4月19日説教「わたしたちの本国は天にある」

2020年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの本国は天にある」

 フィリピの信徒への手紙3章17節で、この手紙の著者である使徒パウロは次のように勧めています。【17節】。「自分に倣う者になりなさい」というこの勧めは、いかにも傲慢で、大胆であるように思われます。わたしたちの多くは、「わたしのようになってください」とか「わたしを模範にしてください」と、だれかに勧めるにはあまりにも多くの欠点や未熟さを持っていることを知っています。むしろ、「この点はわたしの真似をしないでください、わたしのようにはならないでください」と言わなければならないことを知っています。でも、パウロはよっぽど自信家で、あるいは立派な人間だと自負して、「みな、わたしに倣え」と言っているのでしょうか。いや、おそらくそうではないと思います。では、どのような意味でパウロはこのように言うのでしょうか。

 また、17節後半では、わたし・パウロに倣えと言うだけでなく、パウロや他の多くの使徒たちをも模範として、彼らに目を向けなさいとも勧めています。おそらくは、彼らのだれもが多かれ少なかれ欠点を持ち、時には失敗をする人間であるには違いないのに、そのような指導者たちをも尊敬し、彼らに倣う者になりなさいと勧めているのです。なぜ、パウロは誤解される恐れがあるような大胆な言い方でそのことを強調するのでしょうか。

 パウロは他の手紙でも、「わたしに倣え」「わたしたちに倣え」と何度か書いていますが、それと並んで、エフェソの信徒への手紙5章1節では「神に倣え」、テサロニケの信徒への手紙一1章6節では「主に倣う」「主キリストに倣う」と言っています。そして、コリントの信徒への手紙一11章1節では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と、二つを一緒にしています。ここから分かるように、「わたしに倣え」とは、究極的には、「わたしが倣っている主キリストに倣え」ということなのです。主キリストと出会ってから、主キリストに倣って生きているわたし、もはや以前のわたしではなくなったわたし、主キリストによって新しくされているわたし、そのようなわたしに倣え、わたしをそのように変えてくださった主キリストに倣えとパウロは言っているのです。

 わたし・パウロが、十字架につけられた主イエス・キリストに倣って、それまでユダヤ人としてのわたしが誇っていた肉にある特権や誉れや業績のすべてを塵あくたとみなして投げ捨てたわたし、そのわたしに倣え。また、それまで自分の義のわざによって救われようとした道からひるがえって、ただ信仰によって神から義と認められる道へと方向転換をするようにされたわたし。わたし自身の中には救いの可能性が全くなく、ただ主キリストの十字架と復活の福音にこそわたしの救いのすべてがあることを信じているわたし。そのようにして、罪に死んでいたこの体が主キリストの復活の命によって生かされているこのわたし。そのわたしに倣うようになってほしいとパウロは言っているのです。

 パウロがそのことを強調する理由が、次の18節に書かれています。【18節】。3章1節でも、これまで何度も同じことを言ってきたが今また繰り返して言うと書いていましたが、ここでもそれを繰り返します。しかも、ここでは「涙を流しながら」、激しい感情と精いっぱいの思いを込めて、今の時代の不信仰と不従順を嘆き悲しみ、それに必死になって抵抗し、戦っています。

 この世は、いつの時代も、主キリストの十字架に敵対して歩む者が多く、キリスト者はそのような人たちに取り囲まれており、彼らからの様々な攻撃や誘惑やあざけりの対象にされています。パウロの時代には、教会の身近には二つの大きな敵対勢力があったと考えられています。一つは、ユダヤ教の律法主義です。教会の中にもその勢力がはびこっていました。主キリストの十字架の福音を信じる信仰だけでは救いは不十分である、律法を重んじ、イスラエルの古くからの伝統をも守るべきであるとするユダヤ主義的キリスト者が教会を分断させていました。また、霊的グノーシス主義者と言われる人たちは、自分たちには特別な神の知識、グノーシスが与えられ、すでに救いは完成し、完全な人間となった。だから、もうキリストの十字架は必要ないと彼らは考えたのでした。いずれも、主キリストの十字架の福音を軽んじ、否定していました。

 もう一つ、教会の外からの敵対勢力を挙げるとすれば、偶像の神々を礼拝している異教徒たちや、この世の過ぎゆくものを追い求め、肉のパンだけで生きることができると考える神なき人たちも多くおりました。

 しかし、19節で続けてパウロはこう言います。【19節】。パウロは彼らの滅びを悲しんでいます。彼が「今また涙を流しながら」言うのは、教会が受けている彼らからの攻撃と教会の戦いの厳しさを嘆いたり、憂いたりしているからであるよりも、パウロの涙は彼ら神なき者たちの滅びを悲しみ、悼んでいる涙なのです。滅び行かんとするこの世への切なる愛のゆえの涙なのです。この涙をもって、パウロは懸命に、福音宣教の務めにわが身をささげているのです。

 彼ら主キリストの十字架に敵対している歩んでいる人たちが、神なき世界で、罪の中で死と滅びに向かって進むことがないために、パウロは彼らに主キリストの福音を語らずにはおれません。彼らに罪のゆるしと主キリストにある新しい命のみ言葉を語らざるを得ません。彼らこの世のパンだけを追い求め、朽ち果てるに過ぎないもののために生き、死んでいくしかない、神を知らない人たちのために、天から与えられる命のパンと命の水を指し示そうとしているのです。彼らの一人も滅びることがないために、パウロは祈りと涙とをもって、主キリストの十字架の福音を語り続けるのです。それはまた、今の時代に召されているわたしたち一人一人の務めでもあります。

 そこでパウロは、わたしたちの目と心とを、今主キリストがいます天へと向けるのです。天にこそ、わたしたちの本国、国籍があるからです。【20~21節】。主イエスは地上の王国を打ち立てるためのメシアではありません。そうであれば、主イエスは地上にとどまっておられたはずでしょう。使徒言行録1章によれば、十字架につけられ、三日目に復活された主イエスは、40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされ、福音を宣べ伝えるようにと命令され、40日目に弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。雲が主イエスのお姿を隠しました。主イエスは雲の向こう側に、父なる神の側におられます。そして、終わりの日に再び地に下って来られ、信じる人々を天に引き上げてくださいます。それが神の国の完成です。わたしたちの信仰の歩みはその神の国の完成を目指しているのです。したがって、この地上のどこかにわたしたちの生きる目標があるのではありません。この地上の何かを追い求め、それを目標にして生きているのでもありません。地上にあるものすべては、時と共に流れ去り、消えゆき、朽ち果てるしかありません。

 天には、罪と死とに勝利され、全地と万物とを支配しておられる勝利者なる主イエス・キリストがおられます。それに対して、わたしたちは今なお地上に住んでいます。けれども、わたしたちの本国、国籍、その市民権は天にあります。主イエス・キリストがご自身の十字架と復活、そして昇天によって、わたしたちにその国籍、市民権をお与えくださったからです。それゆえに、わたしたちキリスト者はこの世では寄留者であり、旅人であると告白するのです。そして、どのような困難な時代にも、どのような試練の時にも、幸いの時にも災いの時にも、地上の事柄に心を奪われるのではなく、かしらを上にあげ、目を天に向け、天に備えられている永遠の命と輝くばかりの栄光を待ち望むのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたのご栄光を仰ぎ見ることができるように、わたしたち

の信仰の目を開いてください。打ちひしがれているわたしたちの心を、あなたに向けて引き上げてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月12日説教「主キリストの復活を信じる」

020年4月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日・イースター)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「主キリストの復活を信じる」

 きょうの復活日礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章は「復活の章」と呼ばれています。この長い1章には、主イエス・キリストの復活の出来事と、それを信じるわたしたち信仰者に約束されている終わりの日の体の復活について語られています。この章はこの手紙全体の頂点、または中心であると言えます。それはまた、使徒パウロの信仰と神学、キリスト教の神学と教理の頂点、または中心でもあり、さらにはわたしたちキリスト者の信仰と信仰告白の頂点、中心でもあります。

きょうは1~11節のみ言葉を学びますが、その終わりの部分の10節で、パウロの次のように言います。【10節】。「わたしがきょうあるのは、神の恵みによる。すなわち、神が主キリストの十字架と復活によって人類の罪をゆるしてくださった。そして、この取るに足りない、いと小さなものに過ぎないわたしにも、復活の主キリストが現れてくださった。それによって、以前は教会の迫害者であったこのわたしを、今は主キリストの福音を宣べ伝える使徒として働く者に造り変えてくださった。この大きな神の恵みによって、わたしは今あるを得ている」。そのようにパウロは言うのです。

わたしたちがここから知らされる重要なことは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じ、復活の主キリストとの出会いを経験することによって、わたしのすべてが変えられ、わたしが神から託された新しい務めに生きるようにされるのだということです。主キリストの十字架と復活を信じる信仰は、古いわたしの死と、新しいわたしの創造という、驚くべき出来事を信じる人の中に、わたしの中に生み出していくのだということです。

したがって、主キリストの十字架と復活の出来事それ自体を、どれほど深く学び、探求していっても、それを信じるということなしには、そして復活の主キリストとの生ける出会いの経験なしでは、だれもその恵みを十分に受け取ることができないということでもあります。復活日の礼拝に招かれているわたしたち一人一人が、神の命のみ言葉を聞き、聖霊によって復活の主キリストとの真実の出会いを経験し、神から差し出されている大きな恵みを共に受け取りたいと願います。

パウロは彼が受けた恵みについて語るに当たって、3節でこのように言います。【3節a】。神から与えられた恵みのもととなっている主キリストの福音はパウロ自身が初めに考え出したものではなく、彼はそれを「自分も受け取ったもの」であると言います。つまり、パウロはその福音を彼が宣教を始める前に初代教会の中で受け継がれてきた福音であると言っています。パウロがコリントの町で福音宣教を開始したのは、第二回世界伝道旅行の後半の紀元51年ころと推測されています。そして、この手紙を書いているのは紀元55年ころと考えられますが、それ以前にすでに初代教会の伝承によって受け継がれてきた福音の内容を、パウロはここで引用しています。

その内容が3節後半からです。【3節b~5節】。この個所を読んですぐに気づくことは、この内容はわたしたちが今日礼拝で告白している「使徒信条」に非常によく似ているということです。「使徒信条」ではこうです。「主はポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って……」。これと同じように、ここに引用されている初代教会の信仰告白では、主イエス・キリストの死、葬り、復活、そして顕現(復活された主イエス・キリストがご自身のお姿を弟子たちに現わされたこと)という4つの内容が言い表されています。これが初代教会で最初に作成された信仰告白と考えられ、それがもととなって紀元4世紀ころになって、今日わたしたちが告白している「使徒信条」にまとめられたのであろうと考えられています。

そこできょうは、ここで告白されている4つの内容を、主イエスの死と葬り、復活と顕現の二組に分けて、それぞれの関係を見ながら学んでいきたいと思います。

まず、主イエスの死と葬りは彼がまさにわたしたち人間と全く同じ人間となられたことを語っています。わたしたちのだれもがこの生涯の終わりに死んで墓に葬られるのと同じ道を主イエスが歩まれたことを言い表しています。主イエスは十字架につけられ、十字架の上で息を引き取られ、確かに死なれ、そしてその死がわたしたち人間の死と全く同じであることの確かなしるしとして、墓に葬られました。主イエスの死と葬りは、彼がまさにわたしたち罪びとたちと同じ人間の一人となられ、わたしたち罪びとたちと同じ道を歩まれ、死に至るまでわたしたちと共にいてくださったことの確かなしるしなのです。

それとともに、3節に「聖書に書いてあるとおり」とあるように、主イエスの死と葬りは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主の死と葬りであったことがここでは告白されています。彼の死と葬りは旧約聖書の預言の成就だったのです。主なる神の永遠の救いのご計画の成就だったのです。

では、その預言は旧約聖書のどの個所を指しているのかは、ここには書かれていませんが、わたしたちは先週の受難週礼拝で聞いたイザヤ書53章の「苦難の主の僕(しもべ)」の歌」を直ちに思い起こします。【イザヤ書53章7~8節】(1150ページ)。続けて9節では僕の死について預言されています。【9節】。主イエスの死と葬りとは、旧約聖書の預言者たちをとおして神が預言されたメシア・キリスト・全世界の救い主の死と葬りだったのです。それゆえに彼の死と葬りとは、死すべきわたしたち人間の救いの出来事だったのです。

