7月17日説教「救いの完成される日まで」

2022年7月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編98編1~9節

    ローマの信徒への手紙8章18~30節

説教題:「救いの完成される日まで」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特徴について続けて学んでいます。その最初の文章は「わたしたちが主とあがめる」から始まって、その最後は、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」で結ばれています。きょうはこの部分の「救いの完成される日まで」という告白について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 この最初の段落のすべての文章の主語は、神の独り子、主イエス・キリストです。そのことを今一度思い起こすことが、きょう学ぶ「救いの完成される日まで」を考えるうえで、非常に重要な意味を持ちます。というのは、主イエス・キリストはまことの神として、またまことの人として、誕生から十字架の死に至るまで、わたしたちの救いのためにすべてのみわざを完全に行われただけでなく、主イエス・キリストはわたしたちの救いの完成の時に至るまで、わたしたちから片時も離れることなく、わたしたちを導き、支えてくださるということが、ここで今一度強調され、告白されているからです。

主イエス・キリストはこの『信仰告白』全体の主語です。また、わたしたちのすべての信仰生活の主語です。それのみならず、わたしが地上の歩みを終えて死を迎える時にも、否それだけでもなく、わたしの死後も、終わりの日に神の国が完成し、わたしの救いが完成されるその時に至るまで、主イエス・キリストはわたしの主語として、わたしのためにすべての救いのお働きをなさるのです。

 「救いの完成される日までわたしのために執り成してくださいます」、この告白はキリスト教教理では、終末論の領域に属します。『日本キリスト教会信仰の告白』の中で終末論に関連している箇所はほかに、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」、それから、『使徒信条』の部分では、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という箇所でも終末論が取り扱われます。これらから明らかなように、『日本キリスト教会信仰の告白』は終末論を強調しています。終末論はわたしたちキリスト者の信仰全体を貫いている柱であり、また目指すべき目的地であると言えます。きょうは「救いの完成される日まで」という告白について、終末論の視点から学んでいくことにしましょう。

第一に確認しておくべき点は、『日本キリスト教会信仰の告白』の最初の段落が「救いの完成される日まで」という文章で結ばれているということから、この段落では、わたしたちの救い、すなわち罪のゆるしを最終的に目指しているということが、明らかになります。神の独り子である主イエス・キリストが「まことの神でありまことの人」であるという告白は、わたしたち罪びとの救いが完全であるということを語っています。主イエスが人となってこの世においでくださったことも、わたしたち罪びとの救いのためです。主イエスが十字架で死んでくださったこと、復活されたこと、それもわたしたちの救いのためです。そして最後に、今は天におられてわたしたちのために執り成しておられること、それもわたしたちの救いの完成のためです。主イエスはわたしたちの救いのために、世の初めから今に至るまで、そして世の終わりまで、神の国が完成される終末の時まで、働いておられます。主イエスはわたしがこの世に誕生した時から、否わたしの誕生以前から、今に至るまで、この後も、わたしの死の時にも、否わたしの死ののちにも、神の国でわたしの救いが完成される時まで、わたしと共におられ、わたしのために働いてくださいます。きょうの礼拝にわたしが招かれているのも、わたしの救いの完成のためなのです。

「救いの完成される日まで」という告白で次に考えるべきポイントは、わたしたちの救いがまだ完成されていないということをこの表現は意味しているということす。わたしたちの救いは、どんなに信仰深く、熱心で、霊に満たされているような人であれ、あるいはもう何十年と礼拝を続け、教会に仕えてきた人であれ、その信仰はまだ完成されていない、まだ最終目的に達していないというのです。わたしたちはみなだれでも、信仰においては未完成です。

しかしまた同時に、わたしたちの信仰は確かに最後の完成に向かっているという保証もここには含まれています。主イエスが天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちの救いのためにいつも執り成していてくださる、そして終わりの日に、主イエスは再びこの世においでくださり、信じる者たちを天に引き上げ、神の国へと招き入れ、わたしたちの救いを完成させてくださる、その確かな保証と希望もまた同時にここでは告白されているのです。いまだ未完成である、しかし同時に、確かな完成の保証がある、この二つのことは、切り離すことはできません。その関連性を覚えながら、更に考えていきましょう。

わたしたちの救いが今はまだ完成されていない、未完である、完成の途中にあるとは、どういうことを意味するのでしょうか。そうであるとすれば、わたしたちの救いは不十分であるということになるのか、いわばわたしの一部分しか救われていないということなのか。否、そうではありません。わたしたちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就しました。主イエス・キリストの救いのみわざは完全であり、少しの不足もなく、すべての人にとって、全き救いをもたらします。まことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの、神のみ子としての汚れなき、尊い十字架の血はすべての人のすべての罪を永遠に贖い、信じる人に完全な救いを与える力と恵みとを持っています。わたしたちの救いのために、ほかに何かを必要とするということは全くありません。その意味では、わたしたちの救いは完全であり、何の不足も欠けもありません。

けれども、わたしたちは主イエスの救いの恵みを今はまだ信仰によって受け取っています。わたしたちは信仰によって罪ゆるされ、救われています。しかし、罪と死は今なおこの世に残っています。罪と死の支配が完全に終わったわけではなく、今なおこの世を支配しています。わたしたちは今なおこの世にあり、信仰によって罪と死の誘惑と戦い続けています。その戦いは確かに勝利に向かっている戦いではあるけれど、終わりの日に神の国が完成され、主イエス・キリストによって罪と死とが全く滅ぼされるまでは、わたしたちの信仰の戦いは続くのです。

パウロはローマの信徒への手紙8章18節以下で、終わりの日の救いの完成を目指したこの信仰の戦いについて、人間たちだけでなく、すべての被造物も共にうめき、産みの苦しみをしていると語っています。【21~25節】(284ページ)。パウロは終わりの日の完成を待ち望んでいる被造物のうめきを聞いています。彼はそれほどまでに、今はまだ未完であることを自覚しつつ、終わりの日の完成を切なる思いで待ち望んでいるのです。未完成であるからこそ、いよいよ熱心に、真剣に、終わりの日の完成を待ち望み、切望するのです。

終わりの日にみ国が完成される時には、信仰者は完全に罪の奴隷から解き放たれ、朽ちる肉の体から朽ちることのない霊の体に変えられ、神の子たちとしての栄光に入れられるのだ、その望みによって、わたしたちは今救われているのだ、この希望によって、わたしたちは終わりの日の完成を忍耐をもって待ち望むのだ、パウロはそのように語ります。

また、26節以下では、聖霊なる神が、終わりの日の完成に向かって進んでいるわたしたちのために執り成していてくださると語ります。【27節b~30節】。終わりの日にみ国が完成する時には、信仰者はみ子主イエス・キリストに似た者とされ、神のご栄光に包まれるであろうと語られています。わたしたちは日々に、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストに近づいていくのです。その救いの完成の時まで、聖霊なる神が、そして天におられる主イエス・キリストが、わたしたち信仰者のために絶えず執り成しておられ、わたしたちの道を終わりの日の完成へと向かわせてくださるのです。

終わりの日の救いの完成を目指す途上にあるわたしたち信仰者に対する導きと励ましのみ言葉は、聖書の中に数多くあります。フィリピの信徒への手紙3章12節以下にはこのように書かれています。【12~14節】(365ページ)。パウロはここでも、自分はまだ完全な者になったのではないと認めています。まだ、復活の体を与えられていない、まだこの世の朽ち果てるほかない肉の体に生きている、まだ最後の目標に達していないことを知っていると告白しています。けれども、主イエス・キリストの十字架と復活によって贖われ、罪の奴隷から解放され、主キリストのものとされている、主キリストによって捕らえられている、だから、終わりの日の確かな目標に向かって走り続けているのだと語っています。

キリスト者にとっては、まだ救いの完成を見ていないということは、その人の信仰を弱めたり、救いの確信をあいまいにすることは決してありません。いやむしろ、救いの完成を目指して力強く、たくましく走り続ける、勇気と希望の源なのです。最後の目標を目指して、前方へと体を向けつつ、走り続けるエネルギーとなるのです。

わたしたちの信仰と救いは、この世にあっては、なお未完成です。時として迷ったり、弱ったり、つまずくこともあるかもしれません。けれども、わたしたちは救いと信仰の完成者であられる主イエス・キリストによって捕らえられているゆえに、確かに最後の目標に向かって走り続けることができるのです。

「救いが完成される日まで」という告白について、もう一つ注目したいことは、「完成される」は受動態であるということです。聖書の中で主語が隠されていて受動態で表現される場合には、多くは神が意味上の主語と考えられます。ここでも、「完成される」の意味上の主語は神であり、神のみ子主イエス・キリストです。わたしたち信仰者が自分の救いの完成のために何らかの努力をしなければならないのではありません。わたし自身が救いを完成させなければならないのではありません。わたしたちの救いを完成してくださるのは、天地創造の初めから人間の救いのためのみわざをなし続けてこられた主なる神であり、また神の救いのみわざを実際にこの世においでくださって成就された主イエス・キリストです。

へブライ人への手紙12章2~3節を読みましょう。【2~3節】(417ページ)。この主イエス・キリストを信じ、その導きに従って歩むときに、わたしたちの信仰の歩みは確かに、終わりの日の救いの完成に向かっていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの信仰の歩みはたどたどしくあり、時として迷いや疑いに閉ざされたり、疲れ、立ち尽くしたりすることがあります。主よ、どうかわたしたちの歩みを強くしてください。主キリストがわたしたち一人一人の歩みにいつも伴ってくださり、励ましてくださり、終わりの日の完成に向かって前進させてくださいますように。

〇神よ、どうか世界にまことの和解と平和、共存と分かち合いをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月10日説教「長子の特権を奪い取ったヤコブ」

2022年7月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記27章1~17節

    ヘブライ人への手紙12章14~17節

説教題:「長子の特権を奪い取ったヤコブ」

 創世記27章には、年老いたイサクの家庭の中で起こっている一連の出来事が記されています。ある聖書注解者はこれを「聖なる悲劇」と名づけています。確かに、これは悲劇と言えます。年老いた父イサクから受け継ぐべき祝福を奪い取るために、母リベカと弟息子のヤコブが結託して、父を欺き、兄を出し抜く。祝福を手に入れはしたが、兄エサウの憎しみを買って命をねらわれるようになり、ついにヤコブは家を出ることになる。家族が分断されるという結末に至る。これは家庭内で繰り広げられた悲劇であることは確かです。

 でも、これには「聖なる」というもう一つの言葉が付け加えられています。どこの家庭でも起こりえる悲劇であり、家族の分断という出来事であるのですが、しかし、そうであるにもかかわらず、これらすべての出来事の背後には主なる神がおられ、隠された神のみ手がこの家庭を導いておられる。これは神の救いの歴史、救済史の中の出来事であり、これによって神とアブラハムとの契約が継続され、神の永遠の救いのご計画が前進していくのだということを、わたしたちはあらかじめ確認しておきたいと思います。

神がアブラハムと結ばれた契約、これをアブラハム契約と言いますが、すなわち、神はアブラハムをすべて信じる人たちの祝福の源とし、彼の子孫を夜空の星の数、海の砂の数ほどに増やし、永遠にその祝福を受け継がせるであろうというアブラハム契約が、その子イサクに受け継がれ、その子ヤコブに受け継がれ、ヤコブの12人の子どもたちからなるイスラエルの民に受け継がれ、ついには、主イエス・キリストによって、全世界の主キリストを信じる教会の民へと受け継がれていくことになる、その永遠なる神の救いの歴史が、ここに描かれている家庭の悲劇をとおして、成就されていくのだということを、わたしたちはここで教えられます。神はこの家庭内の悲劇をとおして、それをお用いになって、ご自身の救いを前進されます。そして、その救いの歴史は、今日の教会の救い、わたしたち一人一人の救いと直結しているということにも気づくのです。

 27章を「聖なる悲劇」と名づけた神学者は、それによっておそらくは、こののちに起こるであろう、さらに大きな、偉大なる「聖なる悲劇」を暗示しようとしていると思われます。すなわち、アブラハム・イサク・ヤコブという族長時代から千数百年年後のエルサレムで起こった大いなる、偉大なる「聖なる悲劇」のことです。罪なき神のみ子が罪びとたちの手に渡され、十字架につけられ、殺されるというあの悲劇です。アブラハム契約の最終的な成就として神がイスラエルにお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を、彼らイスラエルの民は愚弄し、拒絶し、最も呪われた刑罰であった十字架刑で葬り去ろうとしたのです。

 しかし、神はこの大いなる悲劇を、「聖なる悲劇」に変えてくださいました。神はイスラエルの民の罪と背きをもお用いになられ、すべての人間たちの罪の結集であった神のみ子の十字架の死を、神はすべての国民の救いのみわざとされたのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じるすべての人を罪から救い、神の永遠の祝福へと、あのアブラハムに最初に約束された祝福へと招き入れると言われたアブラハム契約の成就とされたのです。主イエス・キリストの十字架の死という大いなる「聖なる悲劇」を、神はすべての信仰者の救いという大いなる福音となしたもうたのです。きょうの創世記27章のみ言葉は、そのことをわたしたちに教えています。

