1月7日説教「エルサレムに向かう主イエス」

2024年1月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    ルカによる福音書9章49~56節

説教題:「エルサレムに向かう主イエス」

 わたしたちが続けて読んでいるルカによる福音書を含めた初めの3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカを「共観福音書」と言います。この3つの福音書は主イエスのご生涯を描いている記事の順序が同じだけなく、時には一字一句が同じ個所もたくさんあります。そこで、これら3つを4番目のヨハネ福音書と区別して「共観福音書」と呼ぶようになりました。

 今日の研究によれば、マルコ福音書が最も早く、紀元60年代に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にしながら、他の資料をも加えて70年代に書かれたと推測されています。ちなみに、ヨハネ福音書は少し遅れて80年から90年代に書かれたとされています。

 きょう朗読されたルカ福音書9章50節までは、マルコ福音書とほとんど同じ順序で書かれていますが、51節からはマルコの順序からは離れ、またマタイとも違って、ルカ特有の記事が続くようになります。それが、9章51節から19章27節まで続きます。この長い箇所は「ルカの大挿入」と言われます。ルカ独自の資料がこの箇所に多数加えられています。また、この箇所は、主イエスのガリラヤ地方での伝道が終わり、エルサレムに向かって進んで行かれる途中の出来事が記されていますので、「主イエスのエルサレム旅行記」とも言われます。

 51節にこのように書かれています。【51節】。この文章からも分かるように、エルサレムへの旅行とはいっても、それは観光目的とかだれかに会う目的の旅行ではもちろんありません。主イエスが「エルサレムに向かう決意を固められた」のは、「天に上げられる時期が近づいた」からです。「天に上げられる」とは、主イエスの昇天を指していると思われますが、ここでは、主イエスがエルサレムで経験されるすべてのこと、つまり、受難週の初めの日に苦難の僕(しもべ)としてロバに乗ってエルサレムに入場され、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、偽りの裁判で裁きを受け、人々からの辱めと屈辱と嘲笑の叫びの中で十字架につけられ、死んで三日目に復活され、40日目に天に昇られるまでのすべての出来事を含んでいます。それはまた、主イエスがすでに2度ご自身の受難予告で語っておられたことです。父なる神がお定めになったこの受難への道を、主イエスは今、固い決意をもって進み行かれるのです。

 ルカ福音書がエルサレムでの主イエスのこれらのみわざを「天に上げられる」と表現しているのは、それによって神の救いのみわざが成就されるという意味を含んでいます。主イエスはユダヤ人指導者たちの悪意や憎しみに敗北してしまうのではありません。人々の罪や拒絶によって、神の救いのみわざが挫折してしまうのではありません。主イエスは罪に勝利されます。すべての人間たちの過ちや憎しみや拒絶に勝利されます。そして、神の救いのご計画を成し遂げられます。その勝利のしるしとして主イエスは天に上げられたのです。

 では次に、主イエスがエルサレムへの旅を開始される直前の49節以下と、その直後の52節以下に記されていることについて、今学んだ51節のみ言葉との関連性を考えながら学んでいくことにしましょう。

 【49~50節】。ヨハネは主イエスの12弟子の一人です。5章10節によれば、ガリラヤ湖の漁師で、ゼベダイの子ヤコブの兄弟です。この二人の兄弟の名前は54節にも出てきます。ヨハネはペトロとともに、12弟子の中での中心的な存在でした。でも、その中心的な存在であるヨハネが主イエスのみ心を正しく理解してはいなかったことが、ここと、また52節以下でも、明らかにされているのです。

 ヨハネの誤解がどこにあったのでしょうか。そのヒントが49節の「お名前を使って」という言葉にあります。お名前とは主イエスのお名前のことです。ここでは、主イエスのお名前が持っている大きな権威と力が重要な意味を持っています。それは、すぐ前の48節にも共通しています。「主イエスのみ名のために」一人の小さな子どもを受け入れることが、重要なのです。子どもそれ自体に何らかの価値があるからではなく、主イエスがその小さな子どもを愛され、その子どもを受け入れてくださるからこそ、その小さな者を受け入れる信仰者こそが、神の国では大きな者と認められるのです。主イエスのお名前が、48節でも49節でも、決定的に重要な意味を持っているのです。

