6月16日(日)説教「天と地を創造された神」

2019年6月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章6~13節

    ヘブライ人への手紙1章1~4節

説教題:「天と地を創造された神」

 創世記1章に記されている神の天地創造のみわざは、文章の形式が非常によく整っていることが分かります。まず、「神は言われた」とあり、続いて「あれ! そのようになれ!」と言われる神の命令が語られ、次に、「あった、そのようになった」という結果が語られ、さらに「神はそれを見て良しとされた」という評価が付け加えられ、終わりに、「夕べがあり、朝があった。第何日であった」という時の区切りが書かれます。第一日目の光の創造から始まって第六日目の人間の創造に至るまで、ほぼ完全と言ってよいほどにこの形式が守られています。

 このような、リズミカルで、整っている表現は、礼拝での朗誦や交読、あるいは信仰告白や讃美歌が背景になっているのではないかと考えられています。イスラエルの礼拝の中で、長く歌い継がれ、告白されてきた伝統をここに見ることができます。2章1節以下に書かれている第七日目の安息日の規定には、まさにイスラエルの民を礼拝へとお招きになる神の最終的な意図が読み取れるように思われます。

 きょうは6~13節まで、第二日目と第三日目の創造のみわざについて学びます。わたしたち人間を真実の神礼拝へとお招きになる神のみ心を尋ねながらご一緒に読んでいきましょう。

 【6~8節】。6節の二日目の初めもまた「神は言われた」という言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい一日が始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい創造のみわざが始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、わたしたちの救いのみわざが始まります。わたしたちの礼拝が始まります。

「そのようになった」と続けて8節に書かれています。神のみ言葉はむなしく語られることはありません。神のみ言葉は出来事を生み出していきます。神のみ言葉は救いの出来事をわたしたちのうちに引き起こします。神のみ言葉が語られることから始まる一日の歩み、一週の歩みは、決してむなしく終わることはありません。神ご自身がこの日に、この週に、わたしたち一人一人のために創造のみわざを、救いのみわざをなしてくださるからです。そして、わたしたちは神がなさったみわざを見て、「そのようになった」と感謝をもって告白することができるのです。

「水の中に大空あれ……水を分けさせられた」(6~7節)。第二日目には大空と呼ばれる天が創造されました。古代近東諸国の宇宙観によれば、地の上を覆っている空、天空は半円形のドームのような形をしていると考えられていました。神はその大空の上にある水とその下にある水とに分けられました。大空の下の水は9節以下の第三日目で海の水として集められるのですが、上の水は固い鉄板でできたドーム型の大空のうえにある貯水槽のようなものに蓄えられており、神は時に応じてその鉄板の扉を開いて地に雨を降らすと考えられていました。

ここでは、6節と7節にある「分ける」という言葉が重要な意味を持ちます。同じ言葉は4節にもありました。神は光と闇とを分け、両者が勝手に相手の領域に侵入しないように定めておられます。どのような深い闇であっても、神のみ心なしでは、闇は光に勝利することはできません。どのような長い闇が続いていたとしても、神はみ心によって闇を追い出され、光の勝利を告げられます。光も闇も神のご支配のもとにあり、神のみ心によってコントロールされているのです。それと同じように、大空の上にある水と下の水は共に神のご支配のもとに置かれています。神のみ心なしには、天の大空の上にある水は地に落ちることはなく、下の水があふれて両者が一体となることもありません。ここには、原始の混沌とした海の水を支配し、コントロールされる主なる神の偉大な力が暗示されています。そのことについては9節、10節の三日目の創造で再度触れます。

創世記7章のノアの大洪水の個所には、神が天の窓を開かれ、雨が40日40夜降り続いたと書かれています。また、列王記上17章には、預言者エリヤがイスラエルの罪に対する神の裁きを告げるために、神が3年の間地に雨を降らせないと預言したことが書かれています。さらに、大空をご支配しておられる神の慈しみについて、詩編78編23~25節にはこのように書かれています。【23~25節】(914ページ)。主イエスはマタイによる福音書5章の「敵をも愛しなさい」と勧める箇所で、天の父なる神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからだ」と言われました。

神は天と天の上にある水とを支配しておられ、み心のままにそれをお用いになります。

 8節に「神は大空を天と呼ばれた」とあります。「呼ぶ」という言葉も5節ですでに出てきました。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権と神がそれにふさわしい務め、役割を与えることを意味します。では、天とは何でしょうか。天という言葉は旧約聖書では450回近く、新約聖書では300回近く用いられています。聖書の中で重要な言葉の一つです。わたしたちが「天の父なる神よ」と祈るその天のことです。天という言葉が用いられるとき、ほとんどの場合、そこでは同時に神のことが語られています。神は天をご自身の住まいとされました。もちろん、天も神によって創造された被造物ですから、天イコール神ではなく、神は天にだけ閉じ込められる方ではありません。神は天にも地にも、地の深いところにも、至る所におられます。列王記上8章27節でイスラエルの王ソロモンは、神殿を奉献する礼拝で、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおさらふさわしくありません」と祈っています。

 にもかかわらず、神は天におられることを良しとされました。あえてその場所をお選びになりました。天とは、わたしたちの頭上に張り巡らされている星をちりばめた空のことであり、神がアブラハムに「空の星を見なさい。それを数えることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫もそのようになる」と約束された空のことであり、太陽の光がそこからすべての人に注がれる空、雨がそこから落ちて地を潤す空のことであると同時に、天とはまた神が住まわれるところ、わたしたち人間が住むこの世界とは全く違っている、わたしたちの手や目や理解力が及ばない天のことでもあります。天イコール宇宙ではありません。宇宙は人間が到達可能であり、科学的な探求が可能です。しかし、聖書で言われている天は広大な宇宙よりもはるかに広く、高く、遠くの世界、領域を意味しています。わたしたち人間の考えや能力をはるかに超えている天、神がそこにお住まいになっておられる天、神がそこからすべての被造物をご覧になられ、この世界を裁かれ、この世界に住む人間たちに恵みをお与えくださる天のことでもあります。詩編104編13節には、「主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる」とあり。また、アモス書9章6節には、「天に高殿を設け/地の上に大空を据え/海の水を呼び集め/地の表に注がれる方。その御名は主」とあります。神は天でご自身の職務を司っておられます。

 「神は大空を天と呼ばれた」(8節)。それによって、わたしたちが神を思い描くときに、そして祈るとき、上なる大空を見上げ、そこから神の賜物を期待することができるようにされたのです。失望して頭を下げ、トボトボ歩いているときでも、大きな重荷にあえぐときでも、かしらを上に挙げ、沈んだ心を持ち上げて、天に向け、そこにおられる神を見上げることができるようにされたのです。罪を犯し、顔を地に伏せるしかないとき、恥と屈辱に目を伏せるとき、なおも天に顔を向けて、そこからお語りくださる神のゆるしのみ言葉を聞くことができるようにされたのです。天におられる神は、地上にあるどのような困難で乗り越えがたい障害物にも妨げられることなく、上から、天から、必要なものを与えたもうのです。それゆえに、わたしたちは「天にましますわれらの父よ」と祈るのです。

 9~13節は天地創造第三日目のみわざです。【9~13節】。ここでは、下の水が一つのところに集められ、陸地が作られます。2節の混沌とした原始の海の水が神によってコントロールされて上の水と下の水とに分けられ、さらには下の水が神のみ力によって一つ所に集められ、はじめて陸地が姿を現します。10節にも「呼ぶ」という言葉が2度用いられています。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権を表し、神がそれにふさわしい務めをお与えになることを意味しています。先にも少し触れましたが、ここでは水を支配される神の偉大な力が強調されているように思われます。

古代の人々は、海には人間が制御することができない悪魔的な力があると信じていました。イスラエルにおいても、信仰者が経験する苦難や試練を大水にたとえる例が多数あります。詩編69編を開いてみましょう。【2~3節、15~16節】(901、2ページ)。詩人は大水の恐ろしさを知っています。彼自身の力とか、何か他の力によっても、だれも大水を制御することができない悪魔的な力を持っていることを知っています。それと同時に、詩人はただ神だけが大水を鎮め、支配されることを知っています。詩編93編4節にはこうあります。「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます神」。

神が「乾いたところを地と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた」とは、海と陸との間に神が確かな境界線を定め、海の水がその境界線を越えて陸地を覆ってしまわないように、また陸の山が海を埋め尽くしてしまわないようにされたということ、また、それぞれにふさわしい使命、役割をお与えになったという意味です。イスラエルの民はただ海の水の悪魔的な力を恐れるだけではなく、その水をも支配され、み心のままにコントロールされる神の偉大な力を信じ、その神の救いのみわざを信じました。出エジプト記14章に書かれている葦の海を二つに分けられた神の奇跡と救い、またガリラヤ湖の嵐をみ言葉によって静められた主イエスの奇跡は、そのような背景の中で起こった神の驚くべき力を強調しているのです。

三日目の後半には、地に草と果樹を芽生えさせたことが書かれています。ここでは地に特別な使命が与えられています。神は地に命じて「芽生えさせよ」と言われます。地は神がお与えくださる豊かな実りを生み出す母としての使命を与えられています。ここではまた、神が地に対して特別の関心を持っておられることをも暗示しているかのようです。神はご自身の住まいである天よりも、あるいは神がその悪魔的な力をご支配された海よりも、より大きな関心を地に対して持っておられるように思われます。神はのちに、この地の上に生き物を創造され、人間を創造され、この地の上でご自身の救いのみわざをなさいます。

三日目には「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が10節と12節とに二度繰り返されていますが、そして実は二日目にはこの言葉が欠けているのですが、それがどういう理由によるのかはよく分かっていません。二日目に水が天の上と下とに分かられたことが、三日目になって海と陸とに分けられたことで完了するからとか、神が地に対して特別の大きな関心を寄せておられるからなどと説明されます。

いずれにしても、神がご自身が創造されたもの、すべての被造物を良しとされました。神によって創造されたものはみな良きものです。みな神のみ心によってそこにあり、みな神のみ心によって生き、みな神のみ心によってその使命、務めを与えられているのです。

(祈り)

6月9日(日)聖霊降臨日説教「聖霊降臨と教会の誕生」

2019年6月9日(日) 聖霊降臨日 秋田教会礼拝説教

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    使徒言行録2章1~13節

説教題:「聖霊降臨と教会の誕生」

 きょうは教会の暦ではペンテコステ・聖霊降臨日です。この日に、エルサレムに集まっていた主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされて主イエスの福音を語った弟子のひとりペトロの説教を聞いたユダヤ人3千人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初のキリスト教会が誕生しました。

使徒言行録2章1節では「五旬祭」と訳されているように、ギリシャ語のペンテコステは第50番目、第50日目という意味で、旧約聖書の時代から続くユダヤ人の3大祭りの一つです。過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りで、旧約聖書では七週の祭りとか、初穂の祭りとも呼ばれています。

 そこできょうは最初に、旧約聖書の過ぎ越しの祭りとその後50日目の初穂の祭りとの関連について、また主イエスの十字架と復活のみわざとその50日後の聖霊降臨による教会誕生の関連について、さらには、旧約聖書時代の二つの祭りと新約聖書の教会の二つの祭りである復活日と聖霊降臨日との関連について、考えてみましょう。

 ユダヤ人最大の祭りである過ぎ越し祭は、イスラエルの民が奴隷の家エジプトから主なる神によって救い出された解放を祝う祭りです。その50日後、ペンテコステ、あるいは七週の祭り、初穂の祭りは、奴隷の家から解放されたイスラエルの民が約束の地カナンに導かれ、その地で最初に収穫した小麦の穂を神に感謝してささげる祭りです。後の時代には、シナイ山で十戒をはじめとした律法を授けられたことを感謝する意味も付け加えられました。

 ペンテコステの祭りが過ぎ越しの祭りを起点として数えられているのは、この二つが密接に結びついているからです。つまり、神によって奴隷の家から救い出された民は、それに続いて、豊かな収穫を約束されているということなのです。罪の奴隷から解放され、救われた民は、神の律法、神のみ言葉に喜んで従っていく信仰生活を通して、豊かな実りを与えられる、その実りを神に感謝しておささげする礼拝の民となるのです。

 主イエスの十字架はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時期でした。主イエスは十字架につけられる前日の夕方、弟子たちと最後の晩餐を共にされました。共観福音書によれば、それは過ぎ越しの食事でした。また、ヨハネによる福音書によれば、主イエスが十字架で死なれた金曜日の午後3時ころは、エルサレムの神殿で過ぎ越しの子羊を屠る時刻と一致していました。旧約聖書の過ぎ越しの祭りと主イエスの十字架は、時期が同じであるだけでなく、二つは同じ神の救いのみわざであるということをも聖書は強調しています。神がイスラエルの民によってお始めになった出エジプトという救いのみわざは、今や主イエスによって全世界の民のための十字架による救いのみわざとして成就したのです。