 箴言19章21節にこう書かれています。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。また、詩編33編11節には、「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」とあります。神の永遠の救いのご計画は、人間たちの罪と反逆の中でも、世界の変化の中でも、変わることなく前進していくのです。

 では、イサクの家庭内での悲劇について、その内容を見ていきましょう。ここには一つの家族、4人の人物が登場します。イサクは年老いて、目がかすんできました。それでも、父アブラハムから受け継いだ神の祝福を自分の長男に受け継がせるという、人生最後の最も大切な務めを彼は忘れてはいません。そのこともあってかどうかははっきりしませんが、いやもしかしたら彼の単なる好みからかもしれませんが、イサクは死ぬ前に長男エサウが捕らえた獲物で、おいしい肉料理が食べたい、それを食べて、長男への祝福を与えたいと願っています。【4節】。

 次は、イサクの妻リベカです。イサクが長男エサウを愛していたのに対して、リベカはずっとエサウの弟ヤコブを愛していました。物静かで、賢く、いつも家にいて自分のそばから離れないヤコブが彼女のお気に入りであり、ヤコブをずっとこれからも自分のそばに置いておくためには、長男の特権をヤコブに受け継がせたいと願っていました。

 あとは二人の子ども、兄のエサウと弟のヤコブです。兄は活動的で、野原で狩りをするのが好きでした。でも、少し、軽はずみで、思慮が浅いところがありました。ヤコブは、生まれた時からその強い性格が現れ、双子として先に生まれた兄エサウのかかとをつかんで生まれ、兄エサウを出し抜いて長男の権利を手に入れようとしたことがこれまでにもありました。

 この4人が一つの家族を形成していました。ところが、27章で描かれているそれぞれの場面を見てみると、家族4人が一緒に対話している場面は全くないことに気づきます。すべての場面が二人だけの対話で進められています。1~4節は、父イサクと長男エサウとの対話です。死期が近づいてことを悟った父と、父の死後に長男として父からの祝福を受け継ぎ、家の財産をも相続するはずになっているエサウとの静かな対話、しかしまた深刻さを含んだ対話です。

 次の5~17節は、母リベカと弟息子イサクとの対話です。リベカはイサクとエサウとの対話を盗み聞きしていました。そうさせてはならないと、自分が愛する弟息子のヤコブに長男の権利を横取りするための相談をしています。それは、恐ろしい計略です。夫であるイサクをだまして、弟ヤコブに変装させ、兄エサウととり違いさせようとする計略です。それは当時の慣習や、それだけでなく神の選びの順序をすらも、自分の願いどおりに変えてしまおうとする悪しき策略です。11~13節の二人の対話を読んでみましょう。【11~13節】。リベカの計略は目がかすんできた夫イサクを欺くだけでなく、神をも欺くことであると、彼女は気づいているかのようです。

 18~29節の場面は、父イサクと弟息子ヤコブとの対話です。これは実際に父を欺く対話です。ヤコブは、兄エサウが獲物をとって帰るよりの先に、母リベカが調理した肉料理を持ち、兄のにおいが染みついた兄の晴れ着を着て、体には兄エサウの毛深さを偽装するための子ヤギの毛皮を巻きつけて、父の枕辺に近づきます。この偽装計画を立てたのは母リベカですが、ヤコブ自身もそれに主体的にかかわっています。【20節】。ヤコブはだました父を説得させるために神を利用しています。ついに、父はそれが兄のエサウだと勘違いして、あるいはだまされてと言うべきでしょうが、弟のイサクを祝福します。

人間たちの欺きと偽りが、彼らの計画どおりに進んでいきます。27節以下の祝福の言葉を読んでみましょう。【27~29節】。祝福すべき相手が違っていることを知っているわたしたちには、この祝福の言葉は何か空々しいと思えるかもしれませんが、しかしこれは父が神の権威のもとで、神の契約の言葉として語っている祝福の言葉であることは確かです。人間たちの欺きとだまし合いの中でも、神の祝福は失われることはありません。神の祝福は人間たちの罪の中でも、確かに語られ、受け継がれていくのです。

 30~40節は、狩りから帰ったエサウと父イサクとの対話です。エサウは父の好きな肉料理を作って、父のところに運びます。けれども、父はすでに長男に与えるべき祝福を弟のヤコブに与えてしまったことを知らせます。34節からは、そのことを知ったエサウの悲痛な叫びが書かれています。【34~37節】。エサウには神の祝福はもはや残されてはいません。彼は神の契約の民としての祝福を失ってしまいました。36章によれば、エサウはその後、神の約束の地から離れ、パレスチナ南部のセイルの山地に住むエドム人の先祖になったと伝えられています。

 41~46節は、再びリベカとヤコブの対話です。夫であり父であるイサクを欺き、偽って長男の祝福を奪い取るために共謀したリベカとヤコブ。そのことには成功したが、その結果として自分たちの罪を刈り取らなければならなくなり、現実から逃避して、家族が引き裂かれる結果とならざるを得なくされたリベカとヤコブ。しかし、ここではもはや二人の対話は成り立たなくなっています。母だけが一方的に語ります。【42~45節】。母リベカは自分が仕組んだ偽装と欺きによる行為によって、二人の息子を同時に失ってしまうかもしれないという危機感を抱いています。それを回避するためには、しばらくイサクを遠くの地に逃亡させるほかにないと考えました。44節に「しばらく」、45節には「そのうちに」と書かれていますが、リベカは数年もすればその時が来るであろうと思っていたのかもしれませんが、実際にはヤコブの逃亡期間は20年となり、母は愛する息子ヤコブの顔を二度と見ることができなくなるということは、この時点ではまだだれも気づいてはいませんでした。

 以上のように、それぞれの場面は4人のうち2人の対話で進められていくのですが、家族みんなでの話し合いは一度もありません。自分の利益のことしか考えない人間たちの集団は、家族であれ、親しいグループであれ、国家であれ、そこには群れ全体を結びつける真理はなく、分断と偽り、欺きがあるだけです。それが罪に支配されている人間集団、この世界の現実です。

 けれども、神はこの罪の世界を決してお見捨てにはなりません。その中で、ご自身の救いのご計画を進めてくださいます。神の選びは、人間たちの偽りや妬みや争いの中でも、確かに行われていきます。その確かな選びによって、神はご自身の救いのご計画を確実に進めておられます。どんな人間たちの罪や偽りや欺きによっても、神の契約は神ご自身によって固く守られ、神の救いのご計画は確実におし進められていくのです。わたしたちはそのことを信じ、どんな困難な時にも、どんなに人間たちの罪が世界を暗闇で覆いつくしても、なおも神の真理と救いのみ心を信じ、その神にお仕えしていくことができるのです。神は主イエス・キリストの福音によって、必ずや人間たちの罪に勝利され、分断と争いを取り去り、ついには世界を一つの救われた民としてくださることを信じつつ。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠に変わらない真理と救いのみ心をすべての人たちに知らせてください。わたしたちの中にある傲慢やうそ偽り、憎しみや争いを、主イエス・キリストの福音によって取り除いてください。世界にまことの平和と共存をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月3日説教「燭台の上に置かれたともし火」

2022年7月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書60章1~7節

    ルカによる福音書8章16~18節

説教題:「燭台の上に置かれたともし火」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書8章16~18節の3つの節は、いずれもルカ福音書の他の個所とマタイ、マルコ福音書に、違った分脈の中に、ほとんど同じ文章で出てきます。たとえば、16節の燭台の上に置かれたともし火のたとえは、ルカ福音書11章33節にも同じように書かれています。【11章33節】(129ページ)。でも、ここでは少し違った文脈で、わたしたちの体のともし火と言われています。また、マタイ福音書5章の「山上の説教」では「地の塩、世の光」の比喩との関連で「ともし火のたとえ」が語られています。その個所を読んでみましょう。【マタイ福音書5章13~16節】(6ページ)。

 次の17節と18節も、ほとんど同じみ言葉がルカ福音書と、マタイ、マルコ福音書に、違った文脈の中で語られています。これらのことから、主イエスはさまざまな違った文脈の中で、この3つの節のみ言葉をたびたびお語りになったということが推測できます。それは、この3つの節で語られていることが主イエスが説教された神の国の福音を理解するうえで、非常に重要な意味を持っていることを示唆しています。

 では、16節からその深い意味を読み解いていきましょう。【16節】。主イエスの時代のパレスチナ地方の一般の家では、一部屋に居間、台所、食堂があり、夜にはそこが寝室になり、その一部屋を照らすために部屋の中央に燭台を置き、その上にランプを置くと、一個のランプが部屋全体を明るく照らすという造りになっていました。そのランプを何かで覆ったり、寝台の下に置くならば、ランプはその役割を果たさず、家全体が暗くなり、生活できません。

主イエスはだれでもが日常に経験して知っているこのことをたとえに用いて、神の国の福音の真理を語っておられます。ランプのともし火、その光とは、わたしたちがすぐに気づくように、それはすべての人を照らすまことの光として、クリスマスの時にこの世に誕生された主イエスご自身を指していることは明らかです。

マタイ福音書5章の山上の説教では、先ほど読んだように、わたしたち信仰者の実存、生き方を特徴づけている「地の塩」「世の光」との関連で、「山の上にある町は、隠れることができない」というみ言葉に続いてともしびのたとえが語られています。ここでは、「地の塩」「世の光」としてこの世においでくださった主イエスに従って、その福音によって生きるわたしたち信仰者、キリスト者の生き方が教えられています。

主イエスは罪と死に支配されているこの地を滅びと腐敗から救うために、「地の塩」として働かれました。そして、最後にはご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、罪と死に勝利され、すべて信じる人にまことの命をお与えになりました。主イエスはまた、「世の光」として、世界を覆っていた闇を打ち破り、暗黒の地に住む人々をまことの光で照らしてくださいました。

わたしたち信仰者はその主イエスの救いの恵みにあずかり、「地の塩」「世の光」であられる主イエスを証する務めを果たすことによって、わたしたち自身もまた「地の塩」「世の光」とされ、主イエスのまことの光を反射するようにして、その光を燭台の上に高く掲げ、人々の前にその光を輝かす務めへと召されているのです。

かつては暗闇の中で死んでいたわたしが、いまや主イエスのまことに光に照らされ、わたし自身も光の子とされ、その光を高く掲げるようにと召されているわたし、それはどんなにか光栄ある、尊い務めであることでしょうか。しかし、それは決してわたしの名誉のためであるのではありません。マタイ福音書で教えられているように、天の父なる神が崇められるため、神の栄光のためです。

次の17節を読みましょう。【17節】。このみ言葉も、ルカ福音書では12章2節、マタイ福音書では10章26節、マルコ福音書では4章22節に、それぞれ違った文脈の中で語られています。それらの個所をも参考にしながら、このみ言葉が持つ深い意味をさぐっていきましょう。

第一には、ここでもまた主イエスが語られた神の国の福音との関連で語られていると理解されます。主イエスが神の国の福音を説教されたことによって、それまでは隠されていた神の国の真理が、すなわち、神がイスラエルだけでなく全世界のすべての国民の唯一の主として、愛と恵みと救いとをもってご支配される新しい時、神の国の時が今始まったことが明らかにされたということです。旧約聖書の民イスラエルには約束として、預言として語られていた神の国、神の恵みと愛のご支配が今や成就した。全世界のすべての人が、新しい神の恵みのご支配の中に招き入れられている。救いの恵みを差し出されている。律法によらず、人の功績によらず、ただ一方的に差し出されている神の救いに恵みを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われる。主イエスがお語りになった神の国の福音は、そのことをすべての人に公にし、すべての人の目の前に明らかに差し出したのです。

17節のみ言葉は、そのような神の救いのみ心を明らかにするとともに、その福音を聞き、み言葉の光に照らされたわたしたち人間の中に隠されていたものをも明らかにします。いつも神のみ心に背いているわたしの罪が、神と隣人を愛することをせず、自己中心的で、傲慢で、悔い改めることをしないわたしの罪が、神のみ言葉を聞いても信じないわたしの不信仰が、神の招きを受けながらかたくなに自らの中に閉じこもっている不従順なわたしの罪が、その時同時に明らかにされます。神のみ言葉の前では、わたしの貧しさや破れがすべて明らかにされます。神のみ言葉の光の前では、何も隠れることができません。わたしたちはそのようなみ言葉を聞き、恐れつつ、また謙遜になって、「主よ、我を憐れみ給え。わたしを罪より救い給え。わたしを新しい人に造り変えてください。あなたのみ言葉に聞いて、信じ、従順に従っていく者としてください」と祈り求めるほかにありません。

