2月6日「7人の食卓の奉仕者の選出」

2022年2月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記27章15~23節

    使徒言行録6章1~7節

説教題:「7人の食卓の奉仕者の選出」

 紀元30年代、ペンテコステの日に誕生した初代エルサレム教会はユダヤ人からの2度の迫害を経験しながらも、むしろその迫害を教会のさらなる成長と発展の新しいエネルギーとしていきました。5章の終わりには驚くべきことが書かれていました。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び」と41節に書かれています。彼らは迫害を喜んでさえいるのです。それゆえに、彼らは「イエスの名によって語ってはならない」(28節、40節参照)というユダヤ最高法院の命令に2度も逆らって、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせ」(42節)たのでした。

 6章からエルサレム教会の新しい展開が始まります。主イエス・キリストの福音がエルサレムのユダヤ人だけでなく、パレスチナ全域へ、さらにはユダヤ人以外の異邦人へと拡大されていく基礎ここでが築かれていきます。エルサレム教会内で起こった日々の分配の問題に対処するために選ばれた7人の奉仕者たちが、教会内の食卓の奉仕に当たるだけでなく、彼らの多くは教会の外へ出て、異邦人への宣教のための役割をも担うことになったということを、わたしたちはこれから知らされるのです。神は、教会の外からの迫害をもお用いになって、教会の成長・発展へとお導きくださいました。また、教会内の問題をもお用いになって、教会の福音宣教の働きをより拡大させてくださるということを、わたしたちは使徒言行録で何度も繰り返して教えられます。

 では、6章1節から読んでいきましょう。【1節】。エルサレム教会にはギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語あるいはアラム語を話すユダヤ人とがいました。前者を一般にヘレニストと呼びます。彼らは離散していたユダヤ人・ディアスポラと言われ、世界各地に住み着き、当時の世界共通語であったギリシャ語を話していましたが、この時期にエルサレムに移住してきました。当時、ユダヤ人に間にメシア待望の信仰が強くなっていて、メシアがエルサレムに現れることを期待した人々が世界各地から移ってきました。それに対して、以前からエルサレムに住んでいたユダヤ人は、当時パレスチナで流通していたアラム語を話していました。その両者の間には多少の緊張感があったようでした。エルサレム教会ではもともとこの町に住んでいたユダヤ人が主流であったと思われますが、ギリシャ語を話すユダヤ人の側から、自分たちの未亡人が日々の分配で不利益を被っているとの申し出があったということです。

 前にも学びましたように、エルサレム教会では、教会員が所有していた財産を共有にして、必要に応じてそれを教会にささげ、みんなに分配するという財産共有生活をしていましたから、貧しい人たちや社会的立場の弱い人たちに対しては日々の食糧の分配など、特別の配慮が必要とされました。けれども、教会員の数が3千人から5千人、さらにそれ以上に増えていくにつれて、一人一人への食糧の配分が大変な労苦になり、不公平が生じるようになったと思われます。

 そこで、この問題を解決するために教会の指導者であった12使徒たちが、教会員のすべてを招集して教会の会議を開催することになりました。【2~4節】。ここには、のちの世界の教会が取り入れたいくつかの制度の手本があります。その一つは、これがエルサレム教会で開催された最初の教会会議であったということです。わたしたちの教会の制度から言えば、教会総会と言ってよいかもしれません。初代教会は、教会内の諸問題を解決するために、あるいは教会の宣教活動を進めていくために、会議を開き、教会の指導者と教会員との話し合いと合意を大切にしたということを、わたしたちはここから教えられます。一部の指導者たちが、上からの権威によって事を決めるのではなく、教会員みんなの話し合いと合意によって、教会会議によって、教会の運営を行っていくという形式は、今日のわたしたちの教会にも受け継がれていると言えます。

 ここから教えられる第二の点は、教会の会議で代表者が選ばれ、その人たちに教会の務めが委託されるということです。実は、すでに12人の弟子たち、使徒たちも、以前は主イエスによって選ばれ、1章ではユダに代わる使徒が選挙で選ばれています。教会会議で教会の務めに当たる代表者が選ばれ、そこで選出された人たちにその務めを委ねるという形式も、わたしたち長老主義教会の在り方とよく似ています。似ているというよりは、わたしたちの長老制度がエルサレム初代教会を手本にしていると言うべきですが、この点において、わたしたちの教会は監督制度の教会や会衆派の教会とは違って、より初代教会に近いと考えています。

 宗教改革の時代にはこれを万人祭司と呼びました。聖職者とか監督という一部の指導者だけで教会を運営するのではなく、すべての教会員、信徒たち一人一人が教会の頭なる主イエス・キリストにお仕えする祭司となって、主キリストの体なる教会を建てていくために自分自身をささげて奉仕をする、それが長老主義教会の特徴です。

 ここから教えられる第三の点は、教会の務めの多様性ということです。すでに選ばれていた12人の使徒たちは「祈りとみ言葉の奉仕」がその務めでした。今回選ばれた7人は「食卓の世話をする」のが務めです。教会員が増えるにつれて、教会内の務め、働きも増してくるとともに、多方面での奉仕、働きが求められ、また可能になってきます。しかしそれは、務めの違いであって、何らかの上下関係ではありません。教会内の多様な務めは、すべて主キリストの体である教会を建てていくために仕えるのです。主キリストの体の成長のためになくてならない大切な務めです。

 したがって、食卓の世話をする務めだから、信仰の質とかは問題にならないということではなく、3節に書かれているように、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」でなければなりません。教会の務めは、み言葉の奉仕者であれ食卓の奉仕者であれ、その他どんな務めであっても、すべては聖霊なる神から与えられる霊の賜物を用いてなされるのであり、聖霊なる神のお導きにより、天の神からの知恵によってなされる務めです。そしてまた、選ばれる人は、教会全体の中で信望が厚く、信頼されている人であることが求められます。すべての務めは主イエス・キリストのみ名のために、主のみ名によってなされる奉仕であるゆえに、だれも主のみ名を汚すようなことがあってはなりません。すべてが主のみ名の栄光のために、主のお体を建てるためになされる務めなのです。それゆえにまた、すべての務めは誉れあり、尊い務めなのです。

 もう一つここで注目すべきは、7人の奉仕者は選挙で選ばれたらしいということです。どのような選挙かははっきりと書かれていませんが、教会員全員の意志と賛同によって選ばれたことは確かです。指導者たちの親戚とか知り合いが選ばれたのでななく、経済力や社会的地位を基準にして選ばれたのでもありません。したがって、選ばれた人は何らかの権力を行使するとか、自分自身の誉れを求めてその務めに就くのでもありません。教会全体のために仕え、教会の頭である主イエス・キリストの栄光のために、仕えるのです。

 ところで、この時選ばれた7人が具体的にどのような働きをなしたのかについては、使徒言行録には書かれていません。教会の伝統的な理解では、ここで選ばれたのは今日の執事に当たると考えられてきましたが、実際には少し違っているように思われます。5節に挙げられている最初の人、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」は、8節以下に記されている内容から判断するならば、彼は使徒たちと同じようにみ言葉の説教者であり、伝道者として働いていたと思われます。7章には、彼が迫害を受け、ユダヤ最高法院で行った長い説教が記録されています。そして、彼は7章の終わりで、教会の最初の殉教者となりました。

 次のフィリポは8章5節以下に書かれているように、サマリア地方で主イエスの福音を宣べ伝えました。彼はまた21章8節以下では、「例の七人の一人である福音宣教者フィリポ」と呼ばれ、パレスチナの地中海沿岸の町カイザリアに移り住み、その町でパウロと一緒に宣教活動をしています。他の人についてはこの個所以外には記録が残っていませんが、彼らの名前はみなギリシャ名であり、いわゆるヘレニストであり、ギリシャ語を語るユダヤ人であったと思われ、ほかの人たちも、ステファノやフィリポと同じように、異邦人伝道のために仕えたという可能性が大いにあります。

 以上のことから推測すると、ここで選ばれた7人の務めは、エルサレム教会内で日々の配給や食卓の世話をする執事というよりは、説教者、伝道者であったと考えられます。8章1節に、エルサレム教会に対しての大迫害によって使徒たちのほか主だった人たちがエルサレムから追放されたことが報告されていますが、その時に、ここで選ばれた7人もパレスチナ全域に散らされたために、本来は執事として選出されたけれども、結果的に宣教活動へと変えられていったのかもしれません。

 いずれにしても、エルサレム教会の食卓の問題や大迫害という不幸ともいえる事件をきっかけにして、主イエスの福音がエルサレムの外へ、パレスチナ全域へ、そして異邦人へ、そして全世界へと拡大していくことになったのでした。わたしたちはここでも神がなせるみわざの不思議を思わざるを得ません。神のみ言葉、主イエス・キリストの福音の命と力の大きさを改めて教えられます。神のみ言葉はこの世の鎖によっては決して繋がれることはありません。

 そのことは7節にはっきりと語られています。【7節】。特にここでは、「祭司も大勢この信仰に入った」と書かれたいます。祭司の多くはユダヤ教サドカイ派に属し、彼らは復活を否定していました。最初の迫害がこのサドカイ派の訴えがきっかけだったことを4章の初めで聞きました。ペトロたちが主イエスの復活を語っていることに腹を立てて、彼らはペトロとヨハネを捕えて獄に入れました。その最初の迫害の先頭に立っていた彼らの多くが、今や主イエスを信じ、主イエスの十字架と復活による罪のゆるしと永遠の命を信じて、キリスト者となったというのです。それはまさに神の奇跡です。神のみ言葉の勝利です。

 わたしたちもまた、今日、多くの人たちがキリスト教に対して無関心であり、主イエス・キリストの十字架と復活を信じようとはせず、罪に支配されているこの時代にあって、しかし希望を失うことなく、神のみ言葉の勝利を信じて、福音宣教の務めを果たしていきたと、決意を新たにしたいと思います。神のみ言葉はいかなるものによっても決して繋がれることはないと信じて。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す全能の力を持っていることを信じます。どうか、あなたのみ言葉によって、暗い世界を明るく照らしてください。深く病み、傷ついている世界をいやしてください。争いのあるところに平和を与えてください。孤独と絶望があるところに愛と希望をお与えください。罪と死と滅びに支配されている人たちに主イエス・キリストにある罪のゆるしと朽ちることのない永遠の命をお与えください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメ

1月30日説教「洗礼者ヨハネとヨハネが証ししたメシア主イエス」

2022年1月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:詩編8編1~10節

    ルカによる福音書7章24~35節

説教題:「洗礼者ヨハネとヨハネが証ししたメシア主イエス」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネと主イエスとの関係について、1章と3章、それに7章18~35節で詳しく語っています。1章によると、ヨハネの両親である祭司ザカリアと妻エリサベトには子どもがなく、二人ともに高齢になっていましたが、神の奇跡によってヨハネが与えられました。また、主イエスの両親であるヨセフとマリアはまだ一緒になってはいませんでしたが、おとめマリアに聖霊がくだり、神の奇跡によって主イエスが誕生しました。ヨハネと主イエスはともに神の奇跡によって誕生した子どもであり、彼らの命と存在の源はすべて神に由来していました。それゆえに、彼らの生涯のすべても神のためにあり、彼らの歩みのすべては神にささげられるように、その誕生の時から定められていたということをルカ福音書はあらかじめ語っています。

 3章によると、洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を授け、神の国の到来が近いことを説教し、「わたしのあとにおいでになる方こそが待ち望まれていたメシア・救い主である。わたしはその方のために道を整える先駆者である」と語りました。

 そして、7章18節以下では、ヘロデ・アンティパスによって投獄され、死刑の判決が迫っていたヨハネが主イエスのもとに弟子を遣わして、「旧約聖書で預言されていた来るべきメシアは確かにあなたなのですか」と問うたのに対して、主イエスはイザヤ書の預言のみ言葉を挙げながら、その預言が今ご自身によって成就しているという事実をヨハネに伝えなさいとお答えになりました。