 旧約聖書の七週の祭り・初穂の祭りとペンテコステ・聖霊降臨日にも密接な関連があります。主イエスの十字架の贖いによって罪の奴隷から解放されたわたしたちは、神から与えられた自由の中で、喜んで神のみ言葉に聞き従い、主イエスが備えてくださった救いの道を歩み、神を礼拝する民とされます。復活された主イエスは天の父なる神の右に座しておられ、そこから聖霊なる神を送ってくださり、わたしたちを導いてくださいます。その具体的な実りとして地上に誕生したのが教会です。教会は主イエスの十字架の贖いよって救われたわたしたちが、そこで神に喜ばれる豊かな実りを結び、その収穫を神への感謝のささげものとして携え、神を礼拝する場です。ペンテコステはその教会の誕生を記念する日です。今も、教会は聖霊によって生かされ、豊かな収穫を約束されていることを覚えたいと思います。

 使徒言行録2章には、最初にエルサレムで教会が誕生した時のことが詳しく描かれています。【1~4節】。ここに描かれている聖霊降臨の出来事は激しい風の音と炎のような舌が現れるという、非常に具体的で、人間の視覚や聴覚によってとらえられる現象として描写されていることにまず注意したいと思います。聖霊なる神とか、聖霊が注がれるということは、わたしたちには理解しづらいことのように思われます。また、日本キリスト教会の神学や信仰においては、聖霊の教理はあまり強調されない傾向にあるようにも思われます。その理由の一つには、聖霊がしばしば人間の感情と混同されて理解されることが多かったという歴史的な反省があります。聖霊は三位一体なる神の一つの位格であるということ、すなわち、父なる神、み子なる神主イエス・キリスト、そして聖霊なる神という、三つの位格を持つ一人の神であるというキリスト教信仰の中心的教えである三位一体論からそれて、聖霊を人間の感情とか思い、心の運動、興奮した状態などと同じように誤解されることが過去にも、また現在にも多くあるということを警戒してのことだと思われます。

 しかしながら、誤解を恐れるだけではなく、聖霊についての教理を積極的に、また正しく理解すべきであることは言うまでもありません。そのために、きょうのみ言葉は重要です。聖霊の降臨、また聖霊の働きとは、人間の感情とか心のことでは全くなく、むしろわたしたちが耳で聞き、目で見て、体全体で感じ取ることができる、外からの、強く激しい力であるということを、まず第一に確認しておくことが大切です。

激しい風の音が天から聞こえてきたと書かれています。炎のような舌が天から伸びてきました。聖霊なる神のお働きは、天からやってくるのです。そのために、聖霊降臨と呼びます。人間の内側からではなく、人間の外から、天から、復活された主イエスがそこにいます天から、聖霊が下り、弟子たちの上に注がれたのです。聖霊なる神は天から来られて、わたしたちをつき動かします。それはむしろ、人間の感情や心に逆らって、時にはそれを破壊する大いなる力として働くのです。

3節に「一人一人の上にとどまった」とありますが、この個所全体では弟子たちが一つの群れであることが何度も強調されています。1節に、「一同が」「一つになって」「集まっていると」、4節でも、「一同は」とあります。この一同とは、1章6節に、「使徒たちは集まって」と書かれていた主イエスの弟子たちであり、また14、15節では、他の兄弟姉妹たちも加わり、120人ほどの群れになって、共に熱心に祈っていた人たちのことです。少し時間を戻すと、彼らは主イエスの十字架の時には、みなそこから散らされた人たちでした。だれ一人として、主イエスと共に十字架を担っていくことができず、すべてのひとが主イエスの十字架につまずき、主イエスを見捨て、十字架から散らされていった人たちでした。その人たちが今一度、呼び集められ、共にある一つの群れとされ、一同とされているのです。そして、彼らの群れの上に聖霊が注がれたのです。

ここには聖霊なる神の最も大きなお働きが暗示されています。聖霊なる神は、罪のゆえに神から離れ、散らされ、孤立している人間を、またお互いにも罪のゆえに分離している人間を、一つの群れとして呼び集め、愛とゆるしの絆によって結びつける働きをするということが、暗示されているのです。

わたしたちはここで、創世記11章に書かれているバベルの塔のことを思い起こします。世界の人間たちが互いに相談しあって、高い塔を建てて、その頂を天の神にまで届かせようとしたとき、神は彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにして、彼らを全地に散らされたということが書かれています。人間の罪は自らが神のようになって、神よりも高いところに立ちたいという欲望と傲慢を生み出します。しかし、神なき世界の究極は滅びでしかないことを神は知っておられます。それ故に、神はまことの救いが到来するときまで、人間たちの言葉を乱し、人間たちを孤立させることによって、世界の絶滅を防止されたのです。

しかし今や、まことの救いの時が到来しました。主イエス・キリストの福音によって全世界のすべての人たちが罪ゆるされ、救われて、一つの神の民となる時が到来したのです。み子主イエス・キリストの十字架の救いと聖霊なる神のお働きによって、散らされていた人たちが一つに呼び集められ、主キリストの教会の民として結集させられたのです。それが聖霊降臨日の出来事の最も大きな意味です。

使徒言行録2章5節以下に描かれている弟子たちの行動がそのことを具体的に示しています。聖霊に満たされた弟子たちは全世界の言語で神の偉大なみわざである主イエス・キリストの福音を語りだしました。9~11節に挙げられている諸民族、諸言語は、当時のローマ帝国全体を指しています。聖霊に満たされた弟子たちが、ペンテコステの祭りを祝うためにエルサレムに集まって来ていた全世界の民族、言語の違うすべての人たちに一つの同じ神のみわざである主キリストの福音を語り、彼らがみなその福音を理解したという出来事は、バベルの塔の出来事の正反対の現象であり、その時に世界に散らされた諸民族、諸言語の人々が今や聖霊が弟子たちに語らせる言葉によって一つの民とされたことを表しているのです。

主イエスの十字架の前でつまずき、散らされていた弟子たち、また罪のゆえに全世界に散らされていた諸民族、諸言語の人々が、聖霊のお働きによって一つの神の民として結集される、主キリストの福音を聞く一つの礼拝の民とされる、これがペンテコステの出来事です。1~5節のみ言葉をその視点から読み返してみると、ここにも同じ聖霊なる神のお働きがあることに気づかされます。2節には、激しい風が天から吹いてきて家中に響いたと書かれています。風は聖霊を意味しています、聖霊が家中に満ちるとは、全世界に聖霊なる神のお働きが及ぶことを象徴的に言い表しています。また、聖霊が教会全体を支配していることを言い表しています。聖霊が全世界の民を、教会の民を一つに結びつけます。

3節に「炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。天から下ってきた聖霊なる神が弟子たち一人一人を上から支配し、彼らの全身を満たします。聖霊は舌の賜物として、すなわち言葉を語る賜物として、弟子たちに与えられます。これまで弟子たちは主イエスの教えを聞く立場でした。しかし、聖霊を受けてからは、彼らは主キリストの福音を語る者としてこの世に遣わされるのです。4節に、【4節】と書かれているとおりです。

「聖霊に満たされ」とは、聖霊が弟子たちを覆いつくし、彼らのうちに満ち溢れ、彼らの全身が聖霊によって支配され、彼ら全体が聖霊によって占領されているかのようになり、聖霊が彼らの新しい主体となって働かれることを意味しています。「霊が語らせるままに」と書かれています。聖霊が彼ら一人一人に新しい霊の言葉を授け、彼ら自身がその聖霊の言葉によって生きるとともに、彼らはその聖霊の言葉をこの世の人々に向かって語りだすのです。そのようにして、5~13節に書かれているような不思議な出来事が起こり、14節以下に書かれているようなペトロの説教が語られ、37節以下に書かれているように、主イエスを信じる信仰者が誕生し、教会が誕生するのです。

聖霊に満たされた弟子たちは、主キリストの福音を語り、主キリストの救いのみわざのために仕え、またこの世の人々の救いのために仕える者とされるのです。わたしたちはそのような一人一人としてこの教会に集められ、聖霊の賜物を与えられているのです。

(祈り)

6月2日(日)説教「主キリストにある聖なる者たち」

2019年6月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記7章6~11節

    フィリピの信徒への手紙1章1~2節

説教題:「主キリストにある聖なる者たち」

 フィリピの教会はパウロの第二回世界伝道旅行の際にその基礎が築かれました。使徒言行録16章によれば、パウロは小アジア地方での伝道活動の途中で、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という祈りを聞き、トロアスからエーゲ海を渡ってヨーロッパの玄関口フィリピに入り、その町で主イエス・キリストの福音を語り、何人かのキリスト者が誕生しました。しかし、まもなくパウロは迫害によってこの町を出ることを余儀なくされましたが、パウロとフィリピ教会とはその後も非常に親密な交わりを持ち続けました。パウロは伝道活動のための個人的な経済支援を原則受けませんでしたが、フィリピ教会だけは例外でした。この時にもローマかエフェソで投獄されているパウロのための援助の贈り物をエパフロディトという教会員が届けてくれたことに対して、パウロは心からの感謝を伝えるためにこの手紙を書いています。

 手紙の冒頭には、当時の手紙の書式にならって、差出人と受取人の名前が書かれ、そのあとに祝福が祈られています。前回は差出人について学びましたから、きょうは1節後半の手紙の受取人について、当時のパウロとフィリピ教会の状況を考えながら学んでいくことにします。

 「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」(1節b)。これが手紙の受取人です。ここでは、教会という言葉(ギリシャ語ではエクレーシア)は用いられてはいませんが、フィリピの町に建てられた教会、パウロが第二回世界伝道旅行の際にその基礎を築いたフィリピ教会のことです。「フィリピにいて」(あるいは、「~にあって」)とは、その教会が建てられている特定の場所を示しています。主キリストの教会は全世界に一つです。これを「公同の教会」と言います。教会の主はおひとり、主イエス・キリストであり、教会が信じている神は唯一の神でありますから、教会は各地に建てられていますが、本来はただ一つの公同の教会です。「日本キリスト教会」というわたしたちの教派の名称もそのような意味です。英語の表記では、Church of Christ in japanです。秋田教会も同じ意味です。

 したがって、ポイントは「フィリピにある、あるいは日本にある」というところにではなく、「主キリストの」という方にあります。教会はどこにあったとしても、主キリストの教会です。主キリストの教会として、それぞれの地に建てられているのです。この順序を逆転させることは危険です。かつて、ドイツ第三帝国時代のドイツの教会では、ドイツ・キリスト者運動といわれる勢力が教会の本質をゆがめていきました。ドイツ民族こそが世界の中で最も優秀な民族であり、自分たちの教会はこのドイツ民族のために仕えるのだというスローガンのもと、ナチス・ヒトラー政権を支援し、ヨーロッパでの戦争やユダヤ人大量殺戮に協力しました。このような運動や考え方は、いつの時代にも、どこの地域にも起こり得ます。日本でもそうです。わたしたちは教会の本質がどこにあるのか、教会はそもそもだれに属するのかという点を、見失わないようにしなければなりません。

 そのことを明確にしているのが、次の「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉です。この個所は元のギリシャ語原典では、「キリスト・イエスにある」、英語では、in Jesus Christです。口語訳聖書では「キリストにある、キリストにあって」と訳されていましたが、新共同訳ではほとんどが「キリストに結ばれて」と訳しています。パウロは彼の手紙の中で、この「キリストにあって」という表現を何十回も用いています。それぞれの個所で、いろいろな意味が込められているように思われます。ここではどうでしょうか。ここではフィリピ教会のこと、主キリストにあるすべての聖なる者たちのことが言われていますので、「主キリストを唯一の主と信じている、主キリストによって神のみ前に呼び集められている、主キリストによって罪のこの世から召し出された、主キリストによって救われ、神のものとされている、主キリストによって一つの群れとされている、主キリストのうちにあってまことの命に生かされている」などの内容が考えられます。いずれにしても、教会の存在と命、生活と活動のすべての源泉、土台、基礎、出発点、そして目標が主キリストにあるということです。

 次に、パウロはここでは教会という言葉の代わりに「すべての聖なる者たち」と表現しています。パウロはしばしば教会を「聖なる者たち、聖徒たち」と表現します。【ローマの信徒への手紙1章7節】(273ページ)。【コリントの信徒への手紙一1章2節】(299ページ)。この個所については、後ほどもう一度触れます。【同二1章1節】(325ページ)。【コロサイの信徒への手紙1章2節a】(368ページ)。これ以外にも多数の例があります。

パウロはこの「聖」という概念を旧約聖書のイスラエルの信仰から受け継ぎました。それによれば、神ご自身が聖なるお方です。神は天のいと高き所におられ、罪と死と滅びに支配されているこの地上からは遠く隔てられた聖なる所におられる永遠なるお方です。それゆえに、神の民イスラエルも神のみ前に聖なる者とならなければなりません。そのために、イスラエルは神に動物の命を聖なる贖いの供え物としてささげ、自らの罪をゆるしていただかなければなりません。聖なる供え物としてささげられる牛、羊、山羊などの動物は、前日から群れとは区別され、傷がないか、元気でよく肥えているかが吟味されました。それを聖別と言います。ここから、聖なるものとか聖別するとは、神にささげられるために、この世から選び出され、この世のものからは区別されて、神のものとされるという意味を持つようになりました。

