると理解されます。

 ペトロは主イエスと地上の歩みを共にしていた時にも12弟子のリーダーでしたが、復活された主イエスが天に昇られたあと、そして聖霊によって誕生した初代教会においても指導的な立場にありました。けれども、ペトロは12弟子のリーダーとしての立場を、そのまま引き継いだのではありません。ペトロは主イエスの十字架の際に大きなつまずきを経験していました。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連行されて行った際、彼は周囲の人たちに「あなたもあの男と一緒だった」と言われた時、「いや、わたしは知らない。わたしはあの人を知らない。関係ない」と、3度までも主イエスを拒み、見捨てたのでした。ペテロは主イエスの十字架から逃げ去りました。もはや弟子と呼ばれる資格はありません。そのリーダーでもありません。

 けれども、復活された主イエスは彼をお見捨てにはなりませんでした。再び、弟子としてお招きになり、弟子たちのリーダーとしての新しい務めを授けられたのです。それだけではありません。それまでのペトロは主イエスの説教を聞く人でした。ところが、ペンテコステの日の聖霊降臨は、ペトロを説教者として誕生させたのです。ペトロは聖霊を注がれてからは、説教する人、主イエスの福音を語る人へと変えられたのです。ほかの弟子たちもみな同じです。みな主イエスの十字架から逃げ去り、主イエスを見捨てたのでしたが、彼らもまた聖霊を受けて、今新しく主イエスの復活の証人たちとして、福音の宣教者たちとして立てられたのです。聖霊は罪の中で死んでいた人を、再び立ち上がらせ、その人に新しい務めを授けます。

 では、【14~16節】を読みましょう。聖霊を注がれた弟子たちが、エルサレムに集まってきていたいろんな国の言葉で語りだしたので、それを聞いた人々は驚き、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」と言って、あざ笑ったと13節に書かれていましたが、ペトロはまずその誤解を訂正しています。当時の信仰熱心なユダヤ人は朝9時と昼、そして夕方と、日に三度祈りをささげていたと伝えられています。朝9時の祈りをささげるまでは朝食をとらないという習慣もあったようです。ペトロは説明します。「ですから、この人たちは酒に酔っているのではない。これは、旧約聖書ヨエル書の預言で語られていたように、神の霊、聖霊を注がれた主イエスの弟子たちが、神がお示しくださった幻を語り、神の言葉を預言しているのだ」と。

 17~21節までは、ヨエル書3章1~5節からの引用です。ヨエル書が書かれた年代については諸説があり、紀元前9世紀から紀元前4世紀と、大きな幅があります。その預言の内容は一貫しており、終末論、すなわち世の終わりの時のことが預言されています。神が諸国を裁く時が迫ってきている。神の怒りの日が来る。だれも神の最後の裁きを避けることはできない。それゆえに、悔い改めて神に立ち帰れ。その日には、神はご自身の民の救いを完成させ、すべての人に神の霊を注ぐ。これがヨエルの預言です。ペトロはペンテコステの日に、このヨエルの預言が成就したのだと語ったのです。エルサレムに集まっていた主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らが新しい言葉で神の偉大な救いの出来事である主イエスの福音を語りだしたのは、ヨエルが預言した終末が今始まったことの確かなしるしなのだと説教したのです。

 17節の「終わりの時」とは、今あるこの世、この世界、この時代が終わるときのことを言います。それを一般に終末と言いますが、聖書の終末にはもっと重要な意味が含まれます。今あるこの世界が終わる時、新しい神の国が到来するということです。もはや人間の罪もなく、死も滅びもない、永遠に神が支配される神の王国、神の国が完成する。これが、聖書が教える終末です。ここには、聖書の時の理解が関係しています。聖書では、時には初めがあり、終わりがあると教えます。初めに、神は天地万物を創造されました。けれども、人間の罪によってこの世界は汚されてしまいました。終わりの時、神はもう一度すべてを新しくされます。その時、古い世界はすべて滅ぼされます。この地球も、自然も、宇宙も、太陽や月、星も、みな滅び去ります。これが、聖書が教える時の理解です。19、20節に書かれている「主なる神の不思議な業」とは、このような時の終わりに全世界が滅び去ることを語っています。今わたしたちが生きているこの時、この時代、この世界は、すべてその終わりへと向かっている。そして、終わりの日の神の国の完成へと向かっている。これが、聖書が教えている終末です。

 ペトロの説教で引用されているヨエル書の預言は、この終末の時に起こる出来事を語っているのです。その視点から、改めてヨエルの預言を読んでみましょう。【17~18節】。「わたしの霊」とは、神の霊、聖霊のことです。聖霊がすべての人に注がれることによって、終わりの時、終末、そして神の国が完結する、完成するということです。神の霊、聖霊は罪の中で死んでいた人に新しい命を与えるからです。古い世界を新しく再創造するからです。

