12月26日説教「アブラハムのイサク奉献」

2021年12月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記22章1~19節

    ローマの信徒への手紙8章31~39節

説教題:「アブラハムのイサク奉献」

 創世記22章には、アブラハムのイサク奉献のことが書かれています。神はアブラハムに神の約束の子であり、彼の独り子であるイサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさいとお命じになります。アブラハムは神の命令に黙々と従います。ここに描かれている内容は、非常に深刻であり、衝撃的であり、また感動的でもあり、しかも信仰的、神学的に大きな課題と問題点を多く含んでいます。

 デンマークの哲学者キェルケゴールは『恐れとおののき』という書物で、愛するひとり子イサクを神に燔祭としてささげる父アブラハムの信仰の試練と戦いのことを詳しく論じています。古代から、多くの画家たちがこの場面をテーマにして感動的な絵を描いています。わたしたちキリスト者はここから、ご自身の愛する独り子主イエス・キリストをさえも十字架に犠牲としておささげくださるほどにわたしたち罪びとを愛された神の偉大な愛を読み取ります。それらのさまざまな課題に思いを馳せながら、この個所を2回に分けて読んでいくことにしましょう。

 1、2節を読みましょう。【1~2節】。1節の冒頭に、「これらのことのあとで」と書かれています。「これらのこと」とは具体的に何を指しているのかを考えてみると、すぐ前の21章前半に書かれていたイサクの誕生のことだけを指すのではなく、これから起ころうとしている重大な出来事との関連で考えるならば、アブラハムの信仰の歩みがが始まった創世記12章からのすべてのことを含んでいると理解すべきではないかと思います。12章以下のアブラハムの歩みを簡単に振り返ってみましょう。神はアブラハムを選び、召して、彼と契約を結び、約束の地へと導かれました。「あなたとあなたの子孫とにこのカナンの地を永遠の嗣業として与える。あなたの子孫は星の数ほどに増え広がり、わたしが与える祝福を永遠に受け継ぐであろう」。これが神の約束でした。アブラハムは何度も神の約束を疑い、神に背き、罪を犯しましたが、神はそのたびにアブラハムをゆるされ、彼との契約を更新されました。彼が最初の神の約束を聞いてから25年後、彼が100歳になって、ようやくその約束の一つが成就し、彼に約束の子イサクが与えられました。そのようなアブラハムの信仰と迷いの生涯、神への服従と失敗の歩み、それらのすべてのあとで、これから新たな展開が始まるという意味で、「これらのことのあとで」と書かれていると考えられます。

 1節の次の言葉は「神は」ですが、この言葉は原文のヘブライ語のテキストでは非常に強調されています。これから起こる出来事はすべては神が主語となり、神が主導しておられるということなのです。もちろんわたしたちはここでアブラハムが受けている大きな信仰上の試練ということをも真剣にとらえなければなりませんが、それ以上に、神が主導権をもっておられ、神がここでは行動しておられる、神のみ心が行われているということを聖書は強調しているのです。

 「神はアブラハムを試された」とあります。神がアブラハムを試みておられる、神がアブラハムに信仰の訓練を与えておられるということがまず語られているのです。このことは、神は本気でアブラハムに子どもを犠牲としてささげること(いわゆる、人身御供)を命じておられるのかどうかという問題に一定の答えを与えているように思います。聖書では明らかに人身御供は神によって禁じられているのに、ここではそれをご自身が要求しておられるのだとしたら、神の側に何か不正があるのではないか、という神学的な疑問に対して答えていると言えましょう。聖書の神は他の神々のように、人間の命をご自身にささげるように命じることはありませんし、信仰の行為として人間の命を要求されることもありません。神は初めからすべてをご存じであられ、み心のままにアブラハムを導いておられるのです。そして、彼に信仰の訓練をお与えになるのです

 とはいえ、この神の命令がアブラハムにとっていかに厳粛な神の絶対的な命令であるか、そしてそれが彼をどれほどに苦しめ、厳しい信仰の戦いを強いるものであるかということが、否定されることは全くありません。彼には隠されている神のご計画がまだ全く見えていません。キェルケゴールが言うように、アブラハムは主なる神に対する大いなる恐れとおののきとをもって、この神の命令と向き合っているのです。ようやくにして与えられた彼の子どもイサクを神のみ手によって奪い取られようとしているという、避けられない厳しい現実に彼は恐れおののいています。

 「焼き尽くすささげ物」とは一般に燔祭と言われます。英語ではホロコーストと言います。のちに、イスラエルの礼拝の形式となりました。エルサレムの神殿では毎日燔祭の犠牲がささげられました。まず、聖別された家畜、羊や山羊、牛などの首をナイフで切り、その血を祭壇に注ぎます。血は命であり、本来神のものなので、それを神にお返しするのです。肉は内蔵とともにすべてを火で焼いて、その香ばしい香りを天におられる神にささげます。一頭の家畜のすべてを神にささげるのが燔祭です。

 ところが、ここで神がアブラハムに命じておられるのは家畜をではなく、彼の独り子イサクを燔祭としてささげよと言われるのです。これは何と厳しくまた理不尽とも言える命令ではないでしょうか。イサクは彼が長く待ち望んだ子どもでした。神はこの子を授けるまで、25年間も長い間アブラハムを待たせたのでした。彼が100歳になって、ようやくにして授かった子どもです。彼の生涯はイサクの誕生を待ち望み、この子の成長を見守ることがすべてであると言ってよいでしょう。イサクはアブラハムにとっての命そのものでした。しかし、神はその子を燔祭としてわたしにささげよと言われるのです。病気や事故で一人息子を失うということはすべての父親にとって大きな苦悩であり、試練であるのは言うまでもありません。しかし、ここでは父親であるアブラハム自身がわが子を自分の手でその首を切り、その体を火で焼かなければならないのです。今だかつて、アブラハムはこれほどの大きな試練を受けたことがあったでしょうか。これまでに幾度も信仰の戦いをしてきたアブラハム、年老いたアブラハムにとって、これはあまりにも過酷で、厳しい試練ではないでしょうか。アブラハムはこの大きな試練に耐えることができるでしょうか。

 いや、ここにある問題の深刻さは、それだけではありません。アブラハムにそのことを命じるのが、ほかならない神なのです。アブラハムにその子を与えると約束され、事実その約束を成就された神ご自身が、その子を燔祭としてささげよと言われるのです。イサクはほかでもない、神の約束の子です。その子を通して、後の時代のすべての民が神の祝福を受け継ぐと約束されている子です。神は今、ご自身の約束を、ご自身の手で廃棄されるというのでしょうか。アブラハムはこの大きな試練の前で恐れおののいています。

 次に、3節を読みましょう。【3節】。アブラハムは無言で神の命令に従い、旅立ちの準備をします。わが子イサクを燔祭の犠牲としてささげるための旅に、無言で、黙々として、出発します。「朝早く」とは、アブラハムの決断と服従の素早さ、その堅さ、断固とした姿勢を言い表しています。彼は、何のためらいも迷いもなく(わたしたちにはそのように見えるのですが)、神の命令に服従しています。これが、後の世のすべての信仰者たちの信仰の父と呼ばれるようになるアブラハムの信仰です。

 神はなぜ、アブラハムに対してこのようなむごいとも思えるような試練をお与えになるのでしょうか。2節で、神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを」と言われます。神はアブラハムがイサクをどれほどの愛しているか、彼にとって独り子イサクがどれほどにかけがえのない大切な存在であるかを、よくご存じです。そうでありつつ、いや、そうであるがゆえにこそ、神はアブラハムに「あなたのその最愛の子をわたしにささげなさい」とお命じになるのです。

 それはなぜでしょうか。なぜ神はアブラハムに過酷とも思えるほどの、あるいはだれの目から見ても理不尽としか言えないような、大きな試練をお与えになるのでしょうか。その答えは、2節の神のみ言葉の中に暗示されています。「あなたの息子、あなたの愛する、あなたの独り子イサク」、ここに「あなたの」という言葉が3度繰り返されています。イサクはアブラハムにとっての最愛の子です。神はまさにそのアブラハムのイサクに対する愛を問題にしておられるのです。わが子イサクに対する愛が神を愛する愛よりも大きくなることを問題にしておられるのです。もし、イサクに対する彼の愛が、神に対する愛よりも大きくなるとすれば、それは彼にとっての大きな信仰の危機となるかもしれないからです。

 イサクはアブラハムの最愛の子ですが、それ以上にイサクは神の約束の子です。イサクによって後の世のすべての信仰の民が祝福されるのです。父アブラハムに約束された神の祝福が、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、ついには主イエス・キリストによって全世界のすべての教会の民へと受け継がれていく、これが神の救いのご計画です。この神の救いのご計画のために、アブラハムもイサクも、そしてすべての信仰者は仕えるのです。神はアブラハムに、「あなたは最愛の子イサクをささげるほどにわたしを愛するか。あなたの最愛の子イサクをもわたしの救いの計画のためにささげる用意があるか」と問われるのです。

 わたしたちはここで16節の神のみ言葉をあらかじめ先取りするようにして理解することができます。「わたしは自らにかけて誓う。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子をすら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。……あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(16~18節参照)。

 わたしたちはまたここで主イエスのみ言葉を思い起こします。マタイによる福音書10章37節以下を読みましょう。【37~39節】(19ページ)。

 さらにわたしたちは、ヨハネ福音書3章16節以下のみ言葉を思い起こします。【16~17節】(167ページ)。アブラハムのイサク奉献の出来事は、主イエス・キリストの十字架の死と、そこで表わされた神の偉大な愛を指し示しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ。あなたがこの一年間、豊かな恵みと憐れみとをもってわたしたちの教会とわたしたち一人一人をお導きくださったことを覚えて、心から感謝いたします。わたしたちの不忠実や怠惰や傲慢で悔い改めることをしなかった罪を、どうぞおゆるしください。

〇主なる神よ、さまざまな困難な課題をかかえながら苦悩するこの世界の民を顧み、憐れんでください。あなたのみ心が行われ、義と平和が地において実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月19日説教「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

2021年12月19日(日) 秋田教会礼拝説教(クリスマス礼拝)

(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ヨハネによる福音書1章6~18節

説教題:「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

 ヨハネによる福音書はクリスマスの出来事を1章9節で、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と表現しています。『口語訳聖書』の翻訳の方が分かりやすいので紹介します。「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」。また、14節では、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。この二つのみ言葉から、ヨハネ福音書が語るクリスマスの意味についてご一緒に学んでいきましょう。

 クリスマスは神のみ子であり、全世界のすべての人の救い主としてこの世に誕生された主イエスの誕生を祝う日です。ヨハネ福音書はその主イエスを「まことの光」、また「言(ことば)」として言い表しています。先に、「言」について少し説明を加えながら、14節のみ言葉の意味を考えていきたいと思います。新約聖書の言語であるギリシャ語では「ロゴス」と言います。一般的な意味として、言葉のほかに道理、理性、理由などの広い意味を持っています。そのロゴスという単語に、特定の意味を持った単語につけられる定冠詞「ホ」、英語では「the」をつけて、「ホ・ロゴス」という言葉で、聖書は主イエス・キリストを言い表しているのです。日本語の翻訳では「言葉(ことのは)」の「こと・げん」一字で「ことば」とルビをつけるのが一般的です。

 その「言」(ホ・ロゴス)が肉となって、わたしたち人間の間に宿られた、この世界に来られたと14節は語っています。キリスト教の用語ではこれを「受肉」と言います。天におられる永遠なる神が人間の肉をまとわれ、人間となってこの世界に、時の中に入って来られた、神が人間になられたということです。それがクリスマスの出来事、主イエス誕生の出来事です。それは、何を意味しているでしょうか。

 一つには、天におられた神が地に下って来られ、わたしたち人間が住むこの地上においでくださった、わたしたち人間のごく近くに、わたしたち人間と共におられる神となってくださったということです。マタイ福音書ではこれを「インマヌエル、神我らと共にいます」という言葉で表現しています。しかし、天におられる神と地に住む人間との間には無限の隔たりがありました。神は聖なる神、罪も汚れもなく、全能の神、永遠の神であられたにもかかわらず、神に背き、罪ゆえに死すべきものとなった人間のただ中においでくださったのです。それは、人間を罪から救うためでした。

