9月15日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年9月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネの誕生と救い主、主イエスの誕生とを互いに関連づけながら語っています。きょうもそのことに注目しながら、30節以下のみ言葉を学んでいきたいと思います。【30~31節】。これは、ザカリアに告げられた洗礼者ヨハネの誕生予告の13節に対応しています。【13節】。いずれも、神の奇跡によって、神の大きな恵みによって、子どもが与えられるはずがない二人の婦人から、男の子が生まれると予告され、またその子の名前があらかじめ告げられます。

 当時の習慣によれば、生まれて8日目に、男子であれば割礼の儀式を行い、父親が名前を付けます。ところが、この二人の場合にはそうではありません。生まれる前に神によってすでにその名前が決められているのです。親は、この子が将来このような人間に成長してほしいという願いを込めて子どもに名をつけます。それと同じように、否それ以上に、ここには名づけ親であられる主なる神の強い意志と深いみ心が示されているのです。イエスという名は、「神は救いである」という意味です。神は、ご自身がイエス「神は救いである」と名づけられたご自身の独り子によって、実際に全人類を、わたしたちすべての人間を、罪と死と滅びから救い出されるというみわざを成就し、完成してくださるのです。わたしたちがこの救い主、主イエスのお名前を信じ告白するならば、この主こそがわたしの唯一の、永遠の救い主であると信じ告白するならば、わたしたち一人ひとりにも神の強い意志と深いみ心が働き、神の救いのみわざがわたしにとって現実となり、成就するのです。

 32、33節では、主イエスがどのような方であるのかが語られています。【32~33節】。この個所も15~17節と対応しています。洗礼者ヨハネの場合には、彼の先駆者としての役割、すなわち彼の後に来られるメシア・救い主のために道を整え、人々を救い主を迎えるために準備させるという役割でしたが、主イエスの場合は、彼こそが神のみ子であり、神の救いのご計画を成就し、完成されるということが強調されています。

 「いと高き方」とは神のことです。つまり、主イエスが神のみ子であると言われています。洗礼者ヨハネは「神のみ前に偉大な人」となると15節にありましたが、主イエスは神のみ子です。ヨハネは最も近くで来るべきメシアを預言し、証ししているゆえに人間の中で最も偉大な人ですが、彼は人間です。メシア・救い主ではありません。ヨハネはただひたすらに来るべきメシア・救い主を証し、このメシアのためにお仕えすることによって、彼に神から託された尊い務めを果たすことができるのです。彼はのちに、3章16節でこのように告白しています。【3章15~16節】(106ページ)。

 主イエスは神のみ子であり、神の独り子であり、その務めは、父ダビデの王座を受け継ぎ、その王国を永遠に支配するであろうと言われています。これは、主イエスこそが旧約聖書全体が預言しているメシア・救い主であり、イスラエルの民が待ち望んでいた永遠なる神の国の王であるということです。地上の王国を支配する王は、どれほどに偉大であっても、永遠であることはできません。地上の王国には終わりがあります。けれども、神の国の王である主イエスのご支配は永遠に続きます。主イエスは罪と死とに勝利する王だからです。復活して永遠の命に生きておられる王だからです。主イエスは永遠なる神の国で、神の民のために愛と救いの恵みとをもってお仕えくださり、またその民を治められます。地上の王たちは権力や武力によって民を治め、支配し、民によって仕えられることを喜びとします。けれども、神の国の王であられる主イエスは、民のためにお仕えくださることを喜びとされ、民のためにご自身の命を十字架におささげくださるほどに、ご自身の民を愛される王です。権力や武力によって支配する王国はやがて倒れます。けれども、愛によって互いに仕え合う王国は豊かに祝福され、永遠に続きます。主イエスはこのような永遠なる神の国を完成される王としてこの世においでになったのです。

 「神は彼に父ダビデの王座をくださる」と書かれているのは、いわゆる「ダビデ契約」の成就です。サムエル記下7章12~13節を読んでみましょう。【12~13節】(旧約聖書490ページ)。これが預言者ナタンによって語られた「ダビデ契約」と言われる神の契約です。旧約聖書の民イスラエルはこの神の約束を信じて、やがてダビデ王家から永遠の王であるメシア・油注がれた王・キリストが出現することを待ち望んでいました。今や、その約束の成就のときが来たのです。

 主イエスがダビデ王家に連なるダビデの子孫であるということは、母親のマリアの側から確認することはできません。36節によれば、マリアは洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアの妻エリサベトと親類関係にあったと書かれていますので、もしかしたらマリアも祭司家系に属していたということが考えられますが、ダビデの家系だとは言われていません。主イエスの父ヨセフは27節でダビデ家に属すると書かれていますし、3章23節以下の系図でもそうなっています。また、マタイ福音書1章の系図でもヨセフはダビデの家系に連なっています。主イエスは父ヨセフによってダビデ家に連なっているということは確認できますが、しかし、ヨセフは主イエスの誕生には人間として全く関与していませんから、つまり主イエスはマリアがまだヨセフと一緒になる前に、聖霊によって主イエスを身ごもったのですから、厳密に言えば、人間的な血縁関係としてはダビデの家系に連なっているとは言えないことになります。