ところがヨハネは、ある人が主イエスのお名前を使って、そのお名前の権威と力によって悪霊を追い出していたのを見、自分たち、すなわち12弟子たちの集団に加わって一緒に行動するようにその人に要求したが、その人はそれを断ったので、主イエスのお名前を使って悪霊を追い出すことをやめさせたというのです。それに対して主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。

なぜならば、主イエスのお名前が持つ天からの権威と力が悪霊に勝利しているからです。悪霊に勝利できるのは、神のみ子である主イエスのほかにはだれもいません。その主イエスのお名前以外の何ものによってもそれはできません。主イエスのお名前が権威をもってその力を発揮しているところには、神のご支配が、神の国が始まっているからです。

ところが、ヨハネは自分たちの集団を大きくすることをより重要だと考えていたようです。あるいは、37節以下に書かれていたように、自分たちには悪霊を追い出すことができず、主イエスからお叱りを受けたことがあるのを覚えていたのかもしれません。でも、重要なことは主イエスのお名前です。主イエスのお名前のもとにすべての救われた人たちが集合するのです。主イエスのお名前を信じ、主イエスのお名前によって洗礼を受け、主イエスのお名前によって集められた教会に、すべての信仰者は結集するのです。

51節以下に書かれる主イエスのエルサレム行きは、そのことをよりはっきりさせます。主イエスの十字架のもとに、全世界のすべての民、すべての人々が、罪ゆるされ、救われた神の国の民として、結集するようになるのです。

52節以下を読んでみましょう。【52~56節】。主イエスはエルサレムに向かわれる時にサマリア地方を通って行かれました。当時、ガリラヤからエルサレムへのルートは二つありました。一つは、ガリラヤからまっすぐに南下してサマリアを通過するルート、この道だと100キロ余りを3日くらいかかります。もう一つは、いったんヨルダン川を渡って東へ迂回していくルート、この道ではさらに1日から2日が必要になります。

なぜこのようなう回路が必要になったのかと言えば、ユダヤ人とサマリア人との長い間の民族的・宗教的対立が原因していました。紀元前721年に北王国イスラエルとその首都サマリアはアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは征服した地に外国人を移住させ、サマリアには多くの外国人が移り住むようになりました。そのために、サマリアのユダヤ人は異教の人々と混じり合い、民族的にも宗教的にもユダヤ人としての純粋さを失うことになったのです。南王国ユダはダビデ王家の王たちによって治められ、民族的・宗教的にユダヤ人としての純粋性を重んじてきましたから、サマリア人を異教徒に身を売り渡した軽蔑すべき異邦人とみなし、対立するようになったのです。両者の対立が決定的になったのは、紀元前4世紀ころ、サマリア人はエルサレムの神殿に対立してゲリジム山に独自の神殿を建ててからでした。

そのようなわけで、ユダヤ人はサマリア地方を通り抜けることを避けて、わざわざ遠回りをして、ヨルダン川東側のう回路を通るようになりました。けれども、主イエスはサマリアを通って行かれました。その理由は書かれていませんが、サマリアの町々村々でも神の国の福音を宣べ伝えるためであったことは明らかです。サマリアの人々も神の国の福音を聞き、信じて、救われるために、主イエスは信仰深いユダヤ人ならば避けて通るであろうサマリアへの道をお選びになったのです。そして、弟子のヤコブとヨハネとを先に派遣して、自分たちの宿や食事の手配などをさせました。

しかし、サマリアの人たちは主イエスの一行を歓迎せず、宿を提供することを拒みました。特に、主イエスの一行がエルサレム神殿に向かっていると知った彼らは、彼らが建てたゲリジム山の神殿が無視されていると感じて、敵対心をむき出しにしました。

そこで、主イエスと自分たちの道を邪魔されたヨハネとヤコブは、天からの裁きを求めてサマリア人を焼き滅ぼすことを主イエスに提案しました。この提案には、ユダヤ人のサマリア人に対する長い憎しみや敵対心が現れているのは明らかです。弟子たちは主イエスを迎え入れようとしないサマリア人に神の裁きが降るのは当然だと考えていました。けれども、主イエスは弟子たちの提案を拒否されました。主イエスが今エルサレムに向かっておられるのは、まさにそのような民族間の敵対心や対立を取り除くためであったからです。弟子たちにはまだそのことが理解されていませんでした。