 わたしたちはもはや神を求めて天に登る努力をする必要はありません。救いを求めて、あれこれと探し回ったり、何らかの宗教的・信仰的な訓練を積み重ねたりする必要も全くありません。神ご自身の方からわたしたちに近づいて来てくださったからです。わたしたちがその神を信じて受け入れるなら、主イエスによる罪のゆるしが与えられ、救われるのです。

 神が人間になられたことの第二の意味は、ヨハネ福音書では主イエスを「ホ・ロゴス」、神の言葉と言い、その神の言葉が肉となられた、受肉したと表現することによって、神の言葉が現実となり、成就したということを言い表しています。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に約束されたメシア・キリスト・救い主が今クリスマスの出来事によって、主イエスの誕生によって、出来事となった。神の救いの預言が成就した。神の言葉、神のみ心、神の救いのご計画がわたしたちの間で実現した。わたしたちはそれを確かにこの目で見て、信じることができるようにされているということを意味しています。

 もう一つの意味を付け加えることができます。聖書では「肉」という言葉は、弱く、はかなく、朽ち果てるものという性質を言い表します。天におられる神は、聖なる神、永遠なる存在であられるにもかかわらず、人間の肉を身にまとわれ、弱く、朽ち果てるもの、死すべきものとなられたと、ヨハネ福音書は語っているのです。

 宗教改革者カルヴァンはこのように言っています。「神のみ子がその天的な高みから、我々のために、それほどに低い、打ち捨てられた状態にまで下って来られたのだ」と。天におられる罪も汚れもない聖なる神が地に下って来られ、罪の中に入ってきてくださり、死すべきわたしたち人間と同じお姿になるほどまでに、ご自身を低くされ、貧しくされ、卑しくされて、わたしたち一人一人と共におられる神となられたということです。

 この神の低さは、主イエスの十字架の死に至るまで続きます。神は罪びとの一人に数えられ、わたしたちの死をも共にされたのです。それは、罪ゆえに死すべきわたしたちを罪と死から救い出すためでした。これほどまでにわたしたち罪びとと共にいてくださる神の偉大な愛について、ローマの信徒への手紙5章ではこのように教えられています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。……わたしは確信します。死も、命も、天使も、支配するもの、現在のもの、未来のもの、力あるもの、高い所にいるもの、低い所にいるもの、他のどんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(5章32節以下参照)。わたしたちはこれほどまでに強い愛によって神と結ばれているのです。

 これまで学んだことから明らかなように、クリスマスの出来事の意味を正しく理解するためには、わたしたちは人間の罪とその罪からわたしたちを救う主イエス・キリストの十字架の死という出来事と、その二つと主イエスの誕生という出来事とを結びつけて考えなければなりません。ヨハネ福音書1章9節のみ言葉がそのことを教えています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。これが、ヨハネ福音書が語るもう一つのクリスマスの意味です。

この日に誕生した主イエスは、まことの光であると言われています。光は闇を照らし、闇の中で輝きます。明るい場所では、光には気づきませんし、光を必要ともしません。「まことの光が世に来て、すべての人を照らす」とは、この世が暗闇であり、すべての人が暗闇の中に住んでいるということを暗示しています。あるいはこうも言えるでしょう。まことの光に照らされる時、この世は、またすべての人は、今まで自分たちが暗闇の中におり、暗闇の中を歩んでいたのだということに気づかされるということです。

 聖書では、暗闇とはしばしば神を失っている世界、罪に支配されている世界と人間を象徴する言葉として用いられます。イザヤ書9章1節にはこのように預言されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。紀元前7世紀の預言者イザヤの時代だけでなく、主イエスの時代も、そして今日も、世界はまことの神を失い、神無き暗黒の中を歩んでいます。

 けれども、神はこの世界をなおも愛しておられます。この世界が罪の中で滅びることをおゆるしにはなりません。神は世界のすべての人を上から照らすために、まことの光なる主イエスをお遣わしになりました。最初のクリスマスの夜に、羊飼いたちは天からの神のみ声を聞きました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と。

クリスマスの日に天から与えられたこの光は、イスラエルの一部の地域だけを照らすのではありません。イスラエルの民だけが救われるのではありません。「すべての人を」とあります。すべての人を照らす光です。すべての人が主イエス・キリストの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の民とされます。この光で照らされない人は一人もいません。主イエス・キリストの福音派すべての人に与えられ、すべての人がその救いの恵みへと招かれています。

また、この光は「まことの光」と言われています。この光は罪に支配されているこの世の暗闇を照らし、その中に住む一人一人を光の中に導き、神の真理へと導き、わたしたちにまことの命を与えます。主イエスの十字架の死による罪のゆるしと、主イエスの復活にあずかる永遠の命を与えます。

(執り成しの祈り)

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

12月12日説教「迫害の中で命の言葉を語る」

2021年12月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編23編1~6節

    使徒言行録5章17~26節

説教題:「迫害の中で命の言葉を語る」

 きょうの礼拝で朗読された使徒言行録5章17節以下には、初代エルサレム教会が経験した2回目の迫害のことが書かれています。最初の迫害については4章1節以下に書かれていました。4章では、ユダヤ人指導者たちによって逮捕されたのはエルサレム教会の代表者ペトロとヨハネでしたが、5章では18節に「使徒たちをとらえて」とありますから、ペトロを始めとして主イエスの12人の弟子たち全員が捕らえられたのではないかと推測されます。迫害の規模が拡大しています。初代教会の宣教の範囲が拡大されるとともに、迫害の規模もまた拡大していきます。

また、17節によれば、今回も迫害のきっかけをつくったのはサドカイ派の人たちでした。【17~18節】。サドカイ派はファリサイ派と並んで当時のユダヤ教の二大教派でした。サドカイ派は祭司や貴族階級によって構成されており、保守的で現実主義者でした。彼らは復活や奇跡や天使の存在などを信じていませんでした。4章ではペトロとヨハネが主イエスの復活について説教しているのを聞いたサドカイ派の人たちは、自分たちが否定している復活について語っているのを聞いて、腹立たしく思ってペトロとヨハネを捕え、牢に入れたと書かれていましたが、ここでは使徒たちによってなされていた病気のいやしや奇跡などの不思議なしるしによって民衆の多くがエルサレム教会に関心を寄せているのを見て、それを妬ましく思い、またもや使徒たちを捕えたのでした。

保守的で現実主義的な考えを持っていたサドカイ派の人たちにとっては、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は自分たちの存在や信仰を根本的に否定するほどの脅威だったと推測されます。彼らはエルサレム神殿を中心とした当時のユダヤ教の制度の中で安定した地位と生活を営んでいました。その生活基盤が変えられることを望んでいません。新しい信仰や教えによって今の現実が変えられることは、彼らの生活が脅かされることになります。この時にはまだ彼らははっきりと悟ってはいませんでしたが、主イエス・キリストの十字架によって、エルサレム神殿で彼らが行っていた動物犠牲の礼拝がもはや不要になったのです。したがって、神殿での祭司の職も終わりになったのです。主イエス・キリストの十字架の死によって、完全で永遠の罪の贖いが完成されたからです。彼らはやがてそのことに気づくでしょう。そして、彼らに新しい救いの道が用意されていることにも気づくでしょう。けれども、彼らの多くは自らその救いの道を閉ざしていたのです。

ところが、牢に捕らえられている使徒たちに不思議なことが起こりました。【19~21節a】。公の牢は大祭司の官邸の地下にありました。投獄した犯罪人の逃亡を防ぐための厳重な構造と監視体制が整っていました。けれども、神の命のみ言葉、神の救いのみ言葉は、どのように太い鎖によっても、地下の頑丈な鉄格子によっても、つなぎとめておくことはできません。不思議な奇跡によって、使徒たちは牢獄から解放され、自由にされました。主の天使とは、主なる神がお遣わしになった天使で、神が地上で力強いお働きをなさる時にはしばしばこのようなお姿で行動されます。使徒たちは鉄格子に囲まれて、行動の自由を失っていました。しかし、神が彼らのためにみわざを行ってくださいます。神が牢獄の戸を開け、厳しい監視を打ち破り、彼らに自由をお与えになります。

ここで注目すべきは、天使によって使徒たちに語られた神のみ言葉です。神は使徒たちに、「神殿に行って、命のみこ言葉を、主イエス・キリストの福音を語れ」とお命じになります。使徒たちが牢獄から解放されたのは、彼らの身の安全のためではありません。彼らが迫害にあわないように、敵の手から逃亡させるためでもありません。いやむしろ、彼らが捕らえられたまさにその現場に彼らを派遣するためです。しかも、最も人目につきやすい神殿の境内に行きなさいと命じるのです。それだけではありません。彼らが捕らえられた原因となった神の命のみ言葉を再び語るために、主イエス・キリストの十字架の福音をユダヤ人に語るために、そこへ行けと命じるのです。彼らをまさに迫害のただ中へと派遣するのです。

そこで、使徒たちはその命令に従い、朝早くに神殿に行き、朝の祈りのために集まってきたユダヤ人たちに主イエス・キリストの福音を語ります。そのことは、当然彼らの再逮捕に通じる道であり、事実そのようになるのですが、神はあえて使徒たちを迫害のただ中へと派遣されました。それが神のみ心であり、ご計画なのです。そして、それが使徒たちの服従の道なのです。これによって、神の命のみ言葉が決してこの世の鎖によってつながれることはないことを神は明らかにされるのです。また、使徒たちの福音宣教の働きがこの世の権力によっても決して中止されることはないことを神は彼らに悟らせたもうのです。

ここにはもう一つのことが暗示されているように思われます。主イエス・キリストの福音が「この命の言葉」と言われています。それを彼らはエルサレム神殿で語れと命じられているのです。エルサレム神殿での古い礼拝に終わりが告げられ、ユダヤ教の律法によって生きる道が閉ざされ、その死が宣告されるのです。そして、すべての人の罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストを救い主と信じることによって生きる信仰者たちの新しい礼拝が教会で始まるということがここでは暗示されています。

【21節~26節】。大祭司を議長としたユダヤ最高議会のメンバー70人が集合し、使徒たちの裁判を行おうとしましたが、彼らは牢の中にはいません。自分たちが裁こうとしていた使徒たちが何か不思議な力によって牢獄から姿を消してしまったという報告を受けて、ユダヤ最高議会の議員たちや民の指導者たちは困惑し、心を乱しています。そこへ、使徒たちが神殿で人々の前で説教しているとの報告が入りました。そこで、再び彼らを逮捕します。その様子が、ここには臨場感あふれる筆致で描かれています。

ここでは、迫害する側であるユダヤ最高議会の議員たちと、迫害される側にいる使徒たちの姿とが対照的に描かれています。一方では、ユダヤ教の中での自分たちの立場や地位、古い律法による信仰を守ろうと躍起になり、そのためにこの世の権力を用いて使徒たちと主イエス・キリストの福音を消し去ろうとしているユダヤ最高議会のメンバーたち。大祭司、祭司長、長老などのユダヤ教指導者たち。しかし、自分たちが捕らえて獄に投げ込んだ使徒たちがそこにいないと知って、あわてふためいておろおろしている彼ら。また、この世の権力を持ち、それを行使していながら、使徒たちの説教に耳を傾けている民衆を恐れている彼ら。

しかし、他方では、この世のいかなる権力をも恐れず、迫害や投獄をも恐れず、神殿の中で大胆に主イエス・キリストの福音を語り続けている使徒たち。そして、民衆の心をとらえている使徒たち。ここには、人間の声に聞き従う者たちの姿と、神のみ声に聞き従う信仰者たちの姿が、対照的に描かれています。

ここでもう一度、20節の「この命の言葉を残らず民衆に語りなさい」というみ言葉を思い起こしたいと思います。このみ言葉は、すでに学んだように、神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても、権力や暴力、迫害によっても、決してその命を奪い取られることはない。またその命の力、生命力といったものを失うことはない。それらの敵対する勢力の中でなおも神のみ言葉はその命を発揮するということを意味している。これが第一の意味です。

