3月28日説教「12弟子の選び」

2021年3月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:ヨシュア記4章1~7節

ルカによる福音書6章12~16節

説教題:「12弟子の選び」

 教会の暦ではきょうは「棕櫚(しゅろ)の主日」、今週は受難週です。ルカによる福音書を続けて読んでいるわたしたちは、主イエスのご受難の意味を考えながら、きょう与えられている6章12節以下の12弟子の選びの個所をご一緒に学んでいきたいと思います。

 【12節】。ここでもわたしたちは主イエスの祈りのお姿を見ることができます。ルカ福音書は他の福音書に比べて主イエス祈りのお姿を数多く描いていることをわたしたちはすでに確認してきました。特にここでは、「祈って夜を明かされた」とあります。徹夜の祈りです。徹夜の祈りと言えば、わたしたちは受難週のゲツセマネの園での主イエスの祈りを思い起こします。ルカ福音書では22章39節以下にオリーブ山での祈りとして記録されていますが、主イエスは受難週の木曜日の夕方から弟子たちと過ぎ越しの食卓を囲まれた後、オリーブ山で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。弟子たちがみな眠っていた間にも、主イエスは苦しみもだえながら、汗を血のように滴らせて祈り続けられたと書かれています。それに引き続いて、祭司長や長老たちによって捕らえられ、裁判を受けることになりましたので、これもまた主イエスの徹夜の祈りと言ってよいでしょう。罪の中で死すべきである弟子たちが、いまだ自分たちの罪に気づかず、眠りこけている時に、罪なき神のみ子主イエスがただお一人、罪と戦っておられ、そのために汗を血のように滴らせながら祈っておられ、事実このあとでご自身の血を流されたのです。主イエスはわたしたちのために「罪と戦って血を流すまで抵抗」してくださいました(ヘブライ人への手紙12章13、14節参照)。

 実に、主イエスは祈りの人でした、主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスの救いのみわざは祈りに支えられていました。オリーブ山での祈りからも明らかなように、祈りとは第一に神に対する服従の行為です。神のみ心を尋ね求め、そのみ心を知り、それに服従することです。「父なる神よ、み心を行ってください」、これがすべての祈りの基本です。主イエスのご生涯は、その初めから終わりまで、徹底して父なる神のみ心に従う歩みでした。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、父なる神への服従で貫かれていました。

 「祈るために山に行き」と書かれています。この場合、山には二つの意味が含まれています。一つには、人里を離れ、人々からも離れ、ただお一人になって父なる神と対面する場所であるということです(5章16節参照)。人間の目や思いにとらわれず、この世の価値や現実からも離れて、ただひたすらに神に向かう、そして神のみ心を尋ね求めるためです。第二には、山は聖書では神の啓示の場(神がご自身を人間に現わされる顕現の場)であるということです。出エジプト記19章に書かれてあるように、モーセはシナイ山に登って、山の頂で神のみ声を聞き、十戒を授かりました。山は、神が人間の近くにいますことを強く感じさせる場、神が人間にご自身のみ旨を親しくお語りになる場です。

 【13節】。主イエスがなぜ、何のために山で徹夜の祈りをされたのか、その理由がここで明らかになります。それは、神のみ心にかなった12弟子をお選びになるためであり、12弟子と共に福音宣教のお働きを更に強め、広げるためでした。このことを、すぐ前の11節との関連から考えてみましょう。主イエスが安息日の律法を破ったことを訴えようとしていた律法学者たちが怒り狂って主イエスの命をねらったとき、主イエスは山に退かれ祈られたのですが、それはご自身の命を守ろうとされたからではなく、また危険を避けて公のお働きを止めるためでもなかったということが分かります。むしろ、父なる神のみ心に服従され、父なる神から託された救いのみわざをいよいよ推し進めるため、ご自身のご受難への道を前進するためであったということです。そしてそのことは、17節以下で、主イエスが山を下りられたあとになってから、より明確にされます。主イエスは徹夜の祈りののちに、再び罪と死とに支配された病めるこの世へと帰って行かれました。そして、ご自身の救いのお働きをなおも続けられました。

 徹夜の祈りのあとで12弟子をお選びになったということから、それが主イエスの福音宣教のお働きにとって、また神の救いのみわざ全体にとって、いかに重要な意味を持つことであったかということが推測できます。特に、ルカ福音書の特徴からその意味を考えてみましょう。ルカ福音書を書いたルカはその続編として使徒言行録を書きました。ルカは神の救いの歴史を(これを救済史と言いなすが)、旧約聖書時代のイスラエルの選びから主イエスの神の国の福音宣教へと続く歴史として、更に主イエスの十字架と復活のあとの教会の宣教の歴史へと続く救済史として描いているように思われます。

主イエスの12弟子の選びは、その一連の救済史の中で旧約聖書と新約聖書とを結びつける役割を果たしています。12人の弟子はイスラエルの12部族を象徴しています。旧約聖書の民イスラエルがヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちからなる12部族で形成されていたように、新しい教会の民もまた全世界に派遣された12弟子たちの宣教によって形成されていくのです。12弟子は地上の主イエスから直接に福音を聞かされ、また復活された主イエスから世界宣教へと遣わされました。実際に、使徒言行録を読むと、ペトロを始めとした12弟子たちが初代教会の中心的な働き人であったことが分かります。神がイスラエルの民を選ばれ、この民と契約を結ばれたことによって始められた神の救いの歴史・救済史は、主イエスによってその成就を見、その頂点に達し、更に主イエスによって選ばれた12弟子から世界の教会へと受け継がれていくのです。

13節で用いられている3つの言葉、「呼び集める」「選ぶ」「使徒」これらの言葉から、弟子の選びの意味と教会とは何かについて、わたしたちはより深く学ぶことができます。

まず、「呼び集める」ですが、これは「召し集める、招集する」という意味の言葉です。原文のギリシャ語では「彼に」という言葉がついていますから、詳しく訳すると「彼のもとへ、主イエスのもとへ、召し集める」となります。ルカ福音書にはこれまでに5章1節以下でガリラヤ湖の漁師シモン・ペトロとヤコブ、ヨハネの召命記事があり、27節以下では徴税人レビの召命記事がありました。このレビは15節のマタイと同一人物と考えられていますが、彼らも今また改めて12弟子として主イエスのもとへ召し集められたのです。

のちの教会も、またわたしたちの教会も、12弟子と同様に主イエスによって、主イエスのもとへと召し集められた信仰者の群れです。主イエスによって名を呼ばれ、この世の罪の中から召し出され、主イエスのみもとへと召し集められた一人一人です。他の何かの理由や目的によって集まっているのではありません。他のだれかや何かによって集められたのでもありません。わたしたちを罪から救い出してくださる唯一の救い主イエス・キリストのみが教会の民の招集者であり、教会の頭(かしら)であり、教会の牧者です。

 次は「選ぶ」です。もちろん主語は主イエスですから、主イエスがお選びになります。父なる神のみ心にかなった一人一人を選ばれます。選ばれる側には何の理由も根拠もありません。実際に選ばれた弟子たちのリストを見てもそのことが分かります。ペトロからヨハネまでの4人はガリラヤ湖の漁師でした。マタイは徴税人でした。当時の徴税人は罪びとの仲間、神の民を異邦人の王に売り渡す売国奴と呼ばれていました。その他の弟子たちもみなガリラヤ地方の社会的地位も名誉もないような人たちであり、宗教的・政治的指導者ではありませんでした。選ばれた弟子たちには選ばれるに値するものは全くありませんでした。したがって、選ばれた弟子たちはただ選ばれたことを感謝するだけです。そして、選んでくださった方を喜ばすためにお仕えしていくのです。

申命記7章6節以下には、神がイスラエルを選ばれた理由について書かれています。【6~8節】(292ページ)。また、主イエスはヨハネ福音書15章16節で、弟子たちをお選びになった理由についてこのように言われました。【16節】(199ページ)。

わたしたち一人一人が選ばれ、この教会に召し集められているのも、同じ理由からです。そしてまた、ここにこそわたしたちの選びの確かさがあります。もしわたしが自分の判断や好みでこの道を選んだのであれば、わたしの判断が間違っていたかもしれない、別の道、別の生き方があったかもしれないという迷いや疑いが生じることもあるかもしれません。けれどもそうではありません。わたしがこの道を選んだのではなく、わたしを罪から救い出してくださる主イエスが、わたしをまことの命によって生かしてくださる主イエスが、わたしのためにご自身の尊い命を十字架にささげてくださるほどにわたしを愛される主イエスがわたしを選び、この教会へと召し集め、救いの恵みをお与えくださったのです。それゆえにまた、豊かな実りが約束されているのです。

「使徒」とは遣わされた者という意味です。その人を遣わした主人の全権大使です。主人の権威によって、主人の意志を伝え、また行い、主人に忠実に仕える代理人です。新約聖書では使徒という言葉は12弟子のほかにパウロなどのわずかな人に限定されて用いられています。地上を歩まれた主イエスに直接にお仕えし、主イエスの十字架と復活を直接に目撃し、証しした人が使徒と呼ばれます。彼ら主イエスの目撃証人たちの証言によって、初代教会が建てられました。

「名付けられた」と書かれています。名づけるとはその人を新しく創造することを意味しています。弟子たちは使徒という新しい名を与えられることによって、新しい人間に創造されたのです。自分たちを派遣された主イエスのために生きる、主イエスの十字架と復活の証人として生きる、主イエスの福音を携え、主イエスによってこの世へと派遣され、主イエスの権威によって主イエスの福音を語る人として再創造されるのです。主イエスの福音を高く掲げ、地の塩として、世の光として生きる人とされます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが主イエス・キリストによってわたしたちを選び、み国の民として召し集めてくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。わたしたちはみな暗闇の中をさまよい、罪と死とに支配され、滅びるほかにない者たちでありましたが、今はあなたのみ光を受け、あなたの命にあずかる者とされています。土の器でしかないわたしたちですが、どうかあなたの尊い救いのみわざのためにお用いくださいますように。あなたのご栄光を現わすものとなりますように。

〇道に迷っている人、重荷を負っている人、病んでいる人、孤独な人、試練の中にある人を、あなたがあわれんでくださり、一人一人にふさわしい道を備えてくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月21日説教「神とアブラハムの契約締結」

2021年3月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記15章7~19節

    ヘブライ人への手紙8章7~13節

説教題:「神とアブラハムの契約締結」

 創世記15章1~6節には、神がアブラハムにお与えになった約束の一つ、「あなたから生まれる子どもがあなたの家を継ぐ」という約束について書かれていました。7節からは、もう一つの約束、「この土地をあなたとあなたの子孫に受け継がせる」という約束が書かれています。前回もわたしたちが確認したように、アブラハムに同じ約束が語られるのはこれが三度目です。さらに、17章でも同じ約束が繰り返されます。なぜ、これほど頻繁に同じ約束が語られているのかを考えてみると、いくつかのことが見えてくるように思います。神の側から言えば、神の約束はいつまでも変わることはないということです。たとえアブラハムがその約束を忘れたり、無視したりしようとも、神はひとたびアブラハムと結ばれた約束、これを「アブラハム契約」と呼びますが、その契約を決して廃棄なさらない、必ずやその成就に向けて道を備えておられるということを、わたしたちは何度も確認することができます。

 アブラハムの側から言えば、12章に書かれてあったように、彼が75歳の時に最初に神の約束を聞いて旅立ってから、10年が過ぎ、20年が過ぎ、途中で経験した様々な試練の中で神の約束に背くようなことをした時にも、彼はそのたびに神の約束のみ言葉を聞かされ、神との契約を再確認させられてきました。しかも、時の経過とともに、神の約束が果たされるという可能性がいよいよ小さくなっていく中で、いまだに自分と妻との間には子ども与えられず、いまだにカナンの地の一角をも所有していない、神の約束に対する疑いや不安がアブラハムを襲い、彼の信仰そのものが試練にさらされ、彼はもう神の約束なしでも生きていくことができると考えるようになる、そのようなアブラハムの信仰の危機の中で、神は繰り返して約束のみ言葉をお語りになっておられる、そのことをもわたしたちは確認することができます。

 すべて信じる人の信仰の父と言われるアブラハムの場合がそうであったように、わたしたち信仰者もまた、そのようにして繰り返し繰り返し神のみ言葉を聞き続け、日々にわたしを襲ってくる疑いや不安、不信仰と戦っていかなければなりません。また、そのために神はわたしたちを主の日ごとの礼拝へとお招きくださるのです。

