10月24日説教「異邦人の信仰」

2021年10月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    ルカによる福音書7章1~10節

説教題:「異邦人の信仰」

 主イエスは平地での説教を終えると、ルカによる福音書7章1節で再びカファルナウムに戻られました。4章38節によれば、弟子のシモン・ペトロの家がこの町にあり、主イエスはこのペトロの家を宿にしてガリラヤ伝道をしておられたと推測されています。

カファルナウムはガリラヤ湖の北西海岸にあり、東西に延びる交通の要所としてかなり繫栄した町でした。この町には収税所があり、またガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの守備隊の駐屯地がありました。きょうの個所に出てくる百人隊長は、ローマの駐留軍兵士であるよりは、ヘロデの守備隊の兵士百人を率いる小隊長と考えられますが、いずれにしても彼はイスラエルの民・ユダヤ人ではなく、ローマ人かシリア人であり、異邦人であったことは確かです。この異邦人である百人隊長の部下が死ぬほどの重い病気であったのを、主イエスは離れた場所から、いわば遠隔治療によって、いやされたという奇跡がここには描かれています。

福音書の中でユダヤ人以外の異邦人が主イエスの救いにあずかったという例はごく少ししか記録されていません。きょうのカファルナウムの百人隊長の部下の場合と、マタイ福音書15章21節以下のカナンの婦人の娘が悪霊から解放された例、その他数例しか見られません。主イエスの地上のご生涯では、宣教の対象はほとんどユダヤ人に限られていました。主イエスご自身、マタイ福音書15章24節で、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。というのは、神はイスラエルを全世界の中から最初にお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。神の愛はこの選ばれた民に集中的に注がれます。主イエスの救いもこの民に集中して行われます。神の愛は選びの愛です。契約の愛です。神はひとたびお選びになった民を決してお見捨てにはならず、最後までその契約を守られ、その愛を貫かれます。

主イエスの救いがユダヤ人から異邦人へ、全人類へと拡大されるのは、主の十字架と復活、聖霊降臨以後です。その時になって、神が最初にイスラエルの民を選ばれ、愛されたのと同じように、全世界のすべての民をお選びになり、すべての人を救いへとお招きになりました。これが、神が主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結ばれた新しい契約です。イスラエルの民を愛された神の愛は今や全人類とすべての人々に注がれています。神が最初にイスラエルをお選びになったのは、後にユダヤ人以外の異邦人の選びの先駆けとなりしるしとなるためであったのです。先に選ばれたイスラエルは、自分たちが神に選ばれる値打ちなど全くなかったにもかかわらず、神の恵みと憐れみとによって、他の国々に先立って選ばれたことを感謝し、またそのことを全世界に向かって証しする務めを授かっていたのです。

わたしたち一人一人が、きょうこの礼拝堂に集められ、先に選ばれた者たちとして神の恵みのみ言葉を聞かされているのも、同じ事情によります。わたしはわたし一人の救いのためにだけ礼拝しているのではありません。わたしの家族、友人、同僚、この地域、この国、そして全世界のすべての人々の救いのために、その先駆けとして選ばれ、ここに集められているのです。そのことの証人として、わたしたちは今ここに立っているのです。

さて、きょうのカファルナウムの百卒長の部下のいやしの奇跡は、主イエスの愛と救いの恵みが、やがて先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人から異邦人へ、全世界の民へと拡大されていくことをあらかじめ予告している出来事であるということにわたしたちは気づかされます。

【2~3節】。当時、ユダヤ人と異邦人との間には越えがたい壁があって、異邦人がユダヤ人に頼みごとをするとか、あるいはユダヤ人が異邦人の家を訪問するということは、普通ではあり得ませんでした。ユダヤ人は自ら選ばれた民であることを誇り、ユダヤ人以外の異邦人は神の律法を知らない汚れた民であると言い、また異邦人にとってはそのようなユダヤ人の意識は思い上がった選民思想であると映りました。

でも、ここでは普通ではあり得ないことが起こっています。異邦人である百人隊長がユダヤ人である主イエスに頼みごとをし、ユダヤ人である主イエスが異邦人である百人隊長の家に出かけようとしておられます。なぜでしょうか。まずその理由を考えてみましょう。百人隊長の有力な部下の一人が病気で死にかかっていたと2節に書かれています。彼にはある程度の社会的地位があり、権力を持ち、また財産もあったでしょう。それらを用いて自分の意のままに事をなすことができました。けれども今、自分の力や持ち物によってはどうすることもできない困難な事態に直面しています。愛する者の重い病気と死の危機です。人間の死という現実に、彼は今直面しているのです。そして、死の前では彼が持っている地位や、権力、財産のすべてをもってしても、全く無力であることを彼は知るのです。彼は死の前で打ちのめされてしまいます。その時、彼は民族の壁を乗り越えて、社会的な壁や心の壁を乗り越えて、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスに助けを求めるほかないことを悟るのです。

ここで普通ではないことが起こっている第二の理由は、本来はこれが第一の理由となるべきですが、主イエスこそが人間の死というこの困難な事態を解決できると百人隊長が信じたからです。4~5節で、百人隊長の依頼によって主イエスのもとを訪れたユダヤ人の長老たちが言っているように、この百人隊長は異邦人でありながら、ユダヤ人の信仰には深い理解を示し、会堂を建てるために援助までしています。もしかしたら、その会堂で主イエスの説教を何度か聞いたことがあったのかもしれません。そして、この主イエスこそが旧約聖書で預言されているメシア・救い主であり、異邦人の自分をも顧みてくださり、自分の願いをお聞きくださり、部下の重い病気をいやし、彼を死から救ってくれることができるという信仰をこの百人隊長に芽生えさせたと推測できます。百人隊長のこの信仰が民族的な壁やその他のすべての壁を乗り越えさせたと考えられます。と言うよりは、神が今この時、時満ちて、約束のメシア・主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、主イエスとこの異邦人との出会いの時をお定めになったのだと言うべきでしょう。そして、主イエスご自身が百人隊長にそのような信仰をお与えになったのです。

もう一つの理由を付け加えるならば、百人隊長の徹底したへりくだり、謙虚さが、主イエスと異邦人である彼との壁を乗り越えさせたと言えます。彼は主イエスが自分の家に向かっておられる途中に友達を送ってこのように言わせています。【6~8節】。この世である程度の地位や権力、また財産を持つ人は、時としてそれを誇ったり、傲慢になったりするものです。この百人隊長は軍隊の小隊長であり、背後には領主ヘロデ・アンティパスがついています。一般の民衆に対しては絶対的な権力を持っています。また、彼はユダヤ人のために大金を出して会堂を建ててやったという功績もあります。自分はユダヤ人のためにこれだけのことをしてやったのだから、困っている時にユダヤ人に助けてもらって当然だと言ってもおかしくはありません。

けれども、彼は主イエスのみ前にひれ伏し、徹底的に謙遜になり、自分は主イエスを家に迎え入れる資格がない者だと告白しています。

この百人隊長の謙遜な告白と当時のユダヤ人、その中でも自ら選ばれた特別な存在であると誇っていたファリサイ派や律法学者たちの傲慢とを比べてみてください。彼らユダヤ人たちは異邦人は神を知らぬ滅ぶべき民だとし、自分たちにはエルサレムと神殿があり、神の守りがあると自慢しながら、主イエスを救い主として受け入れることを拒んだのでした。そしてついには、ユダヤ人たちは主イエスを偽りの預言者、神を冒涜する者、社会秩序を乱す者として裁判にかけ、十字架刑にしたのでした。主イエスは9節で、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言っておられます。ここでは、異邦人の信仰が称賛されていると同時に、神に選ばれた民であるイスラエル・ユダヤ人の不信仰と不従順が裁かれているのです。

それに対して、この異邦人である百人隊長は自分が主イエスをお迎えするにふさわしくない者であると自覚しながら、ただ主イエスの憐みに寄りすがるほかないことを告白しています。主イエスのみ前に自らへりくだり、謙遜になった時、彼は主イエスのみ言葉の権威と力とを信じることができたのです。そして、「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願います。

宗教改革者カルヴァンは、「僕の病気がいやされるよりも前に、この百人隊長自身がいやされ、救われているのだ」と言っています。実際、この出来事の中では、部下である兵士のことやその病気の内容についてはほとんど関心が払われてはいませんし、その病気がいやされたということも主なテーマになってはいません。「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」。異邦人である百人隊長のこの信仰と、その信仰を受け入れ、彼の願いをお聞きになった主イエスのみ言葉の権威と力がテーマです。

この異邦人の百人隊長は部下がいやされる奇跡を見て、主イエスを信じたのではありません。まだそれを見る前に、彼の部下が死に瀕していたそのただ中で、死の病から救い出してくださる主イエスのみ言葉に、彼の祈りと希望のすべてをかけて信じたのです。死という厳しい現実の中で、その現実を打ち破って、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す主イエスのみ言葉の権威と力とに、彼の存在のすべてをかけたのです。その時、彼は救われ、彼の部下はいやされました。

創世記1章3節に、「神は言われた。『光りあれ』。こうして、光があった」と書かれています。また、詩編103編3節以下にはこのように書かれています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。そして、イザヤ書55章11節では、「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われています。主イエスがお語りになるみ言葉は同じように権威と力を持ち、恵みと命に満ちたみ言葉です。異邦人の百人隊長はこの主イエスのみ言葉を信じたのです。

ルカ福音書に戻って、10節に「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」と書かれています。主イエスのこのいやしの奇跡は遠隔治癒と言われます。主イエスが直接に病人と対面したり、その体に触れることをしないで、離れた所でいやされるという奇跡は、このほかにはマタイ福音書15章21節以下に書かれているカナンの婦人の娘のいやしがあります。興味深いことに、いずれも異邦人の信仰がテーマになっています。

ただ、主イエスのみ言葉を聞き、それを信じるという信仰、これがわたしたちの信仰です。主イエスのみ言葉以外にどんな保証やしるしをも求めず、主イエスのゆるしといやしのみ言葉にわたしの祈りと希望のすべてを委ねる信仰、そのような信仰があるところに、主イエスはゆるしといやしの奇跡を起こしてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの全能のみ力を信じさせてください。主イエスのみ言葉の恵みと命とを信じさせてください。あなたのみ心が地にも行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月17日説教「約束の子イサクの誕生」

2021年10月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記21章1~8節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「約束の子イサクの誕生」

 創世記12章から始まった族長アブラハムの歩みについて続けて読んできましたが、きょうの個所でその時に与えられた神の約束の一つがようやくにして成就するというみ言葉を読みます。【21章1~2節】。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉、すなわち、「あなたの子孫が地に増え、世界中の民の祝福の源となるであろう」という約束を聞いてからおよそ25年を経て、彼が百歳になってようやくその約束が実現されます。信仰の父アブラハムの25年の歩みは、神の約束の地で、神の約束のみ言葉の成就を待ち望む歩みでした。

けれども、わたしたちがこれまで学んできたように、その歩みは、挫折と疑いと失敗の歩みでもありました。いやそれ以上に、神が忍耐と愛とをもって、アブラハムから離れることなく、彼との契約を守り続け、導き続けてこられたという、神の救いの歴史であったのだということを、わたしたちは聞いてきました。

 そこで、きょう朗読された個所に入る前に、なお少しの間、神の約束の成就に至るまでの途中の道のりについて振り返ってみたいと思います。連続して聖書のテキストを取り挙げてきましたが、20章を読み忘れたことに気づいておられる人がいるかもしれません。20章は重要なテキストではないから省略したということではありません。この章全体のテーマはすでに学んだ12章10~20節と非常によく似ています。12章では、アブラハムは飢饉で食料が無くなったので、エジプトに下り、その時に妻のサラを自分の妹だと偽ってエジプトの宮廷に召し入れられるように計らったということが書かれていました。20章では、アブラハムはゲラルに移住した時に、妻サラを自分の妹だと偽って、ゲラルの王アビメレクに召し入れられることになったという、同じような内容が描かれています。一部の学者は、本来一つの出来事が二つの多少違ったかたちで伝承されたのではないかと考えています。アブラハムが同じような過ちを繰り返すはずがないという、彼を擁護したい意図もそこにはあるように思われますが、わたしたちはむしろアブラハムが同じような過ちを繰り返したにもかかわらず、神の契約は変わらなかったと理解したいと思います。