 きょうの礼拝で朗読された24節以下は、ヨハネの二人の弟子たちが帰ったあとで、主イエスが集まっていた群衆に語られた場面です。【24~27節】。27節は旧約聖書マラキ書3章1節のみ言葉です。ルカ福音書3章では、イザヤ書40章3節以下のみ言葉が引用され、荒れ野に主の道を整え、神の救いのために備えをすることがヨハネの務めだと言われていましたが、ここではマラキ書のみ言葉によって、契約の主である最後の裁き主がおいでになる前に、罪を悔い改めて神に立ち帰るべきことを告げる使者としてのヨハネの務めが強調されています。いずれの場合にも、ヨハネ自身は契約の主ではなく、救いをもたらすメシアでもなく、彼はあとからおいでになるメシア・救い主である主イエスのために道を整え、準備をする先駆者としてのヨハネの務めが語られています。

 主イエスは24、25節で、洗礼者ヨハネについて二つの比喩を用いて語っておられます。「風にそよぐ葦」とは、弱々しく、時代の風に吹き流されてしまう頼りないものを象徴しています。群衆の中にはユダヤ地方の荒れ野に出かけて行ってヨハネの説教を聞き、ヨハネから洗礼を受けた人たちも多くいたに違いありません。その人たちがヨハネの姿に見たのは、「風にそよぐ葦」ではありませんでした。ヨハネの説教は力強く、差し迫った神の怒りから免れることができる人はだれもいない、斧がすでに木の根元に置かれている、だから今すぐに悔い改めて神の福音を信じなさいという、厳しく激しい説教でした。実際に、ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスの不正を責め、この世の権力をも恐れずに立ち向かいました。

 ヨハネはまた「しなやかな服を着て」この世の繫栄とか名誉とかを求めていたのでありませんでした。「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし」(マタイ福音書3章4節)、この世の誉れをすべて捨て去り、ただひたすらに神に仕え、来るべきメシアと近づきつつある神の国を指し示すためにその生涯をささげたのでした。

ルカ福音書は1章と3章ですでに何度もそのことを強調していました。3章15節以下では、当時の人々が「もしかしたら彼がメシアではないか」と考えていたことをヨハネ自身がはっきりと否定して、「わたしのあとにおいでになる方こそがそのメシアである。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」と告白していました。

 そのようにして、来るべきメシアの前に徹底して自らを低くし、貧しくしているヨハネを主イエスは26節で「預言者以上の者である」と言われ、また28節では「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない」とも言われます。これは、人間に対する最高の評価と言えるでしょう。これにはどういう意味でがあるのでしょうか。

 預言者とは、旧約聖書の中で、神がイスラエルの民にお語りになるみ言葉を神に代わって、神の口となって民に語る務めを託された人を言います。旧約聖書にはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの3大預言者とホセア、アモスなどの12小預言者と言われる預言者たちの書があります。彼ら預言者たちは、それぞれの時代に神がイスラエルにお語りになったみ言葉を民に向かって語るとともに、特に、神が終わりの日にイスラエルと全世界の人たちの救いを成就するためにお遣わしになるメシア・キリストの到来を預言し、そのメシアを待ち望むように語ることが彼らの務めでした。

洗礼者ヨハネがそれらの預言者たちの中で最も偉大だと言われているのは、彼が旧約聖書の預言者たちの列の最後に連なり、待ち望まれていたメシア・キリストに最も近い所で、その到来を預言したからにほかなりません。ルカ福音書1章が伝えるところによれば、ヨハネは彼の半年あとにお生まれになった、しかも彼の母エリサベトの親戚関係にあったマリアからお生まれになった主イエスを、直接に彼の口と指で指し示して、来るべきメシアを証ししたのです。彼は自分自身の目で直接にメシア・キリストを見ることをゆるされるほどに間近で、メシア・キリストの到来を預言したのです。預言というよりは、すでに今ここにメシア・キリストが到来している、すでに神の救いのみわざが始まっている、すでに神の国が到来し、神の恵みのご支配が始まっていることを語ったのです。ここにこそ、彼の偉大さがあるのです。旧約聖書の預言者たちのだれもが自分たちの目では見ることができずに、未来に期待するほかなかったメシア・キリストを、ヨハネは彼自身の目で見ているのです。それゆえに、ヨハネは預言者たちの中で最も偉大であり、これまで人間として生まれたすべての人の中で最も偉大であり、幸いであると言われているのです。

したがって、ヨハネの偉大さは彼自身の業績とか能力や性格によるのでは全くありません。彼の偉大さは、彼が証ししているメシア・キリストである主イエスの偉大さによるのです。主イエスが旧約聖書で預言され、待ち望まれていたイスラエルと全人類の救い主であられ、来るべき神の国の王であられ、主イエスによってすべての預言が成就されているからです。ヨハネの偉大さは徹底して主イエスゆえの偉大さなのです。主イエスを証し、主イエスのために仕え、主イエスのために彼の全生涯と命とをささげたことによる偉大さなのです。

次に、28節の後半で続けて主イエスはこう言われます。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりも偉大である」。これはどういう意味でしょうか。これも同じ文脈の中で理解されます。ヨハネが偉大であるのは、彼が証した来るべきメシアである主イエスが偉大なる方だからであり、主イエスと共に到来した神の国、神の恵みのご支配が偉大だからなのですが、それと同じ文脈の中で、実際に今すでに主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、神の恵みのご支配の中に生きることをゆるされている人は、ヨハネよりもはるかに偉大であるということになります。ヨハネがメシア・救い主イエス・キリストのために道を整え、主イエスとともに始まった神の恵みのご支配の入口に立っているゆえに偉大であるのならば、メシア・主イエス・キリストの十字架の福音によって事実罪のゆるしを与えられ、事実今すでに神の国へと招き入れられ、神の恵みのご支配の中で生きることをゆるされているキリスト者、すなわちわたしたちは、それ以上に偉大であり、大きな幸いと祝福のうちに置かれているということになります。

「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とは、実に、わたしたち教会の民に与えられている主イエスの大きな祝福のみ言葉なのです。わたしたちは今、預言の時に生きているのではなく、成就の時に生きています。メシア・救い主を待ち望んでいるのではなく、すでに主イエスがメシア・キリストとしてわたしたちの所においでくださり、わたしたちの救いのためのみわざをすべて成し遂げてくださり、わたしたちの罪をあがなうためにご自身の聖なる汚れなき血を十字架でおささげくださり、わたしたちを罪と死と滅びから解放してくださり、わたしたちを神の国の民としてくださり、神の救いの恵みの中に招き入れていてくださり、神の国での永遠の命の保証をお与えくださっておられる、そのような大きな恵みと祝福の中に置かれている、それゆえに「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われているのです。

「神の国で最も小さな者」というみ言葉のもう一つの意味が29節以下で語られています。それは、神の国は、最も小さな者にこそふさわしいということ、神の国の福音を聞いた信仰者は、自分が最も小さな者であり、神の国の福音の前に自らを無にして、その福音を信じ、受け入れるほかにないことを告白するということです。

主イエスは洗礼者ヨハネの教えを聞き、信じ、洗礼を受けた民衆と、自らの罪を悔い改めず、ヨハネの悔い改めの洗礼を拒んでいた当時のユダヤ教指導者たちとを対比して、31節から一つのたとえをお語りになりました。これは、当時流行していた子どもたちの、いわば「ごっこ遊び」と思われます。子どもたちは笛を吹き、踊りながら、結婚式の祝いに参加してくれる仲間を呼び集めようとします。けれども、だれも集まってくれません。今度は、悲しい歌を歌って、葬式に参列してくれる仲間を呼び集めようとしますが、これにもだれも加わろうとしません。

それと同じように、この時代の指導者たちは神からの呼びかけにだれも応えようとせず、洗礼者ヨハネを「悪霊に取りつかれている者」と言って拒み、主イエスを「徴税人や罪びとの仲間だ」と言って拒み、神の招きのみ声にだれも耳を傾けようとはしない、かたくなで、悔い改めることをしない、傲慢で、自分を誇り、神のみ言葉によって自分が変えられることをよしとしない、そのような時代であると主イエスは言われます。

主イエスはここでわたしたちを神の国での結婚式の盛大な祝いと喜びの席へと招いておられるのです。わたしたちは主イエスによって罪がゆるされ、信仰による神との永遠の交わりの中へと招き入れられています。終わりの日に祝われる盛大な結婚式の喜びと祝福の時がすでに始まっているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人を主の日の礼拝にお招きくださり、喜びと祝福に満ちたあなたとの交わりの中へと招き入れてくださいましたことを心から感謝いたします。

〇願わくは、今悲しみや不安の中にある人たち、恐れや迷いの中にある人たち、重荷や痛みを抱えている人たち、病んでいる人たち、餓え渇いている人たち、彼ら一人一人にあなたが伴ってくださり、恵みと祝福をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月23日説教「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

2022年1月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰

の告白』講解⑨(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ローマの信徒への手紙5章12~21節

説教題:「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴の一つは、簡単信条であるということです。宗教改革以後の信仰告白、信条も同じ意味ですが、それらと比較すると、かなり短くなっています。簡単信条の利点は、礼拝の中でその全文を礼拝者一同が告白でき、また暗唱することもできる点にあります。欠点としては、キリスト教教理の全体を、特にわたしたちの教会の神学的特徴である改革教会の教理を厳密に表現できないということです。この欠点を補うために、日本キリスト教会は信仰問答書の作成や新たな信仰告白の作成をしていくことが求められています。2016年の第66回大会で、『1964年版小信仰問答』が正式に制定されたことは、その第一歩と言えます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』が簡単信条であるいうことは、その短い文章の一字一句の中に、多くの意味が凝縮されて詰め込まれているということでもあります。わたしたちがその告白文を学んでいくにあたっては、その告白のもとになっている聖書のみ言葉を丁寧に学ぶことはもちろん、教会の2千年の歴史の中でその教理がどう理解されてきたか、どのように告白されてきたかということもまた考慮に入れながら学ぶことが大切です。

 きょうは「人類の罪のために十字架にかかり」という箇所を、次回と2回にわたって学ぶことにします。『信仰告白』を冒頭から続けて読むと、神のひとり子であり、まことの神・まことの人であられる主イエス・キリストが人となられたその理由、その目的が、人類の罪のため十字架にかかることあったと、ここで告白されていることが分かります。つまり、主イエスのご生涯はその誕生から十字架に向かっているということ、しかもそれは全人類の罪のための十字架であるということです。

 まことの神であられる方が人となってこの世においでくださったのは、神が人間世界の中で名を挙げ、英雄になるためではありませんでした。人間たちの最高位に君臨して人類を支配するためでも、人類を裁くためでもありませんでした。いずれにしても、神ご自身の誉れを得るためでは全くありませんでした。それは、徹底して人類のためであり、人類の罪のためであり、十字架にかかるためであったのです。わたしたちの主なる神は、このようにして徹底的に人類のために仕えてくださる神であり、人類の罪をご自身に引き受けてくださる神であり、また人類のためにご自身が苦しみと痛みの中で十字架につけられ、死んでくださる神であられるのです。人類に対する神の愛はこれほどまでに深く、また真剣で、文字どおり命をかけた愛であることをわたしたちは知らされます。

 では、そのような神の偉大な愛の対象である人類とはだれのことでしょうか。人類とは、人間の歴史が始まってからそれが終わるまでの、すべての時代のすべての人間、あらゆる人種、国籍、男女、職業、能力、その他どのような違いも関係なく、人として生まれたすべての人間を人類と言います。その人類が神の偉大なる愛の対象なのです。神の愛は時代や空間を超え、人種や国境を越え、人間のあらゆる違いを超えて、全人類に与えられる永遠の愛、無限の愛です。

 人類という言葉は、ここではさしあたって、罪という言葉と結びついています。「人類の罪」と言われています。人類は神の偉大な愛の対象ですが、それに先立って、罪という言葉と結びついているのです。人類の罪ですから、ここで言われている罪は一部の人だけの罪ではなく、人類全体の、すべての人の罪です。ここで、『信仰告白』は全人類が、すべての人間が罪の中にある、罪びとであるということをまず第一に告白しているのです。

 罪という言葉が、この信仰告白の中で初めて出てきました。この後にも何回か出てきます。少し進んだ箇所では、「功績なしに罪を赦され」、そのあとに、「人は罪のうちに死んでいて」、使徒信条の終わりの箇所では、「罪の赦し」、この信仰告白では4回出てきます。短い信仰告白の中に同じ言葉が4回も用いられているということは、罪がわたしたちの信仰理解にとって非常に重要であることを意味しています。キリスト教信仰は罪の正しい理解と認識から始まると言ってよいでしょう。