 そうであるとしても、主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになったと聖書は告白しています。ローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」とパウロは書いています。神はこのようにして、ご自身の永遠の救いのみわざを、人間の思いや肉のつながりをはるかに超えて、しかもそれをお用いになって、不思議な仕方で、実現されたのです。

 神の救いのみわざの不思議さは、ダビデ契約の実現の過程にも見ることができます。神がダビデ王とこの契約を結ばれたのは紀元前10世紀の前半、主イエス誕生のおよそ1000年前でした。しかも、ダビデ王家は紀元前587年のエルサレム滅亡で完全に途絶えてしまいました。神は切り倒され、ほとんど死にかけていたダビデの木の切り株から、奇跡によって、新しい芽を生え出させるようにして、その契約を成就されました。主イエスの誕生には、いくつもの神の奇跡が重なっています。

 では次に、主イエス誕生の中での最も大きな奇跡である「おとめマリアからの誕生」についてみていきましょう。わたしたちが礼拝で告白している『使徒信条』では、「主は聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白していますが、この告白は主にルカ福音書のきょうの個所とマタイ福音書1章18節以下のみ言葉に基づいています。【ルカ福音書1章34~35節】。【マタイ福音書1章18節】(1ページ)。

いわゆる「処女降誕」という告白は主イエスの十字架の福音と密接に結びついているということを見落としてはなりません。「処女降誕」という奇跡だけを十字架の福音から切り離して取り上げても正しい理解を得ることはできません。その両者の関連を考えてみましょう。

 マリアは婚約していたヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもり、神の奇跡によって、神のみ子主イエスを生むであろうと35節に予告されています。そして次の36節では、マリアの親類エリサベトも神の奇跡によってすでに身重になり、6カ月になっていると言われています。この二つの神の奇跡による子どもの誕生は、旧約聖書に記されている神の奇跡による子どもの誕生、年老いたアブラハムとサラの子イサクの誕生や、イサクの子ヤコブの誕生、あるいは預言者サムエルの誕生と共通しています。それらの子どもの誕生は、人間的には子どもが授かる可能性が全くないときに、ただ神からの一方的な憐れみと恵みによって、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神の奇跡のみ力による誕生でした。主イエスの誕生は、それらのイサク、ヤコブ、サムエル、そして洗礼者ヨハネという一連の神の奇跡による子どもの誕生の、いわば頂点にあるのです。

 しかも、イサクからヨハネに至る子どもの誕生は、人間の営みが全くなかったわけではありませんが、主イエスの誕生の場合には、マリアもヨセフも人間的なかかわりが全くなく、いわば100パーセント神の奇跡なのです。マリアは34節で、そのような神の奇跡に驚きをもって答えています。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。そこには人間の関与は一切ありません。これは神の奇跡の中の奇跡です。神は命を生み出す可能性が全くないところに、新しい命を創造し、しかも最も尊く、光輝き、すべての命の源となる命を、創造されるのです。

 このような奇跡によって誕生した人は、その命の源をすべて神に由来しているゆえに、その人の生涯全体も神のものであり、神にささげられます。これが奇跡による誕生の意味であり、目的です。その人の命は神の恵みによって与えられたのですから、その人は与えられた命を神に感謝して、神に仕える生涯を歩む者となるのです。主イエスのご生涯は、この点においても、アブラハムの子イサクから洗礼者ヨハネに至るまでの奇跡によって誕生した人たちの頂点に立っています。主イエスはそのご生涯を父なる神にお仕えし、最後にはその尊い命そのものを、わたしたち罪びとの罪をあがなうための供え物として、与え主であられる父なる神におささげになりました。

 「処女(おとめ)マリアから生まれた」という信仰告白のもう一つの重要なポイントは、主イエスは、人間の営みが一切なく、聖霊なる神のみ力によって誕生された聖なる神のみ子であるということです。この点においては、洗礼者ヨハネやイサクとは全く違っています。彼らは神の奇跡によって誕生し、生涯神に仕えましたが、しかし彼らは罪びとたちの一人でした、。生涯を神にささげ、神の救いのみわざのために仕えましたが、自らは罪びとであり、他の人を罪から救う力をもってはいませんでした。

 しかし、主イエスは聖霊なる神のみ力によって誕生された神のみ子です。聖なる、罪なき方です。わたしたち人間のすべての弱さや貧しさを知っておられ、ご自身もすべての試練や苦難を経験され、わたしたち罪びとの一人となられましたが、罪なき神のみ子として、それらのすべてに勝利されました。そのような聖なる神のみ子だけが、わたしたち人間の罪を贖い、罪から救うことができます。