 きょうは7節からのアブラハムに対するもう一つの約束について学んでいきます。【7節】。1節でもそうであったように、7節でも、神がまずお語りになります。アブラハムの事情がどうであれ、彼はまず神のみ言葉を聞かなければなりません。聞くことが許されているのです。神の約束、神とアブラハムとの契約においては、いつでも神の側にイニシャティブ・主導権があります。神が一方的な恵みとしてアブラハムにお与えくださいます。そのことは、12章に書かれていた最初の神の約束のみ言葉から全く変わりません。

 7節を原典のヘブライ語から直訳すると、「わたしは主、あなたをカルデアのウルから導き出した者」となります。この言い方は、旧約聖書の中にしばしばみられる「神の自己啓示の定式」と言われています。最も知られているのは、出エジプト記20章2節です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。神が重要なみ言葉をお語りになる場合、あるいは大切が律法を授与される場合、このような自己啓示の定式を用いる例が数多くあります。

 神はアブラハムの信仰の生涯の初めに、豊かな恵みのみ言葉をもって彼を召し出されました。神は今この時にも、そして彼の生涯の終わりまで、同じように恵み深い主なる神として、「わたしは主、あなたをカルデアのウルから導き出した者」として、み言葉を語り続け、彼を導いてくださいます。同じように神はイスラエルの民を奴隷の家から導き出された救いの神として、イスラエルの歴史を、イスラエルの民一人一人を、約束のメシア・救い主の到来の時まで導かれます。神はまた、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神、主イエス・キリストの父なる神」として、主の日の礼拝のたびごとに、わたしたちにご自身を啓示され、教会のため、わたしたち一人一人のための救いのみわざを今もなお行ってくださいます。 

 次に、8節でアブラハムは神の約束が確かであることのしるしを求めているように見えます。【8節】。2節でも、彼は神の約束がいまだ実現していないことへの不安を語っていました。そこでは、神はアブラハムを外に連れ出し、夜空の星を見せて、「あの星を数えることができるなら、数えてみなさい」と言われ、彼の不信仰を取り除かれました。ここでは、神はアブラハムと契約の儀式を結ぶことによって彼の不安を取り除かれます。

 【9~12節】。ここに命じられている内容は、当時の近東諸国で実際に行われていた契約締結儀式と同じであるということが歴史資料から知られています。動物を二つに切り裂いて二列に並べて通路をつくり、その中を契約を結ぶ当事者たちが通り抜けることによって契約が成立するという慣習がありました。この契約の意味をよく理解できる個所があります。エレミヤ書34章18~19節を読んでみましょう。【18~19節】(1243ページ)。ここにも書かれているように、動物を引き裂いて二列に並べるのは、この契約を破った者は同じように引き裂かれなければならないということを示していました。

 契約締結儀式は17節以下に続きます。【17~21節】。「煙を吐く炉と燃える松明」は神ご自身を現わしています。神の自己啓示、神の顕現の一つの手段です。出エジプト記19章では、シナイ山で神がモーセに現れて十戒を授けられた際には、燃える「火」と「炉の煙」と「角笛の音」、そして「雷鳴」によってご自身の存在をお示しになられたと書かれています。神は第一にはみ言葉をお語りになることによってご自身を人間に現わされますが、このような自然現象や光、音などによっても、人間の感覚や体験を通しても、ご自身を啓示されます。

 ここでは、本来天におられる神が、地に下って来られ、人間の目や耳、感覚によって捕らえられるお姿でご自身を現わしておられるということに気づかされます。一般に、契約を結ぶ場合には、当事者が同じ立場にいなければ、契約の内容も不平等になります。神はアブラハムと契約を結ばれるに当たって、彼と同じところに立たれ、天から地に下って来られ、ご自身を低くされて、しかもその契約が実現しない場合には神ご自身があたかもその御身(おんみ)を二つに切り裂いてもよいというしるしに、切り裂かれた動物の間を通り過ぎられたのです。

 わたしたちはここに至って、神のみ子主イエス・キリストへと目を向けざるを得ません。神はみ子主イエス・キリストによってわたしたち教会の民と新しい契約を結んでくださいました。その契約締結のために、神はご自身が人の子としてこの地においでくださり、わたしたちすべての罪びとと共におられるインマヌエルの神となられました。それだけでなく、神はわたしたち教会の民との新しい契約が確かであり、真実でありまた永遠であることの保証として、ご自身のみ子が十字架の血を流さるほどにわたしたちに対する愛を貫きとおされたのです。

 神とアブラハムとの契約締結の儀式において、アブラハム自身はほとんど何の役割も果たしてはいません。彼は神に命じられた動物や鳥をそろえて持ってきました。動物を切り裂き、二列に並べました。契約締結の邪魔になるハゲタカを追い払いました。けれども、いざ契約締結の時には、彼は深いに眠りに襲われ、彼自身が二列に並べられた動物の間を通り過ぎたとも書かれていません。この契約締結においては、神がすべてのイニシャティブを握っておられます。アブラハムは受動的です。神がアブラハムの不信仰や弱さや疑いにもかかわらず、この契約を実現されるということが強調されているのです。アブラハムはただそれを信じることができるだけです。それで十分なのです。

 【13~16節】。ここには、創世記に描かれているアブラハム、イサク、ヤコブの族長時代から、その後ヤコブの12人の子どもたちとその家族がエジプトに移住して400年間の寄留の生活を続ける、そのようにしてから初めて「この土地をあなたとあなたの子孫に受け継がせる」と言われた神の約束が実際に果たされるようになるであろうということが語られています。実に、600年以上もの長い年月を経て、アブラハムへの神の約束がイスラエルの民に成就されるというのです。

ここには、旧約聖書全体に貫かれている歴史観があるように思われます。その歴史観は、なぜ神はイスラエルの民を選ばれたのか、また神の民イスラエルと世界とはどのような関係にあるのかということを、信仰的な目で物語っています。その歴史観をいくつかのポイントにまとめてみましょう。

 一つは、神は族長とイスラエルの歴史のすべてを、アブラハム一人の生涯を越えて、支配され、導いておられるということです。神はこのイスラエルの歴史全体を通して、イスラエルの苦難や挫折、勝利や敗北の歴史のすべてを通して、ご自身の救いのみわざを成し遂げられるという救済史の歴史観です。

 二つには、エジプトやカナン地方の諸国は、16節のアモリ人は19~21節に挙げられているカナン地方原住民を代表していると考えられますが、それらの世界の諸国もまた神の普遍的なご支配のもとにあり、神の救いのご計画に仕えているという歴史観です。イスラエル周辺の諸国は時に神の選びの民を苦しめるための道具として神に用いられ、時に自らの罪のゆえに神によって滅ぼされることによってイスラエルの救いのために仕えます。世界の諸国もまたイスラエルの民と同様に、罪の中にあり、神に背いており、それゆえに神によって救われなければならないという信仰がここにはあります。

 ここからわたしたちはキリスト教信仰による歴史観に導かれます。神は定められたこの時に、全世界を罪から救い、ご自身の救いのみわざを成就されるために、み子主イエス・キリストを世の救い主としてこの世にお遣わしになられました。十字架につけられ三日目に復活された主イエスは全人類の唯一の救い主として、今は天におられる父なる神の右に座して、全世界を導いておられます。世界はその救いへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉の真理は永遠に変わることはありません。あなたは天地創造の時から今に至るまで、また終わりの日のみ国の完成の時まで、義とまこととをもってこの世界をご支配しておられます。どうか、わたしたちが移り行き、過ぎ去るものから目を離して、永遠に変わることがないあなたの真理に目を注ぐようにしてください。

〇憐れみ深い主なる神よ、この世界は今大きな試練と苦悩の中にあって苦しみ悶えています。どうか、あなたからの救いといやしが与えられますように。全世界にあなたのみ心が行われますように。あなたの義と平和が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月14日説「イエス・キリストの名によって歩きなさい」

2021年3月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編23編1~6節

    使徒言行録3章1~10節

説教題:「イエス・キリストのみ名によって歩きなさい」

 ペンテコステの日にエルサレムに誕生した世界最初の教会が、エルサレムからパレスチナ地方全域へと宣教範囲を広げ、さらに北の小アジアからヨーロッパへと宣教し、全世界に教会が建てられていった次第について、使徒言行録は描いています。その最初のエルサレム神殿を舞台にした宣教活動が3章に書かれています。この時、ペトロとヨハネが生まれつき足の不自由な男の人をいやしたという奇跡が語られ、12節からはペトロの説教が記されています。この最初の宣教活動は、そののちの初代教会の宣教活動の在り方の基本となるべき象徴的な意味を持っています。それはまた、その後2千年間の世界の教会と今日のわたしたちの教会の宣教活動の基本をも示しています。

 ペトロは6節で、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、生まれつき歩いたことがなかったその人がすぐに躍り上がって立ち上がり、歩き出し、神を賛美しながら神殿に入っていったと書かれています。これが教会の最初の宣教活動であり、またその成果、実り、収穫です。教会は神のみ言葉の権威をもって、罪の中で倒れ、死んでいる人に、まだ本当の救いの道を歩いていない人に対して、「あなたはナザレの人イエス・キリストの名よって立ち上がり、歩きなさい」と命じる務めに仕え、そのみ言葉を聞いてイエス・キリストのみ名によって歩く人を誕生させるために仕え、そのようにして、教会はいつの時代にも宣教活動を続け、教会を前進させてきました。

教会はイエス・キリストのみ名によって歩く信仰者たちの群れとして誕生し、また生きるのです。他の何かによって歩くのではありません。教会は他の何かによっては決して立つことも、歩くこともできないということを知っている人々の群れです。教会は2千年の間、そして今もなお、ナザレの人イエス・キリストのみ名によって立ち、歩く以外にありません。わたしの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利された主イエス・キリストのみ名を信じて、ここにこそわたしの生きる土台があり、わたしが進むべき道があり、そしてわたしの最終の目的地があると告白する人たちの群れ、それが教会です。そしてまた、教会はこの世の人たちに向かって、「あなたも主イエス・キリストのみ名を信じて立ち上がり、本当の救いの道を歩きなさい。そこにこそ、あなたの生きる土台があり、あなたの進むべき道がある」と宣べ伝える人たちの群れ、それが教会です。

 では、使徒言行録3章に書かれている最初の奇跡はどのようにして起こったのでしょうか。【1~2節】。ペトロは主イエスの十二弟子のリーダーでしたが、エルサレム教会の最初の指導者でもありました。ヨハネは十二弟子の一人ゼベダイの子ヤコブの兄弟ヨハネと考えられています。二人一緒に行動しているのは、福音書に書かれているように、主イエスが弟子たちを二人一組で宣教に派遣されたことを受け継いでいるのかもしれません(マルコ福音書6章7節参照)。

 エルサレム神殿では当時、日に三度、朝9時と正午と午後3時に祈りがささげられていました。午後3時には動物の犠牲がささげられていたので、多くのユダヤ人が神殿に集まってきました。その時刻に合わせて、一人の生まれつき足の不自由な人が運ばれてきて、美しい門のそばに置かれていました。この人は自分では一歩も歩けません。でも幸いなことに、彼には助けてくれる家族か友人がいました。彼は毎日彼らに運ばれてきて美しい門のそばに置かれ、神殿に集まってくる人々から施しを乞い、それによって命をつないでいたのでした。信仰深いユダヤ人は貧しい人や社会的弱者を見捨てることはしませんでした。ユダヤ教では施しは祈りとともに最も敬虔で信仰深い行為とされていました。この人は信仰深いユダヤ人の憐みにすがって生きていくしかありませんでしたし、またそれを期待することもできたのです。

 けれども、毎日そのことを繰り返しても、それは本当の意味での彼の救いにはなりませんでした。彼が、救い主であられる主イエス・キリストに出会うまでは。ここに、古いユダヤ教の信仰の限界が示されているように思われます。キリスト教会の最初の宣教におけるこの奇跡の出来事が、エルサレム神殿を舞台にしているということの象徴的な意味を、わたしたちはここで考えることができるように思います。エルサレム神殿を中心にしたユダヤ教の宗教の時代が今や終わって、主イエス・キリストのみ名を信じる信仰によって生きる新しい教会の歩みがここから始まったのです。主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしを信じる教会の信仰がここから始まったのです。