最後に、主イエスがエルサレムに向かう決意を強くされ、その道を進み行かれたことが、この箇所でどのような意味を持つのかを2つのポイントにまとめてみたいと思います。一つには、弟子たちの信仰の無理解と誤解を取り除き、彼らが真実に主イエスの弟子として、福音宣教の使者として世界に遣わされていくため訓練のためであったということです。エルサレム行きの直前の48節以下では、彼らはだれが一番大きいかと論じ合っていました。49節以下では、主イエスのお名前の権威と力とを理解せず、自分たちのグループを大きくすることに関心を向けていました。エルサレム行き直後のきょうの箇所でも、彼らは主イエスのエルサレム行きが裁きのためではなく、すべての人の救いのためであることを理解していませんでした。主イエスの十字架の死と復活、そして昇天と聖霊降臨は、それらの弟子たちの無理解と誤解を取り払い、彼らを初代教会の使徒として固く立たせたのです。

第二には、主イエスの十字架と復活は、神とわたしたち人間との間の罪という深く大きな溝を取り除き、わたしたちを神のみ前で罪ゆるされ、救われた神の民として迎え入れる救いのみわざであるとともに、その十字架の福音によってすべての民族や人々の間にあった分裂や憎しみ、対立をも取り除き、主イエスの十字架のもとにすべての人を一つの神の民、一つの礼拝の民とする救いのみわざでもあるということです。主イエスは10章25節以下で、親切なサマリア人のたとえをお話になりました。ユダヤ人からは軽蔑され、救いから除外されていたサマリア人こそが、今や主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって救いへと招き入れられているのです。わたしたちもまた異教の民であり、小さな取るに足りない一人一人でしたが、主イエスの十字架によって救いへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子の十字架によって全人類をお救いくださったことを感謝いたします。どうか、この混乱と分断と試練の中にある世界にあなたからの和解と平和と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月31日説教「神の国に入る」

2023年12月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:詩編96編1~12節

    ヨハネによる福音書3章1~15節

説教題:「神の国に入る」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「神の国に入る」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 この文章は、文法的には二重否定になっています。「神の恵みによならければ」は否定分です。「神の国に入ることはできません」も否定分です。このような二重否定は、意味を強調するために用いられます。ここでは、救いの道、神の国に入る道を厳しく限定しています。この道以外には救いの道はない、この道以外には神の国に入る道はない、他のどのような方法や手段によっても、それは全く不可能である、ただこの道だけである、ということを強調しているのです。

 それはまた、この道を無限大に広げていることにもなります。つまり、その人に、ほかに何がなくても、ほかにどのような欠点や破れがあろうとも、弱さや未熟さがあろうとも、「この三位一体なる神の恵み」さえあれば、これさえあれば、あなたの罪はゆるされ、救われる、あなたは神の国の民として迎え入れられるということでもあります。

 ここで告白されている信仰は、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の信仰の大きな特色です。宗教改革者たちはそれを「神の恵みのみ」という言葉で表現しました。ローマ・カトリック教会が、罪びとが救われるためには主イエス・キリストの福音を信じる信仰とともに、人間の良きわざも必要だと教えていたのに対して、ルターやカルヴァンは「いや、そうではない。聖書が教えている正しい救いの道は、罪びとは良きわざが全くないにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神から差し出されている一方的な恵みによって、罪ゆるされ、救われる。聖書はそのように教えている」と語って、カトリック教会に抗議したのです。「神の恵みのみ」、これがプロテスタント教会の信仰の基本です。

 『日本キリスト教会信仰の告白』では、その宗教改革の基本線をさらに強調するために、「この三位一体なる神の恵みによらなければ」という表現を用いて、「神の恵み」を「三位一体なる神の恵み」として、より強く神の恵みの豊かさを告白しています。つまり、主イエス・キリストの救いのみわざの恵みと、父なる神の救いのみわざの恵み、そして聖霊なる神の救いのみわざの恵み、そのすべての恵みが、わたしの救いのために働いているということを告白しているのです。ここに、わたしの救いの確かさがあります。救いの永遠性があります。

 では次に、「神の国に入る」という告白について学んでいきましょう。「神の国」という言葉は新約聖書で数多く用いられています。もとのギリシャ語を直訳すれば、「神の王国」となります。これは、神が王として支配している場所、そのような状態を言います。ただし、マタイによる福音書だけは、神という言葉を避けるために「天の国、天の王国」と言います。その他の福音書、書簡等では「神の国、神の王国」です。

 主イエスがお語りになった説教の内容は神の国の福音が中心でした。マルコ福音書1章14節以下にはこのように書かれています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(14~15節)。