 最後に、主イエス誕生の予告を聞かされたマリアの反応についてみてみましょう。【38節】。マリアにとってこの奇跡は信じがたいことでした。あり得ないことでした。しかし、そうであるにもかかわらず、マリアは神のみ言葉を信じます。ただ信仰によって、神のみ前にひれ伏し、神のみ言葉の成就を待ち望む者となりました。ここに、マリアの祝福された道があります。神の約束のみ言葉を聞きつつ、その成就に向かって進み行くマリアの幸いな信仰の歩みがあります。

(祈り)

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教 説教題:「福音の前進のために」

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記26章5~11節

    フィリピの信徒への手紙1章12~18節

説教題:「福音の前進のために」

 フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つです。そのことが、きょう朗読された箇所で明らかになります。【12~14節】。パウロは今主キリストのために監禁されています。「キリストのため」とは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために迫害を受けてという意味です。主イエス・キリストが全世界の唯一の救い主であり、だれでも主イエスの十字架の福音を信じるならば、罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされるという十字架の福音を宣べ伝えために、パウロは捕らえられ、獄につながれています。

パウロを訴えた人たち、迫害している人たちがだれであるのかは、この手紙からははっきりしませんが、使徒言行録やパウロの他の手紙から推測すれば、二つの勢力が考えられます。一つには、ユダヤ教の指導者たちです。ユダヤ教では、罪びとである人間が救われるのは、神の律法に従い、律法の一つ一つを守り、神の要求に応えることによってであると教えます。けれども、パウロが語る主キリストの福音はこうです。「だれも律法をその一つをも完全に守ることはできない。ただ主キリストの十字架の福音を信じるなら、その信仰によってすべての人は救われる。なぜならば、主キリストが罪びとたちに代わって神の律法のすべてを完全に成就されたから。それによって、信じる人をすべての罪から解放してくださったから」。このパウロが語る主キリストの福音は、ユダヤ教からみれば律法を軽んじ、神を冒涜するものだと考えられました。それが、パウロが、また初代教会がユダヤ人から迫害を受けた理由でした。主イエスご自身も同じ理由からユダヤ人指導者たちによって十字架へと引き渡されました。

もう一つは、ローマ帝国の指導者たちです。パウロが宣べ伝えている新しい宗教は、ローマ皇帝の権威を傷つけるもの、国家に反逆するものだと考えられました。「ローマ皇帝カイザルだけが全世界の主であり、すべての民はこの主のもとにひれ伏さなければならない。けれども、キリスト教はカイザル以外に主がいると教えている。国家の秩序を乱す新しい宗教は禁止されねばならない」。それがもう一つのキリスト教迫害の理由でした。パウロの時代以後、紀元1世紀の終わりからは、ローマ帝国による国家的な迫害が初代教会を大いに苦しめるようになりました。

ところで、パウロがどこの町で監禁されていたのかについても、確かなことはわかっていません。13節に「兵営全体」と書かれていますが、この兵営という言葉は、ローマの都にある皇帝の親衛隊の兵舎を指す場合も、あるいは地方都市にある総督の官邸を指す場合もあり、パウロの監禁場所がローマであるのか、エフェソかカイサリアか、特定できません。

いずれにしても、パウロはここから「わたしの身に起こったこと」を語りだします。パウロは自分が今どのような状態にあるのかをフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいと願っています。というのは、フィリピ教会が獄中のパウロを心配して教会員のエパフロディトを派遣し、支援物資などの贈り物を届けてくれたので、それに対するお礼とともに、パウロの今の様子をフィリピ教会に伝える必要があると考えたからです。エパフロディトの派遣と贈り物については2章19節以下と4章10節以下に詳しく書かれています。

パウロはここで自分の身に起こったことを語っているのですが、しかしその内容は、パウロ自身のことというよりは、彼が宣べ伝えている主キリストの福音のことです。彼は主キリストの福音を宣べ伝えたために捕らえられ、獄につながれ、裁判を受けています。しかし、そのような彼自身の境遇のことを語ろうとしているのではなく、そのことが主キリストの福音の前進となったということ、そのことをこそパウロはフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいのだと語っているのです。

12節の「かえって」という言葉の内容について考えてみたいと思います。パウロが当初予想していたこと、つまり、自分が獄に捕らえられることによって、福音を語る機会が失われるのではないか、福音の停滞になるのではないかという彼自身の不安や恐れに反して、しかし実際にはそのことが彼の予想に反して福音の前進となったという意味に理解できます。二つには、フィリピ教会の人たちがパウロのことを心配し、投獄されたことによって彼自身の気力や体力が低下したり、彼の福音宣教の働きが妨害されることになるのではないかという不安に反して、あるいは、一般的に、迫害を受けて獄につながれれば、だれであってもそのように思うであろうという予想に反して、「かえって」パウロの投獄が福音の前進となったとパウロは言うのです。

どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。13~14節にその理由が書かれています。3つにまとめましょう。第一には、パウロが監禁されているのは主キリストのためであるということがローマ帝国の兵営に勤務するローマの官憲たち全員に知れ渡るようになったからです。彼らはローマ皇帝を主と崇め、ローマ皇帝に仕えている人たちです。しかしながら、今自分たちの管理下にあるこの男、パウロという人物は、ローマ皇帝以外にキリストと言われる方が全世界の主であると主張し、そのキリストのために自らの命を懸けて証しているではないか。彼らは今までに聞いたことがない、予想したこともない新しい教えに驚かざるを得ません。