 ここで、キリスト教の教えの最も大切な教理である「三位一体論」について少しお話をしておきましょう。キリスト教は、旧約聖書のイスラエルの信仰から、一神教、唯一神教を受け継ぎました。聖書の神は多くの神々の中の一つの神であるのではなく、天地万物を創造され、イスラエルを選ばれた神は唯一の神であり、神々と言われるものが他にあるとしても、それらはすべて偶像であり、偽りの神々であるという信仰です。その唯一神教を土台にしながら、神のみ子主イエス・キリストはまことの神であり、また聖霊もまことの神である。神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神として存在し、またお働きになられる。しかし三つの神であるのではなく、一つの本質、一つの実体をもつ神である。これが、キリスト教の「三位一体論」です。

 したがって、この三位一体論によれば、父なる神も子なる神イエス・キリストも聖霊なる神も、永遠の昔から唯一の神として存在していたことになります。

でも、旧約聖書の中には、はっきりとした姿でみ子なる神と聖霊なる神は現れません。新約聖書の時代になってから、クリスマスの時にみ子なる神主イエス・キリストがこの世界に人間のお姿で誕生され、そして今、聖霊なる神が、このペンテコステの日に、激しい風のように吹きつけ、地響きのように地を震わせ、炎のような舌のかたちで(2~3節参照)、弟子たちの上に注がれたのです。この聖霊なる神の働きがあって、三位一体なる神の救いのみわざが完了することになったのです。

 旧約聖書の時代にヨエルが預言した終末の時、古い時代の終わりと新しい神の国の完成の時が、今このようにして到来したのだと、ペトロは説教しています。父なる神が天地万物の創造によってお始めになった神の永遠の救いのご計画が、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして聖霊の降臨によって、今ペンテコステの日に完了したのです。

 ペンテコステの日の出来事について、ペトロの説教で語られていることをいくつかのポイントにまとめてみましょう。一つは、聖霊降臨は神の天地創造と永遠の救いのご計画の完成を意味すると同時に、終わりの日、終末の時の開始、始まりであるということです。わたしたちは今そのような時に生きているのです。

 第二には、すべての人に聖霊が注がれて、男と女、奴隷と自由人、その他すべての人間の違いが取り除かれ、それらからくる束縛や差別から解放され、人間は全く自由になり、一つの神の民とされるということです。その具体的な姿が教会です。聖霊の時、終末の時は教会の時として具体化されます。

 第三には、聖霊が注がれると、人はみな神の幻を見、神の言葉を預言するようにされます。今わたしたちの目の前に繰り広げられている世界の現実だけを見るのではなく、神が聖霊によってお示しになる新しい神の国を見るようにされ、神のみ心を悟るようにされるのです。

 そして第四に、21節に書かれているように、【21節】。「主の名を呼び求める」とは、主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、告白することを言います。わたしの罪のために、わたしに代わって苦難の道を歩まれた主イエス・キリスト、わたしの罪を贖うために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、わたしを新しい命に生かすために、罪と死とに勝利され、三日目に復活された主イエス・キリスト、この主イエス・キリストを聖霊に導かれてわたしの救い主と信じ、受け入れることによって、わたしは罪ゆるされ、永遠に主なる神と共にあり、神の国の民とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もないそのすべてを強いみ手をもって支え、導いておられます。また、あなた永遠の救いのご計画は、今もなお終わりの日の完成に向かって前進しています。どうか、あなたの命の霊をあなたの民の上に豊かに注いでください。そして、あなたの救いのみわざがいよいよ力強く行われますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月17日説教「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

2026年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章11~19節

    使徒言行録16章25~34節

説教題:「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

 パウロの第二回世界伝道旅行の後半、マケドニア州とギリシャ地方への伝道活動の最初の都市は、フィリピでした。フィリピでは、まず紫布の商売をしていたリディアという女性とその一家が洗礼を受けました。リディアの家はフィリピ教会の基礎となり、しばらくの期間、この家で集会が行われていました。

 次に、パウロは占いの霊に取りつかれていた女奴隷から、その悪しき霊を追い出し、彼女を自由にしましたが、彼女を金もうけの道具にしていた男たちがパウロを訴えたために、パウロとシラスの二人が捕らえられ、投獄されることになりました。きょうは16章25節から読んでいくことにしましょう。

 【25節】。パウロとシラスは何度も鞭で打たれ、足には足かせがはめられていたと22節以下に書かれていました。足かせは、囚人の両足を大きく広げ、固定する拷問の器具であり、睡眠を妨げるほどの痛みを伴います。二人はほかの囚人たちよりも厳しい監視下に置かれ、牢の一番奥に入れられていました。そのようにして、パウロとシラスは痛みと不安、恐れの中で眠られない夜を迎えたのでしたが、しかし彼らの心は沈んではいませんでした。彼らの魂、思い、そして彼らの唇、神賛美の歌声は、決して鎖につながれてはいませんでした。この世のいかなる鎖によっても、神の言葉は決してつながれてはいません。神の言葉の証人として仕える信仰者の口も決してつながれてはいません。パウロとシラスはそれらの鎖を引きちぎり、喜びと感謝と希望とをもって、神に祈りと賛美をささげていました。