 では、12章と20章のアブラハムの過ち、失敗を二つのポイントにまとめて振り返ってみましょう。第一点は、アブラハムが神の約束の地を捨てたということです。神は「この地をあなたとあなたの子孫とに受け継がせる」と約束されて、アブラハムをカナンの地へと導き入れました。しかし、彼は飢饉の時に食料を求めてエジプトに移住しました。自分と家族を養うためとはいえ、神の約束の地を捨てるということは、パンだけで生きるのではなく、神のみ言葉を聞いて生きるべきである信仰者としては失敗だと言うべきです。

20章でゲラルの地へ移住した理由は具体的には書かれていませんが、ここでも約束のカナンを捨てています。ゲラルはパレスチナ地方の南部に位置し、そこでは王国が形成され、16節によれば貨幣制度があり、富み栄えていた都市であったと推測されますが、神の約束の地の外であることには間違いありません。アブラハムは先にエジプトに移住した時と全く同じ失敗をここでも繰り返しています。

 第二点は、妻のサラを妹だと偽って地元の人に紹介したことです。古代社会では、異国の地での法的な保護はほとんど期待できず、他の国からやって来た男が美しい奥さんを連れているのを見たらその夫を殺してでも自分のものにしようとすることがよく行われていたということです。アブラハムは自分の命を救うために、妻を妹だと偽って、エジプトでもこのゲラルの地でも、サラは王宮に召し入れられることになりました。

しかし、これには重大な過ちがありました。一つには、アブラハムは妻との夫婦の関係を投げ捨てたということです。自分の身を守るために、妻への愛と信頼を裏切ったのです。しかし、それ以上に深刻な過ちは、それによって神の約束をも投げ捨てたことになります。「あなたの子孫を星の数ほどに増やす」という神の約束は、アブラハムとサラ夫妻に与えられた約束でした。二人で共にこの約束を担っていかなければならなかったのに、アブラハムはそれを放棄したのです。それは神への不従順であり罪です。アブラハムはエジプトでもこのゲラルの地でも、同じ過ち、同じ罪を繰り返しているのです。

 しかしながら、今回もまた、決定的な場面で神が介入され、アブラハムとサラを危機から救い出されました。神は夢の中でアビメレクに現れ、彼がサラに触れないようにされました。神はアブラハムとサラに対する契約を守られました。そして、17~18節にこのように書かれています。【17~18節】。アブラハムは異教の王アビメレクとその国のために執り成しの祈りをする者に変えられています。そして、ここでもう一つ教えられていることは、神がすべての婦人たちの胎を閉ざすことも開くこともなさる権限を持っておられるということ、すなわち、子どもを与え、新しい命を生み出すのはただ神のみがなさるということがここで教えられているのです。そして、次の21章で、それまで子どもが与えられなかったサラに神の約束の子が与えられるという神の奇跡と恵みが語られていくことになるのです。

 21章1節に、「主は、約束されたとおりサラを顧み」と書かれています。長い間サラの胎を閉ざしておられたのが神であるならば、定められた時、神が良しとされた時に、サラの胎を開かれるのも神です。約束されたのが神であるならば、約束を成就し、実現されるのも神です。この神を信じ、この神のみ言葉を信じ続ける信仰者は幸いです。エジプトとゲラルでのアブラハムの失敗にもかかわらず、それだけでな、たびたびのアブラハムの疑いや迷いや不信仰にもかかわらず、神の真実と憐れみは絶えることなく、アブラハムとの契約は廃棄されませんでした。たとえ、罪と失敗を繰り返すほかにないとしても、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。その人は神の顧みを受けるからです。

 「顧みる」という言葉は本来「訪れる」という意味です。18章10節では、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ます」の「来る」と訳され、14節では、「来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る」の「戻って来る」と訳されているのが同じ言葉です。アブラハムとサラに約束のみ言葉をお語りになった神は、その約束を成就されるために彼らのもとへとやって来られます。創世記12章で二人が最初に神の約束を聞いてから25年の時が過ぎていました。彼らはたびたび神の約束のみ言葉を疑い、忘れることがありましたが、神は決して彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らの不信仰と不従順とを超えて、また人間的な不可能を超えて、神の約束は成就の時を迎えます。11章30節によれば、サラは不妊の女で、子どもができない体質であったにもかかわらず、そしてアブラハムが百歳、サラが90歳という高齢になったにもかかわらず、神の奇跡によって、神の恵みによって、彼らに男の子が与えられたのです。神の約束の子の誕生です。それは、アブラハムとサラの家庭にとっての神の約束の成就であっただけでなく、アブラハム以後のすべての信仰者に対する神の約束の成就でもありました。この子によって、アブラハムに与えられた神の祝福がのちのすべての信仰者へと受け継がれていくからです。

 「顧みる」「訪れる」という言葉を聞くと、わたしたちは主イエスが天に昇られた時のことを思い起こします。使徒言行録1章11節にはこのように書かれています。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。十字架につけられ、復活され、天に昇られた主イエスは、終わりの日に、再びこの地上に戻って来られます。そして、わたしたちの信仰を完成され、わたしたちをみ国へと招き入れてくださいます。再びおいでになる主イエスを待ち望むわたしたちの待望は決して空しく終わることはありません。主イエスはこの地を顧みてくださり、再び訪れてくださいます。

 1節に「主は、約束されたとおり」「さきに語られたとおり」、そして2節では「神が約束されていた時期」と、神の約束が確かであり、神のみ言葉が必ず実現するということが何度も強調されています。たとえ、人間の側の疑いや不信仰がどれだけ繰り返されようが、たとえ人間の側の可能性が限りなくゼロに近くなろうとも、神は無から有を呼び出し、死から命を生み出すようにして、ご自身の救いのご計画を実現なさいます。わたしたち人間は「主よ、いつまでですか。いつまで待たなければならないのですか。いつまでこの苦悩は続くのですか」と嘆いている間にも、神はご自身の救いのみわざを確実に前進させておられます。そのことを信じつつ、成就の時を待ち続ける信仰者は幸いです。

 【3~5節】。生まれた子に名前を付けるのは一般に父親の役割でした。けれども、この場合は、すでに神によってその名前が決定されていました。【17章19節】(22ページ)。洗礼者ヨハネの場合も、主イエスの場合も同じでした。神の約束によって与えられた子どもは、神からの特別な使命を託されています。そのことをあらかじめ明らかにするために、神はその子が生まれる前からその子にふさわしい名前を備えておられます。ヨハネ=神は恵み深い、イエス=神は救われる、イサク=彼は笑う、神の約束の子はそれぞれの特別な務めを神から与えられています。そして、神がその子をお用いになって、神ご自身がそのことをなしてくださるという保証のために、神はあらかじめその子の名前をお決めになるのです。

 では、イサク=彼は笑うという名前にはどのような務め、使命が託されているのでしょうか。【6~8節】。百歳と90歳の年老いた夫婦に神の奇跡によって男の子が与えられた。それは何という大きな恵みであることか、何という大きな喜びであることでしょうか。そのことを体験した老夫婦に心からの笑いがあふれ、そのことを聞いた人々にも心からの笑いが広がっていきます。そのようにしてすべての人々に心からの笑いをお与えくださる主なる神をほめたたえる感謝の歌が世界中に響き渡ります。そのために神はこの成就の時を定め、イサクと名付けられる一人の男の子を誕生させられたのです。

 したがってこの笑いは天の神から与えられた笑いであり、この世にあるもろもろの笑いよりもはるかに大きく、はるかに高く、力強く、そして永遠に変わることがない笑いであり、喜びです。それだけでなく、この世にある憂いや悲しみや憎しみ、怒り、あるいは疑いや不信仰をもはるかに超えて、それらのすべてを笑いに変える力を持っています。

 そのことと関連して、思い起こすことがあります。かつてアブラハムもサラも神から男の子の誕生を予告された時に、それが信じられないので笑ったということが17章17節と18章12節に書かれていました。【17章17節】(22ページ)。【18章12~15節】(23ページ)。アブラハムとサラのこの笑いは、不信仰から来る疑いの笑い、神をあざける笑いでした。しかし今、この不信仰の笑いは確かに信仰による笑いに変えられています。神は不可能を可能に変えてくださいます。疑いや不信仰をも心からの信頼と確信と喜びに変えてくださいます。この神を信じ、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの中からすべての疑いや迷いを取り去り、憂いや悲しみ不安に変えて心からの笑いと喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月10日説教「神を欺く罪」

2021年10月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記20章1~13節

    使徒言行録5章1~11節

説教題:「神を欺く罪」

 紀元30年ころのペンテコステの日に誕生した世界最初の教会、エルサレム教会の生き生きとした宣教活動と目覚ましい成長について、使徒言行録2章から詳しく記録されています。これは、エルサレム教会に大迫害が起こって、教会員の多くがエルサレムから追放されることになった8章3節まで続いています。

この中で特に強調されているエルサレム教会の特徴を、きょうの説教のテキストととの関連で二つ挙げます。一つは聖霊なる神のお働きです。主イエスの十字架の死のあと、指導者を失った失意とユダヤ人からの攻撃の恐怖の中で絶望していた弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らは大きな力を与えられて大胆に神のみ言葉を語りだし、主イエスの復活の証人として立ち上がりました。最初に経験した迫害の中で、捕らえられ、法廷に立たされたペトロは、聖霊に満たされて、エルサレムの指導者たちの前でも恐れることなく、主イエスの復活を語りました。聖霊はエルサレム教会の命と力の源であったということを、わたしたちは確認してきました。これは使徒言行録全体に貫かれている特徴です。

 第二には、教会の一致と教会員の交わりの強さ、深さが強調されていました。この一致と交わりは、彼らの心と思い、行動のすべてにまで及んでおり、それが、財産の共有というかたちで具体化されていました。そのことが、2章44節以下と4章32節以下に報告されており、またその具体例として、4章32節以下のバルナバの行動と、きょうの礼拝で朗読された5章1節以下のアナニアとサフィラ夫妻の行動として紹介されています。初代エルサレム教会の一致と交わりがどのようなものであったのか、それは今日のわたしたちの教会に何を教えているのかについて、学んでいきたいと思います。

 まず、バルナバの例ですが、これは教会の一致と交わりの理想的な姿の例として紹介されています。バルナバとは「慰めの子」という意味を持つ名前であるということが4章36節に紹介されています。彼の本名はヨセフでしたが、使徒たちからはそう呼ばれていました。彼の名前は11章22節以下と13章1節以下に再び出てきます。バルナバはエルサレム教会とのちにはアンティオキア教会で、主キリストの教会のためによき働きをし、多くの人々に仕え、多くの人々に慰めを与えていたので、そのように呼ばれていたと推測されます。あるいは、それ以上に、彼自身が主なる神からの大きな慰めを与えられていたからかもしれません。

 そのバルナバが自分の所有していた畑を売って、その代金を使徒たちの足元に置きました。「足元に置く」とは、その代金を教会にささげたこと、また使徒たちがそのお金を管理していたことを言い表しています。使徒たちはそれを教会の貧しい人たちに配分していました。のちにこの務めは、6章で選ばれた7人の執事たちが引き継ぐようになります。

 このように、エルサレム教会ではすべての教会員が持ち物のすべてを共有にし、教会員が自由に自分の土地や財産を売却してその代金を教会にささげていました。また、必要に応じてそれを教会員に配分していました。しかし、それは一つの制度とか規則による強制ではなく、あくまでも信仰の自由による行為であり、各自の献身と愛の行為として行われていました。

 エルサレム教会のこのような財産共有には主に二つの信仰が背景になっていると考えられます。一つは、主イエス・キリストを信じる信仰によってキリスト者は地上の財産を所有する欲望から解放されているからです。主イエスによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれているキリスト者は、地上では旅人であり寄留者であって、この地上のどこにも永住の住まいを持っていません。天におられる父なる神のみもとに、永遠の故郷を持っています。それゆえに、地上のいかなるものにも束縛されることはありません。

 もう一つには、主イエス・キリストを信じる信仰によって、キリスト者は一つの同じ神の恵みによって生かされ、豊かにされているからです。教会の民は神から与えられている救いの恵みによって一つの信仰共同体として結び合わされています。神から与えられているもろもろの恵みは、互いに分かち合うことによって、また他者に惜しみなく与えることによって、いよいよ豊かになっていきます。そして、神の恵みによって豊かにされているキリスト者にとっては、地上の富によって豊かになる必要は全くなくなります。