 では、罪とは何でしょうか? 聖書が言う罪とは、第一には、それが神に対しての罪だということ、神との関係における罪、神のみ前での罪ということです。第二には、その基準はなにかと言えば、それは神の律法、聖書に記されている神のみ言葉であるということです。宗教改革の時代に制定された『ハイデルベルク信仰問答』はその第3問で、「どこからあなたは自分の悲惨(つまり罪)を知るのですか」という問いに、「神の律法です」と答えています。そして、第5問では、わたしたち人間はだれも神の律法を守ることができない、だれもが神のみ言葉に聞き従うことができない罪びとであると告白されています。

 『ハイデルベルク信仰問答』は、これが聖書から導き出される人間の罪の現実であると教えているのです。神の律法、神のいましめ、神のみ言葉に聞き従うことができない、神のみ心に背いている。生まれながらの人間はみなそのようにして罪に傾いている。人間の全存在が罪と悪に傾いているために、人間は本当の意味で神を愛することも人間を愛することもできない、それが人間の罪の現実なのだと聖書は言います。

 実際にわたしたちが聖書を読むと、聖書は最初の創世記から最後のヨハネの黙示録に至るまで、その全ページで人間の罪について語っていることに気づかされます。その代表例を読んでみましょう。詩編14編1~3節にはこう書かれています。「神を知らぬ者は心に言う。神などないと。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも、背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。使徒パウロはこの詩編のみ言葉を引用しながら、ローマの信徒への手紙3章20節でこのように結論づけています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と。

 わたしたち人間はだれもみな、神のみ前に立つときに、神の律法の要求の前に立つときに、その一つをも守ることができない罪びとであるということを告白しなければなりません。たとえ、この世の法律は一つも破ったことがないと主張できる人であっても、あるいは、大きな犯罪を犯した極悪人と呼ばれる人であっても、あるいはまた、まじめで誠実でだれからも好かれる好人物であっても、性格がゆがんでおり、だれともうまくやっていけず、失敗ばかりするような人間失格と言われる人であっても、すべての人はみな同様に、神のみ前では同じ罪びとであり、神の律法に背いているということにおいては、大差はない。わたしたちはみな神のみ前では罪びととして同じ場所に立っているのです。

 しかしまた、聖書は語ります。人間の罪についてと同様に、否、それよりも

はるかに力を込めて、創世記からヨハネの黙示録に至るまでの全ページで、神の偉大なる愛と罪のゆるしについて語っています。人間はそのような罪びととして、あの神の偉大なる愛の対象なのであり、そのような罪びとのために神のみ子イエス・キリストは人となられ、十字架への道を進まれたのだということを聖書は語るのです。

 「人類の罪のため」という信仰告白には二つの意味が含まれています。一つは、人類の罪が原因で主イエスは十字架につけられたという意味です。つまり、人類の罪を、罪なき神のみ子であられる主イエス・キリストが、人類に代わってそのすべての罪を引き受けられ、担われた。そのようにして、人類が罪のゆえに受けるべき神の裁きを人となられた神のみ子が人類に代わって引き受けられたという意味です。

 第二に、人類の罪のゆるしのためにという意味も、ここではすでに暗示されています。罪なき神のみ子が人類に代わって十字架への道を進まれたのは、人類の罪をゆるすためにほかなりません。この信仰告白はこの後で、その罪のゆるしのことが具体的に告白されていきます。

 「人類の罪のため」という告白について、もう一つのことに触れておきたいと思います。それは、人類の罪とわたしの罪との関係です。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章の前半で、わたしたち不信人な罪びとたちのために十字架で死んでくださった主キリストに現わされた神の偉大なる愛を語った後で、12節でこのように語ります。【12節】(280ページ)。

 「一人の人」とは、最初に神によって創造された人間アダムのことです。このアダムが最初に罪を犯しました。神に禁じられていた善悪を知る木の実を食べ、神のいましめに背いて罪を犯したために、アダムは神の裁きを受けてエデンの園を追い出され、死すべき者となりました。キリスト教教理ではこれを「原罪」と言います。アダム以後のすべての人間、人類は皆この原罪を受け継ぎ、死すべき存在となりました。使徒パウロはそのことを12節前半で語った後、後半で「すべての人が罪を犯したからです」と付け加えています。つまり、アダム以後のすべての人もまたアダムと同じように罪を犯している、だから死すべき者となっているという、すべての人間の罪の現実を語るのです。

アダムの罪と死、原罪は、いわば遺伝のように受け継がれていくというのではありません。人間の原罪はアダムにだけ責任があるのではありません。アダム以後のすべての人間もまた、そしてわたしもまた、生まれながらに罪に傾いており、神と人間を憎むことに傾いている罪びとである、それゆえにすべての人が、そしてまたわたしも、死ぬ者となっているのだとパウロは語っています。

 したがって、「人類の罪のため」という「人類」の中には、わたしもまた含まれているのは言うまでもありません。それだけでなく、わたしたちはパウロがテモテへの手紙で書いているように、「わたしはその罪びとの頭である」と告白しなければなりません。そのように自らの罪を告白する時に、わたしたちは「人類の罪のため十字架にかかって」くださった主イエス・キリストの救いの恵みが、このわたしにも豊かに与えられていることをも告白することができるのです。

 使徒パウロがローマ書5章の後半で繰り返して語っているとおりです。【17~19節】。そして【21節】。

 神は人類を、わたしたちひとり一人を、罪と死の支配とその法則から解放し、救い出すために、そして神の救いの恵みと命の支配とその法則のもとに生きる者とするために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストをこの世にお遣わしくださり、み子の十字架の死によってわたしたちを罪からあがない、救ってくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが御独り子をわたしたちの罪の贖いのために十字架に引き渡されるほどの大きな愛によってわたしたち一人一人を愛してくださいますことを、心から感謝いたします。あなたに愛され、罪ゆるされている者として、喜んであなたと隣人とに仕える者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月16日説教「アブラハムのイサク奉献」

2022年1月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:創世記22章1~19節

    ヨハネによる福音書3章16~21せつ

説教題:「アブラハムのイサク奉献」

 創世記22章に書かれているアブラハムのイサク奉献の個所を、前回に続いて読んでいきます。きょうは4節から読みます。【4節】。その場所とは、2節で神に行けと命じられた場所のことです。【2節】。モリヤの地がどこであるのか、はっきりとはわかっていません。旧約聖書の中ではモリヤという地名はもう1回だけ出てきます。歴代誌下3章1節です。そこにはこのように書かれています。「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた」。ここでは、エルサレムの町がある小高い丘がモリヤ山と呼ばれていますので、何人かの研究者はモリヤとはエルサレムのことだと推測しています。アブラハムが住んでいた場所が21章33節ではベエル・シェバとあり、また22章19節ではベエル・シェバに戻ったとありますから、ベエル・シェバからエルサレムまでは70キロメートル余りの道のりを三日かかったという4節のみ言葉とも符合します。アブラハムがイサクを燔祭として、すなわち焼き尽くすささげものとしてささげた場所がモリヤ・エルサレムであったということについては、14節の個所でもう一度触れることにします。

 その場所が見えた時、アブラハムは同行した二人の若者に、「お前たちはここで待っていなさい、わたしとイサクとはあの場所で神を礼拝して、また戻ってきます」と命じました。このアブラハムの言葉から、彼はもともと自分の子イサクを燔祭の犠牲として神にささげる気はなかったのだとか、あるいは彼がこの時点ですでに神がイサクの代わりになる動物を備えてくださるということを知っていたのだと理解することはできません。また、そう理解すべきではありません。アブラハムが最初から、10節で「手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」その瞬間まで、ずっと「イサクを燔祭としてささげよ」との神の命令に忠実に従っていたということは確かです。「恐れとおののき」とをもって、しかし、黙々と、わが子を神にささげるために、神が定めたもうた厳しく困難な信仰と服従の道を歩み続けていたということは否定できません。

 そのことは6節以下でも変わりません。【6節】。わたしたちはこの場面をどのように説明したらよいでしょうか。息子イサクは自分自身がその上で火に焼かれるはずの薪を背中に背負っています。父親アブラハムは自らの手で息子イサクの首を切り裂くはずの刃物と薪を燃やす火とを手に持っています。そして、二人は一緒に歩いていきます。それが、主なる神への服従の道だとしても、だれも、だれ一人として、この場面を直視できる者はいないのでないでしょうか。しかしそうであるのに、後の時代のすべて信じる者たちの信仰の父と呼ばれるアブラハムは、黙々と服従しているのを、わたしたちは驚きをもって見るのです。

 【7~8節】。ここで、父と子との会話が初めて書かれています。これまでの三日間の旅路の間、二人がどのような会話を交わしたのか、わたしたちには分かりません。もしかしたら、全く会話がなかったのかもしれません。少なくとも、楽しい会話を交わしながらの旅路ではなかったでしょうし、どんな会話もこの場面の父と子の会話としてふさわしくはないに違いありません。

 ここにきて、イサクは気づきました。神を礼拝し、燔祭の犠牲をささげるために父と一緒に来たのに、父は犠牲としてささげる動物を用意していなかったということに。父アブラハム自身はその理由を知っていましたが、彼はイサクに「その子羊はきっと神が備えてくださる」と答えます。このアブラハムの答えも、彼がそれをあらかじめ予測していたとか、期待していたと考えることはできませんし、そう考えるべきではないことは、はっきりしています。9~10節にこのように書かれているからです。【9~10節】。その瞬間まで、アブラハムは神の命令に忠実に従っていたことが、ここからはっきりと分かります。

 アブラハムのこの服従の道がいかに厳しいものであり、深刻で、過酷で、「恐れとおののき」に満ちたものであったかを、わたしたちは改めて思わざるを得ません。「あなたに子どもを授ける。その子の子孫は星の数ほどに増え、あなたに与えられた祝福を受け継ぎ、その祝福は永遠に続くであろう」と言われた神の約束のみ言葉を信じて、行き先を知らずして旅立ったアブラハム、その約束が25年後に、彼が100歳になってからようやくにして成就し、彼に与えられた愛する独り子イサク。そのイサクを神が燔祭の犠牲としてささげよとお命じになる。神はアブラハムから、彼の命であり、彼のすべてでもあるイサクを取りあげようとしておられる。その子によって神の約束が受け継がれていくはずのイサクを、神は取り去ろうとしておられる。神のみ心はいったいどこにあるのだろうか。これは、何とも過酷で、しかも理不尽な神の試練であることか。アブラハムはこの大きな試練に耐えることができるだろうか。

 けれども、アブラハムは徹底して神の命令に服従しています。「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとする」その瞬間まで。

 6節の終わりと8節の終わりに、「二人は一緒に歩いて行った」と、同じ言葉が繰り返されています。この繰り返しは意図的と考えられます。ここにどんな意図を読み取るべきでしょうか。父と子、アブラハムとイサクの二人は一緒にモリヤの山に登っています。父が子を神に犠牲としてささげるために。それは表面的に見れば、父と子の関係の終わり、断絶に向かっている道であることはだれの目にも明らかです。けれども、聖書は強調して言います。「二人は一緒に歩いて行った」と。父と子が、神の命令に服従しているのならば、その二人の関係は決して引き裂かれることはない、分かたれることはない、神は二人を固く結びつけておられ、二人は神がお定めになった救いの道を一緒に歩いているのだということを語っているように思われます。

 わたしたちはここで、主イエスが福音書の中で言われたみ言葉を思い起こします。マルコ福音書10章29~30節で主イエスはこのように言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と。主イエス・キリストの福音のためにわが命とわがすべてのものを神におささげする時、その人は最も祝福された人となり、最も祝福された神の家族となり、決して引き裂かれることがない永遠の交わりのうちに生きる神の国の民とされるのです。