17節のみ言葉は、これからのちに明らかにされる内容をも含んでいます。この時点ではまだ、主イエスが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主であるということはすべての人の目には隠されていました。当時の民衆は、イスラエルがローマ帝国の支配から解放されることを待ち望んでいました。たくましい軍馬にまたがって、武力でイスラエルの独立を勝ち取る政治的メシアを期待していた彼らには、主イエスが十字架につけられるメシアであることは隠されていました。一切を捨てて主イエスに従った12弟子たちにも、主イエスが苦難の僕として十字架への道を進み行かれることはまだ隠されていました。

しかし、やがてそのすべてが明らかにされます。主イエスがわたしたちの罪をご自身に引き受けられ、わたしたちの罪のために苦しみを受けられ、十字架にご自身の尊い命をおささげになることによって、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、救われるメシアであることが、すべての人に明らかにされます。神がわたしたち罪びとたちを愛され、ご自身の独り子さえも十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛された、その愛が明らかにされます。そして、その時には、わたしの罪や貧しさや破れにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架によって、ただその十字架の福音を信じる信仰によって、わたしたちすべての人が罪ゆるされ、救われるのだということが明らかにされるのです。

もう一つのことを付け加えます。終わりの日、神の国が完成される時、主イエスが神の国の王として君臨され、信じる者たちに永遠の命をお与えくださり、わたしたちが永遠に神の国の民とされるのだということが明らかにされます。

18節で主イエスは【18節】と言われます。このみ言葉も、ルカ福音書19章26節と、マタイ福音書13章12節、および25章29節、マルコ福音書4章25節で、それぞれ違った分脈の中で語られています。それらを参考にしながらその意味を読み解いていきましょう。

まず、主イエスは「どう聞くかべきかに注意しなさい」と言われます。主イエスがお語りになった神の国の福音をわたしたちはどう聞くべきなのでしょうか。聖書に書かれている神のみ言葉を、わたしたちはどう聞くべきでしょうか。それを、神がわたしの救いのためにお語りくださった神の命のみ言葉として聞き、主イエスがお語りになった神の国の福音を、今ここで主イエスがわたしに対して、わたしの救いとまことの命のために語っておられる命のみ言葉として聞くこと、これこそがわたしたちが礼拝で神のみ言葉を聞く時の基本姿勢でなければなりません。パンなしではわたしの体の命を養うことができないように、神の命のみ言葉を聞くことなしには、わたしの魂の本当の命を養うことができないということを知り、鹿が谷川を慕いあえぐように神のみ言葉を慕い求める時、神のみ言葉は命のみ言葉としてわたしを生かすのです。

17節後半のみ言葉は、元来は一般的な原則として言われていた格言のようなものであったと推測されます。つまり、たくさんのお金を持っている人はそれを上手に活用してよりたくさんのお金を手に入れるが、持っていない人はお金の活用方法をも知らないので、持っていたわずかなお金をも失ってしまうであろうという意味で、一般に流布していたことわざであったろうと考えられます。

けれども、主イエスがこの一般的な格言を同じような意味で用いていたのかどうかは改めて吟味されなければなりません。ルカ福音書19章26節では、「ムナのたとえ」の終わりに同じみ言葉が語られています。【26節】(147ページ)。このたとえで主イエスが教えておられる内容から判断すれば、「持っている人」とは、神から与えられている賜物を神に感謝し、それを神のみ心に従って生かして用いる人のことであり、その人は神から与えれている賜物がより豊かに祝福される、より多くの賜物を神から与えられるであろうという意味に理解されます。「持っていない人」とは、神から与えられている賜物に気づかず、感謝もせず、それを神と隣人のために用いることをしなかった人のことであり、その人はすでに与えられていた神の賜物をも失ってしまうであろうという意味です。

神のみ言葉は、それを聞き、信じ、喜んで聞き従う人には、恵みを増し加え、わたしたちに豊かな実りを結ばせます。神のみ言葉はわたしの最高の知恵であり、喜びであり、わたしの足のともし火、わたしの道の光です。そのように信じ、告白する時に、神のみ言葉はわたしに豊かな命と力を与えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ちる地上のパンのために生きるのではなく、永遠の命に至らせるあなたの命のみ言葉によって生きる者としてください。主なる神よ、どうかわたしたちをまことの光で照らしてください。光の子たちとして、この世にあって、主イエス・キリストを証しする者としてください。

〇主よ、願わくは、世界にまことの平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月26日説教「あなたがたは私を誰と言うか」

2022.6.26  説教 マルコによる福音書8章27~33節

 「あなたがたは私を誰と言うか」

説教 長老 柴田 理

本日与えられた御言葉は、マルコによる福音書8章27~33節です。

 その頃主イエスは弟子達を連れて、ガリラヤ湖の北の方にある、フィリポ・カイザリヤの村々を巡っていました。

 主イエスはこの頃までに主な伝道を終え、エルサレムに向かって受難への道を歩き始めます。その折り返し点での出来事を記したのが今日の箇所です。

 主イエスは道すがら、弟子達にお尋ねになります。“人々は私のことを何者と言っているか?”

主イエスは公の生活を始めてからこれまで、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えたことを皮切りに、数々の奇跡を行っておいでになりました。足の不自由な人を歩かせ、友人達に屋根の上から吊り下ろされた中風の人を癒し、ラザロのように亡くなった人をも生き返らせました。また、山上での説教に代表されるように、人々に福音を告げ知らせました。多くの人が主イエスの権威ある言葉に驚き、癒しに感謝し、悲しみから解き放たれました。その噂はユダヤの広い地域に広がっていました。

 そのような中で、主イエスは弟子達に問われたのです。“人々は私のことを何者と言っているか”。

 弟子たちが答えます。“バプテスマのヨハネと言っている人たちがいます。エリヤだという人たちもいます。また、預言者の一人と言っている人たちもいます。”

 バプテスマのヨハネは、御存じのように主イエスを指し示し、その道を整えるために遣わされた、旧約時代最後の預言者です。

……また、主イエスをエリヤだという人たちがいました。エリヤは、ユダヤの国が北イスラエルと南ユダに分かれてしまった後の北イスラエルの預言者でした。やもめの息子を生き返らせるなどの奇跡を行い、最後は火の戦車に乗って天に上げられました。そして、世界の終わりの日、神様の御支配が完成する前に再び現れるとされていました。

 さらに、預言者の一人だという人たちもいました。

 主イエスの権威ある教えや数々の奇跡から、人々は主イエスのことをただならぬ人と捉えていたことは間違いないことです。しかしいずれにしても神の子ではなく、神の恵みを受けた優れた人と捉えていました。

さて、主イエスは弟子たちの答を聞いてさらに問います。“それではあなたがたは私を誰と言うのか”

 “ちまたにいる人たちではなく、弟子として福音を伝えるために召し出され、そば近くにいて私と行動を共にし、わたしの働きを目の当たりにしてきたあなたたちは、私を誰と言うか”、と問います。

 するとペトロが答えます。“あなたはメシアです”。新共同訳聖書では“あなたはメシアです”と訳されていますが、元のギリシャ語の聖書では“キリスト”と記されています。

 キリストとは“油注がれた者”という意味で、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したものです。王が位に就く時に、また、祭司や預言者が聖別される時に頭に油を注がれたことに由来するものです。

 主イエスの頃に人々が考えていたメシアとは、ダビデの家系に生まれ、エルサレムを踏みにじっている異邦人たちを追い出し、栄光と繁栄のうちにダビデの王国を回復してくださる方とされていました。

 そしてペトロは弟子達を代表してはっきりと“あなたこそキリストです”と告白しました。

 さて、続いて主イエスは、御自分がこれからどのような道を辿るかを弟子達にお教えになりました。 31節を読みます。“それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者達から排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子達に教え始められた”。

長老、祭司長、律法学者とは、ユダヤで最も力と権威のある議会、最高法院の構成員です。つまり、キリストである主イエスが、この世での神の代理者とも言える人々から捨てられ、殺されることを意味しています。

 これはまさに、弟子達がたった今“あなたはキリストです”と言った告白が意味するところです。主イエスは“そうだ、あなたたちの告白は正しい。その私は間もなく苦難を受け、祭司長や律法学者らによって十字架につけられ、3日目に復活する、それが父の御心である”とはっきりとお示しになったのです。

 しかしこれは、弟子達が思い描いていたキリストの姿とは全く違うものでした。

 ローマの支配にあえぐイスラエルの人々が待ち望む王としての救い主であり、イスラエルを再び甦らせるメシアが多くの苦しみを受け、最高法院によって捨てられ、殺されてしまう。しかも主イエスはそれが神の御心であるとおっしゃるのです。

 それまでの権威ある教え、5千人の食事、癒し、湖の上を歩く……これらは苦難とは無縁のように思われました。しかしローマの支配を打ち破ると期待された方は、苦難を受けて死に至る。しかもその苦難はユダヤで最も信仰深いとされた人々によって下される。それが神様のお決めになったことであって、さらに主イエスはそれらを甘んじて受け入れるつもりでいらっしゃる。

ペトロをはじめとする弟子達にとっては全く理解しがたく、受け入れられないもの、あってはならないことでした。

 弟子達は、いわば自分たちの願望に従って、イエスの終わりは当然栄光に満ちているものであり、すべてに勝利し、イスラエルを押さえつけている一切の事柄から解き放たれて王となるものと信じていたのです。

 ここでペトロは、“主イエスを脇へお連れしていさめ始めた”とあります。別の訳によると、“ペトロが彼を連れ出し、叱りつけ始めた”とされています。マタイによる福音書には、ペトロが“主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません”と、主と弟子の関係を弁えない強い口調で諫めたことが記されています。弟子達は主イエスの低さを受け入れられなかったのです。

 主イエスは振り向いて弟子たちを見て、ペトロを叱りつけました。“サタン、私の後ろに下がれ。” 私の前に立ちふさがって苦難への道を遮るのではなく、私の後ろから従ってくるように、とおっしゃるのです。

主は弟子達の中に、自分を十字架への道から逸らそうとするサタンの誘惑を認められたのです。

 “あなたこそキリストです”と正しい告白をした弟子達でしたが、その中身はまだ極めて未熟な信仰だったのです。

 主イエスはこの後、二度にわたってご自分の死と復活を予告なさいました。しかし弟子達は霊に憑かれて発作を起こす男の子を癒すことができずに主イエスから信仰のなさを指摘されました。また自分達の中で誰が一番偉いかと議論して諭されています。さらに、ゲッセマネの園で主イエスが必死に祈っている時に3度も眠りこんでしまい、主イエスの逮捕と共に逃げ去ってしまいました。大祭司カヤファの庭ではペトロが3度主イエスを知らないと誓い、十字架の下に主立った弟子は一人もいませんでした。その上主イエスが甦られた日、弟子達はマグダラのマリアが復活を証言しても信ずることなく、おそらくエマオに行く途中に主イエスと出会った二人の弟子が復活を告げても信じることができませんでした。

 では、今を生きる私達は主イエスをどのような方と告白するのでしょうか。主は問います。“あなた方は私を誰と言うか”

私達は弟子達と同じように“あなたこそキリストです”と告白することができます。

 しかしその時、私たちはこの時の弟子たちよりもしっかりと、“あなたこそキリストで す”と告白したことの示すところを受け止め、自分のこととしていると言えるでしょうか。

 そして、主イエスが私のために、この罪の中にある私自身のために天から降りてくださり、私自身を贖ってくださるために十字架について下さり、神は私自身のために主イエスを死人の中から立ち上がらせ、永遠のいのちの保証を与えてくださり、主イエスは今も神の右にいて取りなしてくださっていることを自分自身のことと捉えた上で、“あなたこそキリストです”と告白できているでしょうか。

……主の問いかけに“あなたこそキリストです”と告白する時、人にはその告白にふさわしい生き方が求められます。告白は主に真摯に向き合った応答であり、同じくその応答として、告白と一体となった生き方へと導かれるのです。日々の生活が信仰告白になるのです。

 “あなたがたは私を誰と言うか”。“あなたこそキリストです”。では私達が主イエスをキリストと言う時、どのような生き方をするのでしょうか。

 主の日毎に教会に通い、主を褒め讃え、罪を赦されて御言葉に聴いている私達は、自分にはまあそこそこの信仰がある”と密かに自負していないでしょうか。私達の教会には牧師がいて、教会員は毎週御前に立っていると、いわゆる“心地よい敬虔さ”にんでいないでしょうか。

 ヨハネの黙示録3章15節、16節に良く知られた1節があります。“私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、生温いので私はあなたを口から吐き出そう。”

 100%の信仰には、人は地上の生涯では到達し得ません。しかし今いるところから少しでも上げて頂くために、祈り、求め続けるのです。自らの努力に拠るのではなく、導き続けていただけるように。

 主イエスは未熟な弟子達を最後までお見捨てになりませんでした。

 そして今、主イエスは世に聖霊をお送り下さっています。私達はその聖霊に自分を明け渡し、信仰が深められること、またそのことへの応答としての生き方ができるように願い求めるのです。

