5月1日説教「エサウとヤコブ - 神の選び」

2022年5月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記25章19~34節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「エサウとヤコブ―神の選び」

 創世記12章からの族長アブラハム物語りは25章5節以下に書かれている彼の死をもって、ひとまず幕を降ろすことになります。【5~10節】(38ページ)。この個所について、二つことに触れておきたいと思います。一つは、5節の「全財産をイサクに譲った」というみ言葉です。古代近東諸国では、長男が他の男兄弟の2倍の財産を相続するのが習わしでしたが、アブラハムの実の子はイサク一人ですから、彼が全財産を相続することになります。ただし、ここで重要な点は、イサクは地上の財産を受け継ぐだけではなく、父アブラハムの信仰の財産を受け継ぐのだということです。父アブラハムに与えられた神の契約を受け継ぐのです。すなわち、神の祝福と、星の数ほどの信仰の子孫と、神の約束の地とを受け継ぐのです。これこそが、彼が父から受け継ぐべき最も大切は財産なのです。地上の朽ちるほかない財産をではなく、天の父なる神から賜った信仰の財産を受け継ぐべきであること、このことは、わたしたち一人一人の信仰の家庭にとっても同様だということをまず覚えたいと思います。

 二つには、8節のみ言葉です。「アブラハムは長寿を全うし、……満ち足りて」と、彼の生涯が満たされたことが二度語られ、強調されています。これはいわば天寿を全うしたという意味ですが、より詳しく言うならば、神が彼のために用意された地上のすべての日々が今や終わり、神が彼によって計画しておられた救いのご計画が今や成就したという意味です。アブラハムの生涯を満たすのは主なる神なのです。アブラハム自身は幾度も疑い、挫折し、失敗したとしても、あるいはまた、彼にまだやり残した仕事があったとしても、彼の信仰の生涯を本当の意味で満たしてくださるのは主なる神なのです。それゆえに、アブラハムの死はそれですべてが終わってしまうのではなく、むしろ神の約束が成就される時、神のみ心が全うされる時、神の救いのみわざが前進する時となるのです。神は彼の死をとおしても、ご自身のご計画を成就されるのです。11節にこう書かれてあるとおりです。【11節】。

 アブラハムの死を超えてさらに前進される神の救いのご計画について、19節から始まるエサウとヤコブの誕生の個所を続けて読んでいきましょう。【19~21節】(39ページ)。イサクの結婚に関しては24章に長い花嫁探しの物語として描かれていましたが、彼が父アブラハムの故郷ハランからリベカを迎えて結婚したのは40歳の時でした。この二人の信仰の家庭によって、神の約束が受け継がれていくことになるのですが、すぐにも困難な問題が彼らの前に立ちふさがります。「妻に子供ができなかった」と21節に書かれています。アブラハムと妻サラの場合も、子どもが与えられず、25年間彼らは祈り続けました。イサク自身が両親の長い祈りの末に与えられた祈りの子であったのですが、彼はまた妻リベカに子どもが与えられるようにと祈る者となりました。この祈りは、イサクと妻リベカの課題であるだけでなく、彼らが担っている神の約束の成就のためでもありました。彼らは「お前の子孫を星の数ほどに増やす」と言われた神の約束の成就を共に祈りつつ待ち望む者とされたのです。

 神は彼らの祈りに応えてくださいます。彼らに子どもが与えられたのはイサクが60歳の時であったと26節に書かれていますので、彼らは20年間祈り続けたことになります。神は彼らの祈りに応えられ、ご自身の救いのご計画を推進されます。

 けれども、一つの願いが聞かれてリベカが身ごもってから、すぐにまた別の問題がやってきます。【22~23節】。「これでは、わたしはどうなるのでしょう」とのリベカの叫びは、初めて親になるリベカの不安、また胎内の子どもの異常な動きに対する不安を言い表していると思われますが、同時に、生まれ出る二人の子どもが長子の権利を巡ってその後に繰り広げるであろうさまざまな争いをも、先取りしているようにも思われます。

 リベカは「主のみ心を尋ねるために出かけた」とありますが、どこに行ったのかは分かりません。礼拝の場所か祈りの場所と思われます。困難な課題や悩み、不安を解決してくださるのは主なる神です。

 神のお答えには二つの内容が含まれています。一つは、リベカから生まれる二人の子どもは二つの民族になるということです。一つの民族は、弟ヤコブの子孫であるイスラエルの民です。もう一つは、エサウの子孫であるエドム人です。エドム人は死海(塩の海)の南方に住み着いて、その後イスラエルと長く争いを繰り広げることになります。

二つには、先に生まれた長男ではなく、後に生まれた次男がより強い民になり、兄を支配するようになるということ。この神のお答えには、驚くべき大逆転が語られています。当時の慣習からすれば長男がその家の家督権を持つのが当然で、その家全体を治める権利を有しているにもかかわらず、「兄が弟に仕えるであろう」と預言されているからです。先に生まれたエサウの子孫エドム人ではなく、後で生まれたヤコブの子孫であるイスラエルの民を神は選ばれたのです。

 ここには不思議な神の選びがあります。使徒パウロはこの神の不思議な選びについて、ローマの信徒への手紙9章で語っています。【10~13節】(286ページ)。これは神の憐れみによる選びです(16節以下参照)。人間の善悪や意志やすべてのわざに関係なく、また社会的秩序とか慣習にも関係なく、それらのすべてに先立つ、神の側からの一方的な恵みと憐れみによる選び、それが神の選びであることがここでは強調されています。それゆえに、神に選ばれた人は、神の救いのご計画のために用いられ、神の救いのみわざのために仕える者とされるのです。選ばれた人は、神への感謝と恐れとをもって、神から託された務めを担うことによって、神の選びに応えるのです。これが、アブラハムの選びでした。また、これがヤコブの選びであり、イスラエルの民の選びであり、預言者エレミヤの選びであり、そして使徒パウロの選びでもありました。

 イスラエルの選びについては、申命記7章6節以下にこのように書かれています。【6~8節】(292ページ)。この変わることのない神の永遠の愛がイスラエルの全歴史を導いていました。預言者エレミヤの選びについては、エレミヤ書1章5節にこのように書かれています。【5節】(1172ページ)。それゆえに、エレミヤはたびたびの同民族から迫害の中でも恐れることなく神のみ言葉を語り続けることができました。そして、使徒パウロの選びつついて、彼自身がガラテヤの信徒への手紙1章15節でこのように言っています。【15~15節】(343ページ)。それゆえに、パウロもまた多くの困難や試練の中で、なおも力強く主イエス・キリストの福音を語り続けることができました。

 今日のわたしたち一人一人の選びもまた同様です。わたし自身の何らかの能力とか価値によらず、ただ一方的な神の愛と憐れみによって、この貧しい者であり弱い者であるわたしが神の選びを受け、主イエス・キリストの福音へと導き入れられ、救いへと招き入れられ、神の民とされているのです。ここにこそ、わたしたちの救いの確かさがあり、救われている喜びがあり、そして福音宣教の使命を果たしていく力と希望があるのです。

 では、もう一度創世記25章に戻りましょう。23節には、双子の兄弟であるエサウとヤコブの逆転の運命が、彼らの誕生する前からすでに神によって決定されていることが語られているのですが、その後の二人の生涯は実際にどのようになっていくのでしょうか。

 【24~26節】。先に生まれた兄エサウの説明が「赤い」(これはヘブライ語ではアドモーニー)、「毛深い」(ヘブライ語ではシェーアール)となっていますが、この二つはいずれもヘブライ語の発音がエサウとは一致しません。30節で空腹だった彼が「赤いものを食べさせてほし」と願ったことや、後のエドム人の子孫となったということと関連していると思われます。ヤコブの方は、ヘブライ語のかかとを意味するアーケーブに関連づけられています。ヤコブが生まれた時に兄エサウのかかとをつかんでいたということは、この時からすでに兄エサウを長男の位置から引きずり下ろそうとしていたことをにおわせています。23節の神の預言の成就がすでにここに暗示されているように思われます。ヤコブの本来のヘブル語の意味は「主は守られる」であると考えられます。

 成長した二人の関係はどうなったでしょうか。【27~34節】。わたしたちはここに確かに23節の神の預言がその成就に向かいつつあるということを予感します。それには両親の二人の子どもたちに対する別々の愛、偏愛が大きく作用していることをわたしたちは知らされます。27章で最終的に起こるであろうエサウとヤコブの地位の大逆転がここから始まります。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。両親の分裂した愛、偏愛が、それは決して子どもの健全な成長にとっては良くないのですが、しかしそのような破れた人間の愛をお用いになって、あるいは人間の破れや罪をもお用いになって、神はご自身のご計画を推し進められるのです。

 狩りから帰って来たエサウは、空腹に耐えきれずに、ヤコブが調理していたレンズ豆の煮ものを、中身が何であるのかも知ろうとせず、「その赤いものを食べさせてほしい」と懇願します。そして、ヤコブの悪だくみに乗せられ長子の権利を放棄しました。ヘブライ人への手紙12章16節では、「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきである」と警告されているように、人間は自分の腹を満たすために神の祝福を捨て、時に人の命をも奪うのです。

 荒れ野で40日間断食をされたのちに悪魔の試みを受けられた主イエスは、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。わたしたちは朽ち果てるもののために生きるのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉によってこそ生きるべきであることを、ここで改めて教えられます。

 他方、弟のヤコブは抜け目のない悪賢さを発揮しています。この時とばかりに、兄の長子の権利を奪おうとします。しかも、兄に誓いまでさせて、自分の利益を確保しようとしています。ヤコブのこの行動は、道義的には決して許されるものではありません。兄弟を欺いてまで長子の権利を手に入れることを聖書が勧めているのでもありません。悪や不正を用いてでも神の祝福を手に入れるべきだと聖書が教えているのでもありません。それは、神への忠実な信仰によって、神から賜るものであることをわたしたちは知っています。

 そうであるとしても、神は両親の偏った愛をもご自身のご計画のためにお用いになったように、ここでも兄を出し抜こうとするヤコブの悪だくみをお用いになって、23節のご自身のみ言葉の成就に向けて、あの不思議な神の選びに向けて、救いのみわざをお進めになるのです。