 【11~13節】。1節で、「アブラハムよ」と呼びかけられ、彼にイサクをささげなさいとお命じになられた神は、11節でも、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけられます。そして、「その子に手くだすな」とお命じになります。イサクは今や完全に神にささげられたものとなったからです。アブラハムはイサクをもう自分の自由にできません。イサクはもはやアブラハムのものではなく、神にささげられた、神のものだからです。そして、イサクをご自分のものとされた神は、それゆえに、イサクの代わりに一匹の雄羊をアブラハムのために備えられたのです。

 【14節】。アブラハムがイサクをささげた山がモリヤという名前であったと2節に書かれていました。また、そのモリヤが歴代誌下3章1節からエルサレムと推測されることをお話ししましたが、ここからいくつかのことを教えられます。研究者が推測している一つのことは、ここではイスラエルがダビデ、ソロモン王時代になって、エルサレムの神殿でささげられるようになる動物犠牲の礼拝形式が暗示されているということです。礼拝についての規則はレビ記などで具体的に定められることのなるのですが、神はイスラエルの罪をあがなうために、人間の命を要求されることをなさらず、動物を代わりにささげることをお命じになります。神がここでイサクの代わりに雄羊を備えられたように、エルサレム神殿での礼拝においては、人間の罪の贖いのために、家畜を備えてくださり、その家畜の命をささげることによって、神はそれを人間の命の身代わりと見なしてくださり、人間の罪をおゆるしになるという、イスラエルの礼拝の原型がここに示されていると考えられます。

 わたしたちはさらに、ここにはすべての人間の罪をあがなうために神が備えてくださった神の御独り子、主イエス・キリストの十字架が預言されていることを読み取ることができます。15節以下を読んでみましょう。【15~18節】。アブラハムがその独り子イサクをモリヤの山で神に燔祭の犠牲としてささげたその同じエルサレムで、神は全人類のすべての人間の罪を贖い、罪と死と滅びから救い出すために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストを十字架に犠牲としておささげくださったのです。

主イエスは、神が世の罪を取り除くために神ご自身が備えられた神の子羊として、ご自身の十字架を背負い,ほふり場にひかれていく子羊のように、黙々として、ゴルゴタの丘を登って行かれました。手に刃物を持ったアブラハムと背に薪を背負ったイサクがモリヤの山に登っていく姿と共通しています。けれども、決定的に違うことがあります。主イエスの場合には、最後の瞬間に「待った」がかけられませんでした。多くのユダヤ人が、「神の子よ、十字架から降りて自分自身を救ってみよ。そうしたら信じよう」と叫んだけれども、主イエスは「父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われ、十字架上で息を引き取られました。主イエスは死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって、ご自身の汚れのない、聖なる血を、わたしたちの罪の贖いのためにおささげくださったのです。ヨハネ福音書3章16節にはこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

最後に、神を恐れるという信仰について少し触れておきたいと思います。12節で神はこう言われました。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。神を恐れるという信仰は、旧約聖書ではもちろんそうですが、新約聖書でも、わたしたちの信仰の基本的な特徴を言い表しています。神を恐れるとは、人間の神に対する何らかの感情とか精神とか、心の持ち方とかを言うのではありません。恐怖心とか畏怖という感情のことではありません。イサクを神にささげたアブラハムの信仰に見ることができるように、徹底した神への服従のことです。自分にとって最も大切でかけがえのないもの、自分の命に等しいものをも、惜しむことなく神にささげるほどに、徹底して神のみ言葉に服従する信仰、それが神を恐れることです。

ご自身の独り子をも惜しまれずに十字架におささげくださった神の大きな愛によって、わたしたちも神を畏れる信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちにお与えくださった大きな愛からわたしたちを引き離すものは何もありません。わたしたちが何ものをも恐れることなく、ただあなたのみを恐れて、あなたのみ言葉に聞き従う者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月9日説教「人間に従うのではなく、神に従うべき」

2022年1月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書2章12~22節

    使徒言行録5章27~42節

説教題:「人間に従うのではなく、神に従うべき」

 初代エルサレム教会は誕生してすぐに、ユダヤ人からの迫害を受けました。最初の迫害は使徒言行録4章に書かれていました。この時には、使徒たちの代表者であったペトロとヨハネが逮捕、投獄されました。2回目は5章17節以下、この時には、18節に「使徒たちを捕えて」とありますので、12人の使徒たち全員が捕らえられ、大祭司の官邸の地下にあった公の牢に投獄されました。そして、ユダヤ最高議会、サンヘドリンと言われる大法廷で全員裁判を受けることになりました。ユダヤ人、またはユダヤ教からの迫害がより激しさを増しているのが分かります。

 わたしたちはここであらかじめ次のことを確認しておきましょう。エルサレム教会は迫害が繰り返され、しかもその激しさが増していくことによって、教会の中に恐れや不安が大きくなり、教会から去って行く信者が増えたり、使徒たちも宣教の力が弱くなって、教会の中に閉じこもるようになったのかというと、決してそうではなかったということです。教会は幾度も迫害を経験することによって、より一層、教会の頭なる主イエス・キリストに堅く結びつき、それにより、より力と勇気とを増し加えて、大胆に主キリストの福音を語り、この世の権力をも恐れずに教会の外に出て行ったということ、そのことをわたしたちは使徒言行録から繰り返し聞くのです。また、その後の教会も同様に、神のみ言葉はどのようなこの世の鎖によっても決してつながれないということを証しし続けてきたということを、わたしたちは知らされています。

27節からは、使徒たちの裁判について書かれています。ユダヤ最高法院の議長であり裁判長である大祭司が尋問します。【28節】。大祭司は主イエスのお名前を口に出すことを注意深く避けて、「あの名」とか「あの男」と言っています。4章17節の1回目の裁判でもそうでした。名前には特別な力が含まれており、名前を口に出すと、その名前の力が及ぶと、当時の人たちは考えていました。大祭司も他のユダヤ人指導者たちも、主イエスのお名前を恐れていました。実際に、主イエスのお名前によって驚くべき奇跡やしるしが人々の間で行われている様子を彼らは見ていたからです。彼らが必死になってこの新しい教えを封じ込めようとしても、主イエスのみ名によって語られる福音が、エルサレムだけでなくパレスチナ全域へ、さらにはローマ帝国全体へと拡大されていくのを、彼らはこれからも目撃するでしょう。迫害者たちは、そのような偉大な力を持った主イエスのお名前をうっかり口にして、その力が自分自身に及ぶことを恐れているのです。

 大祭司はまた主イエスを十字架につけて血を流した責任を自分たちが問われていると感じていることを、図らずも告白しています。確かに、彼らにはその責任がありました。彼らはこの同じ最高法院で主イエスを裁判にかけ、有罪とし、最終的にはローマの法律による十字架刑に引き渡したのでした。確かに、罪なき神のみ子を偽りの裁判によって裁き、イスラエルの救いのために神から遣わされたメシア・キリストを自分たちの手で拒絶し、投げ捨ててしまったという、大きな罪の責任を彼らは問われているのです。彼ら自身はその責任の意味を正しく理解していなかったとしても、彼らがその行為を行ったという事実からは逃れることはできません。

 そのことは、実際に主イエスを十字架につけたユダヤ人だけが問われている責任ではなく、その場にはいなかった、その時代には生きていなかった、すべての人間もまた問われている責任だと言ってよいでしょう。だれであっても、主イエスの十字架の福音を聞く人は、主イエスの血を流した責任がこの自分にもあるのだということに気づかされるのです。罪なき神のみ子が、このわたしの罪のために苦難の道を歩まれ、このわたしの罪をあがなうために十字架で血を流してくださったのだという福音を聞くのです。

 大祭司の尋問に対して使徒たちはこのように答えます。【29~32節】。この世の権力者によって脅かされても、命の危険が迫っていても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」、これが迫害を受けている使徒たちの答えです。この答えは最初の迫害の時にペトロとヨハネが裁判の席で答えた内容とほぼ一致しています。もう一度その個所を読んでみましょう。【4章19~20節】。誕生して間もないエルサレム教会が2度にわたる迫害の中で問われたことは、このことでした。教会はこの世の人間の言葉や命令に従うべきなのか、それとも、神のみ言葉に聞き従うのか―この問いに対して、教会は決然とした態度をもって、はっきりと、自分たちは人間に聞き従うのではなく、神に聞き従う群れなのだということを告白したのです。主イエス・キリストを救い主と信じる者たちの群れである教会は、こののちにも、2千年近い歩みの中でたびたび経験した迫害で、繰り返してこの同じ問いの前に立たされ、いついかなる時にも、その答えは、「人間に従うのではなく、神に従うべきである」と告白することによって、生き続けてきたのでした。時に、苦しい拷問や殉教の血を伴いながら、教会はそのように告白し続けてきたのでした。そのようにしてのみ、教会はこれからも、どのような困難の中でも、生き続けることができるでしょう。

 30節で、使徒たちは、確かにあなたがたユダヤ人指導者には主イエスを十字架につけて殺したことの責任があると明言しています。この世の権力者たちの反撃を恐れて、あなたがたに罪の責任はないとは言いません。あなたがた指導者たちに、すべてのユダヤ人に、それだけでなく、すべての時代のすべての人に、主イエスを十字架につけた罪の責任が確かにあるのです。ペトロたちはそれを否定しません。

しかしながら、彼らは続けます。「神は、あなたがたが木にかけて殺した主イエスを復活させられたのだ」と。それは、イスラエルを、また主イエスの十字架の福音を聞いたすべての人を悔い改めさせ、その罪をゆるすためであると。神は主イエスの十字架の福音を聞くすべての人を罪のゆるしと救いへと招いておられるのです。神は人間の罪を最終的には人間自身に問うことをされませんでした。そうではなく、罪なきご自身のみ子にすべての人間たちの罪を負わせたもうたのです。そうすることによって、すべての人の罪をゆるしたもうたのです。主イエスの十字架の福音を聞かされた人はみな、この救いへと招かれているのです。

ここでは、裁判にかけられ裁かれるべき使徒たちが、裁こうとしているユダヤ人指導者たちに罪のゆるしを語っています。裁く人と裁かれる人の立場が逆転しているだけでなく、人間同士の裁きそのものをはるかに超えて、この世の裁判の席そのものが、神の救いの恵みによって満たされているということをわたしたちは見るのです。使徒たちが主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立つとき、このような驚くべき救いの出来事が起こるのです。

けれども、ユダヤ最高法院の議員たちはその救いへの招きを拒絶します。33節以下を読みましょう。【33~35節】。救いへと招かれたユダヤ最高法院の議員たちはそれを拒否しました。主イエスの救いを拒否するということは彼らにとっては使徒たちの存在をも拒否することになります。彼らは使徒たちに怒りを爆発させ、彼らを死刑にしようとします。議場全体が騒然としました。ところがその時、一人の議員が立ち上がりました。彼の名はガマリエルです。彼の冷静で理性的な判断によって、議場は落ち着きを取り戻すことになりました。もし彼がここで立ち上がり、議場を落ち着かせていなかったなら、使徒たちは死刑を免れなかったのかもしれません。神は使徒たちを危機から救い出すために、必要な時に、必要な人を立たせてくださいました。

ガマリエルの名は使徒言行録でもう一度出てきます。22章3節です。この個所で、使徒パウロは自分の回心のことを回想しているのですが、そこで彼はこう言っています。【3節】(258ページ)。ガマリエルがのちにキリスト教信者になったかどうかははっきりしませんが、使徒パウロの先生として、またここでは初代教会の使徒たちを死刑の判決から回避させた指導者として、キリスト教会と深くかかわっていたということは、神の隠れたご配慮を思わざるを得ません。

ガマリエルはユダヤ教の指導者として神を恐れる敬虔な信仰を持っていました。神が歴史の主であり、神が歴史を通してみ心を行われることを信じていました。彼は36節から過去に起こった二つのメシア運動について触れています。メシア運動とは、長く苦難の歴史を歩んできたイスラエルの民に、神がまことの預言者であるメシア・救い主を遣わしてくださるという当時の民衆の期待に乗じて、「我こそはイスラエルを救うメシアである」と名のって、民衆を扇動する運動のことです。テウダとガリラヤのユダがその運動の首謀者でした。しかし、この二つの運動は神の救いのご計画ではなく、人間が自分の名を挙げるための運動であったために、おのずと滅びの道をたどることになったと、ガマリエルは結論づけます。