イスラエルの民が聖なる民、神にささげられたものとされたのは、しかし、イスラエルが大きな、力ある民であったからでは全くなく、いやむしろ最も小さな民、奴隷の民であったイスラエルを神が一方的に選び、愛され、ご自身の宝の民とされたからでした。イスラエルが神の聖なる民とされたのは、神の恵みと愛の選びによってでした。イスラエル自身には何の誇るべきものもありません。神の愛の選びによって聖なる民とされたイスラエルは、常に神のみ前に謙遜になり、神の恵みの選びに感謝し、神の大きな愛に応えて生きていくのです。

パウロが教会の民を聖なる者たち、聖徒たちと呼ぶ場合にもこのことが強調されています。教会が聖なる者たちの集まりであるのは、神が主キリストによって彼らをこの世から聖別してくださったからにほかなりません。先ほど読んだコリントの信徒への手紙一1章2節で、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と言われているとおりです。神は主キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち教会の民を罪の奴隷から贖われ、解放してくださり、神の新しい民としてくださり、主キリストの体なる教会に属する聖なる者たちとしてくださいました。わたしたちはもはやこの世のものではありません。罪の奴隷でもありません。

しかし、神によって選ばれたイスラエルの場合もそうであったように、教会の民の場合にも、選ばれたわたしたちの側には選ばれる理由、根拠となるものは何もなく、自らに誇りえる何ものもなく、それゆえにまた何か他の人よりも優れた点があるとか、何も欠点がなく、完璧な人間だから聖なる者と呼ばれているのではないということです。否むしろ、自ら罪びとであることを知り、告白し、しかしそうでありつつ、主キリストによって罪ゆるされていることを信じ、主キリストのものとされていることを感謝している、そうであるからこそ、いよいよ神のみ前に謙遜にされ、神のみ心を熱心にたずね求める者とされている、それが「キリスト・イエスにある聖なる者たち」という意味です。

したがって、わたしたちはもはやこの世に属する者ではありません。他のだれかや他の何かに属する者でもありません。罪と死に支配されている者でもありません。主キリストの十字架と復活によって、主キリストのものとされていることによって、それらのすべてから解放されています。主キリストのもの、神の民とされています。それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙12章1節で勧めているように、わたしたちは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげ」、神を礼拝する民とされているのです。

「すべての聖なる者たち」とはフィリピ教会の信徒、教会員のみんなを指しています。パウロはそのあとで、「監督たちと奉仕者たち」とを特に指定して挙げています。この時代のフィリピ教会がどのような組織になっていたのかははっきりとはわかっていませんが、「監督」と訳されているギリシャ語が今日の教派の分類でいう監督教会と同じような意味での聖職者としての監督を指すのではなく、むしろ教会員の中から選ばれた長老を指していると考えられます。奉仕者は今日のわたしたちの教会の執事と同じ働きをしていたと推測できます。パウロがこの二つの役職名を特に挙げているのには理由があると考えられます。最初にも少し触れましたように、この手紙が書かれた目的は、獄中にあるパウロへの個人的な援助に対する感謝を伝えるとにありましたから、そのことは具体的には手紙の終わり箇所、4章10節以下に書かれていますが、そのパウロへの支援のために実際に労苦した教会の指導者として監督たちと奉仕者たちを挙げて、感謝の思いを言い表そうとしたのだろうと推測できます。監督であれ長老であれ、あるいは奉仕者、執事であれ、教会の中で選ばれて指導的な役割を託されている人たちは、教会の頭であられる主キリストに率先してお仕えすることはもちろん、教会の中の教会員一人一人やまた教会と教会との交わりやこの世のための奉仕のためにも進んで仕えていく務めを託されています。それもまた聖なる者たちに与えられている自由で、喜ばしい務めです。

「キリスト・イエス」という言葉が、手紙の差出人にも受取人にも同じようにつけられています。「キリスト・イエスの僕であるパウロとシラスから、キリスト・イエスにあって聖なる者たちへ」。キリスト・イエスがその両者を固く結びつけています。パウロが投獄されている場所が小アジアのエフェソであればフィリピからは北西に500キロメートル、ローマであればさらに西へ直線距離で1千キロメートル以上も離れていることになりますが、しかもパウロは鉄格子の中に閉じ込められているのですが、しかし主キリストにある信仰者はこの世のすべての壁や山や海をも超えて、あるいは時代をも超えて、強い交わりによって一つに結び合わされています。一つの神の民とされています。来るべき終わりの日の神の国の民とされているのです。主キリストこそがわたしたちキリスト者の交わりを強固で永遠なものにします。

「キリスト・イエス」については前回も学びました。本来は、「イエスはキリスト・メシア・救い主である」という初代教会の信仰告白です。ナザレの村にヨセフとマリアの子としてお生まれになった神のみ子主イエス、わたしたちの罪の贖いのために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、今も天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちの救いの完成のために執り成し、導いておられる主イエス・キリストこそが、全人類の、わたしたちの、そしてわたしの唯一の救い主である」、これがわたしたちの信仰告白の中心です。

(祈り)

5月26日(日)説教「神の前に正しい人」

2019年5月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨブ記1章1~8節

    ルカによる福音書1章5~7節

説教題:「神の前に正しい人」

 ルカによる福音書は、他の福音書に比べて、主イエスの誕生について非常に詳しく描いています。それだけでなく、他の福音書には書かれていない洗礼者ヨハネの誕生についても詳しく報告しています。それがこれから学ぶ5~25節と57~80節に書かれています。洗礼者ヨハネの使命、務めについては、その個所に詳しく書かれていますが、短くまとめると、来るべきメシア・救い主であり、彼のすぐ後に誕生される主イエスのために道を備え、人々を悔い改めへと導き、メシアを迎え入れる準備をすることでありました。

 ヨハネの使命、務めがそうであるように、彼の誕生の次第もまた主イエスの誕生を指し示しています。5~25節には洗礼者ヨハネの誕生予告があり、続く26~56節には主イエスの誕生予告が、そして57~80節にはヨハネ誕生の記録、続く2章1~20節には主イエス誕生の記録というように、ヨハネと主イエスが互いに関連付けられながら描かれています。

 内容的にも、両者にはいくつもの共通点があります。それについてはこれから学んでいくことにしますが、ヨハネは彼の誕生の時から、また彼の全生涯を通して、来るべきメシア・救い主であられる主イエスを指し示し、証しし、主イエスのために道を備えるという役割りを果たしています。

 洗礼者ヨハネだけではなく、実は、聖書に登場するすべての人物は、何らかのかたちで必ず主イエス・キリストと関連性を持っています。主イエスと関連を持たない人物というのは、聖書の中には一人もいません。旧約聖書に登場する最初に神によって創造されたアダムとエヴァから始まって、族長アブラハム、イサク、ヤコブ、また、サウル、ダビデ、ソロモンなどの王たち、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たち、その他すべての旧約聖書の登場人物は、来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストを預言し、指し示し、待ち望むという使命を神から与えられているのです。洗礼者ヨハネはその預言と待望の列の一番最後に立って、最も近くで、すぐ後においでになるメシア・キリストを指し示し、証しし、その救い主に実際にお仕えするという、大きな使命を与えられているのです。

 新約聖書に登場する人物たちが、主イエスに関連しているということは、あらためて言うまでもないことです。それだけではありません。さらに、わたしたちひとり一人も、新約聖書のそれらの証し人たち、仕え人たちと連なって、主イエス・キリストとの関連性を与えられています。今わたしたちが置かれている時代の中で、社会の中で、主イエス・キリストを証しし、この主にお仕えするという使命を与えられています。主イエスと関連性のないわたしの歩みというものは全くありません。主イエスと関連性のないわたしの一日もありません。

 さて、きょうの礼拝で朗読された5~7節には、洗礼者ヨハネが誕生した時代のイスラエルの王の名前と彼の両親の名前が紹介されています。「ユダヤの王ヘロデ」とは、後にヘロデ大王と呼ばれるようになった王のことです。ユダヤの王とありますが、この時代イスラエル・ユダヤ地方はローマ帝国の支配下にありましたから、本来の王はローマ皇帝カイサルでしたが、ヘロデはローマ政府の許可のもとで、ユダヤ人を治める権限を委託されていました。いわば傀儡王でした。

 ところで、ヘロデ大王は今日の歴史資料から紀元前4年に死んだことが分かっていますので、ヨハネの誕生がこの時から1年以内、主イエスの誕生はその後半年後ですから、主イエスの誕生は紀元前6年よりは前ということになります。教会は主イエスが誕生した年を紀元1年と定め、それが今日世界で用いられている西暦となったのですが、その数え方の基準になった年は今日の研究とは少しずれているということになります。とはいっても、主イエスが誕生した時から世界の歴史が新しく始まったという意味は、全く変わりません。

 ヨハネの父はザカリア、母はエリサベト。ザカリアは祭司の職にありました。妻エリサベトも大祭司職を受け継ぐアロン家に属していました。祭司の務めは、この後の8~9節に書かれているように、神の民イスラエルを代表してエルサレム神殿で神のみ前に立ち、香をたいて神に祈りをささげ、あるいは動物や農作物をささげ、民全体の罪のゆるしを願い求め、そして次に、神からのみ告げを聞き、神から与えられた罪のゆるしのみ言葉を民に語る、そのようにして、神と民との間に立って仲立ちをし、仲保者の役割を果たす、それが祭司の務めでした。

 したがって、イスラエルにおいては、祭司職は非常に重んじられておりました。祭司の務めがないなら、イスラエルの人々はだれ一人神のみ前に立ち、神を礼拝することができないからです。神と人との間には罪という大きな壁があって、だれも自分の力や他の何らかの方法によっても、神に近づくことも、神と交わることもできません。ただ、神によって選ばれ、神の特別の恵みによって立てられた祭司が、罪をあがなうための動物の犠牲を携えていくことによってのみ、神と人間との交わりの道が開かれるのです。祭司の職がなければ、神の民イスラエルは、信仰の民として、礼拝の民として生きていくことはできません。ザカリアはレビ部族の家に生まれ、父からこの祭司の職を受け継ぎました。それは、神の大きな恵みによる選びでした。

 【6節】。「正しい人」とはどのような人のことでしょうか。それはまず第一に、「神のみ前に正しい人」のことです。人の前でとか、あるいはこの世では、自分自身の前ではというのではないということです。人の前で、この社会の中で自分がどう思われるかということに心を用いて生きるのではなく、あるいは自分で自分を正しいとしたり、自分の願いや欲望のままに生きるのでもなく、神のみ前に生きること、神のみ前でどうあるべきかを考えて生きること、それが正しい人の生き方の基本です。

 「正しい」という言葉は、他の個所では「義」と訳されています。義、正しい、という言葉は関係概念を言い表している言葉だと言われます。神と正しい関係を持っていることを聖書では義と言います。そのような人を義人と言います。

 では、どのようにして神との正しい関係は築かれるのでしょうか。6節に続けて書かれているように、「主の掟と定めをすべて守る」ことによってです。「主の掟と定め」とは旧約聖書に記されている神の律法のことです。出エジプト記20章に書かれているモーセの十戒を初めとして、イスラエルが神の民、信仰の民として生きるための礼拝のささげ方、信仰生活のあり方について、神がお命じになった様々な戒めのことです。「主の掟と定めをすべて守る」とは、別の言葉で言えば、神のみ言葉を聞き、神のみ心に従って生きるということです。

 以上のことからもわかるように、その人が人間的に立派な人物であるとか、社会的な評価を受けているとか、そのようなことには関係なく、たとえ弱さや欠けを持っていても、貧しく力なく、時に迷うことがあっても、ひたすらに神に信頼し、神の恵みと憐れみを願い求め、神のみ心を聞いて生きる人、それが神のみ前に正しい信仰者の生き方です。ザカリアとエリサベトは二人ともそのような人であったと書かれています。

 続けて【7節】。イスラエルでは、古い時代には一般的にそうであったように、たくさんの子どもが与えられることは神の祝福のしるしだと考えられていました。そのために、子どもがいないということは、特に信仰深い家庭にとってはつらいことでした。しかも、ザカリアは祭司の家庭でしたから、その職を受け継ぐ子どもがいないということは、神から託されている大切な務めを失ってしまうことにもなりますから、神のみ前に正しい歩みを続けてきた二人にとっては、どれほどの大きな痛みであり、重荷であり試練であったことでしょうか。

 でも、子どもがいないということと神のみ前に正しく歩むということは、この夫婦にとっては決して矛盾することでも対立することでもありませんでした。子どもが与えられないという神の厳しい試練を受けていたこの夫婦は、そうでありながら、いやそうであるからこそ、より一層熱心に、忠実に、神のみ前に正しく生きるために、神のみ言葉を聞き続けていたのです。