 そのようにして、神はイスカリオテのユダの裏切りや弟子たちの逃亡や、そしてわたしたち人間の罪をもお用いになって、主イエス・キリストの十字架と復活によってご自身の救いのみわざを成就してくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの十字架の血によってわたしたちと結んでくださった新しい契約は、全世界のすべての国民、すべての人々にとっての永遠の真理であり、まことの救いです。神よ、どうかあなたの愛と義と平和がこの世界を支配し、深く病み、傷ついているこの世界をいやしてくださいますように。

主エス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月24日説教「種をまく人」

2022年4月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書55章8~13節

    ルカによる福音書8章4~10節

説教題:「種をまく人」

 前回学んだルカ福音書8章1節には、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれていましたが、その際に主イエスは多くのたとえ、あるいはたとえ話を用いてお話になりました。共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三つのの福音書では、主イエスがお語りになった説教のほぼ三分の一はたとえであり、その種類は40種以上あると言われています。

 ルカ福音書ではすでに5章36節に、「イエスはたとえを話された」とあり、古いものに新しいものをつなぎ合わせることはできない、新しいものは爆発的な力と命をもって、古いものを破壊してしまうから、ということを強調されました。また、6章39節にも、「イエスはまた、たとえを話された」とあり、新しく始まったゆるしの時代に生きる人は裁き合うのではなくゆるし合うべきことを教えておられます。

 きょうの礼拝で朗読された8章4節以下では、まずたとえが語られ、次に、例えで語ることの理由、目的について、そして11節以下では、先に語られたたとえの解説が主イエスご自身によってなされています。この個所は共観福音書にほぼ同じ形で記録されていますが、ルカ福音書はマタイ、マルコに比べて半分くらいに短縮されています。そこで、マタイ、マルコを参照にしながらこのたとえを学んでいくことにします。

 【4~5節a】。主イエスの説教を聞くために多くの人々が集まってきました。主イエスは彼らにお語りになりました。群衆は、聴衆として、主イエスの説教を聞くように招かれています。彼らの中には、主イエスによって病気をいやしていただくためとか、主イエスの奇跡を見るために集まってきた人たちも多くいたに違いありません。あるいは、主イエスをユダヤ教の異端者とみて、偵察活動のために来た人たちもいたでしょう。その他の目的をもって来た人たちをも含めて、すべての人たちは今、何よりもまず主イエスがお語りになる説教を聞かなければなりません。

 主イエスが説教をお語りになる、そして聴衆がそれを聞くとは、聖書の中ではどのような意味を持つのでしょうか。わたしたちはここでそのことの特別な意味を理解しておかなければなりません。主イエスは興味本意に集まってきた群衆に、みんなの興味に合わせて、いわゆる大衆受けするような講演や講義をしておられるのではありません。集まってきているひとり一人に、その人が聞くべき神のみ言葉を、その人に向かって語っておられ、その人がその神のみ言葉によって生きていくようにと招いておられるのです。主イエスはわたしたち罪びと一人ひとりに語りかけてくださり、わたしたちを救いへとお招きになるために、お語りになります。聖書で「主イエスがお話になった」と書かれているのは、いつでも、どこでも、そういう意味です。

 「たとえを用いて」とありますが、先ほども紹介したように、主イエスの説教の多くはたとえを用いてのお話でした。主イエスがここでお話しになったたとえは、一般に「種まきのたとえ」と言われてきましたが、近年は「種を蒔く人のたとえ」と言われるようになり、少し強調点が移ってきました。『新共同訳』では小見出しに「種を蒔く人」のたとえとしているのは、その変化、強調点の違いを意識していると思われます。マタイ福音書13章18節には、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と書かれてあり、主イエスご自身が「種を蒔く人のたとえ」と呼んでおられることからも明らかなように、このたとえは「種を蒔く人」に強調点があるのです。種をまく人がこのたとえの主人公なのです。わたしたちはまずこのことを確認しておきましょう。

 5節で「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」という言葉でこのたとえは始まります。種をまく人が、種を携えて、町々村々を巡り歩き、この世界の至る所に、すべての場所、すべての人に、神のみ言葉の種を蒔くために出て行く、そのために種をまく人はこの世においでになった、しかり、主イエスこそが神のみ言葉の種を蒔く人ご自身なのだということをわたしたちはまず教えられるのです。主イエスは神のみ言葉の種を携えて、否、ご自身が神のみ言葉そのものであるお方として、天の父なる神のみもとから、この地に下って来られました。

 ヨハネ福音書1章では、主イエスの誕生を神の言葉が受肉したこととして表現しています。14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書かれてあるように、主イエスは旧約聖書で語られた神のみ言葉をすべて実現に至らせ、成就されるために、人間のお姿でこの世界においでになったのです。

 神のみ言葉の種をまくためにこの世界においでになられた主イエスご自身が種まきのたとえの主人公であるということから、このたとえを理解していくことが求められます。したがって、種がまかれた場所の違い、道端とか石地、いばらの中そして良い土地に注目して、それぞれの特徴について論じるとというのは本来の主題ではありませんし、それぞれの場所にまかれた種がその後にどうなったか、なぜそうなったのかを詳細に分析したり、その4種類に人々を区分けし、分類したりするということは、ここでは主題ではないということです。主イエスが全地に、全世界のすべての人に、神のみ言葉の種をまくために、人となってこの世においでになられたことこそが重要なのです。

 もう一つここで確認しておくべきことは、種まきのたとえは神の国のたとえであるということです。主イエスは10節で弟子たちにこのように語っておられます。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることがゆるされているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。また、11節の解説の個所では、「種は神の言葉である」と説明しておられます。種まきのたとえは神の国について、神の国の福音についてのたとえということです。ルカ福音書の中でこれまでに語られた5章36節以下のたとえと6章39以下のたとえも神の国の福音に関するものであったということをわたしたちは読んできました。これら以外の主イエスのたとえも、そのほとんどは神の国のたとえです。主イエスの到来によって開始された神の国、神の新しいご支配、その隠された奥義、秘密を語り、解き明かすために、主イエスはたとえをお用いになったのです。このことについては、次回さらに深く学ぶことになるでしょう。

 では、以上のことを基本にしながら、種まきのたとえを読んでいきましょう。【5~8節】。このたとえは当時の農家の慣習を背景にしていると言われます。種まき機械などない時代ですから、農夫は種を入れた大きな袋を背負いながら、広い畑をくまなく歩いて種をまきます。その際に、一部の種は耕作されている畑を越えて道端や石地の所にも飛んでいきますが、農夫はいちいちそのことは気にしませんし、耕作地の外に飛んでいった種をわざわざ拾い集めるということもしません。そのような農夫の慣習を背景にしているという説明がよくなされます。けれども、種まきのたとえの種をまく人が主イエスご自身であり、そこで語られている内容が神の国の福音であるということからすれば、その説明は適切ではないことが分かります。

 もちろん、主イエスはそのような習慣をご存じであられ、当時のだれもが知っている日常的なことを用いてたとえを語られたのですが、それによって指し示されているのは神の国の福音ですから、主イエスがどの場所でも所かまわずに、無造作にみ言葉の種をまかれたとか、道端や石地にまかれた種については無関心であられたということを連想させる説明は適切ではありません。主イエスは一粒一粒の種に思いをこめられ、一人一人にふさわしく、その人が救いに導かれることを祈り、信じながらみ言葉の種をまかれた、神の国の福音をお語りになったということを忘れるべきではありません。

 そうであるとすれば、わたしたちはここでまず、主イエスが道端であれ、石地であれ、あるいは茨が生えている場所であれ、すべての場所に、すべての人に、神の国の福音の種をまかれたのだということを読み取らなければなりません。1節に、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれあったとおりです。主イエスは故郷ガリラヤ地方から、異邦人と言われ、ユダヤ人からさげすまされていたサマリア地方にも、時には異教の地にも、そしてご自身を捕えるユダヤ人指導者たちが待ち構えているユダヤ地方、エルサレムに至るまで、あらゆる危険や困難の中を、ひたすらにみ言葉の種をまき続けられました。そして、わたしたちを罪から救い出すために、ご受難の道を進まれました。ついには、一粒の麦の種が地に落ちて死ぬように、十字架で死んでくださり、それによって多くの実りを結ばれたのです。

 主イエスがお語りになる神の国の福音はすべての人に届けられます。宗教には全く無関心で、この世の生活に明け暮れている人も、ローマ帝国の支配者やヘロデの王宮も、ユダヤ教の指導者、ファリサイ派、祭司たちも、そしてユダヤ人以外の異邦人も、すべての人が主イエスが語られる神の国の福音に招かれています。すべての人が神の国の福音を必要としているからです。すべての人が神の国の福音によって救われ、朽ちることのない永遠の命へと招かれています。主イエスが語られた種まく人のたとえでは、まず第一にこのことが強調されなければなりません。

 もう一つ、このたとえの中心点は、まかれた種が必ずや芽を出し、やがて豊かな実りをつけるということです。道端、石地、いばらの中という3種類の場所にまかれた種は実りをつけることができませんでした。もっといろんなケースを挙げることができるかもしれません。用水路に落ちて、流されてしまった種とか、隣の畑に落ちて、隣の人が収穫した場合とか、まかれた種が実りをつけずに失われてしまう例はたくさんあるでしょう。神のみ言葉の種が芽を出し、実りをつけるには、多くの障害があり、困難が待っています。わたしたちは時にその厳しい現実を見て、希望を失いかけることもないわけではありません。けれども、8節に、「また、ほかの種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と書かれています。主イエスはこの約束を与えてくださいます。イザヤ書55章11節にはこのように書かれています。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。

 わたしたちもこの約束を信じながら、神のみ言葉の種をまき続ける使命を託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。あなたのみ言葉の力を信じさせてください。あなたのみ言葉が、死んでいる人を生き返らせ、病んでいる人をいやし、憎しみと殺戮を繰り返している国民(くにたみ)に和解と平和の道を備えることを信じさせてください。