 さて、今日の箇所で、もう一つ気付かされることがあります。

 主イエスは弟子達に“あなた方は私を誰というか”と問われました。“ペトロ、あなたは私を誰というか”ではありません。ペトロを含む弟子達、すなわち弟子達の群れに問われたのです。

 マルコによる福音書1章によると、主イエスはガリラヤ湖の畔で初めに、後にペトロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンドレを召し、続いてゼベダイの子ヤコブとヨハネを召しました。そして3章によると、主イエスはイスカリオテのユダを含む12人を中心となる弟子とし、使徒と名付けられました。彼等は常に主イエスと行動を共にし、また時には二人ずつ伝道に遣わされ、再び主イエスの下に帰ってくる、ひとつの群れでした。

 主イエスはこの時、一人一人の弟子ではなく、主イエスに導かれる群れとして、御自分をどのように信ずるかを問われたのです。“あなたこそキリストです”と告白したのは、ペトロ一人の信仰ではなく、弟子達の群れとしての信仰を告白したのです。

 既にお話ししましたように、弟子達はこの告白の後も、数々の失敗を繰り返します。

 しかしこのような不信仰・不服従が延々と続く弟子達に対しても、主イエスは復活した時のことについて“私はあなた方より先にガリラヤに行く”と告げました。弟子達を見捨てることなく、ガリラヤで待っていると、弟子達を招くのです。そしてペンテコステの時に聖霊をお送り下さって、三千人もの人々を召されて教会をお作りになりました。

 キリストに結ばれた、キリストによってこの世から選び出された者達の群れ、教会は今に至るまで続いています。どれほど未熟な信仰でも、主はそれを育て、その群れを御自身のために用いてくださるのです。

 そして今を生きる私達に問われることは、キリストの葡萄の木につながれた枝として“公同の教会に繋がり、日本キリスト教会の会員としてあなたは私を誰と言うか”と言うことです。そこに属するあなたの信仰は何かが問われているのです。

 洗礼式の時、洗礼を受けようとする人は牧師によって誓約を求められます。

“あなたは神を信じますか。”、“あなたは主イエスキリストを信じますか”、“あなたは聖霊を信じますか”、“父と子と聖霊の御名において洗礼されることを願いますか”。そして、“あなたは日本キリスト教会信仰の告白を誠実に受け入れ、その憲法・規則に従うことを誓約しますか”と問われます。群れとしての信仰を受け入れることが求められるのです。

 牧師や教職者を持たない教派のように、一人一人が聖書と向き合って個々人の信仰を深めるということではありません。個人としての信仰が深められることは必要ですが、私達はまず群れの信仰を受け入れ、それを土台として自分の信仰が紡がれていくのです。

 教会と言う言葉には、呼び出すという意味があります。主体は個人ではなく、呼び出され、集められた人の群れ、救われた人の群れなのです。

 主はその中に、救われた人の群れの中に私たちを置いてくださり、主の日毎にきょうだいと共に御前に立つ礼拝を通じて、説教と聖礼典を通じて、未熟な信仰を成長させてくださるのです。

“あなた方は私を誰と言うか”

 私達は教会において、日々主イエスの“あなた方は私を誰というか”という問いに真実に向き合い、“あなたこそキリストです”と告白し続けるのです。

祈りましょう。

 主なる神様、あなたの御名を褒め讃えます。

 主の日に教会に集められ、きょうだいと共にみ前に立ち、主を讃え、罪を告白し、これを赦され、御言葉に聞けますことを心から感謝いたします。

 どうか公同の教会に繋がる私達を慈しみ、終わりの日に向かって成長させてください。

 日本キリスト教会をあなたの省みの内に置いてください。大会、中会、神学校、及びそれらに伴う組織を支えるきょうだいをあなたの祝福の内においてください。新たに牧者を志すきょうだいを立ててください。

 戦争、内乱、災害、差別、病、いじめ、虐待などにより、弱さの中にあるきょうだいをお守り下さい。国々の先頭に立つ者達を御心に従わせてください。

 この週も世界があなたの御心のままにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。

6月19日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年6月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    コリントの信徒への手紙一15章12~28節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは前回に引き続いて、「復活して永遠の命の保証を与え」という告白について学びます。前回は、主イエスご自身の復活の出来事を中心に学びましたが、きょうは、主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるということについて、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 前回にも指摘したことですが、『日本キリスト教会信仰の告白』の「前文」と後半の『使徒信条』とを比較してみると、『使徒信条』では第二項目の「わたしは主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架と復活のことが告白されており、第3項目の「わたしは聖霊を信じます」の中で、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちのことが告白されています。それに対して、「前文」ではその二つの項目が一続きで告白されています。

 つまり、主イエス・キリストが人類の罪のため、すなわち、わたしたちの罪のために十字架につけられ、それによって完全な犠牲をささげてくださった、そのことがわたしたちのための罪からの贖いであったということが、同じ一つの文章の中で告白されており、主イエスの復活もそれと同じです。主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるものであるということが、「復活して永遠のいのちの保証を与え」と、二つのことがあたかも一つのことであるかのように告白されています。これほどまでに、主イエスの救いのみわざとわたしたちに与えられる恵みとが密接に、また堅く、結合していることが「前文」では強調されているのです。

これは、主イエスのご生涯とそのみわざのすべてが、わたしたちのためであったことと関連しているのは言うまでもありません。主イエスの誕生、ご生涯、奇跡やいやしのみわざ、弟子たちに語られた説教、そしてご受難、十字架の死、三日目の復活、40日目の昇天、それらのすべては、わたしたち人間の罪のゆるしと救いのため、わたしたちのからだの復活のため、わたしたちの永遠の命のため、わたしたちの救いの完成のためだったのです。主イエスのご生涯全体とわたしたち信仰者の救いの恵みとは密接に結びついているのです。

 では、主イエスの復活の出来事とわたしたち信仰者の永遠の命の保証とは、どのように結ぶついているのか、その関連について聖書はどのように教えているのかをみていきましょう。

 福音書の中には、主イエスの復活とわたしたちの命の保証とが直接に関連づけられている聖句はありません。福音書は主イエスの復活の出来事で終わっているからです。主イエスの復活と聖霊降臨後、教会が誕生し、パウロの書簡になって初めて両者の関連が頻繁に語られます。では、それはパウロの信仰、パウロが考え出した神学と言うべきなのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスの復活の出来事以前に、主イエスご自身の信仰の中にはっきりとあったということを、わたしたちは福音書の中に確認することができます。主イエスは弟子たちに繰り返して説教されました。「わたしを信じ、わたしに従ってくる人は、まことの命を得るであろう。その人は、来るべき神の国では永遠の命を受け継ぐであろう」と。

 特に、ヨハネによる福音書では、主イエスを信じる信仰と永遠の命の結びつきが強調されています。3章16節にこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、【6章39~40節】(175ページ)。さらに、【11章25~26節】(189ページ)。

 これらは、主イエスがご自身の復活と、信仰者に与えられるであろう永遠の命を預言したみ言葉として読むことができます。主イエスはご自身の十字架の死と三日目の復活をあらかじめ弟子たちに予告されただけでなく、復活されたあとに弟子たちと信じる者たちすべてに、朽ちることのない、死によっても終わることがない、永遠の命をお与えになることをもあらかじめ約束しておられました。

 では次に、パウロの書簡を見ていきましょう。パウロの書簡では、主イエスの復活と信仰者に約束されている永遠の命とが、別々に語られるという例はほとんどなく、両者の結びつきが多くの箇所で強調されています。その代表的な個所が、きょうの礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章です。この章全体が「復活の章」と言われていますが、ここでは主イエスの復活の出来事とそれを信じる信仰者の体の復活、永遠の命が密接に関連していること、切り離すことができないことが繰り返して語られています。

 パウロはまず3節から、彼自身が初代教会から受け継いだ信仰告白の中で、主イエスの復活と、復活された主イエスの顕現について語り、さらにはパウロ自身にも復活の主イエスが出会ってくださったことを感謝と驚きとをもって語った後で、12節以下では、主イエスの復活を信じながら、信仰者の復活はないと主張しているコリント教会の一部の人たちの誤った信仰を正すために、次のように語ります。「主イエスの復活と信仰者の体の復活とは分かちがたく結びついているのであるから、もし信仰者の体の復活を否定するなら、主イエスの復活をも否定することになるのであって、それはキリスト教会の信仰と宣教の基礎を失うことになるではないか」と、彼は熱っぽく語ります。したがって、ここでは当然、主イエスの復活と信仰者の体の復活、永遠の命との固い結びつきが強調されていることが分かります。

 もう1箇所、ローマの信徒への手紙6章を読んでみましょう。【3~8節】(280ページ)。ここでは、主イエスの死と復活が、わたしたち信仰者が古い罪の体に死に、新しい復活の命に生きること、つまり主イエスの出来事とわたしたちの信仰の体験、その二つのことが洗礼という礼典において同時に起こっていると語られています。ここでも、主イエスの復活と信仰者の永遠の命とが固く結ばれています。

 では次に、そのような両者の固い結びつきはどこから来るのでしょうか。そのことを語っている箇所を読んでみましょう。【ローマ8章11節】(284ページ)。ここでは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神が、またその父なる神から遣わされた霊、聖霊によって、わたしたち信仰者にもまことの命を、死に勝利した永遠の命をお与えくださるであろうと言われています。主イエスの復活とわたしたち信仰者の復活、永遠の命とを固く結びつけているのは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神の力であり、また聖霊なる神なのです。主イエスご自身の復活の中に、わたしたち信仰者の復活と永遠の命の約束と保証がすでに含まれていると言ってよいでしょう。主イエスはわたしたち滅びゆく者たちに永遠の命を約束するために、死の墓から三日目に復活されたのです。『日本キリスト教会信仰の告白』で「主イエスは復活して、永遠の命の保証を与え」と告白されているのは、そのことです。

 『信仰告白』の中の「保証を与え」とは、まだそれは実際には与えられていないが、やがて必ずや与えられるという確かな保証があるということを意味しています。。再び、コリントの信徒への手紙一15章に戻りましょう。20節にはこう書かれています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、麦や野菜、果物などの最初の実りのことです。イスラエルの民は初穂を自分たちの食用にしないで、神にささげました。初穂は神からの恵みの賜物だからです。その初穂には間違いなく次の収穫が続くことを神は約束しておられます。主イエスの復活には間違いなく信じる者たちの復活が続きます。復活の初穂である主イエスの復活は、わたしたち信仰者の復活の確かな保証なのです。

 20節の「死者の中から」と「眠りについた人たち」はいずれも複数形です。主イエスお一人だけを言うのではありません。主イエスは、罪のゆえに死すべきすべての罪びとたちの中に入ってきてくださり、そのお一人となって十字架で死んでくださいました。また、主イエスは主イエスの復活を信じるすべての信仰者の代表者として、死に勝利され、復活されました。それによって、わたしたちに復活と永遠の命の確かな保証をお与えくださったのです。

 この確かな約束と保証は、終わりの時、神の国が完成し、主イエスが神の国の王として君臨され、最後の敵である死を完全に滅ぼされる時に、実現します。しかし、主イエスの復活を信じる信仰者にとっては、主イエスがすでにご自身の十字架の死と復活によって、罪と死とに対して勝利しておられることを知らされているゆえに、そして聖霊によって、復活と永遠の命の確かな保証を与えてくださっておられるゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、今すでにその永遠の命に生き始めていると言えるのです。

 永遠の命とは何かということを確認しておきましょう。わたしたちはこれまでに何度も聖書のみ言葉から学んできたように、永遠の命とはこの世にある今の命が永続するということではありません。今の命は、どれほどに引き延ばしたとしても、それはいずれか滅びなければならない命です。聖書が教える永遠の命とは、この世の命の延長ではなく、全く新しく主イエス・キリストから与えられる命であり、復活され、今も、そしていつまでも生きておられる主イエス・キリストと共にある命であり、父なる神との永遠の交わりの中で生きる命のことです。主イエスがマタイによる福音書28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたみ言葉を信じる信仰者に与えられる命のことです。

 第二には、それは死を乗り越えた命のことです。あえて言うならば、死から始まる命のことです。主イエス・キリストの十字架と共に、古い罪に支配されていたわたしが死に、主イエスの復活によってわたしが新しい命に生かされる命であり、主イエスによって罪ゆるされた命のことです。

 第三に、それは、この世に属する命ではなく、来るべき神の国に属する命のことです。ヨハネの黙示録21章3~4節でこのように語られている命です。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。主イエス・キリストの復活を信じるわたしたちは、この永遠の命へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ち果てる命のためのパンだけによって生きるのではなく、永遠の命へと至らせるあなたのみ言葉を信じて生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月12日説教「ステファノの説教(三)モーセの召命」