第二には、兵営の外にいるこの町の人々も、パウロの裁判の席に連なり、パウロがなぜ捕らえられ、裁判を受けているのかを知ることとなったということです。エルサレムで十字架につけられ処刑された主キリストが、三日目に復活し、すべての人たちの罪の贖いとなってくださった、すべて信じる人たちに新しい永遠の命を約束していてくださるということを、この町の人々もパウロの裁判と証言によって聞くことができたのでした。

第三には、パウロが捕らえられている町の周辺に建てられている教会やその他の信仰の仲間たちが、パウロが法廷で力強く証している様子を知り、またそれによって主キリストの福音がローマ帝国の至る所で語られている事実を見て、主キリストの福音の力、広がり、豊かさを実感するようになった。そして、落胆したり、沈黙したりすることなく、以前よりももっと大胆に、勇敢に福音を語るようになったというのです。

神がなさる救いのみわざは人間の予想をくつがえし、それをはるかに超えて進みます。主キリストの福音は人間と世界のあらゆる妨害や抵抗にもかかわらず、前進していきます。神の言葉は決してつながれてはいません。

次に、15節からはもう一つの福音の前進のことが語られます。【15~18節】。この個所は前の14節と関連しています。14節で「兄弟たちの中で多くの者」と言われていたのは、「善意でキリストを宣べ伝える者」(15節)、また「愛の動機からそうする者」(16節)のことであり、数としてはその方が多いのですが、そうでない者たちもいくらかはいた。その人たちは「妬みと争いから」(15節)、「自分の利益を求めて、獄中のパウロを苦しめようという不純な動機からキリストを宣べ伝えている者たち」(17節)である。しかし、たとえそうであっても、いずれの場合にも主キリストの福音が宣べ伝えられているのであるから、わたしはそれを喜んでいる、とパウロは語っています。パウロはここで、人間たちの不純な、悪意に満ちた行動からでも、主キリストの福音はなおも力強く前進していくのだという事実を見ています。

初代教会においては、使徒パウロが福音宣教の中心的な働き人でしたが、パウロとそのグループ以外にも、エルサレム教会の指導者であった12弟子のひとりペトロや雄弁な説教家として知られていたアポロといった伝道者たちが各地を巡り歩いて福音宣教のために仕えていました。その中の一部のグループはパウロに対抗意識を持ち、自分たちの伝道の範囲を拡張しようとする熱意のあまり、ときにはパウロを敵対視したりしていたのではないかと推測されます。彼らにとっては、パウロが獄に捕らえられたことは、自分たちの勢力を広げる良い機会と考えていたようです。

そのことは、獄に捕らわれているパウロにとっては、心を痛めることであり、彼の苦しみをより大きくすることであることは言うまでもありません。同じ伝道者として、パウロに同情したり、獄中のパウロを何らかの形で支援したりすることが求められているのにもかかわらず、彼らの福音宣教の動機は妬みや争いであり、不純で悪意すら感じられます。

けれどもパウロはそのことに対して腹を立てたり、怒ったりしてはいません。彼自身の個人的な感情によってそのことをとらえてはいません。パウロはひたすらに主キリストの福音そのものに目を向けています。主キリストの福音そのものの力、その中にある命、それが持っている豊かさを信じています。そして、悪意や嫉妬から福音を宣べ伝えている人たちがいるとしても、そこで主キリストの福音が宣べ伝えられているという事実にこそ注目するのです。

もちろん、パウロは偽りの福音が語られたり、福音の真理がゆがめられる場合には、決してこれに妥協することはありませんでした。厳しくその誤りを指摘します。たとえば、この手紙の中では、【3章2節】、また【18~19節】。パウロは他の手紙の中でも、繰り返して、偽りの福音との激しい戦いをしています。

けれども、この場合には、不純な動機からであっても、あるいはそこにパウロに対する嫉妬心や競争心、または敵対心があったとしても、パウロは「それが何であろう」と言います。パウロはそのような個人的な感情に捕らわれて、彼らを批判したり、その働きをやめさせようとはしません。いや、むしろ喜んでいるのです。自分に向けられている悪意や敵意をすらも主キリストの福音のゆえに受け入れ、そのことが福音の前進になっていることを喜ぶのです。ある人はこういいます。「主キリストはその使者たち、仕え人たちよりも偉大である」と。また「主キリストの福音はその宣教者たちを超えて、みずからが圧倒的な力を発揮する真理である」と。

わたしたちもまたそのことを信じるべきであり、信じてよいのです。わたしたちが主キリストの福音のために仕えるとき、神はわたしたちの小さな奉仕をも、あるいは時として欠けや破れの多い働きをも、豊かにお用いくださいます。そのことを信じて、どんな困難や険しい道があろうとも、主キリストの福音の力と豊かさを信じ、パウロと共に喜んで福音宣教のためにお仕えしていきましょう。