〇主なる神よ、この世界を憐れみ、あなたの愛と正義で満たしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月10日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年4月10日(日) 秋田教会主日礼拝(受難週)説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ペトロの手紙一1章13~21節

説教題:「完全な犠牲をささげ、贖いを成し遂げられた主イエス」

 教会の暦では、きょうは「棕櫚の主日」、今週は受難週です。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間です。主イエスは日曜日にロバの子に乗ってエルサレムに入場されました。人々は棕櫚(しゅろ)の枝を手に主イエスを迎えたとヨハネ福音書12章13節に書かれています。主イエスはその日から毎日エルサレム神殿で神の国の福音を説教されました。木曜日の夕方には弟子たちとの最後の晩餐、それはユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭を祝う食事であったと共観福音書は伝えています。そして、金曜日にはユダヤ最高法院での裁判、十字架の死、日没前の墓への葬りと続きます。安息日の土曜日をはさんで三日目の日曜日の朝早く、主イエスは墓から復活されました。次週17日に、わたしたちはイースター礼拝をささげます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、きょうはちょうど十字架の贖いの個所を学ぶことなっておりますので、主イエスのご受難に思いを馳せながら、聖書のみ言葉から聞いていくことにします。

 『日本キリスト教会信仰の告白』をわたしたちが学ぶことの意義についてここで改めて確認しておきましょう。一つには、すでに洗礼を受けて教会員になった人はこの信仰告白を受け入れて洗礼を受け、秋田教会員になったのですから、自分の信仰をより確かにし、深めるためにこれを繰り返して学んでいく必要があります。二つには、求道中の人はこの信仰告白を自分の信仰として受け入れ、告白して、洗礼へと導かれるために、これを学ぶことが何よりも基本的で重要なことになります。

では、『信仰告白』の個所を読んでみましょう。「主は、神の永遠の計画に従い、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え」と続いています。ここではキリスト教信仰の最も重要で中心的な内容が告白されています。きょうは、その「贖いをなしとげ」という告白について学びます。

「贖い」という言葉は一般にも用いられますが、聖書では特別な内容を含んでいます。旧約聖書からそれをさぐっていきましょう。贖いの一つの意味は、神から買い戻すということです。本来は神にささげられるべきものを、その代わりに別のものをささげる場合に贖うという言葉が用いられます。たとえば、家畜の中で最初に生まれた雄はすべて神にささげられねばならないと旧約聖書の律法に定められています。これを初子(ういご)の奉献と言います。ここには、命はすべて神から与えられたものであり、神に属するものであるので、神にお返しするという信仰があります。しかし、ロバの場合は宗教的に汚れた動物と考えられ、神にささげることができないので、ロバの初子の代わりに小羊をささげて贖わなければならないと定められています。

 人間の初子、最初に生まれた男子も、神のものであり、神にささげられねばなりませんが、人間の命そのもの神にささげることはできないので、動物の命や金銀で贖うように定められています。ルカによる福音書2章に書かれているように、主イエスの両親も生まれて40日を過ぎた幼子主イエスを神にささげるために、エルサレムの神殿で神を礼拝しました。贖うとは、本来神に属すべきもの、神の所有であるものを、贖いの動物や贖い金を神に支払うことによって、神から買い戻すという意味をもっています。しかし、その命が人間の自由になったというのではなく、あくまでもすべての命は神のものであることには変わりません。主イエスは、ご自身の命をその本来の所有者であられる父なる神におささげになりました。

 第二には、奴隷などを買い戻す際にもこの言葉が用いられます。貧しさのために、家族のだれかがを奴隷として売った場合や土地を売り渡した場合に、後になって近親者がその奴隷や土地を買い戻すことを贖うと言いました。その際に、だれでも奴隷や土地を自由に売買できるというのではなく、もとの所有者に最も近い肉親、近親者にだけ贖う権利がありました。したがって、奴隷や土地をだれでもが自由に売買することは、イスラエルでは固く禁じられていました。奴隷も土地も、すべては本来神のものであり、人間に貸し与えられたものであるという信仰がここにもあります。

 第三に、イスラエルの民が外国に支配され、奴隷状態であった時に、主なる神が彼らを外国の支配から解放されることを贖うと言いました。イスラエルのエジプト脱出は、神の贖いのみわざでした。出エジプト記6章6節には次のように書かれています。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。また、イザヤ書では、バビロンに捕囚になっているイスラエルの民を神が再び約束の地、聖なる神の都エルサレムに連れ戻されることを、神の贖いのみわざとして繰り返し預言されています。イザヤ書43章1節にはこうあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのものだ」。神の贖いのみわざは、イスラエルの民にとっては外国の支配からの解放であり、救いでした。イスラエルはもはや異教の王の支配下にあるのではありません。奴隷の民ではありません。主なる神によって解放された自由の民であり、贖い主であられる神の所有とされたのです。

 ここには、神の贖いのみわざの重要な特徴が含まれています。それは、神が奴隷の民、捕囚の民イスラエルを買い戻すために、彼らの近親者となってくださったということです。イスラエルの民は自らの罪のゆえに、主なる神を捨て、主なる神に背いて、自らを奴隷として異教の王に売り渡したのですが、それゆえに彼らを贖う近親者はイスラエルの側から要求されるのですが、しかし、彼らの中にはだれも彼らを奴隷から解放できる贖う者、その資格を持つ者もその能力を持つ者も、だれ一人いませんでした。その時に、主なる神が、そうする義務も責任も全くなかったにもかかわらず、むしろご自身に背き、敵対したイスラエルのために、彼ら奴隷の民の近親者、贖い主となってくださったのです。イスラエルが自らを贖うための贖い金を全く支払っていないにもかかわらず、神は全く無償で、神の側からの一方的なあわれみと恵みによって、彼らを奴隷の支配から救い出され、ご自身の民として買い戻してくださったのです。

 贖うの第四の意味は、これが最も重要な意味ですが、人間の罪の贖いのために雄牛や雄山羊などの家畜を贖罪の犠牲として神にささげるという儀式です。これについては、旧約聖書のレビ記や申命記などに細かく規定されています。イスラエルの民が神の律法に背いて罪を犯した場合、その罪を神からゆるしていただくために、動物の命を自分たちの身代わりとして神にささげ、神の裁きを逃れ、神の怒りを和らげるという意味がありました。エルサレムの神殿では、毎日毎日人間の罪の贖いのために家畜が贖罪の犠牲としてささげられていました。それが、彼らの礼拝だったのです。イスラエルの民はこの罪からの贖いなしには、神の民として生きていくことができなかったのです。

 さて、主イエス・キリストの十字架の死が、わたしたちのための贖いの成就であったという『日本キリスト教会信仰の告白』は、以上のような旧約聖書の贖いの信仰を背景にしています。では次に、主イエス・キリストの贖いのみわざについて、更に深く学んでいきましょう。

 「贖いをなしとげ」は、1953年に制定されたら文語体の告白では、「贖いを成就し」となっていました。主イエスの十字架の死によって、旧約聖書に預言されていた神の贖いのみわざが成就したという意味が含まれています。先ほど挙げたイスラエルのエジプトの奴隷の家からの贖いと救い、バビロン捕囚からの帰還とエルサレムの再建、人間の罪からの贖いを願っての礼拝、それらのすべてが主イエス・キリストの十字架による贖いと救いを預言しているのであり、また主イエス・キリストの十字架の死によって旧約聖書で語られているそれらすべての神の贖いのみわざが、完全に成就したのだということです。神がイスラエルの民のためになされた贖いのみわざが、主イエス・キリストの十字架によって、全人類の贖いのみわざとして成就したのです。イスラエルの民が苦難の歴史の中で待ち望んでいた永遠の贖い主、奴隷からの解放者、罪と死と滅びからの救い主が、主イエス・キリストの到来によって成就したのだということです。主イエス・キリストこそがイスラエルと全人類のための真実の、永遠の贖い主であられ、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、すべての悪しき支配から解放してくださる救い主なのです。

 第二の重要な点は、主イエスはわたしたちの真実の贖い主となるために、わたしたち罪びとたちに最も近い近親者となってくださったということです。わたしたちは神を知らず、神から離れ、神に敵対していた罪びとでした。そのような罪びとたちの世に、神のみ子が人間のお姿となって天から降(くだ)って来られ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれました。主イエスは、マタイによる福音書20章28節でこのように言われました。「人の子が(主イエスご自身のことですが)、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(これは贖い金という意味ですが)として自分の命をささげるために来た」。主イエスは、罪なき神のみ子であられましたが、徹底して罪びとたちの僕(しもべ)として仕えてくださり、最後にはご自身が罪びとの一人に数えられ、罪びとが受けるべき十字架の死の裁きを、わたしたちに代わって受けてくださるほどに、わたしたち罪びとたちの近親者となってくださり、そのようにしてわたしたちを罪の奴隷から贖ってくださったのです。

 わたしたち人間はだれも自分自身を贖うことも他の人を贖うこともできません。詩編49編の詩人はこのように告白しています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」(8~9節、16節)。神のみ子であられ、罪も汚れもない主イエス・キリストの尊い血だけが、すべての人を罪と死の支配から贖い、救い出すことができるのです。

 そのことについて、ヘブライ人への手紙9章11節以下では次のように教えられています。【9章11~14節】(411ページ)。また、【ペトロの手紙一1章18~19節】(429ページ)。

 主イエス・キリストが十字架でおささげくださった血は、動物などの代用品ではなく、神のみ子の血であり、地上のどれほどに価値あるものよりもはるかに尊く高価であり、完全であり、永遠であるゆえに、すべての人の罪を完全に、永遠に贖い、救うことができると、強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされない人は、だれもいません。主イエス・キリストの十字架によってゆるされない罪は何もありません。すべての人のすべての罪が永遠に贖われ、ゆるされています。それが、『日本キリスト教会信仰の告白』で「贖いをなしとげ」と告白されている内容です。