 エルサレム教会はまだ定まった礼拝場所や教会堂を持っていませんでした。神殿や信者の家々が集会の場所でした。ペトロとヨハネも当時のユダヤ人の習慣にならって、神殿で祈りをささげていたと思われます。ここには古い宗教とキリスト教との連続性が示されているようにも思われます。ペトロが語った主キリストの福音はユダヤ教の教えとははっきりと違っていましたが、それはまた同時に、ユダヤ教とは全く別の所からやってきた教えであるのではありません。神がイスラエルの民ユダヤ人を選んでお始めになられた神の救いのご計画が、今主イエス・キリストによって成就し、完成を見たのです。わたしたちはここから、旧約聖書と新約聖書の連続性をも読み取ることができます。

 次に、【3~6節】。3節から5節に「見る」という言葉が計4回用いられています。これらは原文のギリシャ語ではみな違う言葉です。少しずつ意味も違っていると考えられています。それぞれの意味の違いを見ていきましょう。3節の「見る」は、生まれつき足の不自由な人が、通りかかったペトロとヨハネを見て、施しを乞うという場面です。この「見る」は、足の不自由な人がいつもと同じように目の前を通り過ぎていく人たちを見ていることであり、ここではまだ人間と人間との出会いは起こっていません。ある人はそのまま通り過ぎていくし、ある人は立ち止まって何がしかの施しをする。そして彼は感謝する。けれども、そこではまだ真実の出会いは起こっていません。

 次に、4節で、ペトロとヨハネが彼を「じっと見る」ですが、この言葉は注視する、凝視するという意味を持ち、相手の人間を強く捕らえる目であり、その人の全人格を受け入れ、その人との交わりを持とうとする目のことです。その人の魂を捕え、魂の渇きを受け入れる目です。この目は、福音書の中でしばしば描かれている主イエスが人を捕え、ご自身へとお招きになる目にも似ています。主イエスはガリラヤ湖のほとりで網を繕っていたペトロをご覧になり、「あなたを人間を取る漁師にしよう」と言われると、ペトロはすべてを捨てて主イエスに従って行ったと書かれています。主イエスはまた収税所に座っていたレビをご覧になり、「わたしに従ってきなさい」とお招きになると、彼はすぐにすべてを捨てて主イエスに従ったと書かれています。木の上に登っていたザアカイをご覧になり、「急いでおりてきなさい。今夜あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。主イエスの目に捕らえられた彼らは、主イエスとの真実の出会いを経験し、そして救いと奉仕への道を歩み出しました。

 ペトロとヨハネは、足の不自由な人の前を通り過ぎませんでした。二人は彼をじっと見て、彼のすべてを受け入れて、「わたしたちを見なさい」と言いました。この「見る」は目を開いてみる、注意して見るという意味です。「わたしたちを見なさい」とは、いつもと同じように、あなたの前を通り過ぎていく人たちとは違って、あなたの前で足を止め、あなたに新しい救いの恵みをもたらすであろう主イエスの福音を携えているわたしたちを見なさいという意味が込められています。

 ここで、互いに立ち止まって相手を見る、相手の姿だけではなく、互いの人格と存在全体を見る、ここから人間と人間との出会いが始まります。奇跡はここから始まります。キリスト教の宣教活動はここから始まるのです。主イエスの福音を持ち運んでいる人と、その福音を必要としている人の出会いがこのようにした始まるのです。

 5節の「見つめる」は何かを期待している目です。もっともこの人は、この時にはいつもと同じように何がしかの施しを期待していたのでしたが、その期待を裏切るかのようにして、6節でペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じました。ここでは、人間と人間との出会いから、神のみ言葉との出会い、主イエスの福音との出会いが起こっています。いや、それだけではありません。罪と死とに勝利された復活の主イエス・キリストと彼との出会いが起こったのです。ここで、神の奇跡が起こりました。主イエス・キリストの福音による救いの出来事が起こりました。

 【7~10節】。生まれつき足の不自由だったこの人が、一度も自分の足で歩いたことがなかったこの人が、主イエス・キリストのみ名によって立ち上がり、歩き出しました。この奇跡は、主イエス・キリストのみ名の力によるのであり、主イエス・キリストの福音そのものが持っている救いの恵み、救いの力によるものです。ペトロはこのあとの説教でそのことを説明しています。【12~16節】。主イエス・キリストによる新しい救いの時が始まりました。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、すべての罪から救われ、いやされ、新しい救いの道を歩みだす歩みが、エルサレム教会から始まり、全世界の教会へと拡大されていくのです。

 不自由だった足がいやされ、立ち上がり、歩き出したこの人はどうしたでしょうか。立ち上がった足で、急いで家族や友人の所へ帰ったのではありませんでした。これまではできなかった散歩や山登りを楽しんだのでもありません、彼はまず最初にすべてのことに先立って、立ち上がった足で踊りながら神を賛美し、また神を礼拝するために神殿に入っていきました。これこそが、彼の足がいやされ、彼が救われた第一の目的だったからです。彼に今丈夫な足が与えられた第一の目的だったからです。そして、そのようにして彼は全身をもって神を賛美し、神を礼拝するために生きること、いやされた彼の足と救われた彼の全身を用いて神と主キリストのために生きること、それが「ナザレの人主イエス・キリストのみ名によって歩く」ことなのです。

(執り成しの祈り)

〇主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの足と歩みとを強めてください。主キリストの福音を持ち運ぶ足としてください。その福音を道に迷う人たちに宣べ伝える歩みとしてください。わたしたちの教会の宣教活動を強め、導いてください。

〇主なる神よ、この世界とその中に立てられている主キリストの教会を顧みてください。希望を失い、不安と混乱の中にある人々に、教会が真実の光を掲げ、まことの救いの道を示していくことができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月7日説教「安息日の救い主イエス」

2021年3月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記5章12~15節

    ルカによる福音書6章6~11節

説教題:「安息日の救い主イエス」

 ルカによる福音書6章1節から、安息日についての主イエスとファリサイ派の人たちとの二つの論争が続けて書かれています。1~5節の最初の論争は、ファリサイ派からしかけました。彼らは、主イエスの弟子たちが麦畑を通った時、麦の穂を摘み、手でもんで食べたことが、安息日に禁止されている収穫作業、食事の準備作業に当たると言って弟子たちを非難しました。それに対して主イエスは、旧約聖書に書かれているダビデの行動を取り上げて、ダビデよりも偉大な神のみ子・メシア・キリストが安息日の主として、安息日律法のすべてを完全に成就するために今ここに立っていると宣言されました。

 きょうの礼拝で朗読された6節以下の第二の論争は、どちらと言えば主イエスの方から仕掛けているように見えます。主イエスは律法学者やファリサイ派の偽善的な信仰や安息日律法の間違った理解を明らかにするために、あえて彼らが見ている前で、右手がなえている人をおいやしになられました。そしてまたここでも、安息日律法の本来の意味を明らかにされ、主イエスこそがその安息日律法を完全に成就するメシア・キリスト・救い主であることを宣言されたのです。

 【6~8節】。安息日とは、イスラエルの民ユダヤ人にとっては土曜日に当たります。彼らはモーセの十戒の第三戒で命じられている「安息日を覚えて、これを聖とせよ。この日には何の仕事もしてはならない」と言う安息日律法を、自分たちが神に選ばれた神の契約の民であることの最も大切な律法として守り続けていました。神が安息日律法をお命じになった理由の一つが、出エジプト記20章11節によれば、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主が安息日を祝福して聖別された」からでした。そるゆえに、神の民であるイスラエルの人々もまたこの日には仕事を休み、神の天地創造のみわざを覚え、感謝し、その祝福にあずかるために、神を礼拝して過ごすのです。

 申命記5章15節にはもう一つの理由が書かれています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」と説明されています。神の民イスラエルは自分たちの救いが主なる神にのみあることを信じて、この神のみ言葉に聞き従い、この神のみ心を行って生きるために、安息日を重んじました。安息日には自分たちの手の働きを全くやめて、神ご自身がお働きくださるために、神が救いのみ業をなしてくださるために、この日にはエルサレムの神殿で、また各地にある会堂で、神を礼拝しました。イスラエルはこの安息日律法を忠実に守ることによって、ダビデ王国が滅び、異教の国々の支配下にあってもなおも、神の民として生き続けることができたのです。

 主イエスと弟子たちも安息日にはガリラヤ地方の会堂で神を礼拝しました。けれども、主イエスはイスラエルの民の一人として安息日律法を守っておられたのではありませんでした。安息日の主として、安息日律法を完全に成就されるメシア・キリスト・救い主として会堂に入って行かれ、そこで神の国の福音を語っておられました。

 他方、当時の宗教の指導者であった律法学者やファリサイ派は信仰をもって真実の神礼拝をするために会堂に来ていたのではありませんでした。彼らは主イエスを安息日律法の違反者として訴えるために、主イエスの行動を監視するために礼拝堂にいたにすぎません。彼らの礼拝姿勢は決して正しいとは言えません。彼らは礼拝者の中に病んでいる人がいることを知っていても、その人のために神の憐れみといやしを祈り求めることはしません。また、自分たちがその人のために何ができるかを考えることもしません。むしろ、その人を自分たちの悪意のために利用しようとしていたのです。彼らには真剣な悔い改めの思いは全くありません。また、神の創造と救いのみわざを感謝し、神を礼拝するという安息日の中心的な意味からもほど遠かったと言うべきでしょう。したがって、彼らは安息日律法を正しく守っていなかったということが明らかです。そのような律法学者やファリサイ派の人たちが主イエスを安息日律法の違反者として裁くことなどできるでしょうか。本当に裁かれなければならないのは、彼らの方ではないでしょうか。彼らの偽善的な信仰がここでもあばかれます。

 律法学者やファリサイ派は、律法を重んじ、安息日を厳格に守っていると自ら誇っていました。彼らは聖書に書かれているみ言葉にさらに自分たちの解釈を付け加えて、安息日の掟をいくつにも細分化し、重くして、それを人々に重荷として課していました。たとえば、安息日には850メートル以上歩けば、それは禁じられている旅行になるとか、命の危険がある緊急の場合は手当てをしてもよいが、そうでない限りは禁じられている治療行為に当たるとか、ハンカチを持って歩くのは荷物を持ち運ぶ労働になるけれど、それを腕に巻き付ければ服装の一部となるから安息日律法の違反にはならないとか、そのような類(たぐい)の議論を果てしなく続けていたのでした。そのような細かな決まりを守ることが信仰だと教えていたのです。

 けれども、それは安息日律法を守るという本来の意図からは離れた偽善的な信仰でしかないことを主イエスは見抜いておられました。そこで主イエスは、彼らに挑戦するかのように、手のなえた人に「立って、真ん中に立ちなさい」と言われました。主イエスは手がなえた人を礼拝堂の中心に立たせます。彼らこそが礼拝の中で最も重んじられ、最も大きな神の恵みを受けるべきであるということを明らかにされたのです。病んでいる人、傷ついている人、罪の中で苦しんでいる人こそが、礼拝の中心に置かれ、神の救いの恵みと憐れみを最も多く受け取ることが許されている、そのような礼拝こそが安息日の礼拝なのです。主なる神はこの安息日に、そのような人たちのためにこそ、ご自身の創造のみわざを、救いのみわざをなしてくださるのです。神のみ子であられ、安息日の主であられる主イエスは、安息日にそのような父なる神のみ心を行われます。

 手がなえた人を礼拝の会衆の真ん中に立たせたということは、会衆みんなに見られるためでもありました。みんなが見ている前で、主イエスは手がなえている人をいやされました。その行為は、律法学者やファリサイ派の考えによれば、命にかかわる緊急な症状ではないので、安息日には禁じられている治療の行為でした。それによって、主イエスが彼らの厳しい批判を受け、もしかしたら安息日律法を意図的に破った罪を問われ、死刑にされるかもしれないという危険をはらんでいました。実際に、11節には、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と書かれています。ここにすでに、主イエスのご受難と十字架の死が暗い影を落としているのをわたしたちは見るのです。主イエスはご自身の命をかけて、安息日の本当の意味を明らかにするために、そしてご自身が安息日の主として、安息日の救い主としてのお働きをするために、あえて律法学者やファリサイ派の目の前で、多くの証人たちが見ている前で、手がなえている人をいやされるのです。主イエスの十字架への道は続きます。