第二には、神の命のみ言葉がエルサレム神殿で語られることによって、律法によって生きるユダヤ教の信仰がもはやその役割を終えて死を迎えた。主イエス・キリストの十字架の福音によってこそ、この福音を信じる信仰によってこそ、神のまことの命が信仰者に与えられるようになった。エルサレム神殿で行われていた動物を犠牲としてささげる礼拝はもはやその役割を終えて、死を迎えた。主イエス・キリストによる十字架の死の贖いによって完全な罪の贖いが成就した。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってこそ、すべての信仰者にまことの命が与えられるようになった。これが第二の意味です。

それに加えて、わたしたちはもう一つの意味をここから読み取ることができます。それは、2回の迫害を経験した初代エルサレム教会と使徒たちがまさにこの神の命のみ言葉によってこそ生きるべきであるということ、今現実に、迫害の中で生かされているということを、彼らはここで強く教えられたということです。使徒言行録ではこの後、教会の宣教活動が全世界に拡大されていくにしたがって、いよいよ激しくこの世の抵抗にあい、迫害を経験するということを繰り返して語ります。

この章の終わりの41、42節には次のような興味深いみ言葉が書かれています。【41~42節】。使徒たちは主イエスのみ名のために迫害を受けることをむしろ喜び、誇りさえしているのです。ある古代の神学者はこう言いました。「教会は殉教者たちの血によって生きている」と。正確に言うならば、「殉教者たちが流した血にもかかわらず」とか「彼らの血を超えて」、神の命のみ言葉によって教会は生きてきたと言うべきでしょう。教会は2千年の歩みの中で、幾度も厳しい迫害を経験してきました。日本の地でもそうでした。しかし、教会は迫害の中で繰り返して教えられました。神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれない。その命の力を失うことはない。いやむしろ、その中でこそ、まことの命の力を発揮し、教会を生かし、信仰者たちを強めるのだということを。

わたしたちもまた、この神の命のみ言葉を信じ続け、さまざまな困難や労苦や試練の中で、また弱さや欠けを覚えつつも、主キリストの教会のために希望をもってお仕えしていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、主イエスのご降誕を待ち望む待降節のこの時に、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を、あなたの命にみ言葉で養い、強め、その福音宣教の務めをいよいよ忠実に果たしていくことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、どうか、あなたが天からのみ光によって、暗闇に閉ざされているこの世界を明るく照らしてください。病んでいる人たち、その看護にあたっている人たち、重荷を負って疲れている人たち、試練や困窮の中にある人たち、道に迷っている人たち、孤独な人たち、すべてあなたの助けを必要としている人たちに、あなたがその一人一人の近くにいてくださり、助けと救いのみ手を差し伸べてくださいますように。

〇主なる神よ、わたしたちは先週に愛する教会員の一人をみもとに送りました。あなたが兄弟をこの教会へとお導きくださり、彼に信仰の道を備えてくださいましたことを感謝いたします。どうか、悲しみと寂しさの中にあるご遺族のお一人お一人にあなたにある慰めをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月5日説教「神の永遠の計画に従い、人となられた主イエス」

2021年12月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰の告白』講解⑧(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい、人となられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、なぜ『信仰告白』を説教で取り上げるのか、『信仰告白』について学ぶことの意義は何かということを絶えず確認しておくことが大切です。というのは、日本キリスト教会が1951年に日本基督教団から離脱して、39個の教会で新しい日本キリスト教会を建設した際の主な動機が、まさに『信仰告白』にあったからです。『信仰告白』を学ぶということは、わたしたちの秋田教会が日本キリスト教会に属する教会であることの原点なのです。

 戦時中の1941年に、日本のプロテスタント教会はほとんどすべてが日本基督教団に合同しました。これは、長老派の旧日本基督教会をはじめ、組合教会、メソヂスト派、バプテスト派など、多種多様な教派・教会の集合体でしたから、統一した信仰告白を持っていませんでしたし、政治形態も違っていました。そこで、戦後、信仰告白によって教会形成をしなければ真実の教会は建たないと考えた旧日本基督教会に属していた一部の教会が日本基督教団を離脱する決意をし、1951年(昭和26年)に新しい日本キリスト教会を建設し、ただちに信仰告白の制定に取りかかったのでした。

 日本キリスト教会が信仰告白によって立ち、宣教活動を行い、教会の一致と交わりを強める教会であるということの具体的な例は、わたし自身の信仰そのものがこの『信仰告白』を土台としていることにあります。わたしたちが信仰を告白し、キリスト者・信仰者となり、秋田教会の会員となった時、わたしは洗礼式で『日本キリスト教会信仰の告白』を誠実に受け入れると誓約しました。長老・執事に任職された時、日曜学校教師に就職した時にも『日本キリスト教会信仰の告白』に誠実に従うことを誓約しました。牧師が教師の職に就く時、教会に就職する時、あるいは教会を建設する時、あらゆるときに、わたしたちは『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白し、この告白のもとでの一致を確認します。『日本キリスト教会信仰の告白』を学ぶということは、わたしたちの信仰の原点、土台について確認することであり、またわたしたちが信仰告白のもとになっている神のみ言葉によって生きている群れであり、そこで告白されている主キリストを頭とする一つの群れであることを確認することでもあるのです。

 では、きょうは前回に引き続き「主は、神の永遠の計画にしたがい」から「人となって」までを取り挙げます。まず、この文章の主語を改めて確認しておきましょう。主語は「主」、「主イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが神の永遠のご計画に従われたということがここでは告白されているのです。「神の永遠のご計画」と言えば、多くの人は神が教会や世界の歴史を、またわたしたち一人一人の信仰の歩みを永遠の救いのご計画にしたがって導いておられると考えるかもしれませんが、もちろんそうであることには間違いないのですが、ここでは主イエス・キリストご自身が何よりもまず第一に神の永遠のご計画に従われたと告白されているのです。神の永遠の救いのご計画は何よりもまず主イエス・キリストご自身に現わされている、主イエス・キリストが人となられたことに最もよく現わされていると告白されている点が重要なのです。

 ここではまだ、わたしたち人間のこととか、教会、世界のことは問題にされていません。もっぱら主イエス・キリストのことが語られています。このあとに続く告白もすべて主イエスが主語です。主イエスが誕生から十字架の死に至るまでの全ご生涯において、また復活と昇天、更には終わりの日の再臨に至るまで、そのすべてが父なる神の永遠なる救いのご計画に基づいていることであり、主イエスはその父なる神が備えたもうた救いの道を従順に歩まれた。そこにこそ、神の永遠のご計画が、文語体の『信仰告白』の言葉では、「永遠なる神の経綸」が、別の言葉では神の摂理、神の配剤が最もよく現わされていると、ここでは告白されているのです。

 この信仰から、それゆえにまた、わたしたちはこの世界と教会の、そしてわたしたち一人一人の神の摂理・配剤を固く信じることができるようにされているのです。なぜならば、主イエス・キリストご自身の歩みの中ですでに神の永遠なる救いのご計画が実現し、神の摂理、配済が確実に行われたゆえに、主イエス・キリストを救い主と信じるわたしたちにも神は確かに最も良き道を備えたもうからです。主イエス・キリストを救い主と信じる者たちにとっては、偶然とか、得体のしれない不気味な運命とかは全くなく、すべてのことが神の国の完成を目指していると固く信じることができるのです。ローマの信徒への手紙8章でパウロが語っているとおりです。【8章28~30節】(285ページ)。

 神は永遠の救いのご計画にしたがって、神の摂理と配済によって、世が始まる前から、わたしがこの世に誕生するはるか以前から、わたしを選び、わたしを救いの道へと招き入れ、終わりの日には栄光のみ国へ入れてくださり、わたしの信仰を完成させてくださる。それゆえに、わたしのすべての日々は、幸いな日も災いの日も、健康な時にも病める時にも、富も貧しさも、神の永遠の救いのご計画の中にあるのであり、神のみ心がなければ、わたしの髪の毛一本すらも地に落ちることがないと信じることができるのです。

 宗教改革の時代、1563年に制定された「ハイデルベルク信仰問答」の第28問では次のように教えられています。「神の創造と摂理を知ることから、わたしたちはどのような益を受けるのでしょうか」。答「どんな逆境の中でも忍耐強く、順境では感謝し、将来については、わたしの忠実な父によく信頼し、どの被造物も一つとしてわたしをかれの愛から引き離すことはないと確信するのです。というのは、すべての被造物がかれの御手の中にあって、かれの御意志がなければ、立ち上がることも身動きすることさえも、できないからです」(登家勝也訳)。永遠なる神の救いのご計画に従われた主イエス・キリストのご生涯が、まさにそのことをわたしたちに明らかにしています。

 次に、「人となって」という箇所を学びます。「人となって」とは、主イエス・キリストが人間としてこの世に来られたこと、すなわち主イエスの誕生のことを言います。神が人となられたことを言います。わたしたちは今その日を待ち望む待降節の中を歩んでいます。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」と続きますから、神の永遠の計画は神が人となられたことによってその頂点に達した。主イエスがこの世に誕生されたことこそが、神の永遠の救いのご計画の最も重要な出来事であり、その第一の目的であった、あるいは最終目的であったということです。神の永遠の救いのご計画、神の摂理、神の配済は、主イエスがこの世に到来されたことによって成就した、その最終目的に達したということが、ここでは告白されているのです。

 きょうの礼拝で朗読されたガラテヤの信徒への手紙4章4~5節にはこのように書かれています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。「時が満ちる」とは、神ご自身が救いのご計画の中で定めておられた時、その頂点、その最終目的に今到達して、という意味であることが理解されます。マルコによる福音書1章15節によれば、主イエスご自身もまたそのことを知っておられ、ガリラヤでの福音宣教の初めにこう言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスのこの世への到来と主イエスの神の国の福音の宣教が、神が永遠から計画しておられた救いのみわざを満たしたのです。いや、このことなしには、時は満たされることはありません。世界の歴史は満たされることはありません。わたしたちの人生も満たされることはありません。ただ、すべての時は過去という闇の中に消え去ってしまうだけです。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」この世においでくださった主イエス・キリストだけが、すべての時を満たすことがおできになります。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、そして三日目に復活され、今も天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリスト、終わりの日に再びこの地においでくださる主イエス・キリストだけが、世界とわたしたちひとり一人の時を本当の意味で満たすことがおできになるのです。

 神が人となられたことを、マタイによる福音書とルカ福音書は、主イエスが誕生するクリスマスの出来事として描いていますが、ヨハネ福音書1章では、言葉(ギリシャ語ではロゴス)が肉となったという表現をしています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。永遠の昔から神と共におられた言葉(ロゴス)が肉となってこの世に、わたしたちのところにおいでくださいました。また、1章29節では主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」と言われています。世の罪を取り除く神の小羊であられる主イエス・キリストによって、神の永遠の救いのご計画が満たされ、成就したのです。

 神は人となってこの世に来てくださったという出来事が、いかに驚くべき、大きな出来事であるかということ、またそこに神の偉大な愛が現わされているということを、聖書は至る所で証言しています。ヨハネ福音書3章16~17節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、フィリピの信徒への手紙2章6~11節にはこう書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。

 神は天にとどまってはおられませんでした。また、罪のこの世をお見捨てにもなりませんでした。天におられる、永遠で全能なる神、罪なく汚れなき聖なる神が、この世に降って来られ、罪の世に入ってきてくださり、わたしたち罪びとたちと歩みを共にされ、それのみならず、わたしたちの罪をご自身に担われ、わたしたちに代わって十字架で死んでくださった。それによってわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださったのです。神が人となったということには、なんと大きく深い神の愛があることでしょうか。わたしたちはその大きな神の愛の中に招き入れられているのです。その神の愛に応答して、わたしたちも神と隣人とを愛し、仕えていくことが、わたしたち信仰者の歩みです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世界を顧みてくださり、愛してくだり、み子を人間のお姿でお遣わしくださったことを心から感謝いたします。あなたが常にわたしたちと共にいてくださるインマヌエルなる神であることを信じます。どうぞ、この地であなたの永遠の救いのご計画が成就しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月28日説教「ナインの若者の生き返り」