 わたしたちはこの信仰告白を共に告白することによって、主イエス・キリストによって罪の奴隷から贖われ、主キリストのものとされている一人一人として、また罪のゆるしの恵みによって生かされてれている者たちの群れとして、ここに主イエス・キリストの体なる教会を建てていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべき者であったわたしたちをあなたがみ子の尊い血によって贖い、救ってくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、わたしたちを永遠にあなたのものとしてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和をこの世界にお与えください。国々の為政者、指導者たちが、何よりもあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏す者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月3日説教「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

2022年4月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章1~9節

    使徒言行録7章1~8節

説教題:「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

 使徒言行録7章2節からステファノの長い説教が始まります。これは53節まで続きます。使徒言行録に記されている説教の中で最も長いものです。わたしたちがこれまで聞いてきた使徒ペトロの説教は2章29~39節、3章12~26節、4章9~12節、5章30~32節がありました。このあとには、10章36~43節、それから使徒パウロの説教が13章16~41節、14章15~17節、Ⅰ7章22~31節にあります。これらのどれよりもはるかに長い説教です。使徒言行録の著者であるルカがある意図をもってこれだけの長い説教を記録していることは明らかです。あらかじめその意図の一つを指摘しておきましょう。

 それは、ステファノがキリスト教会最初の殉教者となったということと関連しているように思われます。しかも、彼のこの一回の説教が直接的な理由となって、53節で彼の説教が終わるや否や、あるいは途中で中断させられたのかもしれませんが、すぐに58節で石打の刑によってステファノは殺されてしまいます。初代教会がこれから幾度も経験しなければならないユダヤ人とローマ人からの迫害とそれによって流すであろう殉教の血がここで初めて流されたのです。キリスト教会はステファノが語った説教によって、また同時にステファノが流した殉教の血によって、これからのちも生き続けていくのです。ここに、ステファノの説教の大きな意味があるのです。

 では1節から読んでいきましょう。【1節】。ユダヤ最高議会・最高裁判所の議長を務めている大祭司は裁判の正式な手続きを踏んで、最初に、訴えられている被告の罪状認否と弁明の機会を与えます。被告はここで、自分が無罪であることや情状酌量の余地があることなどを語るのが一般的です。けれども、これまでのペトロたちの裁判でもわたしたちが見てきたように、彼らはその席で主イエス・キリストの福音を語りました。彼らは主イエス・キリストの福音の証し人としてその裁判の席に立ち、そこに集まっているユダヤ人の指導者たちに主イエス・キリストの十字架の福音を語るのです。自分たちの減刑や命乞いの機会とするのではなく、福音宣教の機会として彼らは被告席に立っています。

 ステファノも同様です。もっとも、彼がはっきりと主イエスご自身について語るのは長い説教の終わりの個所、52、53節になってからですが、しかも直接主イエスのお名前を口に出してはいませんが、そこをまず読んでみましょう。【52~53節】。聞いていたユダヤ人指導者たちは、これが主イエスと自分たちのことであることを直ちに理解し、激しく怒ったと54節に書かれています。したがって、ステファノの長い説教はこの終わりの個所に向かっていたということがわたしたちにも分かってきます。彼がアブラハムから始まって、イサク、ヤコブの族長たちについて語っていること、9節からはヨセフとエジプト移住、23節以下ではモーセによるエジプト脱出とダビデ、ソロモンの時代のことを彼は旧約聖書に基づいて説教しているのですが、それらの旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史はすべてが主イエス・キリストの福音に向かっていたということ、主イエスによって最後の目標に達したのだということ、それがステファノの説教の結論なのです。それと同時に、しかしユダヤ人はそれを受け入れず、信じなかったということ、この二つがステファノの説教の大きな柱なのです。そのことをあらかじめ確認して、2節からのステファノの説教を読んでいくことにしましょう。

2節から8節では、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の信仰について語っています。創世記12章以下に書かれている内容と大筋では一致していますが、細かな点では違いも見られます。きょうは細かな点の違いについては触れません。

 まず、ステファノの説教が族長アブラハムから始まっていることに注目したいと思います。イスラエルの歴史を語る場合、特に主イエス・キリストによってその頂点、最終目的に達するという意味でのイスラエルの信仰の歩みについて語るにあたって、出エジプト時代のモーセと彼に授かった律法から語るのではなく、アブラハムの召命と選びから語るということは、この文脈においては意義深いと言えます。おそらく、ユダヤ最高議会の主たるメンバーである律法学者やサドカイ派の人たちならば、モーセの律法やダビデ・ソロモン時代の礼拝や祭司の務めなどについて触れるに違いないのですが、ステファノはそれらについては一切触れていません。

 彼は説教の冒頭で、神の招きのみ言葉に聞き従った信仰の父アブラハムについて語ります。3節にあるように、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」。アブラハムはこの神のみ言葉に聞き従いました。ここには、神の召命があります。神の招きと選びがあります。そしてまた、神の招きのみ言葉に従順に聞き従うアブラハムの信仰があります。これこそが神の民であるイスラエルの出発点なのだとステファノは語るのです。ヘブライ人への手紙11章8節に書かれているとおりです。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことをになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」。

 ステファノはこのアブラハムの信仰と今のイスラエルとの関連性を強調するために、「兄弟であり父である皆さん」と呼びかけ、「わたしたちの父アブラハムが」と語りだしています。およそ千年も前の族長時代とステファノの時代とを結びつけています。イスラエルはこのようなアブラハムの信仰によって神の民としての歩みを始めたのです。神がアブラハムを選び、彼を召し、彼にみ言葉を語り、恵みと救いへの道へと彼をお招きになられた。アブラハムはその神のみ言葉を信じて服従した。この信仰こそが神の民イスラエルの原点なのです。そして、今この時も、同じようにしてすべてのユダヤ人も神の招きを受けているのです。神がメシア・救い主をイスラエルと全世界のためにお遣わしになったからです。そうであるのに、あなたがたはその神の招きに逆らったのではないか、とステファノは51節で言うのです。

 2節の終わりに「栄光の神が現れ」とあります。「栄光の神」とは、この世に存在するものとは思えないような、天からの圧倒的に大きな力と権威と威厳とをもって人間の進むべき道を照らされる神のことです。その栄光の神のみ前では、アブラハムはただ黙々と従うほかにありません。また、そうすることが彼が生きるべき幸いな道なのです。なぜならば、アブラハムには今はまだ何も分からなくても、神ご自身が彼のために最もよい道を備えてくださるからです。彼の行く先にどのような困難が待っていようとも、そこがどのような土地であり、いつそれが自分の所有になるのかも全く知らされていないにもかかわらず、アブラハムは神の招きに従って、故郷を捨て、親族を捨て、それまでのすべての生活を捨てて、行く先を知らずして旅立ちました。これが信仰の父アブラハムの信仰です。

 主イエス・キリストの福音を信じる信仰もこれと同様です。主イエスはわたしたちが罪と死と滅びから救われ、新しい命に生きるために必要なすべてのみわざを成し遂げてくださいました。その主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によってすべての人が救われます。わたしには何一つ誇りえるものがなく、良きわざもなく、神の律法にことごとく背いているとしても、わたしの今あるがままで、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神はわたしを義と認めてくださり、罪なき者と見なしてくださるのです。ユダヤ人もまたこの信仰へと招かれています。けれども、彼らはその招きに応えなかったと、ステファノは言うのです。

 まだ見ていないことを信じるアブラハムの信仰はさらに続きます。5節では次のように言われています。【5節】。わたしたちは今並行して創世記を読んでいますから、ここで言われていることについては何度も聞いてきました。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉を聞いたのは彼が75歳の時でした。それから彼が100歳になって長男イサクが与えられるまで、彼には子どもがなく、また約束の地の一角をも所有していませんでした。けれども、彼は神のみ言葉を信じ続けました。神の約束の成就を待ち続けました。

 神の約束のみ言葉は、さらには、アブラハムの生涯をも超えて、それのみか、その子イサク、その子ヤコブをも超えて、いやさらに、エジプトでの400年の奴隷と苦難の歴史をも超えて、その先に進みます。

【6~7節】。ここまでくると、アブラハムの信仰とか、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちの信仰とかがここで問題にされているというよりは、彼らの信仰を超えて、神の約束のみ言葉の永遠性、神の救いのご計画の永遠性こそが重要なのだと言うべきでしょう。神はイスラエルのエジプトでの400年間の苦難の歴史を経て、そののちにようやくにして、アブラハムに対する約束を成就されたのです。神はイスラエルの苦難の歴史をとおして、彼らを真実の礼拝の民とされるのです。エジプト脱出は彼らが真実の礼拝の民となるためであったのです。

 わたしたちはここにも主イエスによって成就された真実の礼拝の原型を見るように思います。イスラエルの民は400年間のエジプトでの奴隷と苦難の歴史から解放されて、真実の礼拝の民とされるとここで預言されています。それと同じように、主イエス・キリストのご受難と十字架の死をとおして、「霊と真理とをもって礼拝する」(ヨハネ福音書4章24節)まことの礼拝がわたしたち教会の民のために成就されたのです。ユダヤ人もこのまことの礼拝へと招かれています。しかし、彼らは依然としてエルサレム神殿での古い礼拝にとどまり続けているとステファノは語ります。

 最後に8節を読みましょう。【8節】。割礼は神とイスラエルとの永遠の契約の目に見えるしるしです。神が最初にアブラハムと結ばれた契約は、彼の子孫によって永遠に受け継がれていきます。イスラエルの民は、エジプトで奴隷であった時も、約束のカナンに移り住んでからも、また約束の地を失い、異教の地バビロンで捕囚の民であった時にも、割礼のしるしによって、神との契約の民であることを忘れませんでした。そして今、主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、洗礼という目に見えるしるしをもって、神との新しい契約に生きる民であることを覚え続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠に変わらず、あなたを信じる民に豊かに注がれます。あなたがお選びになった信仰の民と結ばれた契約も、永遠に変わることなく、み国の完成の時まで続きます。どうか、わたしたちがそのことを信じてあなたのみ前に従順に歩む者としてください。