それが、「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」という告白の中に、「わたしたちの罪のために」という言葉が挿入されていることの意味です。主イエスのご生涯のすべて、特にそのご受難と十字架の死、そして葬りは、すべてがわたしたちの罪のためであったのです。わたしたちを罪の奴隷から救い出し、神との和解と交わりへと導き入れる救いのためだったのです。

次の復活についても、それが旧約聖書の成就であったと4節で告白されています。では、メシアの復活について預言されている旧約聖書はどこを指しているのか、それもここには書かれていません。いくつかの個所を挙げることができます。きょうの礼拝で朗読されたヨブ記19章が挙げられます。25節には「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」と書かれています。詩編16編10~11節にはこう書かれています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」。また、ホセア書6章1~2節ではこう預言されています。わたしたちが礼拝の最初に聞いた「招きの言葉」です。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々はみ前に生きる」。

主イエスの復活は、主イエスが罪と死とに勝利されたことの確かなしるしです。主イエスは死の墓をふさいでいた大きな石を取り除き、墓から出て、墓を空にされました。墓はもはや人間が最後に行きつく終わりの場所なのではなく、そこから復活の命が始まる場所となったのです。

「復活した」と訳されている箇所は正確には「復活させられている」であり、文法的には受動態の現在完了形です。受動態は全能の父なる神が主イエスを復活させてくださったことを言い表し、現在完了形はそのことがずっと続いていることを言い表しています。主イエスは罪と死の勝利者として、今も生きておられ、主イエスを信じる者たちをご自身の体なる教会に呼び集め、その体の頭として、わたしたち信じる者たちの救い主として、君臨しておられることが告白されているのです。教会の歩みとわたしたち一人一人の信仰の歩みは主イエス・キリストの復活から始まっています。その歩みは、すべて命あるものの歩みがそうであるのと同じに、生まれてから死へと向かっていく歩みであるのではなく、死から命へと向かっていく歩みであり、死に勝利されて復活された主イエス・キリストが新しくお始めくださった歩みであり、終わりの日の永遠の命の完成へと向かっていく歩みです。

主イエスの復活に続いて、復活された主イエスがご自身の姿を弟子たちに現わされた顕現のことが告白されています。ケファは12弟子の一人、また初代教会のリーダーとなったペトロのこと、それから12弟子、また6節からは五百人以上の人たち、それから主イエスの兄弟であるヤコブ、その他の使徒たちが復活の主イエスの顕現を経験した人としてあげられています。これらの顕現の一部については福音書の最後の部分と使徒言行録の初めの個所に描かれていますが、これらの人たちが最初の教会、初代教会の基礎を形成していったことが分かります。教会は主イエス・キリストの復活の証人たちを土台として形成されています。

そして、パウロは8節で復活の顕現を経験した人たちの最後に、自分自身を挙げています。パウロの場合は、厳密な意味での復活の顕現とは違っていると理解しなければなりません。使徒言行録によれば、復活された主イエスは40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、そののち天に昇って行かれたからです。そのあとでは、直接に主イエスの姿を目で見ることはだれにもできません。パウロの場合には、主イエスの復活から数か月後、あるいは数年後に経験したことを言っているのですが、パウロはそれをあえてここでは他の弟子たちと同じ復活の顕現に加えています。彼にとって、主イエスとの出会いの経験は、それほどに強烈で、現実的で、鮮明で、あたかも復活の主イエス・キリストご自身がそのお姿を彼に現わされたように思われたのでした。

そして、復活の主イエス・キリストとの出会いが、教会の迫害者であったパウロを、主キリストの福音を宣べ伝えるための教会の働き人として造り変え、ユダヤ教の律法によって生きていたパウロを、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって生きるパウロに造り変えたのです。主イエス・キリストの復活の命と恵みが、きょうの礼拝に集められたわたしたち一人ひとりにも豊かに与えられるようにと祈り求めましょう。

(執り成しの祈り)

○命の主なる神よ、わたしたちの朽ちいく体に復活の命を注いでください。主イ

エス・キリストの復活の命に満たされて、あなたのご栄光のために仕える者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月5日説教「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

2020年4月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヘブライ人への手紙12章1~3節

    イザヤ書53章1~12節

説教題:「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

 教会の暦では、きょうは棕櫚(しゅろ)の主日と言い、今週は受難週です。主イエスの地上での最後の一週間の歩みが始まります。主イエスはこの日に、ロバに乗ってエルサレムに入場され、人々は棕櫚の枝を手に持ってお迎えしたと福音書に書かれていることから、そう呼ばれることになりました。四つの福音書はいずれも全体の半分近くのページで、この最後の一週間の歩みを記録しています。主イエスのお働き、その救いのみわざは、この最後の一週間に集中しています。主イエスのご受難と十字架の死にわたしたちの救いの中心があります。きょうはイザヤ書53章のみ言葉から、主イエスのご受難とわたしたちの救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 イザヤ書には「主の僕(しもべ)の歌」と言われている箇所が4つあります。42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、そしてきょうの個所です。4つ目の「主の僕の歌」は実は52章13節から始まっています。【13節】。他の3つの「主の僕の歌」でもすべてそうですが、神はここで預言されている人物を直接に「わたしの僕」と呼んでおられます。僕とは奴隷のことです。奴隷は当時は主人の所有物と考えられていました。奴隷の命と持ち物、彼の人生のすべては主人のものであり、奴隷は主人のために生き、仕え、働き、そして主人のために死ぬのです。奴隷はそのように生き、死ぬことを彼の最高の喜びとします。彼の全生涯とその歩みのすべてが主人によって守られ、導かれているからです。それゆえに、信仰者が神から「わが僕」と呼ばれることは最高に名誉ある、光栄に満ちたことなのです。

 イザヤ書の4つの「主の僕の歌」では、主なる神によって選ばれて神の所有とされ、神から託された使命を果たし、神の救いのみわざのためにその生涯をささげ尽くす信仰者が描かれています。特にその中の4番目の歌は、「苦難の主の僕の歌」と言われ、彼は自らの苦難の生涯を通して主人である神に仕えるということが強調されています。僕の弱さと貧しさ、苦しみと痛み、そしてまた屈辱と迫害の中で、自分の命を犠牲にし、そのすべてをささげ尽くすことによって、主なる神の救いのみわざを完成することが強調されています。この苦難の主の僕は旧約聖書の中で最もはっきりと、最も強烈に、主イエス・キリストのご生涯を、その苦難と十字架の死を預言するみ言葉であることは言うまでもありません。イザヤが預言したこの苦難の主の僕こそが、わたしたち罪びとのために苦しみを受けられ、十字架につけられ、そして三日目に復活された主イエス・キリストにほかなりません。

 イザヤ書53章を内容から見て5つの部分に分けることができます。第一は1~3節、ここでは僕が貧しさと人々の軽蔑の中で生まれ育ったことが語られ、第二の4~6節では他者のための病と苦痛に耐え忍んだことが、7~8節では苦役の中でその命を奪い取られ、死んだことが、9節では屈辱と共に葬られたことが語られており、そして最後の10節以下では、彼の苦難と死が多くの罪びとたちの罪を贖い、救いとなって神のみ心を成し遂げたことが、信仰告白として語られています。この順序とこの内容をみると、わたしたちはここに『使徒信条』によって告白されている主イエスのご生涯と重なり合うことに気づかされます。「主は……おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につかられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し」という主イエスのご生涯がここに預言されていることに気づかされます。

 では、第一の、主の僕の見栄えのしない貧しさの中での誕生とその軽蔑された生涯についてのみ言葉を読んでみましょう。【1~3節】。1節の「誰が信じえようか」。「誰に示されたことがあろうか」という二つの疑問形は、全くだれもそう信じることができない、だれもそのことに気づくことはないということを強調しています。つまり、神のみわざは人間の目には全く理解できず、予想もできないかたちで現わされるということです。罪びとである人間の目には神の救いのみわざは隠されています。人間はだれも自らの知恵や能力や努力では神を知ることはできません。神に近づくことはできません。神は全く新しい救いの道を備えられました。人間が期待するような力強さや高さや誇りある英雄の姿によってではなく、貧しく低く、否それのみか、だれもが忌み嫌い、避けて通るような屈辱的な道によって、神は救いの恵みを差し出そうとされたのです。

 それは、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一1章19節以下で書いているように、救いが人間の知恵によらず、ただ十字架の福音を宣教するという愚かな手段によって、信じる人々を救うためであり、だれも神のみ前では誇ることがなく、ただ主イエス・キリストだけを誇るためです。それによって、ユダヤ人だけでなくすべての民が救われるため、また知恵ある者や力ある者たちを辱め、無力な者たちをこそ救うためです。

 わたしたちは福音書に記されている主イエスの誕生の情景を思い起こします。ガリラヤ地方のナザレに住むヨセフとマリア、聖霊によって身ごもったおとめマリア、家畜小屋での誕生、夜の羊飼いたち、そして布にくるまって飼い葉おけの中に寝かされた幼子、それらはみな、そこで起こっている出来事の低さ、貧しさを言い表しています。天におられる主なる神は、わたしたち罪びとたちを救うために、ご自身が徹底して貧しく低くなられ、人間のお姿となられて、この世においでくださったのです。そして、わたしたち罪びとの一人となってくださったのです。そして、すべての人のための救いの道を開かれたのです。

 次の4~6節を読みましょう。【4~6節】。ここでは、主の苦難はわたしたちのための苦難であったことが繰り返して語られています。「わたしたちの」「わたしたちのため」「わたしたちに」「わたしたちは」という言葉が何度も用いられています。主の僕の生涯は徹底してわたしたちのためにあったのです。彼の病と痛みとは本来わたしたちが受けるべき病と痛みであったのに、それを彼がわたしたちに代わって担ってくださったのです。彼が神に打たれ、苦しめられ、傷を負ったのは、わたしたちの罪と背きのためであり、本来わたしたちが受けるべきであった神の裁きを、彼がわたしたちに代わって引き受けてくださったのです。そして、彼が受けた懲らしめ、彼が受けた傷によって、わたしたちに平和が与えられ、神との和解が与えられ、わたしたちはいやされたのです。彼の苦難に満ちた生涯のすべては、わたしたち罪びとたちのためであり、わたしたちの罪のゆるしのためだったのです。神はそのようにして、わたしたちを罪から救おうとされたのです。これが主イエス・キリストのご受難の意味です。

 6節には、主の僕の徹底した他者のための生き方とは対照的な、徹底して自分自身のための生き方をしていたわたしたち人間の罪の姿が描かれています。【6節】。罪の人間はみなおのれ自身に向かっています。自己追及の生き方であり、自己中心的で、自己目的で、自己実現の道を目指しています。自分の楽しみや喜び、満足を追い求める生き方です。しばしば、隣で傷つき苦しむ人を見過ごしにし、時には他の人を踏みつけ、押しのけ、また自己を誇り、他者をねたみ、そのようにしてすべては自分を中心にして、自分を目的にした生き方です。

 けれども、ある人は言うかもしれません。「そのような生き方がなぜ悪い。自分の利益を求めることが悪なのか。人はみな自分のために生きてよいのではないか」と反論するかもしれません。しかし、わたしたちは今、目の前に映し出された苦難の僕の姿を見る時、彼が徹底して他者のために生き、苦しみ、そして砕かれた苦難の僕の姿を見る時に、そのような自己中心的な生き方が裁かれているということにわたしたちは気づかされるのです。わたしたちはみなそのような真実の牧者を失ってさまよっていた失われた羊たちであったのだということに気づかされるのです。

 7~8節では、苦しめられ、虐げられながらも、死に至るまで従順に、しかも沈黙を守り通された苦難の僕の姿が描かれます。【7~8節】。わたしたちはこの個所まで読み進んでくると、これこそがまさにわたしたちの罪のために十字架への道を進み行かれた主イエス・キリスト、そのお方に他ならないとはっきりと知らされます。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、罪人の一人に数えられ、裁かれ、しかもご自身を少しも弁護なさらず、ご自身を救おうとはなさらずに、ポンティオ・ピラトの前で沈黙を貫きとおされ、人々のあざけりの中を、ゴルゴタの丘まで十字架を背負われ、苦しみと恥と無力さの極みの中で死なれた主イエス。十字架の死に至るまで罪びとたちのためにご自身のすべてをささげ尽くされ、死の極みまで罪びとと共にあろうとされた主イエス。この主イエス・キリストこそがわたしたちの罪を贖い、わたしたちの病める魂をいやし、わたしたちに永遠の平安をお与えくださる唯一の救い主であられます。