 次に、5章1節からはアナニアとサフィラ夫妻の例が取り挙げられていますが、これは財産共有の悪い例として、教会の交わりと一致を根本から破壊する例として挙げられています。これまでは理想的な信仰共同体として描かれてきたエルサレム教会に、ここで暗い影が入り込んできます。アナニアとサフィラ夫妻が自分たちの土地を売却し、その代金の一部をごまかして手元に残しておき、これが全部ですと偽り、それによって聖霊を欺き、神を欺いたために、神の裁きを受け、二人とも死の判決を神から受けて死んだということが報告されています。

 使徒言行録の著者であるルカはエルサレム教会の暗い側面であるこの不幸な事件をも率直に報告しているということを、わたしたちはまず注目したいと思います。教会はこの地上に建てられている限り、欠けの多い罪びとたちの集まりであるゆえに、さまざまなあやまちやつまずきを避けることはできません。教会に聖人たちの理想世界を期待するのは正しくありません。しかしまた、教会は主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされていることを信じている罪びとたちの集まりですから、群れの中で起こった過ちやつまずきをどのようにして乗り越えていくべきかについては、この世のもろもろの集団や社会・国家とは全く違った道を神から備えられているのです。わたしたちはこの個所からそのことを読み取っていかなければなりません。

 アナニアという名前は「主なる神は恵み深い」という意味を持ち、またサフィラは「美しい」という意味です。でも、二人はバルナバ「慰めの子」とは違って、その名前に全くふさわしくない行為を行いました。彼らはサタンの道具となって、教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、聖霊なる神と父なる神を欺いたのです。

 3~4節のペトロの言葉から、エルサレム教会の財産共有は定まった制度でも強制でもなく、信仰による自由に根差したものであったということが読み取れます。【3~4節】。ペトロがどのようにしてアナニアが代金の一部だけを持ってきたことを知ったのかについては書かれていません。主イエスがユダの裏切りをあらかじめ見抜いておられたように、ペトロはアナニアの嘘を見抜く霊的な力が与えられていたのだと推測されます。ペトロは言います。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と。財産共有と自由なささげものは、制度でも規則でもなく、信仰による自由によってなされる行為であるゆえに、その行為に意図的な欺きがあるとすれば、それは信仰による自由を侵害することであり、それだけでなく、信仰をお与えくださった神ご自身に対する欺きなのだとペトロは言うのです。ここに、アナニアが犯した罪の重大さがあるのです。

 アナニアが行った悪と罪は、自分の財産をささげなかったことにあるのではなく、売却した代金を渡さなかったことにあるのでもなく、その一部をごまかして、ひそかに自分の手元に残しておき、あたかも全部をささげたかのように装ったという欺瞞的な行為にありました。そのようにして、自分を立派な信仰者に見せようとした偽善的な行為にあったのです。この行為はエルサレム教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、否定するものです。それだけでなく、教会をお立てになり、その命と存在の源である聖霊なる神を欺き、そのお働きを否定するものです。この世の法律や倫理を基準にしているのではなく、神の救いのみわざそのものを破壊し、否定する罪がここでは問われているのです。

それゆえに、彼の行為には神の厳しい裁きが下されます。しかも、直ちに下されます。「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と5節に書かれているとおりです。これは、何と身震いするほどの恐るべき神の裁きであることでしょうか。

妻のサフィラもまた同様の罪によって神の裁きを受けました。7節以下にそのことが書かれています。アナニアとサフィラ夫妻は共に神に仕え主キリストの教会に仕えるべきであったのに、共にサタンに仕え、罪に仕え、神と聖霊とを欺いたために、共に神の裁きを受け、同じ墓に葬られることになりました。

創世記に書かれているように、神が人間アダムを創造された時、ふさわしい助け手としてエバを創造されたのは、二人が共にエデンの園で喜びをもって神のみ言葉に聞き従うためでした。しかし、続けて書かれているように、アダムとエバは共に神のみ言葉に聞き従うのではなく、共に蛇の誘惑の声に聞き従い、共に神に禁じられていた木の実を食べ、罪を犯しました。それによって、二人は共に死すべきものとなりました。アナニアとサフィラはこのアダムとエバの罪を受け継いでいます。そして、直ちに死の判決を受けました。

アナニアの場合は、聖霊を欺き、神を欺いたことが彼の許されざる罪であると言われていましたが、サフィラの場合は、二人で示し合わせて、主の霊を試したことが彼らの罪であると9節で言われています。教会は聖霊によって誕生し、聖霊によって生き、聖霊によって導かれています。その聖霊を欺き、そのお働きを否定することは教会の死を招くことになります。神はそれをお許しになりません。

11節に、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と書かれています。5節でも「このことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と書かれていました。この出来事が教会とその周辺の人々に大きな恐れを与えたことが強調されています。この恐れとは、聖書全体に共通している特別な恐れのことです。それは、天におられる神が地上の出来事の中に入り込んでこられ、その出来事に決定的な変化や変革を生じさせ、人間がだれも抵抗することができないような圧倒的な神の力と権威と威厳とが明らかにされる時に感じる恐れのことです。

このことと関連して、11節でもう一つ注目したい点は、ここで初めて「教会」(エクレーシア)という言葉が用いられているということです。2章に書かれていたように、ペンテコステの日にすでに教会は誕生していましたが、使徒言行録の著者ルカはこの個所に至るまで、教会という言葉をあえて用いなかったのではないかと推測できます。このあと、教会という言葉は23回も用いられているということからも、ここで初めて教会という言葉が用いられたことの意味を考えることができるのではないでしょうか。つまり、アナニアとサフィラ夫妻の出来事を通して、その時に生じた神への大きな恐れによって、教会は本当の意味で教会となったのだと著者は言っているのではないでしょうか。言葉を換えれば、教会とは神を恐れるべきことを知っている、事実、神を恐れている人たちの群れであるということです。教会は迫害をもこの世のいかなる権力をも、時に襲い来る災いや災害をも、決して恐れることはありません。なぜならば、教会はただお一人、人間の生と死とをご支配しておられる神を、最後の審判者であられ、信じる者たちと不信仰な者たちとを最終的にお裁きになる神をのみ恐れ、この神のみ前で忠実な僕であろうとする信仰者たちの群れ、それが主キリストの教会であるからです。わたしたちの教会も、神を恐れる信仰者の群れでありたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天におられる主なる神よ、わたしたちをすべての恐れから解放し、ただあなたのみを恐れる者としてください。あなたのもとにこそ、真実の平安があり慰めがあり、また希望があることを固く信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月3日説教「真の神であり、真の人」

2021年10月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~10節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「真の神であり、真の人」③

 『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭の文章、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」、この個所の「まことの神であり、まことの人」について、これまで2回にわたって学んできました。きょうは3回目です。この一句に、これだけの時間をかけて学ぶ理由は、それだけこれが重要な告白であるからです。わたしたちが救い主であると信じている主イエス・キリストは、永遠に、まことの神、完全なる神であり、また同時に、永遠に、まことの人、完全な人であられる。そのようなまことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちの罪を、一回の十字架の死によって、完全に、永遠に、贖うことができ、わたしたちのすべての罪をゆるすことができ、また、わたしたちに復活の希望を与えてくださり、わたしたちの死すべき体を朽ちることのない霊の体に変え、神の国での永遠の命の約束をお与えくださる。そのようにして、わたしたちの唯一の、完全な救い主であられる。これがわたしたちキリスト者の信仰の中心だからです。もし、主イエスが、まことの神ではないとか、まことの人ではないということになれば、わたしたちの救いは不完全なものになってしまうからです。

キリスト教会はこれまでの2千年の歴史の中で、主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を確立するために、それを否定する様々な異端的な教えと戦ってきました。「まことの神であり、まことの人」という告白が最初に確立されたのは、紀元451年に小アジアのカルケドンで開催された世界教会会議で決議された『カルケドン信条』においてでありましたが、その後の16世紀、宗教改革の時代、大きな世界戦争を引き起こした20世紀、そして今日わたしたちが生きている21世紀と、いつの時代にも教会はさまざまな異端的な教えと戦い、また教会の外からの多くの誘惑やチャレンジと戦いながら、主イエスはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を貫き通してきました。

近年になってからのいくつかの例を挙げるならば、現在のキリスト教三大異端と言われる統一協会(正式にはは世界平和統一家庭連合)、ものみの塔(エホバの証人とも言います)、それにモルモン教、これらの異端はみな一様に三位一体論を否定し、主イエスがまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を放棄しています。その結果として、主イエス・キリスト以外にも救い主がいるかのように教えています。それらの教派の創立者、教祖やその教えが、主イエス・キリストと聖書以外にも、救いに必要な役割を演じています。

第二次世界大戦のドイツでは、ドイツ第三帝国総督ヒトラーがドイツ国民の救い主として、神のようにあがめられていました。日本でも天皇は現人神とされ、国民は絶対服従を強いられました。その中で、戦時下の教会は主イエスのみが唯一の救い主であり、まことの神、まことの人であるとの信仰告白を貫き通すことができなかったという、大きな破れや欠けを覚えざるを得ません。わたしたちの身近にも、多くの神々と言われるものがあり、わたしたちの心を支配しようとするさまざまな神のような存在にわたしたちは取り囲まれています。

そのような中で、わたしたちが主イエス・キリストがわたしたちの唯一の救い主であり、まことの神、まことの人である。この主イエスにわたしたちの救いのすべてがある。わたしたちの命のすべてがある。わたしたちが生きるべきすべての道が示されていると告白することは、確かに困難な信仰の戦いを必要とします。けれども、長い教会の歴史と伝統を受け継ぎながら、今も生きて働きたもう聖霊なる神のお導きを信じながら、また最後の勝利をお与えくださる主イエス・キリストを仰ぎながら、前進していくことがゆるされているのです。わたしたちが「主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人です」と、正しく告白することこそが、その信仰の戦いを力強く進めていく力になるのです。

前回は、主イエス誕生の記録、それはマタイによる福音書1章とルカによる福音書1、2章に書かれていますが、その中で主イエスが誕生の時から、まことの神であられたことが繰り返して告白されていることを確認しました。主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになりましたが、その命は聖霊によるのであり、そこには人間の営みが全く関与しておらず、100パーセント神のみわざであり、神から生まれた神のみ子であり、まことの神であるということが書かれています。『使徒信条』で「おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。

主イエスが神のみ子であり、神ご自身であるという聖書の教えをさらに挙げていきましょう。第一に、主イエスの説教が神の権威によって語られたということ、預言者や律法学者のようにではなく、権威ある者のように語られたことを多くの人々が驚いたと、マタイ福音書7章28節に書かれています。主イエスがお語りになる言葉は、神のみ言葉そのものでありました。ルカ福音書4章には、主イエスが故郷ナザレの会堂で説教されたときに、イザヤ書のみ言葉を朗読されたあとで、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。主イエスは神のみ言葉を預言したり、またそれを解説されるのではなく、主イエスが神のみ言葉をお語りになるまさにその時に、神のみ言葉を成就され、神の救いのみわざを実行される、神ご自身であられるのです。

第二には、主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。罪をゆるすことは神以外にはできません。罪は神に対するわたしたち人間の不正であり負債であるからです。それをゆるすのは神だけです。主イエスは「娘よ、あなたの罪はゆるされた。安心して行きなさい」と言われ、「子よ、わたしはあなたの罪をゆるす」と言われ、「婦人よ、わたしはあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはもう罪を犯さないように」と言われました。主イエスはまた十字架の上で、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。主イエスの地上の歩みのすべては、そして特に十字架の死は、まことの神として、神の権威とあわれみによって、人間の罪をゆるすための歩みでありました。まことの神である主イエスこそが、また主イエスだけが、わたしたち人間の罪を完全にゆるすことがおできになります。