2022年6月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~15節

    使徒言行録7章23~35節

説教題:「ステファノの説教(三) モーセの召命」

 使徒言行録はペンテコステの日に誕生した初代教会の歴史を描いています。先週の日曜日が、そのペンテコステ、弟子たちに聖霊が注がれて教会が誕生した日の礼拝でした。主イエスの誕生が紀元1年とすると、ペンテコステは紀元30年代前半の今ごろの季節になります。エルサレムに誕生した教会は、その後数十年の間に急激にパレスチナから小アジア地方、ヨーロッパ、当時の世界の中心都市ローマと、さらにその西当時世界の果てと言われていたスペインに、そしてやがて全世界へと拡大され、今日に至るまで継続されています。世界の教会の歴史はおよそ2000年、秋田教会の歴史はそのうちの近年130年間が重なっていることになります。

 使徒言行録7章に書かれているステファノの説教は、主イエスの時からさらにさかのぼり、紀元前19世紀ころのアブラハム、イサク、ヤコブの族長時代から始まって、きょうの礼拝で朗読された23節からはモーセが40歳になって、神の召命を受けてイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出す指導者として立てられることが語られています。これは、紀元前1280年ころと考えられています。

神がアブラハムとモーセをお選びになって、イスラエルの民をご自身の契約の民とされ、神の救いのみわざをお始めになったときから数えると、およそ4千年間の神の救いの歴史の中に、わたしたち秋田教会の130年の歴史が位置付けられるということになります。きょうの使徒言行録のステファノの説教を学ぶにあたって、そのような神の永遠なる救いのご計画の中にわたしたち秋田教会もまた連なっている、その中に招き入れられているということを、まず最初に覚え、そのことを神に感謝したいと思います。

 ステファノはキリスト教会最初の殉教者となった人です。7章の長い説教、これは実はユダヤ最高法院での裁判の席で被告席に立たされた彼の弁明なのですが、その説教が終わったあとすぐに、58節で彼は石打の刑で処刑されました。この説教が、彼の殉教の死直前の説教であり、彼の説教の内容そのものが殉教の死を招く直接的な原因になったのであり、これはまさに彼の命をかけた説教であり、殉教の血に直結する説教であるということを考えると、わたしたちは身の引き締まる真剣な思いとならざるを得ません。

 23節からは、モーセが40歳になってからのことが語られます。ステファノはモーセの120年の生涯を3つに区切り、誕生からエジプト王宮で育てられ、エジプトの教育を教え込まれた40年間(17~22節)と、エジプトで同胞の民イスラエル人が虐待されている現実を目撃し、事件を起こしてミディアン地方に身を隠していた40年間(23~29節)、そして出エジプトから荒れ野の40年間の旅(30節以下)にまとめています。

 23節の「40歳になったとき」と30節の「40年たったとき」は、いずれも原典のギリシャ語を直訳すると、「彼の40年間が満ちたとき」となります。ここには、神がモーセの生涯のそれぞれの40年の期間を、神が計画しておられた救いの期間と理解し、それぞれの救いの期間が神によって満たされたという理解があるように思われます。23節と30節は、17節に連続しているからです。

【17節】。モーセは生まれてすぐにファラオの命令によってナイル川に捨てられましたが、神の奇跡によって、ファラオの娘に救い上げられ、王宮で育てられ、エジプトの最高の教育を受けたこと、そこには神の見えざるみ手の働きがあったということ。エジプト人として育てられたモーセであったが、彼は決してエジプト人になったのではなく、神に選ばれた民、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として、神の契約の民イスラエルに連なるモーセとして、彼をとおしてなされるであろう神の救いのご計画は、この期間も着実に前進していたのだということ、そのことを17節は語っているように思われます。

そして、次の40年間も、その次の40年間も、モーセに対する神の救いのご計画が満ちる期間となることが23節と30節に予告されているのです。では、23節を読みましょう。【23節】。それは彼自身の願いというよりは、25節にあるように、「自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられる」とモーセが信じたからです。けれども、モーセも、また彼の同胞のイスラエル人も、この時点ではまだ神の本当の救いのご計画を悟ってはいませんでした。モーセは、奴隷として苦しめられていた同胞を見て、相手のエジプト人を殺すことによって同胞の民を解放できると考えていました。しかし、暴力に対して暴力をもってしても、そこには本当の救いはありません。彼が神の救いのみ心を正しく知るためには、なおしばらくの訓練の期間が必要です。

また同胞のイスラエル人は、エジプト王宮で育ったモーセを自分たちの同胞だとは認めていなかったようです。神がモーセを用いてイスラエルの民をお救いになるということは、彼らにはまだ理解されてはいませんでした。彼らはこう言ってモーセを非難しています。「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」(27、28節)。モーセは奴隷として苦しめられていた同胞の民を救うためにエジプト人を殺したのに、そのことが同胞のイスラエル人には理解されず、受け入れられませんでした。イスラエル人がモーセを神から遣わされた自分たちの指導者として認めるためには、なおしばらくの期間が必要になります。

モーセはファラオに命をねらわれていることを知り、シナイ半島の西、ミディアン地方に逃れ、その地で祭司の職にあったエトロのもとに身を寄せ、彼の娘ツィポラと結婚をし、二人の子どもの父親となりました。ミディアン地方でのモーセのことについては出エジプト記でも詳しくは書いていませんが、この期間は彼にとっては信仰の訓練の期間であったと推測されます。また、神の召命のみ声を聞くときまでの待機の期間でもありました。神がこの第二の40年間という期間を満たしてくださるまで、モーセは信じて待ち望む必要があったのです。

次に、30~34節を読みましょう。【30~34節】。モーセがシナイの荒れ野で見た幻は「燃える柴の幻」と言われます。ステパノはその詳細を語っていませんが、柴が燃えているのにいつまでも燃え尽きることがないという不思議な幻でした。この幻は、イスラエルの民がエジプトで苦難を受け、虐待され、迫害されても、神の民であるイスラエルは決して滅亡することないということのしるしであり、また同時に、ご自身の民に対する神の情熱と愛はいつまでも変わることなく、永遠に燃え続けるということのしるしでもありました。

モーセはこの幻を見て励まされ、新たな力を与えられ、忘れかけていたエジプトにいる同胞イスラエル人を助けるという彼の使命を再び思い起こしたのでした。そして、燃える柴の中から、今度ははっきりと神のみ声を聞きました。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサク、ヤコブの神である」と。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方は、旧約聖書でも新約聖書でも、何度も繰り返されています。この表現には二つの大きな意味があります。一つには、神が最初にアブラハムを選ばれ、彼と結ばれた契約は、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、さらにその契約は、主イエス・キリストによって全世界の教会へと受け継がれていくのであって、神の選びと契約は永遠に変わらないということが言い表されているのです。

もう一つは、本来はこちらが本質なのですが、神はアブラハムの神であり、その子イサクの神であり、ヤコブの神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神であり、教会の神であり、そしてわたしたち一人一人の神である、そのように、神は永遠なる神であり、神の愛と義と真理とは永遠に変わらず、神の救いのみわざはどのような時代の変化や状況の変化にも変わることなく、永遠に継続されていくという意味です。

使徒言行録で語られているステファノの説教の文脈で考えるならば、神が最初アブラハムに語られた契約、「わたしはお前を祝福する。お前はすべて信じる人々の祝福の基となる。わたしはお前の子孫を星の数ほどに、海の砂の数ほどに増やす。またわたしはお前とお前の子孫とにこの約束の地を嗣業として与え、神の国を受け継がせる」、この神の契約は、イスラエルの民が400年間エジプトに寄留し、そこで奴隷として虐待され、苦しめられていても、決して神はお忘れにはならない。神はエジプトで奴隷の民とされたイスラエルの神であり続け、イスラエルの民と結ばれた契約は彼らの苦難の中にあっても決して破棄されることはない。その契約は確かな成就に向かっている。神は燃える柴の中からモーセにそのようにお語りになったのです。

神はイスラエルの民の苦難をご覧になっておられ、彼らの苦悩の叫びを聞かれ、それゆえに、天におられる神が地に降って来られ、直接にご自身のみ手をもって彼らをお救いになると言われます。そのために、モーセを遣わすと言われます。ここに至って、モーセはイスラエルの民に対する神の救いのみ旨をはっきりと知らされ、同胞の民を助けたいとの彼の願いが、彼自身の願いである以上に、神の願いであり、神の強い意志であり、永遠に変わることのない神の愛と義と真理とによる救いのご計画であるということを悟るのです。ここではっきりとモーセの召命、神による招きが語られます。彼は同胞の民イスラエルの指導者として立てられます。召命には派遣が伴います。モーセはエジプトへと遣わされます。エジプト王国を支配している絶対的権力者であるファラオのもとへと遣わされます。奴隷として苦しむイスラエルの民の解放者として派遣されるのです。

最後の35節を読みましょう。【35節】。ステファノが旧約聖書の偉大な指導者モーセについて語っているのは、単に出エジプト記に記されている古い歴史をたどっているのではありません。わたしたちはここで、モーセの最初の40年間の生涯と次の40年間の生涯に、ステファノが主イエスのご生涯を重ね合わせている、ここに主イエスの預言を見ている、そして主イエスの預言が今成就していることを見ているのだ、ということに気づかされるのです。

主イエスの誕生とモーセの誕生とが重なります。エジプト王ファラオの迫害の中でモーセは誕生しました。主イエスはヘロデ大王とローマ帝国の弾圧の中で誕生しました。モーセはイスラエルの民が奴隷として苦しめられている中に派遣されました。主イエスは信仰の命を失いかけていたイスラエルの民の中へ、世界に罪が満ち、暗黒に支配されていた中へ、すべての人を罪から救うメシア・救い主として派遣されました。モーセは同胞の民には理解されず、排斥されたにもかかわらず、神に選ばれ、神に立てられ、神に派遣されました。主イエスはご自分の民ユダヤ人には受け入れられず、この世では見捨てられ、ただお一人苦難の道を歩まれ、十字架につけられ、そのようにして神の救いのみ心を成就されました。神の救いは、あらゆる人間の罪や過ち、神への無理解や抵抗にもかかわらず、今この時も前進していくのだということをわたしたちは信じるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたのみ前にあって、かたくなであり、無知であり、悟るに鈍くあり、悔い改めるに遅くあり、信仰の薄い者であることを告白せざるを得ません。主よ、どうぞわたしたちを憐れんでください。わたしたちをお救いください。わたしたちがあなたの愛と義と真理とによって生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月5日説教「真理の霊によって生きる教会」

2022年6月5日(日) 秋田教会ペンテコステ礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エゼキエル書33章12~20節

    ヨハネによる福音書14章15~31節

説教題:「真理の霊によって生きる教会」

 ペンテコステは本来ギリシャ語で五十番目という意味を持ちますが、ユダヤ教の五十日目の祭り、五旬節を指すようになりました。この祭りはユダヤ人にとっての三大祭りの一つであり、旧約聖書では、七週の祭り、仮り入れの祭りと呼ばれていました。過ぎ越しの祭りから50日目に祝う祭りであり、刈り入れた麦の初穂を神にささげる祭りでした。ちなみに、ユダヤ人の三大祭りとは、過ぎ越しの祭りと五旬節・ペンテコステ、それに秋のぶどうの収穫を祝う仮庵の祭りであり、すべてのイスラエルの民はこの三大祭りの時にはエルサレムの神殿で神を礼拝しなければならないと律法に定められていました。

 主イエスご自身もガリラヤ地方を中心にした福音宣教の3年間の活動の間に、毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムの神殿で礼拝されたことが福音書に書かれています。そして、おそらくは3回目が最後のエルサレム訪問であったと思われますが、その週の木曜日の夕方には弟子たちと最後の晩餐を囲まれました。共観福音書ではそれがユダヤ教の過ぎ越しの食事であったと伝えています。翌日の金曜日には、主イエスはユダヤ最高法院での裁判を受け、十字架刑に処せられました。

 ユダヤ教の祭りで刈り入れの祭りが過ぎ越しの祭りが終わってから50日後の祭りと言われ、二つが関連付けられていることには理由がありました。過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって導き出され、救われたことを神に感謝する祭りであり、50日目の刈り入れの祭りは、救われたイスラエルの民が神の約束の地に入り、その地で種をまき、その初穂を神にささげて、収穫を感謝する祭りであったのです。神によって奴隷の家から救われた民には、豊かな収穫が約束されているのであり、彼らはその収穫を刈り取ることをゆるされているのであり、その感謝のささげものによっていよいよ神による救いの恵みを確かにするのです。

 新約聖書において、主イエスの十字架による罪のゆるしの恵みと、その後50日目のペンテコステの日の聖霊降臨もまた同じような関連性があります。主イエスの十字架と復活の恵みが、具体的に豊かな実りをもたらし、救われた人間の魂を収穫するために主なる神が弟子たちに聖霊を注いでくださり、彼らが語った命の言葉を信じ、救われる人たちの群れを誕生させてくださったのです。聖霊によって命と救いのみ言葉を語り、聖霊によって信じ、救われる人たちの群れである教会を誕生させてくださったのです。ペンテコステの日に聖霊によって誕生した教会は、聖霊によってさらに新たな実りを与えられ、聖霊によって生き続けます。

 ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれ、教会が誕生したことは、ある日に偶然に起こった出来事ではありません。過ぎ越しの祭りと麦の初穂をささげる五旬節とが関連付けられてるだけでなく、聖霊降臨は古くから旧約聖書で預言されていた神の救いのご計画であったのであり、そして、それはまた主イエスご自身があらかじめ弟子たちに約束しておられた出来事でもありました。

 旧約聖書の預言の方から見ていきましょう。ペンテコステの日のペトロの説教でそのことが語られています。その個所を読んでみましょう。【使徒言行録2章16~21節】(215ページ)。信じる人々の上に聖霊が注がれ、聖霊のみ力に満たされてすべての人が神のみ言葉の証人となり、すべての人が主イエス・キリストのみ名によって救われるようになるのは、預言者ヨエルが旧約聖書で預言していたように、神の永遠の救いのご計画によることなのです。その預言がペンテコステの日に成就したのです。神の永遠の救いのご計画は終わりの日に神の国が完成される時まで継続されます。

 主イエスが弟子たちに聖霊を注ぐ約束をされたことについては、ヨハネによる福音書に詳しく語られていますが、共観福音書でもそのことが暗示されています。まず、マタイ福音書28章19~20節を読んでみましょう。【19~20節】(60ページ)。父なる神、子なる神・主イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三位一体なる神のみ名によって洗礼を受け、救われる人たちの群れである教会が全世界に誕生することが、ここですでに主イエスご自身のお言葉によって暗示されています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とのお約束も、聖霊のお働きを暗示しています。

次に、ルカ福音書24章45節以下を読んでみましょう。【45~49節】(161ページ)。49節の「父が約束されたものをあなたがたに送る」、また「高い所からの力に覆われる」も聖霊の降臨を暗示しています。弟子たちは聖霊なる神のお力によって、全世界の人々に主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立てられるのです。

ヨハネ福音書では聖霊についてより詳しく約束されています。きょうの礼拝で朗読された14章15節以下はその最初ですが、これ以降にも15章26節、16章4~15節などで聖霊について語られています。これらのヨハネ福音書の主イエスのお言葉から、聖霊について、聖霊なる神のお働きについて、聖霊によって生きるわたしたちの教会について、さら学んでいくことにしましょう。

第一に重要なポイントは、聖霊は、わたしたちがすでに見たように、父なる神の永遠の救いのご計画の中で約束され、また主イエスのお約束でもあったということだけでなく、聖霊は父なる神とみ子なる主イエスから遣わされる霊なる神であるということです。

約束されていたと言いましたが、聖霊は約束された時になって初めて現れた神というのではありません。聖霊は永遠の初めから父なる神、子なる神と共におられた聖霊なる神です。旧約聖書の中でも聖霊は働いておられました。エゼキエル書では、聖霊が死んで骨だけになった人に新しい命を吹き込むことが預言されています。そのほかにも、聖霊がイスラエルの民に霊的な命をお与えになったことが数多く記されています。その聖霊なる神が、約束の時になって、すべての信仰者の上に豊かに注がれるようになったのだということです。

聖霊は父なる神と主イエスから派遣される霊であることについて、ヨハネ福音書14章26節では、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が」と言われ、15章26節では、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき」と言われており、弁護者なる聖霊は父なる神と主イエスの両方から派遣されるということが読み取れます。主なる神は、父なる神として、子なる神として、また聖霊なる神として、キリスト教の教理ではこれを「三位一体論」と言いますが、わたしたちの救いのためにお働きくださいます。神はご自身の全ご人格をもって、いわば全身全霊を込めて、わたしたちの救いのために働いてくださいます。父なる全能の神として、同時に、み子なる神として、人となられ、十字架で死んでくださった神として、そしてまた同時に、すべて信じる人に注がれる命と真理の霊、聖霊なる神として、三位一体なる神の全ご人格、全機能をお用いになって、わたしたち罪びとを罪と死と滅びから救い出すために働いておられ、その救いを完成させてくださるのです。

第二点は、14章16節で、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とあるように、聖霊は別の弁護者、すなわち、主イエスに続くもう一人の弁護者であるということです。ですから、主イエスが地上から去った後にも、弟子たちは孤児のようになって見捨てられるのではなく、もう一人の弁護者である聖霊がいつまでも弟子たちと共におられると言われているのです。

もう少し具体的に説明するならば、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、その後40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、40日目に天に昇られ、もはやそのお姿は地上では見ることができないのですが、その主イエスの救いのみわざを引き継ぐようにして、聖霊が注がれたということであり、「わたしはいつまでもあなたがたと共にいる」と言われた主イエスのお約束は廃棄されたのではなく、そのようにして継続されているということなのです。

このことと関連して、聖霊が主イエスのみわざを引き継ぐという意味のことがたびたび語られます。14章26節では、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」、15章26節では、「その方がわたしについて証しをなさるはずである」、16章13、14節では、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。聖霊は主イエスとわたしたちとを堅く結びつけ、主イエスの十字架と復活の福音をわたしたちに悟らせ、信じさせ、その福音によって新しく生きる力と導きとを与えてくださるのです。

第三点は、聖霊が「弁護者」と言われていることです。弁護者とは、ギリシャ語では「パラクレートス」ですが、「パラ」とは「そばに、近くに」という意味で、「クレートス」とは「呼び出された人」という意味です。『口語訳聖書』では「助け主」と訳されていました。罪を告発された被告人とか、窮地に陥って助けを必要としている人の傍らに立ち、その人を弁護し、必要な助けの手を差し伸べる人をパラクレートスと呼びました。主イエスご自身が弟子たちにとってのパラクレートスでしたが、主イエスが天に帰られてからは聖霊が弟子たちの、そして教会とわたしたちにとってのパラクレートスとして、終わりの日の救いの完成の時までわたしたちを導いてくださいます。17節で、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたのうちにいるからである」と主イエスが言われたとおりです。

最後に、聖霊は14章17節や15章26節、16章13節で「真理の霊」と呼ばれています。15章26節では、「真理の霊が来るときに、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と言われ、また16章13節では【13節】(200ページ)と言われています。真理の霊である聖霊が下るとき、聖霊は信仰者に主イエスが語られたみ言葉をすべて悟らせ、信じさせ、その人を真理へと導かれるというのです。真理とは、主イエス・キリストのことであり、主イエスの十字架と復活の福音のことなのです。神の真理は主イエスの十字架と復活の福音に最もよく現わされているのです。神の真理とは、神がわたしたち罪びとを愛され、その愛によってご自身の独り子を十字架に犠牲としておささげになったということにほかなりません。ここに神の愛があり、ここに神の真理があるのです。わたしたちは聖霊によってこの神の愛と真理へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、永遠に変わらないあなたの愛と真理の中にわたしたちをとどまらせてください。聖霊によって、わたしたちに新たな命を注ぎ込んでください。日本とアジア、そして全世界の人々が、また主キリストの教会が、多くの困難な課題を抱え、祈りつつ労苦を重ねています。どうか、この世界とその中に住むすべての人々を憐れんでください。顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月29日説教「アブラハムからイサクへ受け継がれた契約」

2022年5月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記26章1~25節

    ヘブライ人への手紙11章17~22節

説教題:「アブラハムからイサクへ受け継がれた契約」

 創世記26章では、アブラハムの子イサクの生涯について描かれています。ほかの族長たちと比較して、イサクについてわたしたちが知ることができる箇所は非常に少なく、イサクを主人公として語っているのは、ほとんどこの26章に限られていると言ってもよいほどです。彼の父アブラハムについては12章から25章前半まで、彼の子ヤコブについては27章から36章にかけて、彼の孫の一人ヨセフについては37章以後創世記の終わりまでに描かれています。イサクについて語られている箇所は26章以外にもいくつかありますが、そこでは必ずしもイサク自身が主人公というわけではありません。

 イサクは偉大な父アブラハムと、兄弟で激しい相続争いをする個性の強い子ヤコブとの、いわば彼らの谷間にいる、目立たない、影の薄い人物であると言ってよいかもしれません。彼を主人公とするこの26章でも、すでに死んでいる父アブラハムの名前が10回近くも出てきます。たとえば、【1節】、【3節、5節】などです。イサクは、いわば父親の七光りによって、わずかにこの26章で、創世記全体の中で通りすがりに取り扱われているように思われます。

 実際、イサクは自分の意志で選び取った運命を歩むよりは、彼の父アブラハムや彼の双子の子どもたち、彼の妻といった、彼の周辺の人々の運命の中で翻弄された人生を歩んできました。イサクはまだ若かった時、父アブラハムによって、燔祭のたきぎの上に横たえられました。父親となってからは、双子の子、エサウとヤコブの相続争いと、それに加わった妻リベカのたくらみに対して、なすすべもなく、ついには年老いて盲人となり、次男ヤコブと妻リベカの策略によってだまされ、長男に与えるべき祝福を次男ヤコブに与えてしまうという失態を行うことになりました。そのことについては27章に語られています。イサクは人間として、父親として、また信仰者としても、破れや弱さをいっぱい持っていました。

 しかし、そうでありながらも、神は彼を決してお見捨てにはなりません。いな、神はそのようなイサクをお用いになって、ご自身の救いのみわざを前進させられます。3~4節にこのように書かれています。【3~4節】。そして、24節でも。【24節】。神の約束は、人間として、父親として、また信仰者として、弱さや欠けをたくさん持っているイサクに与えられます。神の祝福がそのようなイサクに受け継がれます。神の約束の地カナンが、そのようなイサクに約束されています。天の星の数ほどの子孫が、そのようなヤコブを父として持つと約束されています。父アブラハムに与えられた神の約束が何一つかけることなく、そのようなヤコブに完全に受け継がれていくのです。父アブラハムの主なる神は、全く同様にそのようなイサクの主なる神であられるのです。神は、そのような弱さや欠けを持つヤコブの神であられることによってこそ、ご自身の大きな恵みとご栄光とを明らかにされます。人間が弱い時にこそ、神はご自身の力を現わされます。

 では、【1~2節】を読みましょう。アブラハムもカナンに移り住んで間もなく飢饉にあいました。彼は食料を求めて家族と共にエジプトに移住しました。イサクも父と同じようにエジプト行きを考え、パレスチナ南方のゲラルへと向かいました。しかし、イサクの場合は、神によってエジプトへの道をさえぎられました。父アブラハムの場合には、神はあえて彼のエジプト行きを止めることはなさいませんでしたが、その子イサクにはエジプト行きをお許しにはなりませんでした。なぜ神はそうなさったのでしょうか。こう推測することができます。イサクは父アブラハムほどには人間としての意志も決断力も強くはないので、異教の地エジプトへ行ったらきっと信仰をなくしてしまうに違いないと神はお考えになり、イサクをその危険から守られたのだと。その推測は間違ってはいないだろうと思います。神は信仰の弱い人に対してはそれなりの手を打ってくださり、その人を守るために危機の時にみ言葉を語ってくださいます。それゆえに重要なことは、その人が強い人間であるか、弱い人間であるかではなく、神は常にその人に必要なみ言葉を語ってくださるゆえに、わたしたちがそれに聞き従うべきであるということなのです。イサクは神のみ言葉に従い、エジプト行きを思いとどまったゆえに、神との契約の中で生き続け、神の祝福を受け継ぐ人となったのです。

 多くの弱さと欠けを持っていたヤコブは、飢饉と空腹の中で主なる神のみ言葉にすべてを委ね、信頼すべきことを学ばされるのです。そのために、約束の地カナンに留められます。彼が神に服従し、その地に留まる時に、神は常に彼と共におられ、それゆえに神の祝福は彼を離れず、彼は神の約束のすべてを受け継ぐことになるのです。たとえ、彼がエジプトでその空腹が満たされ、富める者になったとしても、彼が神のみ言葉に聞き従わず、それゆえに神の祝福を受け継ぐことができなかったなら、彼は神なき空しい人生を送るほかになかったでしょう。

 主イエスはマタイ福音書5章の山上での説教で言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と。ここでわたしたちはこう言うことができます。「貧しさの中で神に聞き従ったイサクは何と幸いであることか」と。神は彼にこのように約束されるからです。もう一度、2~5節を読んでみましょう。【2~5節】。わたしたちはここで、神の約束がどのようにしてアブラハムからイサクへと受け継がれていくのかを、注意深く確認してみましょう。

 第一に言えることは、神の契約がアブラハムからイサクへと受け継がれるのは、イサク自身の何らかの条件や資格にはよらないということです。彼が強い人間であるか弱い人間であるかによらず、あえて言うならば、彼が弱く、欠けの多い人間であるにもかかわらず、また彼には何の業績もないのに、父アブラハムの信仰と従順によって、アブラハムへの神の約束が何一つ欠けることなくそのすべてが受け継がれるということです。先に、そのことを親の七光りと表現しましたけれど、しかし、本当にすべては父アブラハムのゆえになのでしょうか。わたしたちはそこを厳密にみていく必要があります。