 9節は主の僕の葬りについて言及されています。【9節】。わたしたちはゴルゴタの丘の上に立つ3本の十字架、二人の犯罪人の真ん中に立っている主イエスの十字架を思い浮かべます。主イエスはまさに罪びとの一人に数えられ、わたしたち罪びとたちのまっただ中に立っておられます。わたしの死のただ中にも主イエスの十字架は立っています。死に赴くわたしと主は共にいてくださいます。

 最後に、10~12節では、僕の苦難と死が神のみ旨であったこと、そして僕の苦難と死が多くの人を義とし、豊かな実りをもたらすことが告白されています。ここでは、主イエスの復活が暗示されているように思われます。主イエスの復活は罪と死に対する勝利のしるしです。12節にこのように書かれています。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪びとの一人に数えられたからだ」。主の僕は何かの理想のために命をかけた英雄ではありません。むしろ、自らの罪ゆえに死にしか値しなかったわたしたち罪びとたちのために、ご自身のすべてを投げ捨てられ、ご自身の命のすべてを注ぎつくして、消耗しつくすまでにして、わたしたちを愛されたのです。わたしたちはこの苦難の主の僕であられる主イエス・キリストによって救われているのです。「わたしたちの信仰の創始者であられ、また完成者であられる主イエス・キリスト」を仰ぎ見ながら、信仰の馳せ場を、忍耐強く走りぬいていきましょう。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、み子の十字架のお苦しみを思い、またその愛と救いの恵みを覚え、

心から感謝いたします。どうか、この受難週のわたしたち一人一人の歩みをお導きください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よどうか憐れんでください。全世界の

民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

3月29日説教「洗礼者ヨハネの説教」

2020年3月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章6~14節

    ルカによる福音書3章1~14節

説教題:「洗礼者ヨハネの説教」

 ルカによる福音書3章では、洗礼者ヨハネの登場と預言者イザヤの預言とを結びつけています。イザヤ書40章に預言されていた荒れ野で叫ぶ者の声が、洗礼者ヨハネの悔い改めのバプテスマの宣教として成就したと語っています。では、ヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマとイザヤ書40章の預言とはどのように関連しているのでしょうか。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。この4節のみ言葉はイザヤ書40章3節からの引用ですが、イザヤ書40章3節では「主のために」「わたしたちの神のために」と繰り返されており、ルカ福音書では「主の道を」となっていることからも明らかなように、この道は主なる神ご自身が通られる道のことです。主なる神が通られるゆえに、主なる神のために平らでまっすぐな道を整えよと命じられています。それは、すべての人が神の救いを見ることができるためです。

 そうであるとすれば、谷や山、曲がった道やでこぼこの道とは、神が通られることを妨げ、神の救いを見ることを妨げている人間の罪、神に対する背きや不従順、かたくなさや傲慢のことであり、それを取り除けと命じられていることになります。それが、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えるヨハネの使命だと言われているのです。そのヨハネの使命について、さらに考えてみましょう。

 本来、イザヤ書40章の預言は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代を背景に語られていると、多くの聖書学者は理解しています。神の民であるイスラエルは、神のみ言葉に聞き従わず、偶像礼拝や偽りの礼拝によって罪に罪を重ね、ついに紀元前587年に首都エルサレムがバビロン軍によって陥落させられ、神殿が焼き落され、王と指導者たち、民の多くが異教の地バビロンに捕虜として連れ去られました。それは、罪を悔い改めることをしなかったイスラエルの民に対する神の厳しい裁きでした。けれども、ご自身の民との契約を最後まで守られる神は、やがて裁きの期間が満ちて、彼らが約束の地へと帰還することがゆるされるであろうとイザヤは預言しました。それが、イザヤ書40章の預言の本来の内容だと考えられています。

 ルカ福音書はそのイザヤの預言を洗礼者ヨハネの登場に当てはめているのです。ここにはどのような意味があるのでしょうか。一つは、バビロン捕囚からの帰還と悔い改めのバプテスマとの関連についてです。バビロンの捕囚の地から民を連れ帰るのは神です。バビロンからエルサレムまでは砂漠地帯や、いくつもの丘陵地帯を超えて、およそ1000キロメートルの道のりです。その困難で遠い道を旅するのはイスラエルの民なのですが、ここでは「主なる神の道」と言われ、山や丘が削られ、谷が埋められ、道がまっすぐにされるのは「主なる神のため」であると言われているのです。神ご自身がその道を通られ、神ご自身が民を連れ帰られるのです。そうすることが可能になるために、イスラエルの民の罪や不従順、傲慢さやかたくなさが取り除かれなければならないと語られていることが分かります。洗礼者ヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマとは、このことなのです。

つまり、悔い改めとは、人間の側が心や態度を改めて罪の道から引き返すということなのですが、本来は神の側から人間の方へと近づいてこられ、神の側からの一方的な憐れみと恵みによって罪のゆるしが差し出されるということなのであって、人間はその神に対して心を開き、従順な思いで神を迎え入れ、無償で差し出される罪のゆるしを、感謝と恐れとをもって受け取ること、それが、悔い改めなのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。洗礼者ヨハネが宣べ伝えている悔い改めのバプテスマとは、まさにそのような悔い改めのことであり、そして、そのような罪のゆるしの恵みこそが、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられている福音なのです。

 もう一つここで教えられることは、ヨハネの登場はイザヤ書の預言の成就と考えられているということ、すなわちヨハネはすでに預言の成就の時、新約聖書の時代に属しているということです。そうであるとともに、しかし、ヨハネはまだ預言の成就のすべてではありません。ヨハネはなおわずかに残っている預言の時代の最後の預言者として、彼のすぐ後においでになるメシア・キリスト・救い主の到来を預言しているのです。ヨハネによってすべての人が「神の救いを仰ぎ見る」のではありません。彼は、来るべきメシアに備えて、すべての人がメシアを迎え入れ、真実の悔い改めをもってメシアをわが救い主と信じ、迎え入れるように、その道を整えることが彼の務めです。

 7節からはヨハネの説教が語られます。この当時の洗礼(バプテスマ)は一般的にユダヤ人以外の異教徒がユダヤ教に改宗する際に行われていました。ヨルダン川に身を沈めてひとたび古い自分に死ぬ、偶像の神々を信じていた自分がそこで死んで、再びヨルダン川から立ち上がる時には新しい、イスラエルの唯一の神を信じる自分に生まれ変わっていることのしるしとして、バプテスマが行われていました。

 けれども、ヨハネのバプテスマは多くの点でそれとは違っていました。ヨハネのもとにバプテスマを授けてもらおうと集まってきたのは、神に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人でした。彼らは本来バプテスマを受ける必要はないと思われていました。しかし、ヨハネのバプテスマはイスラエルの民であれ、だれであれ、すべての人が神のみ前では罪びとであり、その罪を悔い改めて神に立ち帰らなければならないということを前提にしているように思われます。ヨハネのバプテスマは、来るべきメシア・救い主である主イエスの十字架の福音を前提にしており、その福音を信じる信仰によってのみすべての人は救われるという、唯一の救いの道へと人々を導いているのです。

 その唯一の救いの道をよりはっきりさせるために、ヨハネの説教はユダヤ人のいわゆる選民思想を根本から打ち砕きます。【7節b~8節】。ユダヤ人のいわゆる選民思想(自分たちは神に選ばれている民であるという優越感をもつこと)は、旧約聖書の時代からすでにありました。「自分たちには神の聖なる都エルサレムがある。神の家である神殿がある。だから自分たちは安全だ」とイスラエルの多くの指導者たちも考えていました。イザヤやエレミヤなどの預言者たちは、真実の神礼拝と神への服従を伴わない信仰は偽りの信仰であり、神はその民をお見捨てになる、その民はやがて滅びるであろうと預言しましたが、彼らはその預言に耳を傾けず、悔い改めることをしませんでした。その結果として、イスラエルはバビロン捕囚という悲劇を経験したのでしたが、それでもなおも、彼らは「我々には偉大な信仰の父アブラハムがいる。自分たちはその子孫だから神の救いが約束されている」という選民思想から抜け出すことができず、真実の悔い改めをしようとしませんでした。

 洗礼者ヨハネはそのようなイスラエルの民・ユダヤ人に厳しい裁きの言葉を語ります。「神の怒りからだれも逃れることはできない」と。だから、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と。ヨハネのこのような厳しい裁きの言葉は、彼のあとにおいでになるメシア・キリストである主イエスの救いの福音をあらかじめ前提にしているということにわたしたちは注目したいと思います。つまり、神が主イエス・キリストによって最終的に救いを成就されるその時にこそ、人間の罪もまた明らかにされるのだということです。ヨハネの厳しい裁きの言葉は主イエス・キリストの十字架の福音を証ししているのだということです。来るべきメシアである主イエス・キリストの福音を聞くときに、ユダヤ人であれ、だれであれ、その人自身が生まれつき持っている何かとか、その人が蓄えた何かとか、その人が努力した何かとかによって救われるのではない。だれもが、主イエス・キリストの十字架の福音の前では、自らの罪を告白しなければならないし、自らの生きる道の方向転換をして神に立ち帰らなければ救われないということを、ヨハネの説教は明らかにしているのです。ヨハネの説教は主イエス・キリストの福音への招きなのです。

 したがって、ヨハネの説教はユダヤ人のいわゆる選民思想を根本から打ち砕くとともに、先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、すべての国民、すべての人が主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われるということをも語っています。それまでは異邦人がユダヤ教に改宗する際の儀式であったバプテスマが、ユダヤ人の悔い改めをしるしづけるバプテスマとなったことによって、すべての人に救いの道が開かれました。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とヨハネが語ったように、神は不従順でかたくなな民であったユダヤ人から真実の信仰を生み出すことがおできになり、また神を知らず、偶像礼拝や偽りの神々に支配されていた異邦人からも、真実の信仰を生み出すことができるのです。神は無から有を呼び出だすことができ、死から命を生み出すことがおできになります。来るべきメシア・救い主・主イエス・キリストの福音は、ユダヤ人をはじめ、異邦人をも、すべての人を救いへと招く神の全能の力と命とを持っていることを、ヨハネの説教は語っています。

 ヨハネの説教のもう一つの特徴は、神の怒りと裁きとが目前に迫ってきているという緊迫感です。これを終末論的と表現してよいでしょう。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(7節b)。そして【9節】。来るべきメシア・キリストの到来とその福音は救いの成就の時であると同時に、それはまた終末の時の神の最後の審判が迫っていることのしるしでもあります。主イエスご自身も説教の中でしばしば神の国の完成と終末の裁きについて語っておられます。主イエス・キリストの到来とその福音は、その説教を聞く人に終末論的な決断を迫るのです。その福音を信じ、悔い改めて神に立ち帰り、救われ、永遠の命を受け取るか、それとも、それを拒み、かたくなに罪と滅びの道を進み、神の最後の裁きを滅びとを受け取るのか、その二つの道の一つを選び取る決断を迫るのです。わたしたちが毎週の主の日に礼拝をささげ神のみ言葉と説教を聞くということはその選択の時でもあるのです。

 けれども、ここで重要なことは、終末の時が近い、神の最後の裁きの時が迫っているというヨハネの説教は、脅しではなく、強制でもなく、わたしたちを恐怖心を抱かせるためのものでは決してありません。また、不信仰な人を切り捨て、見捨てることでもありません。「斧は既に木の根元に置かれている」、けれども、それはまだ振り落とされてはいません。木はまだ切り倒されてはいません。なおも神の憐れみの時、招きの時が残されているのです。主の日の礼拝は、その神の憐れみの時、救いへの招きの時なのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちに従順な悔い改めの心をお与えください。あなたの招

きのみ言葉を聞くとき、直ちに、喜んで、招きに応える信仰の決断をお与えください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月22日説教「エデンの園を追い出された人間」