2021年11月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:列王記下4章30~37節

    ルカによる福音書7章11~17節

説教題:「ナインの若者の生き返り」

 ルカによる福音書7章1節以下には、主イエスがカファルナウムの百人隊長の部下が死ぬほどの重病であったのを、遠く離れた場所から、いわば遠隔治療によっていやされたという奇跡が書かれていました。それに続くきょうの11節以下の個所では、ナインという町で、死んでから数日後の若者を主イエスが生き返えらせたという、更に大きな奇跡が語られています。この二つの奇跡が並べて書かれていることには理由があります。

実は、このあとの18節以下に書かれている洗礼者ヨハネの問いに対する主イエスのお答えが、ここにあらかじめ準備されているのです。ヨハネの問いはこうです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」(20節参照)。主イエスのお答えはこうです。【「22節」】。カファルナウムとナインでの二つの奇跡は、主イエスのこのお答えを準備しています。主イエスこそが、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた来るべきメシア・キリスト・救い主であることのしるしがここにあらかじめ準備されているのです。今まさに、人々が見ている主イエスの奇跡のみわざこそが、主イエスが来るべきメシアであることの確かなしるしなのです。わたしたちはこの二つの奇跡のみわざをとおして、来るべきメシア・キリストと出会うのです。

わたしたちはきょうの主の日からアドヴェント・待降節に入ります。来るべきメシア・キリスト・救い主を待ち望む4週間です。イスラエルの預言者たちが預言し、民が待ち続けたメシア・キリストが、今この時、全世界の、唯一の、まことの救い主としてこの世においでくださったことを覚えつつ、わたしたちを罪と死と滅びから救い出される主イエスとの真実の出会いをきょうの礼拝で体験したいと願います。

【11~12節】。ナインという町はカファルナウムから南西に35キロメートルほど離れており、「町の門」と書かれてあることから、この町は周囲を城壁で囲まれた、かなり大きな町であったようです。この町の未亡人である婦人の一人息子が亡くなって、葬儀が行われている所でした。当時の葬儀は墓への埋葬の儀式が中心でした。未亡人の母親を先頭にして、泣き女と言われる悲しみの儀式を盛り上げる婦人たちと大勢の町の人たちがその葬列に加わり、一人息子を亡くした母親の深い悲しみと痛みとを共有していました。墓は町の城壁の外にあります。棺を担いだ葬列がひとたび町の門から出れば、その棺は再び門から入ることはできません。町を囲む城壁は、いわば生きている人と死んだ人とを隔てている厚い壁であり、ひとたび町の門をくぐって壁の外に出された死者の棺は再び門の中に入ることはできません。だれも、生きている人と死んだ人とを隔てているこの厚い壁を突き破ることはできません。一人息子を亡くした婦人を始め、葬儀に参列している人たちの悲しみ、嘆きは、人間の力ではどうすることもできないこの厚い壁の前での人間の無力さ、無抵抗、あるいは諦めの表れだと言えるかもしれません。

特に、この婦人にとっての悲しみ、痛み、失意はいかに大きかったことかを思います。彼女はすでに夫を亡くしています。死んだ子どもは一人息子でした。当時の社会では今日以上に、夫を亡くした婦人は社会的・経済的な弱者でした。生活の糧を得ることができず、他の人の憐みにすがって生きていくしかありません。ただ一つの望みは一人息子でした。この息子の成長だけが彼女の生きがいだったかもしれません。けれども、その息子が死んでしまったのです。もはや最後の望みも断たれたてしまいました。

その時でした。主イエスが町の門に近づかれました。生きている人と死んだ人とを隔てている、その境である門、棺がいったんその外に出れば再び死者は戻って来ることができない門、主イエスは今その門の傍らに立っておられます。そして、門の外に出ようとする埋葬の列に、いわば「待った」をかけられます。死の世界に無抵抗のままに入っていくしかない人間たちのその行列をストップさせられます。もし、主イエスがこの門の傍らに立っておられなかったならば、埋葬の列はそのまま墓に向かって行くしかなかったでしょう。主イエス以外のだれも、その行列を止めることができる人間はいません。主イエス以外のだれも、一人息子を亡くした母親とその葬儀に参列した人たちの悲しみ、嘆きを止めることができる人間はいません。

【13節】。主イエスは「この母親を見た」と書かれています。主イエスがだれかを見るという表現はルカ福音書の中にこれまでもたびたび出てきました。わたしたちが学んできたように、この表現には非常に特徴的な、深い意味が込められています。主イエスが一人の悲しみ絶望した婦人に目をお留めになります。その時、救いの出来事が起こります。この婦人の人生に大きな変化が起こります。この婦人にだけではなく、彼女の一人息子にも、いやそれのみか、すべての人間の生涯と命に、決定的な変化が起こります。

主イエスの目は何を見ておられるのでしょうか。多くの町の人たちもこの婦人を見ていました。彼女を気の毒に思い、悲しみと同情の目で見ていました。これから先の彼女の人生がどうなるのか、その生活はどうなるのかという不安な思いで見ていました。けれども、彼らの目がどれほど多くあっても、そこには何も決定的なことは起こりません。

主イエスの目が彼女をとらえる時、主イエスの目は彼女のすべてを、過去も現在も将来も、彼女のすべてをご覧になり、彼女のすべてを受け入れ、彼女のすべてをみ手のうちに引き受けられます。彼女のこれまでの労苦と今の深い悲しみ、失意、そして将来への不安や恐れのすべてを主イエスはご存じであられます。また、主イエスの目は、死の前では自らの無力をさらけ出すほかにない人間たち、死の前に首をうなだれて屈服するほかにない人間たちの現実をありのままにご覧になり、しかしそれだけでなく、その現実と戦い、その現実を打ち破り、その現実の中で救いのみわざを開始され、死の前でたたずんでいる人間たちに新しい歩みを開始させるのです。

13節にはもう一つ新約聖書で特徴的な言葉が用いられています。それは「憐れに思う」です。何度かお話したように、この言葉は主イエスが主語の時にしか用いられない専門用語です。ギリシャ語で内臓を意味するスプランクスという名詞の動詞形スプランクニゾマイという言葉です。深く強く激しい感情を言い表す言葉です。日本語で言えば、「五臓六腑に染み渡る」とか「肝をつぶす」というような言い方と同じです。内臓を抉り出すほどの強く激しく感情です。この言葉の意味を正しく理解するために、わたしたちは主イエスの十字架の愛を思い起こすのがよいでしょう。主イエスはわたしたち罪びとに対する大きな、深く激しい愛を、実際にご自身の肉を裂き血を流されるほどの十字架の愛として表してくださいました。これが主イエスの「憐れに思う」の意味であり、内容です。

主イエスは婦人に「もう泣かなくともよい」と言われました。直訳すれば「泣くな」という命令です。主イエスはこの婦人に対して、一人息子を亡くして悲嘆に暮れているこの婦人に対して、「泣くな」とお命じになるのです。「泣くな」とは泣くことの禁止であり、また泣く必要がないということをも意味しています。

なぜならば、泣く原因が主イエスによって取り除かれるからです。主イエスがだれも超えることができない死という厚い壁を打ち破られるからです。あなたを悲しませ、絶望させている死という、人間にはどうすることもできない死という敵を主イエスが打ち破り、それに勝利されるからです。これが主イエスの「憐れに思う」ことの内容であり、またその結果です。主イエスの「憐れみ」、十字架の愛は、この婦人の悲しみ嘆きを禁止するとともに、その悲しみ嘆きを感謝と神賛美とに変えるのです。

 きょうの個所で不思議に思われることは、この婦人の方からは主イエスに対して何もお願いしていないという点です。前のカファルナウムでの百人隊長の部下のいやしの奇跡では、百人隊長が主イエスに病気のいやしを熱心に、しかし謙遜にお願いをしていました。また彼の異邦人としての信仰が主イエスによって称賛されていました。しかし、きょうの個所では婦人は一言も言葉を発していませんし、主イエスに何かをお願いすることもありません。彼女は息子の死の前でただ泣き崩れるほかにありません。そうであるのに、主イエスの方からこの婦人に一方的に目を注がれ、深い憐れみをかけられ、み言葉を語られました。そして、彼女の一人息子を死から生き返らせるという偉大な奇跡をなされました。すべては、主イエスの方かの一方的な働きかけであり、行為です。この婦人はそのような主イエスの深い憐れみと救いの恵みをただ受け身で、受け取るだけです。そして、彼女はその主イエスの救いの恵みによってこれから生きることがゆるされているのです。これが主イエスの十字架の愛の大きな特徴なのです。わたしたちもまたそのようにして主イエスの十字架の愛と救いを受け取るのです。

 【14~17節】。主イエスは死者を葬る行列に近づかれます。死者を納めた棺に近づかれ、その棺に触れられます。すると、棺を担いでいた人たちの歩みが止まります。主イエスは人間たちの死に向かう歩みを、墓へと向かう歩みを止められます。主イエスご自身が死者に近づいてこられ、死者に手を触れることによって、死に向かう人間の歩みを、また死そのものにストップをかけられたのです。そして、主イエスは死を打ち破り、新しい命を生み出されました。若者は棺の中から起き上がりました。

 「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」。主イエスのみ言葉が死者に新しい命を生み出します。主イエスのみ言葉によって死んでいた者が起き上がります。主イエスのみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。

 ナインの若者の生き返りの奇跡は、主イエスの十字架の死と復活を指し示しています。この奇跡は、一人の若者が生き返ったというだけの出来事ではありません。最初にも確認しましたように、ここでわたしたちは来るべきメシア・キリスト・救い主であられる主イエスに出会うのです。主イエスご自身が罪びとたちの一人となられ、死ぬ者となられました。そして、死に勝利され、復活されました。主イエスを信じる信仰者たちに神の国での朽ちることのない永遠の命を約束してくださいます。この主イエスがいつもわたしたちと共におられ、わたしたちのすべての悲しみや嘆き、痛み、悩み、苦しみと共におられ、そしてわたしの死の時にも共にいてくださいます。それらのすべてからわたしを救い出されるメシア・救い主・キリストとして。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがこの地を顧みてくださり、ひとり子イエス・キリストをメシア・救い主としてお遣わしくださいましたことを感謝いたします。どうか、主イエスの愛と真実によって、暗い闇の中をさまようこの世に人々を明るく照らしてください。罪と死と滅びに支配されているすべての人々にまことの救いをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月21日説教「サラの子イサクとハガルの子イシュマエル」

2021年11月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記21章9~21節

    ガラテヤの信徒への手紙4章21~31節

説教題:「サラの子イサクとハガルの子イシュマエル」

 アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の高齢の夫婦に、長く待ち望んだ男の子イサクが生まれました。それは、神の約束の子の誕生でした。アブラハムが最初に神の約束を聞いたのは25年前、彼がハランの地を出て神が約束された地、カナンに旅立った時でした。その時、神はアブラハムに言われました。「わたしはお前とお前の子孫とを永遠に祝福する。お前の子孫は星の数ほどに増え、祝福を受け継ぐであろう」と。アブラハムのこれまでの生涯はこの神の約束のみ言葉の成就を待ち望む歩みでした。神の約束のみ言葉を聞き、信じ、待ち続ける信仰者に、神は必ずやその約束を果たしてくださいます。

 わたしたちは次週28日から、待降節・アドヴェントに入ります。待降節は神の約束のメシア・救い主の誕生を待ち望む期間です。わたしたちもアブラハムと同じように、信じて待ち望む者に神はその約束を必ず果たしてくださることを確信しながら、救い主の誕生の日を待ち望むとともに、終わりの日に主イエス・キリストが再びこの地に来臨され、信じる者たちを天に引き上げてくださり、神の国を完成させてくださる時を待ち望むのです。教会は主イエス・キリストの第一の来臨を待ち望み、またその来臨の福音を確かに聞きつつ、第二の来臨を待ち望んでいる信仰者の群れです。