主イエスはまた神の国について、多くのたとえをお用いになって説教されました。マルコ福音書4章には種をまく人のたとえが書かれています。種をまくとは、神の言葉をまくことであり、良い地にまかれた種は30倍から100倍もの豊かな実りをつけると語られています。また、26節以下では、土に種をまくと、その種が芽を出し、成長して、その葉の陰に空の鳥が宿るほどに大きな枝になると、語られています。主イエスの説教の多くが神の国のたとえでした。

これらの神の国のたとえの中心は、主イエスご自身が天の父なる神の言葉をお語りなる最初の種まきであり、また主イエスご自身が神の言葉が肉となって、人間のお姿になってこの世においでになり、豊かな救いの恵みをお与えになって、多くの人々を新しい神のご支配のもとへと招き入れてくださる救い主であるということが、証しされているのです。

そのほかに、主イエスがなさったさまざまな奇跡のみわざ、回復が見込めない重い病気をいやされるとか、悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出されるとか、あるいは湖の嵐を沈めるとか、しかもそれらの奇跡を権威あるみ言葉をお語りになることによってなさることにより、新しい神の恵みのご支配が今や到来したことの目に見えるしるしを現わされたのです。主イエスのご生涯全体が神の国がこの地に到来し、神の新しい恵みのご支配が始まっていることのしるしであったと言えるでしょう。

主イエスが説教された神の国到来の福音は、旧約聖書における神の国の理解と共通点があります。旧約聖書の中では神の国という言葉は用いられてはいませんが、神が王としてイスラエルと全世界とを支配しておられるという神の国の考え方は数多くあります。たとえば、詩編93編から100編は、神が王として即位する即位式の詩編と言われていますが、これらの詩編では、神が全世界を支配される唯一の、永遠なる王としてその位に就く儀式が想定されていると言われます。詩編96編10~13節を読んでみましょう。【詩編96編

10~13節】(934ページ)。

旧約聖書時代のイスラエルの国は、繰り返して外国からの攻撃を受け、民の多くが諸外国に散らされ、苦難の歴史を歩んできました。紀元前721年には北王国イスラエルが滅ぼされ、587年には南王国ユダも滅ぼされ、ダビデ王国は完全に消え去りました。イスラエルの民はそのような苦難の歴史の中で、神がやがてイスラエルと全世界の唯一の王として君臨し、すべての民を義と平和ですべ治め、神の国を完成されるであろうと期待しました。神はそのために、油注がれたまことの王であるメシア・救い主を世にお遣わしになるであろうと信じました。その旧約聖書の待望が、今や、主イエス・キリストによって成就の時を迎えたのです。わたしたちが先週のクリスマス礼拝で聞いたルカ福音書のみ言葉がそれです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章1節)。

けれども、ここでわたしたちは一つの重要なことを確認しておかなければなりません。それは、主イエスがどのようにして神の国の王となられるのか、またどのようしてすべての人をすべ治められるのかということです。それは、当時の多くのユダヤ人が期待していたのとは全く違ったものであったということです。すなわち、多くの人が期待していたのは、たくましい軍馬にまたがり、手にはするどい剣を持ち、イスラエルを支配していたローマの軍隊を追い出し、イスラエルを異教徒の王の支配から解放する英雄的な王としてのメシアでした。

しかし、主イエスはそのような王ではありませんでした。主イエスは受難週の最初の日の日曜日に、軍馬ではなく柔和なロバに乗ってエルサレムに入場されました。剣をもって権力をふるう王ではなく、人類の罪ためにご自身が苦しまれ、わたしたち罪びとのためにお仕えくださる僕(しもべ)として、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。わたしたちの罪のためにご自身の命を贖いの犠牲としてささげ尽くされました。それによって、罪と死とに勝利され、三日目に復活されたのです。主イエスは十字架で死んでくださった救い主であり、また愛と恵みとをもってわたしたちを復活の命へと導かれる主として、神の国の王となって君臨されます。わたしたちは十字架と復活の主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によって、神の民とされ、神の国に入ることが許されているのです。