2020年3月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章20~24節

    ローマの信徒への手紙5章12~21節

説教題:「エデンの園を追い出された人間」

 創世記1章から3章まで、神の天地創造と人間創造、そして人間の罪、原罪について語るみ言葉を読んできましたが、きょうはその最後の個所を学びます。これまで学んできたように、聖書はここで、神が人間をどのように創造されたか、その人間がどのようにして罪に落ちたのか、そして神は罪の人間をどのように扱われたのかということを、深い信仰の洞察をもって語っています。わたしたちはここから、人間の原型、人間とは本来どのような生き物なのかについて、また人間の罪の原型、罪とは何かについて、そして神の救いの原型について、神は罪の人間をどのようにして救おうとされたのかを、聞き取ることができます。

 きょうの最後の個所では、神の戒めに背いて罪を犯した人間がエデンの園を追い出されることが描かれています。いわゆる楽園追放とか失楽園について語られています。この個所でも、今確認した3つのこと、人間とはそもそも何者なのか、人間の原型について、また人間の罪の原型について、そして神の救いの恵みの原型について、非常に意味深いみ言葉が語られています。

 では、20節から読んでいきましょう。【20節】。ここで初めて女の名前がエバと名づけられます。ちなみに、アダム(ヘブライ語ではアーダーム)は人間を総称する場合と男を意味する場合と両方の用い方があります。エバはヘブライ語の発音では「ハッヴァー」で「生きる者」とか「命」という意味を持っています。前に2章23節には、アダムが自分のあばら骨の一部から造られた女をイシャーと名づけたと書かれていました。【2章23節】。

 女に今また新しい名前が付けられました。「エバ」、「すべて命あるものの母」とは、何とも名誉ある名前であることでしょうか。神の戒めを破って罪を犯し、神の裁きを受なければならない女に対して、このような名前が付けられるとは! 神は2章17節でこうお命じになりました。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と。その神の命令に背いた女に対しては、命ではなく、死こそがふさわしいのではないのか。

 しかし、ここではなおも生きることをゆるされています。しかも、「すべて命あるものの母」という名誉ある名前を与えられています。神は直ちに最終的な裁きを執行されませんでした。3章16節では、神は女に罰をお与えになりました。【16節】。ここでは、生みの苦しみは罪を犯した女に対する神の罰と考えられています。けれども、この神の罰は最終的な裁きではなく、いやそれどころか、この神の裁きは今や新しい命を生み出すという命の誕生と喜びに変えられていくのです。エバは自ら生きることをゆるされているだけでなく、母として新しい命を生み出すという光栄ある務めを与えられることになったのです。

 そのようにして、罪という暗い影に脅かされながらも、なおも人間はその命を保たれ、母たちによって次の世代へと命を受け継いでいくことをゆるされているのです。これはなんという大きな神の憐れみであり、恵みであることでしょうか。わたしたちが今生きているということ、今生きることをゆるされているということ、そしてわたしたちの家に、あるいはわたしの隣の家に、新しい命が誕生するということには、実にこのような大きな神の憐れみと恵みがあり、神から与えられている豊かな命の祝福と喜びがあるのだということを、わたしたちは改めて深く思い起こしたいのです。

 次の21節にも罪を犯した人間に対する神の大きな恵みが示されています。【21節】。先に3章7節には、アダムとエバは自分たちの罪と恥を隠すためにいちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いたと書かれていましたが、今や神ご自身が彼らに皮の衣をお与えになります。人間は自分では罪をも罪から生じた恥をも覆い隠すことはできません。けれども、今や神はご自身が皮の衣で人間の罪の体を覆ってくださいます。

 ある人はこれを、楽園追放のための旅支度を神がしてくださったのだと言っています。これからアダムとエバはエデンの園を追い出され、この罪の世界で罪と恥とをさらしながら、労苦の多い旅路を続けていかなければなりません。その人間に対して神はあたたかい配慮をしてくださるのです。神は人間の造り主であられるだけでなく、罪に落ちた人間をなおも守り、その歩みを支えられる神でもあられます。神はわたしたち人間のこの地での困難で労苦の多い旅路に伴ってくださり、必要なものを備えてくださるのです。

 わたしたちはここで主イエスがルカ福音書15章で話された放蕩息子のたとえを思い起こします。放蕩に身を持ち崩して、何もかも失い、絶望して「雇い人の一人にでもしてください」と言って帰ってきた息子を憐れんで家に迎え入れた父親は、「さあ、いちばん良い衣服を持ってきて、この子に着せなさい。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(22~24節参照)と言った場面を思い起こします。エデンの園を追放されようとしている最初の人間アダムとエバのために、この世での困難な旅路に備えて旅支度をしてくださった神は、主イエス・キリストによってわたしたちを神の国での祝宴へと招き入れるために最上の晴れ着を用意してくださるのです。

 22節をどう理解するか、いくつかの難しい問題があります。まず、「我々の一人のように」とはどう意味なのかですが、この「我々」とは、聖書の唯一の神を指していると理解してよいと思われます。1章26節でも神はご自身のことを「我々」と表現しておられます。これは一般に尊厳の複数形と言われる表現で、神がご自身の尊厳、威厳を強調するために、「わたしは」と言うべきところを「我々は」と言われる個所は、聖書の中で他にもいくつかあります。ここもその一つと理解できます。

 そうするとこの個所は、善悪の知識の木から取って食べた人間が神と同じように、神と肩を並べる者となったという意味になります。それは、罪を犯した人間の傲慢を語っているように思われます。神によって創造された人間アダムは、エデンの園で神のみ言葉を聞き、神から与えられた自由と恵みの中で喜びのうちに生きていくことをゆるされていました。けれども、蛇の誘惑に負け、自ら神のようになろうとして、禁じられていた善悪の知識の木から取って食べ、今や自らの意志によって神から独立して立ち、それだけでなく、自ら神のようにすべてのことを自らの知恵で判断し、決定して生きる者となり、もはや神を必要としない者となり、それだけでもなく、神を自分の世界から追い出して生きる者となったのです。そのような人間の罪の現実の姿を、神はここで語っておられます。

 神はそのような罪の人間をそのままにしておかれるのでしょうか。22節の後半で神はこのように言われます。「今は、手を伸ばして命の木から取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。ここには神のどのようなみ心が言い表されているのでしょうか。

 罪を犯したために神の裁きを受けて死すべき者となった人間が命の木から取って食べることによって、永遠に生き続けることを神は恐れているように思われます。神は2章17節で、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」とお命じになりました。しかし、その戒めに背いて罪を犯した男アダムに、神は3章17~19節で裁きをお語りになりました。「お前は顔に汗してパンを食べ、ついには土にかえるのだ」と。その神の裁きがここではもう一度確認されているように思われます。ひとたび死の判決を受けた人間が、それでもなおも不死への強い願望を持ち、永遠に生きようとして命の木に手を伸ばし、神の領域にまで侵入しようとする不遜な人間となることを神は恐れておられるのではないか、その可能性を人間に残しておく道を完全にふさぐ必要があると神はお考えになられた、それが次に記されている楽園追放の意図であり意味であると理解できます。

 【23~24節】。神は罪を犯した人間が今後決して命の木に手を伸ばすことができないように、人間をエデンの園から追放されました。この楽園追放の意味をもう一度まとめてみましょう。一つには、先に見たように、罪を犯した人間に対する神の裁きが、ここで最終的に確定したということです。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章23節で言っているように、「罪の支払う報酬は死である」ということが動かしがたい神の裁きとして実行されたのです。人間はだれもその神が定められた死の判決から逃れることはできません。人間はみな神の定めに従って死すべき者であることを知らなければなりません。

 楽園追放の意味を別の側面から考えてみましょう。罪の人間に対して死の定めをお与えになった神のもう一つの意図、神の隠された、深い憐れみとも言うべきものを、わたしたちは知らされます。それは、人間が罪びとのままで、自分では負いきれない罪の重荷を背負ったままで、永遠に神なき世界で生き続けることを神は良しとはされなかったということです。死はある意味では人間を罪の重荷から解放することでもあると言えるのではないでしょうか。そして、その最終的な答えとして、神はみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の道を完全に終わらせ、死に最終的に勝利されたのだということを、わたしたちは新約聖書から知らされるのです。

 その新約聖書の福音を24節からも確認できるように思います。人間はエデンの園を追い出され、エデンの東のやせた地を耕しながら生きていく者とされましたが、エデンの園そのものと命の木に至る道はまだ残されています。そこはだれによっても略奪されないように神の使いたちによって厳重に管理されています。神はなおも罪びとたちをこの楽園に連れ戻そうとしておられます。命の木に至る道を再び開こうとしておられます。その可能性がまだ残されているということを、わたしたちは知らされます。

 主イエスは十字架の上で、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人にこう言われました。「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と(ルカ福音書23章43節)。また、ヨハネの黙示録2章7節にはこのように書かれています。「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」使徒パウロはローマの信徒への手紙5章21節でこのように書いています。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰者には、命の木に至る道が開かれ、来るべき神の国での永遠の命が約束されているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、わたしたちを罪と死の法則から解放し、罪のゆるしと永遠の命に至

る道へとお導きください。わたしたちがその道を信仰をもって進み行くことができますように。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

3月15日説教「キリスト・イエスに捕らえられているわたし」

2020年3月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編139編1~10節

    フィリピの信徒への手紙3章12~16節

説教題:「キリスト・イエスにとらえられているわたし」

 フィリピの信徒への手紙3章12節で、この手紙の著者である使徒パウロはこのように言います。【12節】。きょうはこの12節のみ言葉を中心にして、わたしたちキリスト者の信仰とは何か、その信仰の中心について、またその信仰に生きるとはどういうことなのかをご一緒に学んでいきたいと思います。

 まず、12節の終わりの文章ですが、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と訳されている箇所は、もっと正確に訳すと、「捕らえられているということに基づいて、そのことを根拠として」という、強い意味が含まれています。キリスト・イエスによって捕らえられていることが、わたしの根拠であり、わたしの存在の、わたしが生きることの根拠である。わたしのすべては徹底して、わたしを捕えておられるキリスト・イエスに基づいている。キリスト・イエスを土台にし、キリスト・イエスから出発し、そしてまたキリスト・イエスを目標としている。そのような意味が含まれています。

 では、キリスト・イエスに捕らえられるとは、パウロにとってどういうことを言うのでしょうか。その内容は、すでに彼が7節以下で語ってきたことと関連しています。すなわち、ユダヤ教ファリサイ派の律法学者であったパウロが、それゆえに熱心な教会の迫害者でもあったパウロが、使徒言行録9章に書いてあるように、ある日突然に復活の主イエス・キリストとの衝撃的な出会いを体験し、それ以後、全く違った人間、全く違った価値観、全く違った信仰によって生きるものとされた。それゆえにそれまでは有利だと思っていたものがすべて損失となり、自ら誇っていたものがすべてちり芥となり、それまでは律法の義によって生きようとしていた者が、それ以後は主キリストを信じる信仰の義によって生きる者へと変えられた。それが、パウロにとって、キリスト・イエスに捕らえられられることだったのです。

 パウロはそのことを他の手紙の中で、いくつかの特徴的な表現で言い表しています。「主キリストによって罪の奴隷から贖われ、買い戻された」。「主キリストのもの、主キリストの所有とされた」。「主キリストの体に植えこまれた、移植された」。「主キリストを着せられた」。それが、主イエス・キリストに捕らえられることであり、主イエス・キリストの十字架の福音を信じてキリスト者になる、信仰者になるということなのです。

 このように、パウロは主キリストによって強く捕らえられているからこそ、彼自身もまた「何とかして捕らえようと努めているのです」。主キリストによって固く、強く、捕らえられているという根拠があるからこそ、その確かな事実があるからこそ、主キリストを捕えようとする彼の少しばかりの努力であっても、それは決して無駄に終わることはないし、間違ってはいないと確信できるのです。