 創世記21章8節に、「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた」と書かれています。この当時、子どもは3歳くらいで乳離れしました。その時には、家族で盛大なお祝いをするのが習わしでした。古代社会では乳幼児の死亡率は非常に高く、3歳の乳離れまで丈夫に育つのは親にとって特別に大きな喜びでした。命の危険が伴う乳幼児の期間を神に守られ、無事に成長できたという喜びが、アブラハムとサラの家に満ち溢れました。わたしたちはここでイサクという名前の意味を改めて思い起こします。それは「彼は笑う」という意味です。この名前はイサクが誕生するよりも前に神によって決められていました。したがって、この笑いは神から与えられた笑い、喜び、祝福です。

 ところが、喜びと幸いに満たされていた家庭に暗い影が差し込んでくるのをわたしたちは見ます。イサクの成長を期待すればするほどに、アブラハムの家庭に潜んでいた問題点が浮かび上がってきました。母であり妻であるサラはそのことを敏感に感じ取っていました。

【9~11節】。サラは自分が産んだ子イサクと女奴隷ハガルが産んだ子イシュマエルとが一緒に遊んでいる様子を見て、心穏やかではありません。この家の後継ぎとなるべき子は、自分が産んだイサクであり、女奴隷の子イシュマエルではありません。イシュマエルの存在はイサクの長男としての地位を脅かすだけでなく、自分の妻としての地位をも危うくします。母となったサラは我が子イサクを守るため、また自分自身を守るために、ハガルとその子を家から追い出すようにとアブラハムに依頼します。これは、サラの妻としての当然の願いであり、権利でもあると言えるのかもしれません。

けれども、わたしたちはここで16章に書かれていたことを思い起こします。そこでは、サラの方から夫アブラハムに申し出て、「自分には子どもができないので、女奴隷ハガルとの間に子どもをつくって、この家を継がせることにしてはどうか」と提案していました。アブラハムがそのようにして、ハガルが身ごもってからはサラを見下げるようになると、今度はハガルに対してつらくあたり、それに耐えきれなくなったハガルは家を出て、砂漠をさまようようになりました。その時、神が身重のハガルを助け出し、彼女をアブラハムの家に連れ戻されたということが16章に書かれていました。

あの時、サラは自分で提案しておきながら、実際ハガルが身ごもった後には、彼女の態度が気に入らず、ハガルを家から追い出すような行動をしました。サラはいわば自分で蒔いた種を自分で刈り取らなければならなくなったと言えますが、今回もまた彼女があの時にまいた種を最終的に刈り取らなければならなくされているのです。しかし、サラは自分ではどうすることもできずに、今回もまた夫アブラハムに問題解決を迫ったのです。この件については当然アブラハムにも責任があります。イシュマエルはアブラハムと女奴隷ハガルとの間にできた子どもであるからです。11節に、【11節】と書かれてあるとおりです。アブラハムには妻サラの言い分を聞いて、イシュマエルを簡単に家から追い出すには忍びない思いがありました。アブラハムは16章でもそうであったように、どのようにサラとハガルとの間を取り持てばよいのか分からずに、思案し、苦悩しています。アブラハムは自分の知恵や判断によっては自分の家族間に起こった問題をうまく解決することができません。

その時に、神がアブラハムに現れ、彼に言われます。【12~13節】。16章では、荒れ野に逃亡し、孤独と苦悩の中にあったハガルに神が現れ、彼女を救われましたが、ここでは苦悩するアブラハムに神は「サラの言うとおりにしなさい」とお命じになりました。それは、神がサラの味方をされたということなのでしょうか。「あの女とあの子を追い出してください」と言ったサラの意見に神が賛成されたということなのでしょうか。いや、そうではありません。一見したところ、表面的には同じように見えますが、しかしサラが考えていたことと神のご計画とは全く違っています。

サラは自分の妻としての立場と自分の子どもイサクを守るために、今現在の自分の家族の幸いを考えて、女奴隷ハガルとその子イシュマエルを家から追放することを願っていました。しかし、神は今現在のアブラハムの家族の幸いのことだけでなく、はるかかなたの世界の歴史のことを、神の永遠の救いのご計画の中でのアブラハムの家族と世界の歴史を考えておられるのです。

神が最初にお選びになった信仰の父アブラハムに対する約束、アブラハム契約は永遠に変わることはありません。アブラハムの子孫を増やし、神の祝福を受け継がせると言われた神のみ言葉には変更はありません。それと同時に選ばれなかった女奴隷ハガルの子どもイシュマエルをも神はお見捨てにはなりません。彼もまた一つの国民とすると言われます。彼もアブラハムの子どもだからと言われています。ここには、後に主イエス・キリストの福音によって明らかにされたことがすでに暗示されているように思われます。すなわち、神に選ばれたイスラエルの民だけでなく、この時には選ばれなかったいわゆる異邦人である世界のすべての国民が共に信仰の父アブラハムの子孫として、十字架の福音を信じる信仰によって、一つの救いの民とされるということがここですでに暗示されているように思われます。

アブラハムは妻サラの願いによって行動したのではなく、主なる神のみ言葉に聞き従って行動しました。【14節】。ハガルとイシュマエルが家を出たあとどうなるのか、どうなったのかをアブラハムは知りません。荒れ野で革袋の水が尽きてしまい、死の危険にさらされ、ハガルが死の覚悟をしたときに、神がどのようにしてハガルとイシュマエルを救われるのかをも彼は知りません。ただ、神のみ言葉を信じ、神のみ言葉にすべてを委ねて、アブラハムは二人のために旅支度を整え、送り出しました。朝早く起きて、黙々と旅支度を整えているアブラハムの姿を、わたしたちは深い同情を覚えながら、またわが子と別れなければならない彼の大きな悲しみと痛みとを思いながら、しかしまた神がすべての道を導いてくださるであろうという確かな信仰とを思いながら、想像するのです。

【15~18節】。神はハガルとその子イシュマエルとをお見捨てにはなりません。17節に、「神は子供の泣き声を聞かれた」と二度繰り返されています。イシュマエルという名前は、16章11節に書かれてあったように、「神は聞かれた」という意味です。神は、神の選びから漏れたイシュマエルの泣き声を聞かれます。彼とその母ハガルを死の危険から救い出されました。神はすべての人の泣く声を、うめく声を、切なる祈りの声をお聞きくださり、救いの道を備えてくださいます。

最後に19節以下を読んでみましょう。【19~21節】。イシュマエルはのちにカナン南部の荒れ地に住んだイシュマエル人の祖先になったと考えられています。18節には「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と言われる神の約束のみ言葉があり、また20節には「神がその子と共におられたので」と書かれています。神の選びの民であるアブラハム・イサク・ヤコブには連ならなかったにもかかわらず、ハガルの子イシュマエルもまたアブラハムの子であり、神の救いの恵みから全く除かれているのではないということが強調されていることは確かです。13節で、のちに主イエス・キリストの福音によって、選ばれなかった異邦人と言われるすべての国民が救いに招かれていることを暗示させると言いましたが、ここに至ってそのことが暗示であるのみならず、確かな神の約束であり、神の永遠の救いのご計画であるということに、わたしたちは気づかされるのです。

ハガルの子イシュマエルの物語によってわたしたちは二つのことを教えられます。一つには、神の選びの外にいるハガルとイシュマエルと共におられる神、彼らの泣き声、叫びを聞かれる神、そして彼らを死の危険から救い出される神は、選ばれた民アブラハムとその子イサク、またその子孫たち、そしてアブラハムを信仰の父とする教会の民に対しては、さらに力強く、救いのみわざをなしてくださらないはずはないということをわたしたちに確信させるのです。

もう一つは、神が最初に選ばれたアブラハムとその子イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちによって形成されたイスラエルの民によって、ご自身の選びと救いの歴史を継続されると同時に、神の選びの外にいる、いわば異邦人をも、最初から救いのご計画の中に入れておられたのだということをわたしたちはここで確認するのです。そして、やがて時満ちてこの世に到来されたメシア・救い主である主イエス・キリストの十字架の福音によって、神の救いは実際にイスラエルの民だけではなく、異邦人へと、全世界の民へと拡大されていったのです。イシュマエルの救いの出来事は、はるかな時代を超えて、異邦人の救い、全世界のすべての人の救いを預言し、証ししているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみはとこしえからとこしえまで変わることなく、絶えることもありません。どうか、あなたの救いの恵みが全世界のすべての人へと届けられますように。いと小さな人たちや貧しく低きにいる人たちのかぼそい泣き声をも、人に知られぬ一粒の涙をも、あなたはすべてみ心に留めていてくださいます。願わくは、わたしたちにも人々の痛みや悲しみ、苦しみを見ることができる信仰の目をお与えください。そして、その人たちのために心を砕いて祈る者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月14日説教「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

2021年11月14日(日) 秋田教会主日礼拝・逝去者記念礼拝説教

(駒井利則牧師)

聖 書:詩編90編1~14節

    ローマの信徒への手紙5章12~14節

説教題:「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

 秋田教会の逝去者名簿を今回改めて整備しました。それによると、明治25年、1892年9月に秋田講義所として伝道を開始して以来130年近くの間に、信仰を持ってこの世を去った秋田教会員は約150人おられることが分かりました。教会員家族やその他の関係者で、秋田教会で葬儀を行った人たちを加えると、180人以上の逝去者がおられます。これらの方々一人一人の信仰の歩みが、そのまま秋田教会の歴史です。神の救いの歴史です。ヘブライ人への手紙12章1節にはこうあります。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

きょうはこれら証人たちの信仰の歩みを覚えながら、またその歩みを導かれた神の豊かな恵みを覚えながら、ご一緒に神のみ言葉を聞き、礼拝をささげたいと思います。

 きょう朗読された旧約聖書の詩編90編は、神の永遠性と人間のはかなさを歌った、よく知られた詩編ですが、この中にはわたしたちの多くが共感を覚えるみ言葉がいくつもあります。たとえば10節です。【10節】。詩人がこのように歌ったのは、今から2500年以上も前で、当時の平均寿命は50歳前後と推測されていますが、詩人はそれを大幅に長く見積もって70年から80年と言っています。これはおそらく神の豊かな恵みをいただいて長寿を与えられた信仰者のことでしょうが、それにしても70年、80年というのは、今日21世紀のわたしたちの平均寿命であるという点で、まさにこの詩編はわたしたちのことを歌っていると深い共感を覚えるのです。しかも、「得るところは労苦と禍に過ぎず」、「瞬く間に時が過ぎ去る」というみ言葉は、まさにわたしたちその年代に達した人たちの多くが思い抱く感情と一致するのではないでしょうか。

 しかし、わたしたちはこの詩人にただ共感を覚えるだけでは本当に聖書を読んだことにはなりませんから、さらに深くその真理に迫っていくことにしましょう。最初にも言いましたように、この詩編は神の永遠性と人間のはかなさをテーマにしています。【1~2節】。これが神の永遠性です。神は天地創造のはるか以前から神であられ、またこの世界が終わる終末ののちにも、永遠に神として存在しておられ、神として働いておられます。したがってまた、わたしがこの世に誕生するよりもはるか以前に、またわたしが地上を去ったのちにも永遠に神であられ、神としてわたしの前に存在しておられます。時が過ぎ、時代が変わり、国の支配者が交代し、新しいものが次々と造られては消え去っていく中で、神は永遠に同じお一人の神としてそれらのすべてを支配され、導いておられます。

 それに対して、人間のはかなさについては、【5~6節、10節】。聖書では人間が死すべき者であり、その存在がはかないものであることのたとえとして、草や花がしばしば用いられます。詩編103編15~16節には、「人の生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる」。また、イザヤ書40章6~8節はさらに印象的です。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

聖書の舞台となっている近東地域では砂漠や荒れ地が多く、雨季になって一斉に咲く花の美しさは目に鮮やかだと言います。それだけに、乾季になって、あっという間に草花が枯れてしまう光景は目に憐れに映るのでしょう。人間の生涯はそれらの草花と同じだと詩人は言います、朝には美しく咲いてはいても、夕になれば枯れていく花のようだと。しかも、その生涯を振り返ってみれば、労苦と災いだけであったと。