 パウロたちの賛美と祈りの声が牢全体に響き渡り、ほかの囚人たちはこれを聞いていたと書かれています。神賛美と神への祈りとが、牢全体を聖なる空気で包み、そこに神のご臨在を感じさせるような雰囲気をわたしたちは感じます。それだけではありません。実際に神ご自身がそこにおられ、そこで力強く働いておられるということを、わたしたちは知らされるのです。

 「ほかの囚人たちはこれを聞き入っていた」とありますが、ここからわたしたちは、囚人たち以上に、神ご自身がパウロたちの賛美と祈りとを聞いておられたのだということに気づかされます。【26節】。これは偶然に起こった自然現象としての地震ではありません。これはパウロたちの祈りに対する主なる神のお答えなのです。主なる神のみわざです。神の言葉に仕えるキリスト者たちの勝利を証しするために働かれる全能の父なる神のみわざなのです。というのも、「すべての囚人の鎖も外れてしまった」と書かれているからです。普通の地震ならば、囚人たちの鎖が外れたり、パウロたちの足かせが外れるということは起こり得ないからです。

 神はこのような奇跡を行われることによって、ご自身の言葉はこの世の鎖によっては決してつながれることはないということを、また神の言葉の証人として仕えるキリスト者たちも決してこの世の鎖によってつながれたままでいることはないのだということを、それゆえに、神の言葉の証人として仕えるキリスト者こそが、まことの、永遠の自由に生きることを許されているのだということを、わたしたちにお示しになったのです。

 27節からは、この不思議な神の奇跡である大地震を経験した看守のことが書かれています。【27~28節】。当時のローマの法律によれば、囚人の監視にあたる看守が、もし囚人に逃亡されたら、その囚人が受けるべき刑罰を看守自身が受けなければならないと定められていました。パウロとシラス、それにほかの囚人たちも、地震で鎖が外れ、牢の扉が開き、みな逃げ出したとすれば、当然看守は死刑になります。それを悟った看守は自殺しようとします。しかし、パウロが急いでそれを止めます。パウロは今まさに死なんとしていた看守を命へと導いています。ここで、看守とパウロの立場が逆転していることが分かります。看守は死刑判決を受けるかもしれないパウロたちを、死の牢獄につなぎ留めておくための務めを担っていました。しかし、今パウロの方が、自らの死へと向かおうとしている看守を命へと導くために働いているのです。神の言葉に仕えるキリスト者は、このようにして、自らがまことの自由と命に生きる道へと導かれるとともに、他の人をも、死へと向かおうとしているこの世の人たちをも、まことの命へと導くために仕えることが許されるのです。

 自らの死から救われた看守は、そこに聖なる神のみ力が働いていることに気づき始めました。【29~30節】。「震えながらひれ伏し」とは、看守がその所に聖なる神のご臨在とご支配とを感じたことを言い表しています。彼はこの大地震が偶然に起こった自然現象なのではなく、天地万物を天からご支配しておられる神のお働きであり、牢の扉がみな開き、囚人たちの鎖が外され、自殺しようとしていた自分に止めるようにと声をかけてくれたパウロたちの導き、そのすべてが神のお働きであったことを悟ったのです。

 このようにして、聖なる神との出会いへと導かれた看守は、深い罪の自覚とともに、救われたいとの強い願いが生じてきました。そして、パウロとシラスに尋ねます。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。この問いかけは、弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの日に、ペトロの説教を聞いたエルサレムの人たちの場合と同じです。その箇所を読んでみましょう。【2章37~39節】(216ページ)。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じて洗礼を受ける。その信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われます。そのことはいつの時代にも、誰にとっても同様です。

 パウロとシラスは看守に答えました。【31節】。責任を感じて自殺しようとした看守は、パウロたちによって自殺を止められ、命を救われました。でも、それはまだ本当の救いではありません。その人が神のみ前に自らの罪を告白し、主イエス・キリストの福音を信じる信仰を告白することによって、彼は本当の救いを与えられます。

 この31節には、キリスト教信仰の二つの大きな特徴が語られています。一つは、わたしたちが救われるのは、主イエスを信じる信仰によってであるということです。これは、わたしたちがいつでも繰り返して聞いているキリスト教信仰の原点です。わたしたち人間の側に何らかの救いに至る道や可能性があるというのでは全くなく、救いはただ主イエスからのみ来る。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリストからのみ、わたしの救いは来る。わたしはその救いの恵みを信仰によって感謝して受け取る以外にないし、それで十分である。なぜならば、主イエス・キリストがわたしの救いのために必要なすべてのことをすでに成し遂げてくださったからである。これが、わたしたちの信仰の原点です。