第三に、主イエスはまた、神の権威によってガリラヤ湖の嵐を静められ、湖の上を歩かれ、多くの病める人をいやされました。不治の病と考えられていた重い皮膚病の人をいやされ、生まれつき目が見えない人の目を開かれ、悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出されました。それらの奇跡のみわざは、主イエスが神の権威によって自然を支配しておられること、神がお造りになったすべての被造物の主であられること、そしてこの世の人間たちを悩ましているすべての悪霊、悪しき力をご自身の支配下に置かれ、新しい神のご支配、神の国を来たらせる神のみ子であられることを証ししています。

第四に、主イエスは十字架の死によって、ご自身が神のみ子としての罪も汚れもない清い血、尊い血を流され、その血をわたしたちすべての人間の罪の贖いのための供え物としておささげになり、それによってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったということです。旧約聖書時代には、エルサレムの神殿で、聖別された動物の血がイスラエルの民の罪を贖うためにささげられていました。しかし、それは人間の血の代用品であるゆえに、不十分な贖いでしかありませんでした。そのために、エルサレムの神殿では毎日繰り返して動物の犠牲がささげられていました。

ただ、神のみ子であられ、まことの神であられる主イエス・キリストの聖なる血だけが、すべての人の罪を永遠に贖う力を持っているのです。まことの神であられる主イエス・キリストの十字架こそがわたしたちの唯一の、そして完全な救いなのです。わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、信じることによって、罪ゆるされ、救われるのです。まことの神であられる主イエス・キリスト以外には、わたしたちの救いはありませんし、どこかほかの場所に、ほかの人に、救いを求める必要もありません。

第五に、主イエスは十字架の死の後、三日目に墓から復活され、そして40日目に天に昇られました。今は父なる神の右に座しておられます。『使徒信条』の中で「全能の父なる神の右に座しておられます」と告白されています。主イエスは罪と死に勝利され、天に凱旋帰国されました。それによって、まことの神であられることを最終的に証しされたのです。主イエスは今もまことの神として、天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちのために執り成しをしておられます。そして、終わりの日に、最後の審判の時には、わたしたちひとり一人の弁護人となって、わたしのかたわらに立ってくださり、わたしを神のみ前で義なる者と認めてくださり、わたしのすべての罪と重荷と労苦とを取り去ってくださり、朽ちることのない永遠の命を与え、神の国へと導いてくださるのです。まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストが最後の日にこの地に再臨され、神の国を完成させてくださることを、わたしたちは希望と喜びとをもって待ち望むのです。

まことの神であられる主イエスは、また同時にまことの人であられます。主イエスがまことの人であられたということも、聖書の至るところで証言されています。主イエスはマリアからお生まれになりました。布でくるまれ、飼い葉おけの中に寝かされました。12歳の時、両親と一緒にエルサレムで過ぎ越しの祭りに参加されました。30歳の時、神の国の福音を宣べ伝えるために家を出られました。それからおよそ3年後、ユダヤ人指導者たちによって裁判にかけられ、十字架で血を流され、死なれ、墓に葬られました。主イエスは誕生から葬りまで、わたしたち人間と全く同じ道を歩まれました。

ヘブライ人への手紙4章15節には、「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と書かれてあり、またペトロの手紙一2章22節では、イザヤ書53章9節のみ言葉を引用して、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とあり、そしてコリントの信徒への手紙二5章21節では、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と教えられています。

神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となってくださったのです。神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となられ、しかもすべての罪びとたちにお仕えくださる僕(しもべ)・奴隷となられて、苦難と十字架の死の道を進まれたのです。それゆえに、まことの神であられ、まことの人であられる主イエス・キリストによって、わたしたちはみな罪ゆるされ、救われるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、愛してくださり、あなたのひとり子の十字架の血によって救ってくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたに愛され、救われているひとり一人として、あなたと隣人とに仕える者となりますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月26日説教「岩の上に家を建てた人」

2021年9月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編118編19~28節

    ルカによる福音書6章43~49節

説教題:「岩の上に家を建てた人」

 ルカによる福音書7章43節~45節の、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実しか結ばないという比喩を、主イエスはいろんな文脈の中で語っておられます。マタイ福音書7章16節以下の「山上の説教」では、偽預言者を見分ける際の基準として語っておられます。偽預言者は人々に好まれ、歓迎される預言を語るが、その心の中では神の真理に仕えるのではなく、自分の誉れや利益を求めていて、羊の皮を身にまとった貪欲な狼であるということを見分けなさいと教えておられます。また、マタイ福音書12章33節以下では、罪と悪に染まっている人間の心の中からは悪い言葉だけしか出てこないということを教える比喩として、悪い木とそれが結ぶ悪い実のことが語られています。きょう学んでいるカ所でも、45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と言っておられますから、心の中から出る言葉について教えているように理解されます。

 そこで、わたしたちはこのカ所をより深く理解するために二カ所の聖書に目を向けてみたいと思います。その一つは、ヨハネ福音書15章のぶどうの木とその枝についての主イエスの説教です。主イエスはそこでこのように教えておられます。「わたしはまことのぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。あなたがたがわたしにつながっておれば、豊かに実を結ぶことができる。わたしにつながっていなければ、あなたがたは自分では何の実をも結ぶことはできない」(1~6節参照)。

 主イエスはここで二つのことを教えておられます。一つは、わたしたち人間はだれもがみな罪に汚れており、その根が腐っており、その枝が枯れていて、自分では少しも実を結ぶことができないということ。もう一つは、わたしたちの救い主であられる主イエスにつながって、主イエスから罪のゆるしの恵みをいただき、主イエスのみ言葉と聖霊とによって新たに再創造される時に初めてわたしたちは豊かな実を結ぶことができるということです。

 参考にしたいもう一カ所は、ローマの信徒への手紙11章17節以下です。使徒パウロはそこで異邦人の救いについて語っています。神に選ばれなかった野生のオリーブの木であった異邦人が、選ばれたオリーブの木であったイスラエルが不信仰のゆえに折り取られてしまったあと、その代わりに接ぎ木されたのであるから、あなたがた異邦人は神の救いにあずかるようになったことを決して誇ることはできないとパウロは言っています。

 これらのカ所を参考に、きょうのルカ福音書7章の主イエスの教えを理解することができます。主イエスはここで、人間はだれもみな悪い実しかつけることができない悪い木であって、その心の中は邪悪と罪で満ちていて、口から出る言葉も、手や足の行動も、悪と罪でしかない。それゆえに、人間は自らの力では良い実をつけることは全くできない。その心の中が完全に洗い清められなければ、良い言葉は出てくることはないし、主キリストに接ぎ木されなければだれも良い実を実らせることはできない。主イエスはそのことを木と実という比喩で語っておられるのです。

 16世紀の宗教改革者たちが言ったように、わたしたち人間は全体が腐敗しており、全的に堕落しており、主イエス・キリストの十字架の死によって古いわたしが完全に葬られ、そして主キリストの復活によってわたしが新しく造り変えられなければ、神のみ前で生きたわたしになることはできないのです。主キリストに接ぎ木され、主キリストと聖霊から新しい命を注ぎ込まれてはじめて、わたしは生きた人間とされるのです。そのようにして、わたしの心は主キリストの十字架の血によって洗い清められ、神をほめたたえる賛美の歌を歌い、隣人を生かす愛の言葉を語ることができるのです。

 1563年に、宗教改革の一つの実りとして制定された『ハイデルベルク信仰問答』では、わたしたち罪びとである人間はただ信仰によってのみ神のみ前に義とされ、救われる、と教えたあとで、64問で「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人が感謝の実を結ばないことなど、あり得ない」と強調しています。宗教改革は人間の完全な堕落を強調しましたが、同時に、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって義とされ、一方的な神の恵みによって救われた人間は、主キリストに接ぎ木され、主キリストから恵みと養分とを受け取り、大きな喜びをもって感謝の実を結ぶようになるということをも強調しているのです。

 次の46節からの岩の上に家を建てるたとえは広く知られています。けれども、これを正しく理解することはそれほど容易ではありません。まず、主イエスを「主よ、主よ」と呼びながらも、主イエスの言うことを行わない人とはだれを指しているのか、どのような人のことかがはっきりしません。主イエスを政治的なメシアと考え、イスラエルをローマの支配から解放する指導者であると期待して集まってきた人たちのことか、あるいは、主イエスの奇跡や病気のいやしだけを求めてきた人たちのことか、ここではっきりと決めることはできません。

それから、主イエスはここで、ただ聞くだけで、聞いたことを実行しない人たちを非難しているので、聞くことよりも実行することの方が重要だと簡単に結論づけてよいかどうか。あるいは、口先で信仰を告白しても、信仰の実践が伴わなければ、それは土台がない信仰であって、実践こそが大切なのだ。だから、愛の実践をすることによってこそ人は救われる、と結論づけてよいかどうか。そのことが大きな問題になります。

聖書を読む場合にはいつでも、どの個所でもそうなのですが、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音の光の中でこのカ所をも読まなければなりません。主イエスが語られたみ言葉の説教と主イエスなさったみわざのすべては、彼の十字架の死と復活を目指しており、またそれによって最後の目的に達し、完成するからです。

47節で主イエスは、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」こそが岩の上に土台を据えて家を建てた人であると言われます。「主イエスのもとに来る」「主イエスのみ言葉を聞く」そして「それを行う」、この3つのことが連続し、つながっていることが大切なのです。しかし、49節で言われているように、「聞いても行わない人」は土台なしで家を建てた人であり、その家は水があふれるとすぐに流されてしまうと言われています。主イエスのみ言葉を聞くこととそれを行うことが連続していることによって、わたしたちの信仰の歩みが確かにされ、どのような試練や困難にであっても決して揺れ動くことないと主イエスは教えておられます。

では、47節で言われている三つのことを見ていきましょう。第一は、主イエスのもとに来ることです。わたしたちがどのような大洪水が押し寄せてきても揺り動かされない堅固な家を建てるためには、まず主イエスのところに行かなければなりません。これが第一の重要なポイントです。自分の知恵や力で、自分の好みに合わせた家や、この世の目から見て豪華な家を建てるのではありません。また、富や財産、この世的な幸いを土台として家を建てるのでもありません。主イエスご自身が堅い岩、土台となってくださいました。主イエスは家を建てるために最も重要な隅の親石となってくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストという大きな堅い岩を土台とした家を立てなければなりません。人となってこの世に来られた神のみ子であられ、神の言葉、神の真理、神の義であられる主イエス・キリストのもとに行き、主イエスとの出会いを経験することによって、どんな嵐や洪水にも揺れ動かされない堅固な家を建てることができるのです。

第二には、主イエスのみ言葉を聞かなければなりません。主イエスの十字架と復活の福音を聞かなければなりません。主イエスはわたしの救いのために必要なすべてのみわざをすでに成し遂げられ、わたしを罪と死と滅びから解放してくださっておられることを聞き、信じることによって、わたしのすべての罪がゆるされ、神との生きた交わりへと招き入れられます。その神との生きた交わりの中で、神がわたしに必要なすべてのものを備えてくださり、わたしが進むべき道を示し、その道へと日々導いてくださり、終わりの日にはわたしを来るべき神の国へと招き入れてくださるという固い約束に生きることがゆるされるのです。ここにこそ、わたしの揺るがない堅固な信仰の道があります。

第三には、主イエスのみ言葉を行うことです。ここで「行う」とは、人間が何かの行動を起こすとか、信仰と実践とを区別して、信仰よりも実践の方が重要だという意味での「行う」ではありません。主イエスのみ言葉を聞いて行うのですから、主イエスのみ言葉を信じ、それに信仰をもって服従するということにほかなりません。主イエスのみ言葉を聞いても行わないのは、そもそも信仰がないからです。主イエスのみ言葉を聞いて信じ、服従する人は、そのみ言葉によって生きる人となります。主イエスのみ言葉の証し人として、主イエスのみ言葉に生きることを喜びとします。それは具体的に言うならば、礼拝と祈りの生活です。主イエスの救いの恵みに常に心からの感謝をささげ、主の日ごとの礼拝を重んじ、また主イエスのみ心を信じて日々に祈り、そのようにして、わたしたちの信仰の道はこの世の荒波の中にあっても決して揺らぐことなく、確かな目標に向かって前進していくことができます。主イエスご自身がその道の先頭を行かれ、わたしをその道へ導かれるからです。