 詩編90編の詩人は、神の永遠性と人間のはかなさとを語っているのですが、その両者をただ単純に並べ、比較しているのではありません。人間のはかなさを嘆いて、人生をあきらめ、失望しているのでもありません。むしろ、この詩人は人間のはかなさと神の永遠性とが堅く結びついることを強調するのです。永遠なる神が人間のはかなさを最もよく知っておられ、それだけでなく、神ご自身が人間をはかない者にしておられるというのです。神が人間に死を定め、人間の命に限界を定めておられるということを詩人は告白し、それゆえに、この神こそがはかない存在である人間の生涯に意味を与え、その日々の歩みを豊かに祝福してくださるであろうということを信じ、またそれを願っているのです。ここに、この詩編の最も中心的なメッセージがあります。それを聞き取っていきましょう。

 3節を読んでみましょう。【3節】。「帰れ」とは、人間を塵に返す神のご命令です。創世記2章によれば、神は最初の人間アダムを土の塵から創造され、これに命の息を吹き入れられ、それによって人間は生きる者となったと書かれています。神は人間の命と死とをご支配しておられ、人間に対して「塵に帰れ、あなたの命をわたしに返せ」と言われるのです。人間の命は神から与えられ、神に返されるというのが聖書の、またわたしたちの信仰です。ヨブがすべてを失った大きな苦難の中で、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美したように、すべての命が神から与えられた神のもの、それゆえに神に帰るべきものです。教会では死のことを召天と言います。天の神のみもとに召されるということです。天におられる神から「帰れ」と呼ばれ、神のもとへと帰るのが信仰者の死です。人間の命と死とは永遠なる神のみ手の中に置かれているのです。

 永遠なる神のみ前でのはかない存在である人間の死を考えるにあたって、ここでもう一つの重要な点があります。それは人間の罪です。【7~9節】。人間がはかない存在であり、死すべき存在であるのは、人間の罪のゆえであり、人間の罪に対する神の怒り、裁きによるのだということです。人間が罪を犯して神に背き、永遠なる神から離れ、命の主である神を捨てたこと自体が人間の死を意味するのですが、その人間の罪が最終的に支払わなければならない報酬が人間の現実的な死なのです

 わたしたちはここで二つのことを確認することができます。一つは、人間は自然に寿命が尽きて死んでいくのではなく、神とは無関係なところで死ぬのでもなく、どのような命も神のみ手の中に置かれているように、どのような死もまた、神のみ手を離れてあるのではないということです。わたしたちは、すべての命と同様にすべての死にも、そこには神の隠れたみ心があると信じるべきであり、また信じることができるのです。神は永遠であり、すべての造り主であられ、すべての命の主であられるからであり、神は永遠にそのような神として、わたしたちを捕らえていてくださるからです。すべての人の死にも、神はその人と共にいてくださいます。

もう一つのことは、人間の死は人間の罪に対する神の裁きであるという厳粛な事実です。創世記3章には、最初の人間アダムとエヴァが神の戒めを破って、禁じられていた木の実を食べ、罪を犯したために死すべき者となったことが語られています。これがいわゆる原罪、original sinです。すべての人間はこの原罪を受け継ぎ、生まれながらにして罪に傾いていると聖書は言います。また、パウロはローマの信徒への手紙5章12節で、「一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と書いています。

そこで詩人は続けて、【11~12節】と祈り求めます。「生涯の日を正しく数える」ことには二つの意味が含まれます。一つは、文字どおり、自らの人生の日数を数えることです。神は永遠なる存在ですから、その日数を数え終わることができませんが、人間はその日数を数えて、これで終わりという限界を持っています。人間のはかなさとは、人間は死すべき者であるという厳粛な事実のことです。「死を忘れるな」ということです。ある哲学者が言ったように、「人間は死に至る存在」なのです。詩人は人間のこの厳粛な事実を、永遠なる神との関係の中で、永遠なる神のみ前に立つことによって、知らされました。それゆえに詩人は、「生涯の日を正しく数えることを教えてください」と神に願い求めるのです。人間は永遠なる神のみ前に立つときにはじめて、本当の意味で、自ら限りある存在であり、死すべき者であり、神の裁きを受けて滅びなければならない者であることを知らされ、神のみ前で謙遜にされ、神を恐れる者とされるのです。そして、ただ自らのはかなさを嘆くのではなく、永遠なる神に目を注ぎ、神から与えられるまことの知恵を願い求めるようにされるのです。

「生涯の日を正しく数える」というみ言葉のもう一つの意味は、わたしの生涯の日々、その一日一日のすべてが、神から与えられた日として、神に覚えられている日として、神に感謝をささげながら生きるようにさせてくださいということです。「主なる神を忘れるな」ということです。わたしのすべての日々は神に覚えられています。神に導かれています。わたしの健やかな日も病む日も、わたしの幸いな日も災いの日も、神はすべてを知っていてくださいます。すべての日々に伴ってくださいます。そのことを覚えて神に感謝すること、それが「生涯の日を正しく数える」ことです。

 そのようにして、「死を忘れないこと」そして「主なる神を忘れないこと」、この二つを常に覚えること、それが人間に与えられた最大の知恵だと詩人は言うのです。わたしたちはさらに進んで、この二つのことが主イエス・キリストによって一つに堅く結ばれていることを知らされています。主イエスはわたしたち人間が自らの罪のゆえに死の判決を神から受けなければならなかったのに、罪なき神のみ子であられた主イエスが、わたしたちの罪をご自身の身に負われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けくださり、十字架で死んでくださったのです。それによって、わたしたちを死の判決から救い出してくださったのです。そして、主イエスは三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利されました。主イエスの十字架の死の中にわたしたちの死があり、また主イエスの復活の命の中にわたしたちの新しい命があるのです。「主イエス・キリストの十字架の死と復活を忘れるな」、ここにこそ、わたしたちの祝福された生涯があり、祝福された一日一日があるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父かる神よ、あなたがこの教会に多くの信仰者をお集めくださり、その信仰の歩みを祝福し、お導きくださったことを、心から感謝いたします。どうか、今ここに集められているわたしたち一人一人をも、あなたの救いの恵みと平安とで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月7日説教「使徒たちによるしるしと不思議な業」

2021年11月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編85編1~14節

    使徒言行録5章12~16節

説教題:「使徒たちによるしるしと奇跡」

 使徒言行録2章から8章にかけて、エルサレム初代教会の目覚ましい成長の様子が描かれていますが、その中には何カ所かまとめの報告が記録されています。最初は2章43~47節、次は4章32~35節、そしてきょう朗読された5章12~15節です。このカ所の文章は続き具合が少し乱れているように思われます。12節前半の文章、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」は15節の「人々は病人を大通りに運び出し」から16節終わりの「一人残らずいやしてもらった」に続くのが自然です。12節後半「一同は心を一つにして」から14節終わりの「その数はますます増えていった」までが別の内容と考えられます。この部分が12節前半と15節との間に挿入されたかたちになってります。どうしてこのような文章の乱れが生じたのかはよくわかっていません。

 きょうは初めに12節後半から14節までの報告について学んでいきます。【12節b~14節】。これまでの二つのまとめの報告と同様に、ここでも教会の一致、信者たちの交わりが強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされている信仰者たちの群れは、数がどれほど増えようとも、伝道活動がどれほど広がっても、あるいはメンバーがどれほど多様化しても、一つの主キリストの体なる教会です。その一致と交わりの強さ、深さは変わることはありません。また、教会がどれほどに外からの迫害や攻撃にさらされようとも、内からはアナニアとサフィラの事件のような聖霊なる神を汚すという重大な罪によって試練を受けようとも、それによって教会の一致と交わりが弱められたり、壊されたりすることはありません。むしろ、教会はそれらの苦難や試練を経験することによって、より一層教会の頭なる主イエス・キリストに信頼し、神への恐れを強くすることによって、一つの群れとされていくのです。教会は人間の側の好みや利害関係によって集められているのではなく、いついかなる状況の中にあっても、主キリストによって与えられる罪のゆるしの恵みによって集められ、一つにされている群れだからです。教会の一致は礼拝と祈りにおける一致です。

 このころのエルサレム教会の礼拝場所、集会場所は主にエルサレム神殿のソロモンの回廊と呼ばれている広場でした。まだ、教会堂はありません。信者の家々に集まることもありました。神殿の礼拝堂では当時のユダヤ教の礼拝がささげられていました。その外にあるソロモンの回廊ではキリスト教会の新しい礼拝がささげられています。キリスト教会は2章に書かれてあったように、ユダヤ人の礼拝場所である神殿で誕生しました。そして、しばらくはユダヤ教とキリスト教会は隣り合った場所で礼拝をしていました。

 ここに、わたしたちは二つのことを読み取ることができます。一つには、キリスト教会はユダヤ人たちが信じ、礼拝していたイスラエルの神、旧約聖書の神を主イエスン・キリストの父なる神として信じたということです。その意味ではユダヤ教はキリスト教の母体であると言えます。神は最初全世界の民の中からイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれました。神は選ばれた民イスラエルがまず第一に救われることを願っておられました。そして、イスラエルから始まって、全世界のすべての人々が救われることを計画されました。教会はこの神の選びの順序を重んじました。13章からは、使徒パウロの計3回にわたる世界伝道の記録が書かれていますが、彼も新しい町に福音を宣べ伝える際に、まずその町のユダヤ教の会堂を訪れ、ユダヤ人に福音を宣べ伝えました。ユダヤ人からの迫害にあって、会堂を追い出されてから、ユダヤ人以外の異邦人に向かっていきました。神の選びの順序とその恵みはイスラエルの不信仰と不従順によっても決して変わりません。

 しかし第二に、ユダヤ教とキリスト教はその信仰においては全く違っています。神殿の礼拝堂では依然として動物の犠牲がささげられていました。律法が重んじられ、律法を守り行うことによって救われると信じられていました。しかし、ソロモンの回廊で行われていた教会の礼拝では、旧約聖書に預言されていた神の救いが主イエス・キリストによってすでに成就したと語られ、主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしが信じられていました。両者の決定的な違いがやがて明らかになり、かたくなに悔い改めることをしなかったユダヤ人たちはキリスト教会を攻撃し、迫害し、彼らを神殿と会堂から追い出すことになっていきました。

 次の13~14節では、エルサレム教会の周囲の人々の教会に対する反応が書かれています。ある人々は教会から距離を置いていました。彼らがなぜ教会に近づかなかったのか、その理由は書かれていませんが、「ほかの者」と言われている人たちとは、主イエスをメシア・救い主として受け入れず、十字架につけるように訴えた当時のユダヤ教指導者たち、ファリサイ派、律法学者、長老、祭司たちのことかもしれません。この時にはまだ教会に対してあからさまな攻撃姿勢を示してはいませんでしたが、やがて彼らは教会を迫害するようになります。あるいは、宗教にはあまり興味を示さず、この世の生活のことであくせくしている人たちのことかもしれません。いつの時代にも、そのようにして教会から距離を置こうとする人たちが多くいます。

 しかし、多くの民衆は教会の信者たちを尊敬していました。信者たちが心を一つにして固く結びあっている様子や、使徒たちが熱心に福音を語り、多くのしるしと奇跡を行っているのを見て、そこに神が力強く働いていることを認めていました。けれども、彼らはもう一歩前に踏み出して教会に加わる決断ができませんでした。主イエス・キリストの十字架がわたし自身の罪のための救いのみわざであると信じるまでには至らなかったからです。

 そのような不信仰や無関心に取り囲まれていても、神は多くの信者たちを教会に増し加えてくださったと14節に書かれています。神は人間たちの不信仰や不従順、かたくなさや無関心の中でも、なおも救いのみわざを前進させたもうのです。教会はそのことを信じることがゆるされています。

 「多くの男女が」と言われています。女性の信者のことが強調されているのです。女性の社会的地位が認められていなかったこの時代にあって、教会では早くから女性もまた神のみ前では男性と同じ一人の信仰者、教会員と考えられていました。使徒言行録と同じ著者によるルカ福音書は「婦人の書」と言われるほどに、婦人たちの活動が多く描かれていますが、この使徒言行録でも初代教会の婦人たちの目覚ましい働きがこのあと数多く報告されます。主イエス・キリストの十字架の福音は、神のみ前にあるすべての人間、一人一人の人間のかけがえのない尊い存在、その命の重さと尊厳をわたしたちに悟らせるのです。主イエス・キリストはこの小さな一人のためにもご自身の尊い血を流されたからです。この小さな命もまた主キリストの十字架の血によって贖われているからです。