【9~10節】。主イエスは安息日のこの日に、あえてその人をおいやしにならなくてもよかったのかもしれません。しかも、律法学者やファリサイ派の人たちが主イエスを律法違反で訴える口実を見つけようとねらっている彼らの目の前で、ご自身の命を危険にさらしてまでも、その人をおいやしになる必要はなかったと多くの人は思うでしょう。けれども、主イエスは「安息日の律法が許しているのは善を行うことか、それとも悪を行うことか、命を救うことか、それとも滅ぼすことか」と問われます。安息日の律法をお与えになった神は天地万物を無から創造され、それに存在と命とをお与えくださり、すべての創造されたものを祝福してくださる恵みの神です。また、わたしたちを罪の奴隷から解放され、死と滅びから救い出される救いの神です。それゆえに、安息日律法が求めているのは、善を行うことであり、命を救うことです。もし、安息日に善を行わないならば、それは悪を行うことであり、もし命を救うことをしないならば、それは滅ぼすことです。主イエスにとっては、安息日には善を行うことと命を救うことを選び取る以外にはありません。

主イエスが安息日に病んでいる人をいやされたという記録はこのあとにもあります。。13章10節以下には、腰が曲がったまま18年間も苦しんでいた婦人を安息日にいやされたことが書かれています。14章1節以下では、水腫を患っていた人をいやされました。安息日の主、安息日の救い主であられる主イエスにとっては、病んでいる人がいるのを見て、彼を憐れみ、いやすことは善であり、何もしないことは悪です。その病んでいる人を憐れみ、いやすことは彼の命を救うことであり、何もしないことは彼を滅ぼすことです。主イエスは、この安息日にこそ善い業を行われ、救いのみわざを行われます。主イエスは安息日の礼拝においてこそ、最も力強く働かれ、善いみわざを、救いのみわざを行われ、それによって神がお始めになられた創造のみわざと救いのみわざを完成され、安息日の本当の意味を成就されたのです。

主イエスはきょうのわたしたちの礼拝の主として、わたしたちと共にいてくださいます。さまざまな欠けや破れを持っている罪多いわたしたちのために、救いのみわざをなしてくださいます。わたしたちを罪と死と滅びから救い出し、新しい命を注ぎ込んでくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ言葉によって創造されたこの世界を祝福し、すべての造られたものに平安をお与えください。あなたのみ心に背いて、滅びに向かうことがありませんように。すべての造られたものがあなたのみ旨を行い、あなたのご栄光を現わすものとなりますように。

〇天の父なる神よ、あなたが全地にお建てくださった主キリストの教会を顧みてください。今、日本とアジア、そして世界の教会は大きな試練の中にあります。全世界の人々と共に教会はその痛みと重荷と切なる祈りとを担っています。どうぞ、教会の民を強めてください。わたしたちの執り成しの祈りを強めてください。

〇主よ、教会を憐れんでください。世界の民を憐れんでください。病んでいる人たち、道に迷っている人たち、希望を失っている人たち、孤独な人たちを憐れんでください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月28日説教「アブラハムの信仰が義と認められた」

2021年2月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記15章1~6節

    ローマの信徒への手紙4章1~12節

説教題:「アブラハムの信仰が義と認められた」

 創世記15章では、神がアブラハムにお与えになった二つの約束がテーマになっています。その一つは、1~6節で、神がアブラハムに祝福を受け継ぐ子孫をお与えになるという約束、二つには、7節以下で、神がアブラハムと彼の子孫に約束の地カナンを所有の地としてお与えになるという約束です。この二つの約束については、これまでにも二度聞いてきました。最初は12章1~3節、彼が最初に旅立った時に聞いたみ言葉です。次は13章14~17節、彼が甥のロトと別れたあとに聞いたみ言葉です。そして、きょうの個所で三度目になります。さらに、17章でも繰り返されます。

このアブラハムへの約束、これをアブラハム契約と言いますが、この約束はアブラハムの子イサクへ、さらにイサクの子ヤコブへと受け継がれていきます。神の約束のみ言葉は人を超え、世代を超え、時代を超えて、受け継がれていきます。そして、わたしたちが知っているように、アブラハム契約はイスラエルの民へと受け継がれ、主イエス・キリストによって全世界の教会へと受け継がれているのです。アブラハム契約は主イエス・キリストの福音によって完全な意味でわたしたち教会の民に成就されました。

 きょうは15章1~6節を学びますが、まず6節のみ言葉に注目したいと思います。【6節】。ここに書かれているみ言葉が、のちのキリスト教会の歴史の中で、いかに偉大なみ言葉となったかということについて、どれほど強調しても強調しすぎることはないと言ってよいでしょう。アブラハムからおよそ2千年後になって、使徒パウロはこのみ言葉をローマの信徒への手紙4章3節とガラテヤの信徒への手紙3章6節で取り上げ、彼の二通の手紙の主題をこのみ言葉を土台にして展開しています。ローマの信徒への手紙4章1~5節を読んでみましょう。【1~5節】(278ページ)。

そしてさらに、使徒パウロから1500年ほどあと、宗教改革者マルチン・ルターとジャン・カルヴァンはローマ・カトリック教会の中で長く見失われていたこのみ言葉の偉大さを再び見いだしました。彼らはそれを、「ただ信仰のみ」という標語で言い表しました。「ただ信仰のみによって、罪びとは神に義と認められ、罪ゆるされ、救われる」というキリスト教の教えの中心を彼らは再構築しました。これを一般に「信仰義認」と言います。

創世記15章に書かれているアブラハムの信仰、そして使徒パウロが主イエス・キリストの福音によってより明確にした福音的信仰、さらに宗教改革者たちが再発見したプロテスタント福音信仰を、彼ら宗教改革者たちは「ただ信仰のみ」という言葉で強調しましたが、それを彼らはまた、「ただ神の恵みのみ」「ただ神のみ言葉のみ」という言葉で深めました。アブラハムは神のみ言葉を聞き、それを信じました。神のみ言葉は神から一方的に与えられる神の恵みです。アブラハムはそれを信じて、神の恵みを受け入れました。神はそのアブラハムの信仰を義と認められ、彼に救いの恵みをお与えになりました。すべての信仰者は、わたしたちもまた、そのようにして、ただそのようにして、「神のみ言葉によって、神の恵みによって、それを信じる信仰によって」、罪ありながらも、神によって義と認められ、罪ゆるされ、救われるのです。

『日本キリスト教会信仰の告白』はそれをこのように告白しています。(礼拝堂の椅子のポケットに入っているプリントを参照してください)。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。これがアブラハムの信仰を受け継ぎ、使徒パウロが主キリストの福音を信じる信仰によって明確にし、宗教改革者たちが再発見したわたしたちの教会の信仰です。ここに、ただここにだけ、真実の救いがあり、アブラハムから受け継いだ神の祝福があり、神が約束しておられるみ国の民とされる保証があるのです。

では、どのような状況の中で、どのようにして、アブラハムの信仰が義と認められたのかを、1節から読んでいきましょう。【1節】。「主の言葉が臨んだ」という表現がここでは用いられています。これまでは、「主が言われた」という表現でしたが、「主の言葉が臨んだ」を直訳すると、「主の言葉がアブラムの上にあった」となり、神のみ言葉が上からアブラハムを覆い、彼を上から支配していることが強調されているように思われます。「幻の中で」という言葉も、同じことを強調していると思われます。アブラハムはこの時あたかも眠っているかのように、無意識のうちにと言うか、彼自身の意志とか思いとかをはるかに超えた神のみ言葉の圧倒的な力、神の意志、神のみ心がここでは強調されているのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているということにまず注目したいと思います。

神は言われます。「恐れるな、アブラムよ」と。と言うことは、アブラハムはこの時、何かを恐れていたということになります。何を恐れていたのかについては分かりません。生まれ故郷のカルデヤのウルを出発し、放浪の旅を続けて10年、20年が過ぎて、いまだに続く不安定な生活を恐れていたのか、あるいはいまだに神の約束は一つも実現していない、約束の地を所有することもできず、約束の祝福を受け継ぐ子どもも与えられないという神のみ言葉への不信からくる恐れなのか、その他さまざまな恐れが予想されますが、ここには何も説明されていません。

わたしたちはここに書かれているみ言葉から考えるのがよいでしょう。すなわち、「主の言葉がアブラムに臨んだ」、そのことのゆえに彼は恐れたのだと。それこそが聖書の言う「恐れ」なのだということに、わたしたちは気づかされます。神が人間アブラハムにみ言葉をお語りになる時、神のみ言葉が強い力をもってアブラハムの上を覆う時、彼は恐れざるを得ません。天におられる聖なる神が地に住む罪びとである人間に語りかけ、ご自身のお姿を現される時、人間は恐れざるを得ません。神が人間に出会われる時、神が人間にみ言葉をお語りになる時、わたしたちはみな恐れざるを得ません。その時わたしたちは「神よ、わたしは罪にけがれた者です。あなたのみ前では滅ぶべき者です。わたしを離れてください」と告白し、恐れおののきつつ、神のみ前にひれ伏さざるを得ません。そして、これがわたしたちの礼拝の姿勢です。

その時、神は「恐れるな」と言われるのです。「恐れるな」とは神の命令です。恐れを禁止するだけでなく、同時に恐れを取り除く、神の命令です。「あなたはもはや何ものをも恐れるには及ばない。恐れるべきではない。恐れなくもよい」。これは、慰めと憐れみに満ちた神の命令です。神の「恐れるな」との命令を聞く者は幸いです。その人はこのみ言葉によってすべての恐れから解放されるからです。神を恐れ、神から「恐れるな」とのみ言葉を聞く人は、他のいかなるものをも恐れるには及びません。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

神は続けてアブラハムに語られます。「わたしはあなたの盾である」と。盾とは敵の攻撃から身を守るものです。アブラハムを襲うであろう攻撃や誘惑、あるいはさまざまな恐れや不安、それらからアブラハムを守り、彼を幸いな道へと導くために、神はアブラハムの盾となって働かれるという約束です。

それゆえに、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と神は言われます。この場合の「報い」とは、アブラハムの何らかの功績に対する報酬ではなく、神から一方的に差し出される恵みのことです。神ご自身がアブラハムのために勝ち取ってくださった恵みのことです。それゆえに、その恵みはアブラハムが努力して得られるどんな恵みよりもはるかに大きな恵みであると言われているのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

神の大きな恵みを約束されたアブラハムは驚き、自分がそれを受けるに値しない者であることを告白せざるを得ません。【2~3節】。「あなたの子孫を永遠に祝福する」と約束された神は、いまだにアブラハムに子どもをお授けになりません。アブラハムはこの時すでに百歳近くになっており、妻のサライは11章30節によれば、子どもができない体質でした。彼らに子どもが生まれるという人間的な希望や可能性は全くありませんでした。当時の習慣によれば、家に家督を継ぐ男の子が生まれない場合には、家の奴隷の男の子を養子にすることが定められていました。アブラハムもまたそのようにして家を絶やさないようにするほかにないと考えていたのでした。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

【4~5節】。人間的に見れば、全く希望がなく可能性もないような、そのような人間の無力と絶望の中で、またもや神のみ言葉がアブラハムの上に臨みました。神の命と恵みに満ち溢れたみ言葉が、アブラハムの上を覆い、彼を包み、彼を希望と喜びに満たすのです。神のみ言葉は、無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。時あたかも、深夜、一面暗闇に閉ざされている世界で、神は「天を仰いで、空の星を見よ。その星の数を数えてみよ」とお命じになります。これは、何とも生き生きとした、印象深い情景であることでしょうか。おそらくは、4千年前にアブラハムが見た夜空の星と、今日わたしたちが見る夜空の星とは、ほとんど変わりはないでしょう。わたしたちはここに描かれている情景を、そっくりそのまま今日自ら再現することができるでしょう。「あなたの子孫はこのようになる。あなたが受ける恵みはこのように多く、大きい。あなたに約束されている祝福はこれほどに豊かで、光輝いている」。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中でわたしたちのためにも語られているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人にお与えくださった大きな恵みを、心から感謝いたします。わたしたちはあなたの恵みを受けるに値しない弱く貧しい者たちですが、あなたの限りない憐れみと愛とを覚えて、み前に恐れおののきつつ、ひれ伏す者であります。

〇主なる神よ、わたしたちがあなたの恵みの応えて、喜んであなたのみ心を行い、あなたのご栄光を現す者となりますように、お導きください。

〇神よ、日本とアジア、全世界に建てられている主キリストの教会とその地に住むすべての人々を憐れみ、顧みてください。特にも、小さな、弱い者たち、貧しく、傷ついている人たち、迷い、苦しんでいる人たちの上に、あなたの恵みと祝福が豊かに注がれますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月21日説教「初代教会の信者たちの生活」