 7節の冒頭に、「しかし」と書かれています。原文のギリシャ語では一般的に文章と文章をつなぐときに用いられる「カイ」という言葉で、普通は「そして」と訳されますが、ここでは前の6節で言われていることと7節の内容が対立しているかのように思われるので、「しかし」と訳しています。つまり、この夫婦は神のみ前に正しく生き、神のみ言葉に熱心に聞き続けてきたけれども、しかし残念なことに、そんなに信仰深い夫婦であったにもかかわらず、子どもがいなかった、しかもすでに年老いていたと理解できるかもしれませんが、しかし、聖書がここでわたしたちに語ろうとしていることは、6節と7節を対立する内容として言っているのではなく、その二つのことはともに関連し合いながら、この夫婦の信仰をより深め、強め、より純粋にしているということを強調しているのです。ザカリアとエリサベトは年老いるまで子どもが与えられないという大きな神の試練の中でこそ、いよいよ神のみ前で謙遜にされ、いよいよ神に熱心に祈り求め、いよいよ忠実に神のみ言葉に聞き従うようにさせられているのです。それもまた神の尊いみ心なのであり、人間の目には隠された神の奇しきご計画なのです。神はそれによって、彼らの信仰を鍛え、清めてくださるのです。ザカリアとエリサベトはやがてその神の奇しきみ心を知らされ、その成就を見ることになるでしょう。

 わたしたちはここで旧約聖書のヨブを思い起こします。神のみ前に「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブ、しかも多くの子どもたちと財産に恵まれていたヨブが、一瞬のうちにそのすべてを失ってしまったときに、彼はこのように告白しました。【21~22節】(776ページ)。ヨブがこの信仰へと導かれるために、神は彼からこの世のものすべてを、愛する家族たちをも取り去られたのです。ヨブはこの大きな試練の中で、主なる神のみ名をほめたたえているのです。わたしたちにすべてのものをみ心によってお与えくださる主なる神、また、み心によってわたしたちからすべてのものを取り去られる主なる神、わたしたちはその神のみ心を尋ね求めて、そのみ名をほめたたえる者となるように導かれているのです。

 子どもがなく、二人ともすでに年老いていたザカリアとエリサベト、そうでありつつ神のみ前に正しく歩み、忠実に神にお仕えしているこの夫婦、神は彼らをお見捨てになるでしょうか。いや、決してそうではありません。わたしたちは後で13節でこのような神のみ言葉を聞くでしょう。【13節】。このようにして、ザカリアとエリサベトの長い、長い祈りが聞かれ、彼らに子どもが与えられるとすれば、それこそが神の奇跡に他なりません。人間の側の可能性が全く消え去り、もはや人間の力が無にされたときに、無から有を呼び出だすかのようにして、死から命を生み出すかのようにして、全能の神が彼ら夫婦のために、イスラエルの民のために、そしてわたしたちのために、救いのみわざをなしたもうのです。

(祈り)

5月19日説教「神は『光あれ』と言われた」

2019年5月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章1~5節

    ヨハネによる福音書1章1~18節

説教題:「神は『光あれ』と言われた」

 創世記1章1節のみ言葉は、2節から始まる神の天地創造物語全体の表題と考えられます。実際の神の創造のみわざは3節から始まるのであって、2節は創造前の状態を説明しているのですが、つまり時間の前後関係からすれば、2節が最初で、そのあとに1節がきて、それに3節が続くという順序になるはずですが、1節が表題として冒頭に置かれているということには、明らかな意図が読み取れます。それは、2節の天地創造前の状態もまた神の創造のみわざの中にあるということを教えているのす。

 【2節】。この2節は確かに神がまだ天地を創造される以前の、いわゆる原始の状態を説明していますが、これは神の創造のみわざから離れた、神のみわざとは無関係な何かを表現しているのではありません。また、神が創造される以前に、神よって創造されたのではない何かがすでに存在していたということでもありません。「初めに」神がおられたのであり、神は全く何もないところから、無から有を呼び出だすようにして、み言葉によって万物を創造されたのです。したがって、2節もまた神の天地創造のみわざの中にあるのであり、創造主なる神のみ手の中にあるのだということを、1節の表題が先にあり、それに2節の原始の状態の説明が続くという順序から、わたしたちは知ることができます。

 そのことをはっきりと語っているのが、2節後半の「神の霊が水の面を動いていた」というみ言葉です。混沌として、何も形がなく、闇に覆われていた原始の世界を神の霊が優しく大きな手のように包んでいます。その混沌と闇もまた神の創造のみ手の中に守られている、神の創造のみわざを待ち望むかのようにして、今か今かと神のみ言葉が語られるのを期待し、神のみ言葉が新しい創造の世界を生み出すのを待っている、そのことを暗示させるのです。

 ここで重要なことは、2節は神が天地を創造される以前にこの世界がどうであったのかということを語ることに中心があるのではなく、むしろ聖書が語ろうとしている事柄の順序から言えば、まず最初に神の天地創造のみわざがあり、2節はその天地の創造主なる神のみ手を離れるならばこの世界がどうなるのかについて語っているということなのです。この世界が、もし創造主なる神のみ手から離れて、神なしで存在しようとするならば、この世界は直ちに混沌と闇の中に飲み込まれてしまわざるを得ないのだということを、聖書は語っているのです。この世界も、世界の歴史も、また人類と、わたしたち一人一人の生涯も、もし創造主なる神のみ手を離れるならば、神なしであろうとするならば、神の創造のみ言葉を聞くことがないならば、すべては混沌と闇に閉ざされてしまわざるを得ないのであり、混乱、無秩序、むなしさ、空虚に飲み込まれ、確かな目標を失い、実りのないものになってしまうということを、聖書はわたしたちに語っているのです。神が始めてくださった創造のみわざの中で、神が完成させてくださる救いのみわざを信じて、その神と共に歩む、その神の命のみ言葉を聞き続けていく、そこにこそ幸いで祝福に満たされた道があるのです。神はきょうの礼拝でわたしたちをそのような道へと招いてくださいます。

 3~5節は神の創造のみわざの第一日目、光の創造について語っています。 【3節】。まず、「神」という言葉について簡単に触れておきます。ヘブライ語で神を意味する言葉は「エル」と発音しますが、聖書ではほとんどの場合複数形の「エロヒーム」が用いられます。しかし、形は複数形ですがエロヒームを受ける動詞は、3節の「神は言われた」の場合もそうですが、3人称単数形になっています。当然、神は唯一の神であるという信仰が聖書の基本ですから、神・エロヒームに続く動詞も単数形になるのですが、ではなぜ神を複数形で表現するのかという理由については、いくつかの理解があります。もっとも一般的には、それは尊厳の複数形であるという説明です。神の偉大さ、尊厳性を言い表すために、神はおひとりであるが、エルの複数形、エロヒームを用いたと考えられています。

 次に、「言われた」ですが、神は言葉を発することによって光を創造されました。2日目以降でも、すべてそうです。「神は言われた」という言葉が、3節、6、9、11、14節と繰り返されます。聖書の神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神、わたしたちが信じている神は、み言葉を語られる神です。み言葉をお語りになることによって創造のみわざをなされ、救いのみわざをなされる神です。これが神の第一の特色です。他のすべての偶像や偽りの神々と聖書の神、教会の神との大きな違いがここにあるといえます。わたしたちは物言わぬ神々を、言葉によってご自身を啓示される神以外の神々と言われるものを、神とすべきではありません。それらはまことの神ではなく、創造のわざも救いのわざをもなすことはできません。

 「神は言われた」というみ言葉の中には、神の強い意志、み心が働いています。神はみ言葉をお語りになることによって、ご自身の強い意志、み心によって、すべてのものを創造されました。神によって創造されたすべての被造物、すべて存在するものには、神の意志とみ心があります。この世界に存在するものの何一つとして、偶然にそこに存在しているものはなく、神のみ心から離れて存在しているものもありません。

 わたしたち人間も言葉を語ります。鳥たちやクジラなどもそれぞれの言葉を持っていると言われます。しかし、それらはみな神が語られる言葉とは根本的に違っていきます。わたしたちの言葉の多くはむなしく消え去っていきます。けれども、神のみ言葉は新しい存在と新しい出来事を生み出していきます。詩編33編9節には、「主がお語りになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」と書かれてあり、またイザヤ書55章11節で神はこう言われます。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」。わたしたちはそのような神のみ言葉を聞き、信じるのです。

 「光あれ」。これは神の命令です。「神が言われた」というみ言葉の中にすでに神の強い意志やみ心が示されていますが、「あれ」という命令形の中には断固とした神の意志、神の永遠の意志、神の摂理、存在へと召し出される神の大きな愛が言い表されています。「こうして、光があった」と続けて書かれています。神の創造の意志が直ちに実現し、出来事になります。神によって造られたすべての被造物にはこの神の愛の意志が貫かれています。山がそこにあり、木がそこに生え、鳥がそこにいる、そのすべての存在に神の強い愛の意志があります。もちろん、わたしがここにいること、あなたがここにいること、そこにこそ神の最も深い愛の意志があるのであり、だれも偶然にこの世に存在したのではないし、何か得体のしれない運命とかによってあやつられて今ここに生きているのでもありません。すべての存在、すべての出来事、すべての生と死に、神の愛とご配慮に満ちた意志が貫かれているのだということを、わたしたちは信じるべきですし、信じることができるのです。

 【3節】。「光」とは何でしょうか。この光は、天体の光、太陽の光のことではありませんし、何らかの人工的な光のことでもありません。というのも、太陽は14節で、第四日目に創造されるからです。まだ発行体となるべきものが何一つ創造されていないときに、天地創造の第一日目に神によって創造されたこの光とは何でしょうか。これを説明する適当な言葉がわたしたち人間にはないように思われます。ある神学者はあえてこう表現しています。「この光は世界を形成している最も崇高な元素である」と。そう言われてもよく分かりませんが、分かりやすく解説すれば、すべてのものがこの光の中で存在することができ、この光がなければ何ものも存在することができず、すべてのものの存在を根本から支えている光、そのような光であると言えるでしょう。この光の中で、神は第二日目、第三日目の創造のみわざを続けられ、この光の中に次々と創造されたものが存在していくことになります。

 さらに言うならば、この光は詩編119編105節で、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」と告白されている光のことであり、ヨハネによる福音書1章4、5節と9節で証しされている、主イエス・キリストのことであると言うべきでしょう。すべての人を照らし、すべての人に命を与えるまことの光であられ、この世界の暗闇の中で光り輝いている永遠の光なる主イエス・キリスト、このまことの光なる主イエス・キリストにあって、わたしたちは神に創造された者であり、一人一人がその存在を与えられ、まことの命に生きる者とされているのです。

 【4節】。同じ言葉はこの後にも繰り返されます。神が強い、深い愛のみ心によって創造されたすべてのものは、良きものであると神ご自身が確認しておられます。「良い」とは、欠けや破れがない、整っているとか、目的にかなっているという意味です。神が創造されたすべてのものは、それぞれに存在の意味があり目的があり、神の良きみ心があります。

 けれども、もし神によって良きものとして創造されたこの世界が、その調和と秩序を失い、悪しきものへと変質しているとすれば、それは神の創造のみわざののちに入り込んだ人間の罪が作用しているのだということをわたしたちは深刻に受け止めなければならないでしょう。神は言われます。「わたしは世界を良きものとして、欠けも破れもないものとして、わたしの心にかなうものとして創造した」と。その神のみ言葉を信じないで、自らなおも不足しているかのようにしてむさぼり取り、なお自らを富める者にしようとあくせくし、自らなおも美しく着飾ろうとして心を悩ましているならば、それはむしろ神の創造のみ心から離れ、神が創造された調和と秩序の世界を破壊していることになるのではないかということを、人類は真剣に考えなければなりません。わたしたちが世界の平和と共存を考える際に、また生命の尊厳や世界環境の保護を考える際、聖書に記されている神の創造のみ心を知ることの重要性を教えられます。そして、わたしたちの罪をおゆるしくださる主イエス・キリストによる回復を切に願い求めなければなりません。

 【5節】。「呼ぶ」という言葉は4節の「分ける」という言葉と関連しています。「分ける」とは分離する、境界線を引くという意味を持ちます。光と闇との間には神のみ心によって超えることができない境界が設けられています。神のみ心がなければ、どんなに深い闇でも光を覆いつくすことはできません。

 「呼ぶ」という言葉は名づけるという意味であり、そこには名をつける神の絶対的な主権と支配があります。神は昼と名づけられた光を支配しておられます。神はまた夜と名づけられた闇をも支配しておられます。闇が神のみ心を離れて光を支配することはできません。

 「夕べがあり、朝があった」と書かれています。旧約聖書の民イスラエル・ユダヤ人は、一日が夕べから、日没から始まると考えました。朝があって、夕べに陽が落ちて一日が終わるのではなく、夕方から始まり夜の闇を貫いて明るい朝が来るというユダヤ人の考え方には興味深いものを感じます。夜の闇が最後に勝利するのではなく、どんなに長く暗い夜でも、やがて必ずや朝が来る、明るい光が最後には勝利する、罪と死という闇を切り裂くようにして、主イエス・キリストが死に勝利した復活の朝を迎えるということをわたしたちは信じています。

(祈り)