次に、ヨハネ福音書3章で、主イエスはユダヤ教ファリサイ派の学者ニコデモとの対話の中で、「神の国に入る」とはどういうことかを教えておられます。

【3節】。また【5節】。ここでは「神の国を見る」あるいは「神の国に入る」という表現が用いられています。パウロの書簡などでは「神の国を継ぐ」とも言われています。これらの表現からも分かるように、神の国に入ると約束されているのはわたしたち信仰者ですが、それはわたし自身の意志や努力や能力によってなされるのではないことは明らかです。神の国、神のご支配は、天におられる神からわたしの方に近づいて来る、あるいは到来するのですから、わたしはそれを受け入れる、あるいは迎え入れる、それを受け取って自分のものにすることによって、神の国に入ることが許されます。

 主イエスはそれを「新たに生まれる」ことによって、また「水と霊とによって生まれる」ことによって可能になるのだと、説明しておられます。それまでの罪に支配されていた自分と別れて、その古い自分に死んで、新たに天の父なる神から与えられる霊によって生きる者に変えられる。そして、主イエスの十字架の死と復活に合わせられる洗礼を受け、水によって古い自分を洗い流し、新たに主イエス・キリストの救いの恵みによって生きる者へと変えられる。そのようにして、わたしは主イエスによって開かれた神の国に入ることが許されるのです。

 神の国では、神が永遠にわたしたちと共におられます。神とわたしとの交わりを妨げるものは何もありません。神の国では、もはや死はなく、悲しみや痛みもなく、すべての不安や恐れは消え去り、常に、永遠に神が共におられ、主イエスのみ顔を仰ぎながら、感謝と喜びに満ちた祝宴の席に連なることが許されるのです。

 わたしたち信仰者は、今すでに、この世にあって、来るべき神の国に生き始めているのです。罪と死に勝利された主イエスが、天の父なる神のみ座から、わたしたちのために執り成していてくださるからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちをあなたの救いと恵みのご支配のもとへと招き入れてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、あなたの強い愛と聖霊のみ力によって、わたしたちを永遠にあなたの御国の民としてください。

○主なる神よ、あなたが恵みと憐みとをもって秋田教会の一年の歩みをお導きくださいましたことを覚え、感謝いたします。また、教会に連なる一人一人をもお導きくださいましたことを感謝いたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月24日説教「わたしたちのための救い主の誕生」

2023年12月24日(日) 秋田教会クリスマス礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章8~14節

説教題:「わたしたちのための救い主の誕生」

 クリスマスという言葉が「キリスト」と「ミサ」の二つの言葉が合体して作られたということをお聞きになったことがあるかもしれません。キリスト・ミサ、つまり、主イエス・キリストというこの日にお生まれになった一人の人間と礼拝とが結びついた言葉です。その意味は、この日は、主イエス・キリストを礼拝する日であるということであり、この日お生まれになった主イエス・キリストを礼拝してお迎えするということです。もう少し言葉を替えて言えば、この日を祝う最もふさわしい仕方は、この方を礼拝することであるということであり、あるいはまた、この方をわたしが礼拝すべき方としてお迎えするということです。

 実は、きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書で、羊飼いたちが聞いた天使の言葉の中に、そのクリスマスという言葉の意味が語られているのです。10節から読んでみましょう。【10~11節】。「だから、あなたがたはこの方を礼拝してお迎えしなさい。この方をあなたが礼拝する神として信じ、受け入れなさい。そうすれば、あなたは救われ、クリスマスの恵みと祝福にあずかることができます。それがクリスマス、キリスト・ミサの意味なのです」と、神の使い、天使が告げているのです。

 では、最初にこのクリスマスのメッセージを聞いた羊飼いたちはどうしたでしょうか。15節以下にこのように書かれています。【15~17節】。そして、【20節】。羊飼いたちはすぐにベツレヘムの町にでかけ、幼子が生まれた場所を探し当てました。そして、実際に神をあがめ、賛美したと書かれています。彼らはこの日お生まれになった幼子主イエス・キリストが、天使がお告げになったように、神から与えられた自分たちの救い主、主メシアであると信じました。彼らは最初のクリスマスを祝った人たち、主イエス・キリストを礼拝した人たちとなったのです。そればかりでなく、彼らはそのことを人々に告げ知らせた最初の伝道者となったとも書かれています。

 そこでわたしたちは、クリスマスの日にお生まれになった「あなたがたのための救い主、主メシア」とはどのような方なのか、なぜその方は礼拝されるべきなのかについて、さらに深く学んでいくことにしましょう。