〇主なる神よ、多くの困難な課題を抱えながら苦悩しているこの世界を顧みてください。その中で、傷つき傷んでいるひとり一人を顧みてください。どうか、あなたの真実と正義と平和をわたしたちにお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月27日説教「主イエスにお仕えした婦人たち」

2022年3月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:サムエル記上1章21~28節

    ルカによる福音書8章1~3節

説教題:「主イエスにお仕えした婦人たち」

 ルカによる福音書8章1節にこのように書かれています。【1節】。「すぐその後」とあり、前の個所との連続性が強調されています。その連続性を考えながら、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。

 7章36節以下では、主イエスがユダヤ教ファリサイ派の人の家に招待されて食卓に着いている時に、一人の罪深い婦人が主イエスの足元にひれ伏し、その足に香油を塗った。それを見ていたファリサイ派のこの人は、罪深い婦人の奉仕を受け入れた主イエスを非難した。けれども、主イエスはこの婦人は多くの罪をゆるされたから、このような愛の奉仕をしたのだと言われ、彼女に「あなたの罪はゆるされた」と言われた。その場にいた人たちは罪をゆるす権威を持っておられる主イエスに驚いた。これが、36節以下に書かれている内容でした。

 そこで語られていた内容と8章1節との関連を見ていくと、いくつかのことが分かります。第一には、主イエスが人間の罪をゆるす権威を持っておられることと、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音との関連です。すなわち、神の国の福音とは罪のゆるしと関連しているということです。主イエスの宣教活動は、マルコ福音書1章15節では、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という内容でした。ルカ福音書4章16節以下では、イザヤ書61章の預言の成就として、貧しい人々が福音を聞かされていること、捕らわれている人々に解放が告げられること、主の恵みの年が告げられること、それが主イエスの到来によって今成就しているという内容でした。これらのことすべてが「神の国の福音」の内容です。イスラエルの民が信じてきた神、そして全世界の唯一の神が、ご自身のみ子主イエス・キリストによって、今このような恵みと愛のご支配を始められたのです。そこに、罪のゆるしがあり、罪ゆるされた信仰者の新しい命の歩みがあるのです。7章50節で「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた主イエスのみ言葉に導かれた、わたしたちの新しい歩みがここから始まるのです。

 ここでもう一つ重要な点は、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音をわたしたちが聞くということです。聞くとは、単に耳で情報を得るというのではなく、聞いて、信じ、その信じたことにわたしのすべてを委ね、従うということです。8章ではこのあと、神のみ言葉を聞くということがテーマになっています。主イエスは「種まきのたとえ」をお語りになり、8節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われ、11節では「種は神の言葉である」と説明され、さらに11節で「良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と、また21節では「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と教えられました。

主イエスは「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」最初の人でした。神の国のみ言葉の種を蒔いた最初の人でした。そのみ言葉を聞き、信じ、従って生きることによってわたしたちは豊かな実を結ぶことができると約束されています。「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主イエスのみ言葉に聞き、信じ、このみ言葉に生きることによって、わたしたちは神の国の民とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。

 主イエスは神の国の福音を宣べ伝えた最初の人であると言いましたが、主イエスは神の国の福音そのものでもあられます。神の独り子であられる主イエスがこの世においでになったその時から、神の国は始まりました。主イエスとともに神の愛と恵みのご支配が始まりました。主イエスがいますところ、主イエスを救い主と信じる人たちが集まっているところに、神の国が実現します。12人の弟子たちはその神の国の福音に生きる最初の人たちとして選ばれ、主イエスと行動を共にしました。

 弟子たちが選ばれたのはそのためにだけではありません。彼らは間もなく、主イエスによって神の国の福音を宣べ伝える宣教者として派遣されます。9章1節からは12人の弟子たちの派遣について、また10章1節からは72人の弟子たちの派遣について書かれています。神の国の福音を聞くために選ばれた弟子たちは、神の国の福音を宣教する人にされます。ここに、教会が誕生します。教会は、神の国の福音の種を最初に蒔かれた主イエスのみ言葉を聞き、それを信じ、そのみ言葉によって生き、そして、教会が建てられているその地にあって、世の人々に神の国の福音を宣教する務めを果たしていく、そのために選ばれた信仰者の群れが教会なのです。

12人の弟子たちから受け継がれてきた教会のこの務めは、今も変わりません。秋田教会が、この地で宣教を開始した130年前から今に至るまで、またこれからのちも、教会はこの務めを果たしていくことによって生きるのです。

 2節からは、数人の婦人たちが主イエスと行動を共にし、主イエスのために奉仕していたことが語られています。【2~3節】。これは、ルカ福音書にだけ書かれているルカ特有の記事です。ルカ福音書が「婦人の書」と言われる理由の一つです。ルカ福音書では、共観福音書であるマタイ、マルコよりも、あるいは第四福音書と言われるヨハネ福音書と比較しても、婦人たちの活動が数多く記録されています。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるために、12弟子と共に多くの婦人たちをもお用いになりました。

 けれども、主イエスが婦人たちと一緒に宣教活動をされたということは、当時の人々にとっては異常に映ったに違いありません。というのは、当時の社会では婦人は政治や宗教活動から遠ざけられていたからです。宗教的指導者が婦人たちと一緒に行動するということは恥ずべきことだと考えられていました。けれども、主イエスの場合には違っていました。主イエスにとっては、また主イエスが宣べ伝えた神の国の福音にあっては、男と女の違いや区別はなく、民族の違い、貧富や社会的地位、その他どんな人間の違いであっても、それらは全く問題ではありませんでした。すべての人は、主イエス・キリストにあって一つとされ、すべての人は神の国の福音によって罪ゆるされ、救われ、神の国の民をされるからです。使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙3章26節以下で教えているとおりです。【26~28節】(346ページ)。

 主イエス・キリストの福音はわたしたちを罪の奴隷から解放し、この世のあらゆる束縛からも自由にします。この世の富や社会的地位や名誉などに縛りつけられている生活からわたしたちを解放し、政治形態や民族、宗教などの違いから生じる対立や争いから社会を解放し、すべての人、すべての国を、神の国の福音の中で、自由と喜びとをもって共に生きる歩みへと導くのです。いわゆる婦人解放運動とか、民族解放運動とか、その他の自由と解放を目指した社会運動のすべても、主イエス・キリストの神の国の福音に基礎づけられている時に、本当の意味での解放となるのです。

 2節と3節に挙げられている婦人たちについて見ていきましょう。マグダラの女と呼ばれるマリアは主イエスによって七つの悪霊を追い出していただいたとありますが、彼女がいやされた記録そのものは福音書には書かれていません。マグダラはガリラヤ湖の西側にあった町で、彼女が「マグダラの女」と呼ばれていたことから、その町でよく名が知られていた婦人であったと思われます。彼女が有名になったのは、第一には彼女がたくさんの悪霊に取りつかれており、その姿がほとんど人間とは思えないような、悲惨で、残酷で、本人にとっても周囲の人たちにとっても、見るに堪えないほどの苦しみと痛みとによって苦しめられていた人であったからです。しかし、彼女を有名にしたのは、それほどの悲惨さと苦悩から、主イエスによっていやされ、救われ、しかも今は主イエスのために喜びをもって、生き生きとしてお仕えしているという、その驚くべき大きな変化を、多くの人が見ていることにもその理由があったと思われます。主イエスが7章47節で言われたように、彼女は主イエスによって多くの罪をゆるされたから、多くの愛をもって主イエスにお仕えするようになったのです。

 マグダラのマリアだけではなく、他の婦人たちも「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」という、大きな感謝をもって、主イエスにお仕えしていました。彼女たちは悪霊の支配のもとで生きる生活から解放され、主イエスの救いの恵みのご支配の中で、その救いの恵みに対する感謝の思いをもって、新しい歩みを始めたのです。

 二人目に名前を挙げられているのは、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。ヘロデとは、主イエスが誕生した時のユダヤの王ヘロデ大王の4人の息子の一人で、洗礼者ヨハネの首をはね、主イエスの裁判に立ち会った、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。夫であるクザが領主ヘロデに仕えていたことから察すると、社会的地位があり裕福であったと思われますが、その妻であるヨハナが主イエスによって病をいやされ、主イエスにお仕えすることになったのでしょうが、その後夫との関係はどうなったのか、夫は彼女に賛成したのかなどは分かりません。いずれにしても、彼女は今や主イエスが宣べ伝えておられた神の国の福音に生きる信仰者であり、その福音のために自分自身と持っているものすべてを主イエスにおささげする新しい歩みを始めたのです。

三人目の婦人スサンナはここ以外には聖書の中にはその名はありませんが、おそらく初代教会ではよく知られていた婦人だったと思われます。この3人のほかにも多くの婦人たちが主イエスと行動と共にしていたと書かれています。主イエスの一行は少なくとも10数人、婦人たちも含めると20人ほどのグループで、町々村々を移動しながらの共同生活ですから、それを支えるのは経済的にも人的にもそれなりのものが必要だったはずです。幸いにも、これらの婦人たちが「自分の持ち物を出し合って」主イエスと弟子たちを支えていたのでした。彼女たちもまた、このようなかたちで神の国の福音宣教の働きのために仕えていました。彼女たちもまた、「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」との主イエスのみ言葉によって、新しい歩みを始めたのです。神の国の福音に生きたのです。

ルカ福音書では、この婦人たちはこのあと何度も登場します。主イエスの十字架の場面で、【23章49節】、主イエスの葬りの場面で、【23章55~56節】、主イエスの復活の場面で、【24章8~11節】、彼女たちはそれらの目撃者となりました。彼女たちは主イエスの十字架の証人となり、主イエスの葬りの証人となり、そして主イエスの復活の証人となり、そのようにして神の国の福音のために仕えたのです。わたしたち一人一人も、主イエスの復活の証人として、神の国の福音のためにお仕えするように召されています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは取るに足りない、いと小さき者であるわたしたちを選んでくださり、神の国の福音の奉仕者として立てていてくださいますことを覚え、心から感謝いたします。願わくは、わたしたちをあなたのみ言葉によって強め、聖霊によって武装させ、神の国の証し人としてみ心のままにお用いください。