 ここで語られているもう一つのことは、救いがその人一人だけでなく、家族全員に及ぶということです。このことについて、少し深く考えてみましょう。一人の人の信仰とその人に与えられている神の恵みが、その人だけでなく、家族全員に及ぶということは、旧約聖書の信仰の民イスラエルにおいては、疑うことができない事実でした。創世記12章で、神はアブラハムにこのように言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。……地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(2~3節参照)。

 アブラハムに与えられたこの祝福は、その子イサクへ、またその子ヤコブへと受け継がれ、彼らの家族全員に受け継がれました。更には、ヤコブすなわちイスラエルから彼の12人の子どもたち、イスラエルの12部族とその家族へと受け継がれ、そしてやがて、ダビデの遠い子孫であったヨセフとマリアによって主イエスへと受け継がれたのです。これは、神がイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。イスラエルの家に生まれた子どもは皆神の祝福を受け継ぎ、その信仰を受け継ぐのです。

 新約聖書になって、イスラエルだけでなく全世界のすべての人が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって救われるようになってからも、旧約聖書の信仰と救いの連帯性という考えは受け継がれていきました。たとえば、マタイによる福音書9章に書かれている、中風で寝たきりの人をベッドのまま運んできて、屋根をはぎ、天井からつるして主イエスに出会わせた人たちの信仰を主イエスがご覧になって、その病人をいやされたという場面では、病人の信仰は全く問題にされてはいません。運んできた人たちの信仰によって、その病人がいやされたのでした。ルカによる福音書9章に書かれている会堂長ヤイロの一人娘が重い病気であった時、主イエスがその家に向かう途中で亡くなったとの知らせが届きましたが、その時に主イエスはヤイロにこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と。そして、彼の家に着いてから主イエスがその娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」とお命じになると、彼女が生き返ったという奇跡が起こりました。これもまた、父親の信仰が主イエスの奇跡を生み出して、娘を生き返らせたという実例です。

 このような、信仰の連帯性、神の恵みの連帯性を示す実例は、新約聖書の中に数多く見出すことができます。神の救いの恵みは、その恵みの豊かさのゆえに、一人の人をはるかに超えて、その人の家族へ、その地域へ、町々村々へ、そして全世界へと広がっていくのです。そしてまた、この信仰があるからこそ、その恵みの豊かさを信じる信仰者が、自分の家族に、また周囲に、そして全世界へと、救いの恵みを告げ知らせ、それを広めていくということが実際に可能なのです。

 わたしたちはここでもう一つのことを確認しておらなければなりません。今お話ししたことが、いわば機械的に、自動的に起こるというのではなく、そこには神が教会に託しておられる宣教と信仰教育というべき教会の働きがあるということです。

 【32~34節】。パウロとシラスはその看守の家に行き、彼の家族に神の言葉を語り、主イエスの福音を語ったことが書かれています。彼と彼の家族は短い信仰準備教育を受け、それからその信仰を告白し、洗礼を受けたのです。教会はこのようにして、必要に応じて、神から託されている信仰教育を行うのですが、それは救いの恵みの豊かさに対する教会の信仰であり、また奉仕であると言えます。そして、教会は新しく加えられた信仰の仲間と共に、聖餐の食卓を共にし、共に救いの恵みを喜び合う群れを形成していくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉と主イエス・キリストの福音が持っている偉大な力と恵みの豊かさを、どうぞわたしたちにも信じさせてください。その力と恵みの豊かさによって、わたしたちの宣教の働きを強めてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月10日説教「荒れ野へと導かれたイスラエルの民」

2026年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記15章22~27節

    ヘブライ人への手紙3章7~15節

説教題:「荒れ野へと導かれたイスラエルの民」

 イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から脱出した出エジプトがいつの時代のことであったのかについては、諸説があって確定されていません。出エジプトの出来事は聖書の記述以外には、他の記録は全く発見されていません。エジプト側の記録にもありません。したがって、聖書の記述から推測する以外にありません。一つのヒントになるのが、出エジプト記1章11節に、「イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した」とあることから、このラメセスの町とは、エジプト第19王朝のファラオ、ラメセスⅡ世が建設したラメセスの家であろうと推測し、そこから出エジプトは紀元前1280年代であろうというのが、最も有力な説です。また、前回学んだ、いわゆる「紅海の奇跡」も、今日の紅海の海を指すのではなく、葦の草が生えている湖での奇跡であろうと考えられています。更に、わたしたちがこれから学ぼうとしている荒れ野の地名の多くについても、今日その場所を特定できていないものがほとんどで、荒れ野での40年間の行程を正確にたどることはできません。