 3~5節の文章の実際の主語、実質的な主語はすべて「わたし」、すなわち主なる神です。3節では、「わたしはあなたと共にいる」。「わたしがあなたを祝福する」。「わたしはこれらの土地のすべてをあなたとあなたの子孫とに与える」。「わたしがあなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを果たす」。4節も同様です。5節でも、「わたしの声に聞き従う」。「わたしの戒め、わたしの命令、わたしの掟、わたしの教え」と、わたしが何度も強調されています。すなわち、正確に言うならば、アブラハムのゆえにではなく、神が彼に語られたみ言葉のゆえに、神の約束のゆえに、その神のみ言葉が永遠に変わらないゆえに、アブラハムへの約束がそのまますべてイサクへと受け継がれているのです。親の七光りのゆえにではなく、アブラハムのゆえにではなく、アブラハムが信じた主なる神ゆえにと言うべきです。神の永遠に変わらない恵みと愛のゆえにと言うべきなのです。この神こそが偉大なのです。この神こそが、信じたアブラハムを偉大な信仰の父としているのです。そして、この神こそが、今ここで弱く欠けの多いイサクをも万国の祝福を受け継ぐ信仰者としているのです。

 7節からは、イサクがゲラルの王アビメレクに対して、妻のリベカを自分の妹だと偽ったことが書かれています。【7節】。父アブラハムはエジプトに移住した時に同じようなことをしたと12章10節以下に書かれていました。また、20章には、同じゲラルの王アビメレクの前でもアブラハムは妻のサラを自分の妹だと偽って自分の命を救おうとしたと書かれていました。アブラハムは同じ過ちを2度繰り返していましたが、その子イサクまでもがその父の欠点を受け継いで、同じ過ちを繰り返しています。

 アブラハムのところでも説明しましたように、定住の土地を持たない遊牧民であった族長たちは、新しい土地では特に住民としての法的な権利を持っていませんから、美しい奥さんを持っている男はその命をねらわれ、奥さんを奪われても何の保護も期待できません。そこで、アブラハムもイサクも自分の妻を妹だと偽って、その土地の王や指導者に気に入られ、その奥さんにしてもらえれば、自分もまた王からよい待遇を受けることができると考えたのでした。自分の命と利益を守るために自分の妻を売り渡し、犠牲にするような愛のない、非人間的な行為と言わざるを得ません。いや、それだけでなく、共に神の約束を担っている夫婦であり、「あなたがたの子どもから多くの子孫が生まれ、祝福が受け継がれていく」と言われた神の契約に背く不信仰であったということを、わたしたちはこれまでも確認してきました。

 けれども、今回もまた、神はイサクとその妻リベカを守られました。それによって、ご自身の契約を守られました。事態が悪化する前に、イサクとリベカが夫婦であることがアビメレク王に分かってしまい、王は二人を保護することになりました。ここにも、隠されたお姿で主なる神が働いておられるのに違いないとわたしたちには推測できます。

 実は、8節で「ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた」と書かれている「戯れる」というヘブライ語はイサクが誕生した時に、百歳のアブラハムが「神はわたしに笑いをお与えになった」と言ったときの「笑う」という言葉と同じです。神はイサクと妻リベカの信仰の危機の時にも彼らに「笑い」をお与えになったということがここでは暗示されているのです。

 【12~14節】。飢饉のあとには豊作がやってきます。飢饉も豊作も神のみわざです。神は違った方法によってではありますが、飢饉の時にも豊作の時にも恵みをお与えくださいます。しかしまた、飢饉の時もそうであるように、豊作の時もまた誘惑と試練が待っています。

 15節に「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた」と書かれているのは、イサクを妬んだペリシテ人の報復だったと考えられます。豊かになったイサクはペリシテ人との争いに巻き込まれてしまうのでしょうか。

でも、多くの弱さと欠けがあってもたびたび神によって守られてきたイサクは、もはや争いによって勝利しようとはしません。「ここから出て行っていただきたい」とのアビメレク王の求めに応じて、彼はその土地を去ります。イサクはまだその土地の所有者ではありません。旅人、寄留者です。いつでもその土地を手放す用意があります。神の約束の確かさがあるからです。

 その後も、井戸を巡ってのペリシテ人との衝突が何度も続きますが、そのたびにイサクは彼らと争わず、平和の人としての放浪の旅を続けます。神によって豊かに富む人は、いつでもそれを神の平和のために捨てることができる人でもあります。そして、ついにイサクは神からの平和を与えられました。最後に22節以下をもう一度読みましょう。【22~25節】。これが、多くの人間的な弱さや欠けを持っていたイサクの生涯です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが族長アブラハム、イサク、ヤコブの生涯をお導きくださったように、また、イスラエルの民の信仰の歩みをお導きくださったように、そしてまた主イエス・キリストによって建てられた秋田教会の130年の歩みをお導きくださいましたことを覚えて、心からの感謝をささげ、み名をほめたたえます。どうかこの群を憐れみ、豊かに祝福し、あなたのご栄光を現わす教会としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月22日説教「種をまく人のたとえ」

2022年5月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編1編1~6節

    ルカによる福音書8章9~15節

説教題:「種をまく人のたとえ」

 ルカ福音書8章4節以下の「種をまく人のたとえ」の個所を、前回に引き続いて学んでいくことにします。4節から15節までの全体の構造を確認しておきましょう。4~8節では、主イエスがお語りになった「種をまく人のたとえ」、9~10節では、主イエスがたとえを用いて語ることの意味について、11~15節では、主イエスご自身による「種をまく人のたとえ」の解説が語られています。この構造は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)に共通しています。ルカ福音書はマタイ、マルコ福音書よりも半分ほどに短縮されています。

きょうはまず、主イエスが神の国の福音を、たとえを用いて語ることの意味について学びます。【9~10節】。9節の弟子たちの問いに対する主イエスのお答えは、直接には11節に続いています。11節に、「このたとえの意味はこうである」とあるからです。主イエスはたとえの意味を説明される前に、たとえを用いて語ることの意味、あるいはその目的について10節で語っておられます。「種をまく人のたとえ」だけでなく、他のすべてのたとえにもこの原則は適用されます。では、主イエスが神の国の福音を多くのたとえを用いて語るのはなぜなのか。けれども、わたしたちが主イエスのお答えからそのことを理解するのは必ずしも簡単ではないように思われます。

というのは、何かの真理についてより分かりやすく、初心者にも理解できるために、身近かな例やたとえを用いて語る、それがたとえで語ることの意味であり目的であると多くの人は考えます。ところが、主イエスのお答えは違っています。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためであると主イエスは言われるからです。これはどういうことでしょうか。主イエスのお答えには大きな謎が隠されているように思われます。その謎を読み解いていきましょう。

ここで問題となる第一点は、主イエスが十二弟子たちと他の人々とをここで区別していることです。十二弟子たちは主イエスと常に共にいて、神の国の秘密について何度も聞き、それを悟ることが許されているが、群衆はそうではないからたとえで語るのだと主イエスは説明しておられます。しかし、実際にはどうかと言えば、9節で弟子たちは「このたとえはどういう意味か」と質問しています。マルコ福音書4章13節には、「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」という弟子たちに対する主イエスの叱責の言葉が記されています。弟子たちもまた、主イエスの期待に背いて、このたとえを十分に理解してはいなかったことが分かります。主イエスがお語りになった神の国のたとえが大きな謎であるのは、弟子たちにとっても同様であると言えます。

ここで主イエスが十二弟子と群衆とを区別しておられるのは、弟子たちが神の国の福音をより深く理解できるとか、ファリサイ派が考えたように、弟子たちの方が群衆よりも神の国に近い所にいるという理由によるのではありません。むしろ、弟子たちの無理解を強調するためであったと言うべきでしょう。彼らは主イエスに選ばれ、主イエスと常に共にいて、親しく御言葉を聞く機会が与えられていたにもかかわらず、彼らもまた群衆と同じに、神の国の奥義、その秘密を正しく理解することができていなかったのだと言うべきでしょう。

次に、謎の核心に迫りましょう。10節後半のみ言葉は二重かぎかっこで囲まれていて、これが旧約聖書からの引用であることを暗示しています。マタイ福音書13章ではっきりとこれがイザヤ書6章の預言であると明記されています。その個所を読んでみましょう。【13~15節】(24ページ)。イザヤ書のこの預言は、「心をかたくなにするメッセージ」と言われます。イザヤが神のみ言葉を語れば語るほどに、イスラエルの人々は心をかたくなにして、自分たちの罪に気づこうとせず、悔い改めることをしない、そしてついに、神の厳しい裁きを受けて、国は滅び、民は異教の国に捕らわれの身となるということが、イザヤ書では記されています。

そのように、主イエスが神の国の福音について、その奥義・秘密についてたとえを用いてお語りになることによって、だれもがその内容をよく理解し、神の国の福音を受け入れて救われるようになるのかと言えば、そうではなく、むしろそれによって主イエスの説教を聞いた人の目が見えなくされ、その心がかたくなにされ、弟子たちも群衆も、同じように救いから遠い所に立っていることが明らかにされるのだと主イエスは言われるのです。主イエスの説教によって神の国の福音がたとえで分かりやすく語られたとしても、それで神の国の秘密がだれにでも理解でき、信じることができるようになるのではなく、まただれもが救われるようになるというのでもありません。説教の内容が分かりやすいということと、説教を聞いて救われるということは同じではありません。

主イエスがここで問題にしておられることを二つの側面から見ていきましょう。一つは、神の国が今やわたしたちのすぐ近くに到来し、種をまく農夫の所にも、台所に立つ主婦にも、道を歩く旅人にも、すべての人に近づいて来ているということです。主イエスがこの世界の日常的な出来事や行動をたとえに用いて神の国の秘密を語られたことによって、神の国という、地から遠く離れた天の父なる神のご支配が、だれでもが経験し、生きているこの現実に関係づけられ、わたしたち一人一人の現実と密接にかかわる事柄となった、神の国がわたしの身近になった、わたしの生き方に直接かかわる事柄となったのです。今やわたしたちはわたしのすぐ近くに来ている神の国、神の恵みのご支配に対して、態度表明をするべく迫られているということです。

主イエスがたとえで神の国の奥義をお語りになることのもう一つの重要なポイントは、神の国の奥義・秘密を悟ることをしない、あるいはできない、人間の無知と罪と、また悔い改めることをしない人間のかたくなさのことです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われる主イエスの招きのみ言葉を聞いても、それを受け入れず、なおも自分が好む道を進もうとし、罪を悔い改めることをしない人間のかたくなさが、ここでは問題にされているのです。

主イエスがたとえで神の国の福音をお語りになることによって、神の国の福音がわたしの問題、わたしの課題となり、わたしがそれに対してはっきりと態度表明をするように迫られます。その時、神からの一方的な恵みとして差し出される神の国の福音を受け入れるに値しないわたしの罪が明らかにされるのです。神の国の福音を聞くよりも、自分の欲望や傲慢な声に耳を傾けようとしている自分の罪とかたくなさに気づかされるのです。深い罪の自覚と悔い改めなしには、だれも主イエスがお語りになる神の国のたとえを聞くことはできません。

そこで、わたしたちは主イエスがお語りになったこの理由、目的を基準にして、11節以下のたとえの解説を読んでいくことが必要です。前回にも確認したように、このたとえの中心は神のみ言葉の種をまかれる主イエスご自身です。主イエスは天の父なる神のみもとから地に下って来られ、人間のお姿となられてこの世においでになりました。そして、日夜、至る所に神の国の福音を、み言葉の種をまかれます。主イエスの奇跡のみわざを見るために集まってきた人々にも、重い病気で病んでいる人たちにも、きょう一日の生活にあくせくしている人たちにも、宗教的・政治的権威に寄りすがっている人たちにも、主イエスはすべての人に迫り来る神の国について語られ、神の国の福音へとお招きになりました。そのことがたとえの中心点です。

11節からの主イエスの解説では、どちらかと言えば、種をまく人よりはまかれた土地の違いの方に重点が移っているように思われるかもしれません。しかし、それは読む側のわたしたち自身の偏見や差別的価値判断からくる誤った理解なのです。この個所を読んで、わたしたちはすぐにあの人は道端のようだとか、わたしは石地のようだ、この人は茨のようだ、こんな人が良い土地のことだなどと考え、人や自分をその枠に当てはめることをしがちです。そして、ある時には他の人を裁き、またある時には自分を弁護するのです。