〇主なる神よ、この地にまことの平和を来たらせてください。人間の罪と傲慢、欲望や邪悪な思いをあなたが取り除いてくださり、あなたにあるゆるしと和解をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月13日説教「イサクとリベカの出会い」

2022年3月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記24章1~32節

    ヨハネによる福音書4章7~15節

説教題:「イサクとリベカの出会い」

 創世記24章は1節から終わりの67節まで、一続きの出来事が描かれています。題をつけるとすれば、「イサクの花嫁探しの旅」となるでしょうか。創世記の中で最も長い1章であり、また最も美しい物語の一つでもあります。紀元前千数百年代の古代近東地方の生活習慣などが生き生きと描かれています。牧歌的であり、また人間味豊かな物語でもあります。

 物語のあらすじをたどってみましょう。年老いたアブラハムが、息子イサクの花嫁のことを心配しています。自分の故郷である北方メソポタミア地方ハランの地に信頼できる僕を送って、息子にふさわしい花嫁を探してくるように命じます。その僕はハランの郊外の井戸で、美しく心優しい娘リベカを選び、彼女の家に行きます。それが、きょう朗読された箇所までです。33節からは、その僕はリベカの兄ラバンと彼らの父ベトエルに、「リベカを自分の主人の息子イサクの花嫁にしたいので許可をください」と頼みます。彼女の家の者たちは「リベカ自身がそう望むのなら、それが神のみ心ですから、そのようにしてよい」と答えます。リベカ自身もそのことを望んだので、僕はリベカを連れて主人アブラハムの家に帰ります。ただし、このあとにはアブラハムは登場しませんから、花嫁探しの数カ月の間にアブラハムは死んだのではないかと多くの研究者たちは考えています。僕とリベカがカナンに着いた時、イサクは野を散策していましたが、僕とリベカが近づいてくるのを見ます。ここで、初めて二人が顔を合わせ、イサクとリベカは結婚することになります。これが24章のあらすじです。今日のわたしたちが考える花嫁探しとはだいぶ異なりますが、あたかも古い時代の小説の1章を読んでいるように感じられます。

 ここには、花嫁探しという日常的な、また人間的な物語が展開されていますが、しかしその中に、静かに、しかし力強く、主なる神がすべての出来事を導いておられ、主なる神が一人一人をみ心のままに動かしておられ、そのようにして主なる神のみ心が成就されていくということを、わたしたちは見逃すことはできません。この章には、神を表す「主」という言葉が、実に20回以上も用いられているのです。

 冒頭のアブラハムと僕の打ち合わせの場面に主なる神がおられます。1節、3節、7節です。ハランの郊外の夕暮れの井戸のかたわらにも主なる神がおられます。12節、26節、27節。主なる神はリベカの家の中にもおられます。31節、35節、50節など。そして、カナンに帰ってから、野原でイサクとリベカが出会う場面、二人の結婚、ここでは「主」という言葉は用いられてはいませんが、そのすべてに主なる神のお導きとみ心があったということを、わたしたちは容易に信じることができます。

 それらの中で、特に印象的なみ言葉を、あらかじめ2か所読んでみましょう。まず、【27節】。そして、【50~51節】。このようにして、主なる神は彼ら一人一人の人生の歩みのすべてを共にいて導いてくださり、人と人との出会いと結婚をみ心によって導いてくださるということを、わたしたちはこの章から繰り返して教えられるのです。

 神は、主の日の礼拝でわたしたちをみ言葉と聖霊とによって新しい命を注ぎ、信仰の道へと導いてくださるとともに、日々の日常のすべての歩みの中でも、家庭にあっても、職場や学び舎にあっても、旅行や病室にあっても、常にわたしたち一人一人と共にいてくださいます。そして、わたしたちのすべての歩みをとおして、ご自身の救いのみわざを進めてくださいます。

 では、24章の長い物語を、いくつかのポイントになる場面を取り挙げて読んでいきましょう。【1節】。この1節が、24章全体とアブラハムの全生涯に鳴り響き、こだましています。「主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになった」。人の一生の終わりにこの1節が書き加えられるならば、その人は何と幸いなことでしょうか。その人の全生涯が「神の祝福」という一字によって包まれていたとしたら、その生涯は何と幸いなことでしょうか。たとえ、試練や迷いの連続であったとしても、多くの痛みや重荷を背負いながらの日々であったとしても、主なる神が共にいてくださり、祝福で満たしてくださったと信じることができるならば、その人の生涯は何と幸いであることでしょう。わたしたちはアブラハム物語りの最初の神の約束のみ言葉を思い起こします。【12章1~3節】(15ページ)。神はこの約束のみ言葉を確かに守られました。アブラハムの信仰による子孫であるわたしたちのためにも、神はこの約束を果たしてくださいます。

 アブラハムは生涯の終わりに近づき、神の約束が彼の子イサクによって子孫に受け継がれていくために、イサクの花嫁探しを僕に命じます。【2~4節】。「年寄りの僕」とは長くアブラハムの家の僕であった15章2節に出てくるエリエゼルであろうと推測されています。アブラハムが一人息子イサクの花嫁の心配をしているのは、年老いた父親としての責任感からだけではありません。アブラハムがここでイサクの花嫁探しを命じるのは、彼と彼の子イサクが、そしてまたイサクの妻となるべき花嫁が、神の約束の担い手となるからであり、神の約束のみ言葉が彼らをとおして成就していくからなのです。

 6節以下で、アブラハムはこう言います。【6~7節】。イサクとその妻とがアブラハムに与えられた神の約束を担っていくことになるのです。そのために、アブラハムは彼に残されている最後の務めを果たそうとしているのです。

ここでわたしたちは、1節に書かれていたみ言葉の真の意味を知らされます。アブラハムの生涯が神に祝福されているのは、彼が神の約束を担っている信仰者であるからです。神の約束のみ言葉が彼と彼の子孫とによって成就されていくからです。神の救いのみわざが彼と彼の子孫とによって前進していくからです。そこにこそ、アブラハムと彼の子孫が神に祝福されている最も大きな理由が、根拠が、土台があるのです。

 アブラハムが彼の僕に命じたイサクの花嫁探しの条件は3つのポイントにまとめることができます。一つは、イサクの花嫁はカナン人であってはならない、アブラハムの故郷であるメソポタミアの北方ハランに住む人でなければならないこと。二つには、イサクが結婚してもハランに移り住んではならない、必ずこのカナンの地に住まなければならないこと。三つには、もし花嫁として選ばれた人がカナンに来ることを望まなければ、僕はこの命令から自由になり、花嫁探しを中止してもよいということ。

 第一と第二の点について少し触れておきましょう。カナンの地で旅人、寄留者として過ごしている遊牧民族であるアブラハム一家にとっては、カナンの地の娘と結婚する方が、今後の生活の安定のためには有利であると思われます。しかし、アブラハムはそうしません。カナンの地の異教の神々を信じている妻を迎えることは、息子イサクの信仰を危険にさらすことになりかねません。妻への人間的な愛によって、神の約束のみ言葉を捨てることにもなりかねません。それを考えて、アブラハムは自分の故郷のハランの地までの長く遠い花嫁探しの旅を僕に命じるのです。イサクは結婚してから必ずカナンの地に住まなければならないというのも、同じ理由からです。「この地をアブラハムとその子孫とに永久の所有として与える」との神の約束のみ言葉が、イサクの花嫁探しの最大の基準なのであり、またその目的なのです。

 僕はらくだ10頭と主人から預かった高価な贈り物を携えて旅に出発します。カナンからハランまでは北におよそ千キロメートルの長い距離で、どんなに急いでも1カ月以上の旅ですが、聖書はすぐに11節から次の場面に移ります。その場面は僕の祈りによって始まります。【11~14節】。僕のこの祈りは、7節のアブラハムの言葉に対応しています。「神がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子の嫁を連れて来ることができるようにしてくださる」。アブラハムとその僕はこの信仰によって行動しています。この信仰と祈りによって、僕の花嫁探しは始められます。すべては神のみ手に導かれて進行していきます。このあと、イサクとリベカの出会いによって結婚が成立するまで、すべては祈りと神礼拝の中で進められていきます。それを追っていきましょう。【20~21節】。

【26~27節】。【31節】。【48節】。【50節】。【52節】。【56節】。【60節】。

 息子の花嫁探し、あるいは一組の男女の結婚という、日常的で人間的な出来事の中に、何と深く主なる神がかかわっておられることでしょうか。わたしたちの日々の歩みの中でも、いつどこにいても神が共におられ、神がわたしの歩みにかかわっておられるということを覚えたいと思います。わたしが家にいても、家を出てからも、喜びの時も、悲しみの時も、生まれて死ぬ時まで、いな、死んだのちにも、神はわたしをとおしてみ心を行ってくださるのです。

 最後に、イサクの妻となるリベカについてみていきたいと思います。16節に、リベカは「際立って美しい」と書かれています。ここでは姿かたちの美しさのことを意味していますが、この先を読み進んでいくと、それが彼女の内面的な美しさでもあるということが分かります。リベカは見知らぬ旅人と家畜にもたっぷりと水を飲ませるために、何度も水を汲みに井戸を往復する労苦をいとわない親切と愛に満ちています。20節と28節には「走って行った」とあり、非常に活動的で、行動的です。25節では、旅人のために喜んで宿と家畜のえさを提供すると申し出ます。そして58節では、両親や兄との別れの悲しみに打ち勝って、「はい、わたしは夫となるべき人が待つカナンに行きます」と、信仰の決断をします。そのすべては、神のみ心に従順に従おうとする信仰から生まれ出る美しさです。イサクの花嫁となるリベカは神によって選ばれました。イサクとリベカは神によって出会い、神によって結婚しました。そのようにして、二人は神の約束のみ言葉を共に担っていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは恵みと慈しみをもって、わたしたちのすべての歩みに共にいてくださいます。あなたと共にある日々こそが、わたしたちの最も大きな幸いです。願はくは、わたしたちが暗い谷間を行くときも、嵐吹く海を渡る時も、あなたのみ心を信じて、平安のうちに歩ませてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたによる平和をお与えください。わたしたちの中にある憎しみや怒り、傲慢や貪欲を取り除き、愛とゆるし、分かち合いと共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月20日説教