最後に、もう一つのことを確認しておきましょう。岩の上に家を建てた人にも洪水は襲うということです。主イエス・キリストを信じるということは、災いや試練に会わないで済むという保証ではありません。いやむしろ、信仰を持たない人たちよりも多くの苦難や厳しい信仰の戦いを強いられるでしょう。たとえそうであるとしても、主イエスはわたしたちを固い岩の上に立たせてくださいます。わたしたちの足を支えてくださいます。主イエスのもとに来て、主のみ言葉を聞き、それを行う信仰者はどのような洪水や嵐や荒波が押し寄せてきても、固く立ち続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちは迷いやすく、つまずきやすく、またすぐに疑いの雲に覆われて、失望する弱い者たちです。またある時には、自分の力に頼り、傲慢になり、あなたへの恐れを忘れてしまう不信仰な者たちです。どうぞ神よ、そのような揺れ動くわたしたちを、あなたが強いみ腕をもって、固く支えてください。あなたのみ言葉がわたしたちの唯一の救いであり、命であり、希望であることを固く信じさせてください。

〇病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、孤独な人たち、生きる希望を失いかけている人たちを、主よどうか顧みてください。あなたが近くにいてくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月19日説教「ソドムとゴモラの滅亡とロトの救い」

2021年9月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記19章1~29節

    マタイによる福音書24章15~22節

説教題:「ソドムとゴモラの滅亡とロトの救い」

 創世記9章にはイスラエルの塩の海・死海の底に沈んだと考えられている邪悪な町ソドムとゴモラの滅亡のことが描かれています。伝説では、大きな地殻変動と火山活動が起こって、ソドム・ゴモラの町々は死海の底に沈んだとされています。この異常な出来事は人間の罪と悔い改めることをしなかったかたくなさに対する神の厳しい裁きの実例として、旧約聖書と新約聖書の中で何度も繰り返し語り伝えられていくことになりました。申命記29章22節では、イスラエルが神の約束の地カナンに入ってから、もし彼らが神との契約を破り、神の律法に背くことを行うならば、神の裁きを受けるであろうと言われ、こう書かれています。「全土は硫黄と塩で焼けただれ、種は撒かれず、芽は出ず、草一本生えず、主が激しく怒って覆されたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェポイムの惨状と同じになるであろう」と。また、預言者たちもしばしばこの出来事について言及しました。【イザヤ書1章7~10節】(1061ページ)。新約聖書ではルカによる福音書17章28節以下にこのように書かれています。【28~30節】(143ページ)。

 このように、聖書ではソドムとゴモラの町々に起こったことが、罪を悔い改めることをしない人間のかたくなさや邪悪さに対する神の厳しい裁きの実例として代々に覚えられ、戒めとして繰り返して語られてきました。それによって、わたしたちが自分の罪の姿に目をつぶることなく、直ちに罪を悔い改めて神に立ち返ることを勧めているのです。また、わたしたちが主キリストの再臨と終わりの日の神の最後の審判に備えて、いつも目覚めているべきこと、そして神の救いへの招きのみ言葉に耳を傾けているようにと勧めています。

Remenber Sodom!(ソドムのことを忘れるな)とのみ言葉を、わたしたちは繰り返し聞かなければなりません。それと同時に、Remenber Jesus Christ! 「主イエス・キリストの救いの恵みを忘れるな」とのみ言葉を、絶えず、繰り返して、聞き続けなければなりません。

 19章1節に、「二人の御使いが」とありますが、18章2節でアブラハムのテントを訪れた三人の旅人のうちの一人は、18章16節以下によれば、アブラハムと話していましたので、あとの二人が先にソドムについたということのようです。この三人は神から遣わされた神の使い、神ご自身のことです。彼らはソドムとゴモラの罪がはなはだ重いので、その現状を実際に調査するためにやって来ました。

 ロトはアブラハムから分かれてソドムに移り住んだことが13章に書かれていました。彼はすでにこの町の住民の一人になって、町の門の入口に座っていたとあります。古代の町は敵の攻撃を防ぐために城壁で取り囲まれていました。門の前は広場になっており、そこでは商売や集会などが行われていました。ロトはそこで二人の旅人を出迎え、彼らをあつくもてなしたことが1~3節に書かれています。

 ロトはアブラハムと別れてこの地に移住してきましたが、アブラハムと同様に神に選ばれた約束の民の一人であったことをまだ忘れてはいなかったようです。罪と悪に染まっていたソドムの町の住民に囲まれながらも、彼はアブラハムと同じように旅人を親切にもてなす愛を忘れてはいませんでした。ロトはこの時点では二人の旅人が神のみ使いだとは気づいていなかったようですが、彼らが門の広場で野宿するからとロトの招きを断った時、彼らに危害が及ぶことを察して、強いて彼らを自分の家の中に招きいれています。旅人を大切な客人としてもてなす礼儀を忘れず、また彼らをあらゆる危害から守ろうとする強い思いがロトにはありました。旅人に対するこのような愛の思いは、このあとロト自身の身に危険が及びそうになっても決して変わりませんでした。

 次に4~8節を読んでみましょう。【4~8節】。5節で「なぶりものにしてやる」と訳されている言葉は、本来「知る」という意味です。知るとは性的な関係をも意味します。「アダムは妻エバを知った、彼女は身ごもりカインを産んだ」と創世記4章1節に書かれています。ソドムの男たちが旅人を知るとは、男色のことです。この町の男たちは若い人も年寄りもみな男性の同性愛者であったのです。そして、彼らは町にやってきた男の客人を見ると、みんなで寄ってたかって襲おうとしているのです。これがこの町の最も邪悪な罪の現状であったのでした。のちに、英語の男色を意味するsodomyという言葉はこの町の名前から造られました。

 ロトは性的な危害から旅人たちを必死で守ろうとしています。それは、信仰的な行為であったと言えますが、そのために自分の娘を犠牲にして町の男たちに差し出すということがゆるされるかどうかは疑問です。でも、このことについてはこれ以上論じる必要はないと思われます。というのは、あとで神ご自身が解決の道を備えてくださることになるからです。

ロトには旅人を危害から守る義務があります。しかしまた、自分の娘たちに対する愛がなかったということもあり得ません。ロトは試練に立たされています。アブラハムと別れて、肥沃な低地であったこの地を選んだロトが、邪悪に染まっているこの地にあって苦悩しています。それは、ロトが自分で選んだ道であり、いわば自業自得だとわたしたちは言うべきでしょうか。

 ところが、ロトにとって思いもかけない驚くべき事態が起こりました。ロトが必至になって旅人たちを守ろうとし、そのために自分の娘を犠牲にしなければならないと決断したその時に、彼と娘たちは逆に旅人たちによって守られることになるのです。

 【10~13節】。13節で、初めてロトは二人の旅人が神の使いであったことを、また彼らがなぜこの町を訪れたのか、その目的を知らされました。ロトは神の使いだとは知らずに、彼らをもてなし、彼らを危害から守り、神にお仕えしていたのでした。そして、今度は神によって邪悪なソドムの男たちから守られることになったのです。ロトは彼自身と彼の家族を自分の力で守らなければならないのではありません。主なる神こそがロトと彼の家族の唯一の救い主であられます。主なる神がこの町の大きな悪と罪の叫びを聞かれ、この町を滅ぼされます。そして、主なる神がこの町の滅びの中からロトを救い出されます。ロトはその神のみ言葉を聞かなければなりません。神の招きのみ言葉に聞き従わないで、住み慣れたこの町の市民権を選ぶのか、それとも神のみ言葉に聞き従い、この町を捨てて神の国の市民権を選び取るのか、決断しなければなりません。

 けれども、ロトは自分ではそのいずれを選び取るかの決断をすることができませんでした。【15~17節】。ロトはこの町から離れることをためらっていました。彼はソドムの肥沃な土地を選び、この町の住民となり、家を建て、家族を養い、財産を増やしてきました。二人の娘たちもこの町で結婚しています。今この町を捨てて、神のみ言葉に聞き従うべきか、彼は迷っています。彼はこの世のものに縛りつけられています。それが滅びに至る道であると告げられても、それらを捨て去ることをためらっています。

 しかしまたここでも不思議なことが起こります。決断できずにためらっているロトと妻と二人の娘を、神ご自身が二人の旅人によって町の外に連れ出させたのです。神による強行手段です。神は弱く迷っているロトを救うためにこのような大きな力を発揮されます。

 16節に、「主は憐れんで」と書かれています。ソドムとゴモラに対する神の厳しい裁きとその滅びの中からロトが救い出されたのは、ただ神の憐れみによることです。迷っているロトの手を直接つかみ、いわば力づくで、その強いみ手の力で、神はロトを救われました。神の憐れみはこのような強い力となって働くのです。

 ロトに対する神の憐れみはなおも続きます。「滅びから救われるために山へ逃れなさい」と命じた神に対して、ロトは山まではたどり着くことができないので、近くの小さな町へ逃れさせてくださいと懇願します。神はこのロトの願いをも聞き入れられ、近くの町ツォアルに着くまではこの地を滅ぼすことはなさらないと約束されます。

【21~26節】。ロトがソドムとゴモラの滅びから救い出されるためには、この地との別れが必要でした。神のみ言葉に聞き従い救われるためには、それまでに頼っていたものを棄てなければなりません。ロトはこの地で築き上げてきたすべての財産、生活の基盤、ソドムから出ることを好まなかった嫁いだ娘たちとその夫、それらのすべてと別れなければなりませんでした。これからは、神のみ言葉の導きによって生きるようになるためです。しかし、神の約束を途中で疑った妻は後ろを振り返り、残してきた地上のものに心を奪われたために、塩の柱となりました。ロトは長く連れ添ってきた妻とも別れなければなりませんでした。

でも、わたしたちはここでもう一つの神の恵みをも知らされます。ロトが二人の旅人を危害から守るために犠牲として差し出そうとした未婚の二人の娘たちはロトと一緒にこの滅びから救い出されています。そして、30節以下では、彼女たちはイスラエルの周辺地域に住むモアブ人とアンモン人の先祖になったと書かれています。ロトと二人の娘たちは神に選ばれた民からは外れることになりましたが、なおも神によって用いられたと言えるでしょう。

最後に、わたしたちはもう一度このように声を合わせたいと思います。Remenber Sodom! そして、Remenber Jesus Christ! わたしたちは神の厳しい裁きを忘れてはなりません。自らの罪を悔い改めて、神に立ち返ることをためらってはなりません。この世のことに心を奪われて、後ろを振り返ってはなりません。常に、絶えず、主イエス・キリストを見上げ、その救いの恵みに心からの感謝をささげて礼拝を続け、主キリストが天に備えてくださる朽ちることのない勝利の冠を目指して走り続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、迷いとつまずきの多いわたしたちの信仰の道を、あなたが絶えず真理のみ言葉をもって導き、終わりの日に至るまで忠実に信仰の道を全うさせてください。

〇天の神よ、この世界と全人類とを滅びからお救いください。あなたが全地のすべての国民を憐れんでくださり、地のすべての王たち、支配者たちがあなたを恐れて、あなたのみ前に謙遜な僕たちとなりますように、お導きください。

〇神よ、世界にまことの平和をお与えください。互いに分かち合い、与え合い、支え合う世界にしてください。生まれた土地を追われ、住む家を焼かれ、愛する家族と引き裂かれた人々、食料や衣料を十分に受けられず、貧困と飢餓に苦しむ人々、恐れと不安と孤独の中で生きる希望を失っている人々、その一人一人に必要な助けが与えられ、あなたからの慰めと励ましとが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月12日説教「神の恵みを分かち合う教会」

2021年9月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記24章17~22節

    使徒言行録4章32~37節

説教題:「神の恵みを分かち合う教会」

 使徒言行録4章32節からは、エルサレムの初代教会の信仰生活についてまとめの報告が書かれています。同じような報告は2章42~47節にも書かれていました。この二つの報告には似通っている点と違っている点があります。この二つの報告を比べながら学んでいきたいと思います。

 まず、それぞれの報告が語られている時期ですが、2章はペンテコステの日に教会が誕生して間もなくのころ、紀元30年ころの春から夏にかけて、エルサレム教会の会員数は2章41によれば3千人余りでした。きょうの個所は、それからおそらく数か月後、4章4節によれば教会員は男の数が5千にほどに増えています。ペトロとヨハネを中心とした主イエスの12弟子の宣教活動によって、エルサレム初代教会は大きく成長しました。それは、聖霊なる神のお働きです。ペンテコステの日に聖霊によって誕生した教会は、それ以後2千年間のすべての活動もまた聖霊なる神のお導きによります。そして、わたしたちの教会、秋田教会がこの地で130年近くの歴史を歩み続けることがゆるされたのも聖霊なる神の恵みと憐れみによることです。