そこで彼は、結論としてこのように提案します。【38~39節】。ガマリエルが使徒たちの教え、主キリストの福音を正しく理解していたかどうかは不明ですが、彼は主なる神を恐れ、神がイスラエルの救いのために今もみわざをなしてくださるであろうと信じていたことがここから分かります。

ユダヤ最高法院はこのガマリエルの提案を受け入れ、使徒たちを死刑にすることはせず、むち打ちの刑にしたのち、釈放することにしました。最初の裁判での判決も、4章18節に書かれていたように、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命じた」のと同じように、今回もまた、「イエスの名によって話してはならない」と命じました。

けれども、今回もまた、使徒たちはユダヤ最高法院の命令には聞き従いませんでした。【41~42節】。釈放された使徒たちは、より一層大胆に、勇気をもって、力を込めて、大きな喜びをもって、主イエス・キリストの福音を語り続けました。「人間の言葉や命令に従うのではなく、ただ主なる神のみ言葉にのみ聞き従う」。これが、迫害の中で教会が繰り返して確認した基本姿勢であったのです。

ここではさらに驚くべきことが語られています。「主イエスのみ名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。使徒たちは、迫害され、苦しめられ、辱めを受けることを決して恐れませんでした。それを避けようとはしませんでした。いや、むしろ、それを喜びました。なぜなら、それによって使徒たちは、わたしたちすべての人のために苦難の道を進まれ、十字架で死なれた主イエス・キリストと同じ道を進むことになるからです。主イエスが山上の説教の中で教えられたみ言葉が、信じ、従う人たちによって成就するからです。そのみ言葉を読みましょう。【マタイ福音書5章11~12節】(6ページ)。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたのみ言葉に聞き従うわたしたちを祝福してください。わたしたちの信仰の歩みが、どんなに困難であっても、常にあなたが伴っていてくださることを信じ続けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月2日説教「来たるべきメシア主イエス」

2022年1月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書35章1~10節

    ルカによる福音書7章18~23節

説教題:「来るべきメシア主イエス」

 ルカによる福音書は主イエスと洗礼者ヨハネとの関係について、1章と3章で詳しく書いています。3章によると、洗礼者ヨハネは来るべきメシアのために道を整える先駆者として、ユダヤの荒れ野で悔い改めの洗礼を授け、近づきつつある神の国、神のご支配に備えなさいと説教しました。また、1章によると、主イエスの母マリアとヨハネの母エリサベトは親戚関係にありました。エリサベトがヨハネを身ごもってから6か月目に、主イエスを身ごもり始めたばかりのマリアと出会ったことが39節以下に描かれていますが、その時に、二人の母の胎内にいた主イエスとヨハネとが出会い、エリサベトの胎内にいたヨハネがマリアの胎内にいた来るべきメシアである主イエスと出会って、エリサベトのおなかの中で喜びおどったと書かれていました。いわば、これが主イエスと洗礼者ヨハネの最初の出会いでした。

また、ルカ福音書でははっきりとは書かれていませんが、マタイとマルコ福音書では、主イエスもまたヨハネから洗礼をお受けになりました。その際に、ヨハネは神から託された自分の使命は来るべきメシア・主キリストのために道を整える先駆者としての務めであり、自分はメシアではなく、自分のあとにおいでになる方こそがメシア・救い主であると証ししました。その後、ヨハネはガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、獄に入れられ、やがて処刑されることになります。

きょうの礼拝で朗読された7章18節以下は、ヨハネが投獄されている間のことであろうと推測されます。【18~20節】を読みましょう。ヨハネが彼の二人の弟子を呼んで主イエスに問わせた言葉、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」、これが間接話法と直接話法で2回繰り返されています。これは非常に重要な問いです。それは、獄中にあった洗礼者ヨハネにとって重要な問いであるだけでなく、当時のユダヤ人にとっても、世界全体にとっても、そして今日の世界全体のすべての人にとって、またわたしたち教会の民にとって、わたし自身にとって、この問いは非常に重要であり、また真剣な問いであり、わたしの全存在とわたしの命がかかっている問いであると言ってよいでしょう。

事実、わたしたちはこの問いに対して、「主イエスよ、あなたこそが来るべき方であり、待ち望まれていた全世界の唯一の救い主であるとわたしは信じます。」と、わたしの全存在とわたしの命とをかけて告白し、信じているのです。洗礼者ヨハネのこの問いは、主イエスご自身の確かなお答えを引き出すとともに、またわたしたちの信仰告白を引き出すのです。わたしたちはこの新しい一年も、「主イエスよ、あなたこそが来るべきメシアであり、全世界のすべての人が待ち望むべき唯一の救い主です。わたしたちはあなた以外に、だれをも、何をも、待つ必要はありません。あなたがわたしたちのすべてを満たしてくださるからです」。この信仰告白を固く守りつつ、信仰の道を歩み続けるのです。

「来るべき方」とは、当時のイスラエルで待ち望まれていたメシア・油注がれた者を指していると考えられます。主イエスの時代にはイスラエルを救うメシアの到来を期待する信仰が強くあったということが新約聖書から知ることができます。「我こそはそのメシアなり」と名のり出て民衆を扇動し、騒ぎを引き起こす指導者たちもいたようです。

メシアとはヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王・祭司・預言者がその職に就く時に頭からオリブ油を注がれるという儀式を行いました。イスラエルは紀元前千年代のダビデ王の時代から多く国々からの攻撃を受け、紀元前587年にはついに南王国ユダがバビロン帝国によって滅ぼされ、ダビデ王朝は絶滅しました。その後も、ギリシャ、ローマからの宗教的迫害を受け、長く苦難の歴史を重ねるにつれて、終わりの日に神はイスラエルを最終的に解放するために、まことの王であり祭司であり預言者である、「油注がれた者」メシアを遣わしてくださるという、メシア待望の信仰が強くなっていったと考えられています。

ところで、洗礼者ヨハネが獄中から弟子を遣わして、「来るべき方、すなわち待ち望まれていたメシアはあなたですか」と主イエスに問いかけたことの背景には何があったのでしょうか。ヨハネは主イエスが来るべきメシアであることを疑っていたのでしょうか。それとも、そう信じていたことを改めて主イエスご自身に確認したいと願ったのでしょうか。その点については、わたしたちは推測することしかできませんが、この個所からいくつかのことを読み取ることができるように思います。

ルカ福音書1章や3章に書かれていたことによれば、ヨハネは半年後に誕生された主イエスを神がお遣わしになったメシア・救い主と信じており、彼自身はその主イエスのために道を整える先駆者であるということを最初から意識していたことは確かです。来るべきメシアを指し示し、その方のために仕えることが彼の使命でした。その使命を果たす務めの中で、彼はヘロデ・アンティパスによって捕らえられたのでした。やがて処刑されることを彼は覚悟していたと思われます。

そのようなヨハネにとって、「来るべき方はあなたか、それともほかのだれかを待つべきか」という問いは、どのような意味を持つのでしょうか。ヨハネは、そのために彼がこれまで生きてきたこと、そのために彼が間もなく死ぬこと、その彼の唯一最大の生きる目的、死ぬ目的が、主イエスご自身にあるのだということを、そしてそれが正しかったのだということを、ここで確かに知らされるのです。ヨハネの全生涯はまさに来るべき方、メシア・キリストである主イエスのためにあるのです。彼の死もまた彼が待ち望んでいた救い主・主イエスのためにあるのです。ヨハネは死の直前に、消えかかったわずかな灯によって、その小さな指によって、来るべきまことの光なる主イエスを指し示そうとしているのです。彼の生と死によって、来るべき主イエスを証しすること、これこそが先駆者ヨハネが神から託された務めだったのです。そして、彼は今その最後の務めを果たそうとしているのです。

もう一つのことを考えてみましょう。ヨハネがユダの荒れ野で神の国が近いことを説教し、また主イエスがガリラヤ地方で「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と説教してから、ある程度の期間が経過し、多くの人がヨハネから洗礼を受け、また主イエスの説教を聞いて心を揺り動かされる民衆も多くいるのに、未だにイスラエル民族の解放の時は来ていない、国の現実も人々の現実も大きな変化は見られない、メシアの到来に期待していた神の最後の裁きは未だ行われていない、神の国は本当に到来したのか、主イエスは本当に神の国を来たらせるメシア・キリスト・救い主なのか? そのような疑問に対して、ヨハネは今確かな答えを主イエスから受け取るのです。

では、その主イエスのお答えを読んでみましょう。【21~22節】。獄の中で自らの死を間近にしているヨハネに対して、主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。ヨハネは来るべき方、メシアである主イエスのために仕え、主イエスを指し示すことが神から託された務めです。その務めを果たすことによってこそ、彼のすべての歩みは幸いに満ちた生涯になるのです。たとえ彼が間もなくこの世の権力者によって処刑されるとしても、ヨハネ自身にはやり残したことが多くあるように思われたとしても、彼がその短い生涯によって、また彼の死によって、来るべき方、メシア・救い主・主イエスを指し示したのであれば、彼の生涯は神によって満たされた、幸いな生涯となるのです。ヨハネの生涯が幸いに満ちた生涯となるために、そしてまた彼の死も神に祝福された死となるために、ヨハネは今主イエスのお答えをぜひとも聞かなければならないのです。

主イエスは、「行って、あなたがたが見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と二人の使者に命じます。主イエスは先駆者ヨハネの務めが決して無駄には終わらないことをご自身のみわざによって保証しておられます。主イエスが福音宣教の初めの数カ月、あるいは数年にガリラヤ地方でなされた一つ一つの救いのみわざが、主イエスが来るべきメシア・救い主であることの確かなしるしである、それをあなた方の目で今現実に見ていると主イエスは言われます。

22節に挙げられている主イエスによる病気のいやしや奇跡、救いのみわざが、そのすべてがこれまでのルカ福音書の中に語られているわけではありませんが、すぐ前の1節以下に書かれていた、死にかけていた百人隊長の部下が主イエスのお言葉によって、いわば遠隔治療によっていやされた奇跡と、11節以下のナインのやもめの一人息子をみ言葉によって生き返らせた奇跡もまたこれらのしるしの中に含まれることは言うまでもありません。

ルカ福音書がここで挙げているしるしの数々は、旧約聖書イザヤ書の中で、終わりの日、終末の時に、神の国が完成し、救いが完成する時に見られるしるしとして繰り返した語っている内容と一致しています。その2か所を読んでみましょう。【イザヤ書35章5~6節】(1116ページ)。【61章1節】(1162ページ)。イザヤが預言した神の国到来のしるしが主イエスによって確かに成就されているのをわたしたちは知らされます。

けれども、主イエスの時代に人々がメシアに期待していたことは、このイザヤの預言とは必ずしも一致してはいなかったと言わなければなりません。人々は来るべきメシアが到来し、神のご支配が始まれば、この世の悪しき権力は神の裁きを受けてすべて滅び、ローマ帝国は倒され、イスラエルはその支配から解放され、エルサレムが全世界の中心となって繫栄するであろうと考えていました。

しかし、主イエスがメシア到来と神の国の始まりのしるしとしてここで挙げている内容は一見してごく小さな、目立たないしるしのように思われます。だれの目にもはっきりと認識できるような世界規模の変化が起こっているというのではありません。パレスチナの一角で、何人かの病める人たちがいやされ、何人かの死んだ人たちが生き返らされ、何人かの貧しい人たちが神の国の福音を聞かされているという、小さな、目立たないしるしであるように思われるかもしれません。

しかし、この中に、すでに確かな神のご支配のしるしがあるのだと主イエスは言われるのです。神が愛と恵みをもって病める人や悩める人、重荷を負う人を顧みてくださり、救いのみ言葉を彼らにお語りくださることによって、そこにすでに神の救いの恵みが差し出されている。それによって、この世の悪しき力や富や権力を誇る者たちの滅びが宣言されている。ここにすでに、主イエスの十字架と復活の福音の勝利があり、その福音を信じる信仰者たちに約束されている救いと永遠の命がある。これが、主イエスのお答えなのです。この主イエスのお答えを聞きつつ、わたしたちはこの一年を歩み続けていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとはとこしえからとこしえまで変わることなく、尽きることもありません。あなたの永遠なる救いのご計画がこの年もみ心にかなって前進しますように。全世界において、あなたのみ名が崇められ、あなたのみ国が来ますように。