3月20日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年3月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:レビ記16章11~15節

    ヘブライ人への手紙9章11~15節

説教題:「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」という箇所について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 文章の続き具合から判断されるように、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」は、前の「人類の罪のために十字架にかかり」で告白されている主イエスの十字架の意味をより具体的に説明しています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いにとってどのような意味を持つのかが告白されています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いのための完全な犠牲であったこと、そしてそれによって贖いが完了したことが告白されています。

 きょうの箇所では、「完全な犠牲」や「贖い」という、聖書の中で用いられる用語がありますので、まずその意味を正しく理解することが重要です。「完全な犠牲」という言葉は、1953年に制定された「文語文」では「全き犠牲(いけにへ)」となっていました。聖書では、「犠牲」と「いけにえ」の両方の言葉が用いられていますが、同じ意味と考えてよいでしょう。

 「犠牲」または「いけにえ」と「贖い」は旧約聖書時代のイスラエルの礼拝形式に関連しています。主イエスの十字架を理解するには、そのイスラエルの礼拝形式を理解する必要があります。そこで、イスラエルの礼拝形式について2、3の点を確認しておきましょう。一つは、イスラエルの民は神を礼拝する民となるためにエジプトの奴隷の家から導き出されたのであり、神を礼拝することは神の民あるイスラエルにとっての原点であり、出発点であり、また目標であったということです。神礼拝は、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出された神の救いの恵みに対する感謝の応答なのです。神への感謝の応答、これがイスラエルの礼拝の第一の意味です。

 この礼拝の第一の意味は、わたしたち教会の民にも受け継がれています。使徒パウロはローマの信徒への手紙12章1節でこのように教えています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。わたしたちが主の日ごとに礼拝堂に集まり、共に神を礼拝するのは、わたしたちが主イエス・キリストの十字架による福音によって罪ゆるされ、救われているという大きな神の恵みに応え、それを感謝するためなのです。

旧約聖書時代のイスラエルの神礼拝においては、祭司や預言者たちによって神の救いのみ言葉が語られ、会衆の感謝の応答として、感謝のささげものがささげられました。神が約束の地カナンへと彼らを導き入れ、それぞれの部族ごとに嗣業の地を与え、その地での豊かな収穫を与えてくださったことへの感謝として、地の初物と家畜の初子(ういご)がささげられます。それに続いて、地の収穫物の十分の一がささげられます。

 羊や牛、やぎなどの家畜の初子をささげる儀式を初子の奉献と言います。最初に生まれた家畜の雄(おす)は、神のものとして聖別され、ささげられなければならないと律法に定められています。それは、初子に続くすべての家畜の命が神のものであり、神から与えられた命であることを言い表しています。家畜の初子を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげる場合には、家畜の首を切り、その血を礼拝堂の祭壇に振りかけました。血は命であり、すべての命が神のものであるから、その命を本来の所有者である神にお返しするためです。

 地の初物や家畜の初子だけでなく、人間の初子(長男)も神のものであり、聖別して神にささげられねばならないと律法に定められています。人間の初子の奉献の場合には、人間の命の代わりに子羊をささげました。これを「贖う」と言います。つまり、本来神に属する長男の命を子羊の命によって神から買い取る、買い戻すという意味です。

 動物を犠牲としてささげるイスラエルの礼拝形式は、血を命として神にささげるほかに、肉は火で焼いてその香りを神にささげました。動物の全部を火で焼いてささげることを焼き尽くすささげ物、あるいは燔祭と言います。これは、神にすべてをささげ尽すという、礼拝者の全き服従を意味していたと考えられます。また、焼いた肉の一部を一緒にささげたパンなどとともに、礼拝者が食べることを酬恩祭、『新共同訳』では和解のささげものと言います。これは、礼拝者が神のみ前で共同の食卓を囲むことによって、ささげ物を受け入れてくださる神との交わりをより豊かにし、具体的にするとともに、礼拝者同士が交わりを深めることを意味していました。今日の聖餐式と同じような意味を持っていました。

 イスラエルの礼拝のもう一つの中心的な意味は、神による罪のゆるしです。感謝の応答という礼拝の意味よりも、こちらの方が本来の、中心的な礼拝の意味だと言ってもよいでしょう。イスラエルの民は、人間が神のみ前では罪びとであり、神の裁きによって死ぬべき存在であるということを強く意識していました。人間は神のゆるしなしでは生きることができない者であると自覚していました。創世記3章に書かれている最初の人間ダムとエヴァが神の戒めに背いて罪を犯し、死ぬ者となったという、いわゆる原罪が、彼らの人間理解の原点です。そこで、彼らの神礼拝は、人間の罪を神がゆるしてくださるように願うことが、第一の最も中心的な要素となりました。

 そのことは、今日のわたしたちの礼拝においても同様です。わたしたちの教会の礼拝も、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざに基礎づけられており、この礼拝では主イエス・キリストの十字架による救いを信じ、その救いの恵みを受け取り、またそれに感謝するために、わたしたちはきょうの礼拝に集められているのです。礼拝にはほかにもたくさんの要素がありますが、罪のゆるしこそがその中心です。主イエス・キリストによる罪のゆるしと救いの恵みがないならば、それは真実の礼拝ではありません。

 では、イスラエルの礼拝では罪のゆるしはどのようになされたのでしょうか。それは家畜などの動物を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげるという形式でした。その礼拝の仕方については、レビ記などに詳しく定められています。【レビ記4章1~7節】(165ページ)。これは祭司が罪を犯した場合の定めですが、13節以下ではイスラエル共同体の罪の場合、22節以下ではイスラエルの代表者が罪を犯した場合、27節以下では一般の人が罪を犯した場合も、同じようにして家畜を犠牲としてささげることが定められています。人間が犯した罪のために動物の命を代わりにささげることを贖罪のささげものと言いました。それによって人間の罪が贖われ、罪がゆるされました。

 ここには、罪の結果は死であるという神の厳しい裁きの原則があります。罪とは神との関係を破壊することです。人間は神によって創造され、神の律法、神のみ言葉に聞き従って生きるべきであるのに、それに背いて罪を犯した場合には、神のみ前では生きることができないからです。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章23節で言うように、罪の支払う報酬は死なのです。

 けれども神は、人間の罪に対する裁きとして、人間の死を直ちに要求されませんでした。神は憐れみ深い方であられ、罪をゆるされる方であることをお示しになるために、人間の命の代わりに動物の命をささげることをお命じになりました。それを贖罪のささげ物と言います。

 エルサレムの神殿では、毎日祭司によってイスラエルの罪を贖うための動物が祭壇にささげられ、更には年に1回、7月10日の大贖罪日には、大祭司によって至聖所で罪を贖うための動物が犠牲としてささげられました。このようにして、毎日毎日、毎年毎年人間の罪のための贖罪の犠牲がささげられることによって、イスラエルの民は神によって罪ゆるされ、神の民として生きることがゆるされたのです。これが、イスラエルの礼拝の形式でした。

 そのような旧約聖書のイスラエルの礼拝を背景にして、主イエス・キリストの十字架が、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」と告白されているのです。その意味を探っていきましょう。

 ヘブライ人への手紙9章と10章では、主イエス・キリストがまことの大祭司となられ、神のみ子としてのご自身の罪のない血を十字架におささげくださることによって、永遠の贖いを全うされ、わたしたちすべての人間の罪を贖い、救ってくださったということを語っています。【9章11~15節】(411ページ)。

 12節に、「ただ一度」という言葉があります。この言葉は、一度だけで完全であるという意味を含んでいます。もはや繰り返される必要がない、一度だけで永遠の働きをする、永久的な効力を持つという意味です。このあとでも、26、27、28節でたびたび用いられています。7章27節にも同じ言葉があります。【7章27節】(409ページ)。

 旧約聖書の時代には、エルサレムの神殿で毎日祭司によって人間の罪のための贖いとして動物の犠牲がささげられていました。動物の犠牲は、人間の命の代わりであり、それはいわば代用品であって、人間の罪を贖うには不完全であり、永続性もなかったゆえに、それは毎日、毎年くり返されなければなりませんでした。それによって、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来によって完成される完全な礼拝を待ち望むようにされたのです。主イエスがヨハネ福音書4章23節で語っておられる、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」、その時をイスラエルは待ち望んでいたのです。

 しかし今や、まことの大祭司であられる主イエスが来られました。このまことの大祭司は、身代わりとなる動物の命を携えて至聖所に入られたのではありません。父なる神に全き服従をささげられ、ご自身の命を携えて、ただ一度だけ至聖所に入られたのです。そして、動物の命をささげるのではなく、ご自身の命をおささげになりました。もはや、動物の代用品ではありません。罪に汚れた人間の血でもありません。まことの人となられた主イエスが、わたしたち人間のすべての罪の贖いとして、十字架でご自身の神のみ子としての、罪も汚れもない尊い血をささげてくださったのです。その1回の十字架による贖いのみわざによって、すべての時代の、すべての人の、すべての罪が、完全に、永遠に、贖われたのです。主イエス・キリストの十字架を信じる人は、すべてその罪がゆるされ、救われるのです。神による死の裁きから自由にされ、永遠に神との豊かな交わりの中に生かされ、神の国の民の一人とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪に支配され、死に定められているわたしたちを、み子の贖いによって、罪から解放し、新しい命へと招き入れてくださいました恵みを、心から感謝いたします。わたしたちがあなたの救いの恵みによって生かされていることをいつも覚え、感謝し、信仰の道を従順に歩むことができますように。

〇神よ、この地に主キリストにある和解と平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月6日説教「恵みと力に満ちた人ステファノ」