 では、32節から読んでいきましょう。【32節】。2章の最初のまとめの報告でもそうであったように、ここでも、信じた人々・教会員の一致、結束がまず強調されています。2章42節では、「相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」、44節では、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し」、46節以下でも、「ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まって、……一緒に食事をし」と繰り返されていました。4章32節では、「心も思いも一つにし」という表現でまとめられています。

 聖書では「心」とは、人間の感情や意志、言葉や行いのすべてが現れ出る元、それらの源泉と考えられています。「心を一つにする」とは、喜びや悲しみ、泣き笑い、祈りと讃美、奉仕と献身、神のみ言葉を聞き、神を礼拝すること、それらのすべてを信者たちが一つの信仰共同体として共有し、一緒に経験することです。また、「思い」とは、聖書では多くの場合「魂」と訳されており、人間の命、人間が生きていることを意味しています。「思いを一つにする」とは、命を共有していること、一つの命を共に生きていること、いわば生命共同体であることを言い表しています。

 初代エルサレム教会に集められた信者たちがこのような一致と共同体としての交わりが与えられていたのはなぜであったのか、その答えは、32節の冒頭にあるように、「信じた人々の群れ」であったからにほかなりません。主イエス・キリストを信じる信仰による一致です。信仰によって、彼らはさまざまな違いにもかかわらず、「心も思いも一つに」することができたのです。生まれた環境や性格や持っている能力や社会的地の違いにもかかわらず、その違いを持ちながらも、その違いをはるかに超えた主イエス・キリストを信じる信仰の恵みによって、彼らは一つの共同体とされているのです。主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、それを信じる信仰によって、共に罪ゆるされた共同体とされ、共に復活の命を生きている共同体として、共に来るべき神の国の到来を待ち望んでいる共同体として、「心も思いも一つに」しているのです。

 32節後半の「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」は内容的には34節以下に続きますので、先に33節を読みましょう。【33節】。「使徒たち」とは、主イエスと地上の歩みを共にした12弟子たちのことです。イスカリオテのユダの代わりにマティアが補充されたことが1章に書かれていました。1章22節では、彼らは「主の復活の証人」になるべきだと言われています。弟子たちは主イエスの地上でのご生涯の証人であり、十字架の死の証人であり、そして主の復活の証人となりました。

 「証人」にはいくつかの務めがあります。第一は、そのことの目撃者となることです。主イエスの地上でのご生涯と十字架の死と復活が確かに歴史の中で起こった出来事であり、世界史の中で、わたしたち人間の歴史の中で起こった事実であることを証しする務めです。主イエスの地上のご生涯と十字架の死と復活は、だれかが創作した物語ではなく、単なる思想とか教でもなく、歴史の中での出来事であることを弟子たち・使徒たちは証ししています。

第二には、彼らが見た主イエスの出来事が自分たちのための救いの出来事であると信じ、その救いの恵みによって生きるということです。主イエスの出来事はただ外から観察したり、記録したりする出来事ではなく、その出来事がわたしにとって意味を持ち、わたしの生き方を根本から変え、それまでは死に向かって進んでいたわたしが、主イエスの復活によって、新しい命に向かって進んでいくという、わたしの救いの体験となるのです。

第三には、彼らが主イエスの出来事を教会の民と全世界の民にとっての救いの恵みとして語り伝え、説教をするということです。33節によれば、使徒たちは初代エルサレム教会で説教職を担っていたと推測されます。

すでにわたしたちはこれまで使徒言行録に記録されている使徒ペトロの説教を3回聞いてきました。2章14節からのペンテコステの時の説教、3章12節からのエルサレム神殿広場での説教、そして4章8節からのユダヤ最高議会での説教、それらの3回の説教の内容は主イエスの十字架の死と復活であったということをわたしたちは見てきました。エルサレム初代教会でそうであったように、そののちの2千年の教会も同じように、主イエスの十字架の死と復活の福音を語り、聞き、信じることによって生きてきましたし、これからもそうです。主イエスの十字架の死によって罪が贖われ、救われた民として、そして主イエスの復活によって罪と死と滅びから解放され、朽ちることのない永遠の命の約束に生きる民として、わたしたちの教会は歩み続けるのです。

33節の後半は、「皆、人々から非常に好意を持たれていた」と訳されていますが、原文では口語訳聖書のように、「大きな恵みが彼ら一同に注がれていた」と訳すのがよいと思われます。「大きな恵み」とは、神から与えられた恵みと理解すべきです。神から与えられた大きな恵みによって、ひとたび十字架の主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが、再び呼び集められ、聖霊の賜物を受けて、主イエスの復活の証人として立てられました。土の器に過ぎない彼らが、主イエスの復活の証人として立てられ、永遠の命をもたらす神のみ言葉の説教者として立てられているのです。それは神の大きな恵みによることです。

また、この神の大きな恵みは32節後半と34節とを結びつける役割をも果たしているように思われます。すなわち、エルサレム初代教会に神の大きな恵みが注がれていたゆえに、教会は神の恵みで満たされ、すべての信者が神の恵みで豊かにされていたので、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」のです。

そしてさらに、教会に神の大きな恵みが与えられていたゆえに、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と34節で言われているのです。34節以下には、一般にエルサレム教会の原始共有社会とか、愛の共有制度と呼ばれたりする特徴ある共同生活が描かれていますが、そのような共有生活を可能にしている土台が、神の大きな恵みであったということをも、わたしたちはここで確認することができます。

同じような共有生活については2章44~45節にこう書かれていました。【44~45節】。4章ではより具体的に、【34節b~35節】と説明されています。神の恵みによって豊かにされている信者たちは、だれ一人自分の持ち物を自分だけに独占することなく、すべての所有欲から解放されており、またそれゆえに、だれ一人貧しくて飢えたり、不足して困窮したりする人はなく、もちろん自分の持ち物を誇ったり、他者から奪ったりすることはなく、互いに与え合い、互いに分かち合うという、愛の共同体が形成されていたのです。

エルサレム教会の愛の共有生活とはどのようなものであったのかを、ここに描かれている短い記述から正確に再現することは難しいと思われますが、いくつかのことを読み取ることができます。まず、この共有生活は一つの制度とか規則ではなかったということは明らかです。したがって、近代社会の共産制度とは根本的に違っています。エルサレム教会の信者が持っている財産のすべてが法的に個人から教会へ移されるとか、個人の所有が法的に禁止されているというのではありません。各自が信仰による自由の中で、感謝をもって神にささげられたものとして、自分の持ち物や財産を売り、その代金を教会にささげました。使徒たちはそれを、神のみ言葉の恵みをすべての人に語り、分かち与えるのと同様に、必要な人に分配しました。それはすべて信仰による交わりの中で、愛による分かち合いとして行われていました。それは、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされ、新しい命を与えられ、来るべきみ国を待ち望んでいる信仰共同体としての共有生活でした。

教会に召されている信者たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって、その尊い血の値によって贖われ、主キリストのものとされています。すべての信者に神の救いの恵みが豊かに与えられています。だれも地上の財産によって富む必要はありません。だれも自分の所有物に縛られることもありません。それゆえに、だれも乏しい人はいません。主イエス・キリストにある信仰者はすべて神の恵みによって豊かにされ、富む者とされています。それゆえにまた、主キリストにある信仰者はみな、惜しみなく与え、惜しみなくささげ、惜しみなく分かち合う信仰共同体とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが日々にあなたから与えられている豊かな恵みを、信仰の目をもって受け取り、心から感謝し、またそれを互いに分かち合う者たちとしてください。

〇天の神よ、この世の過ぎ去り、朽ちいくものを追い求めるのではなく、永遠の命であるあなたのみ言葉によって生きる者としてください。

〇神よ、深く病んでいるこの世界を憐れんでください。傷ついている人、悲しんでいる人、孤独な人、重荷を負っている人を、憐れんでください。一人一人にあなたからの慰めと励ましが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月5日説教「真の神であり、真の人」

2021年9月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「真の神であり、真の人」②

 「日本キリスト教会信仰の告白」はその冒頭で、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。この告白は、わたしたちが信じている唯一の救い主イエス・キリストは真の神であると同時に真の人であり、神と人との間に立たれる唯一の仲保者となられ、わたしたち人間を罪から救ってくださったという、キリスト教信仰の中心を言い表しています。特に、主イエス・キリストが真の神であり真の人であられることによって、その救いのみわざが完全になされたということを強調しています。別の言い方をすれば、もし主イエスが真の神であり同時に真の人でなかったなら、わたしたちの救いは不完全であり、わたしたち人間はなお罪と死の中に閉じ込められているほかなかったということです。

「真の神であり真の人」という告白は、紀元451年に制定された『カルケドン信条』の中で用いられた言葉です。この信条(信仰告白と同じ意味)は、初代教会のキリスト論論争に決着をつけ、今日に至るまでの正統的キリスト教会の信仰告白の基礎となったものです。その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

新約聖書の時代、紀元50年代から始まって、4、5世紀までの初代教会、古代教会では、イエス・キリストが神であること(神性)と人間であること(人性)とをめぐって、その両者の関係について、盛んに議論されていました。これをキリスト論論争と言います。その中で、教会はさまざまな異端的教えと戦ってきました。教会は何度か世界教会会議を招集し、その会議によって正しいキリスト教の教理を確立し、異端を退けてきました。そして、紀元451年に小アジアの北西にあるカルケドンで世界教会会議を開催し、そこでこれまでのキリスト論論争に終止符を打つべく、カルケドン信条を制定し、その中で「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」と告白したのです。

では、この告白の中身について、さらに具体的に学んでいきましょう。まず、この告白の全体としての意味について、二つのことを確認しておきたいと思います。一つは、「真の神であり、真の人」とは、主イエスは、いつでも、どこでも、永遠に、真の神であり、同時に、真の人であるということです。主イエスはある時点では人であったが、ある時からは神になったとか、ある時点までは神ではあったが、ある時から人になった、あるいは、この時には神であったが人ではなかったとか、別の時には人であったが神ではなかった、というような考えはすべて退けられます。

たとえば、ある人たちはこう考えました。主イエスはヨセフとマリアの子として誕生し、普通の人間として大きくなり、30歳になって公の宣教活動に入られる前、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときに、天から聖霊を注がれて神となったのだと。異端者たちがそのように考えたのには、それなりの理由がありました。彼らは神の尊厳性や超越性、永遠性を守らなければならないと考えたからです。神が人間の胎内から生まれるとか、神がおむつをした赤ちゃんであったとか、乳児から幼児へ、少年、青年と時間をかけて大人になるとか、そのようなことは神にとってはありえないと、彼らは考えたからです。彼らは主イエスの神性を重視するあまり、人性を軽視したと言わざるを得ません。

また、ある人たちはこう考えました。主イエスは神であられたが、十字架につかられたときには、神であることをやめて人間となり、人間として死んだのだと。これにも理由があります。神である方が十字架につけられたときに、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのか」と、弱者の弱音とも敗北ともとれる言葉を言うはずがないし、そもそも神が死ぬなどということはありえないではないかと考えたのです。

更にこう考えた人たちもいました。主イエスは神が仮のお姿で人間のようにしてこの世に現れたのであって、主イエスの誕生もご受難も十字架の死も仮の現象であったに過ぎないと。これらはいずれも、主イエスの神性を守る意図から人性を軽視するものですが、その反対に、主イエスの神性を否定して、人生を強調する考えもありました。

けれども、教会はそれらのすべてを異端として退け、主イエスが誕生から十字架の死に至るまで、さらには昇天されたのちも、常に、絶えず、永遠に、真の神であり同時に真の人であられたという告白を貫き通しました。