 このように、歴史的に、また地理的には不明確な点が多くありますが、出エジプトという出来事そのものが持つ意義、その影響力、その救いの恵みの大きさ、偉大さについては、誰も疑うことはできません。旧約聖書の民であるイスラエルにとっては、出エジプトはイスラエルの民誕生の出来事であり、イスラエルに対する神の救いの恵みの原点であり、またイスラエルの信仰と命の原点でありました。彼らは荒れ野の40年間の旅を続け、ついに神の約束の地カナン到着し、そこで神の契約の民、信仰の民、神を礼拝する民として生きるのですが、彼らは常に繰り返して、この信仰と命の原点に立ち帰るべきことを忘れませんでした。それは、わたしたちキリスト者がいついかなる時にも、わたしたちの救いと信仰の原点である主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を忘れてはならないのと同様です。

 では、きょうは出エジプト記15章22節から読んでいきましょう。22節の初めに、「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた」と書かれています。イスラエルの民にとっては、出エジプトの出来事と、それに続く葦の海の奇跡は、同じほどの重要な意味を持っていました。葦の海の奇跡は、特に彼らの荒れ野の40年間の困難な旅を導く神の確かな保証となりました。すなわち、イスラエルの民が一方からはエジプトの強大な軍隊に追われ、もう一方では海が彼らの行く手を阻んで、もはや絶体絶命の危機にあったとき、神がその強いみ手によって海の水を二つに分け、彼らを安全に通らせたように、荒れ野の長く困難な旅をも、神は彼らが生きるのに必要なすべてのものを備えてくださり、彼らをカナンの地まで必ずや導いてくださるという約束を与えられているのです。荒れ野は砂漠地帯が広がり、人間が生きるために最低限必要な水や食料をほとんど得ることができません。畑を耕す土も野菜に必要な水もありません。けれども、彼らを荒れ野へと導かれた神は葦の海の奇跡を行われた神です。その神が荒れ野の40年間の旅にも、絶えず彼らと共にいてくださるという約束を、彼らは与えられているのです。それゆえに、彼らはこれから待ち受けるであろう多くの困難を少しも恐れることなく、葦の海の奇跡から荒れ野へと旅立っていくことができるのです。

 わたしたちは新しい一週の歩みを礼拝から始めます。この礼拝で、主なる神がイスラエルの民に対してなされた奇跡のみわざを聞き、また主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、その神の救いの救いの恵みから、一人一人の新しい一週の歩みを始めることを許されています。たとえ、わたしの一週の歩みにどのような困難が待ち受けていようとも、予期せぬ突然の試練があろうとも、わたしは恐れることはありません。神の救いの恵みから出発し、常に変わらずに神がわたしと共におられ、救いの恵みをもってわたしを導いてくださるからです。

 この神の約束は、前回学んだモーセとイスラエルの民が歌った葦の海の歌の中でもすでに暗示されていました。15章12節の【12節】は、葦の海の奇跡でエジプトの軍隊が海の底に沈んだことを歌っていますが、次の【13節】では、荒れ野の旅を神が導かれることを、また約束の地カナンでの神の聖なる住まいとなるエルサレム神殿をもあらかじめ暗示しているように思われます。神の出エジプトと葦の海での奇跡のみわざが、あまりにも大きくあり、偉大であり、救いの恵みに満ち溢れているために、その力と影響力とが荒れ野の40年間の旅にも、更には約束のカナンでの新しい生活全体にも及んでいるということを歌っているように思われます。

 そのようにして、モーセとイスラエルの民は荒れ野への第一歩を踏み出したのです。彼らはシュルの荒れ野から三日目にはマラに着いたと書かれていますが、この二つの地名を今日正確に特定することはできません。おそらくは、葦の海からシナイ半島の西、あるいは南の方角へと進んだと推測されます。この方角は、前にも触れましたが、エジプトからカナンの地、今日のパレスチナ地方へと向かう最短の道、すなわち地中海沿岸を北上するペリシテの道と呼ばれていたルートとは違っていたことは確かです。当時からよく整えられていたペリシテの道を通れば、どんなにゆっくりと移動しても1、2か月で約束の地へと到着できたのに、神はあえてイスラエルの民を荒れ野へと導かれ、40年もの長い間荒れ野をさまよわせたのでした。それは、イスラエルに対する神の愛の訓練のためにあったと、聖書は繰り返して語っています。今一度、申命記8章2~6節を読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。

 さて、荒れ野へと導かれたイスラエルの民は、三日間飲み水を得ることができずに、マラに着いた時、ようやく水のある場所を見つけましたが、そこの水は苦くて飲むことができなかったので、民はモーセに不平を言ったと書かれています。神の愛による訓練を受けているイスラエルの民は早くもその訓練につまずきました。彼らの不平は、この後にも何度も繰り返されます。【16章2節】。また【17章3節】(122ページ)。神の愛による訓練の期間は、イスラエルの繰り返しの不平の時でもあったのです。彼らは神の救いの恵みを忘れ、神の約束の言葉を疑い、何度も指導者モーセに不平を言い、神に背くのです。神の愛と救いの恵みがイスラエルに注がれる時、同時にイスラエルの不従順と罪が明らかにされるのです。神の愛と救いの恵みを受け取るに値しないイスラエルの罪、その愛と恵みに感謝をしないイスラエルの罪、すぐに忘れてしまい、不平や不満を言う罪、荒れ野の40年間の神の訓練の期間、そのようなイスラエルの不従順と罪が繰り返されます。