20201年2月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記8章1~10節

    使徒言行録2章42から47節

説教題:「初代教会の信者たちの生活」

 使徒言行録2章42~47節には、ペンテコステの日に誕生したエルサレム教会(これを原始教会とか初代教会とも言います)の信者たちの生活についてまとめて報告されています。同じようなまとめがこのあとにも続きます。4章32節以下、ここでもきょうの個所と同様に信者たちの一致が強調されています。次は6章7節、9章31節でも、それまでの初代教会の歩みがまとめられています。使徒言行録の著者であるルカは、本職は医者だったと推測されますが、歴史家の能力をも発揮して、初代教会の歴史を一つの一つの段階を経て進展していく歴史書として記述しています。

ちなみに、日本語の聖書では2章42節と43節の間に段落をもうけていますが、42節から最初のまとめの報告が始まっているという理解が一般的です。42節では初代教会の主な特徴が4つ挙げられていて、43節からはその具体的な内容が書かれていると考えられるからです。前回、そのうちの1番目と4番目について学びましたから、きょうは2番目と3番目、「相互の交わり」と「パンを裂くこと」を中心に学んでいくことにします。

相互の交わりについては44節以下に詳しく書かれていますが、その前に43節を読んでみましょう。【43節】。「恐れ」とは、神に対する恐れのことです。教会は、エルサレム初代教会から今日のすべての教会に至るまで、神への恐れが満ちている場所です。この点において、教会はこの世の他のすべての社会や集団から区別されます。この世では、暴力的な権力者を恐れるとか、集団の損失を恐れたり、あるいは突然の事故や自然災害、また病気を恐れたり、老いや死を恐れるということもあります。けれども、それらの恐れは神を恐れる恐れとは根本的に違います。神を恐れるとは、人間やこの世にあるものすべてをはるかに超えた絶対他者であり、いと高き天にいます全知全能の神を唯一の主と崇め、この神が全地を永遠に支配しておられことを信じ、この神に服従するという信仰から生じる恐れのことです。それゆえに、この神を恐れ、この神に従う人は、他のいかなるものをも恐れる必要はなくなります。教会はこのような神への恐れに満ちている場所であり、それゆえに他のいかなるものをも恐れない信仰者の群れなのです。

この恐れは43節の後半によれば、「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われた」ことから生じたと書かれています。「不思議な業としるし」とは、神が使徒たちをお用いになってなされた驚くべき奇跡のみわざのことです。使徒言行録にはこのあと、そのような多くの奇跡のみわざが記されています。主イエスの場合がそうであったように、奇跡やしるしは神の国が到来したことの目に見えるしるしです。主イエスがこの世においでになられたことによって、それまで世界を支配していた悪やサタン、罪や悪しき霊がその力を失い、神の恵みのご支配が始まった、神の国が到来したことの目に見える、確かなしるしとして、驚くべき奇跡や不思議なみわざが行われました。それらの不思議と奇跡の中心が神のみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活であると言えるでしょう。

次の44節からは、エルサレム教会・初代教会の相互の交わりについて具体的に描かれています。【44~45節】。「一つになって」という言葉は、初代教会の信者たちの一致と団結を言い表す専門用語で、使徒言行録では多く用いられています。1章15節、2章1節にも同じ言葉がありました。信者たちがいつも同じ場所で寝泊まりするという共同生活をしていたのではありませんでしたが、彼らは何かによって固く一つに結び合わされているかのように団結していたことが強調されたいます。その何かとは、言うまでもなく、教会の頭(かしら)である主イエス・キリストによる一致であり、主キリストによって罪ゆるされている救いの恵みによって与えられている一致であり、聖霊なる神によって結ばれた信仰の交わりによる一致です。罪のゆるしがあるところに真の一致があります。と言うのは、罪は神と人間との関係を破壊し、人間と人間との関係をも破壊するからです。主キリストの十字架の福音によって罪ゆるされ、神との交わりを回復され、神の民、神の家族とされるところにこそ、真の一致が与えられるのです。

「すべての物を共有にし」ていたことは、エルサレム教会の信者たちの生活の最も大きな特徴であったと言ってよいでしょう。4章32節でも「すべてを共有していた」と書かれています。これが具体的にどのようなことであったのかについては、理解に多少の違いがあります。これは一般に原始エルサレム教会の共産主義と呼ばれたりしますが、それが個人の財産の所有を全く禁止していたのかどうかが議論されています。45節の表現や5章のアナニアとサフィラ夫妻が土地を売ったがその代金をごまかして一部だけをささげたという記録などから推測すれば、信者たちはそれぞれの財産を所有しながら、必要に応じてそれを売却し、貧しい信者に分配していたと思われるので、厳密な意味で個人の所有を禁じていたのではないように思われます。キリスト教社会経済学者のマックス・ヴーバーはこれを「愛の共産主義」と名づけています。法的な意味での私有財産禁止とか、制度的な共産主義ではなく、神と臨人への愛によって、自由な愛の意志によって自分の財産を差し出し、教会全体のためにささげるということであったのではないかと、ヴーバーは推測しています。

いずれにしても、わたしたちがここから読み取ることができることは、初代教会の信者たちは所有欲から全く解放されていた、地上の財産を所有することを生きる第一の目的としてはいなかったということです。彼らは主イエスが言われたように、天に宝を積むことを第一にしていました。天にある朽ちることのない財産を受け継ぐことを喜びとしていました。それによって彼らは地上の朽ちる命ではなく、天に蓄えられている朽ちない永遠の命を追い求めていたのです。そして、自分の持ち物を惜しみなく教会全体のためにささげていたのです。

もう一つの初代教会の特徴は、パンを裂くことでした。46節にそのことが具体的に記されています。【46節】。パンを裂くとは、主イエスが制定された聖晩餐のことです。主イエスは十字架につけられる前日の木曜日の夕方、弟子たちと一緒に最後の晩餐を囲まれました。その晩餐はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの食事であったと共観福音書は記しています。その席で主イエスはパンを裂かれ、弟子たちに渡され、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしを記念するために、このように行いなさい」と言われ、またぶどう酒の杯を取られ、「この杯はあなたがたのために流すわたしの契約の血である」と言われました。初代教会はこれを聖晩餐として受け継ぎ、そして今日に至るまで2千年間世界の教会は聖餐式として受け継いできました。聖餐式は主イエスの十字架の死によって与えられた救いの恵みを目で見、口で味わい、共に一つの食卓を囲む一つの群れであることを体験することによって救いの恵みをより確かにする聖礼典です。

「家ごとに集まってパンを裂き」とあるように、エルサレム初代教会はまだ共に集まる会堂を持っていませんでしたから、家々に集まり、礼拝をささげ、聖餐式を守っていました。また、「喜びと真心をもって一緒に食事をし」とあるように、初代教会では聖餐と普通の食事(これを愛餐と呼んだりしますが)とを同時に行っていたらしいということが、パウロの書簡などからも推測されています。その後、聖晩餐と愛餐とは次第に分離されるようになり、聖餐式が教会の聖礼典として受け継がれるようになりました。でも、聖餐式が一つの食卓を囲む共同の食事であり、終わりの日の神の国での盛大な祝宴を先取りするものであるということは変わりません。

初代教会の信者たちは聖晩餐と愛餐を喜びと真心とをもって行っていました。彼らを満たしている喜びは、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって救われた喜びであり、また復活された主イエス・キリストが今ここで現臨しておられ、信じる者たちに復活の希望を与えてくださる喜びであり、そして終わりの日に完成される神の国での祝宴を先取りし、それに招かれていることの喜びです。教会はこの喜びに満たされている信仰共同体です。わたしたちの教会の礼拝と聖餐式にも同じ喜びが与えられています。

ここでもう一度、42節のまとめの句を読んでみましょう。【42節】。まず使徒の教えが挙げられています。使徒の教え、すなわち主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音の説教が教会の土台だということです。教会の礼拝では主のみ言葉の説教が語られ、そのみ言葉によって罪ゆるされた信仰者たちの愛の交わりがあり、そして聖餐式、共同の祈りもまたみ言葉の説教との密接はつながりの中で、そのみ言葉に導かれながら行われるのです。

特に、み言葉の説教と聖餐式とのつながりをわたしたちプロテスタント教会は重視してきました。と言うのは、かつてローマカトリック教会がこの二つを分離して、聖餐式だけを重んじていたからです。カトリック教会ではミサと言いますが、ミサだけで礼拝全体を指すようになり、み言葉の説教は行われなくなりました。み言葉の説教を取り戻したのが宗教改革です。宗教改革は福音の再発見であったとともに、礼拝の改革でもあったのです。み言葉の説教を耳で聞き、信じ、それに加えて聖餐式が目で見るしるしとして、わたしたちの信仰をより確かにし、強めるのです。み言葉の説教と聖餐式の結びつきが重要です。

最後に【47節】。教会の伝道のわざ、宣教のわざは、本来主なる神ご自身がなしてくださいます。わたしたち教会に連なる信仰者たちは、そのことを信じて主なる神にお仕えするのです。神ご自身が、日々、信じ救われる仲間を増し加えてくださいます。そのことを信じて、わたしたちは礼拝からこの世へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが聖霊によってお建てくださったこの教会をどうぞ守り導いてください。この時代の中で、この地域の中で、主イエス・キリストの福音を力強く宣教し、あなたの救いのみわざのためにお仕えしていくことができますように。

〇主なる神よ、日本と世界の教会を顧みてください。新型コロナウイルス感染症の拡大によって、共に集まる礼拝や聖餐や祈りが制限され、その他の教会の活動が制限され、多くの困難に直面しています。どうか世界の教会がこの試練の中で、いよいよ主なるあなたのみ言葉と聖霊のお導きに信頼して、あなたから託されている宣教の務めを果たしていくことができますように、勇気と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月14日説教「安息日の主、イエス・キリスト」

2021年2月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上21章1~7節

    ルカによる福音書6章1~5節

説教題:「安息日の主、イエス・キリスト」

 ルカによる福音書6章1節に、「ある安息日に」とあり、続く6節にも、「また、ほかの安息日に」と書かれています。ここには、安息日をめぐっての主イエスとファリサイ派・律法学者たちとの二つの論争が書かれています。彼らは主イエスと弟子たちが安息日の律法を守っていないと批判しています。安息日をめぐっての論争が二つ続けられていることには理由があります。ユダヤ人にとっては、安息日の律法を守ることは非常に重要であり、自分たちが神に選ばれた特別な民であることの根拠であったからです。もし、主イエスが安息日律法を正しく守っていないならば、彼はユダヤ人の宗教的指導者ではあり得ないし、旧約聖書で約束されたメシア・キリスト・救い主でもあり得ない、とファリサイ派・律法学者たちは考えたのです。しかし、主イエスはこの二つの安息日論争によって、主イエスこそが安息日の主として、安息日律法を完全に成就するメシア・キリスト・救い主であることを証しされました。

 安息日の律法とは、出エジプト記20章8~11節に、モーセの十戒の第四の戒めとして定められています。その個所を読んでみましょう。【8~11節】(126ページ)。また、申命記5章15節では、安息日を守る理由・目的としてこのように説明されています。【15節】(289ページ)。

 安息日とは、神の天地創造のみわざを覚え、自分たちの命と存在のすべてが造り主なる神のみ手の中にあることを感謝し、この神を礼拝するために備えられた日なのです。また、神がイスラエルの民を奴隷の家エジプトから導き出された神の救いのみわざを覚え、感謝して、神を礼拝する日なのです。イスラエルの民はこの安息日律法を守ることによって、神から与えられた命と祝福のうちに歩み、神の救いの恵みを受け、神との契約の民として生きていくのです。安息日律法を軽視したり、これを守らない人は、神から与えられる命と救いの恵みから除外されるだけでなく、イスラエル信仰共同体から除外されなければなりません。安息日律法を守ることこそが、彼らの信仰の源、命であり、彼らの信仰そのものでありました。

 イスラエルの民ユダヤ人にとっての安息日は土曜日でしたが、教会の民キリスト者にとっては日曜日が主イエス・キリストの復活を記念する新しい安息日となりました。曜日は変わりましたが、旧約聖書時代の安息日の基本的な意味は受け継がれました。さらには、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、安息日の意味はイスラエルの民だけでなく、全人類のすべての人に及ぶようになりました。全世界の教会の民もまた、新しい安息日である主の日の礼拝を守ることによって、神の民として生き続けていくのです。