聖書に描かれているように、主イエスがおとめマリアから誕生されたときも、12歳で家族と一緒にエルサレム神殿で神を礼拝されたときも、30歳になられ公の宣教活動を始められる際に、荒れ野でサタンからの試みにあわれたときも、ガリラヤで「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、宣教の第一声を発せられたときも、ガリラヤ湖で嵐を静められたときも、ゲツセマネの園で血のように汗を滴らせながら徹夜の祈りをささげられたときも、そして、十字架の死の時も、墓に葬られたときも、三日目に墓の中から復活されたときも、40日目に天に昇られたときも、また今、天の父なる神の右に座して、わたしたちのために執り成しをしていてくださるときも、主イエス・キリストは真の神であり、真の人であられる、これがわたしたちの信仰です。

もう一つ確認しておくべきことは、「真の神であり、真の人」の「真の」という言葉は、「完全な」とか「全体として」という意味を含んでいるということです。つまり、主イエスはその半分が神で、半分が人であるというのではなく、また頭が神で、手や足は人間というのでもなく、あるいは心とか魂は神であるが、肉体は人間であるというのでもありません。その全ご人格が、そのお体も心もすべてが、全体が、完全に神であり同時に完全に人であるということを意味しています。

では次に、なぜ主イエス・キリストは「まことの神であり、まことの人」でなければならないのかを、別の側面から考えてみましょう。結論から言えば、説教の初めにもお話したように、もしそうでなければ、わたしたち人間の救いが完全ではなくなるからです。つまり、「真の神であり、真の人」であり、神と人との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間を完全に罪から救い出すことがおできになるということです。

教会はキリスト論論争が一段落した紀元5世紀以後も、さまざまな異端的な教えに悩まされ、それらと戦いつつ、正統的なキリスト教教理を確立するための努力を惜しみませんでした。そのような神学者の一人、紀元11世紀のカンタベリーの大主教アンセルムスは、『カルケドン信条』で告白されたキリスト論を論理的に深めた論文、ラテン語で『クール デウス ホモ』、日本語訳では『なにゆえに、神は人となられたか』という著書を著しました。この書では3つの段階に分けて論を進めています。

第一は、人間は神に対して罪を犯したために、その罪を償う責任を負っている。けれども、人間は神に対して罪を償う能力がない。第二は、神だけが罪を償う能力をお持ちであるが、神はご自分が罪を犯したのではないので、罪を償う責任がない。第三は、それゆえに、この二つのことを同時に満たすことができるのは、人間であって同時に神である方以外にはない。すなわち、「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間の罪の償いを完全に成し遂げ、罪から救い出すことがおできになる。そのために、神は人間となられたのだ、とアンセルムスは説明しました。

16世紀の宗教改革の時代、このアンセルムスの説をさらに深めたのが、1563年に制定されたハイデルベルク信仰問答です。その15問から18問で、神と人間との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストが、真の人となられてわたしたち罪びとが受けるべき神の裁きを代わって受けてくださり、また同時に、真の神として完全な服従と献身によってわたしたちの罪の償いを完全に成し遂げてくださったと教えています。わたしたちの教会はこの信仰を受け継いでいます。

では次に、「真の神」という告白について聖書から聞いていきましょう。詩編2編は、主イエスの到来を預言するメシア詩編と言われています。7節に、「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ』」と書かれています。このみ言葉は、新約聖書の多くの箇所に引用されています。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時に天から聞こえたみ声として、高い山の上で主イエスのお姿が光輝いたときの天からの言葉として、また使徒言行録13章のパウロの説教の中でなどで、主イエスが神のみ子であり、神の救いのみ心を行われる真の神であるということを証ししています。主イエスはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であられ、真の神です。

新約聖書では、至るとこところで、主イエスが神のみ子であり、神と等しい方であることを語っています。主イエスは誕生の時から十字架の死に至るまで、また三日目の復活と40日後の昇天、父なる神の右に座しておられる今に至るまで、そして、終わりの日に再び天から降りて来られ、神の国を完成される時まで、真の神であられます。

ルカによる福音書1章30節以下では、まだヨセフと結婚していなかったおとめマリアの胎内から生まれる子が、いと高き神のみ子であるということが繰り返して語られています。そのみ子は、人間の営みによらず、神から注がれる聖霊のみ力によって、全能なる神のみ力によってマリアの胎内に宿った神のみ子です。この神のみ子なる主イエスによって、神はご自身の救いのみわざを完全に成就されるのです。

ここで注意すべきことは、主イエスは誕生の時から完全に神であられたということです。人間が大人になって次第に成長し、悟りを開いて神になるというのではありません。あるいは、死んでから神になるというのでもありません。いと高き天におられる神が、地に降って来られ、人間のお姿をとって、この世においでくださったということなのです。ヨハネによる福音書1章14節ではそのことを、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言い表しています。神はご自身を低くされて地に降って来られ、人間となられました。聖なる神が地の罪びとたちの中に、罪びとの一人としておいでになったのです。永遠なる神が、地の滅びるべき人間の中にお住まいになり、そのようにしてわたしたち人間と共にいてくださる神となられ、わたしたち人間を愛してくださり、罪から救い出してくださったのです。「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストにこそ、わたしたちの救いのすべてがあるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがこの地を顧みてくださり、この地に住むわたしたち罪びとを愛してくださり、あなたのみ子・主イエス・キリストによって全人類の救いのみわざを成し遂げてくださったことを感謝いたします。どうぞ、暗黒の地に住む世界の民を主イエス・キリストの福音によって照らしてください。

〇天の神よ、あなたに選ばれて信仰へと召された教会の民が、この福音を携えて、全世界へと遣わされ、世界の人々に救いと和解を宣べ伝えることができますように。どうか、教会の民を強め、教会に集められているわたしたち一人一人を希望と喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月29日説教「裁きではなく、ゆるしを」

2021年8月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    ルカによる福音書6章37~42節

説教題:「裁きではなく、ゆるしを」

 ルカによる福音書6章20節以下で、主イエスが教えられた「平地の説教」を続けて学んでいます。27節~36節では、愛することについて、特に、わたしの敵をも全く無条件で愛する特別な愛について教えられていました。きょうの礼拝で朗読された37節からは、ゆるしについて、裁くのではなく、人をゆるし、人に与えることについて教えられています。愛とゆるし、この二つはキリスト教の教えの大きな特徴です。キリスト教は「愛の宗教である」とよく言われますが、より正確には、「愛とゆるしの宗教である」と言うべきでしょう。

 その際に、わたしたちが第一に確認しておくべきことは、聖書が語る愛とゆるしは、その起源、その土台、またその目標は、主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしたちに示された神の愛とゆるしにあるということです。神の愛とゆるしこそがわたしたちの愛とゆるしの起源、土台、また目標であるということです。

 そのことを語るみ言葉が、前回読んだ35節後半~36節です。【35節c~36節】。いと高き天におられる父なる神が、すべての人に対して、神から離れていた罪びとにも、神に背いていた悪人にも、情け深く、憐れみ深く、愛に満ちたお方であり、すべての罪をおゆるしになる神であられるから、そしてわたしたち一人一人が、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、その神の愛とゆるしにあずかっているのだから、さらにはまた、わたしたちも愛とゆるしへと招かれているのだから、主イエスはここで「あなたの敵を愛しなさい」と命じ、「人を裁くな、ゆるしなさい」と命じておられるのです。

 ここで確認しておくべきもう一つの重要な点は、神の憐れみを受けているわたしたちが、その神の憐れみを手本にして、それを真似て、わたしもまた憐れみ深くなることができるということではなくて、そこには神の憐れみによる人間の罪のゆるしと新しい人間の再創造があるということをとらえておくことが重要です。わたしたち人間はみな無慈悲で、自己中心的で、愛も思い遣りもない、罪多い者たちです。そうでありながら、神の大きな憐みによって神に愛されており、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされているのです。わたしたちはすでに神に愛されている者たちとして、すでに神によって罪ゆるされている者たちとして、「あなたの敵を愛しなさい」「人を裁くな。ゆるしなさい」という主イエスの戒めを聞いているのです。そのような新しい歩みへと招かれているのです。

 では、37節から読んでいきましょう。【37節】。「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」、この主イエスの命令の背後には、常に自分を主と考え、自分だけは正しいとする人間の傲慢と、他の人を簡単に裁くことによって自分を防御し、自己主張しようとする人間の罪の姿があります。また、そのような人間の罪によって深く病んでおり、傷ついている現実社会があります。主イエスの時代もそうでした。主イエスは当時の宗教的指導者たちを非難してこう言われました。「あなたがたファリサイ派・律法学者たちは不幸だ。会堂では上席につき、広場では挨拶されることを好んでいる。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしない。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。そのような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と(ルカ福音書11章37節以下、20章46節以下参照)。他の人を裁き、その小さな悪をもゆるすことができず、互いに裁き合い、奪い合っている人間の罪の現実、深く病み、傷ついている社会の現実、それは主イエスの時代から2千年を経た今も変わりません。

 そのようなわたしたちに向かって、主イエスは「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」とお命じになります。そして、その命令のあとには、「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」という約束を語っておられます。後半の約束の個所はすべて受動態です。「裁かれない」「罪びとだと決められない」「ゆるされる」。この受動態の文章の意味上の主語は神だと考えられます。聖書の中で、意味上の主語が隠されている受動態の文章は数多くありますが、そのほとんどは神が主語と考えられています。つまり、「あなたがたは神によって裁かれない」「あなたがたは神によって罪びとだと決められない」「あなたがたは神によってゆるされる」という主イエスの約束がここでは語られているのです。

 わたしたちはここからさらに深く主イエス・キリストの福音を聞き取ることができます。わたしたちに「人を裁くな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、父なる神によって裁かれ、それによってわたしたちが受けるべき神の裁きを取り去ってくださったのだということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも裁くべきではないし、裁く必要はないのです。

また、わたしたちに「人を罪びとだと決めるな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき聖なる方であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、罪ありとされ、十字架につけられて神の呪いを受けてくださり、それによってわたしたちを呪いから解放してくださったということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも罪びとだと決めるべきではありません。

そしてまた、わたしたちに「ゆるしなさい」とお命じになった主イエスは、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちすべての罪びとたちの罪をおゆるしになるために、ご受難と十字架への道を進み行かれました。それゆえに、わたしたちはみな罪ゆるされ、罪の奴隷から解放されているのですから、すべての人をゆるすべきであり、ゆるすことができるということをわたしたちは知らされるのです。

 次の38節も同じ形式の文章ですが、「そうすれば」のあとに多くの約束が付け加えられています。【38節】。わたしたちはここでも、「そうすれば」以下の後半に注目したいと思います。神はわたしたち罪びとたちにご自身の最愛のみ子をすらお与えくださいました。わたしたちを罪から救うために、み子を十字架の死へと引き渡されました。わたしたちは何と大きな、豊かな、尊い恵みを与えられていることでしょうか。しかも、神はその恵みをわたしの体と心の隅の隅までもいっぱいにして、あふれるほどに与えてくださるというのです。わたしが他の人に惜しみなく与えれば与えるほどに、神はわたしにあふれるほどに豊かに与えてくださると言われる主イエスの約束は、わたしを感謝と喜びに満たし、わたしをすべての欲望と自我と傲慢から解放します。奪い取るのではなく、惜しみなく与える新しい人にわたしを再創造します。

 39節と40節は、マタイ福音書では違った文脈に置かれています。39節は、マタイ福音書では15章1節以下のファリサイ派と律法学者の偽善的な信仰を主イエスが非難される文脈に置かれています。また40節は、マタイ福音書10章24~25節では、教師であられる主イエスがこの世から迫害を受けるならば、弟子である者もそれと同じ道を行くことになるであろうという文脈に置かれています。

ルカ福音書のこの個所でも、主イエスは当時のユダヤ教の偽善的な指導者たちに対する批判を含め、正しく人を導く指導者のあり方を教えておられると理解してよいと思います。わたしたちキリスト者にとっての唯一の正しい指導者は、わたしのためにご自身の命を投げ出しくださった主イエス・キリストですから、いついかなる時にも、主イエスの導きに従い、主イエスがお示しくださる道を進むことこそが、わたしにとっての救いの道であり、命の道です。主イエスに聞き従っているならば、わたしたちは滅びの穴に落ち込むことはありません。

 41節以下を読んでみましょう。【41~42節】。マタイ福音書7章1~2節では、「人を裁くな」という主イエスの戒めにすぐ続いて、3節から「目の中にある丸太とおが屑のたとえ」が語られています。つまり、ルカ福音書では7章39節と40節がその間に挿入されていることになります。