 しかし、神はこのような罪のイスラエルを決してお見捨てになることはありません。神はモーセに一本の木を示されました。モーセがその木を水に投げ込むと、水は甘くなり、飲めるようになったと25節に書かれています。神はここでも奇跡をもってイスラエルの民を救われました。彼らの命をつなぐ水をお与えくださいました。それだけでなく、25節後半にはこのように書かれています。【25節b~26節】。ここで「彼」と言われているのが、モーセ個人を指すのかイスラエルの民を指すのかははっきりしませんが、その両者と考えてよいでしょう。イスラエルの民の指導者として立てられているモーセに与えられた恵みは、民全体に与えられた恵みでもあります。神は苦い水を甘い水に変えられただけでなく、彼らに「掟と法」を与えられました。掟と法の内容が何であったかは書かれていませんが、イスラエルの民は神がお与えくださった奇跡の水、甘い水を飲んで肉体を癒し、力づけることが許されただけでなく、神の言葉である「掟と法」をも与えられ、彼らの魂がまことの命によって生きるための言葉を与えられたのです。この掟と法は、のちに20章でモーセの十戒として、また契約の書として具体的な文書になって彼らに与えられることになります。

 イスラエルの民は神がお語りくださる神の言葉に聞き従い、その神の言葉を彼らの歩みと生活の中で行うことによって、神のみ心を実現し、それによって神によって救われた民であることを証しするのです。それが、エジプトの奴隷の家から導き出されたイスラエルの民の信仰の歩みであり、そして葦の海の奇跡によって救われた神の民の新しい生き方になるのです。

 わたしたちはここで、旧約聖書の民イスラエルと新約聖書の民教会の大きな特徴を確認することができます。それは、主なる神のみ声に聞き従う民、その神の命令に耳を傾け、その神がお与えになるすべての掟を守って生きる民であるということです。これこそがわたしたちの信仰の大きな特徴です。別の言葉で言えば、言葉の宗教であるということです。神の言葉に生きる宗教だということです。

 世界には多種多様な宗教があります。言葉を発せず、黙想し、瞑想を深めることによって悟りへと至ると説く宗教もあれば、修行や苦行を積み重ね、肉体を極限まで苦しませることによって魂の平安を求める宗教、あるいは善行や社会貢献などによって徳を高めることを重んじる宗教など、さまざまです。しかし、わたしたちが信じているキリスト教という宗教、その信仰はそれらとは違っています。わたしたちは神の言葉を聞き、それを信じ、それに従うことによって生きるのです。主体、主導権は、神の言葉にあります。神は「掟と法」によって、それはわたしたちにとっては聖書ですが、それによって語られます。日々新たに、その人その人に、その時その時に、わたしたちが真実に生きた者となるために、必要な言葉をお語りになります。わたしたちはそれに聞き従うことによって、神によって守られ、導かれて生きるのです。どのような試練や危険や恐れの中にあっても、神はわたしと共に歩んでくださいます。

 最後に【27節】。エリムがどこを指すのか分かっていませんが、この後のイスラエルの民の道のりから推測するなら、アラビア半島(今のサウジアラビア)の西側、紅海に面して南下し、モーセの山(シナイ山)に至る途中に位置すると推測されています。「12の泉」「70本のなつめやし」、12も70も聖書ではいわゆる「聖なる数、完全数」なので、これから続くであろうイスラエルの荒れ野の旅のすべてに、神の恵みと導きとが一つも欠けることなく、豊かに注がれるであろうことを暗示しているのかもしれません。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは日々にわたしたちの命に必要なすべてのものを備えてくださいますことを感謝いたします。わたしたちはあなたから多くをいただいておりながら、その恵みに気づくこと遅く、感謝することの少ない者であることを、懺悔いたします。どうかわたしたちの信仰の目を開いてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月3日説教「ローマに福音を告げ知らせる責任」

2026年5月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ローマの信徒への手紙1章8~15節

説教題:「ローマに福音を告げ知らせる責任」

 パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、彼の第三回世界伝道旅行の終わりころ、コリントの町に滞在していた紀元58年ころと推測されています。この時点で、パウロはまだローマに行ったことはなく、ローマの教会との交流もほとんどありませんでした。ちなみに、ギリシャ地方のコリントからイタリア半島のローマまでは、直線距離でアドリア海を挟んで北西に1200キロ以上も離れています。

 そのローマにある教会になぜパウロが手紙を書くことになったのか、その理由が1章8節以下に書かれています。ここには、パウロがどんなにかローマ行を熱望していたか、そのパウロの熱い思いが語られています。なぜパウロがこの手紙を書いたのか、またなぜ彼がローマの教会を尋ねたいと願ったのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。