 では、きょうのみ言葉を読んでいきましょう。【1~2節】。主イエスの時代のファリサイ派・律法学者たちは安息日律法を重んじていることを強調するために、旧約聖書に定められている安息日の規定をより細かくして、安息日に禁止されている仕事や行動を39項目挙げ、それにさらに39の細則をつけ、合計1500以上の規則を作っていました。それによれば、弟子たちの行動はいくつもの違反に当てはまります。麦の穂を摘むことは安息日に禁止されている収穫作業になります。手でもむことは脱穀やふるいにかける行為、あるいは食事の準備をする行為、これらも安息日律法に違反することになります。ファリサイ派・律法学者たちはそのことを非難します。

 ここで一つ確認しておくべきことがあります。弟子たちが歩きながら道端の麦の穂を摘んで食べる行為そのものが律法の違反になることではなかったということです。旧約聖書の律法によれば、それは貧しい人たちにゆるされていることでした。申命記23章25、26節を読んでみましょう。【25~26節】(317ページ)。さらに、【24章19~22節】(319ページ)。

神の律法は土地所有者の財産や収穫物を守るためにあるのではなく、むしろ財産を持たず、きょう食べるものにも事欠く貧しい人たちに対する神の愛と憐れみを示すため、また互いに分かち合う隣人愛を示すための律法だということが分かります。そして、最終的にはイスラエルの民を奴隷の家エジプトから強いみ手をもって導き出された神の栄光を現すための律法だということです。

この観点から、安息日律法をも考えなければなりません。すると、どうでしょうか。ファリサイ派・律法学者たちが安息日律法を聖書に書かれているよりもさらに細分化して、安息日に禁止されていることを細かく定め、人々に律法の重荷を負わせようとしていたこと、また細かな規定を一つ一つ守っていることを誇る人間の傲慢を養ってきていたこと、それは神が本来定められた律法の基本精神からは全く外れていたこということが明らかになってくるのではないでしょうか。神の律法は本来、神の豊かな救いの恵みに生きるために、また神の憐れみがいと小さな人にまで及ぶために、そして神の民が共に神の恵みと愛と憐れみの中で生きるために定められているのです。

安息日律法もそうです。神に創造されたわたしたち人間が神から与えられた祝福された命を生きるために、また神の救いの恵みからそれることなく、神の平安と喜びの中で共に生きる人間たちであるために、神は安息日律法をお定めになったのです。安息日は人間をさまざまな重荷から解放し、自由にし、すべての恐れや不安からわたしたちを解き放ち、喜びに満たすための律法なのです。

主イエスはファリサイ派・律法学者たちの批判にどのようにお答えになったでしょうか。【3~5節】。主イエスがここで取り上げておられるダビデの行動については、サムエル記上21章1節以下に書かれています。ダビデはサウル王から迫害を受け、逃れていましたが、彼はある日、祭司アヒメレクの所に行き、祭司以外は食べてはならない神にささげられた聖別されたパンを食べることを許されました。それは、彼が空腹であったからという理由によるだけでなく、ダビデが神とイスラエルの民全体に仕える祭司の働きをする者として認められたからでした。ダビデはのちになって、サウルに代わって全イスラエルの王となり、またエルサレムに神殿を建設しました。ダビデが神によって選ばれ、イスラエルを治める王として、また神と民とに仕える祭司として、この時すでに定められていたのです。

主イエスは旧約聖書のこの出来事を引用したあとで、「人の子は安息日の主である」と宣言されました。「人の子」とは主イエスご自身のことです。このみ言葉には多く意味が含まれています。第一には、主イエスこそが人となられた神のみ子であれら、神が救いのご計画を完成されるためにこの世にお遣わしになったメシア・キリストであるということです。そして、第二には、ダビデ王よりも偉大な神のみ子・メシア・キリストが今ここにいるという宣言です。主イエスはイスラエルの王ダビデよりも偉大な神の国の王であられます。また、ダビデよりも偉大な大祭司であられます。神のみ子が人の子としてこの世においでになられた主イエスは、ダビデよりも偉大な王・大祭司として、安息日律法のすべてを成就されるという宣言がここでなされているのです。

ダビデはイスラエルの偉大な王でした。神はダビデをお選びになり、ダビデと契約を結ばれ、「わたしはあなたの身から出る子孫に跡を継がせ、あなたの王国を永遠に固く据える」と約束されました(サムエル記下7章12節以下参照)。これが、ダビデ契約と言われている神の契約です。そのダビデの家系から人の子としてお生まれになられた主イエスは神の国の永遠の王としてこの世においでになり、ダビデに対する神のお約束を完全に成就されました。ダビデはまた祭司の務めをも果たし、神とイスラエルの民とに仕えましたが、人の子としたお生まれになられた主イエスは永遠の大祭司としてご自身の命と清い血とをささげられ、すべての人の罪を永遠にあがなわれました。

この主イエスこそが、安息日の主であれらます。すなわち、神が安息日律法をお定めになられたその意図、目的を最終的に、完全に成就され、完成されたのです。主イエスによって、神の創造のみわざが完成されます。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、人間の罪のために破壊された神と人間との正しい関係が回復され、わたしたちすべての人間は神に愛され、神に導かれ、神のみ心を喜んで行っていく新しい人間に再創造されるのです。また、神の救いの恵みを感謝して受け取り、神と隣人とに心から仕え、神の栄光を現す人として歩みだすのです。主イエスは安息日の主として、安息日の律法を完全な意味で成就され、完成されました。

わたしたち信仰者は安息日の主であられる主イエスを、わたしの救い主と信じ、教会の頭(かしら)、全世界の唯一の主、来るべき神の国の永遠の王として礼拝することによって、安息日の恵みを受け取るのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、きょうの主の日にわたしたちを礼拝の民としてここに集めてくださったことを感謝いたします。この日に、全世界の教会においてあなたのご栄光が崇められ、あなたの救いのみわざが行われ、あなたの民に平安が与えられますように。

〇主なる神よ、わたしたちを憐れんでください。日本とこの世界を憐れんでください。日本と世界に建てられているキリスト教会を憐れんでください。多くの痛みと困難と試練の中にある全人類を憐れんでください。

〇主よ、わたしたちはあなたにあって望みを抱きます。あなたのゆるしと愛の中にあって、なおも一歩一歩、み国の完成に向かって歩みを続けることができます。どうぞ、あなたの民を励まし、導いてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月7日説教「天地の造り主、いと高き神、アブラハムの主なる神」

創世記14章17~24節

マタイによる福音書6章9~10節

2021年2月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記14章17~24節

    マタイによる福音書6章9~10節

説教題:「天地の造り主、いと高き神、アブラハムの主なる神」

 創世記14章は前の章とも後の章とも直接的な連続性はないように思われます。12章から14章までは、族長アブラハムが神に選ばれ、神と契約を結んで、信仰の旅に出たことが、そして神が約束されたカナンの地に着いたことが書かれていました。15章からは再びアブラハムと神との契約について書かれています。ところが14章ではアブラハムの名前が出るのは章の後半12節になってからで、前半では当時のカナン周辺の地域に広がる諸国の戦争について描かれています。

 ではまず、前半で語られている諸国の戦争について簡単にまとめてみましょう。次に、13節以下から、アブラハムがどのようにしてその戦争にかかわるようになったのか。また、アブラハムの信仰の歩みにとってそれがどのような意味を持つのかについて読み取っていきたいと思います。

 1節に4つの王国とその王の名前が挙げられています。シンアル、これはバビロンとも言います。11章にバベルの塔の物語が書かれていました。他の3つの国々をも含めてこの4つはペルシャ湾の北に広がるチグリス川・ユーフラテス川流域の国々です。これら4つの王国はエラムの王ケドルラオメルを頭(かしら)として連合し、中東地域からパレスチナ地域に至るまでを支配していました。これをケドルラオメル連合軍と呼ぶことにしましょう。

 2節にはパレスチナ地方の5つの王国の名前が挙げられています。これには、死海(塩の海)近くのソドム、ゴモラが含まれています。13章10節以下には、アブラハムの甥のロトがこの地を選んでソドムに移住したことが書かれていました。これら5つの国をパレスチナ同盟軍と名づけましょう。

 パレスチナの5つの国は12年間エラムの王ケドルラオメルに支配されていましたが、13年目にパレスチナ同盟を結んでケドルラオメル王に反旗を翻しました。そこで、その翌年にケドルラオメル連合軍はパレスチナ同盟の反乱を鎮圧するために軍を送り、パレスチナ同盟の国々を攻撃し、最終的には8節以下に書かれているように、シディムの谷・塩の海周辺が決戦場所となり、パレスチナ同盟軍はそこで敗戦して、ソドムとゴモラの国は連合軍によって略奪され、アブラハムの甥ロトも捕虜にされたということが12節までに書かれています。

 わたしたちはここから、アブラハムと同時代の紀元前18~17世紀の中東とパレスチナ地域の国々の大規模な戦争について知らされます。今からおよそ四千年前のアブラハムの時代にも、それ以前にもそれ以後にも、地球上から戦争が絶えたことはありませんでした。21世紀の今日においても、期せずしてきょうの聖書の個所と同じ中東やパレスチナ地域には争いの火種が数多く存在しています。また今日では、直接に兵器を使用しなくても、冷戦というかたちで、さまざまな戦い、争いがあるのをわたしたちは知っています。この地球上から戦争をなくするにはどうしたらよいのか。わたしたちは聖書のみ言葉に聞きつつ、平和のために日々祈りつつ、主イエスが教えられたように、平和を造り出す人の幸いにあずかりたいと願います(マタイによる福音書5章9節参照)。

 わたしたち信仰者の信仰の父と言われるアブラハムは、彼が住んでいる地域の戦争の時代の中で、どのようにその信仰を持ち続けていくのでしょうか。彼は平和を造り出す幸いな人となるのでしょうか。13~15節を読みましょう。【13~15節】。

 これは言うまでもないことですが、彼はケドルラオメル連合軍とパレスチナ同盟軍の戦争に最初から参加していたのでは全くありませんでした。彼は平和を愛する人でした。13節に「彼らはアブラムと同盟を結んでいた」とありますが、この同盟は戦争のための同盟ではなく、このカナンの地で互いに平和に過ごすための同盟でした。また13章に書かれていたように、彼は甥のロトとの間で土地をめぐってトラブルがあった時にも、争いを好まず、年下のロトの方によいと思われる土地を先に選択する権利を譲るほどに、自分の権利を捨てて、またこの世の財産に対する欲望を捨てて、平和を造り出すことに心がけていました。

 13節で、アブラハムは初めて「ヘブライ人」と呼ばれていますが、このことも彼が平和を愛する人物であったことと関連しているように思われます。ヘブライ人とは、本来一つの民族や国民の名称ではなく、定住した土地を持たず、放浪していた貧しい人々を指す言葉だったと推測されています。そのヘブライ人という言葉が、創世記ではアブラハム・イサク・ヤコブの族長たちを指す言葉となり、出エジプトの時代には、エジプトで400年以上の寄留生活と奴隷の民であったイスラエルの民を指す言葉となり、そしてヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちによって形成された出エジプトの民、神の契約の民、イスラエル12部族を指すようになりました。アブラハムは放浪の民へブライ人として、他の国と争うような土地を所有してはいませんでしたから、カナンの地でできるだけ平和に生きていくことが必要だったし、また可能であったと思われます。

 そのアブラハムがケドルラオメル連合軍と戦うようになったのは、14節にあるように、捕虜として連れ去られた甥のロトを救い出すためでした。アブラハムはロトとその家族および財産を取り戻すと、それ以上連合軍を追撃することはせずに、すぐに引き返しています。彼はパレスチナ地域や中東の支配者になるために、また彼自身の土地や財産を増やすために戦争に赴いたのではありませんでした。ロトを救出するという一つの目的のためでした。彼は平和を愛する信仰者であり続けました。

 ここでいくつかの疑問が生じてきます。一つには、ロトは自分から分かれてソドムの地を選んだのですから、いわば自業自得で、アブラハムはわざわざ危険をおかしてまでも救出する必要はなかったのではないのか。わずか318人の戦争を未だ経験したことがないにわか兵士で、連戦連勝のケドルラオメル連合軍と戦うなんて、まったく無謀なことではないのか。しかしそれにもかかわらず、アブラハムが勝利するとは、奇跡ではないのか。そのような問いを持ちながら、次の17節以下を読むと、ここには確かにわたしたちにはわからない主なる神のお働き、お導きがあったのだということに気づかされるのです。