人を簡単に裁こうとし、人をゆるすことができないわたしたちは、他人の欠点や過ちにはすぐに気づき、過敏に反応しますが、自分の欠点や失敗には目をつぶろうとします。自分にはもっと大きな欠点や欠けがあるのに、それには気づかずに他の人を裁こうとします。目の中にある丸太とおが屑という、グロテスクな比喩によって、主イエスはわたしの中にある罪の大きさに気づかせようとしておられます。自分の罪に気づかず、それを認めようとしない人間の愚かさ、かたくなさを語っておられます。

 それと同時に、罪を知らず、罪を認めず、依然として罪の中にとどまり続けようとするわたしたちのために、ただお一人、罪と戦うために十字架への道を進み行かれた主イエスへとわたしたちの目を注がせます。主イエスはわたしたちの目の中にあった大きな丸太をご自身の十字架の死によって取り除いてくださいました。わたしたちが信仰の目をもってわたしの隣人を見ることができるように、そしてその隣人のためにも主イエスは死んでくださったのだということを証しするようにとわたしたちを導いておられるのです。主イエス・キリストの十字架の福音を聞いているわたしたちは、裁きではなくゆるしの道を、奪い合うのではなく与え合う道を、そして共に罪ゆるされているゆるしの共同体としての道を、共に進む者たちとされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちに与えられているあなたの大きな恵みを信仰の目を開いて受け止め、それに心から感謝し、またそれをわたしの隣人に分け与えることができますように、わたしたちを導いてください。

〇天の神よ、この世界に戦いや奪い合いではなく、和解と分かち合いをお与えください。人々の心に裁きではなくゆるしをお与えください。

〇心や体に痛みを覚えている人たち、重荷を背負っている人たち、道に迷い、不安や恐れの中にある人たち、飢えと渇きの中で泣き叫んでいる子どもたち、その一人一人に、神よ、あなたが共にいてくださり、必要な助けを与え、慰めと励ましをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月22日説教「良いことばかりではないけれど」

聖書:申命記28章1~8節

 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6~10節

説教者:日本キリスト教会神学生 田中康尋

良いことばかりではないけれど 「祝福」。この言葉を、インターネットの画像検索で検索してみる。すると、「祝福」という言葉を題名に含む、たくさんの写真やイラストが出てくる。某宗教団体の合同結婚式の写真。そこに集まる数多くの新郎新婦の、皆同じ、明るい笑顔と、その異様な光景。 地上波のテレビでは見られることのない、アニメのヒロインたちの色鮮やかな画像。タイトルは、「この素晴らしい世界に祝福を」、「いっぱいの祝福」、「祝福のカンパネラ」。 野球の日本代表、侍ジャパンのその後についてのニュース。写真のタイトルは「練習前にナインから金メダル獲得を祝福された坂本」、「侍Jの強化本部長も祝福 教え子稲葉監督は『令和の監督の采配』」。 芸能ニュースを報じる、ネットニュース。コメントを求められた、芸能人たちの写真が並ぶ。有名な俳優どうしの電撃結婚を、共演者たちが祝福したらしい。 企業広告の画像。タイトルは「結婚祝いに祝福のメッセージを電報で NTT東日本」。 祝福に関連する、無数の写真や画像が、画面を埋め尽くす。そこに見られるのは、人々の満面の笑顔、白やパステル調の明るい色の花々。世界中で、新聞の1面やテレビのトップニュースが、毎日、感染症の深刻な話題で、埋め尽くされる、その傍らで、祝福は、これまでと変わらずに、人々の間で、生まれ続けている。 さて、そのことは、私たちの身の回りに目を移してみても、同じではないでしょうか。祝福の機会は、数多くあります。お子さんや、お孫さんが、新しい命として生まれた方、入学式や卒業式を迎えられた方、ご自分やご家族が結婚をされた方、病気が良くなった方、病院から退院された方、新しい生活のステージへ迎えられた方。そうした方々が、きっと皆さんの身の回りにも、いらっしゃることでしょうし、その方々に「おめでとう」と言葉をかけたことも、記憶にあるのではないでしょうか。秋田教会では、その週にお誕生日を迎えられる方をお祝いして、その方の好きな讃美歌を皆で歌うという習慣があります。この夏、私もそれをご一緒させていただいて、とても温かい、素晴らしい祝福の場であるなあと実感いたしました。そのように、教会の中であれ、外であれ、私たちの周りに、どれほど大きな苦労や、大きな悲しみがあろうとも、それは決して、祝福される機会や、また、祝福をする機会が減ったのではないのだ、ということを、忘れないようにしたいものです。 旧約聖書も、そのことを伝えようとしています。その言葉を聞いてみましょう。「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 「町にいても」、「野にいても」。私は、朝にジョギングをしていまして、この夏期伝道実習の間も、しばしば走りました。朝7時過ぎに、この教会を出て、そこの踏切を渡って、線路沿いに北へ、というか北西になりますか、その方向へ遊歩道がまっすぐ伸びています。そこをずーっと走っていって、泉外旭川の駅を超えて、さらに走って、JR貨物の駅を過ぎたあたりで遊歩道が終わります。そこからは、北へ向かって、高速道路の北インターに向かう幹線道路の歩道を走ります。今年の夏は、特に雲一つない晴れの暑い日が多かったですから、このあたりを走っているときが、一番過酷でしたね。そして、釣り具の上州屋と、グランマートの前を過ぎて、そして南部屋敷を通り越して、ガソリンスタンドのある大きな交差点に差し掛かります。その交差点では、いつも赤信号に引っかかってしまうんですが、信号が青になって走り出して、道路を渡ると、景色が一変するんですね。一面、だーっと田んぼが広がる。その中を走るのはとても気持ちがいいんです。交通量がぐんと減って、なんといっても、風が爽やか。ですから、何とか毎回、その景色、その風にたどり着けるように、頑張って走っていました。このように、市街地と田んぼの境目、町と野の境目には交差点とガソリンスタンドがあるだけですから、もし、ジョギングではなく、車で通るならば、この境目には、ほとんど気づくことなく、通り過ぎてしまうことでしょう。 「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、一説によれば、旧約聖書、申命記が記された時代よりも前から、人々の間で語り伝えられていた、いわば「民間伝承」のようなものではないか、と考えられています。その時代、「町」と「野」の境目は、もちろん、信号とガソリンスタンド1つを挟んで、のどかな田んぼが広がる、といったものではありませんでした。町、今でいうと小都市くらいの規模ですが、町と呼ばれるのは、城壁でぐるっと囲まれ、敵から守られた地域のことです。どうして、町の外に、そこまで警戒の目を向けるのか、と思われるかもしれません。それは、この時代にはそもそも国境の警備がされていないので、町の城壁の前まで外国の軍隊が攻め込んでくることが、普通にあったからです。旧約聖書の物語の中でも、例えば、イスラエルの軍隊がいわゆるカナン地方のある町を包囲したり、反対に、外国の軍隊がエルサレムを包囲したりする、というエピソードがあるのを、ご存じの方がいらっしゃるかと思います。そのように、町の城壁の手前までは、敵が簡単に来られてしまうのです。したがって、城壁の外側、「野」にあたる地域は、大変危険です。一歩でも町から野に出れば、身の安全は保障されません。町と、野では、城壁を隔てて、まったく別の世界が広がっているのです。城壁の中では、人々が日々、安心して、商売をしたり、買い物をしたり、あるいは、料理を作って、友人たちと語り合いながら食事をしたり、家族と楽しく過ごしたりする。一方、城壁の外では、人々が身の危険を感じつつ、荒涼とした土地で、僅かな作物が育てられる。時には、そこは、攻め込んできた敵たちに踏み荒らされる場となる。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、そのように考えてみると、なかなか信じがたいことを言っている、ということが、感じられると思います。「町」と「野」という、全く違った2つの世界、2つの状況を目の当たりにしながら、それでも、聖書のこの言葉は、その両方の中に神の祝福があるのだ、と訴えています。町の中では、人々が路地を行き交い、そこには日々、素敵な出会いや、美味しい食事や、お酒や、大きな仕事の成功や、新しい子どもの命の誕生といった、多くの喜ばしい出来事があります。そのような出来事を経験した人は、周りの人たちから「おめでとう」と祝福の言葉をかけられ、誰の目にも明らかな祝福の雰囲気と、喜びの場が、そこに生まれることでしょう。一方、城壁の外、野で「おめでとう」という言葉を聞くことは、ほとんどないでしょう。そもそも、そこには、言葉を掛け合うほどたくさんの人はいませんし、ましてや、親戚や友人に会うことは、滅多にありません。畑の作物が多めに採れたり、家畜の子が生まれたりすることは、たしかにあるかもしれません。しかし、それらの、野で起きた出来事に対して言われる「おめでとう」という言葉の数は、町の中での、人間どうしの結婚や、赤ちゃんの誕生のときに言われる「おめでとう」という言葉の数よりも、はるかに少ないに違いありません。ですから、「おめでとう」という祝福の言葉に関して言うならば、町の城壁の外側、つまり、「野」と呼ばれる地域は、祝福の少ない地域、祝福の空白地帯であると言えるでしょう。 私が先月、7月の初めに夏期伝道に来た頃、駒井牧師の車に乗せてもらって秋田市の郊外に出ますと、田んぼが一面に広がっていて、まだ膝下ぐらいの長さの稲が、青々と茂っていました。それが、最近、また郊外に行くことがあって見てみましたら、稲がもう余裕で膝の高さを超えて、高く育っていて、そしてもう穂を出していて、濃い緑ではなくて、黄色がかった、黄緑色の景色に変わっていました。今年の夏は天気が良い日が多かったので、育つのが早いのかなあと思いつつ、そしてまた、秋にはたくさんのお米が獲れるんだろうなあと期待しつつ、その風景を眺めてきました。さて、もし今年、例年よりもたくさんの上質なお米が収穫されたとしたら、そのことはきっとニュースになると思います。そのニュース、その記事のタイトルには、どんな言葉が使われると思いますか?「収穫」、「豊作」、「品質」、「期待の新品種」、「価格」など、様々考えられますよね。しかし、「祝福」という言葉が、そのニュースや新聞記事の見出しに使われることは、おそらくないと思います。芸能人の結婚や、スポーツの優勝のニュースなどで、毎日のように生み出され、毎日のように目にされる「祝福」という言葉は、町の外の出来事、田んぼで確かに起こっている、稲の生長という出来事については、使われることはありません。城壁が町の中と外を分け隔てていた聖書の時代にも、そして、交差点1つで郊外の田んぼに繋がっている現代にも、どちらも同じように、祝福の言葉が多く聞かれる場所と、そうではない場所があるのです。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 この言葉は、そう考えてみると、町の中にも、野にも、そのどちらにも神の祝福がある、ということを超えて、さらに、自分の置かれた場所にかかわらず、同じだけの祝福がそこにはあるのだという確信と、決意を含んだ言葉であるように思われます。自分の置かれた場にあって、一体何が祝福であるのか。そのことについて、聖書は具体的には語っていません。それは、祝福になりうる出来事は、どこにいても、私たちの周りに無限にあること、そして、それを自分自身で見つけ出して、神の「祝福」として捉えることが大切だ、ということを、教えているのではないでしょうか。聖書はその際、面白い言い方をしていまして、「籠もこね鉢も祝福される」と言っています。籠や鉢の中身ではなくて、入れ物自体が、もうすでに祝福されているというのです。その祝福された籠に、何が入ってきたとしても、丸ごと全部、祝福されることが決まっている。その籠に何を入れるか、それは自分自身で決めなければならないでしょう。さあ、あなたは今日、何をその籠に入れるでしょうか?

(執り成しの祈り) すべて良きものの源である神様、あなたによって形作られ、命を与えられたすべてものと共に、祈り求めます。あなたの祝福が、すべての人に及びますように。感染症の拡大に対応するために働く、医療関係者の方々や、様々な決断をしなければならない方々に、あなたからの祝福と助けが豊かに与えられますように。不安と期待の中で新学期を迎える子どもたちに、そして、家族や親戚、友人と会うことが困難な中で暮らす、高齢の方々に、あなたからの豊かな祝福が届きますように。私たちが、キリストの愛に倣って、互いに助け合い、仕え合う者とされますように、その道を示してください。イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。