 とは言っても、パウロは「既にそれを得たとか、完全な者になった」と思っているのでは全くありません。彼は自分の未熟と未完成を知っています。まだ道の途中にあることを知っています。このことは、6節の「律法の義については非のうちどころのない者でした」という彼の過去との対比の中で語られていると推測できます。かつてユダヤ教ファリサイ派の指導者として、律法を守ることによって完全な信仰者になろうとしていた彼は、だれよりも完璧にその道を進んでいると思っていたでしょう。律法の義を一つ一つ積み上げ、完全に近づいていると思っていたかもしれません。しかしながら、主イエス・キリストの十字架の福音を知ってからは、自分の力や努力で積み上げてきたそれらのものは、全く空しいものでしかなかった、本当の目標を目指しているものでもなかったということに気づかされたのです。

 ある解釈によれば、この個所にはパウロが反対している異端的なグループの考え方が反映されていると言われます。それは、霊的グノーシス主義者というグループです。このグループの人たちは、自分たちは神から与えられた特別な知識・グノーシスを持っているので、神と霊的に一体となり、この世の罪と汚れからすでに完全に清められている、すでに完全な救いを獲得している、完全になっていると主張して、十字架の福音を否定するようになっていたと考えられています。パウロの他の手紙をも参考にすると、初代教会を脅かしていた異端的な教えは9節で言及されていたユダヤ主義的律法主義とこのグノーシス主義との二つがあったのではないかと推測されています。いずれも、主キリストの十字架の福音によって救われるという、キリスト教信仰の中心を否定するものでした。

 そこでパウロは13~14節で、主キリストの福音を信じ、主キリストに捕らえられている信仰者の生き方について、より具体的に語ります。【13~14節】。

ここでパウロは信仰者の生き方を競技場での競争にたとえています。信仰者は競技場を走る一人の走者・ランナーだと言っています。同じようなたとえは、すでに2章16節でも用いられていましたが、他の手紙には多数見いだされます。2章16節には、「自分が走ったことが無駄でなく」とあり、ガラテヤの信徒への手紙やテモテへの第二の手紙4章7節でも、信仰生活を「走る」と表現しています。最も代表的な個所であるコリントの信徒への手紙一9章24節以下を読んでみましょう。【24~27節】(311ページ)。

信仰とはこのように活動的で、生き生きとしていて、常に前方に向かって進んでいきます。それは、主キリストによって捕らえられているからです。主キリストから常に新たに恵みを与えられ、常に新たに命と力とを注入され、常に新たに造り変えられていくからです。それは常に新しく語られる神のみ言葉の恵みと力と命であり、常に新たに注がれる聖霊の導きです。それは若くて活力がある人だけのことではなく、年老いて体の自由が利かなくなった人にも、病気で寝たきりの人にも、今死に行かんとしている人にも、すべての信仰者に当てはまることです。その人たちもまた主キリストによって捕らえられているからです。否、主キリストの恵みはそのような人たちにこそ、より豊かに与えられるのです。

13節で、「ただ一つ」と言われています。この一つのことだけが重要だという意味です。キリスト者にはただ一つの道だけが備えられています。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、一つの目標を目指して走り続ける」ことです。スタートラインには主イエス・キリストがおられます。ゴールにも主イエス・キリストがおられます。主イエス・キリストはわたしたちの信仰の創始者であり、また完成者であられます。それゆえに、主イエス・キリストと共に、主イエス・キリストを仰ぎ見ながら、忍耐強く走りぬくことができるのです(ヘブライ人への手紙12章2節以下参照)。

「後ろのものを忘れ」とは、パウロにとっては4~6節に言及されている彼の誇るべき過去であり、その時にはまだ気づいていなかった罪とその悪魔的な力であり、ある人にとっては、大きな失敗やだれかを傷つけた暗い過去であり、だれかにとっては自分の業績や築き上げた財産であり、しかし今それらのすべてにはもはや縛られることなく、そのすべてを忘れ、そのすべてを後ろに投げ捨てて、ただひたすらに前方にあるものに向かって身を伸ばしながら、差し出されている目標を目指して走り続けること。これが主キリストによって捕らえられている信仰者の生き方です。それは何と確かな、命と希望に満ちた、それゆえにまた平安で幸いな道であることでしょうか。主イエス・キリストがご自身の十字架の死と復活によって勝ち取ってくださった罪と死とに勝利した道であり、主イエス・キリストご自身が先だち行かれた道だからです。

14節では続けて、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」と言われています。「上へ」とは、下ではなく上という意味ではなく、上とは天の方向、父なる神がいます方向のことです。信仰者は今は地に住んでいます。しかし、この地に最終的な目的地があるのではありません。墓場が最後に行きつく場所ではありません。この地上に何かを築くことが、あるいはこの地上から何かを得ることが、生きる目的なのでもありません。信仰者の目と心は上に、天に向けられます。信仰者が生きる方向は上に向かって、天に向かっています。

天にいます父なる神がみ子なる主イエス・キリストによって信仰者を上へと、天へと召していてくださるからです。「召す」とは、神の呼びかけであり、招きです。わたしたち人間がそこを目指して努力しなければならないのではありません。あるいは、一部の優秀な人間だけが、特権を持った人間だけがその道を進むことがゆるされるというのでもありません。神の召し、神の呼びかけ、神の招きは、主イエス・キリストを信じるすべての人に備えられています。ちなみに、この「召す」というギリシャ語から教会を意味するエクレーシアという言葉が生まれました。教会は上へと召してくださる神によって集められている信仰者の群れなのです。

神が上なる天において信仰者にお与えになる「賞」とは具体的に何でしょうか。すぐ前の11節から推測すれば、「死者の中からの復活」と言ってよいかもしれませんし、またこの後の20節によれば、信仰者の本国である天の国、神の国、21節の言葉で言えば、主キリストと同じ栄光ある体と言ってもよいでしょう。あるいは、救いの完成という言葉で総括できるでしょう。いずれにしても、前にも確認しましたように、その賞とは、わたしたちがこの地上で手にしたり、見たり聞いたりできるようなものとは全く違った、それらよりもはるかに勝った、尊く、永遠の輝きを持ったものであることは間違いありません。これまでのすべての信仰者たちがこの賞を得るために、この賞を目指して、この賞を待ちこがれながら、信仰の道を走り続けてきたのでした。旧約聖書の信仰者たち、預言者たち、主イエスの弟子たち、パウロとフィリピ教会の教会員たち、2000年の全世界の教会の民、そしてわたしたちの教会の先輩たちも、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るためにひたすら走り続けて」きたのでした。わたしたちもまたそのように走り続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの目と心と行いとが天にいます主キリストへと

向けられますように、絶えずあなたが命のみ言葉をもってわたしたち一人一人を導いてください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月8日説教「洗礼者ヨハネの登場」

2020年3月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書3章1~6節

説教題:「洗礼者ヨハネの登場」

 ルカによる福音書はこれまで洗礼者ヨハネと主イエス・キリストの記録を交互に記録してきました。洗礼者ヨハネの誕生予告が年老いたザカリアとエリサベト夫婦に告げられたこと、続けて主イエス・キリストの誕生予告がまだ結婚していなかったおとめマリアに告げられたこと。次に、神の奇跡によって母になろうとしていたエリサベトとマリアが出会ったこと、そこでは二人の胎内に宿っていたヨハネと主イエスがすでに出会っていたこと。そして、洗礼者ヨハネが誕生したこととそれに続く主イエスの誕生のことという具合に。もちろん、ルカ福音書が語ろうとしている主題は、洗礼者ヨハネのことではなく、彼の後においでになる主イエスこそがイスラエルと全世界の唯一のメシア・救い主であるということなのですが、きょうの礼拝で朗読された3章1節以下でもそのことをあらかじめ確認しておくことが重要です。つまり、1~20節まで、洗礼者ヨハネの活動について書かれている内容は、そのあとの20以下で語られる主イエス・キリストとの関連の中で、来るべきメシア・救い主のために道を備える先駆者としてのヨハネの務めが語られているのだということです。そして、ヨハネについての記録は3章1~19節までで終わりますが、本来の主題である主イエス・キリストのことについては、この福音書の終わりの24章まで続いています。洗礼者ヨハネの誕生から彼の生涯、そして彼の死に至るまでの全生涯は、彼の後においでになる主イエス・キリストとの関連の中で語られているのです。

 もう一つのルカ福音書の特徴は、2章1~2節では主イエスの誕生が当時の世界史との関連の中で語られていたように、3章1~2節ではヨハネの活動開始が当時の世界史との関連の中で語られてるということです。しかし、このこともまた、最初にお話ししたように、主イエス・キリストとの深いつながりの中で語られているのであって、3章20節から始まる主イエスの活動開始と世界史とが関連付けられていると読むべきです。つまり、主イエスが、23節に書かれているように、「およそ三十歳で宣教を始められた」その時の時代背景がここでは語られているということです。

 その時代とは、1~2節にこう書かれています。【1~2節】。ティベリウスはローマ帝国第二代の皇帝でした。2章1節で主イエス誕生の時に初代皇帝であったアウグストゥスのあと、紀元14~37年の長い間全世界を支配していました。ティベリウスはローマ帝国の支配をヨーロッパ全土から地中海周辺地域、中東諸国にまで広げ、ローマ帝国の支配が余りにも強大でだれも反乱できないことから、のちの歴史家はこの時代をローマの平和(パクス・ロマーナ)と呼びました。けれども、その平和は剣によってかろうじて保たれていた平和であって、本当の平和ではもちろんありませんでした。彼の治世の15年目に宣教活動を始められ、その3年後に、ローマの支配下にあったパレスチナの一角エルサレムで十字架につけられて死なれた主イエス・キリストこそが、人間の罪をゆるし、全人類に神との和解を与え、すべての人間にまことの救いと平和とをお与えになる救い主であられます。

 次のポンティオ・ピラトは紀元26~36年までの間、ローマ帝国ユダヤ州の総督として派遣されていました。彼の裁判で主イエスが最終的な死刑判決を受けたことを、わたしたちはこの福音書の23章で聞くことになります。ピラトはローマ帝国の全権によって、つまり全世界の名によって、神のみ子を罪ありと宣告し、そのみ子の血の責任を全世界の民を代表して負うことになったのでした。わたしたちが礼拝の中で『使徒信条』によって「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と告白するのは、その意味なのです。

 ヘロデとあるのは、主イエス誕生の時にイスラエル全土の王であったヘロデ大王の4人の息子の一人で、ヘロデ・アンティパスが正確な名前です。父ヘロデ大王の死後、イスラエルは4つに分割されて彼の息子たちがローマの権力の傘のもとで領主となりました。ヘロデ・アンティパスは主イエスの故郷ガリラヤの領主であったために、23章6節以下によれば、主イエスの裁判に携わることになりました。ヘロデ・アンティパスもまた全イスラエルの名によって主イエス・キリストの十字架にかかわっていたのです。

また、2節ではアンナスとその義理の息子カイアファは大祭司であったと言われています。本来、大祭司は一人で、紀元15年にアンナスはその職を退いてカイアファにゆずったのですが、その後も背後にあって大祭司としての権力を握っていたために、「大祭司」という言葉は単数形なのに二人の名が挙げられているのはそのためです。

 以上のことから分かるように、当時のイスラエルは神に選ばれた聖なる民でありながらも、異教徒の王・ローマ皇帝に支配されていました。神と契約を結んだダビデ王家が途絶えて久しく、国土はいくつにも分割され、ヘロデ王家は異教徒の血を引いており、この世の享楽を求め、権力争いを繰り返すことに明け暮れ、しかも民衆を抑圧し、苦しめていました。宗教的指導者の頂点に立つべき大祭司も、その本来の務めである、神と国民に仕えることを忘れ、自分の権力や名誉を求めることに終始していました。政治も宗教も神から遠く離れ、堕落し、腐敗していたのでした。

 けれども、神はなおもこの国をお見捨てにはなりませんでした。ご自身が選ばれたこの民をなおも愛され、この民にみ言葉をお語りになるのです。2節の終わりに、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と書かれてあるとおりです。神はこの国になおも新しい預言者をお立てになります。旧約聖書の中で預言され、待ち望まれていたメシアの到来の間近になって、最も偉大な預言者ヨハネをとおして、ご自身のみ言葉をお語りになり、ご自身の救いのみわざをなし続けられ、そして完成されるのです。神に愛され、選ばれた民イスラエルは、ほとんど死にかけてはいましたが、神のみ言葉はなおも生き続けています。この国の民の中に預言者を起こし、この国を顧みられ、死にかけていたこの民に新しい命を注ぎ込むのです。