 神はアブラハムと同じ信仰によって旅立ったロトをお見捨てにはなさいません。ロトには19章でソドムの滅亡の時まで、なおも悔い改めの期間が残されています。神はわずかな兵力しかなかったアブラハムを守り、導いて、敵を前後から挟み撃ちするという知恵を与えて、彼に勝利をお与えになったのです。そのような神の奇跡が、17節以下のアブラハムとメルキゼデクとの出会いの場面を生み出していきます。

 【17~24節】。ここにメルキゼデクという不思議な王が登場します。彼はサレムの王と言われていますが、サレムは2節のパレスチナ同盟には属していませんでした。彼がここで突然に現われて、「いと高き神の祭司でありサレムの王であった」と紹介され、彼が「天地の造り主、いと高き神」のみ名によってアブラハムを祝福し、それに対してアブラハムが「すべての物の十分の一を彼に贈った」と書かれているのはいったい何を語っているのでしょうか。この謎に満ちた場面を他の聖書の個所を参考にしながら読んでいきましょう。

 まず、サレムですが、詩編76編3節には、「神の幕屋はサレムにあり/神の宮はシオンにある」と書かれています。サレムとはエルサレムのことであることが分かります。またサレムとは、ヘブライ語のシャロームと同じ、平和を意味しています。エルサレムとは「神の平和」という意味です。メルキゼデクとは「義の王」あるいは「王の義」という意味です。この名前は詩編110編4節に出てきますが、新約聖書ヘブライ人への手紙ではこの詩編のみ言葉を引用して、主イエスこそが永遠の大祭司であるメルキゼデクに等しい祭司であると語っています。【ヘブライ人への手紙5章5~10節】(406ページ)。また、【7章1~4節】(407ページ)。

 ここに、新約聖書の理解が語られています。すなわち、メルキゼデクとは、義なる王であり永遠の王、また永遠の大祭司であられる主イエス・キリストを暗示しているのであり、アブラハムは彼自身そのことを知らないまま、来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストのみ前にひれ伏し、十分の一をささげて主イエスを礼拝したというのが、ヘブライ人への手紙の理解です。

 この手紙ではさらに続けて大祭司キリスト論を語ります。イスラエルの大祭司は年に一度エルサレム神殿の最も奥にある至聖所に入り、自分と民全体の罪をあがなうために動物の血を神にささげますが、まことの永遠の大祭司であられる主イエスは動物の血ではなく、ご自身の神のみ子としての汚れのない尊い血を十字架でおささげくださいました。この一回で完全な主イエス・キリストの血の贖いによって、全世界のすべての人の罪が永遠に洗い清められ、ゆるされ、救われるのだと教えています。

 創世記に戻って、サレムの王メルキゼデクは19節で「天地の造り主、いと高き神」によってアブラハムを祝福しています。その神がアブラハムの手に敵を渡されたのだと告白しています。メルキゼデクはカナンの王ですから、ヘブライ人ではありませんが、ここでは異邦人の口を通してヘブライ人の神が告白されているのです。22節ではアブラハム自身の口で「天地の造り主、いと高き神、主」と告白されており、メルキゼデクの告白がアブラハムによって承認され、繰り返されています。この告白はアブラハム時代の古い信仰告白でしたが、それが出エジプト以後にカナンに定着したイスラエルの民の信仰告白となり、さらには主イエス・キリストの教会の信仰告白となって受け継がれていったのです。

 アブラハムの神、イスラエルの神、そして主イエス・キリストの父なる神は天地万物の創造主なる神です。天地のすべてはこの神によって成り、この神によって存在し、この神によって生きるべき道を見いだし、この神のご支配のもとにあります。また、この神はいと高きにいます神です。天におられる神です。この地上にあるすべての物よりもはるかに高く、はるかに力強く、はるかに大きく、偉大なる神、全能の神です。主イエスは「主の祈り」で「天にましますわれらの父よ」と祈りなさいと教えられました。わたしたちはどのようなは困難の中でも、どのような暗闇の中でも、心と目を高く天に向けて、「天にましますわれらの父よ」と祈ることがゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物とわたしたち一人一人をみ言葉によって創造されました。わたしたちの命はあなたの中にあります。あなたを離れてはわたしたちはまことの命を生きることはできません。主よどうか、わたしたちをあなたの恵みのご支配のうちに置いてください。あなたを離れて、罪と死と滅びへと向かうことがありませんように。

〇天の神よ、あなたはこの世界の悲惨な現実を天からご覧になっておられます。どうぞ、苦しみ、痛み、病んでいるこの世界を憐れんでください。あなたからのいやしと平安とをお与えください。

〇神よ、あなたがこの地にお建てくださった秋田教会を顧みてください。群れに連なる一人一人の信仰を養い、その道をお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月31日説教「初代教会の信者たちの生活」

2021年1月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教 聖 書:申命記6章4~15節     使徒言行録2章43~47節 説教題:「初代教会の信者たちの生活」  ペンテコステの日にエルサレムで世界最初の教会が誕生しました。この日に、ペトロの説教を聞き、罪を悔い改めて、主イエス・キリストのみ名によって洗礼を受けた人は三千人ほどであったと、使徒言行録2章41節に書かれています。主イエスの12弟子たちと主イエスの母マリアと兄弟たちを含めて、主にユダヤ人からなるこの教会を、一般にエルサレム教会と呼んでいます。もっとも、まだ教会堂も定まった集会場所もありませんが、彼らは主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって一つの教会の群れを形成しています。 42節からは、彼らエルサレム教会の信仰生活、教会生活について、まとめて報告されています。わたしたちはここから、最初に誕生した教会の様子を知ることができると同時に、今日のわたしたちの教会の在り方にとっても重要ないくつかのことを教えられます。この個所を2回に分けて学んでいくことにします。 【42節】。この42節を初めとして43節以下にも、信じる人たちが群を形成することを言い表す言葉が数多く用いられています。42節の「交わり」、44節の「皆一つになって」「共有にし」、45節の「分け合った」、46節の「心を一つにして」「集まって」「一緒に」、そして47節の「仲間に加え一つにされた」。彼らは信仰的に、精神的に、また実際的にも、一つの群れとなり、一つの共同体を形成しているということが強調されています。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人たちは、一つの群れを形成するのです。それは、彼ら自身の何かの共通点とか共通の利害関係とかによるのでは全くなく、彼らが信じている主がただお一人、彼らの群れの頭(かしら)、教会の頭がただお一人、主イエス・キリストであるからです。 わたしたちはここから、信じる人たちは群れを形成するということを第一に教えられます。わたしが主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白し、洗礼を受けるということはわたしの個人的な決断であり個人的な体験であるかのように考えがちですが、しかしそれは一つの主にある交わりの中にわたしが招き入れられること、わたしが群を形成する一人とされるということなのです。41節に「仲間に加わった」とあり、また47節にも「仲間に加え一つにされた」とあるように、わたしが信じてキリスト者になるということは主イエス・キリストの体なる教会の群れの中にわたしが加えられるということなのです。わたしが主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされ、神の民とされ、神と結び合わされ、主キリストの体なる教会と結び合わされる時、わたしたちは一つの群れとなって互いに結び合わされ、信仰共同体として結合されるのです。 日本キリスト教会では信仰告白がより具体的に教会を一つに結びつけると考えています。わたしが主イエス・キリストを信じるということは、より具体的にはわたしが『日本キリスト教会信仰の告白』を信じ、告白し、わたしがこの信仰告白の共同体の中に招きいれられるということであり、わたしたちはこの『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白することによって、共に一つの教会として結集するのです。 ここで、信仰共同体としての教会について少し違った視点から考えてみましょう。ドイツ語では教会の信仰共同体と、この世の社会共同体とを区別して別々の言葉で言い表します。信仰共同体はGemeinshaftと言い、社会共同体をGesellshaftと言います。信仰共同体・Gemeinshaftによって形成されている教会をGemeindeと言います。また、社会共同体・Gesellshaftを信仰共同体との違いを強調して、利益共同体と呼ぶこともあります。Gesellshaft社会共同体・利益共同体もGemeinshaft・信仰共同体も同じように一致や連帯を強調しますが、その目的とか内容は、両者は全く違います。Gesellshaftは社会の利益や幸福を追求するために一致します。しかし、Gemeinshaftの一致の目的は共同体内部にはありません。共同体の上におられる主イエス・キリストだけが一致の基礎であり土台であり、また目的です。さらに、両者の大きな違いは、Gesellshaft・利益共同体では共通の利益や幸福のために、時に個人の違いや個性が無視されたり、時にはまた人間の尊厳性が犠牲にされたりすることがあります。しかし、Gemeinshaft・信仰共同体ではその反対に、罪の中に見失われていた人間の存在や尊厳性が見いだされ、尊重されるようになります。というのも、わたしたちはみなかつては罪の奴隷であり、この世の何らかの束縛の中に生きており、神のみ前では見失われていた罪びとであったのに、主イエス・キリストの十字架の福音によって罪の暗闇から救い出され、神のみ子の尊い血潮によって買い取られ、贖われた価の高い一人一人であるということを知らされているからです。それによってわたしたちはすべての束縛から解放され、個としての存在意義を取り戻し、神のみ前でかけがえのない尊いわたしとされます。教会とはそのような神に見いだされた個と個とが主キリストによって一つに結び合わされている群なのです。 次に、42節には初代教会の4つの特徴が挙げられています。一つは使徒の教え、第二は相互の交わり、第三はパンを裂くこと、そして第4は祈り、これらのことを熱心にしていたとあり、43節からはその具体的な内容が書かれています。これらは今日のわたしたちの教会にも共通していることです。 まず、使徒の教えですが、使徒とはここでは主イエスの12弟子を指しています。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダに代わってマティアが選ばれたことが1章の終わりに書かれていましたが、彼らは主イエスと地上の歩みを共にし、直接に主イエスが語られた神の国の福音の説教を聞き、また主イエスの十字架と復活を目撃した証人たちでした。彼らはペンテコステの日に天から聖霊を注がれ、自らが主イエスの福音を語る人に変えられました。彼らの代表者ペトロの説教を聞いて信じた人たちによって最初の教会が建てられました。使徒たちは初代教会とのちの全世界のすべての教会の源であり基礎であり出発点です。 使徒の教えとは、その内容の具体的な例として14節以下のペトロの説教、またこの後に書かれているペトロの説教などによって知ることができます。その中心は、わたしたちがすでに学んだように、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。教会が誕生した紀元30年ころはまだ福音書は書かれていません。福音書が書かれたのは紀元60年以後と考えられ、パウロの書簡が書かれたのは50年代ですから、それ以前にはペトロを始め12弟子たちが語った説教が使徒の教えとして書きとどめられていったのではないかと推測されます。やがて使徒の教えは4、5世紀ころになって、今日わたしたちが告白している『使徒信条』にまとめられました。 使徒の教えに熱心であるとは使徒の教えに生きること、また使徒の教えを語り伝えることの両方を含んでいると思われます。初代教会は使徒の教え、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって生きる群であり、またそれを語り、宣教することによって生きる群でした。このことこそが、Gesellshaft ・社会共同体とGemeinshaft・信仰共同体とを明確に区別している最も大きな特徴と言ってよいでしょう。この世の共同体は自らの利益と幸福を求め、この世のパンを食べて生きている群れですが、教会は主イエス・キリストの福音を聞き、そのみ言葉が自分たちの罪をゆるし、新しい霊の命を与えることを信じ、またそのみ言葉を宣べ伝えることによって生きている群れ、信仰共同体です。  次の相互の交わりとパンを裂くことについては次回学ぶことにして、きょうは最後に、祈ることについて取り上げます。主イエスご自身が祈りの人であったということを、使徒言行録と同じ著者になるルカ福音書が強調しているということをわたしたちは学んでいます。ヨハネから洗礼をお受けになった時、荒れ野での誘惑と戦われた時、12弟子をお選びになった時、また一日のお働きの終わりに、主イエスは民衆を避け、弟子たちからも離れて、お一人になられ、父なる神に祈られました。また、弟子たちに祈りについてたびたび教えられ、祈りの手本として「主の祈り」を教えられました。 使徒言行録1章14節には、弟子たちが聖霊を受ける前に心を合わせて熱心に祈っていたと書かれていました。この日に誕生した教会は祈る群れ、祈りの共同体でした。そのことはこのあとの使徒言行録でも繰り返して強調されています。3章1節には、【1節】と書かれていますので、初代教会では当時のユダヤ教の伝統を受け継いで、日に3度、朝9時と昼と午後3時に祈りをささげていたことが推測できます。信者たちはエルサレムの神殿や信者の家に集まり、共同で祈りをささげていました。 教会が祈る群れであるということは、わたしたちの日本キリスト教会にも伝統的に受け継がれています。1872年(明治5年)3月10日に誕生した日本最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会は、宣教師たちが始めた新年初週祈祷会がそのきっかけでした。今でも、全国の諸教会では新年の最初の週に連日の祈祷会を行う習慣が残っています。また、毎週日時を定めて教会員が集い祈るという公同の祈祷会はほとんどの教会で行っています。 教会が祈りの群れであるとはどういうことを意味するでしょうか。祈りはまず第一に神への服従の行為です。教会は教会に集まっている信者たちの考えとか計画とかによって生きているのではありません。主なる神のみ心に聞き従い、その導きによって生きていきます。したがって、教会は絶えず神のみ心を伺わなければなりません。聖書のみ言葉に導かれつつ、神のみ旨を尋ね求め、神がお与えくださる恵みを感謝して受け取り、神が備えられる道を自由と喜びをもって進んでいくために、教会は絶えず祈り続けるのです。 祈りはまた神への願い求めです。信仰の歩みの中で経験するであろう試練や困難の中で神の守りと導きとを祈り求め、重い病や大きな禍の中で、他の何ものにも助けと救いを期待できないような時でも、全能の神が必ずや道を備えてくださることを信じて祈り求める、あるいはまた、悩める他者のために執り成しの祈りをする、日本、アジア、全世界の平和と救いのために祈る、祈りはわたしたちの信仰に無限の広がり、無限の豊かさ、無限の力を与えるのです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天におられて、わたしたちの必要のすべてをご存じであられます。また、わたしたちに今なくてならないものが何であるのかを知っておられ、それを備えていてくださいます。わたしたちがどのような時にも、あなたのみ心を信じて、祈り続ける信仰者としてください。 〇神よ、あなたが永遠の救いのご計画によってお建てくださったこの秋田教会を、どうぞ顧みてください。小さな、欠けの多い群れですが、あなたのご栄光を現し、この地で主キリストの福音を高く掲げて歩む群れとして成長させてください。群れに連なる一人一人の信仰をあなたが日々に養ってくださいますように。 〇礼拝後に行われる秋田教会定期総会の上に、主のお導きがありますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月24日説教「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