5月12日説教 「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

2019年5月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    フィリピの信徒への手紙1章1~2節

説教題:「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

 フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがマケドニア地方のフィリピという町に建てられた教会にあてて書いた手紙ですが、これには二つの別の名前が付けられています。一つは「喜びの書簡」、もう一つは「獄中書簡」です。「喜びの書簡」と言われるのは、この手紙の中に「喜び、喜ぶ」という言葉が10数回用いられており、手紙全体の内容も喜びと感謝に満ち溢れているからです。きょうの礼拝で朗読されたすぐ後の4節には【4節】とあり、また18節にも、「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と書かれています。さらに、25節にもこのように書かれています。【25節】。

4節と18節は、この手紙の差出人であるパウロの喜びであり、25節では手紙の受取人であるフィリピの教会の信徒たちの喜びについて語っています。この手紙では、パウロもフィリピの教会員も、共に喜び合い、喜びに満たされています。主イエス・キリストの福音を信じる人たちは、どこにいる人たちであれ、どのような状況に置かれている人たちであれ、またお互いがどのような関係にある人たちであれ、同じように、共に喜び合い、共に喜びを分かち合い、互いに喜びを与え合うことができる、そのような交わりが与えられているのだということを、この手紙を学び始めるにあたり、わたしたちはまずそのことを確認しておきたいと思います。

したがって、この喜びはパウロやフィリピの教会の人たちが自分たちで勝ちとったり、作り上げた喜びではなく、主イエス・キリストの福音からパウロとフィリピの教会の人たちに与えられた喜びなのであって、それゆえにパウロが今どのような状況にあるかとか、フィリピの教会がどうであるかということには関係なく、あるいはわたしが、わたしたちの教会がどのようであるかということにも全く関係なく、それらがどうであれ、それらのすべてをはるかに超えて、天の神から、わたしたちの主イエス・キリストから、すべて信じる人に与えられている大きな、永遠の喜びなのだということ、そのことをもあらかじめ確認しておきたいと思います。

次に「獄中書簡」についてですが、パウロはこの手紙を獄中から書いていると推測されることからそう名付けられています。12、13節やその他の個所からもそのことが推測されます。パウロは紀元48年か49年ころに、第2回世界伝道旅行に出かけ、その途中で小アジア地方からヨーロッパの入口に当たるマケドニア地方に入り、フィリピ、テサロニケ、アテネ、コリントで伝道活動を続けました。そのことは使徒言行録16~18章に書かれています。その後パウロはユダヤ人からの迫害を受け、何度か投獄されました。この手紙は、エフェソかローマで捕らえられた時に書かれたと推測されています。他にも「獄中書簡」と言われるのは、エフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙があります。

そこで、この手紙につけられた二つの名前、「喜びの書簡」と「獄中書簡」の関連について考えてみましょう。本来、この二つは相反する内容をもっていて、一つのことを同時に説明する言葉としてはふさわしくないように思われます。獄に捕らわれの身となることは、だれにとっても喜ばしいことではあり得ません。パウロにとってもそうであったに違いありません。全世界に主キリストの福音を宣べ伝え、多くの人々の魂を救いたいとの彼の願いは、投獄によって中断されざるを得ません。彼が福音の種をまいた諸教会を訪ね、群れを励まし、その信仰の成長を助け、主キリストの体なる教会を堅固に建てていくために仕えるということも、妨げられます。それに、彼の裁判の時が迫っており、そこでは死刑の判決が下されるであろうということも、この手紙から推測されます。そのような状況の中で、いったいだれが喜ぶことなどできるでしょうか。

けれども、パウロは今喜んでいます。彼の身を案じているフィリピの教会の人たちにも、繰り返して「あなたがたも喜びなさい」と命じています。では、このパウロの喜びがどこからきているのか、それはわたしたちがすでに確認したことですが、パウロやフィリピの教会の現状からではなく、そのすべてを越えて、そのすべてを突き破るかのようにして与えられる、主イエス・キリストの福音がもたらす喜びなのです。パウロが今どのような困難な状況に置かれていたとしても、フィリピの教会が今どのような不安や恐れや戦いの中にあろうとも、この世のあらゆる鎖や壁や鉄格子を断ち切って、信じる人たちを天からの喜びで満たし、それらのすべてから解放し、自由にする大きな喜びなのです。

したがって、「喜びの書簡」と「獄中書簡」という二つの呼び名は、主イエス・キリストの福音によってこそ、互いに固く結びつけられているのです。そして、そのことはわたしたちの日々の信仰生活においても起こります。主イエス・キリストの福音は、わたしたちを縛り付けているこの世のすべての恐れや重荷や苦悩からわたしたちを解放し、自由にし、喜んで神と隣人とに仕えていく道を切り開いていきます。わたしたちはきょうから学び始めるフィリピの信徒への手紙から、そのような力強い神のみ言葉を聞き取っていきたいと思います。

さて、1~2節では、この手紙の差出人と受取人が紹介され、次に差出人から受取人への祝福の言葉が書かれています。これは当時のギリシャ社会の手紙の書き方に倣っています。パウロの多くの手紙も同じような書式で始まります。ただ、パウロは当時の一般的な書式をそのまま踏襲しているのではありません。パウロ独自の、福音的な内容が込められています。

1節の差出人の紹介にその特徴が最もよく表れています。「キリスト・イエスの僕(しのべ)であるパウロとテモテから」、これが手紙の差出人の自己紹介です。きょうはこのみ言葉に集中して学んでいきます。

まず、「パウロとテモテ」という二人の名前が、共同発信人として挙げられています。パウロの他の多くの手紙でもそうです。その理由についてはいくつかのことが考えられます。一つには、テモテはパウロの最も近くにいて共に福音伝道のために仕えた弟子であり、特にフィリピ伝道の際にはパウロはテモテをぜひとも一緒に連れていきたいと願ったことが使徒言行録16章に書かれています。テモテはパウロと共にフィリピ教会誕生のために仕えました。教会の人たちにもよく知られていましたから、彼を共同発信人として名を連ねることは、教会員にとって信仰による交わりを強めることになります。

テモテが実際にこの時にパウロのそばにいて、獄中のパウロの世話をしていたのかどうかについては確認されてはいませんが、パウロがテモテを手紙の共同発信人に挙げているさらに大きな理由は、この手紙でパウロは単に個人的な意見を述べているのではなく、主キリストの福音の証しとして、主キリストから遣わされた使者として、天からの権威と豊かな恵みを語っているということを強調するためでした。主イエスは12弟子を神の国の福音を宣教するために遣わすにあたって、二人を組にして派遣されたということが、マルコによる福音書6章7節等に書かれています。それは、旧約聖書に「重要な判決を下す場合には、二人、または三人の証言によらなければならない」と定められているからです(申命記19章15節以下等を参照)。パウロがこの手紙で語っていることは、すべて真実であり、真理であり、主なる神がフィリピの教会に対してお語りくださる神のみ言葉なのであり、彼らはその神のみ言葉を命のみ言葉として、彼らを罪から救う主イエス・キリストの福音として聞くべきなのです。わたしたちにとってもそうであることは、言うまでもありません。

「キリスト・イエス」とは、「イエスはキリストである」という初代教会の信仰告白です。イエスは、ヨセフとマリアの子としてクリスマスの時に誕生された子どもの名前です。ユダヤ人には一般的な名前でした。しかし、この子の名前はこの子が誕生する前に神によって定められていた名前でした。またこの子は、ヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、聖霊によって宿った神のみ子でした。神はこのみ子によって、ご自身の救いのみわざを成し遂げるために、この世にお遣わしになりました。それは、神が旧約聖書の中でイスラエルの民と結ばれた契約の成就でした。

それを示す言葉がキリストです。キリストはヘブル語メシアのギリシャ語訳です。ヘブル語のメシアとは、「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王、祭司、預言者がその務めにつく時には就任式でオリブ油を頭から注がれました。主イエスの時代には、神がやがてイスラエルにお遣わしになられる、まことの王であり、まことの祭司であり、まことの預言者である救い主を「油注がれた者」メシアとして待望していました。主イエスこそがそのメシア・キリストです。全人類の救いのために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、今も生きて教会の主として、わたしたち一人一人の救い主として導いておられる主イエスこそが、神から遣わされた永遠の油注がれたメシア・キリストである、まことの王、まことの祭司、まことの預言者であるという信仰告白が、「キリスト・イエス」、あるいは「主イエス・キリスト」という言葉の意味です。

わたしたちが主イエス・キリストという場合にも、十字架と復活の主イエスこそがわたしの唯一の主であり、わたしを罪から救ってくださる唯一の主であり、したがって、わたしが聞き従い、わたしのすべてをささげつくしてお仕えするべき唯一の主であるというわたしの信仰を告白しているのです。

最後に、「キリスト・イエスの僕(しもべ)」という言葉について聖書のみ言葉からその深い意味を探っていきましょう。パウロはローマの信徒への手紙1章1節でも、自分をキリスト・イエスの僕と紹介しています。僕とは文字通りには奴隷という意味です。今日、奴隷制度はどこの国からも消え去りましたが、かつて奴隷制度が認められていた社会にあっては、奴隷はその所有者である主人の持ち物であり、主人はその命をも意のままにすることができました。奴隷はその存在と命と働きをすべて主人のためにのみささげるのです。奴隷には人間としての権利は一切与えられていませんでした。

聖書で信仰者が神の僕、主イエス・キリストの僕と言われる場合にも、同じような意味が含まれますが、しかしさらに大きな意味があります。何よりも重要なことは、信仰者の主人は、主なる神であり、主イエス・キリストであるということです。旧約聖書では、アブラハムや(詩編105編42節)、モーセ(同26節)、ダビデ(同89編3節)などが神の僕と呼ばれています。それは特別な信仰者に与えられた名誉ある名前でした。彼らはその主人である神の所有として、ただ神のためにのみ仕え、働き、神のみ心に完全に服従し、それによって信仰の道を全うしたのでした。それゆえにまた、その全生涯が神によって受け入れられ、導かれ、祝福され、神によって必要なすべてのものが備えられたのでした。信仰者が神の僕であるときにこそ、神は彼のすべての道を導き、守り、あらゆる災いや試練の時にも彼と共にいてくださったのです。

パウロが自分を主キリストの僕であると告白するときには、さらに深い意味が付け加わりました。パウロはかつてはユダヤ教の律法の奴隷になっていました。それゆえにまた罪の奴隷でもありました。しかし今や彼は主キリストの奴隷です。主キリストがご自身の十字架の死によって、神のみ子としての清い御血潮をもって彼を罪の奴隷から贖い、救い出してくださり、彼を主キリストのものとしてくださったのです。主キリストが彼の新しい主人であられるとき、パウロはもはや何ものの奴隷でもありません。この世のいかなる権威も、迫害も、試練も、獄の鉄格子も、彼を縛りつけることはできません。彼は本当の意味での自由人として、この世のいかなるものからも自由になって、喜びと感謝をもって、主キリストの福音のために仕え、神と隣人とのために働くことができるのです。

(祈り)

5月5日説教「ルカが伝えた福音」

2019年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記6章4~9節

    ルカによる福音書1章1~4節

説教題:「ルカが伝えた福音」

 本日から、ルカによる福音書を連続して読んでいきます。新約聖書には四つの福音書があります。いずれも、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストのご生涯とそのお働き、主イエスが語られた説教と救いのみわざが描かれています。最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ福音書を共観福音書と呼びます。形式や内容が非常によく似ていて、お互いに参考にしたか、あるいは同じ資料を参考にして書いたと推測されるからです。今日の研究によれば、マルコ福音書がオリジナルで、紀元60年代に書かれ(つまり、主イエスの十字架と復活からおよそ30年近くたってから書かれ)、マタイとルカはマルコを参考にしながら紀元70年代以降に書かれたと考えられています。わたしたちが今日福音書を読む場合にも、これらの三つの福音書を互いに参照しながら読むことは、理解の助けになります。ちなみに、ヨハネ福音書は共観福音書とはかなり違った形式で書かれています。これを第四福音書と呼ぶこともあります。しかし、その中心的な内容は、共観福音書も第四福音書も、まったく同じ主イエス・キリストであり、主イエス・キリストによる救いのみわざであることは言うまでもありません。

 著者はルカという人だと伝えられています。実際にはこの福音書の中にはその名前は記されてはいませんが、彼は、後でも触れますが、使徒言行録の中でパウロの世界伝道旅行にしばしば同伴した医者のルカであろうと考えられます。ルカは教養のあるギリシャ人であったらしく、ルカ福音書はきれいなギリシャ語で書かれ、文学的に見ても優れていると言われています。また、時々医学の専門用語が用いられていることからも彼が医師であったことが分かります。

 きょうは1~4節の序文を学びます。【1~4節】。ここには、この福音書が書かれた動機、その材料、その内容、その目的が書かれています。まず、1節冒頭には「わたしたちの間で実現した事柄について」と書かれています。これが、この福音書の内容を意味しています。その事柄とは、もちろん主イエス・キリストによる救いの出来事のことです。神はご自身の独り子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、この主キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださいました。ルカはその事柄をこれから書こうとしています。