まず、8節でパウロは、「あなた方の信仰が全世界に言い伝えられていることを神に感謝する」と書いています。ローマに主キリストの教会が建てられている、そこに主イエス・キリストを主と信じ、唯一の救い主と信じている信仰者の群れが形成されている。そのことが全世界的な、大きな意味を持つことなのだというのです。ここからわたしたちは、ローマに主キリストの教会が存在しているということに対して、パウロが特別な重要性を見いだしていたということに気づかされます。

当時から、「すべての道はローマに通じる」と言われており、ローマの町はローマ帝国の首都であると同時に、全世界の中心都市であり、全世界のあらゆる民族が集まり、あらゆる文化、思想、経済、そしてこの世の権力のすべてがここに集中していました。ローマ皇帝カイザルがここから世界を支配していました。そのローマに、一握りの小さな信仰者の群れが存在している。この地上の世界にルーツを持つのではなく、神の国に本来の国籍を持ち、この世の権力に従うのではなく、十字架につけられ三日目に復活された主イエス・キリストに全き服従を誓い、復活して天に昇られた主イエス・キリストを唯一の主と信じる小さな信仰者の群れが存在している。そのことの、大きな、驚くべき意味を、パウロは知っています。そして、彼らと同じ信仰を持つパウロが、彼らと直接に会って信仰の交わりを深め、彼らの信仰の闘いに共に参加し、同じ信仰を共に告白したい、そのようにパウロは願ったのです。

この手紙を書いたもう一つの直接的な理由が15章22節以下に書かれています。それによれば、パウロは、当時世界の果てと考えられていた、ヨーロッパ大陸の西の果てイスパニア(今のスペイン)にまで福音宣教の足を延ばしたいと願っていましたが、そのためにローマを拠点にして、ローマ教会の支援を受けてイスパニア伝道を始めたいという計画があったのでした。パウロがそう願ったのは、ローマの教会に自分の働きのために支援をお願いしたいとの思いからだけではありません。ローマの教会が他の教会のために仕える教会になるということは、その教会にとって大きな祝福となるからです。世界の中心都市であるローマに建てられた教会が、世界に仕える教会となることによって、ローマの教会はいよいよ祝福された教会となるのです。

そのようなわけで、パウロはまだ会ったことがないローマの教会に、自分のことを知ってもらうために、いやそれ以上に、彼が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかをあらかじめ知ってもらうために、この手紙を書いたのです。

パウロがどれほど熱心にローマ教会訪問を強く願っていたかは、きょうの箇所にそのことが繰り返して書かれていることから十分知ることができます。9、10節では、「わたしが祈るときにはいつも……願っています」【9~10節】。11節でも、「あなたがたにぜひ会いたい」、15節では、「ローマにいるあなたがたにも……告げ知らせたい」【15節】き。これらから、パウロがどんなにかローマ教会訪問を強く願っていたかが伝わってきます。ローマ行きはパウロの長年の祈りであり、切望であったのでした。

パウロがこれほどまでにローマ教会訪問の思いを繰り返して語ることには、今挙げた理由のほかにもあったことが、13節から推測されます。【13節】。パウロのローマ行の計画が何回も妨げられてきたと彼は言います。何によって妨げられたのかは分かりません。彼が他の地域での宣教活動に忙しかったからか、あるいは外部から何らかの妨害があったからか、彼自身の心境のことかは分かりません。ある人はこう推測します。パウロは世界の大都市であるローマで宣教することを怖がっていたので、何かにと理由をつけて行きたがらなかったのだと言っている人たちが周囲にいたのではないか。あるいは、パウロは他の人が建てた教会へは行きたがらなかったのではないか。自分が建てたコリントの教会へ何度も出かけていくのに、ローマの教会はそうではないから積極的に行こうとしなかったと言っている人たちがいたのではないか。そういう人たちに対して、パウロはここで弁明しているのではないか。そのように推測する人もいます。

どのような理由にせよ、パウロのローマ行きの願いは決して失われることはありませんでした。妨げられれば妨げられるほどに、その思いはいよいよ強まるばかりです。もしパウロの願いが、人間の思いから出たものならば、彼自身の名誉とか自己保身とかがその理由であったのであれば、その願いは妨げにあって、やがて消え去るほかになかったでしょう。けれども、そうではなかったことは確かです。妨げにあえばあうほどに、彼の願いは強くなっていったのでした。それは、彼自身の願いというよりは、彼が仕えていた主イエス・キリストと父なる神に押し出されて、主キリストの福音を宣べ伝えるという、彼に託された使命感から湧き上がる熱意だったというべきなのでしょう。もっと言えば、それは神のみ心によることであり、主キリストのご命令によることなのです。神のみ心、神の救いのご計画は、あらゆる困難やこの世の鎖をも断ちきって、前進するからです。