2021年1月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章3~10章

    ルカによる福音書5章33~39節

説教題:「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

 主イエスは徴税人レビに目をおとめになり、彼を弟子としてお招きになりました。人々から罪びととか守銭奴、売国奴と呼ばれ、だれからも相手にされなかった徴税人レビは、主イエスによって、信仰者レビに変えられました。弟子のレビに変えられました。自分の欲望のために生きていたレビ、この世の権力者に仕えていたレビは、今や神の国の王であられる主イエスにお仕えし、主イエスのために生きる人へと変えられました。レビは主イエスの救いに招かれた恵みに対する感謝のしるしとして、主イエスと弟子たち、また徴税人仲間や罪びとと呼ばれていた人たちをも招いて盛大な宴会を催しました。主イエスを中心にして、罪ゆるされた罪びとたちが共に祝いの食卓を囲んでいる、これは来るべき神の国での盛大な晩餐会を先取りするものです。

前回学んだルカ福音書5章30節では、それを見ていたファリサイ派や律法学者たちが主イエスの弟子たちに向かって、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難しましたが、きょう朗読された33節では、その周りにいた人々が今度は主イエスに向かって、「ヨハネの弟子たちは……食べたりしています」(33節)と非難しています。主イエスが罪びとと呼ばれていたレビを弟子としてお招きになり、また多くの罪びとたちと共に食事をしておられるということは、ユダヤ教指導者たちにとっても、またすべてのユダヤ人たちにとっても、理解しがたいことであり、宗教的指導者としてはふさわしくない行動だと思われました。

主イエスの福音はユダヤ人にとっても、またすべての人間にとっても、受け入れがたい教えであり、つまずきとなりました。なぜならば、人はみな自分の罪に気づくこと遅く、自らの罪を認めることはしたくないからです。自分はあの罪びとたちよりはよりまともな人間であり、まじめで正直であり、努力家であり、自分で自分を救うことができると考えるからです。主イエスから一方的な恵みとして与えられる救いよりは、自分で勝ち取った救いの方がより値が高いと考えるからです。

しかし、わたしたちはきょうの聖書のみ言葉から、主イエスから与えられる救いの恵みこそが、人間の救いにとって最も力があり命があり喜びがあり、他の何ものにも替えがたい尊いものであるということを教えられるのです。主イエスの救いを信じる信仰によって与えられる義は、ファリサイ派や律法学者の義よりもはるかに勝った義であるということを学び取っていきましょう。

33節にヨハネの弟子たちが断食していることが取り上げられています。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのために道を整える先駆者として、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。ヨハネと彼の弟子たちは、当時のユダヤ教で定められていたよりも頻繁に断食していたようです。旧約聖書では、大贖罪日と言われる日にすべてのユダヤ人は断食するように定められていました。レビ記23章27節以下にそのことが書かれています。大贖罪日にはイスラエルの全国民が主なる神のみ前に自分たちの罪を告白し、その罪を悲しみ、罪を悔い改めるしるしとして断食をし、神との交わりの回復を願い求めるのです。断食は食欲等の肉体的な欲望を捨てることによって、心と思いとをを神に集中させ、神との霊的な交わりを与えられるための信仰的な行為と考えられ、イスラエルでは重んじられていました。

ユダヤ人に定められていた年一回の断食日は、紀元前6世紀のバビロン捕囚以後には年数回に増やされ、主イエスの時代にはファリサイ派の間では一日3回の祈りとともに週に2回、月曜日と木曜日に断食するようになりました。ヨハネの弟子たちもそれと同じように断食していたと推測されます。しかしながら、ファリサイ派の断食には偽善的な要素が少なからずありました。彼らは自分たちの信仰深さを誇るために、多くの人々が見ている大通りで、顔を見苦しく装い、いかにも自分たちが深く罪を悔い改めているかのように見せて断食していました。それに対して、ヨハネの弟子たちは、近づきつつある神の最後の審判と神の国の完成の時に備えて、真実な罪の悔い改めのしるしとして断食をしていたと推測されます。

けれども、主イエスは偽善的なファリサイ派の断食も信仰的なヨハネグループの断食をも拒否され、定期的な断食は行っていませんでした。弟子たちにもそれを勧めませんでした。むしろ主イエスは徴税人や罪びとのようなユダヤ社会から見捨てられていた人たちと食事を共にされました。それはなぜでしょうか。主イエスは34節以下でその理由について婚礼のたとえと、服に布切れを継ぎ当てするたとえと、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋のたとえで説明されました。この三つのたとえで主イエスが強調しておられること、主イエスが語っておられる神の国の福音の大きな特徴について読み取っていきましょう。

まず、婚礼のたとえですが、イスラエルでは結婚は非常に重んじられていました。結婚は神の創造の秩序の具体化です。神が人間を男と女とに創造され、人間が共に生きる交わりの関係であるべきことの具体的な姿が結婚です。それゆえに、結婚は神とイスラエルの契約の関係の比喩として用いられます。旧約聖書ではしばしば神とイスラエルとの関係が夫婦の関係にたとえられています。また、イスラエルの家庭では結婚の祝いは一週間も続きます。

新約聖書では、結婚は終わりの日に完成される神の国での盛大な祝宴にたとえられています。主イエスの説教でも、使徒パウロの書簡でもそうです。終末の時、花婿である主イエス・キリストと花嫁である教会の民とが永遠に固く結ばれ、神の国において絶えることのない共同生活を続ける。そこには永遠の祝福と救いと喜びがある。主イエスは34節で、その永遠の喜びの祝宴が今すでに始まっているのだと言っておられます。【34節】。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになりました。神の国での結婚の祝宴がすでに始まっているのです。神が与えてくださる救いの恵みがすでに目の前に差し出されているのです。もはやだれも、自分の罪を悔いて、心や体を悩ます必要はありません。自分の力や努力で救いを手に入れる必要もありません。主イエスを信じる信仰によってすべての人に罪にゆるしと永遠の命が与えられているからです。

主イエスはさらに二つのたとえでこのことを強調されます。この二つのたとえに共通している点は、新しいものと古いものとの決定的な違いです。新しいものと古いものとは共存できません。一緒にすることはできません。新しい服から取った新しい布切れには弾力性があり、伸びちぢみしますが、古い着物には弾力性がありませんから、その両者を一緒に縫い合わせれば、伸び縮みの違いによって、継ぎ当てをした部分は破れてしまいます。そうすれが両方ともに使い物にならなくなってしまうでしょう。また、新しいぶどう酒は盛んに発酵し、空気が膨張します。しかし、古い革袋は伸縮性がありませんから、新しいぶどう酒をいれればやがて古い革袋を破って、ぶどう酒は無駄になってしまうでしょう。

主イエスがこの二つのたとえで強調しておられることを三つの点にまとめてみましょう。一つには、古いものと新しいものとは共存できない、一緒にすることはできないということです。新しい服から布を取って古い服に継ぎ当てをすることができないように、新しいぶどう酒を古い革袋に入れることができないように、花婿が共にいる婚礼の席には断食はふさわしくありません。主イエスが共におられる席では断食は必要ありません。

ここで、新しい、古いと言われているのは、単に時間的・時代的違いを指しているのではありません。時が経過して古くなったというのではなく、新しいものが、先の古いものとは全く異質な新しいものがやってきたゆえに、これまであったものがすべて古くなったという意味です。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになられた今はそれまでにあったものはすべて古くなったのです。主イエスが罪びとたちと共におられ、罪びとたちを神の国へとお招きになっておられるゆえに、律法によって救われようとするユダヤ教の教えは古くなり、この世の何かによって救いを得ようとするすべての試みも古くなり、それのすべての道は閉ざされてしまったのです。主イエスが始められた神の国での祝宴の喜びにはそれらのすべてはふさわしくありません。それゆえに、ファリサイ派の断食もヨハネの断食も、主イエスが共にいてくださる祝福と喜びの前ではふさわしくはありません。

第二には、新しいものが持っている力、エネルギーの大きさです。それは古いものを破壊せざるを得ないということです。新しい布、新しいぶどう酒が、古い着物、古い革袋を引き裂くように、主イエスの福音は、主イエスが罪びとたちと共にいてくださるという喜びは、断食の苦しみや嘆きを消し去り、否定し、人間の罪の縄目を解き放つ大きな力を発揮するのです。主イエスが語られた神の国の福音は古い世界の、古い秩序を破壊し、罪と死と滅びとに支配されていた古い世界と人間をそこから解放するのです。

第三に強調されている点は、主イエスが語られた神の国の福音は圧倒的な力で新しい人間を創造するということです。【38節】。この主イエスのみ言葉は、単に一つの真理を語っているのではありません。新しいぶどう酒は新しい革袋を必要としています。新しいぶどう酒はそれを入れる新しい革袋を創造していくのです。主イエスの福音は主イエスの福音に生きる新しい人を創造するのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙二5章17節でこのように書いています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。主イエス・キリストによって和解の福音を聞かされ、罪ゆるされたわたしたちは、主キリストの福音によって新しく創造された信仰者として、和解の福音を持ち運ぶ任務を託され、和解の言葉を託されているのです(同18~21節参照)。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪と死の世界をさまよっていたわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの福音によって見いだしてくださり、み前にお招きくださいます幸いを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに新しい命を注ぎこみ、わたしたちをあなたのみ心にかなって造り変えてください。あなたのみ心を行う人としてください。

○天の神よ、さまざまな試練や苦悩の中にあるこの世界と諸国の人々を憐れみ、顧みてください。重荷を負っている人たちを力づけ、励ましてください。悲しみ痛みの中にある人たちに、慰めと平安をお与えください。孤独な人や迷っている人には、あなたが共にいてくださり、希望の光をお与えください。

〇この世界は今、あなたの天からの助けとお導きとを必要としています。どうか、この世界を憐れんでください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。