〇この教会と集められているわたしたち一人一人のこの一年の信仰の歩みの上に、あなたのお導きがありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月26日説教「アブラハムのイサク奉献」

2021年12月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記22章1~19節

    ローマの信徒への手紙8章31~39節

説教題:「アブラハムのイサク奉献」

 創世記22章には、アブラハムのイサク奉献のことが書かれています。神はアブラハムに神の約束の子であり、彼の独り子であるイサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさいとお命じになります。アブラハムは神の命令に黙々と従います。ここに描かれている内容は、非常に深刻であり、衝撃的であり、また感動的でもあり、しかも信仰的、神学的に大きな課題と問題点を多く含んでいます。

 デンマークの哲学者キェルケゴールは『恐れとおののき』という書物で、愛するひとり子イサクを神に燔祭としてささげる父アブラハムの信仰の試練と戦いのことを詳しく論じています。古代から、多くの画家たちがこの場面をテーマにして感動的な絵を描いています。わたしたちキリスト者はここから、ご自身の愛する独り子主イエス・キリストをさえも十字架に犠牲としておささげくださるほどにわたしたち罪びとを愛された神の偉大な愛を読み取ります。それらのさまざまな課題に思いを馳せながら、この個所を2回に分けて読んでいくことにしましょう。

 1、2節を読みましょう。【1~2節】。1節の冒頭に、「これらのことのあとで」と書かれています。「これらのこと」とは具体的に何を指しているのかを考えてみると、すぐ前の21章前半に書かれていたイサクの誕生のことだけを指すのではなく、これから起ころうとしている重大な出来事との関連で考えるならば、アブラハムの信仰の歩みがが始まった創世記12章からのすべてのことを含んでいると理解すべきではないかと思います。12章以下のアブラハムの歩みを簡単に振り返ってみましょう。神はアブラハムを選び、召して、彼と契約を結び、約束の地へと導かれました。「あなたとあなたの子孫とにこのカナンの地を永遠の嗣業として与える。あなたの子孫は星の数ほどに増え広がり、わたしが与える祝福を永遠に受け継ぐであろう」。これが神の約束でした。アブラハムは何度も神の約束を疑い、神に背き、罪を犯しましたが、神はそのたびにアブラハムをゆるされ、彼との契約を更新されました。彼が最初の神の約束を聞いてから25年後、彼が100歳になって、ようやくその約束の一つが成就し、彼に約束の子イサクが与えられました。そのようなアブラハムの信仰と迷いの生涯、神への服従と失敗の歩み、それらのすべてのあとで、これから新たな展開が始まるという意味で、「これらのことのあとで」と書かれていると考えられます。

 1節の次の言葉は「神は」ですが、この言葉は原文のヘブライ語のテキストでは非常に強調されています。これから起こる出来事はすべては神が主語となり、神が主導しておられるということなのです。もちろんわたしたちはここでアブラハムが受けている大きな信仰上の試練ということをも真剣にとらえなければなりませんが、それ以上に、神が主導権をもっておられ、神がここでは行動しておられる、神のみ心が行われているということを聖書は強調しているのです。

 「神はアブラハムを試された」とあります。神がアブラハムを試みておられる、神がアブラハムに信仰の訓練を与えておられるということがまず語られているのです。このことは、神は本気でアブラハムに子どもを犠牲としてささげること(いわゆる、人身御供)を命じておられるのかどうかという問題に一定の答えを与えているように思います。聖書では明らかに人身御供は神によって禁じられているのに、ここではそれをご自身が要求しておられるのだとしたら、神の側に何か不正があるのではないか、という神学的な疑問に対して答えていると言えましょう。聖書の神は他の神々のように、人間の命をご自身にささげるように命じることはありませんし、信仰の行為として人間の命を要求されることもありません。神は初めからすべてをご存じであられ、み心のままにアブラハムを導いておられるのです。そして、彼に信仰の訓練をお与えになるのです

 とはいえ、この神の命令がアブラハムにとっていかに厳粛な神の絶対的な命令であるか、そしてそれが彼をどれほどに苦しめ、厳しい信仰の戦いを強いるものであるかということが、否定されることは全くありません。彼には隠されている神のご計画がまだ全く見えていません。キェルケゴールが言うように、アブラハムは主なる神に対する大いなる恐れとおののきとをもって、この神の命令と向き合っているのです。ようやくにして与えられた彼の子どもイサクを神のみ手によって奪い取られようとしているという、避けられない厳しい現実に彼は恐れおののいています。

 「焼き尽くすささげ物」とは一般に燔祭と言われます。英語ではホロコーストと言います。のちに、イスラエルの礼拝の形式となりました。エルサレムの神殿では毎日燔祭の犠牲がささげられました。まず、聖別された家畜、羊や山羊、牛などの首をナイフで切り、その血を祭壇に注ぎます。血は命であり、本来神のものなので、それを神にお返しするのです。肉は内蔵とともにすべてを火で焼いて、その香ばしい香りを天におられる神にささげます。一頭の家畜のすべてを神にささげるのが燔祭です。

 ところが、ここで神がアブラハムに命じておられるのは家畜をではなく、彼の独り子イサクを燔祭としてささげよと言われるのです。これは何と厳しくまた理不尽とも言える命令ではないでしょうか。イサクは彼が長く待ち望んだ子どもでした。神はこの子を授けるまで、25年間も長い間アブラハムを待たせたのでした。彼が100歳になって、ようやくにして授かった子どもです。彼の生涯はイサクの誕生を待ち望み、この子の成長を見守ることがすべてであると言ってよいでしょう。イサクはアブラハムにとっての命そのものでした。しかし、神はその子を燔祭としてわたしにささげよと言われるのです。病気や事故で一人息子を失うということはすべての父親にとって大きな苦悩であり、試練であるのは言うまでもありません。しかし、ここでは父親であるアブラハム自身がわが子を自分の手でその首を切り、その体を火で焼かなければならないのです。今だかつて、アブラハムはこれほどの大きな試練を受けたことがあったでしょうか。これまでに幾度も信仰の戦いをしてきたアブラハム、年老いたアブラハムにとって、これはあまりにも過酷で、厳しい試練ではないでしょうか。アブラハムはこの大きな試練に耐えることができるでしょうか。

 いや、ここにある問題の深刻さは、それだけではありません。アブラハムにそのことを命じるのが、ほかならない神なのです。アブラハムにその子を与えると約束され、事実その約束を成就された神ご自身が、その子を燔祭としてささげよと言われるのです。イサクはほかでもない、神の約束の子です。その子を通して、後の時代のすべての民が神の祝福を受け継ぐと約束されている子です。神は今、ご自身の約束を、ご自身の手で廃棄されるというのでしょうか。アブラハムはこの大きな試練の前で恐れおののいています。

 次に、3節を読みましょう。【3節】。アブラハムは無言で神の命令に従い、旅立ちの準備をします。わが子イサクを燔祭の犠牲としてささげるための旅に、無言で、黙々として、出発します。「朝早く」とは、アブラハムの決断と服従の素早さ、その堅さ、断固とした姿勢を言い表しています。彼は、何のためらいも迷いもなく(わたしたちにはそのように見えるのですが)、神の命令に服従しています。これが、後の世のすべての信仰者たちの信仰の父と呼ばれるようになるアブラハムの信仰です。

 神はなぜ、アブラハムに対してこのようなむごいとも思えるような試練をお与えになるのでしょうか。2節で、神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを」と言われます。神はアブラハムがイサクをどれほどの愛しているか、彼にとって独り子イサクがどれほどにかけがえのない大切な存在であるかを、よくご存じです。そうでありつつ、いや、そうであるがゆえにこそ、神はアブラハムに「あなたのその最愛の子をわたしにささげなさい」とお命じになるのです。

 それはなぜでしょうか。なぜ神はアブラハムに過酷とも思えるほどの、あるいはだれの目から見ても理不尽としか言えないような、大きな試練をお与えになるのでしょうか。その答えは、2節の神のみ言葉の中に暗示されています。「あなたの息子、あなたの愛する、あなたの独り子イサク」、ここに「あなたの」という言葉が3度繰り返されています。イサクはアブラハムにとっての最愛の子です。神はまさにそのアブラハムのイサクに対する愛を問題にしておられるのです。わが子イサクに対する愛が神を愛する愛よりも大きくなることを問題にしておられるのです。もし、イサクに対する彼の愛が、神に対する愛よりも大きくなるとすれば、それは彼にとっての大きな信仰の危機となるかもしれないからです。

 イサクはアブラハムの最愛の子ですが、それ以上にイサクは神の約束の子です。イサクによって後の世のすべての信仰の民が祝福されるのです。父アブラハムに約束された神の祝福が、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、ついには主イエス・キリストによって全世界のすべての教会の民へと受け継がれていく、これが神の救いのご計画です。この神の救いのご計画のために、アブラハムもイサクも、そしてすべての信仰者は仕えるのです。神はアブラハムに、「あなたは最愛の子イサクをささげるほどにわたしを愛するか。あなたの最愛の子イサクをもわたしの救いの計画のためにささげる用意があるか」と問われるのです。

 わたしたちはここで16節の神のみ言葉をあらかじめ先取りするようにして理解することができます。「わたしは自らにかけて誓う。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子をすら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。……あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(16~18節参照)。

 わたしたちはまたここで主イエスのみ言葉を思い起こします。マタイによる福音書10章37節以下を読みましょう。【37~39節】(19ページ)。

 さらにわたしたちは、ヨハネ福音書3章16節以下のみ言葉を思い起こします。【16~17節】(167ページ)。アブラハムのイサク奉献の出来事は、主イエス・キリストの十字架の死と、そこで表わされた神の偉大な愛を指し示しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ。あなたがこの一年間、豊かな恵みと憐れみとをもってわたしたちの教会とわたしたち一人一人をお導きくださったことを覚えて、心から感謝いたします。わたしたちの不忠実や怠惰や傲慢で悔い改めることをしなかった罪を、どうぞおゆるしください。

〇主なる神よ、さまざまな困難な課題をかかえながら苦悩するこの世界の民を顧み、憐れんでください。あなたのみ心が行われ、義と平和が地において実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月19日説教「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

2021年12月19日(日) 秋田教会礼拝説教(クリスマス礼拝)

(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ヨハネによる福音書1章6~18節

説教題:「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

 ヨハネによる福音書はクリスマスの出来事を1章9節で、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と表現しています。『口語訳聖書』の翻訳の方が分かりやすいので紹介します。「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」。また、14節では、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。この二つのみ言葉から、ヨハネ福音書が語るクリスマスの意味についてご一緒に学んでいきましょう。

 クリスマスは神のみ子であり、全世界のすべての人の救い主としてこの世に誕生された主イエスの誕生を祝う日です。ヨハネ福音書はその主イエスを「まことの光」、また「言(ことば)」として言い表しています。先に、「言」について少し説明を加えながら、14節のみ言葉の意味を考えていきたいと思います。新約聖書の言語であるギリシャ語では「ロゴス」と言います。一般的な意味として、言葉のほかに道理、理性、理由などの広い意味を持っています。そのロゴスという単語に、特定の意味を持った単語につけられる定冠詞「ホ」、英語では「the」をつけて、「ホ・ロゴス」という言葉で、聖書は主イエス・キリストを言い表しているのです。日本語の翻訳では「言葉(ことのは)」の「こと・げん」一字で「ことば」とルビをつけるのが一般的です。

 その「言」(ホ・ロゴス)が肉となって、わたしたち人間の間に宿られた、この世界に来られたと14節は語っています。キリスト教の用語ではこれを「受肉」と言います。天におられる永遠なる神が人間の肉をまとわれ、人間となってこの世界に、時の中に入って来られた、神が人間になられたということです。それがクリスマスの出来事、主イエス誕生の出来事です。それは、何を意味しているでしょうか。