(祈り)

2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記18章1~15節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「神の約束の成就を待ち望む」

 主イエスのために道を備える先駆者の務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生予告から、ルカによる福音書は始まります。1章5~25節までのヨハネ誕生予告は、それに続く26~38節までの主イエスの誕生予告と、多くの点で類似点があります。そのいくつかを挙げてみると、エルサレム神殿でザカリアに語りかけるのが天使ガブリエルであり、ナザレのマリアに語りかけるのも同じ天使ガブリエルです。天使とは主なる神ご自身のことです。天におられる神が、地に住む人間に語りかけられるときに、聖書ではしばしば天使、あるいはみ使いがその役割を果たします。ガブリエルは6人いる天使長の一人であり、最も重要な神のみ言葉を告げる際に登場します。

年老いたザカリアとエリサベト夫婦に子どもが与えられるという、神の奇跡による洗礼者ヨハネの誕生も、まだ結婚前のおとめマリアに聖霊によって子どもが与えられるという、主イエスの奇跡による誕生も、いずれも主なる神が計画しておられること、主なる神がなされる救いのみわざであるということが、強調されています。

次に、二人の子どもの名前が、二人が生まれる前から神によって決められていたという点です。普通は、子どもが生まれて八日目に父親が名づける習慣でしたが、ヨハネの場合も主イエスの場合も、まだ母親となるエリサベトとマリアにその自覚が全くないときに、すでに神によって定められていました。ヨハネとは、「神は恵み深い」という意味です。イエスとは「神は救いである」という意味です。神はこの二人の人物を通して、神が実際に恵み深い方であり、イスラエルと全世界のすべての人々のために恵み深いみわざをなしたもう、また、全人類のための救いのみわざをなしたもうという固い決意を、彼らの命名によってお示しになったのです。

そのことと関連して、この二人の子どもは、その生涯と務め、働きもまた、生まれる前からすでに神によって定められているということです。ヨハネの使命については15~17節に書かれています。主イエスの使命については32~33節に書かれています。神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が神によっているように、その生涯全体もまた神のためにあります。

四つ目の共通点として、神の約束を聞いたザカリアは18節で「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と天使に問いかけています。マリアもまた34節で、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と問いかけています。神の恵み深い約束のみ言葉を聞かされた人間は、だれであれ、それを直ちに信じることはできません。神のご計画は人間の理解をはるかに超えています。神がなさることは人間の予想をはるかに超えています。

では、きょうは洗礼者ヨハネの使命、働きについて予告されている15節から学んでいきます。「彼は主の御前に偉大な人になり」とあります。主とは、ここでは直接には神を指しています。ヨハネは主なる神のみ前にあって生きる人です。主なる神のために、主なる神から託された任務に仕えることによって、彼は偉大な人となります。彼自身が努力して立派な人になるのではありませんし、他の何かが彼を偉大にするのでもありません。さらに、主とは主イエスを暗示しているとも言えます。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのみ前にあり、主イエスのために道を備え、主イエスを証しすることによって、偉大な人となるのです。ヨハネの誕生がそうであるように、彼の生涯は徹底して来るべきメシア・主イエス・キリストと結びつけられており、主イエスに仕えることが彼の使命です。そうであるときにこそ、彼は偉大な人となるのです。

ヨハネは「ぶどう酒や強い酒を飲まない」とあります。旧約聖書では、神のために重要な働きをする大祭司や預言者、また神に誓願を立てたナジル人は酒を断つと書かれています。彼らはお酒によって元気づけられるのではなく、神の霊、聖霊によって命と力とを与えられて、神から託された務めを果たしました。それと同じように、否それ以上に、ヨハネは「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされている」と書かれています。ヨハネの誕生と命の根源には神の霊、聖霊があります。また彼の全生涯とその務め、その働きのすべても、神の霊、聖霊によって支えられ、導かれていると預言されています。これほどまでに徹底して、ヨハネの生涯は主なる神に依存し、主なる神のためにあり、また彼の後から誕生する主イエス・キリストのためにあるのです。そうであるときに、ヨハネはたとえ彼の生涯が試練と苦難に満ちているものであろうが、彼の命が暴虐なヘロデ王によって奪い取られることになろうが、彼は主の御前に偉大な人となり、豊かに祝福された生涯となるのです。

16節からは具体的にヨハネの使命が語られます。【16~17節】。この16、17節に3度「主」という言葉があります。「その神である主のもとに」「主に先立って行き」「主のために用意する」、これはいずれも、主なる神のことでありまた同時に主イエス・キリストのことでもあると理解すべきです。ここでも、ヨハネの生涯とその使命は、徹底して主なる神のためであり、来るべきメシア・主イエス・キリストのためであるということが強調されています。