 「神の言葉が……ヨハネに降った」という個所は直訳すると、「神の言葉がヨハネの上に現れた」となります。神のみ言葉がヨハネの上に、彼の全身を覆うように、彼の全存在、全人格を覆うように現れ、彼を支配したという意味が込められています。同じ表現は、旧約聖書の預言書に数多く表れます。エレミヤ書1章では、2節、3節、4節、11節等に、繰り返して、「主の言葉が臨んだ」と書かれています。言葉は普通耳で聞くものですが、神のみ言葉は耳だけでなく、わたしの全存在を上から覆うように語られ、強い力と命をもってわたし全体を支配し、わたしを揺り動かし、わたしを神のみ言葉によって新しく創造し、新しい道に生き、神と隣人とに喜んで仕えていく者とするのです。

 ヨハネは今、旧約聖書の預言者たちの列の最後に立ち、最も近くで、来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストの到来を預言するために、神のみ言葉によってとらえられたのです。その意味で、ヨハネは最も偉大なる預言者です。

 わたしたちはここで、ルカ福音書が主イエスの宣教活動を語り始めるに当たって、それに先立って、当時の世界とイスラエルの支配者である王と大祭司と預言者について語ろうとしているのはなぜかを考えておきたいと思います。王、祭司、預言者はイスラエル社会の重要な3つの務めでした。それぞれがその職務に就く際には、王、祭司、預言者は頭からオリブ油を注がれました。神による聖別と神の祝福が注がれるしるしとなりました。そのようにしてその職務に就いた人を「油注がれた者」、ヘブライ語では「マシーアハ」(日本語ではメシア)と呼ばれました。そこから推測できるように、ルカ福音書は主イエスこそがイスラエルの王、祭司、預言者の務めを完成される「油注がれた者」、メシアであるということを暗示しているように思われます。

 キリスト教の教理では、これをキリストの3職と言います。主イエス・キリストはまことの、永遠の王として、また、まことの、永遠の祭司として、そして、まことの、永遠の預言者として、イスラエルと全世界のすべての人々の救いを完成された「油注がれた者」、メシアであるという教えです。このキリストの3職という教理についてもう少しみていきましょう。

 まことの王であるとは、主イエス・キリストは地のもろもろの王たちの中の王であられ、地のすべての人たちを永遠にご支配される唯一の王であられ、しかも、この世の王たちのように、権力や武力、経済力によって民を支配するのではなく、愛と恵みによって、すべての人に僕(しもべ)のごとくお仕えになり、ご自身の命を注ぎつくされて、十字架の死と復活によって罪と死とに勝利された永遠の王であられ、来るべき神の国の王であられるという教えです。ローマ皇帝もまたこのまことの唯一の王であられる主イエス・キリストのみ前にひれ伏さなければなりません。

 まことの祭司であるとは、祭司は神と神の民イスラエルとの間に立ち、本来その両者には罪という大きな溝があるのですが、その溝を埋め、神と民とをつなぐ役割を果たすのがその務めです。そのために祭司はエルサレム神殿で日ごとにイスラエルの民の罪の贖いのために動物を神にささげます。主イエスは全人類の罪の贖いの供え物として、ご自身の罪のない清い血を父なる神にささげるために十字架で死なれました。その一度の完全な贖いの犠牲によって、全人類の罪が永遠にゆるされているのです。

 まことの預言者であるとは、主イエスは神のみ言葉をお語りになるだけではなく、ご自身が神のみ言葉として、神のみ言葉が肉となって(これを受肉と言いますが)、人となられてこの地においでくださいました。そして、神の救いのみわざをご自身の全生涯とその最後のご受難、十字架の死、三日目の復活によって完成されました。それによって、旧約聖書のすべての預言者たちが預言したメシア・キリスト・救い主のみわざを成し遂げてくださったのです。主イエスは預言の成就、預言の完成、神のみ言葉そのものであられます。

 主イエスはそのようにして、王、祭司、預言者の務めを完全に果たしてくださいました。洗礼者ヨハネはそのような来るべきメシアの到来に備えて、荒れ野に出て、人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。主イエス・キリストは今も天で父なる神の右に座しておられ、わたしたちのまことの王として、まことの祭司として、またまことの預言者として、わたしたちの救いの完成のために執り成していてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、み子、主イエス・キリストによってわたしたちの救いを成就してくださいましたことを、感謝いたします。どうか、主キリストがわたしたちのまことの王として、まことの祭司として、まことの預言者として、永遠にご支配くださり、お導きくださいますように。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。  主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月1日説教「人間の罪と神の裁き」

2020年3月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章8~19節

    ローマの信徒への手紙8章1~11節

説教題:「人間の罪と神の裁き」

 蛇の誘惑に負けて神に禁じられていた木の実を取って食べ、罪を犯した人間アダムとエバは、神のみ前から身を隠して生きる者となりました。「アダムよ、お前はどこにいるのか」との神の語りかけに対して、アダムは10節でこのように答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」けれども、この答えは神の問いかけに対する正しい応答でないことは明らかです。次の11節のみ言葉がアダムの誤りを二つの点で浮かび上がらせます。【11節】。

一つは、彼が裸であったので、神を恐れて身を隠したという理由が正しくないということです。アダムが裸であることを知ったのは、7節に書いてあったように、善悪の知識の木の実から取って食べ、彼の目が開かれたからであって、もともとアダムもエバも裸であったけれど、二人ともそれを恥ずかしがりなしなかったと2章25節に書いてありましたから、裸であることは神のみ前でも一緒に生活していたエバの前でも決して恥ではなく、恐れでもなかったのです。

そうであったのに、お互いが恥を覚え、また神のみ前で恐れを覚えるようになったのは、神の戒めに背いて罪を犯したからにほかなりません。そこで神は「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と、彼らの背きの罪を直接に指摘されます。彼が神を恐れなければならなくなったのは、彼が神の戒めを破って罪を犯したからにほかなりません。神はアダムにその罪を自覚させるのです。

ここでの、アダムの正しい応答はどうあるべきか、その答えは、これまで創世記を学んできたわたしたちには、また主イエス・キリストによって罪ゆるされていることを知らされているわたしたちには、その答えが分かります。それは、神のみ前にひれ伏し、罪を告白をし、悔い改めることにほかなりません。きょうの礼拝の初めに、交読詩編6編で告白したように、「主よ、怒ってわたしを責めないでください。主よ、憐れんでください。主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。わたしを救ってください」と祈り求めることこそが、神によって罪を知らされたアダムに求められていることなのです。

しかし、続けてわたしたちが12節以下で聞くように、アダムとエバは神のみ前に罪を告白し、悔い改めて神に立ち帰ることができませんでした。ここで、わたしたちはあらかじめ一つのことを確認しておくべきでしょう。神の戒めに背いて罪を犯し、神から離れてしまった人間は、だれも自分の意志や自分の努力で自らの罪を知ることはできないし、罪を悔い改めて神に立ち帰ることもできないのだということです。人間はただ罪の道を進むことしかできず、罪に罪を重ねて、ついには滅びに至ることしかできないのだということでです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙7章18節以下でこのように語っています。【18~20節】(283ページ)。そして【24~25節a】。わたしたち人間は主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされていることを信じる時にはじめて、自分の罪に気づかされ、また、神の悔い改めへの招きに応えることができるのです。

では、創世記に戻りましょう。【12節】。神の語りかけによって自らの罪に気づかされたアダムはどうしたでしょうか。わたしたちが内心期待していたように、自分の罪を認め、その責任を取ることができたでしょうか。否、そうではありませんでした。彼は自分で自分の罪の責任を負うことができなかっただけでなく、その責任を妻であり、エデンの園で共に生きるべきパートナーであるエバに負わせようとします。いや、それだけではありません。あたかも自分の罪の責任が神にあるかのように、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と言うのです。何という言葉でしょうか。「あの女に責任がある。しかも、あの女をわたしの妻としたのはあなたなのだから、最終的にはあなたにわたしの罪の責任がある」と言うのです。何と恐るべき、人間の罪の姿でしょうか。

ここには人間の罪が行き着く究極の姿が表れています。それは、神に罪ありとし、神を裁こうとする人間の傲慢です。自らの罪を覆い隠すために、造り主なる神に罪の全責任を負わせようとするのです。そのような人間の罪の究極的な姿を、わたしたちは神のみ子主イエス・キリストの十字架に見るのです。神がイスラエルと全人類を罪から救うためにこの世にお遣わしになったメシア・キリスト、罪なき聖なる神のみ子を、人々は偽り者、神を冒涜する者、犯罪人として裁き、十字架に引き渡したのです。ここに、人間の罪の頂点があります。けれども、神はこの人間の罪の頂点を救いの中心に変えてくださいました。

アダムはエバを「女」と呼び、彼女に罪の責任を負わせています。エバもまた13節で自分の罪の責任を蛇に負わせようとしています。【13節】。ここで完全にアダムとエバの関係はこわれています。アダムとエバはお互いに向かい合う、差し向かいの関係ではなくなっています。アダムにとってエバは神がお与えくださったふさわしい助け手、パートナー、共に生きるべき連体的人間でした。けれども、今や、罪によって、その関係は崩れ去りました。エデンの園で神のみ言葉を共に聞き、共に神に仕えるように創造された人間アダムとエバは、今や、相対立する関係、敵対する関係となり、分裂してしまいました。罪によって神との関係がこわれると、必然的に人間と人間との関係もこわれてしまいます。彼らは一緒になって罪の底に沈んでいくしかできません。彼らは共に罪に抵抗し、あるいは共に罪を告白し、悔い改めをする信仰の仲間ではありません。自分の罪の責任を自分で負うことをせず、他者にその責任を転嫁し、人間の関係を分断することしかできない、罪の悲惨な姿をわたしたちはここに見るのです。これが、人間の罪の現実です。

14節からは、神の裁きが語られます。【14~15節】。まず、蛇に対する神の裁きが語られます。ここで神は蛇に対しては一方的に裁きと呪いの言葉を語っています。アダムとエバに対しては9~13節で、神は彼らと対話をしておられます。その対話の中で神は、人間が悔い改めて神に立ち帰る機会を与えておられたのだということをわたしたちはすでに聞き取ってきました。ここではまだ神と人間との特別に近い関係がそのまま維持されていることに気づきます。神に創造された被造物の中でただ人間だけが神と対話できます。人間が罪を犯した後でも、神はその神と人間との特別な関係を人間から取り去りはしていません。ここにすでに、罪を犯した人間への神の愛と憐れみがあることを知らされるのです。

それに対して、蛇には何の弁解の余地も与えられずに、裁きと呪いの言葉が直接に語られています。蛇は野の獣の中で呪われたものとなったと言われているのは、地を這いまわるその姿が不気味に思われたという理由からだけでなく、それ以上に、蛇が人間を罪へと誘惑する者となったからです。蛇そのものがサタンと同じだと言われている箇所は聖書にはありませんが、その不気味な姿を隠しながら、甘い言葉で人間を罪に誘惑する得体のしれないサタンや悪魔の姿を蛇は象徴的に表していると言えます。

15節では、そのサタンの象徴である蛇と、アダムの子孫である人間との果てしない戦いについて語られています。アダムとエバの罪以来、人間は常にサタンの誘惑にさらされ、罪との戦いをしなければならなくなりました。時に血を流し、ときには命をかけた罪との果てしない戦いが、人類の歴史の中で繰り返されていくのです。その戦いがいつまで続くのか、その結末がどうなるのか、わたしたちはすでにその答えを知らされています。わたしたちの救い主なる主イエス・キリストが、罪と死とに勝利され、今は天におられ、父なる神の右に座しておられ、この地を支配しておられることを。

16節では女エバに対する裁きが、17~19節では男アダムに対する裁きが語られます。この個所を読むにあたって、わたしたちがあらかじめ心得ておくべきことは、ここから聖書が女性とはこのような者だとか、男性とはこのような者だと言っていると単純に結論づけるべきではないということです。ここに書かれていることは神の裁きとしての男アダムと女エバの姿であって、わたしたちはこの個所を、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされている者たちとして、主キリストのうちに置かれている男と女を読み取っていくべきだということです。