しかし、ここで語られている重点はあくまでも種をまく人であり、そしてまかれた種のことです。11節に「種は神の言葉である」と説明されており、12節と13節、14節、そして15節に、「御言葉を聞く」と繰り返されています。種をまく人はあらゆる場所に種をまき、すべての人に神の国の福音を語り、多くの人がそれを聞くことができるようにと働きます。多くの種が芽を出さず、語っても語っても聞かれず、種まきの労苦が無駄に終わるとしても、あるいは、み言葉に対する抵抗や反撃が予想されるとしても、種まきはすべての人にみ言葉の種をまき、神の国の福音を語るのです。

第二に強調されている点は、み言葉の種が持っている生命力です。み言葉の種がこの地にまかれると、そこにある変化が生じます。道端にまかれると、悪魔の激しい攻撃にあいます。石地にまかれると、み言葉のための試練や迫害が起こります。茨の中にまかれると、この世の思い煩いや富の誘惑、欲望が心に入り込み、み言葉に抵抗します。これらはみな、神のみ言葉そのものが持っている偉大な力と生命力によって引き起こされる現象です。神のみ言葉が持つ力と生命力は、この世のものではなく、神から来る力、生命力であるゆえに、この世を支配しているサタンや罪の力、悪しき欲望からの抵抗と攻撃を受けざるを得ません。教会の説教者が語る言葉が、この世のものであるならば、この世から時に歓迎されもし、そのような激しい抵抗や攻撃を受けることはないのかもしれません。しかし、神のみ言葉は罪に支配されているこの世を破壊し、変革していく力を持っていますから、多くの抵抗や反撃を受けざるを得ません。けれども、ついには神のみ言葉の種は良い地に落ち、聞かれ、信じられ、豊かな実りをつけるのです。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。神のみ言葉を語る教会はこのような主イエスの約束を与えられているのです。

ここで教えられる第三の点は、わたしたちはここでもまた自らの罪とかたくなさ、弱さと愚かさによって、何としばしば神の命のみ言葉を無駄にしているかを告白しなければならないということです。神のみ言葉の力と生命力とを信じないために、わたしたちは何としばしば罪の誘惑に屈し、迫害を恐れ、おのれの欲望に敗北してしまっていることでしょうか。み言葉の種をまく務めをおろそかにしていることでしょうか。

 主イエスはこのようなわたしたちのために十字架で死んでくださったことを思い起こすべきです。ヨハネによる福音書12章23、24節で主イエスはこのように言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスはわたしたちの中にみ言葉の種が深く根付くために、わたしたちに豊かな収穫を得させるために、そしてまた、わたしたちがみ言葉の種をまく務めを大胆に果たしていくことができるために、十字架で死んでくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。そのみ言葉によって生きる者としてください。どうか、全世界のすべての人が、朽ちるパンのために生きるのではなく、あなたの命のみ言葉によってまことの命を生きる者たちとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月15日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年5月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    マルコによる福音書16章1~8節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、「復活して永遠のいのちの保証を与え」という箇所を、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいきます。

「復活して」と「保証を与え」の二つの動詞の主語は、言うまでもなく、『信仰告白』の冒頭にある「わたしたちが主と崇める神のひとりご子イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが『信仰告白』の最初の文章すべての主語です。それだけでなく、主イエス・キリストは『信仰告白』全体の主語であり、またわたしたちの信仰と信仰生活すべての主語であられるということを、わたしたちはこれまでにも何度も確認してきました。

 「復活して永遠のいのちの保証を与え」、主イエス・キリストがこの文章の二つの動詞の主語ですが、その意味合いは少し違っています。つまり、「復活して」の方は、主イエスが死から復活されたという、もっぱら主イエスご自身に関することであるのに対して、「保証を与え」の方は、主イエスがご自身の復活によって、わたしたち信じる人たちに永遠のいのちの保証をお与えくださったという、わたしたち信仰者に関することが告白されています。

 このことは、すぐ前の文章でも同じでした。主イエスが十字架にかかられたことと、それに続いて、その主イエスの十字架によって、全人類の罪のための完全な犠牲がささげられ、わたしたちすべての罪が贖われたということが告白されていました。つまり、『信仰告白』の最初の文章では、まず主イエス・キリストのことが告白されており、主イエス・キリストがどのような方であり、何をなされたのか、そのみわざについて告白されているのですが、また同時に、そのことがわたしたちにどのような意味があるのか、主イエスのご人格と彼のみわざが、わたしたちに何をもたらすのか、それによってわたしたちの生き方がどのように変えられていくのかということが、告白されているのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付けた簡単信条ですが、後半の『使徒信条』では、第二項の「主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架の死、復活が告白され、次の第三項の「聖霊を信じます」の中で、わたしたちに与えられる「罪のゆるし」と「体の復活、永遠の命」が告白されており、それぞれの項目別に語られていましたが、前文では二つが合体した形で告白されていて、両者の結びつきがより強調されていると言ってよいでしょう。

そこで、きょうは第一に、主イエスご自身の復活について、そして第二に、それがわしたち信仰者にとってどのような意味を持つのかということ、その結びつき、結合について学んでいきたいと思います。

主イエスの復活について記録している最も古い文書はコリントの信徒への手紙15章3節以下と考えられています。そこを読んでみましょう。【15章3~5節】(320ページ)。3節の「すなわち」以下の文章が、パウロが受け取った初代教会の信仰告白だったと考えられます。その中に、「三日目に復活したこと」とそれに続いていくつかの復活の顕現について告白されています。主イエスの復活は初代教会の信仰告白の中心であったことが確認できます。

ちなみに、パウロがこの手紙を執筆したのが紀元55年ころと考えられますから、これが今日聖書として残されている文書の最も古い主イエスの復活の記録と言えます。きょうの礼拝で朗読されたマルコによる福音書16章の復活の記録は、福音書の中では一番早いのですが、おそらくはパウロの手紙よりは少し遅く、紀元60~70年ころに書かれたと考えられています。いずれも、主イエスの十字架の死、復活の出来事から2、30年後であったということになります。

では、主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスの弟子たちにとって、初代教会にとって、どのような意味を持っていたのでしょうか。使徒言行録2章のペンテコステの時のペトロの説教からそれをさぐってみましょう。この説教は主イエスの復活からちょうど7週後、ペンテコステ・聖霊降臨日になりますが、その日の説教でペトロは繰り返して主イエスの復活のことを語っています。【2章23~24節】(216ページ)。また【31~32節】。ペトロの神殿での説教でも同じです。【3章15節】(218ページ)。

ペトロはこれらの説教で、自分たちは主イエスの復活の証人であるということを強調しています。つまり、ペンテコステの時に誕生した教会は、主イエスの復活の証人として集められた弟子たちによって建てられたということです。あるいは、そもそも教会とは主イエスの復活の証人としての使命を果たすために建てられたのだということです。主イエスの復活は、初代教会の信仰告白の中心であっただけではなく、彼らの信仰と教会の出発点、土台、基礎、またその目的でもあったと言えます。

主イエスの十字架の時に、ペトロを始め弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げ去りました。彼らは主イエスの十字架につまずき、散らされました。けれども、復活された主イエスは、散らされた弟子たちを再び呼び集めてくださいました。主イエスを3度「知らない」と否んだペトロを、復活の主イエスは再び使徒としてお立てくださいました。そのようにして、復活された主イエスと出会った弟子たちは、罪と死の中から再び立ち上がることができたのです。主イエスの復活は弟子たちを新しい命によって生かし、教会を誕生させたのです。主イエスの復活を信じた弟子たちは、主イエスの復活から新しい命を生きる者とされ、新しい歩みを始める者とされました。主イエスの復活を土台にして建てられた教会は、主イエスの復活から生きる信仰者の群れとして、この世の朽ちゆくものや死すべきものによって生きるのではなく、罪と死とに勝利した主イエスの復活の命を土台として、そこから出発して、その復活の命を与えられている者たちとして、その復活の命の完成の時を目指して歩むのです。そのようにして、主イエス・キリストの教会は、過ぎ去り行き、滅び去るしかないこの世にあって、主イエスの復活の命、永遠の命に生かされている信仰者の群れとして、復活された主イエスを証ししていくのです。

従って、主イエスの復活の証人として生きている教会は、この世にある他のすべての人間の集団、宗教団体であれ、政治団体、趣味の団体、営利団体、地域共同体、それらすべての人間集団とはこの点において決定的に違っているということが言えます。この世のすべての人間集団は、時とともに過ぎ去り、滅び行くしかなく、罪に支配され、すべては最後の死に向かっているのに対して、教会は主イエスの十字架の死から始まり、主イエスの復活から始まっている、そして死を超える希望へと向かっている、終わりの日に再び来り給う主イエス・キリストを待ち望みながら歩む群れであるということなのです。わたしたちの教会が、「主は復活して永遠のいのちの保証を与え」と告白している第一の意味がここにあります。

さて、この観点から福音書を読んでみると、福音書は主イエスの誕生から始まり、数年間の神の国の福音の宣教活動と、主イエスの地上での最後の1週間、受難週の十字架の死と葬り、そして日曜日朝の復活という順序で描かれています。けれども、普通の人物の伝記と大きく違っている点は、その人の死をもって伝記の本文が終わるのが一般的であるのに対して、福音書ではさらに1章が、マルコによる福音書では16章が続いているということです。しかも、その1章が伝記の本文が終わって、いわばエピローグのような付け足しの1章ではなく、それも本文そのものであり、それだけでなく、その最後の章から何か新しいことが始まることを予感させるような描き方になっているというのが、主イエスのご生涯を記録した福音書の大きな特徴なのです。

マルコ福音書16章1節に、「安息日が終わると」と書かれてあり、2節には、「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ」と書かれています。この書き方は、聖書の最初のページ、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」というみ言葉を思い起こさせます。ここから、新しい1週が始まる、新しい1日が始まる、新しい神の救いのみわざが始まる、新しい信仰の歩みが始まるということを、わたしたちに予感させます。そして、振り返って考えてみると、マルコ福音書はこの最後の章から書かれているのだということに気づかされるのです。マルコ福音書は主イエスの復活の出来事から、その復活を信じた信仰によって書かれていることに気づくのです。

さらに具体的に読んでいくと、週の初めの日、つまり日曜日の早朝に、数人の婦人たちが主イエスの亡骸(なきがら)に油を塗るために墓へと急ぎます。婦人たちは敬愛する先生である主イエスに対して、最後の奉仕をするつもりでいました。亡くなった人の体に香油を塗ることは、死者を葬るための重要な儀式でした。けれど、主イエスの場合、十字架で息を引き取られたのが金曜日の午後3時過ぎ、ユダヤ人にとっては一日は日没から始まりますから、日没の前に急いで墓に葬られました。というのは、次の日はユダヤ人の安息日であって、何の仕事もしてはならないと律法で定められていたからです。そのために、主イエスのお体に香油を塗る時間がなかったのです。

そこで、婦人たちは安息日が終わった日曜日の早朝に、やり残した奉仕をするために墓へと急いだのでした。ところが、婦人たちが墓へ行ってみると、そこには主イエスのお体がありませんでした。主イエスは婦人たちが墓に着く前にすでに復活され、墓は空になっていたのです。そのために、死者のための最後に残されていた香油塗りの奉仕をしようとしてやってきた彼女たちは、その奉仕ができませんでした。その代わりに、彼女たちは白い長い衣を着た若者、これは神の使いである天使のことですが、彼が語る神のみ言葉を聞かされます。【6~7節】。

死者のために仕えようと墓にやってきた彼女たちは、今や、死者のためにではなく、復活された主のために、今も生きておられる主イエス・キリストのために、主イエス・キリストの復活の証人として、主イエス・キリストの復活の福音を携えて、それを語り伝えるために仕える者へと変えられたのです。そのために、彼女たちは急いで墓から立ち去りました。もはや、墓へと急ぐ人たちではありません。墓を後にして、復活の福音に生きる者へと変えられたのです。

ここには、主イエスの復活を知らない人と、それを知らされた人の違いが、象徴的に描かれているように思われます。まだ主イエスの復活を知らなかった婦人たちは、死者のために奉仕しようと、墓へと向かいます。すべての人間は、そのようにして、死へと向かっていきます。死ぬべき者たちのために仕え、死のために仕えている人は、死の前では為すすべなく、くずおれるほかにありません。あの婦人たちのように、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と言って、不安と恐れを抱きつつ、自らも墓へと急ぐほかにありません。

しかし、主イエスの復活を知らされた婦人たちは、すでに墓の石が取り除かれていることを見ています。もはや、死者のために奉仕するのではなく、復活して生きておられる主イエスにお仕えするために、死から命へ向かって歩み出すのです。そこにこそ、本当の意味での生きる希望があります。主イエス・キリストの復活を信じ、そのことを告白するわたしたちは、その希望に生きることがゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

〇わたしたちの命と死とをみ手に治めておられる全能の父なる神よ、あなたがわたしたちを死の墓から救い出し、永遠の命に至る希望へと召してくださいましたことを心から感謝いたします。わたしたちはあなたを離れては罪の中で死ぬほかありません。どうか、み子主イエスの復活を信じる信仰によって、わたしたちをまことの命の道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。