そのことを、9~10節から読み取ることができます。【9~10節】。パウロはここで、ローマ教会訪問計画が決して一時的な思いつきではなく、偽りでもないこと、真実で切実なものであること証しする証人として神を立てています。更に、その神とは、彼が全身全霊を傾けて、み子イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために仕えている神であると言っています。この神が、パウロのローマ教会訪問の願いと計画が真実であることを証明してくださるということは、そもそもそれが神のみ旨なのであり、神のご計画であるということをパウロが信じていたということにほかなりません。パウロがローマに行くこと、そこで主キリストの福音を宣べ伝えることは、彼を使徒として召してくださった神、特にユダヤ人以外の異邦人に福音を語るように召してくださった神ご自身の意志なのだと、パウロは固く信じていたのです。それゆえに、その計画はどのような妨害にあおうとも、変更されることはないのです。

10節で「何とかしていつかは神の御心によって」というパウロの祈りは、わたしたちが『主の祈り』の第二の祈願で、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る祈りと同じです。どのような困難な状況にあっても、前方にどのような厚い壁が立ちふさがっていようとも、「神よ、あなたのみ心がなりますように」と祈ることは、パウロに許されている祈りであるとともに、わたしたちにも許されており、また命じられてもいる祈りです。

パウロのローマ行きの祈りがどのようにしてかなえられたかは、使徒言行録21章以下で知ることができます。それは、誰も、おそらくはパウロ自身も予測できなかった、全く奇しき神のご計画でした。第三回世界伝道旅行を終えてエルサレムに帰って来たパウロは、ユダヤ人たちによって捕らえられ、裁判を受けることになったのですが、ローマの市民権を持っていたパウロは皇帝の法廷に上訴します。数年後、彼は囚人として、ローマに護送されることになったのでした。

ローマに着いたパウロがその後どうなったのかについては、使徒言行録は何も記してはいませんが、すぐ前のページの使徒言行録28章30~31節にはこのように書かれています。【30~31節】。ここには、「まったく自由に何の妨げもなく」と書かれています。ローマ行きを何度も妨げられてきたパウロでしたが、今やそのローマで、何の妨げもなく、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができたのでした。神のみ心はこのようにして実現したのです。

11節からは、ローマ教会訪問の具体的な目的が書かれています。【11~12節】。「霊の賜物を分け与えて力づけ、お互いの信仰を励まし合う」ことがその目的です。これこそが、教会と教会が交わる際の、また信仰者と信仰者が交わる際の、最も大きな目的です。お互いの安否を問い合うとか、それぞれの町の特産品を交換するとか、教会の情報や課題を分かち合うことも有益ではあります。しかし更に大きな恵みは、霊の賜物を分かち合うこと、同じ信仰に立つ者たちとして励まし合うことにあります。

「霊の賜物」とは、神から一人一人に与えられた、あるいはまた教会に与えられた恵みのことです。その人が自分の能力や努力で手に入れたものではなく、むしろ、自分が神のみ前に貧しく無力なものに過ぎないことを知り、ただひたすら神から与えられた恵みによって生きようとする者に、神から賜る恵みのことです。主イエスはそれをタラントと言われました。霊の賜物、恵み、タラントを神から与えられ、それを感謝する人は、他の人にそれを分かち与えます。分かち与える人は、いよいよ豊かに与えられます。

「信仰による励まし合い」も同じです。パウロにとっても、またローマの教会にとっても、その時代の中で、その地にあって、信仰に生きるということは、多くの労苦に満ちていました。信仰の闘いの連続でした。もし、自分の信仰のことだけを考えていたら、やがて疲れ、倒れてしまうかもしれません。けれども、同じ信仰の闘いをしている者たちが、互いに祈り合い、支え合い、直接に顔を合わせてその信仰を確認し合うことは、どんなにか大きな励ましであり、慰めとなることでしょうか。

使徒パウロは一人で立っているのではありません。ローマの教会もそうです。共に主キリストによって立つことを許されているということを確認し合うことによって、共に励ましを与えられるのです。

最後に、14節の「果たすべき責任がある」という言葉に注目したいと思います。直訳すれば「負債(つまり借金)がある」という意味です。この言葉はしばしば人間の罪を言いあらわす際に用いられます。主イエス・キリストによって1万タラント(数百億円)もの大きな罪の負債をゆるしていただいたパウロは、またわたしたちは、他の人たちを罪のゆるしへと導くための負債を負っているということです。わたしたちはみな主キリストの福音を宣べ伝えるという、喜ばしい責任を負っているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエス・キリストの福音が全世界のあらゆる町々村々に宣べ伝えられ、主キリストの教会が建てられています。あなたはそのすべての宣教活動を導き、支えておられます。主よ、どうかその一つひとつの教会をあなたがいよいよ祝福してくださり、あなたを信じる民を増し加えてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。