2022年3月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記5章1~10節

    使徒言行録6章8~15節

説教題:「恵みと力に満ちた人ステファノ」

 ステファノは初代エルサレム教会の7人の食卓の奉仕者として選ばれました。使徒言行録6章1節以下によると、エルサレム教会の規模が大きくなり、またさまざまに違った立場の人たちが集まってくるにつれて、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に日々の食糧の分配で不平等が生じているので、それを解消するために、食卓の世話をする務めを担う人を教会の会議で選ぶことになり、その7人の中に彼が選ばれました。これは一般には今日の執事の職に当たると考えられていますが、きょうの礼拝で朗読された8節以下では、ステファノは12人の使徒たちと同じみ言葉の奉仕者、伝道者の務めを担っているように思われます。7人が選ばれた本来の食卓の奉仕の務めについては、使徒言行録の中ではこれ以後も全く触れられてはいません。もっとも、食卓の奉仕という執事の務めを託されているからと言って、み言葉の奉仕者である必要はないということはありませんので、本来の執事の務めをしながら、伝道者、宣教者の務めをも果たしていたと考えるべきかもしれません。主イエス・キリストの福音を信じて救われ、教会のメンバーとなった信者はだれであれみな神のみ言葉のために仕えるみ言葉の奉仕者であるのは言うまでもありません。

 8節でステファノは「恵みと力に満ち」と紹介されていますが、5節では「信仰と聖霊に満ちている人」と言われていました。ここで挙げられている4つ、「信仰、聖霊、恵み、力」、これらはいずれも父なる神と救い主・主イエス・キリストからステファノに与えられた賜物です。彼が何を持っていたかとか、どんな能力や知識があったかといった、彼自身に備わっていたものについては、ここでは全く問題にされていません。彼の社会的地位や学歴、教養、あるいは彼の性格なども全く語られていません。それらは、彼が執事の務めを果たすにあたって、またみ言葉の奉仕の務めを果たすにあたって、何の条件にもなりません。

 しかしながら、彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、ほかに何が必要となるでしょうか。彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、彼はすべてに満たされているのです。他に何が不足していようとも、彼に何か破れや欠けがあったとしても、彼はすべてにおいて満たされているのです。彼に、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰が与えられ、聖霊なる神によってその信仰の保証として慰めと平安が与えられ、日々新たに神の恵みいただき、その恵みによって生かされ、さらには、何ものをも恐れずに主キリストの福音を語り伝える力と勇気を与えられているステファノ、その彼には何一つ不足はありません。彼はすべてにおいて満たされています。

 8節では、「すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と紹介されています。「不思議な業としるし」は神の国が近づいていることの確かなしるしであり、また神のみ言葉の説教の力強さを現実化する目に見えるしるしのことです。これは使徒たちに特別に与えられていた賜物でした。12節に、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていた」と書かれています。さらにさかのぼれば、2章22節には、主イエスによって行われていた「奇跡と、不思議な業と、しるし」のことが書かれていました。主イエスが神の国、神の恵みのご支配による救いの時が近づいていることのしるしとして行っておられた数々の奇跡、不思議なみわざ、しるしが、12人の弟子たち、使徒たちによっても行われ、そしてまたステファノによっても行われたのです。ステファノにも使徒たちと同じ賜物が与えられていました。使徒たちやステファノは、主イエスによって始められた神の恵みの時、神の救いの時の開始を、民衆の間で言い広めたのです。

 ところが、そのステファノの目覚ましい活動を快く思わない人々がいました。【9~10節】。「解放された奴隷」とは、ローマ帝国によって戦争捕虜とされ、後に解放されて自由人となり、エルサレムに移り住んでいるギリシャ語を話すユダヤ人を言います。リベルタンと呼ばれます。キレネとアレクサンドリアはエルサレムの南方、アフリカ大陸の都市です。キリキアとアジア州はエルサレムの北方の州であり、使徒パウロはキリキア州タルソという町の出身でした。アジア州は小アジアのことで、今のトルコであり、使徒パウロの宣教によってエフェソやコロサイに教会が建てられました。これらの都市には、デアスポラと呼ばれる離散のユダヤ人が多く住んでおり、この時代にはエルサレムに移住してくる人たちもかなりいたようです。彼らはほとんどがギリシャ語を話すユダヤ人、いわゆるヘレニストと呼ばれる人たちです。ステファノ自身も恐らくそうでしたから、彼のもとにはヘレニストたちが多く集まってきたことが予想されます。

 ステファノは「知恵と霊」によって語りました。「知恵と霊」、これも神から賜ったものです。主イエスの福音を語る信仰者は自分が持っている人間的な知恵や体験的な知識で語るのではありません。その人には神の知恵と霊が与えられます。また、神の知恵と霊の導きと助けを求めて語らなければなりません。

 ステファノと議論をしたヘレニストユダヤ人たちもまた当時のユダヤ教の指導者たちと同じように、古いユダヤ教の律法や神殿での古い礼拝の枠から抜け出すことができずに、主イエスの福音を信じ、受け入れることができませんでした。同じユダヤ教の中での意見の違いであれば、激しい議論になることがあったとしても、相手を告発して、裁判にかけることまではしないに違いありません。しかし、ステファノとヘレニストユダヤ人たちの対立は単なる理解の違いではありませんでした。そこには、あれかこれかという、決定的な対立があったのです。ステファノが語った主イエスの福音は、古いユダヤ教の教えを廃棄し、律法を福音に変え、エルサレム神殿での礼拝を終わらせ、全世界での教会の礼拝を始めさせる、新しい教え、新しい救いなのです。

 そのことを知ったヘレニストユダヤ人たちはステファノを捕え、ユダヤ最高法院に訴えました。初代エルサレム教会が経験する3回目の迫害です。【11~14節】。

 ヘレニストユダヤ人たちは、神の知恵と霊によって語るステファノに議論では太刀打ちできないと知るや、暴力的な行動や権力に訴えて、ステファノと主イエスの福音を抑え込もうとします。彼らはまず民衆を扇動し、次にエルサレムの権力者たちを扇動し、ステファノに不利な偽りの証言を語らせます。ついにはユダヤ最高法院の裁判の席にステファノを引き出すことに成功しました。ペトロや12使徒たちが経験した2度の迫害と状況は同じです。と同時に、ステファノが訴えられた内容は主イエスご自身の裁判の際の告発と一致します。マタイ福音書26章に書かれている主イエスの裁判では、主イエスを訴える口実に、「あの男は神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができると言った」という証言(61節参照)や、神を冒涜する言葉を聞いた(65節参照)という訴えがなされましたが、ステファノに対しても同じような非難の声があげられています。

 彼らがここでステファノを告発した内容は、悪意に満ちた誹謗中傷ではありますが、全くの架空の作り話では必ずしもないと言ってもよいのではないでしょうか。彼らには正しく理解されてはいませんが、そこには主イエスによって成就された神の真理が含まれているということにわたしたちは気づきます。

第一点として言えることは、ステファノが語った主イエスの福音は、確かにモーセの律法を超えており、律法によって救われる道を否定し、閉ざしているということです。主イエスの十字架の福音は、律法を守ることによって救いに至るというユダヤ教の道の終わりを宣言するとともに、律法によらず、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという新しい救いの道をすべての人に開いたのです。主イエスの十字架の福音によって明らかにされたことは、だれも律法を守り行うことによっては救われない、律法によっては人間の罪と死とが宣告されるだけである。けれども、神のみ子主イエスがわたしたち罪びとのために律法を完全に成就され、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に全き服従をおささげになられ、それによってわたしたちを罪から贖い出し、救ってくださった。この福音を信じる人はみな、その信仰によって神に義と認められ、罪ゆるされ、救われる。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。ユダヤ人たちがこれを聞いて、モーセの律法を否定した、神を冒涜したと理解したのであろうと思われます。

 もう一点は、主イエスがエルサレム神殿を破壊すると言われたこともまた神の真理だと言えます。主イエスはエルサレム神殿を爆破するとか、暴動を起こして神殿の中を荒らすことを計画しておられたのではありません。神殿での動物をささげる礼拝そのものを無効にされ、終わらせたのです。旧約聖書時代のイスラエルの民は日々の自分たちの罪を神に贖っていただくために、エルサレム神殿で毎日動物の犠牲をささげる礼拝をしていました。主イエスはそのイスラエルの民が目指していた真実の神礼拝をご自身の十字架の死によって完成されたのです。すなわち、ご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架で流され、わたしたち人類の罪を完全にあがなってくださったのです。主イエスの一回で完全な贖いのみわざによって、すべての人の罪が永遠にあがなわれ、ゆるされているのですから、もはやエルサレム神殿で動物の血を繰り返してささげる必要はなくなりました。神殿の役割は終わったのです。主イエスはご自身の体である教会をお建てになり、その教会でささげられる霊とまことによる礼拝へと、すべての人をお招きになっておられます。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。

 けれども、ユダヤ人たちは主イエスの福音を受け入れず、古い律法の教えと神殿礼拝から離れようとしませんでした。主イエスの福音を信じるためには深い罪の自覚と悔い改めが必要です。古い罪に支配された生き方からの方向転換が必要です。ユダヤ最高法院の構成メンバーである律法学者・ファリサイ派はモーセの律法にしがみついていました。もう一つの構成メンバーであるサドカイ派の祭司たちはエルサレム神殿にしがみついていました。彼らは自分たちの生活基盤が失われることを恐れ、悔い改めることをせず、かえってステファノに対する憎しみと怒りをつのらせました。

 【15節】。ユダヤ最高法院全メンバーの憎しみと怒りの目がステファノに注がれた時、しかし、ステファノの顔は天使のように輝いていました。主イエス・キリストの証人として立つ信仰者のかたわらには、神ご自身が共に立っていてくださいます。たとえ、すべての人がステファノに逆らい、彼を攻撃するとしても、彼は少しも恐れません。たじろぐことはありません。主なる神が彼と共におられ、彼を堅く立たせてくださり、主なる神の栄光が彼を包み、彼を支えているからです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ言葉の上に堅く立たせてください。世界がどのように揺れ動くとも、世がどのように変化していくとも、永遠に変わることがなく、永遠に恵みと真理とに満ちているあなたのみ言葉を、信じ続ける者としてください。

〇主なる神よ、世界のすべての国、民族にまことの平和をお与えください。和解の道と共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。