 「わたしたち」とは、ルカと同時代の人たちだけを指すのではなく、ルカ以前に主イエスの地上の歩みと十字架の死と復活を共に経験し、目撃した人たち、またルカ以後のすべての時代のすべての民族の、すべての人たちをも含んでいます。主イエスの救いのみわざはそのすべての人たちにとって有効であり、意味ある出来事だからです。もちろん、きょうこの礼拝に集められているわたしたちをも含んでいます。ルカがこれから描こうとしている主イエスの救いのみわざは、わたしたち一人ひとりにとっても、救いのみ言葉であり、命のみ言葉です。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、過去の2千年前の出来事であるのみならず、今ここで、この礼拝に集められているわたしたちの間で実現している事柄でもあるのです。それが、神のみ言葉である聖書を読むということです。

 「実現した」とは、成就した、完成したという意味も含みます。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に対して約束された契約が、主イエス・キリストによってすべて成就しました。したがって、「実現した」の主語は神です。自然現象とか歴史の必然とかによって引き起こされた事柄ではありません。神が天地創造の初めからご計画しておられ、ご自身がお選びになった人々によって進めてこられた救いのみわざを、それらは旧約聖書に記されていますが、そのすべてが主イエス・キリストによって成就し、完成し、最後の目標に達したということなのです。

 「実現した」の主語が神であるということを確認しておくことは非常に重要です。人間はこの事柄に、主体としては全く関与していません。いやむしろ、人間は神に背き、神の救いのご計画をくつがえそうと何度も何度も神に敵対してきました。けれども、神はそのような人間たちの罪の中でご自身の救いのみわざを力強く推し進めてこられました。人間たちの罪を打ち破るようにして、神の救いのみわざは実現されました。「わたしたちの間で実現した」とは、そのような意味をも含んでいます。

 さらに、もう一つ重要なポイントは、ルカは自分で成し遂げた事柄についてこれから書こうとしているのではないということです。ルカが教養あるギリシャ人で、医師でもあったと推測されています。彼自身もその時代の中で誇りえる何がしかの働きをしていたのかもしれません。けれども、ルカはそれをこれから書くのではありません。彼自身のことではなく、主なる神が彼と全人類のために成し遂げてくださった救いのみわざについて、彼自身も信じて救われた主イエス・キリストの福音について、彼が全世界に宣べ伝えるようにと神から命令された主キリストの福音について、ルカは書くのです。

 2節からは、ルカが福音書を書くために用いた資料について言及されています。「多くの人が既に手を着けています」とあります。前にもお話ししましたように、マルコ福音書が最も早く紀元60年代に書かれていました。そのほかにもいくつもの資料がルカの手元にあったことが分かります。ルカはマルコ福音書を最も重要な資料として用いたことが、両者に共通している箇所が数多くあることからも推測できます。

 ルカはマルコ福音書やその他の多くの資料を参考にしながらも、彼自身の明確な意図をもって、3節で言われているように、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて」、新たな福音書をしたためようと決意したと述べています。ルカはこれまでに主イエスのことを書き記してきた人たちに敬意を表しながらも、彼独自の努力を重ね、彼独自の意図と目標をもってこの福音書を書くという強い決意をここで語っています.その意図とは何であるのかについては、これからルカ福音書を読み進めていけば明らかになるのですが、あらかじめ一つのことに触れるならば、それは、主イエス・キリストの福音がユダヤ地方のエルサレムから始まり、やがて当時のローマ帝国のいたるところへと、全世界へと広がっていくという、世界的な視野をもって福音書を書くという意図を挙げることができるでしょう。

 そのことは、ルカが書いた続編である使徒言行録へと受け継がれていきました。【使徒言行録1章1~2節】(213ページ)。パレスチナの一角、エルサレムでの主イエスの十字架と復活の出来事は、やがて主イエスの弟子たち、使徒たちによって全世界へと告げ広められていくようになる、主イエスは全世界の唯一の救い主である、ローマ帝国の皇帝であれ、世界の諸国の王であれ、だれであれ、人間を罪から救うことができる救い主は、主イエス・キリスト以外にはおられない、そして、やがて全世界に主イエスを救い主と信じる人々の群れである教会が建てられるであろう、ルカはそのような世界的な視野をもってこれから新たな福音書を書こうとしているのです。

 ルカはパウロの第二回世界伝道旅行の途中、使徒言行録16章10節からパウロに同伴したと思われます。というのは、ここから「わたしたちは」という書き出しになっているからです。【使徒言行録16章10~11節】(245ページ)。「わたしたち」とは使徒言行録の著者であるルカとパウロの一行を指していると考えられます。この後にも、何回か「わたしたちは」という文章が出てきます。

 さて、ルカが福音書を書くにあたって用いたマルコ福音書やその他の資料は、さらにさかのぼれば、「最初から目撃して御言葉のために働いてきた人々」にその源泉があります。この人々とは、主イエスの12弟子たちや直接に主イエスの説教を聞き、奇跡のみ業を見た人たち、また特に主イエスの十字架の死と復活を目撃した人たち、そしてそれを信じた人たちを指しています。ルカ福音書だけでなく、パウロ書簡も、新約聖書のほとんどは直接に主イエスにお仕えした弟子たちによって書かれたものではありません。ルカもパウロも地上の主イエスのお姿を直接に見たことはなかったろうと思われます。でも、彼らが福音書や手紙に書いた事柄は、その出来事を直接に目撃した人たちの証言に基づいていました。架空の作り話ではありません。だれかの創作、空想でもありません。それは歴史的な出来事です。多くの証人たちが、主イエスのお姿を見て、その説教を聞いて、その軌跡のみわざを目の当たりにして、そして主イエスの十字架と復活の目撃者となり、それを神の救いのみわざと信じ、主イエスのために自らの全生涯をささげ、信仰と喜びとをもってその福音を宣べ伝えたのです。そして、資料として文字に書き記しました。聖書はそのような最初の目撃証人たちの証言という、確かな基礎、源泉を持っているのです。わたしたちはその証言を信仰をもって受け入れ、わたしの信仰とするのです。

 「御言葉のために働いた人々」とあります。彼ら最初の目撃証人たちはひたすらに御言葉に仕えました。ここで御言葉と訳されているギリシャ語は、先週の礼拝で私たちが読んだヨハネによる福音書1章1節の「初めに言(ことば)があった」という個所のギリシャ語と同じ「ロゴス」です。このロゴス・言葉は、普通の人間が語る言葉ではなく、神のみ言葉、また神のみ言葉そのものであられる主イエス・キリストを言い表しています。彼ら最初の目撃証人たちは皆、徹底して主イエスご自身のために、神のみ言葉のために働き、奉仕しました。彼らが目撃者として語ったこと、文字に記したことは、それによって自分自身が文筆家として名をあげたり、財を築くためでは全くありませんでした。彼らはみな、み言葉のために、主イエス・キリストのための奉仕者として働いたのです。それゆえに、彼らの働きは少しも無駄にならずに、全世界の教会を建てるために用いられ、多くの信仰者を罪から救うために用いられているのです。わたしたちもまたその恩恵を受けています。

 ルカ福音書は続巻の使徒言行録とともに、テオフィロという人に献呈されています。それが執筆の直積的な動機、目的になっています。テオフィロという人の素性については全く分かっていません。テオフィロというギリシャ語は「神の友」という意味を持っていますが、彼がすでに洗礼を受けてクリスチャンになっていたのか、求道者だったのかについてもわかりません。ローマ帝国の中でかなりの地位にあった人であったことがその呼び名で分かります。彼は主イエスの福音に対してよい理解を示していましたが、彼の理解がより深まり、主イエスを救い主として信じる信仰がより一層強められることを願って、ルカはこの福音書を書き、これをテオフィロに献呈すると述べています。

けれども、それだけが執筆の目的でないことは明らかです。テオフィロ一人だけでなく、彼以後の時代の、この福音書を読むすべての人が、そしてまた今この福音書を読んでいるわたしたちも、この執筆の目的は当てはまります。わたしたちが礼拝でルカによる福音書を聞くことによって、わたしたちの信仰の確信がより強められ、また求道中の方たちがこのみ言葉を聞いて、洗礼を受ける決意へと導かれること、それがこの福音書が書かれた目的であり、わたしたちが主の日ごとにささげる礼拝の目的でもあるのです。

(祈り)

4月28日(日)「初めに神がおられる」

2019年4月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章1~5節

    ヨハネによる福音書1章1~5節

説教題:「初めに神がおられる」

 これからの秋田教会の主日礼拝では、旧約聖書からは創世記、新約聖書からはルカによる福音書とフィリピの信徒への手紙を取り上げ、連続講解説教として、ご一緒に神のみ言葉を聞いていきたいと思います。わたくしが説教者として最も心がけていることは、日本キリスト教会神学校の説教学の講師であられた八田良一先生(元秋田教会牧師)から繰り返して教えられたことでもありますが、説教とはひたすらに主イエス・キリストを語ること、自分自身を語るのではなく、この世の知恵を語るのでもなく、人生論を語るのでもない、その他の何か興味深いことを語るのではない、ただ愚直に、純粋に、ひたすらに、主イエス・キリストを語ることである。そのことは、5月2日に予定されている牧師就職式で誓約する内容でもあります。そこには、こうあります。「あなたは、また、福音宣教のために召された者であります。それゆえ、この世の知恵を語らず、自分自身のことを宣べず、ただ主イエス・キリストを宣べ伝え、信仰と正しい良心とをもって、雄々しく戦いなさい」。わたくしはこれに「アーメン」と答えます。

また、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一2章1~2節でこのように書いています。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。

 したがって、説教を聞く会衆は、主イエス・キリスト以外のことを期待すべきではありません。主イエス・キリストだけで、十分だとすべきです。なぜならば、主イエス・キリストの中にこそ、神がわたしたちにお語りくださることのすべてが、また、わたしたち人間が聞くべきことのすべてがあるからです。

それから、皆様に二つお願いがあります。一つは、礼拝に集まる前に、説教のテキストとなる聖書をあらかじめ読んでおいてください。あと一つは、説教者のためにぜひ祈ってください。説教者は教会員、会衆の祈りなしには講壇に立つことができないからです。

 さて、きょうは創世記を説教のテキストとして取り上げます。まず、書名について簡単にお話しします。「創世記」という書名は、旧約聖書のヘブル語からギリシャ語に翻訳された際に(それは紀元前1世紀ころに完成したと考えられています)、これを「70人訳聖書」と言いますが、それにギリシャ語でゲネシスという書名を付けたのを日本語に訳したものです。ヘブル語原典の書名は、原則としてその書の最初の言葉を付けますので、創世記の最初の言葉である「初めに」と訳されているヘブル語、「ブリーシート」がそのまま書名になっています。

 ユダヤ人の伝統的な考えによれば、創世記から始まる最初の五つの書、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をモーセ五書、あるいは律法書と言い、モーセが書いたとされていますが、モーセ以後のことも書かれていますので、それは正確ではありません。今日の研究によれば、モーセ五書も他の旧約聖書も、紀元前10世紀ころのソロモン王の時代から数百年という長い期間にわたって書かれ、また編集されたのではないかと考えられています。

 創世記という書名は、実は1~11章までのこの書の前半の内容には適していますが、後半の12章以後は、世界の初めのことというよりは、アブラハム、イサク、ヤコブという人間の歩み、または部族の歴史が描かれています。そこで、創世記の内容から言えば、前半の1~11章では、神が天地万物を創造されたこと、最初の人間としてアダムとエヴァを創造されたこと、しかし彼らが罪を犯して神に背く者となったこと(これを原罪と言います)、その子孫たちが全地に増えていったという世界の歴史の初め、これを「原初史」あるいは「原歴史」と言いますが、それが描かれています。

後半の12章以下では、神が一人の人アブラハムをお選びになり、彼と契約を結ばれたこと、その契約がイサク、ヤコブへと受け継がれていったという族長の歴史が描かれています。この族長の歴史は、さらには出エジプト記や申命記へと続き、神がイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれ、この民の歩みを導かれたという、旧約聖書全体の歴史へとつながっていき、やがてその契約の民の中からダビデの子孫として、ヨセフとマリアから一人の子ども、主イエスがお生まれになるという、新約聖書の歴史へとつながっていくのです。

 そして、創世記を学ぶ場合には、この前半と後半のつながりが非常に重要だということを見落としてはなりません。つまり、前半の天地創造の記録は、後半の神がお選びになった族長たちとイスラエルの民の信仰に基づいて描かれているのだということです。神が族長アブラハムをお選びになり、またエジプトで奴隷の民であったイスラエルをお選びになり、この民を奴隷の家から救い出され、約束の地カナンへと導き入れ、この民をみ言葉をもって導かれた、その主なる神こそが天地万物を創造された、この神に対してアダムとエヴァは罪を犯した、この神のみ言葉に従ってノアは箱舟を造り、救われた、そのような信仰をもって創世記前半の天地創造の記録は描かれているのです。それゆえに、今日わたしたちが創世記1章の天地創造のみ言葉を読む場合にも、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によってわたしたちを罪から救い出してくださった神への信仰をもってこれを読まなければならないということを、まず確認しておきたいと思います。