また、ここで語られているヨハネの使命は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書に預言されている内容が背景になっていると考えられます。マラキ書では、神が古くからイスラエルの民に約束されていた救いの完成の時が、今、間近に迫っている。神はこの世の終わりの時に、すべてを新しくして神の国を完成するメシア・救い主を世に遣わすであろうという預言が終末論的な視点で語られています。そのいくつかを読んでみましょう。【3章1~3節】(1499ページ)。【19~24節】(1501ページ)。

このマラキ書の預言で語られている預言者エリヤの務めをヨハネは果たすとルカ福音書は告げているのです。終わりの日、主の日に、神は最後の審判を行い、救いを完成される。その時神は義の太陽であるメシア・救い主をお送りくださるが、その前に、救い主のために道を整える使者として預言者エリヤを派遣する、それがヨハネであると告げています。ヨハネは、旧約聖書の預言者たちの列の最後に立って、来るべきメシア・救い主の最も近くにいて、神の約束の成就の時のすぐ前で、その成就を待ち望み、いや待ち望むだけでなく、事実その成就を彼自身も見、そしてそれを指し示し、彼の全生涯によってメシア・救い主を証しする、それがヨハネの使命です。この使命を託されているがゆえに、ヨハネは主の御前に偉大な人なのです。

ところが、ザカリアはこの神の約束のみ言葉を信じることができなかったと18節に書かれています。それもそのはず、ザカリアとエリサベトには長い間子どもが与えられず、しかも二人ともすでに年老いて、人間的には子どもを生む能力が全く失われていたからです。人間の限界と不可能性の中で、それでもなお神の奇跡を信じるということは、だれにとっても困難です。創世記18章には、90歳近くになったサラに子どもが与えられると語った神のみ使いに対して、サラは笑ったと書かれています。17章17節には、百歳になろうとしていたアブラハムも笑ったと書かれています。アブラハムとサラのこの笑いは、確かに不信仰による笑いであると言ってよいでしょうし、ザカリアが「何によって、わたしはそれを知ることができるか」と言って確かなしるしを求めたことも、彼の不信仰に由来すると言ってよいかもしれませんが、しかし、そうであるとしても、だれもアブラハムやサラ、またザカリアを責めることはできないでしょう。

神の天使は、しるしを求めるザカリアを直接に避難してはいないように思われます。【19~20節】。ここでは、ザカリアの不信仰が非難されているというよりは、ザカリアの不信仰にもかかわらず、神の約束のみ言葉が確実に成就していくであろうということが何度も強調されていることに気づきます。「わたし、ガブリエルはこの喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのだ」。「この事が起こる日まで」。「時が来れば実現するわたしの言葉」。神のみ言葉は一つとしてむなしく語られることはありません。神のみ言葉は人間たちの不信仰の中でも必ずや出来事を生み出し、成就します。

ザカリアは祭司の務めにあったゆえに、だれよりも早くに神の救いのみわざの喜ばしい知らせを聞くことが許されました。にもかかわらず、彼は信じることができませんでした。彼はやはり不信仰ゆえの神の裁きを受けなければならないでしょう。ザカリアが口がきけなくなり、言葉を失ったというのは、確かに神の裁きであるといってよいかもしれません。祭司であるザカリアが言葉を失うことは大きな痛手です。しかも、彼はこの日の礼拝で、組を代表して聖所に入り香を焚き、民全体の祈りを神に届け、それから神のみ旨を伺い、神から与えられる罪のゆるしと恵みと祝福の言葉を民に語らなければなりませんでした。しかし、彼は言葉を失い、その務めを果たすことができませんでした。そのことが、21節以下に書かれています。

けれども、わたしたちはここでもう一つのことを気づかされます。それは、不信仰なザカリアが言葉を失った、口をきけなくなったということは、実は神の約束のみ言葉が確かであることのしるしであるということなのです。なぜならば、信じなかったザカリアが言葉を失うことによって、いよいよ神ご自身がみ言葉をお語りになり、疑ったザカリアが祭司としての務めを果たし得なかったことによって、神ご自身がみわざを行い、み言葉を成就されるのであるとの希望がより確かになっていくからです。ザカリアはただ黙して神の約束の成就を待ち望む者とされているのです。

信じなかったザカリアは語ることができません。否、語るべきではありません。不信仰な人や信じない人は神について語るべきではありません。その人はむしろ、沈黙することによって、神ご自身に語らせるべきです。不信仰なザカリアは口がきけなくされることによって、全く無力な者とされ、それ故に、ただひたすらに神からの助けと憐れみとを待ち望むほかにない者とされ、いよいよ全能の神のみ言葉を待ち望むほかにない者とされ、神がもう一度圧倒的な力をもって彼の人生に介入される時を待ち望む者とされているのです。それは、ザカリアがのちになって64節以下で、特に67節以下のザカリアの賛歌を彼が歌うことによって、明らかにされます。ザカリアはこのようにして、年老いてから子どもが与えられるという神の奇跡と、神をほめたたえるために彼の口が再び開かれるという、二度の奇跡を経験することがゆるされるのです。