さらに、それ以上に重要なことは、神が人間の罪をお裁きになるのはなぜかということです。その意味を考えてみましょう。一つには、神は人間の罪を見過ごしにはなさらないということです。神は罪を憎まれます。なぜならば、神はご自身の戒めが人間の罪によって軽んじられ、踏みにじられることをおゆるしにならないからです。神の戒め、神のみ言葉は神の意志であり、神のみ旨であり、それゆえに命と恵みに満ちています。それは、本来は、人間を生きた存在にし、人間を喜びと感謝で満たすものです。神はご自身のみ言葉の真理を守られます。また、神は義なる神であり、ご自身の義をお守りになります。神の義が、人間の罪や邪悪や不正によって傷つけられることをおゆるしになりません。神はご自身が義なる存在であると同時に、人間との間の義なる関係をもお守りになられます。

したがって、神が人間の罪をお裁きになるのは、罪を犯した人間に対する怒りとか復讐心とか、単なる懲らしめとか罰ではありません。神の裁きは、むしろ、罪びとを罪の中に放っておかれず、罪の中で滅びてしまうことをおゆるしにならない、神の義と愛と憐れみによるのだということをわたしたちはあらかじめ確認しておかなければなりません。

そして、そのような神の罪びとに対する裁きと、その中にある神の義と愛と憐れみとが最も鮮やかに現わされたのが、主イエス・キリストの十字架なのです。主イエス・キリストの十字架の死は、人間の罪に対する神の最も厳しい裁きでした。神はその罪びとに対する最も厳しい裁きをご自身のみ子に下したもうたのです。主キリストはわたしたち罪びとが受けるべき神の厳しい裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、それによって、わたしたちを神の怒りと呪いから救い出し、わたしたちを罪の奴隷から贖い出してくださったのです。この主キリストの福音から、きょうのみ言葉で語られているアダムとエバに対する裁きを読んでいかなければなりません。

15節では、女エバに対する神の裁きが二つ語られています。一つは、子どもを出産する時の苦しみ、もう一つは男が女を支配するという関係です。出産の時の苦しみについて、主イエスはヨハネによる福音書16章21節以下で弟子たちにこのように言われました。「女が子どもを産むとき、苦しむけれども、子どもが生まれると、それが大きな喜びに代わる。それと同じように、わたしが十字架で死ぬときにはあなたがたは悲しむ。けれども、復活したわたしに再会するとき、あなたがたは喜びに満たされる」と。出産の苦しみよりも、主キリストにある新しい命の誕生の喜びの方がはるかに大きいと主イエスは言われます。

男と女の支配関係については、主キリストにあっては男も女もない、ただお一人、主キリストだけがすべての人の唯一の主であるということをわたしたちは知らされています。男と女は共に一人の主イエス・キリストにお仕えしていく一つの信仰者の群れとなるのです。

16節以下の男アダムに対する裁きは労働の苦しみが主な内容になっています。男は額に汗して荒れ地を耕し、パンを得るために一生労苦しなければならない。そしてついには、死んで土にかえっていくほかないと語られています。主イエスはマタイによる福音書4章4節で、悪魔の誘惑をお受けになった時にこのように言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。主イエス・キリストの福音を信じる信仰者には、この世の朽ち果てるしかない食物のために生きるのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉によって生きる道が備えられています。

(執り成しの祈り)

〇わたしたちの命と死とをみ手のうちのご支配しておられる全能の父なる神よ、どうぞわたしたちに天からのまことの命のパンをお与えください。わたしたちが、永遠のみ国を待ち望みつつ、あなたのみ言葉に聞き従っていく信仰の道を進むことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月23日説教「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

2020年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    フィリピの信徒への手紙3章1~11節

説教題:「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

 「喜びの書簡」と言われているフィリピの信徒への手紙3章1節で、わたしたちは何度目かの「喜びなさい」という勧めを聞きます。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。すでに、2章18節で、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧められていました。このあとでは、4章4節で、「主において常に喜びなさい」と勧められています。勧められていると言いましたが、文法的には命令形です。喜ぶことが命じられています。

使徒パウロがここで「喜べ」と命じているのは、その人の性格が楽観的で、いつも人生を陽気に楽しんでいれるからとか、その人の状況が喜ばしいからとか、その人が他の人に比べて喜ばしい環境にあるからとか、そのような理由によるのではありません。たとえ今、あなたが悲しみや苦しみのただ中にあろうとも、恐れや不安があなたを覆っていようとも、それでもなおもあなたに命じる、「あなたは喜べ、喜んでよい、喜ぶことがゆるされている」という、喜びへの招きをパウロはここで語っているのです。

 それはどのような喜びでしょうか。「主において」がキーワードです。主イエス・キリストにある喜びです。主イエス・キリストにつながれているとき、主キルストとの交わりの中で、主キリストから与えられる喜びです。わたしたちはその喜びの内容をいくつもの表現で言い表すことができるでしょう。主キリストによって罪から救われている喜び。主キリストによって愛され、見いだされている喜び。主キリストによって神の子たちとされ、神の国の民の一人とされている喜び。主キリストによって生きる目標と希望とを与えられている喜び。主キリストによって、朽ち果てる命ではなく、枯れることもしぼむこともない永遠の命を約束されている喜び。それゆえに、貧しく弱く迷いやすいわたしが、神と隣人とに喜んで仕えていくことがゆるされている喜び。

それは何という、豊かな、大きな、深く、そして高価で尊く、永遠の喜びであることでしょうか。この世でわたしたちが経験するどんな喜びよりもはるかに高い天からくる喜び、この世の憂いや悲しみ、不安や恐れのすべてを追い払い、それらに勝利する喜び、唯一無比なる喜び、そのような喜びへとパウロはわたしたちを招いているのです。彼はこのあとで、彼自身が主キリストによって与えられたこの大きな喜びのゆえに、他のすべてのものを喜んで投げ捨てたということを語るのを、わたしたちは聞くことになります。そこで再びこの喜びについて考えることにしましょう。

2節から急に語調が変化します。【2節】。ここでまず問題となるのは、1節の後半の「同じことをもう一度書きますが……」はどの内容のことを言っているのかということです。「喜びなさい」ということを何度言っても、それは煩わしいことだとは言えないので、その内容は2節以下を指していると考えられます。「同じこと」が2節以下で語られているフィリピ教会の間違った信仰理解に対する警告を指しているとすれば、同じような内容がこの手紙には見当たりませんので、パウロはすぐ前にもフィリピ教会にあてて別の手紙を何度か書いており、その中で間違った信仰理解について注意するようにとすでに警告していたということになります。

パウロの宣教によって建てられ、またパウロと最も良い関係にあって、獄中のパウロのために祈り、支援物資を贈っていたフィリピ教会でしたが、教会の内外からの攻撃にさらされており、試練の中で厳しい信仰の戦いをしていたという現実を、わたしたちはここで知らされるのです。

パウロがここで「あの犬ども。よこしまな働き手たち」という、多少荒々しい言葉を用いて批判しているフィリピ教会の指導者たちはどのような間違った信仰理解をしていたのでしょうか。彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われています。つまり、彼らは割礼の儀式を重んじ、割礼を誇っている人たちでした。割礼はイスラエルの民ユダヤ人が神に選ばれた民であることをしるしづける儀式でした。創世記17章で神はアブラハムにお命じになりました。「イスラエルの家に生まれた男子はみな生後8日目に、男子の性器の皮の一部を切り取りなさい。これがわたしとイスラエルの民との間の永遠の契約のしるしとなる」と。

主イエスご自身も生まれて8日目に割礼を受けられたということを、わたしたちはルカによる福音書2章21節で聞きました。主イエスはイスラエルの律法の下にお生まれになり、契約の民の一人として生きられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。それによって、律法の支配下にあったイスラエルの民を律法の奴隷から自由にしてくださいました。そして、イスラエルの民と異邦人である全世界のすべての人たちが、律法によらず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる道を切り開いてくださったのです。

したがって、主イエス・キリストの福音を信じる信仰者にとっては、もはや律法は救いのためには役立たず、それゆえにまた、割礼も救いのためには何の役にも立ちません。すでに割礼を受けていたユダヤ人にとっては、それは単なる切り傷に過ぎないとパウロが言うのはそのためです。ユダヤ人はもはや割礼によって救われるのではなく、だれも割礼を誇ることはできません。そうであるのに、フィリピ教会の一部の指導者たちは自分たちの割礼を誇り、それだけでなく、ユダヤ人以外の異邦人からキリスト者になった人たちにも割礼を強要し、主キリストの福音を信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ完全な救いを得られないと教え、教会に混乱を招いていたのです。彼らをユダヤ主義的・律法主義的キリスト者と名づけることができるでしょう。

しかし、パウロはそのようなユダヤ主義的・律法主義的キリスト者には断固として反対しています。それは、結局は主イエス・キリストによる救いの恵みを半減させる、否それどころか、主キリストの福音を否定し、それと対立するものだからです。それは、人間を誇り、肉を誇ることだからです。人間の肉はみな罪にけがれており、やがて朽ち果てるものに過ぎません。それは決して人間を救うことはできません。そのような教えは主キリストの教会を分裂させ、ついには破壊するほかありません。

そこで、パウロは3節でこのようにいます。【3節】。旧約聖書時代の古い肉による割礼はもはや必要なくなりました。なぜならば、主イエス・キリストによって新しい霊による割礼が与えられたからです。主キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神の民とされる新しい契約が結ばれたからです。キリスト者は主キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて、エルサレムの神殿でささげられていた肉による礼拝ではなく、主キリストの教会でささげられる霊による礼拝に連なっています。それゆえに、キリスト者はもはや肉に頼ることも肉を誇ることも必要ありません。キリスト者はただ主イエス・キリストだけを頼みとし、主イエス・キリストだけを誇ります。

次に、4節からパウロは彼自身のことを語りだします。【4~6節】。パウロは生まれながらのユダヤ人でした。しかも、高度の宗教教育を受け、旧約聖書の律法を専門に学ぶファリサイ派に属し、律法の一つ一つを忠実に行うように心がけ、それゆえに、信仰によって救われると教えて律法を軽んじているように思われたキリスト者と教会とを激しく迫害していました。この点において、彼は肉にあるユダヤ人として誇るべき多くのものを持っていました。

けれども、パウロは自らの肉を誇るために自分自身について語ったのでは全くありませんでした。そうではなく、反対に、それらのすべてを投げ捨てるために、それらのすべてよりもはるかに勝った大きな恵み、絶大なる価値を見いだしたことを語るのです。【7~11節】。

パウロはここで、彼が主イエス・キリストと出会ったことによって与えられた大きな変化、、大いなる価値の転換、大逆転について、非常に印象的に、彼の全存在をかけて、語っています。ある人はこう言います。「パウロにとって、プラスであったものがゼロになったというのではなく、プラス自体がマイナスに変わったのだ」と。パウロ自身の言葉では、「有利であったもの」が「損失」となったのです。かつては誇りであったものが、今では塵あくたになったのです。主イエス・キリストと出会い、主キリストの福音を信じた信仰者は、それまでの人生観が少し変わったとか、今まで気づかなかったことが気づくようになったとか、少し明るい性格になり、気分が楽になったというだけではなく、それまでの自分とは全く違った新しい人として再創造されるのであり、それまで大事だと思っていたものすべてがもはや悪臭を放つ塵あくたになり、それまでに誇っていたもの、楽しみにしていたもののすべてが、むしろわたしを罪に誘うものであり、忌み嫌うべきものであり、わたしをまことの命へではなく、むしろ滅びへと導くものであったのだということを知らされるのです。8節のみ言葉によれば、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、このような大転換をキリスト者に与えるのです。

ここで、「わたしの主キリスト・イエス」という言葉について掘り下げてみましょう。ここには、「イエスはキリスト・救い主であり、わたしの主である」という短い信仰告白があります。この信仰告白はわたしたちの信仰の基本であり、中心です。わたしの罪のために十字架にかかり、死んで、三日目に復活された主イエスこそが、この方のみが、わたしの唯一の主であり、救い主である。この主以外にわたしの主はいない。わたしはわたしの主ではない。ほかのだれかがわたしの主ではない。ほかの何かがわたしの主ではない。わたしが生きる時にも、死ぬ時にも、主イエス・キリストがわたしの唯一の主として、わたしを導き、治め、わたしに必要な一切のものを備えてくださる。ここにこそ、わたしの最高の喜びがあるという信仰告白があるのです。