 しばしば議論されることですが、創世記に描かれている天地創造の物語りは、今日の科学的な知識で得られる宇宙の生成や生物の発生・進化といちじるしく違っている、矛盾しているのではないかという疑問が投げかけられます。しかし、この疑問は創世記が、または聖書全体が信仰の書であるということを正しく理解していないことに由来するものです。科学には科学の使命と課題があります。聖書はわたしたちに信仰を生み出し、また信仰をもってこれを読むことを要求します。さらに言うならば、科学を研究する学者も信仰をもって聖書を読まない限りは、これを正しく理解できませんし、その人もまた信仰によって罪をゆるされなければならない罪びとであることは否定されません。したがって、わたしたちは創世記の天地創造のみ言葉を主イエス・キリストの十字架と復活の福音の光の中で読まなければなりませんし、他の旧約聖書と新約聖書もまたそのように読むべきです。その時、すべての聖書のみ言葉はわたしたちにとって救いと命を与える神の生きたみ言葉となるのです。

 では、1節を読んでみましょう。【1節】。これは、創世記の最初のみ言葉であるとともに、全聖書の最初のみ言葉でもあります。「初めに、神は」という言葉で聖書は始まります。初めに、神がおられます。聖書の初めに神がおられます。天地創造の初めに神がおられます。すべてのものの存在の初めに、すべての出来事の初めに、すべての歴史の初めに、神がおられます。まだ何もない時に、もちろん人間もいない時に、ただ神だけがおられました。そして、その神がみ心によって、天地創造と人間創造のみわざを開始されます。神はその強いご意志と永遠のご計画によって、すべてのものをみ言葉によってその存在へと召し出され、そのすべてのものに命をお与えになり、すべての歴史と歩みを開始され、それを導かれます。

 すべて存在するもの、すべて命あるものはこの神のみ手の内にあって、その存在と命とを支えられています。それゆえに、すべての出来事と歴史、現象もまた、神のみ心によって起こり、神のみ手を離れては、何一つ存在しないし、神のみ心なしには、何一つ起こることはありません。主イエスはこのように言われました。「天の父なる神のみ心なしには、あなた方の髪の毛の一筋すらも地に落ちることはない」と(マタイ福音書10章29~30節、『ハイデルベルク信仰問答』第1問参照)。天地万物を創造された神は、すべてをみ心によって導く摂理の神でもあられます。

 さらには、すべての初めにおられる神は、そのすべての終わりにもまた必ずおられます。すべてのみわざをみ心によって開始された神は、また必ずやすべてのみわざをみ心のままに完成させてくださいます。31節にこのように書かれているとおりです。【31節ab】。神がお始めになった天地創造のみわざはすべて良きみわざであり、また神がお始めになった救いの歴史はすべて良きみわざであり、それは最後の救いの完成に向かって進んでいきます。

 ヨハネによる福音書1章1節以下では、主イエス・キリストが「ことば」と言われています。ギリシャ語では「ロゴス」です。このロゴスが、人間が語る普通の言葉とは違うということを言い表すために、漢字の「言(げん)」一字で「ことば」と読ませています。【1~3節】を読んでみましょう。言葉、ロゴスである主イエス・キリストは、天地創造の初めから父なる神と共におられた、そしてその創造のみわざに父なる神と共にかかわっておられたとヨハネ福音書は語っています。そのロゴスなる主イエス・キリストが、すべての人を照らすまことの光としてこの世においでになり、わたしたちの罪のために十字架にかかられ、三日目に復活され、わたしたちの救いを成就してくださったと、ヨハネ福音書は続けて語っています。神がお始めになられた天地創造と救いのみわざは、み子、主イエス・キリストによって完成されます。

 創世記1章1節の冒頭の言葉、「初めに、神は」、ここから教えられることは、教会とわたしたちひとり一人の歴史と歩みにも示唆を与えます。天地創造の初めにおられ、創造と救いのみわざを開始され、それを完成される神は、教会とわたしたちひとり一人の歴史と歩みの初めにもおられ、それを完成させてくださいます。世界の教会の2千年の歴史と、この秋田教会の130年近くの歴史を始められた神は、今もその歴史を導き、終わりの日にそれを完成させてくださいます。

 また、神はわたしたちひとり一人の人生の歩みの初めにもわたしと共にいてくださいます。わたしがまだそのことに気づいていない時に、神はわたしをお選びになり、主キリストの救いにあずからせてくださいました。わたしのきょう一日の歩みの初めにもわたしと共におられ、わたしの生涯の終わりの日まで、否、わたしの地上の歩みが終わったのちにも、神は永遠にわたしと共にいてくださいます。

 終わりに、二つの語句について、簡単に説明します。「天地」とは、天と地の間にあるものすべてを意味します。この世界、宇宙、地下をも含めて存在するものすべてを神が創造された、すべてのものは神によって創造された被造物であると聖書は語ります。この信仰は古代においても今日においても、聖書特有の信仰です。したがって、それらの被造物は神によって創造されたものですから、神ではありません。神にはなり得ません。この信仰が聖書の唯一信仰、神は唯一であり、他はすべて偶像であり、偽りの神々であって、わたしたちが信じるべきものでも礼拝すべきものでもないという信仰の基礎になっています。太陽や月であれ星々であれ、山であれ、樹木や石、その他何であれ、もちろん人間であれ、それらは神ではありません。わたしたちを救うことはできません。ただ、天地万物をみ言葉によって創造された主なる神、この神の唯一のみ子主イエス・キリストだけが、わたしたちを罪と死から救うことがおできになります。

 次は「創造する」です。ヘブル語ではバーラーと発音します。この言葉は神が主語の時以外は用いられません。人間が主語になる時には別の動詞が用いられます。また、この言葉が用いられる場合には、何かの材料とか何かを用いる道具とかは語られません。神が「あれ」と言われるとそれがあるようになり、神が「そのようになれ」と言われるとそのようになります。神の圧倒的な力、全能の力がそこでは表現されています。無から有を呼びい出し、死から命を生み出される神のみ言葉の力が、そこでは強調されています。この命のみ言葉が、わたしの罪をゆるし、わたしの命を支え、わたしの歩みのすべてを導くのです。

(祈り)

4月21日(日)「空の墓と主イエスの復活」

2019年4月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    ルカによる福音書24章1~12節

説教題:「空の墓と主イエスの復活」

 主イエスは受難週の金曜日の午後3時ころに、十字架上で息を引き取られました。そして、日没までの少しの間に、アリマタヤ出身のヨセフというユダヤ最高議会の議員が、主イエスの亡骸を引き受け、自分が所有していた墓に葬りました。ユダヤ人は日没から一日が始まると考えましたから、安息日がすぐに始まります。安息日には何の仕事もしてはならないと律法で定められていました。神が六日の間に天地万物を創造され、七日目に休まれ、この日を聖なる日とされたからです。ルカによる福音書23章56節の終わりに、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」と書かれてあるとおりです。

 続いて24章1節に「週の初めの日の明け方早く」と書かれています。十字架の死から数えて三日目になります。この1節には、同じような意味の言葉が3つも重ねられています。一つは、「週の初めの日」、新しい1週が始まる日、最初の日、新しい歩み、新しい出来事が開始される日、二つ目は、「明け方」、暗い夜が終わり、新しい光が差してき始める時、やがて希望の光に包まれる時、三つめは、「早く」、だれよりも早くに起き出て、他の何かをなすよりもまずこのことをなす、そのような一日が始まるような予感がします。聖書は、まさにそのような特別な一日がこれから始まろうとしているのだと語っているのです。

 「週の初めの日の明け方早く」、この日が特別な意味を持つ一日となるということを、主イエスのご生涯を振り返りながら見てみましょう。ルカ福音書は主イエスのご生涯を、誕生から少年時代、30歳になられてからの宣教活動、地上の最後の1週間である受難週の出来事、そして十字架の死というように、人の一生を伝記のような形式で描いていますが、普通の伝記であれば、その人の死をもって本文は終わります。けれども、ルカ福音書はそうではありません。主イエスの死を伝える23章で終わるのではなく、いやむしろ、それに続く24章から、何か新しいことが始まるという予感を、新しい出来事がこれから起こるという予感を、この24章1節の書き出しから、わたしたちは覚えるのです。

 24章に何が書かれているかを知っているわたしたちは、結論を先取りしてこう言うことができるでしょう。ルカ福音書は、また他の3つの福音書もすべてそうなのですが、この24章を土台として書かれている、24章の出来事から出発してすべてが書かれているのだと。すなわち、「主イエスはこの墓の中にはおられない。復活なさったのだ」という、この事実から、このことを宣べ伝えることからキリスト教の信仰が始まったのであり、教会の歴史が始まったのであり、ルカ福音書が始まったのだと。

 誕生から始まり、死をもって終わる人間の生涯ではなく、死を超えて、死の墓を打ち破って、死に勝利する新しい命が、今主イエスと共に始まる、そのような偉大な一日が「週の初めの日の明け方早く」始まろうとしているのです。創世記1章に書かれているように、かつて天地創造の初めに、神が「光あれ」と言われると光があったように、神がご自身のみ子、主イエス・キリストによって完成される新しい創造のみわざが、救いのみわざが今始まろうとしているのです。

 旧約聖書と新約聖書の歴史から見ると、この1節冒頭の言葉はどういう意味を持つでしょうか。旧約聖書の民イスラエル・ユダヤ人は、週の最後の日、土曜日を安息日として守りました。しかし、新約聖書の民教会は、週の最初の日、主イエスが復活された日曜日を新しい安息日として、この日にすべての仕事を休み、神を礼拝する日としました。つまり、23章56節に書かれている安息日は、旧約聖書時代の最後の安息日であって、24章1節は新約聖書時代の最初の安息日の始まりを告げているのです。わたしたち教会の民は、きょうの復活日の主日だけでなく、毎週の主の日に、主イエス・キリストの復活を記念し、覚え、罪と死とに勝利された主イエス・キリストの福音を聞くために、教会の礼拝に集められているのです。人間の死では終わらない、新しい命、復活の命、罪と死とに勝利した永遠の命のみ言葉を聞くために、ここに集められているのです。

 この日の朝早くに、主イエスの墓を訪れた婦人たちは香料を携えていたと1節に書かれています。これは、主イエスの亡骸に塗るためのものです。亡くなった人の体に香油を塗ることは当時の習慣によれば死者に対する大切な務めでした。本来ならば、墓に納める前にすべきでしたが、主イエスが金曜日の午後3時過ぎに十字架上で息を引き取られてから、翌日の安息日が始まるまでに時間的余裕がなく、香油を塗ることができなかったので、婦人たちは愛し慕っていた主イエスのお体に香油を塗るという、やり残した最後の奉仕をするために、急いで、ほかのすべての用事に先立って、起きてすぐに、主イエスを納めている墓にやってきたのでした。

 ところが、2、3節にこのように書かれています。【2~3節】。彼女たちが起きるよりも前に、墓に到着するよりも前に、神がすでに新しいみわざを始めておられたのです。墓の入り口をふさいでいる石は、男の人が数人で動かせるほどの大きく重い石です。婦人たちはそれをどうやって動かすつもりだったのかと、わたしたちが心配するには及びません。彼女たちが墓に到着する以前にすでに石が墓の入り口から取り除かれていたからです。それよりも彼女たちを戸惑わせたことは、主イエスのお体が墓の中になかったことでした。4節には「そのため途方に暮れていた」と書かれています。死者のためにやり残した最後の奉仕をしようとやって来たのに、それができなくなって墓の前で途方に暮れている婦人たち、この婦人たちの姿は、死すべき者や朽ち果てるもののために生きているわたしたち人間たちの、生きる真の目標を失った姿を象徴しているように思われます。死者のための奉仕、死すべき者のための奉仕、朽ち果てるほかないこの世のもののための奉仕は、すべてこのように途方に暮れてしまうほかにありません。しかし、婦人たちは間もなく、死者のための奉仕者ではなく、罪と死に勝利されて復活された主イエスのために奉仕する者へと変えられていきます。わたしたちもまた、主イエス・キリストの復活の証人として生きる者となり、わたしの救い主である主イエス・キリストに奉仕する者として生きる者となる時にこそ、本当の意味で喜びと希望があり、確かな目標がある人生を生きることが出来るのです。

 空になった墓を見て途方に暮れていた婦人たちは、輝く衣を着た二人の人が語る言葉を聞きます。【「5~7節」】。この二人の人とは神からの使い、天使のことです。天におられる神が地に住む人間にお語りになるときに、聖書ではしばしばこのような天使の姿で現れます。ここで最も重要なことは、主イエスの復活は神のみ言葉によって告げられるということです。婦人たちが実際に見たのは、墓の入り口をふさいでいた大きな石が取り除かれていたことと、主イエスのお体が墓にはなく、墓が空になっていたことでした。主イエスのお体がどのようにして生き返ったのか、止まった心臓がどのようにして動き出したのかというようなことについては、聖書は全く語っていません。主イエスの復活に関して、人間の目で見て確認できる事柄については、どちらかというと、否定的な側面や消極的な証拠しか、聖書は提供してくれません。なぜならば、復活信仰とは、復活を告げる神のみ言葉を信じる信仰だからです。目で見えること、人間が確認できることは、復活ではなく、いわゆる蘇生です。蘇生は、いずれにしても朽ち果てるほかない肉体の生き返りに過ぎません。それは、やがて再び死を迎えるほかありません。