 では次に、12節前半から15、16節に続くカ所を読んでみましょう。【12節a、15~16節】。多くのしるしと不思議なわざが使徒たちによって行われたというのは、4章30節の教会の祈りが神によって聞かれたことを語っています。【4章30節】。もう一つの教会の祈りは、29節に書かれていました。【29節】。神のみ言葉を語ること、すなわち宣教と、その具体的なしるしである病気のいやし、しるしと不思議なわざ、この二つが初代教会の働きの中心でした。エルサレム初代教会は指導者であるペトロとヨハネが捕らえられ、裁判にかけられるという最初の迫害を経験しましたが、その迫害の中で教会は神に祈り、いよいよ強く神の助けと導きとを願い求めました。神はその祈りを確かにお聞きくださったのです。

 29節の祈りに対しては、31節にあるように、彼らが祈り終えると直ちにその祈りが聞かれ、彼らは大胆に神の言葉を語りだしました。また31節にも、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証し」とあり、教会の祈りが確かに聞かれ、福音宣教の働きが神によって力づけられ、導かれたということを語っています。そして、5章12節では、もう一つの祈りもまた神によって聞かれ、使徒たちによって多くのしるしと不思議なわざが行われたと語っているのです。福音の宣教としるしや不思議なわざは、神が教会の祈りに応えて、ご自身の救いのお働きを前進させておられることの確かな証なのです。

 福音宣教としるしや不思議なわざを行うことが、初代教会の働きの中心でしたが、主イエスご自身の場合にそうであったように、この二つは互いにつながりあっています。きょうのカ所ではしるしや不思議なわざ、病気のいやしの方だけが取り挙げられていますが、それらは神のみ言葉の宣教、主イエスの福音の説教と結びついていなければ、本当の救いの力を持ちません。催眠や魔術によって病気をいやしたり、人間の能力を超えた異常な力を発揮したり、人を驚かせるような奇術をして見せたりする人たちはいつの時代にも、どこの国にもいるでしょう。しかし、使徒たちが行ったしるしや不思議なわざ、病気のいやしはそれらとは全く違います。4章30節にあるように、そこでは神のみ手が働いておられ、主イエスの救いのみわざが行われているのです。それらは、主イエスの場合にそうであったように、神の国が到来し、神の愛と恵みのご支配が始まったことの目に見えるしるしなのです。

 15節はマルコ福音書6章55、56節とよく似ています。【マルコ福音書6章55~56節】(73ページ)。また、16節はルカ福音書6章17節以下とよく似ています。【ルカ福音書6章17~19節】(112ページ)。使徒たちは主イエスご自身の救いのみわざ、いやしのみわざを継承しているのです。それによって、主イエスが罪と死とに勝利しておられ、すべての悪しき霊やサタンの力に勝利しておられ、今もなお使徒たちと共に働いておられることを実証しているのです。十字架につけられ、三日目に復活され、天に昇られた主イエスが、いつも、永遠に、弟子たちと共に、信仰者たちと共にいてくださり、また信仰者たちをお用いになって、ご自身の救いのみわざをなし続けてくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにもあなたのみ言葉の力を信じさせてください。主イエス・キリストの福音がすべての人の罪をゆるし、死と滅びから救い出し、朽ちることのない永遠の命を与えることを信じさせてください。そして、わたしたちもまた主イエスの福音の証し人としてお仕えする者としてください。

〇天の神よ、暗闇をさまよい、生きる希望を失っている人たちにあなたが天からまことの光で照らしてください。飢え渇き、死に瀕している人たちに、きょうのパンとあなたの命のみ言葉とをお与えください。朽ち果てるものを追い求め、むなしい日々に明け暮れている人たちを、あなたの真理と救いの道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月31日説教「神の永遠の計画にしたがい」

2021年10月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    テモテへの手紙二1章8~14節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の2番目の文章、「主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、人類の罪のために十字架にかかり……」、きょうはその冒頭の「神の永遠の計画にしたがい」という告白について、聖書のみ言葉に導かれて学んでいきます。

 「神の永遠の計画にしたがい」という言葉は、1890年(明治23年)の旧『日本基督教会信仰告白』にはありませんでした。1953年(昭和28年)に制定された(新)『日本キリスト教会信仰の告白』になってから追加されました。すでに学んだように、最初の文章の「我らが神と崇むる」が「主とあがめる」に変更されたこと、その次の「真の神であり、真の人」が追加されたこと、そして今回の「神の永遠の計画にしたがい」が追加されたこと、これらが1951年に新しい日本キリスト教会を建設しようと立ち上がったわたしたちの先輩たちが目指した神学や教会形成の大きな特徴となっているのです。

 第一の特徴である「主告白」は、主イエス・キリストだけがわたしたちが主と告白して礼拝すべき唯一の主であり、この主キリスト以外には、わたし自身にとっても、この国においても、全世界のどこにも、主と言われうるものは何一つ存在しない。これが、戦争に協力し、アジアの諸国への侵略をゆるした戦時中の教会の過ちから、先輩たちが悔い改めをもって学んだ第一のことでした。「真の神であり、真の人」という告白も、主イエス・キリストだけが神と人との間の唯一の仲保者であり、わたしたちの救いを完全に成し遂げてくださる唯一の救い主であるゆえに、主イエス・キリスト以外の他の何ものにも救いを求めないという、強く、毅然とした信仰を強調しています。そして、主イエス・キリストのすべての救いのみわざは「神の永遠の計画にしたがい」なされた救いのみわざであり、わたしの生涯も全世界の歴史も、すべてがこの「神の永遠の計画にしたがい」、神の永遠の摂理のもとにあると告白すること。これが、わたしたちの教会の信仰と神学の大きな特色なのです。

 では、この2番目の文章の主語は何であるかを確認しておきましょう。言うまでもなく、それは「主」です。最初の文章も2番目の文章も、主語は同じ主イエス・キリストです。主イエス・キリストは『日本キリスト教会信仰の告白』全体の主語であり、この信仰告白のもとになっている聖書全体の主語であということは言うまでもありません。それだけでなく、主イエス・キリストは教会の歩み、世界の歴史の歩み、またわたしたち一人ひとりの信仰の歩み、わたしの人生の歩みにおいても、常に唯一の主語であられます。

 ここでもう一つ確認しておきたいことは、「神の永遠の計画にしたがい」はどこに続くのかということです。すぐ後の「人となって」か、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」までか、あるいはこの文章の終わりの「執り成してくださいます」までかかるのかということですが、ここで告白されている内容から考えて、文章の終わりまでのすべてにかかるとするのがよいであろうと思います。つまり、主イエス・キリストのこの世への到来・誕生から始まって、その全ご生涯・ご受難と十字架の死・復活のすべてが、父なる神の永遠の救いのご計画に基づいている。それだけでなく、主イエス・キリストの昇天、神の右に座しておられること、終わりの日に再び来られ、神の国を完成されることに至るまで、主イエス・キリストの救いのみわざのすべてが父なる神の永遠なるご計画によるのであり、主イエスご自身はその神の永遠なる救いのご計画にしたがって歩まれたことが、ここでは告白されているのです。

 では、「神の永遠の計画にしたがい」を、「永遠の」と「神の計画」と「したがい」の3つに分けて、それぞれの言葉で告白されている内容を学んでいきましょう。最初に「したがい」を取り上げます。一般的な意味としては、「~によって」「~のままに」「~に導かれて」という意味として理解することもできますが、もっと積極的な意味で、主イエスご自身の父なる神への服従の意志、服従の行為を読み取るのが良いように思われます。主イエスは神の救いのご計画とその救いの道を無意識に歩まれたのではありません。主イエスの誕生から死に至るまでのすべての道において、主イエスは徹底して父なる神に服従されました。主イエスの誕生は神の永遠なる救いのご計画によって、その時が満ちて、起こった出来事でした。主イエスの両親となったヨセフとマリアは、「お言葉どおりにこの身になりますように」と告白して神のみ心に服従しました。ガラテヤの信徒への手紙4章4節には、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と書かれています。

 主イエスはまた、ご受難と十字架の死の道を運命とあきらめて進まれたのではなく、無理やりだれかに強制されたのでもなく、主イエスご自身が父なる神のみ心を尋ね求めつつ、そのご意志に喜んで服従されたのでした。フィリピの信徒への手紙2章6~8節にはこのように書かれています。【6~8節】(363ページ)。

 主イエス・キリストは「神の永遠の計画にしたがい」、服従の道を歩まれ、それによって神の律法を全うされ、わたしたち罪びとのための救いのみわざを成就されたのです。わたしたちの救いは徹底してこの主イエス・キリストにかかっています。主イエス・キリストを信じる信仰にかかっています。

 次に、「永遠の」という言葉を取り上げます。永遠とは、まず第一に、神ご自身のことを意味しています。神は永遠なる存在です。神以外のすべては、神によって創られた被造物であって、それらは時間と空間の双方で限界を定められています。ただ神だけが唯一永遠であり、神の計画も永遠です。

 永遠とは、聖書の中では、時がいつまでも続くという意味だけでなく、少しわかりづらい言い方ですが、永遠の過去、永遠の未来という意味を持っています。人間の概念によれば、神が天地万物と人間を創造されたときから時が始まるのですが、しかし神はそれ以前にも、永遠の過去にわたって神であられ、神として存在しておられたのであり、救いのご計画を立てておられたということであり、また永遠の未来とは、単に今の時がいつまでも続くということではなく、来るべき世、今の世とは全く違った新しい世、つまり神の国が完成する時まで続く未来を意味しています。

 たとえば、聖書で永遠の命という場合には、今のわたしの命がいつまでも継続するということではありません。今のこのわたしの命は、時に肉体が病んだり、心が痛んだり、不安になったり、悩んだり、迷ったりを繰り返す命であり、日々罪を重ねていく命です。それがいつまでも続くのだとしたら、わたしにとって喜びであるよりは苦痛であると言えるでしょう。しかし、聖書が語る永遠の命、主イエス・キリストがわたしたちに約束しておられる永遠の命とは、ヨハネの黙示録21章のみ言葉によれば、神がいつでも永遠にわたしと共にいてくださる命であり、わたしの目から涙を全くぬぐい取り、もはや死もなく、悲しみも痛みも叫びもなく、全く新しくされた命、来るべき神の国に属する命のことなのです。

 永遠という言葉の中には、不変という意味も含まれます。神は永遠であり、不変なる方であられ、神のみ心、救いのご計画もまた永遠、不変です。たとえ、世界がどのように移り変わろうとも、人間の心がどのように変化しようとも、神は同じ神であられ、その救いのご計画を変更することなく進められます。天地万物と人間を創造された神が、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、イスラエルの民を選ばれた神であり、主イエス・キリストの父なる神であり、教会を支配され、導かれる神であり、わたしたちひとり一人を愛し、罪から救い、神の国の民とされる、唯一の永遠なる神なのです。

 最後に、「神の計画」ですが、1953年に制定された告白では「神の経綸」という言葉でしたが、「経綸」が一般的でないということから、2007年に制定された口語文では「計画」に言い換えられました。経綸の方がより深い意味を持っていますので、その方が良かったのではという個人的な意見はあります。計画よりは、摂理とか、配済という言葉がその内容を言い表していると思われます。

神の経綸、神の摂理、神の配剤とは、一つ一つの出来事に対して、一つ一つの事柄に対して、また一人一人の存在や歩み、動き、生と死に対して、すべてに対して、神は最も良き時とよき道を備えてくださり、すべてのことが相働いて益となり、神の栄光を表す最終の目的に向かうようにしておられるということを意味します。テモテへの手紙二1章9~10節にはこのように書かれています。【9~10節】(391ページ)。もう一か所を読んでみましょう。【エフェソの信徒への手紙1章7~12節】(352ページ)。神はご自身の永遠の経綸、摂理、配済を、わたしたち罪びとの救いのためにこそ、最も力強く、全力を込めて実行してくださったのです。