 一つには、天におられた神が地に下って来られ、わたしたち人間が住むこの地上においでくださった、わたしたち人間のごく近くに、わたしたち人間と共におられる神となってくださったということです。マタイ福音書ではこれを「インマヌエル、神我らと共にいます」という言葉で表現しています。しかし、天におられる神と地に住む人間との間には無限の隔たりがありました。神は聖なる神、罪も汚れもなく、全能の神、永遠の神であられたにもかかわらず、神に背き、罪ゆえに死すべきものとなった人間のただ中においでくださったのです。それは、人間を罪から救うためでした。

 わたしたちはもはや神を求めて天に登る努力をする必要はありません。救いを求めて、あれこれと探し回ったり、何らかの宗教的・信仰的な訓練を積み重ねたりする必要も全くありません。神ご自身の方からわたしたちに近づいて来てくださったからです。わたしたちがその神を信じて受け入れるなら、主イエスによる罪のゆるしが与えられ、救われるのです。

 神が人間になられたことの第二の意味は、ヨハネ福音書では主イエスを「ホ・ロゴス」、神の言葉と言い、その神の言葉が肉となられた、受肉したと表現することによって、神の言葉が現実となり、成就したということを言い表しています。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に約束されたメシア・キリスト・救い主が今クリスマスの出来事によって、主イエスの誕生によって、出来事となった。神の救いの預言が成就した。神の言葉、神のみ心、神の救いのご計画がわたしたちの間で実現した。わたしたちはそれを確かにこの目で見て、信じることができるようにされているということを意味しています。

 もう一つの意味を付け加えることができます。聖書では「肉」という言葉は、弱く、はかなく、朽ち果てるものという性質を言い表します。天におられる神は、聖なる神、永遠なる存在であられるにもかかわらず、人間の肉を身にまとわれ、弱く、朽ち果てるもの、死すべきものとなられたと、ヨハネ福音書は語っているのです。

 宗教改革者カルヴァンはこのように言っています。「神のみ子がその天的な高みから、我々のために、それほどに低い、打ち捨てられた状態にまで下って来られたのだ」と。天におられる罪も汚れもない聖なる神が地に下って来られ、罪の中に入ってきてくださり、死すべきわたしたち人間と同じお姿になるほどまでに、ご自身を低くされ、貧しくされ、卑しくされて、わたしたち一人一人と共におられる神となられたということです。

 この神の低さは、主イエスの十字架の死に至るまで続きます。神は罪びとの一人に数えられ、わたしたちの死をも共にされたのです。それは、罪ゆえに死すべきわたしたちを罪と死から救い出すためでした。これほどまでにわたしたち罪びとと共にいてくださる神の偉大な愛について、ローマの信徒への手紙5章ではこのように教えられています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。……わたしは確信します。死も、命も、天使も、支配するもの、現在のもの、未来のもの、力あるもの、高い所にいるもの、低い所にいるもの、他のどんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(5章32節以下参照)。わたしたちはこれほどまでに強い愛によって神と結ばれているのです。

 これまで学んだことから明らかなように、クリスマスの出来事の意味を正しく理解するためには、わたしたちは人間の罪とその罪からわたしたちを救う主イエス・キリストの十字架の死という出来事と、その二つと主イエスの誕生という出来事とを結びつけて考えなければなりません。ヨハネ福音書1章9節のみ言葉がそのことを教えています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。これが、ヨハネ福音書が語るもう一つのクリスマスの意味です。

この日に誕生した主イエスは、まことの光であると言われています。光は闇を照らし、闇の中で輝きます。明るい場所では、光には気づきませんし、光を必要ともしません。「まことの光が世に来て、すべての人を照らす」とは、この世が暗闇であり、すべての人が暗闇の中に住んでいるということを暗示しています。あるいはこうも言えるでしょう。まことの光に照らされる時、この世は、またすべての人は、今まで自分たちが暗闇の中におり、暗闇の中を歩んでいたのだということに気づかされるということです。

 聖書では、暗闇とはしばしば神を失っている世界、罪に支配されている世界と人間を象徴する言葉として用いられます。イザヤ書9章1節にはこのように預言されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。紀元前7世紀の預言者イザヤの時代だけでなく、主イエスの時代も、そして今日も、世界はまことの神を失い、神無き暗黒の中を歩んでいます。

 けれども、神はこの世界をなおも愛しておられます。この世界が罪の中で滅びることをおゆるしにはなりません。神は世界のすべての人を上から照らすために、まことの光なる主イエスをお遣わしになりました。最初のクリスマスの夜に、羊飼いたちは天からの神のみ声を聞きました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と。

クリスマスの日に天から与えられたこの光は、イスラエルの一部の地域だけを照らすのではありません。イスラエルの民だけが救われるのではありません。「すべての人を」とあります。すべての人を照らす光です。すべての人が主イエス・キリストの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の民とされます。この光で照らされない人は一人もいません。主イエス・キリストの福音派すべての人に与えられ、すべての人がその救いの恵みへと招かれています。

また、この光は「まことの光」と言われています。この光は罪に支配されているこの世の暗闇を照らし、その中に住む一人一人を光の中に導き、神の真理へと導き、わたしたちにまことの命を与えます。主イエスの十字架の死による罪のゆるしと、主イエスの復活にあずかる永遠の命を与えます。

(執り成しの祈り)

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

12月12日説教「迫害の中で命の言葉を語る」

2021年12月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編23編1~6節

    使徒言行録5章17~26節

説教題:「迫害の中で命の言葉を語る」

 きょうの礼拝で朗読された使徒言行録5章17節以下には、初代エルサレム教会が経験した2回目の迫害のことが書かれています。最初の迫害については4章1節以下に書かれていました。4章では、ユダヤ人指導者たちによって逮捕されたのはエルサレム教会の代表者ペトロとヨハネでしたが、5章では18節に「使徒たちをとらえて」とありますから、ペトロを始めとして主イエスの12人の弟子たち全員が捕らえられたのではないかと推測されます。迫害の規模が拡大しています。初代教会の宣教の範囲が拡大されるとともに、迫害の規模もまた拡大していきます。

また、17節によれば、今回も迫害のきっかけをつくったのはサドカイ派の人たちでした。【17~18節】。サドカイ派はファリサイ派と並んで当時のユダヤ教の二大教派でした。サドカイ派は祭司や貴族階級によって構成されており、保守的で現実主義者でした。彼らは復活や奇跡や天使の存在などを信じていませんでした。4章ではペトロとヨハネが主イエスの復活について説教しているのを聞いたサドカイ派の人たちは、自分たちが否定している復活について語っているのを聞いて、腹立たしく思ってペトロとヨハネを捕え、牢に入れたと書かれていましたが、ここでは使徒たちによってなされていた病気のいやしや奇跡などの不思議なしるしによって民衆の多くがエルサレム教会に関心を寄せているのを見て、それを妬ましく思い、またもや使徒たちを捕えたのでした。

保守的で現実主義的な考えを持っていたサドカイ派の人たちにとっては、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は自分たちの存在や信仰を根本的に否定するほどの脅威だったと推測されます。彼らはエルサレム神殿を中心とした当時のユダヤ教の制度の中で安定した地位と生活を営んでいました。その生活基盤が変えられることを望んでいません。新しい信仰や教えによって今の現実が変えられることは、彼らの生活が脅かされることになります。この時にはまだ彼らははっきりと悟ってはいませんでしたが、主イエス・キリストの十字架によって、エルサレム神殿で彼らが行っていた動物犠牲の礼拝がもはや不要になったのです。したがって、神殿での祭司の職も終わりになったのです。主イエス・キリストの十字架の死によって、完全で永遠の罪の贖いが完成されたからです。彼らはやがてそのことに気づくでしょう。そして、彼らに新しい救いの道が用意されていることにも気づくでしょう。けれども、彼らの多くは自らその救いの道を閉ざしていたのです。

ところが、牢に捕らえられている使徒たちに不思議なことが起こりました。【19~21節a】。公の牢は大祭司の官邸の地下にありました。投獄した犯罪人の逃亡を防ぐための厳重な構造と監視体制が整っていました。けれども、神の命のみ言葉、神の救いのみ言葉は、どのように太い鎖によっても、地下の頑丈な鉄格子によっても、つなぎとめておくことはできません。不思議な奇跡によって、使徒たちは牢獄から解放され、自由にされました。主の天使とは、主なる神がお遣わしになった天使で、神が地上で力強いお働きをなさる時にはしばしばこのようなお姿で行動されます。使徒たちは鉄格子に囲まれて、行動の自由を失っていました。しかし、神が彼らのためにみわざを行ってくださいます。神が牢獄の戸を開け、厳しい監視を打ち破り、彼らに自由をお与えになります。

ここで注目すべきは、天使によって使徒たちに語られた神のみ言葉です。神は使徒たちに、「神殿に行って、命のみこ言葉を、主イエス・キリストの福音を語れ」とお命じになります。使徒たちが牢獄から解放されたのは、彼らの身の安全のためではありません。彼らが迫害にあわないように、敵の手から逃亡させるためでもありません。いやむしろ、彼らが捕らえられたまさにその現場に彼らを派遣するためです。しかも、最も人目につきやすい神殿の境内に行きなさいと命じるのです。それだけではありません。彼らが捕らえられた原因となった神の命のみ言葉を再び語るために、主イエス・キリストの十字架の福音をユダヤ人に語るために、そこへ行けと命じるのです。彼らをまさに迫害のただ中へと派遣するのです。

そこで、使徒たちはその命令に従い、朝早くに神殿に行き、朝の祈りのために集まってきたユダヤ人たちに主イエス・キリストの福音を語ります。そのことは、当然彼らの再逮捕に通じる道であり、事実そのようになるのですが、神はあえて使徒たちを迫害のただ中へと派遣されました。それが神のみ心であり、ご計画なのです。そして、それが使徒たちの服従の道なのです。これによって、神の命のみ言葉が決してこの世の鎖によってつながれることはないことを神は明らかにされるのです。また、使徒たちの福音宣教の働きがこの世の権力によっても決して中止されることはないことを神は彼らに悟らせたもうのです。

ここにはもう一つのことが暗示されているように思われます。主イエス・キリストの福音が「この命の言葉」と言われています。それを彼らはエルサレム神殿で語れと命じられているのです。エルサレム神殿での古い礼拝に終わりが告げられ、ユダヤ教の律法によって生きる道が閉ざされ、その死が宣告されるのです。そして、すべての人の罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストを救い主と信じることによって生きる信仰者たちの新しい礼拝が教会で始まるということがここでは暗示されています。

【21節~26節】。大祭司を議長としたユダヤ最高議会のメンバー70人が集合し、使徒たちの裁判を行おうとしましたが、彼らは牢の中にはいません。自分たちが裁こうとしていた使徒たちが何か不思議な力によって牢獄から姿を消してしまったという報告を受けて、ユダヤ最高議会の議員たちや民の指導者たちは困惑し、心を乱しています。そこへ、使徒たちが神殿で人々の前で説教しているとの報告が入りました。そこで、再び彼らを逮捕します。その様子が、ここには臨場感あふれる筆致で描かれています。

ここでは、迫害する側であるユダヤ最高議会の議員たちと、迫害される側にいる使徒たちの姿とが対照的に描かれています。一方では、ユダヤ教の中での自分たちの立場や地位、古い律法による信仰を守ろうと躍起になり、そのためにこの世の権力を用いて使徒たちと主イエス・キリストの福音を消し去ろうとしているユダヤ最高議会のメンバーたち。大祭司、祭司長、長老などのユダヤ教指導者たち。しかし、自分たちが捕らえて獄に投げ込んだ使徒たちがそこにいないと知って、あわてふためいておろおろしている彼ら。また、この世の権力を持ち、それを行使していながら、使徒たちの説教に耳を傾けている民衆を恐れている彼ら。

しかし、他方では、この世のいかなる権力をも恐れず、迫害や投獄をも恐れず、神殿の中で大胆に主イエス・キリストの福音を語り続けている使徒たち。そして、民衆の心をとらえている使徒たち。ここには、人間の声に聞き従う者たちの姿と、神のみ声に聞き従う信仰者たちの姿が、対照的に描かれています。

ここでもう一度、20節の「この命の言葉を残らず民衆に語りなさい」というみ言葉を思い起こしたいと思います。このみ言葉は、すでに学んだように、神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても、権力や暴力、迫害によっても、決してその命を奪い取られることはない。またその命の力、生命力といったものを失うことはない。それらの敵対する勢力の中でなおも神のみ言葉はその命を発揮するということを意味している。これが第一の意味です。