神はザカリアの不信仰を超えて、それを突き破って、またそれをお用いになって、ご自身の約束のみ言葉が確かに成就するということをお示しになりました。神のみ言葉は時が来れば必ずや成就します。ザカリアはただ黙して約束の成就を待ち望む者とされました。それは神の裁きであったと同時に、神の大きな恵みでもありました。神の約束の成就を待ち望む者は必ずやその成就を見るからです。

(祈り)

4月14日 説教「主イエスの十字架」

2019年4月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:イザヤ書53章1~13節

    ルカによる福音書23章32~43節

説教題:「主イエスの十字架」

 「十字架上の七つの言葉」と言われるものがあります。主イエスが十字架につけられたとき、息を引き取られる直前に十字架上でお語りになった言葉が、四つの福音書を合わせると合計で七つあります。マタイによる福音書とマルコ福音書は同じ言葉が一つ、ヨハネ福音書が三つ、そしてルカ福音書が三つです。きょう朗読された箇所の【「34節」】、【「43節」】、【「46節」】。きょうの受難週の礼拝では、この34節のみ言葉を中心にして、主イエスの十字架の意味について、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 まず、主イエスの十字架上での七つの言葉がなぜ特別に重要なのかについて考えてみましょう。その理由の一つは、十字架上での七つの言葉が主イエスの地上のご生涯で最後に語られた言葉だからです。いわば、主イエスの遺言とも言うべき言葉だからです。しかも、十字架刑という、肉体的にも精神的にも、苦痛と屈辱との極限状態の中で、死の間際に最後の声を振り絞るかのようにして語られた言葉だからです。それゆえに、わたしたちは主イエスのそれらの言葉を、恐れおののきつつ、わたしの全存在を傾けて、わたしの命をかけて聞かなければなりません。

 もう一つの理由が考えられます。それは、主イエスが十字架上で語られた言葉が極めて少なく、また短く、それゆえに一つ一つの言葉に深く、重い意味が込められているからです。主イエスはこれまでにおよそ3年間の公の宣教活動をしてこられました。イスラエル全域の町々村々をめぐり、神の国の福音を説教してこられました。「今や、神の恵みのご支配が始まった、神の救いの時が近づいている、だから、罪を悔い改めて、神に立ち返りなさい、そうすれば、救いと新しい命が与えられる」と説教されました。福音書には、主イエスがお語りになった神の国の福音が数多く記されています。

 ところが、主イエスの裁判の時から十字架刑が執行される時までは、主イエスはほとんど口を開かれず、むしろ沈黙を守られました。イザヤ書に預言されている「苦難の僕(しもべ)」のように口を開かれませんでした。イザヤ書53章7節に次のように書かれています。「苦役を課せられ、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。主イエスがこの「苦難の僕」のように、父なる神への全き服従を貫かれた沈黙の中で、わずかに語られた十字架上での七つの言葉は、特別な光を放ってわたしたちに迫ってくるのです。

 では、その十字架上での七つの言葉の一つ、34節をもう一度読んでみましょう。【34節】。これは、七つの言葉の中で、時間的には最初のものではないかと推測されています。正確にその順序は分かっていませんが、34節がその最初、46節の「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」が最後ではないかと考えられています。そうしますと、七つの言葉の最初と最後がルカ福音書に書かれていることになります。

 主イエスはここで、神を「父よ」と呼んでおられますが、これはイスラエルにおいては非常に珍しいことです。神に対して直接に「父よ」とか「わたしの父よ」と呼びかけることは、旧約聖書ではほとんど例がありません。というのも、イスラエルの民にとって神は、はるかに高い天におられる聖なる神であり、栄光と威厳に満ちた神であって、その神のみ前では人間はただ恐れおののくほかにない罪びとであって、神を親しく父よと呼ぶことは、その神の尊厳性を損なうことになり、神を冒涜することだと考えたからです。

 主イエスは初めて神を父、わが父と呼ばれました。言うまでもなく、主イエスにとっては、神はまさに、実際に、父であられます。神はわたしたち罪びとたちを罪から救うために、ご自身の独り子をこの世へとお遣わしになったのです。ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれているとおりです。主イエスこそが神をわが父とお呼びになることができる唯一のみ子であられ、最初の方なのです。

 それだけでなく、主イエスはわたしたちもまた神を父と呼ぶことができるようにしてくださいました。わたしたちは主イエスによって罪ゆるされ、神との親しい交わりの中に招き入れられ、神の子どもたちとされました。主イエスはわたしたちにこのように祈りなさいと教えてくださいました。「天にまします我らの父よ、み名が崇められますように。み国が来ますように。み心がなりますように」と。

 主イエスが十字架上で神を「父よ」と呼びかけられたことには、更に深い意味があります。主イエスはすべてのユダヤ人から見捨てられ、恥ずかしめとあざけりを受けて十字架につけられましたが、それでもなお、神を「父よ」と呼ぶことができるのだということ、「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるということ、そのことにわたしたちは気づかされます。12弟子たちからも見捨てられ、ただお一人で、肉体と精神の苦痛と渇きの中で死に行く時にも、なおも「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるのです。この呼びかけは、絶望と死の淵から立ち上がって、希望と命に生きることを可能にする呼びかけです。わたしたちが神を父として持ち続けるならば、わたしたちの絶望と死もまた、希望と命に変えられていくということを信じることができます。