しかし、主イエスの復活はそうではありません。主イエスの復活は、肉から霊に変えられる復活であり、再び朽ち果てることがない霊の命への復活であり、罪と死と滅びとに完全に勝利した永遠の命への復活なのです。わたしたちはこの主イエスの復活を信じる信仰へと招かれています。ヨハネによる福音書20章29節で、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と主イエスが言われたとおりです。

それゆえに、主イエスの復活は神のみ言葉として語られ、聞かれ、信じられるほかにありません。無から有を呼びい出し、死から命を生み出される全能の父なる神のみ言葉として、わたしたちは主イエスの復活の福音を聞き、信じ、主イエスの復活の証人として立てられるのです。主イエスの墓を訪れ、空になった墓を見た婦人たちも、天使たちが告げる主イエスの復活の知らせを聞いて、信仰へと導かれました。

では、どのようにして彼女たちが復活信仰へと導かれたのかを見ていきましょう。5、6節の神のみ言葉は、まず否定的な内容から始まります。「なぜ、……ここにはおられない」と。婦人たちは亡くなった主イエスに奉仕するために墓にやってきました。彼女たちの歩みは墓に向かっていました。彼女たちの目は死者の方に向けられていました。ここにも、人間の姿が象徴的に描かれているように思われます。すべての人間の歩みは墓に向かっています。人はみな死すべき者です。その運命を変えることはだれにもできません。墓をふさいでいる重い石を取り除くことはだれにもできません。

ところが今や、墓の石が内側から取り除かれました。死者を閉じ込めておく墓が、空にされました。人間が生まれて最後には死ぬという順序が、今や主イエスによって逆転されたのです。墓から始まる命、死から始まる命が主イエスによって開かれました。墓と死に向けられていた婦人たちの目が、復活された主イエスへと向けられます。「主イエスはこの墓の中にはおられない。復活された」と告げられます。この神のみ言葉が彼女たちに復活信仰を生み出します。

さらに、神のみ言葉は7節の主イエスがなさった受難予告を思い出させます。ルカ福音書では9章22節、44節、18章33節の三度の主イエスの受難予告を伝えています。主イエスが十字架につけられる前に予告しておられた神のご計画が、今や成就したのです。主イエスは父なる神のみ心とご計画に従順に服従されることによって、わたしたち罪びとたちの罪の贖いのみわざを、救いのみわざを成就されました。主イエスの三度の受難予告で主イエスご自身が語っておられた十字架の死と三日目の復活がすべてそのとおりに成就したことを知って、彼女たちの復活信仰はより強められました。

9節に【9節】と書かれています。この婦人たちは、10節にその名前が紹介されていますが、ルカ福音書によれば最初の復活の証人となり、最初に主イエスの復活の福音を宣べ伝えた宣教者となった人たちです。彼女たちは死人のための奉仕者から復活された主イエスに仕える者へと変えられました。墓に向かう人生から、主イエスによって開かれた復活の命へと向かう人生へと変えられました。主イエス・キリストの復活の福音を聞かされているわたしたちにも、死を超えて復活の命へと向かう道が備えられているのです。

(祈り)

4月14日 説教「主イエスの十字架」

2019年4月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:イザヤ書53章1~13節

    ルカによる福音書23章32~43節

説教題:「主イエスの十字架」

 「十字架上の七つの言葉」と言われるものがあります。主イエスが十字架につけられたとき、息を引き取られる直前に十字架上でお語りになった言葉が、四つの福音書を合わせると合計で七つあります。マタイによる福音書とマルコ福音書は同じ言葉が一つ、ヨハネ福音書が三つ、そしてルカ福音書が三つです。きょう朗読された箇所の【「34節」】、【「43節」】、【「46節」】。きょうの受難週の礼拝では、この34節のみ言葉を中心にして、主イエスの十字架の意味について、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 まず、主イエスの十字架上での七つの言葉がなぜ特別に重要なのかについて考えてみましょう。その理由の一つは、十字架上での七つの言葉が主イエスの地上のご生涯で最後に語られた言葉だからです。いわば、主イエスの遺言とも言うべき言葉だからです。しかも、十字架刑という、肉体的にも精神的にも、苦痛と屈辱との極限状態の中で、死の間際に最後の声を振り絞るかのようにして語られた言葉だからです。それゆえに、わたしたちは主イエスのそれらの言葉を、恐れおののきつつ、わたしの全存在を傾けて、わたしの命をかけて聞かなければなりません。

 もう一つの理由が考えられます。それは、主イエスが十字架上で語られた言葉が極めて少なく、また短く、それゆえに一つ一つの言葉に深く、重い意味が込められているからです。主イエスはこれまでにおよそ3年間の公の宣教活動をしてこられました。イスラエル全域の町々村々をめぐり、神の国の福音を説教してこられました。「今や、神の恵みのご支配が始まった、神の救いの時が近づいている、だから、罪を悔い改めて、神に立ち返りなさい、そうすれば、救いと新しい命が与えられる」と説教されました。福音書には、主イエスがお語りになった神の国の福音が数多く記されています。

 ところが、主イエスの裁判の時から十字架刑が執行される時までは、主イエスはほとんど口を開かれず、むしろ沈黙を守られました。イザヤ書に預言されている「苦難の僕(しもべ)」のように口を開かれませんでした。イザヤ書53章7節に次のように書かれています。「苦役を課せられ、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。主イエスがこの「苦難の僕」のように、父なる神への全き服従を貫かれた沈黙の中で、わずかに語られた十字架上での七つの言葉は、特別な光を放ってわたしたちに迫ってくるのです。

 では、その十字架上での七つの言葉の一つ、34節をもう一度読んでみましょう。【34節】。これは、七つの言葉の中で、時間的には最初のものではないかと推測されています。正確にその順序は分かっていませんが、34節がその最初、46節の「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」が最後ではないかと考えられています。そうしますと、七つの言葉の最初と最後がルカ福音書に書かれていることになります。

 主イエスはここで、神を「父よ」と呼んでおられますが、これはイスラエルにおいては非常に珍しいことです。神に対して直接に「父よ」とか「わたしの父よ」と呼びかけることは、旧約聖書ではほとんど例がありません。というのも、イスラエルの民にとって神は、はるかに高い天におられる聖なる神であり、栄光と威厳に満ちた神であって、その神のみ前では人間はただ恐れおののくほかにない罪びとであって、神を親しく父よと呼ぶことは、その神の尊厳性を損なうことになり、神を冒涜することだと考えたからです。

 主イエスは初めて神を父、わが父と呼ばれました。言うまでもなく、主イエスにとっては、神はまさに、実際に、父であられます。神はわたしたち罪びとたちを罪から救うために、ご自身の独り子をこの世へとお遣わしになったのです。ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれているとおりです。主イエスこそが神をわが父とお呼びになることができる唯一のみ子であられ、最初の方なのです。

 それだけでなく、主イエスはわたしたちもまた神を父と呼ぶことができるようにしてくださいました。わたしたちは主イエスによって罪ゆるされ、神との親しい交わりの中に招き入れられ、神の子どもたちとされました。主イエスはわたしたちにこのように祈りなさいと教えてくださいました。「天にまします我らの父よ、み名が崇められますように。み国が来ますように。み心がなりますように」と。

 主イエスが十字架上で神を「父よ」と呼びかけられたことには、更に深い意味があります。主イエスはすべてのユダヤ人から見捨てられ、恥ずかしめとあざけりを受けて十字架につけられましたが、それでもなお、神を「父よ」と呼ぶことができるのだということ、「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるということ、そのことにわたしたちは気づかされます。12弟子たちからも見捨てられ、ただお一人で、肉体と精神の苦痛と渇きの中で死に行く時にも、なおも「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるのです。この呼びかけは、絶望と死の淵から立ち上がって、希望と命に生きることを可能にする呼びかけです。わたしたちが神を父として持ち続けるならば、わたしたちの絶望と死もまた、希望と命に変えられていくということを信じることができます。

 もう一つ別の角度から「父よ」という呼びかけを見ていきましょう。主イエスはここで、神を「父よ」と呼ぶことができないような、神との関係を断ち切られるような深い淵の底から、「父よ」と呼びかけています。マタイとマルコ福音書では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というもう一つの十字架上での言葉を記しています。主イエスは神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちと同じ側に立たれ、神の裁きを受けて、死すべき人間のお一人となられ、十字架上での苦悩と痛みとを経験しておられるのです。わたしたち罪びとたちが受けるべき神の裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、神の厳しい裁きを耐え忍ばれたのです。主イエスが父なる神に見捨てられようとする、まさにその時にこそ、神は父なる神として、主イエスの最も近くにおられ、主イエスと共におられたのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。

 「彼らをお赦しください」の「彼ら」がだれを指すのかは、はっきりと特定できません。十字架刑を直接に執行しているのはローマの兵士たちですが、彼らを指しているのは確かでしょう。十字架の周りで「十字架につけよ」と叫んでいる群衆、あざ笑っているユダヤの役人たち、さらには主イエスの裁判にかかわったユダヤ人指導者たち、最終的に十字架刑を言い渡したローマの総督ピラト、また主イエスを見捨てて逃げ去った12弟子たち、それらのすべての人たちも、この「彼ら」から除外されることはないでしょう。いや、それのみか、自分では気づかないで神から離れ、罪の道を進んでいたわたしたちすべての人間たちが、この「彼ら」に含まれると言うべきでしょう。主イエスは、それらすべての人たちのために、今十字架の上で、彼らの罪のゆるしを祈っておられるのです。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちの罪を代わってご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けになり、大きな苦痛と苦悩の中で、ご自身を十字架につけている彼らすべての人たちのために、罪のゆるしを祈っておられるのです。これは何という大きな愛であり、偉大なゆるしであることでしょうか。この大きな十字架の愛とゆるしによって、わたしたちは罪ゆるされ、救われているのです。

 後の初代教会のキリスト教教理では、使徒パウロが彼の書簡で繰り返して語っているように、主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人は神のみ前で義と認められ、罪ゆるされ、救われるというのがキリスト教信仰の中心ですが、そのキリスト教理が形成される以前に、主イエスご自身の口から直接に語られた十字架上での言葉そのものに、わたしたちの罪のゆるしと救いの源泉があるのです。

 「自分で何をしているのか知らないのです」とは、だから責任がない、その行為がゆるされるという意味ではありません。自分では何をしているのか分からないままに、彼らは神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を十字架につけているのです。その罪を主イエスは告白しておられるのです。実は、自分では何をしているのかわからないというのが、人間の罪の実体なのです。自分では罪に気づいていない、自分はだれかを故意に傷つけたり、損害を与えてはいない、自分では神のみ心に背いていない、自分もまた主イエスの十字架にかかわっていることに気づいていない、いやむしろ自分は正しい人間だ、まじめな人間だ、間違ったことはしていない、だから自分には主イエスの十字架は無関係だと思っていること、それが人間の罪なのです。

 罪を言い表す旧約聖書のヘブル語「ハッター」も新約聖書のギリシャ語「ハマルテア」も、いずれも本来は的を外すという意味があります。弓を一生懸命に引いて矢を放つ、しかし、その矢は的に向けられていない、的から外れた方向を向いている、それゆえに、力を込めれば込めるほどに、矢は的から遠くに飛んでいく、それが人間の罪の現実だということを聖書は語っています。わたしたち人間はみな生まれながらにして罪に傾いており、神から遠く離れている罪びとなのです。主イエスは、わたしたちの隠れ潜んでいた罪をゆるすために、今十字架上で祈っておられます。「父よ、彼らをお赦しください」と。主イエスの十字架によって罪ゆるされる時に、わたしたちは初めて自分の罪に気づかされます。

 最後に、きょうの十字架の場面でルカ福音書が繰り返して語っていることに注目したいと思います。【「35節」】。【「37節」】。【「39節」】。けれども、主イエスはそれらの要求には全くお答えにならずに、むしろその要求を否定されるかのように、ご自身が全く無力になられ、貧しくなられ、低くなられて、神のみ子としての栄光をも誉れをも、威厳をも力をも、それらのすべてを投げ捨てられて、ご自身の尊い命とすべてを、わたしたちの救いのために、十字架にささげ尽されたのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節以下にはこのように書かれています。【6~11節】(363ページ)。ここにこそ、わたしたちの本当の救いがあります。全人類のための永遠の救いがあります。

 それゆえにこそ、主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、救われ、新しい命に生かされているわたしたちもまた、主イエスのために、またわたしの隣人のために、自らをささげて生きていくことが命じられ、またそれが可能とされているのです。

(祈り)