第二には、神の命のみ言葉がエルサレム神殿で語られることによって、律法によって生きるユダヤ教の信仰がもはやその役割を終えて死を迎えた。主イエス・キリストの十字架の福音によってこそ、この福音を信じる信仰によってこそ、神のまことの命が信仰者に与えられるようになった。エルサレム神殿で行われていた動物を犠牲としてささげる礼拝はもはやその役割を終えて、死を迎えた。主イエス・キリストによる十字架の死の贖いによって完全な罪の贖いが成就した。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってこそ、すべての信仰者にまことの命が与えられるようになった。これが第二の意味です。

それに加えて、わたしたちはもう一つの意味をここから読み取ることができます。それは、2回の迫害を経験した初代エルサレム教会と使徒たちがまさにこの神の命のみ言葉によってこそ生きるべきであるということ、今現実に、迫害の中で生かされているということを、彼らはここで強く教えられたということです。使徒言行録ではこの後、教会の宣教活動が全世界に拡大されていくにしたがって、いよいよ激しくこの世の抵抗にあい、迫害を経験するということを繰り返して語ります。

この章の終わりの41、42節には次のような興味深いみ言葉が書かれています。【41~42節】。使徒たちは主イエスのみ名のために迫害を受けることをむしろ喜び、誇りさえしているのです。ある古代の神学者はこう言いました。「教会は殉教者たちの血によって生きている」と。正確に言うならば、「殉教者たちが流した血にもかかわらず」とか「彼らの血を超えて」、神の命のみ言葉によって教会は生きてきたと言うべきでしょう。教会は2千年の歩みの中で、幾度も厳しい迫害を経験してきました。日本の地でもそうでした。しかし、教会は迫害の中で繰り返して教えられました。神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれない。その命の力を失うことはない。いやむしろ、その中でこそ、まことの命の力を発揮し、教会を生かし、信仰者たちを強めるのだということを。

わたしたちもまた、この神の命のみ言葉を信じ続け、さまざまな困難や労苦や試練の中で、また弱さや欠けを覚えつつも、主キリストの教会のために希望をもってお仕えしていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、主イエスのご降誕を待ち望む待降節のこの時に、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を、あなたの命にみ言葉で養い、強め、その福音宣教の務めをいよいよ忠実に果たしていくことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、どうか、あなたが天からのみ光によって、暗闇に閉ざされているこの世界を明るく照らしてください。病んでいる人たち、その看護にあたっている人たち、重荷を負って疲れている人たち、試練や困窮の中にある人たち、道に迷っている人たち、孤独な人たち、すべてあなたの助けを必要としている人たちに、あなたがその一人一人の近くにいてくださり、助けと救いのみ手を差し伸べてくださいますように。

〇主なる神よ、わたしたちは先週に愛する教会員の一人をみもとに送りました。あなたが兄弟をこの教会へとお導きくださり、彼に信仰の道を備えてくださいましたことを感謝いたします。どうか、悲しみと寂しさの中にあるご遺族のお一人お一人にあなたにある慰めをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月5日説教「神の永遠の計画に従い、人となられた主イエス」

2021年12月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰の告白』講解⑧(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい、人となられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、なぜ『信仰告白』を説教で取り上げるのか、『信仰告白』について学ぶことの意義は何かということを絶えず確認しておくことが大切です。というのは、日本キリスト教会が1951年に日本基督教団から離脱して、39個の教会で新しい日本キリスト教会を建設した際の主な動機が、まさに『信仰告白』にあったからです。『信仰告白』を学ぶということは、わたしたちの秋田教会が日本キリスト教会に属する教会であることの原点なのです。

 戦時中の1941年に、日本のプロテスタント教会はほとんどすべてが日本基督教団に合同しました。これは、長老派の旧日本基督教会をはじめ、組合教会、メソヂスト派、バプテスト派など、多種多様な教派・教会の集合体でしたから、統一した信仰告白を持っていませんでしたし、政治形態も違っていました。そこで、戦後、信仰告白によって教会形成をしなければ真実の教会は建たないと考えた旧日本基督教会に属していた一部の教会が日本基督教団を離脱する決意をし、1951年(昭和26年)に新しい日本キリスト教会を建設し、ただちに信仰告白の制定に取りかかったのでした。

 日本キリスト教会が信仰告白によって立ち、宣教活動を行い、教会の一致と交わりを強める教会であるということの具体的な例は、わたし自身の信仰そのものがこの『信仰告白』を土台としていることにあります。わたしたちが信仰を告白し、キリスト者・信仰者となり、秋田教会の会員となった時、わたしは洗礼式で『日本キリスト教会信仰の告白』を誠実に受け入れると誓約しました。長老・執事に任職された時、日曜学校教師に就職した時にも『日本キリスト教会信仰の告白』に誠実に従うことを誓約しました。牧師が教師の職に就く時、教会に就職する時、あるいは教会を建設する時、あらゆるときに、わたしたちは『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白し、この告白のもとでの一致を確認します。『日本キリスト教会信仰の告白』を学ぶということは、わたしたちの信仰の原点、土台について確認することであり、またわたしたちが信仰告白のもとになっている神のみ言葉によって生きている群れであり、そこで告白されている主キリストを頭とする一つの群れであることを確認することでもあるのです。

 では、きょうは前回に引き続き「主は、神の永遠の計画にしたがい」から「人となって」までを取り挙げます。まず、この文章の主語を改めて確認しておきましょう。主語は「主」、「主イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが神の永遠のご計画に従われたということがここでは告白されているのです。「神の永遠のご計画」と言えば、多くの人は神が教会や世界の歴史を、またわたしたち一人一人の信仰の歩みを永遠の救いのご計画にしたがって導いておられると考えるかもしれませんが、もちろんそうであることには間違いないのですが、ここでは主イエス・キリストご自身が何よりもまず第一に神の永遠のご計画に従われたと告白されているのです。神の永遠の救いのご計画は何よりもまず主イエス・キリストご自身に現わされている、主イエス・キリストが人となられたことに最もよく現わされていると告白されている点が重要なのです。

 ここではまだ、わたしたち人間のこととか、教会、世界のことは問題にされていません。もっぱら主イエス・キリストのことが語られています。このあとに続く告白もすべて主イエスが主語です。主イエスが誕生から十字架の死に至るまでの全ご生涯において、また復活と昇天、更には終わりの日の再臨に至るまで、そのすべてが父なる神の永遠なる救いのご計画に基づいていることであり、主イエスはその父なる神が備えたもうた救いの道を従順に歩まれた。そこにこそ、神の永遠のご計画が、文語体の『信仰告白』の言葉では、「永遠なる神の経綸」が、別の言葉では神の摂理、神の配剤が最もよく現わされていると、ここでは告白されているのです。

 この信仰から、それゆえにまた、わたしたちはこの世界と教会の、そしてわたしたち一人一人の神の摂理・配剤を固く信じることができるようにされているのです。なぜならば、主イエス・キリストご自身の歩みの中ですでに神の永遠なる救いのご計画が実現し、神の摂理、配済が確実に行われたゆえに、主イエス・キリストを救い主と信じるわたしたちにも神は確かに最も良き道を備えたもうからです。主イエス・キリストを救い主と信じる者たちにとっては、偶然とか、得体のしれない不気味な運命とかは全くなく、すべてのことが神の国の完成を目指していると固く信じることができるのです。ローマの信徒への手紙8章でパウロが語っているとおりです。【8章28~30節】(285ページ)。

 神は永遠の救いのご計画にしたがって、神の摂理と配済によって、世が始まる前から、わたしがこの世に誕生するはるか以前から、わたしを選び、わたしを救いの道へと招き入れ、終わりの日には栄光のみ国へ入れてくださり、わたしの信仰を完成させてくださる。それゆえに、わたしのすべての日々は、幸いな日も災いの日も、健康な時にも病める時にも、富も貧しさも、神の永遠の救いのご計画の中にあるのであり、神のみ心がなければ、わたしの髪の毛一本すらも地に落ちることがないと信じることができるのです。

 宗教改革の時代、1563年に制定された「ハイデルベルク信仰問答」の第28問では次のように教えられています。「神の創造と摂理を知ることから、わたしたちはどのような益を受けるのでしょうか」。答「どんな逆境の中でも忍耐強く、順境では感謝し、将来については、わたしの忠実な父によく信頼し、どの被造物も一つとしてわたしをかれの愛から引き離すことはないと確信するのです。というのは、すべての被造物がかれの御手の中にあって、かれの御意志がなければ、立ち上がることも身動きすることさえも、できないからです」(登家勝也訳)。永遠なる神の救いのご計画に従われた主イエス・キリストのご生涯が、まさにそのことをわたしたちに明らかにしています。

 次に、「人となって」という箇所を学びます。「人となって」とは、主イエス・キリストが人間としてこの世に来られたこと、すなわち主イエスの誕生のことを言います。神が人となられたことを言います。わたしたちは今その日を待ち望む待降節の中を歩んでいます。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」と続きますから、神の永遠の計画は神が人となられたことによってその頂点に達した。主イエスがこの世に誕生されたことこそが、神の永遠の救いのご計画の最も重要な出来事であり、その第一の目的であった、あるいは最終目的であったということです。神の永遠の救いのご計画、神の摂理、神の配済は、主イエスがこの世に到来されたことによって成就した、その最終目的に達したということが、ここでは告白されているのです。

 きょうの礼拝で朗読されたガラテヤの信徒への手紙4章4~5節にはこのように書かれています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。「時が満ちる」とは、神ご自身が救いのご計画の中で定めておられた時、その頂点、その最終目的に今到達して、という意味であることが理解されます。マルコによる福音書1章15節によれば、主イエスご自身もまたそのことを知っておられ、ガリラヤでの福音宣教の初めにこう言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスのこの世への到来と主イエスの神の国の福音の宣教が、神が永遠から計画しておられた救いのみわざを満たしたのです。いや、このことなしには、時は満たされることはありません。世界の歴史は満たされることはありません。わたしたちの人生も満たされることはありません。ただ、すべての時は過去という闇の中に消え去ってしまうだけです。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」この世においでくださった主イエス・キリストだけが、すべての時を満たすことがおできになります。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、そして三日目に復活され、今も天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリスト、終わりの日に再びこの地においでくださる主イエス・キリストだけが、世界とわたしたちひとり一人の時を本当の意味で満たすことがおできになるのです。

 神が人となられたことを、マタイによる福音書とルカ福音書は、主イエスが誕生するクリスマスの出来事として描いていますが、ヨハネ福音書1章では、言葉(ギリシャ語ではロゴス)が肉となったという表現をしています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。永遠の昔から神と共におられた言葉(ロゴス)が肉となってこの世に、わたしたちのところにおいでくださいました。また、1章29節では主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」と言われています。世の罪を取り除く神の小羊であられる主イエス・キリストによって、神の永遠の救いのご計画が満たされ、成就したのです。

 神は人となってこの世に来てくださったという出来事が、いかに驚くべき、大きな出来事であるかということ、またそこに神の偉大な愛が現わされているということを、聖書は至る所で証言しています。ヨハネ福音書3章16~17節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、フィリピの信徒への手紙2章6~11節にはこう書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。

 神は天にとどまってはおられませんでした。また、罪のこの世をお見捨てにもなりませんでした。天におられる、永遠で全能なる神、罪なく汚れなき聖なる神が、この世に降って来られ、罪の世に入ってきてくださり、わたしたち罪びとたちと歩みを共にされ、それのみならず、わたしたちの罪をご自身に担われ、わたしたちに代わって十字架で死んでくださった。それによってわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださったのです。神が人となったということには、なんと大きく深い神の愛があることでしょうか。わたしたちはその大きな神の愛の中に招き入れられているのです。その神の愛に応答して、わたしたちも神と隣人とを愛し、仕えていくことが、わたしたち信仰者の歩みです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世界を顧みてくださり、愛してくだり、み子を人間のお姿でお遣わしくださったことを心から感謝いたします。あなたが常にわたしたちと共にいてくださるインマヌエルなる神であることを信じます。どうぞ、この地であなたの永遠の救いのご計画が成就しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。