 もう一つ別の角度から「父よ」という呼びかけを見ていきましょう。主イエスはここで、神を「父よ」と呼ぶことができないような、神との関係を断ち切られるような深い淵の底から、「父よ」と呼びかけています。マタイとマルコ福音書では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というもう一つの十字架上での言葉を記しています。主イエスは神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちと同じ側に立たれ、神の裁きを受けて、死すべき人間のお一人となられ、十字架上での苦悩と痛みとを経験しておられるのです。わたしたち罪びとたちが受けるべき神の裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、神の厳しい裁きを耐え忍ばれたのです。主イエスが父なる神に見捨てられようとする、まさにその時にこそ、神は父なる神として、主イエスの最も近くにおられ、主イエスと共におられたのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。

 「彼らをお赦しください」の「彼ら」がだれを指すのかは、はっきりと特定できません。十字架刑を直接に執行しているのはローマの兵士たちですが、彼らを指しているのは確かでしょう。十字架の周りで「十字架につけよ」と叫んでいる群衆、あざ笑っているユダヤの役人たち、さらには主イエスの裁判にかかわったユダヤ人指導者たち、最終的に十字架刑を言い渡したローマの総督ピラト、また主イエスを見捨てて逃げ去った12弟子たち、それらのすべての人たちも、この「彼ら」から除外されることはないでしょう。いや、それのみか、自分では気づかないで神から離れ、罪の道を進んでいたわたしたちすべての人間たちが、この「彼ら」に含まれると言うべきでしょう。主イエスは、それらすべての人たちのために、今十字架の上で、彼らの罪のゆるしを祈っておられるのです。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちの罪を代わってご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けになり、大きな苦痛と苦悩の中で、ご自身を十字架につけている彼らすべての人たちのために、罪のゆるしを祈っておられるのです。これは何という大きな愛であり、偉大なゆるしであることでしょうか。この大きな十字架の愛とゆるしによって、わたしたちは罪ゆるされ、救われているのです。

 後の初代教会のキリスト教教理では、使徒パウロが彼の書簡で繰り返して語っているように、主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人は神のみ前で義と認められ、罪ゆるされ、救われるというのがキリスト教信仰の中心ですが、そのキリスト教理が形成される以前に、主イエスご自身の口から直接に語られた十字架上での言葉そのものに、わたしたちの罪のゆるしと救いの源泉があるのです。

 「自分で何をしているのか知らないのです」とは、だから責任がない、その行為がゆるされるという意味ではありません。自分では何をしているのか分からないままに、彼らは神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を十字架につけているのです。その罪を主イエスは告白しておられるのです。実は、自分では何をしているのかわからないというのが、人間の罪の実体なのです。自分では罪に気づいていない、自分はだれかを故意に傷つけたり、損害を与えてはいない、自分では神のみ心に背いていない、自分もまた主イエスの十字架にかかわっていることに気づいていない、いやむしろ自分は正しい人間だ、まじめな人間だ、間違ったことはしていない、だから自分には主イエスの十字架は無関係だと思っていること、それが人間の罪なのです。

 罪を言い表す旧約聖書のヘブル語「ハッター」も新約聖書のギリシャ語「ハマルテア」も、いずれも本来は的を外すという意味があります。弓を一生懸命に引いて矢を放つ、しかし、その矢は的に向けられていない、的から外れた方向を向いている、それゆえに、力を込めれば込めるほどに、矢は的から遠くに飛んでいく、それが人間の罪の現実だということを聖書は語っています。わたしたち人間はみな生まれながらにして罪に傾いており、神から遠く離れている罪びとなのです。主イエスは、わたしたちの隠れ潜んでいた罪をゆるすために、今十字架上で祈っておられます。「父よ、彼らをお赦しください」と。主イエスの十字架によって罪ゆるされる時に、わたしたちは初めて自分の罪に気づかされます。

 最後に、きょうの十字架の場面でルカ福音書が繰り返して語っていることに注目したいと思います。【「35節」】。【「37節」】。【「39節」】。けれども、主イエスはそれらの要求には全くお答えにならずに、むしろその要求を否定されるかのように、ご自身が全く無力になられ、貧しくなられ、低くなられて、神のみ子としての栄光をも誉れをも、威厳をも力をも、それらのすべてを投げ捨てられて、ご自身の尊い命とすべてを、わたしたちの救いのために、十字架にささげ尽されたのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節以下にはこのように書かれています。【6~11節】(363ページ)。ここにこそ、わたしたちの本当の救いがあります。全人類のための永遠の救いがあります。

 それゆえにこそ、主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、救われ、新しい命に生かされているわたしたちもまた、主イエスのために、またわたしの隣人のために、自らをささげて生きていくことが命じられ、またそれが可能とされているのです。

(祈り)