 ちなみに、「経綸」という言葉は『口語訳聖書』には用いられていませんでしたが、『新共同訳聖書』には二度、ヨブ記38章2節と42章3節で用いられています。38章2節では、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。42章3節では、「神の経綸を隠そうとするとは」とあります。ヨブ記の翻訳に携わった林嗣夫先生から直接に伺ったところによると、先生自身が「経綸」という言葉にこだわってこの翻訳を主張したということです。林先生が亡くなられた後になって、『信仰告白』の中の「経綸」が「計画」に変えられるということは、かの先生も予測していなかったでしょう。

 ではここで、「神の永遠の計画にしたがい」と告白することの意味を二つにまとめてみましょう。一つには、ここでは神の救いのご計画の確かさ、その保証が与えられているということです。神がわたしたち人間を愛され、救われるということは永遠の昔から、天地創造の前から、神の永遠なる決意と決定によって定められていたことであり、それは永遠に不変であり、確かであるという保証がここにあるのです。神ご自身が、いわばその全存在をかけて、わたしたちの救いを保証してくださるのです。

二つには人間の側の条件とか、人間の功績や働きというものが、一切排除されている、それは必要ないということです。神が、ただ神のみが、わたしたちの救いに必要なすべてのみわざをなしてくださるのであり、人間のわざや能力には全く無関係に、神ご自身の一方的な愛と恵みの選びによってすべての人は救われるのです。もし、救いが人間の側の条件によって左右されるというのであれば、わたしたちは自分が救われているかどうかを絶えず疑わなければならないでしょう。しかし、そうではありません。わたしたちはただ「神の永遠の計画にしたがい」をそのまま信じ、それにわが身を委ね、従うのみです。また、そうすることこそがわたしたちの永遠で確かな救いなのです。それによって、わたしたちは神の栄光に向かって前進していくのです。

(執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めからわたしたちを選ばれ、主イエス・キリストによる救いの道へと招きいれてくださいました。どうか、すべての人たちがこの救いの道へと導きいれられますように。そして、あなたの永遠の救

10月24日説教「異邦人の信仰」

2021年10月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    ルカによる福音書7章1~10節

説教題:「異邦人の信仰」

 主イエスは平地での説教を終えると、ルカによる福音書7章1節で再びカファルナウムに戻られました。4章38節によれば、弟子のシモン・ペトロの家がこの町にあり、主イエスはこのペトロの家を宿にしてガリラヤ伝道をしておられたと推測されています。

カファルナウムはガリラヤ湖の北西海岸にあり、東西に延びる交通の要所としてかなり繫栄した町でした。この町には収税所があり、またガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの守備隊の駐屯地がありました。きょうの個所に出てくる百人隊長は、ローマの駐留軍兵士であるよりは、ヘロデの守備隊の兵士百人を率いる小隊長と考えられますが、いずれにしても彼はイスラエルの民・ユダヤ人ではなく、ローマ人かシリア人であり、異邦人であったことは確かです。この異邦人である百人隊長の部下が死ぬほどの重い病気であったのを、主イエスは離れた場所から、いわば遠隔治療によって、いやされたという奇跡がここには描かれています。

福音書の中でユダヤ人以外の異邦人が主イエスの救いにあずかったという例はごく少ししか記録されていません。きょうのカファルナウムの百人隊長の部下の場合と、マタイ福音書15章21節以下のカナンの婦人の娘が悪霊から解放された例、その他数例しか見られません。主イエスの地上のご生涯では、宣教の対象はほとんどユダヤ人に限られていました。主イエスご自身、マタイ福音書15章24節で、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。というのは、神はイスラエルを全世界の中から最初にお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。神の愛はこの選ばれた民に集中的に注がれます。主イエスの救いもこの民に集中して行われます。神の愛は選びの愛です。契約の愛です。神はひとたびお選びになった民を決してお見捨てにはならず、最後までその契約を守られ、その愛を貫かれます。

主イエスの救いがユダヤ人から異邦人へ、全人類へと拡大されるのは、主の十字架と復活、聖霊降臨以後です。その時になって、神が最初にイスラエルの民を選ばれ、愛されたのと同じように、全世界のすべての民をお選びになり、すべての人を救いへとお招きになりました。これが、神が主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結ばれた新しい契約です。イスラエルの民を愛された神の愛は今や全人類とすべての人々に注がれています。神が最初にイスラエルをお選びになったのは、後にユダヤ人以外の異邦人の選びの先駆けとなりしるしとなるためであったのです。先に選ばれたイスラエルは、自分たちが神に選ばれる値打ちなど全くなかったにもかかわらず、神の恵みと憐れみとによって、他の国々に先立って選ばれたことを感謝し、またそのことを全世界に向かって証しする務めを授かっていたのです。

わたしたち一人一人が、きょうこの礼拝堂に集められ、先に選ばれた者たちとして神の恵みのみ言葉を聞かされているのも、同じ事情によります。わたしはわたし一人の救いのためにだけ礼拝しているのではありません。わたしの家族、友人、同僚、この地域、この国、そして全世界のすべての人々の救いのために、その先駆けとして選ばれ、ここに集められているのです。そのことの証人として、わたしたちは今ここに立っているのです。

さて、きょうのカファルナウムの百卒長の部下のいやしの奇跡は、主イエスの愛と救いの恵みが、やがて先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人から異邦人へ、全世界の民へと拡大されていくことをあらかじめ予告している出来事であるということにわたしたちは気づかされます。

【2~3節】。当時、ユダヤ人と異邦人との間には越えがたい壁があって、異邦人がユダヤ人に頼みごとをするとか、あるいはユダヤ人が異邦人の家を訪問するということは、普通ではあり得ませんでした。ユダヤ人は自ら選ばれた民であることを誇り、ユダヤ人以外の異邦人は神の律法を知らない汚れた民であると言い、また異邦人にとってはそのようなユダヤ人の意識は思い上がった選民思想であると映りました。

でも、ここでは普通ではあり得ないことが起こっています。異邦人である百人隊長がユダヤ人である主イエスに頼みごとをし、ユダヤ人である主イエスが異邦人である百人隊長の家に出かけようとしておられます。なぜでしょうか。まずその理由を考えてみましょう。百人隊長の有力な部下の一人が病気で死にかかっていたと2節に書かれています。彼にはある程度の社会的地位があり、権力を持ち、また財産もあったでしょう。それらを用いて自分の意のままに事をなすことができました。けれども今、自分の力や持ち物によってはどうすることもできない困難な事態に直面しています。愛する者の重い病気と死の危機です。人間の死という現実に、彼は今直面しているのです。そして、死の前では彼が持っている地位や、権力、財産のすべてをもってしても、全く無力であることを彼は知るのです。彼は死の前で打ちのめされてしまいます。その時、彼は民族の壁を乗り越えて、社会的な壁や心の壁を乗り越えて、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスに助けを求めるほかないことを悟るのです。

ここで普通ではないことが起こっている第二の理由は、本来はこれが第一の理由となるべきですが、主イエスこそが人間の死というこの困難な事態を解決できると百人隊長が信じたからです。4~5節で、百人隊長の依頼によって主イエスのもとを訪れたユダヤ人の長老たちが言っているように、この百人隊長は異邦人でありながら、ユダヤ人の信仰には深い理解を示し、会堂を建てるために援助までしています。もしかしたら、その会堂で主イエスの説教を何度か聞いたことがあったのかもしれません。そして、この主イエスこそが旧約聖書で預言されているメシア・救い主であり、異邦人の自分をも顧みてくださり、自分の願いをお聞きくださり、部下の重い病気をいやし、彼を死から救ってくれることができるという信仰をこの百人隊長に芽生えさせたと推測できます。百人隊長のこの信仰が民族的な壁やその他のすべての壁を乗り越えさせたと考えられます。と言うよりは、神が今この時、時満ちて、約束のメシア・主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、主イエスとこの異邦人との出会いの時をお定めになったのだと言うべきでしょう。そして、主イエスご自身が百人隊長にそのような信仰をお与えになったのです。

もう一つの理由を付け加えるならば、百人隊長の徹底したへりくだり、謙虚さが、主イエスと異邦人である彼との壁を乗り越えさせたと言えます。彼は主イエスが自分の家に向かっておられる途中に友達を送ってこのように言わせています。【6~8節】。この世である程度の地位や権力、また財産を持つ人は、時としてそれを誇ったり、傲慢になったりするものです。この百人隊長は軍隊の小隊長であり、背後には領主ヘロデ・アンティパスがついています。一般の民衆に対しては絶対的な権力を持っています。また、彼はユダヤ人のために大金を出して会堂を建ててやったという功績もあります。自分はユダヤ人のためにこれだけのことをしてやったのだから、困っている時にユダヤ人に助けてもらって当然だと言ってもおかしくはありません。

けれども、彼は主イエスのみ前にひれ伏し、徹底的に謙遜になり、自分は主イエスを家に迎え入れる資格がない者だと告白しています。

この百人隊長の謙遜な告白と当時のユダヤ人、その中でも自ら選ばれた特別な存在であると誇っていたファリサイ派や律法学者たちの傲慢とを比べてみてください。彼らユダヤ人たちは異邦人は神を知らぬ滅ぶべき民だとし、自分たちにはエルサレムと神殿があり、神の守りがあると自慢しながら、主イエスを救い主として受け入れることを拒んだのでした。そしてついには、ユダヤ人たちは主イエスを偽りの預言者、神を冒涜する者、社会秩序を乱す者として裁判にかけ、十字架刑にしたのでした。主イエスは9節で、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言っておられます。ここでは、異邦人の信仰が称賛されていると同時に、神に選ばれた民であるイスラエル・ユダヤ人の不信仰と不従順が裁かれているのです。

それに対して、この異邦人である百人隊長は自分が主イエスをお迎えするにふさわしくない者であると自覚しながら、ただ主イエスの憐みに寄りすがるほかないことを告白しています。主イエスのみ前に自らへりくだり、謙遜になった時、彼は主イエスのみ言葉の権威と力とを信じることができたのです。そして、「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願います。

宗教改革者カルヴァンは、「僕の病気がいやされるよりも前に、この百人隊長自身がいやされ、救われているのだ」と言っています。実際、この出来事の中では、部下である兵士のことやその病気の内容についてはほとんど関心が払われてはいませんし、その病気がいやされたということも主なテーマになってはいません。「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」。異邦人である百人隊長のこの信仰と、その信仰を受け入れ、彼の願いをお聞きになった主イエスのみ言葉の権威と力がテーマです。

この異邦人の百人隊長は部下がいやされる奇跡を見て、主イエスを信じたのではありません。まだそれを見る前に、彼の部下が死に瀕していたそのただ中で、死の病から救い出してくださる主イエスのみ言葉に、彼の祈りと希望のすべてをかけて信じたのです。死という厳しい現実の中で、その現実を打ち破って、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す主イエスのみ言葉の権威と力とに、彼の存在のすべてをかけたのです。その時、彼は救われ、彼の部下はいやされました。

創世記1章3節に、「神は言われた。『光りあれ』。こうして、光があった」と書かれています。また、詩編103編3節以下にはこのように書かれています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。そして、イザヤ書55章11節では、「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われています。主イエスがお語りになるみ言葉は同じように権威と力を持ち、恵みと命に満ちたみ言葉です。異邦人の百人隊長はこの主イエスのみ言葉を信じたのです。

ルカ福音書に戻って、10節に「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」と書かれています。主イエスのこのいやしの奇跡は遠隔治癒と言われます。主イエスが直接に病人と対面したり、その体に触れることをしないで、離れた所でいやされるという奇跡は、このほかにはマタイ福音書15章21節以下に書かれているカナンの婦人の娘のいやしがあります。興味深いことに、いずれも異邦人の信仰がテーマになっています。

ただ、主イエスのみ言葉を聞き、それを信じるという信仰、これがわたしたちの信仰です。主イエスのみ言葉以外にどんな保証やしるしをも求めず、主イエスのゆるしといやしのみ言葉にわたしの祈りと希望のすべてを委ねる信仰、そのような信仰があるところに、主イエスはゆるしといやしの奇跡を起こしてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの全能のみ力を信じさせてください。主イエスのみ言葉の恵みと命とを信じさせてください。あなたのみ心が地にも行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。