この喜びこそが、1節でパウロが語っていた「主において喜びなさい」と命じていた喜びです。自分の肉を誇ったり、自分が持っているものを喜んだり、あるいはこの世にあるものに喜びや楽しみを求めたりするのではなく、否むしろ、それらのすべてを投げ捨て、憎み、忌み嫌い、ただ「主にある喜び」だけをわが喜びとする。それほどに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をパウロはここで語っているのです。

9節では、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と言われています。これが、宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教えです。パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳しく語るキリスト教信仰の中心です。「律法から生じる自分の義ではなく」という個所は、律法によって自分の義を得ることができるかのように誤解される恐れがありますが、より正確には、「わたしは律法による義を持っていない」と、はっきりと否定されている文章です。だれも、律法を行うことによっては神のみ心を完全に満足させることはできません。なぜなら、人間はみな生まれながらに罪に傾いており、神から離れており、神のみ心に背いているからです。

けれども、「信仰に基づいて神から与えられる義」は、文字どおり、それは神から与えられる義であり、すべて信じる信仰者に無償で神から提供される賜物としての義であり、主キリストを信じる信仰者は一方的な神の恵みによって、神との正しい関係へと導き入れられ、神との霊による豊かな交わりへと招き入れられ、救いと平安を与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、何一つあなたのみ心に適うことができない弱い、罪多いわたしをも、主キリストのゆえに義と認めてくださり、救いと平安をお与えくださいます幸いを、心から感謝いたします。わたしが生涯、あなたから与えられている救いの恵みを喜び、あなたのご栄光をほめたたえる者とされますように。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月23日 説教「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

2020年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    フィリピの信徒への手紙3章1~11節

説教題:「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

 「喜びの書簡」と言われているフィリピの信徒への手紙3章1節で、わたしたちは何度目かの「喜びなさい」という勧めを聞きます。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。すでに、2章18節で、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧められていました。このあとでは、4章4節で、「主において常に喜びなさい」と勧められています。勧められていると言いましたが、文法的には命令形です。喜ぶことが命じられています。

使徒パウロがここで「喜べ」と命じているのは、その人の性格が楽観的で、いつも人生を陽気に楽しんでいれるからとか、その人の状況が喜ばしいからとか、その人が他の人に比べて喜ばしい環境にあるからとか、そのような理由によるのではありません。たとえ今、あなたが悲しみや苦しみのただ中にあろうとも、恐れや不安があなたを覆っていようとも、それでもなおもあなたに命じる、「あなたは喜べ、喜んでよい、喜ぶことがゆるされている」という、喜びへの招きをパウロはここで語っているのです。

 それはどのような喜びでしょうか。「主において」がキーワードです。主イエス・キリストにある喜びです。主イエス・キリストにつながれているとき、主キルストとの交わりの中で、主キリストから与えられる喜びです。わたしたちはその喜びの内容をいくつもの表現で言い表すことができるでしょう。主キリストによって罪から救われている喜び。主キリストによって愛され、見いだされている喜び。主キリストによって神の子たちとされ、神の国の民の一人とされている喜び。主キリストによって生きる目標と希望とを与えられている喜び。主キリストによって、朽ち果てる命ではなく、枯れることもしぼむこともない永遠の命を約束されている喜び。それゆえに、貧しく弱く迷いやすいわたしが、神と隣人とに喜んで仕えていくことがゆるされている喜び。

それは何という、豊かな、大きな、深く、そして高価で尊く、永遠の喜びであることでしょうか。この世でわたしたちが経験するどんな喜びよりもはるかに高い天からくる喜び、この世の憂いや悲しみ、不安や恐れのすべてを追い払い、それらに勝利する喜び、唯一無比なる喜び、そのような喜びへとパウロはわたしたちを招いているのです。彼はこのあとで、彼自身が主キリストによって与えられたこの大きな喜びのゆえに、他のすべてのものを喜んで投げ捨てたということを語るのを、わたしたちは聞くことになります。そこで再びこの喜びについて考えることにしましょう。

2節から急に語調が変化します。【2節】。ここでまず問題となるのは、1節の後半の「同じことをもう一度書きますが……」はどの内容のことを言っているのかということです。「喜びなさい」ということを何度言っても、それは煩わしいことだとは言えないので、その内容は2節以下を指していると考えられます。「同じこと」が2節以下で語られているフィリピ教会の間違った信仰理解に対する警告を指しているとすれば、同じような内容がこの手紙には見当たりませんので、パウロはすぐ前にもフィリピ教会にあてて別の手紙を何度か書いており、その中で間違った信仰理解について注意するようにとすでに警告していたということになります。

パウロの宣教によって建てられ、またパウロと最も良い関係にあって、獄中のパウロのために祈り、支援物資を贈っていたフィリピ教会でしたが、教会の内外からの攻撃にさらされており、試練の中で厳しい信仰の戦いをしていたという現実を、わたしたちはここで知らされるのです。

パウロがここで「あの犬ども。よこしまな働き手たち」という、多少荒々しい言葉を用いて批判しているフィリピ教会の指導者たちはどのような間違った信仰理解をしていたのでしょうか。彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われています。つまり、彼らは割礼の儀式を重んじ、割礼を誇っている人たちでした。割礼はイスラエルの民ユダヤ人が神に選ばれた民であることをしるしづける儀式でした。創世記17章で神はアブラハムにお命じになりました。「イスラエルの家に生まれた男子はみな生後8日目に、男子の性器の皮の一部を切り取りなさい。これがわたしとイスラエルの民との間の永遠の契約のしるしとなる」と。

主イエスご自身も生まれて8日目に割礼を受けられたということを、わたしたちはルカによる福音書2章21節で聞きました。主イエスはイスラエルの律法の下にお生まれになり、契約の民の一人として生きられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。それによって、律法の支配下にあったイスラエルの民を律法の奴隷から自由にしてくださいました。そして、イスラエルの民と異邦人である全世界のすべての人たちが、律法によらず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる道を切り開いてくださったのです。

したがって、主イエス・キリストの福音を信じる信仰者にとっては、もはや律法は救いのためには役立たず、それゆえにまた、割礼も救いのためには何の役にも立ちません。すでに割礼を受けていたユダヤ人にとっては、それは単なる切り傷に過ぎないとパウロが言うのはそのためです。ユダヤ人はもはや割礼によって救われるのではなく、だれも割礼を誇ることはできません。そうであるのに、フィリピ教会の一部の指導者たちは自分たちの割礼を誇り、それだけでなく、ユダヤ人以外の異邦人からキリスト者になった人たちにも割礼を強要し、主キリストの福音を信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ完全な救いを得られないと教え、教会に混乱を招いていたのです。彼らをユダヤ主義的・律法主義的キリスト者と名づけることができるでしょう。

しかし、パウロはそのようなユダヤ主義的・律法主義的キリスト者には断固として反対しています。それは、結局は主イエス・キリストによる救いの恵みを半減させる、否それどころか、主キリストの福音を否定し、それと対立するものだからです。それは、人間を誇り、肉を誇ることだからです。人間の肉はみな罪にけがれており、やがて朽ち果てるものに過ぎません。それは決して人間を救うことはできません。そのような教えは主キリストの教会を分裂させ、ついには破壊するほかありません。

そこで、パウロは3節でこのようにいます。【3節】。旧約聖書時代の古い肉による割礼はもはや必要なくなりました。なぜならば、主イエス・キリストによって新しい霊による割礼が与えられたからです。主キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神の民とされる新しい契約が結ばれたからです。キリスト者は主キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて、エルサレムの神殿でささげられていた肉による礼拝ではなく、主キリストの教会でささげられる霊による礼拝に連なっています。それゆえに、キリスト者はもはや肉に頼ることも肉を誇ることも必要ありません。キリスト者はただ主イエス・キリストだけを頼みとし、主イエス・キリストだけを誇ります。

次に、4節からパウロは彼自身のことを語りだします。【4~6節】。パウロは生まれながらのユダヤ人でした。しかも、高度の宗教教育を受け、旧約聖書の律法を専門に学ぶファリサイ派に属し、律法の一つ一つを忠実に行うように心がけ、それゆえに、信仰によって救われると教えて律法を軽んじているように思われたキリスト者と教会とを激しく迫害していました。この点において、彼は肉にあるユダヤ人として誇るべき多くのものを持っていました。

けれども、パウロは自らの肉を誇るために自分自身について語ったのでは全くありませんでした。そうではなく、反対に、それらのすべてを投げ捨てるために、それらのすべてよりもはるかに勝った大きな恵み、絶大なる価値を見いだしたことを語るのです。【7~11節】。

パウロはここで、彼が主イエス・キリストと出会ったことによって与えられた大きな変化、、大いなる価値の転換、大逆転について、非常に印象的に、彼の全存在をかけて、語っています。ある人はこう言います。「パウロにとって、プラスであったものがゼロになったというのではなく、プラス自体がマイナスに変わったのだ」と。パウロ自身の言葉では、「有利であったもの」が「損失」となったのです。かつては誇りであったものが、今では塵あくたになったのです。主イエス・キリストと出会い、主キリストの福音を信じた信仰者は、それまでの人生観が少し変わったとか、今まで気づかなかったことが気づくようになったとか、少し明るい性格になり、気分が楽になったというだけではなく、それまでの自分とは全く違った新しい人として再創造されるのであり、それまで大事だと思っていたものすべてがもはや悪臭を放つ塵あくたになり、それまでに誇っていたもの、楽しみにしていたもののすべてが、むしろわたしを罪に誘うものであり、忌み嫌うべきものであり、わたしをまことの命へではなく、むしろ滅びへと導くものであったのだということを知らされるのです。8節のみ言葉によれば、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、このような大転換をキリスト者に与えるのです。

ここで、「わたしの主キリスト・イエス」という言葉について掘り下げてみましょう。ここには、「イエスはキリスト・救い主であり、わたしの主である」という短い信仰告白があります。この信仰告白はわたしたちの信仰の基本であり、中心です。わたしの罪のために十字架にかかり、死んで、三日目に復活された主イエスこそが、この方のみが、わたしの唯一の主であり、救い主である。この主以外にわたしの主はいない。わたしはわたしの主ではない。ほかのだれかがわたしの主ではない。ほかの何かがわたしの主ではない。わたしが生きる時にも、死ぬ時にも、主イエス・キリストがわたしの唯一の主として、わたしを導き、治め、わたしに必要な一切のものを備えてくださる。ここにこそ、わたしの最高の喜びがあるという信仰告白があるのです。

この喜びこそが、1節でパウロが語っていた「主において喜びなさい」と命じていた喜びです。自分の肉を誇ったり、自分が持っているものを喜んだり、あるいはこの世にあるものに喜びや楽しみを求めたりするのではなく、否むしろ、それらのすべてを投げ捨て、憎み、忌み嫌い、ただ「主にある喜び」だけをわが喜びとする。それほどに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をパウロはここで語っているのです。

9節では、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と言われています。これが、宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教えです。パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳しく語るキリスト教信仰の中心です。「律法から生じる自分の義ではなく」という個所は、律法によって自分の義を得ることができるかのように誤解される恐れがありますが、より正確には、「わたしは律法による義を持っていない」と、はっきりと否定されている文章です。だれも、律法を行うことによっては神のみ心を完全に満足させることはできません。なぜなら、人間はみな生まれながらに罪に傾いており、神から離れており、神のみ心に背いているからです。

けれども、「信仰に基づいて神から与えられる義」は、文字どおり、それは神から与えられる義であり、すべて信じる信仰者に無償で神から提供される賜物としての義であり、主キリストを信じる信仰者は一方的な神の恵みによって、神との正しい関係へと導き入れられ、神との霊による豊かな交わりへと招き入れられ、救いと平安を与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、何一つあなたのみ心に適うことができない弱い、罪多いわたしをも、主キリストのゆえに義と認めてくださり、救いと平安をお与えくださいます幸いを、心から感謝いたします。わたしが生涯、あなたから与えられている救いの恵みを喜び、あなたのご栄光をほめたたえる者とされますように。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。