 「救い主」とは、一般的には広い範囲に及ぶ助けとか解決法を与える人を言います。「救世主」という言葉も用いられます。たとえば、この薬は難病で苦しむ人たちの救世主となるというように、いろいろな場面や分野で用いられることがあります。しかし聖書では、ほとんどの場合、人間を罪から救う人を指しており、しかもその人はすべての人々にとっての、ただ一人の、唯一の救い主であることを意味します。それが、クリスマスの日にお生まれになった主イエス・キリストであると聖書は語っているのです。

 罪からの救いとはどういうことでしょうか。まず、罪とは何かといえば、罪とは神と人間との関係が壊れていることを言います。聖書によれば、神は人間をご自分の形に似せて創造されました。神と親しく交わり、神のみ心をわきまえ知り、そのみ心に喜んで従って生きる者として、神は人間を創造されました。そうである時に、人間は一組のアダムとエヴァとなって、互いにふさわしい助け手となり、共に歩むパートナーとして、人間同士もまた親しい交わりをもつ共同体となるのです。

 ところが、最初の人アダムとエヴァが神の戒めに背いて罪を犯し、神から遠ざかり、神に逆らって、罪の中で生きる者となってしまいました。これが原罪と言われるものです。人間の罪は全人類に及んでいます。それによって、争いや憎しみ、戦争、殺戮、破壊、分断といった醜い、不幸な人類の歴史が始まり、また今も繰り返されているのです。

 けれども、神は人間の罪の歴史をそのままにはしておかれません。人間が罪の中で滅びていくことをお許しにはなさいません。神は人間を罪から救うために、神がお選びになったイスラエルの民と預言者たちや王たち、また祭司たちによって、神の救いのみわざを行なわれました。そのことを記しているのが旧約聖書です。それらの預言者、王、祭司は、その職に任じられる際に、頭からオリブ油を注がれるという油注ぎの儀式を行いました。それは、神の霊と恵みがその人の上に豊かに注がれ、それによって託された務めを果たすことの約束、しるしでした。

 神はそのようにして、ご自身の永遠なる救いのご計画を進められ、ついにはこの時に、まことの、そして永遠の預言者、王、祭司であられる、油注がれた者、それをヘブライ語でメシアと言いますが、そのメシア・救い主をこの世にお遣わしになったのです。その方こそが、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストなのです。

 主イエス・キリストは全人類を罪から救うために、父なる神への全き服従の道を歩まれ、わたしたちの罪のために苦難を受けられました。そして、わたしたちを罪の支配から解放し、わたしたちの罪を贖うために、ご自身の罪なきお体を十字架に犠牲としておささげになりました。わたしたちはこの主イエス・キリストの十字架の福音を信じ、主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、受け入れるならば、だれでも罪から救われ、死と滅びから救われるのです。これが、「あなたがたのための救い主、主メシア」の具体的な内容です。

 人間の罪は神に対して犯された罪ですから、それをゆるすことができるのは神のみです。主イエス・キリストはまことの人間としてこの世にお生まれになりましたが、ご自身はまた罪も汚れもない神のみ子でした。神のみ子が人となってこの世においでくださったのです。それがクリスマスの日の出来事でした。それゆえに、わたしたちはこの救い主イエス・キリストを、わたしの罪をゆるす権威と力とを持っておられる唯一の神としてあがめ、礼拝するのです。

クリスマスの日に最も重要なことは、わたしたちがこの日に神と真実な出会いを経験することです。わたしが神のみ前に立つということです。そして、神のみ前で自分自身の罪に気づかされるということです。しかも、その罪がすでに神によってゆるされているということを信じることです。神とわたしの関係、神と人間との関係が正しく回復されなければ、人間のすべての営みは曲がったもの、歪んだものになるほかにありません。人間と人間との関係も、人間が共に住む社会も、地域も、家庭も、また人間の経済活動とか政治とか、教育とか、あらゆるものもまた、神と人間との関係が正しくなければ、それらのすべては歪んだもの、不健康なものにならざるを得ないのです。

このクリスマスの日に、神ご自身の方から、人間との関係回復のために、人間との交わりを正常に戻すために、神のみ子が派遣されてきたことを、わたしたちは感謝と驚きとをもって知らされました。わたしたちの救い主としてこの日にお生まれになられた主イエス・キリストを、わたしを罪から救う唯一の救い主と信じ、神とわたしとの関係を正しく回復していただく。そして、わたしが正しく神を礼拝し、神にお仕えしていく。そこから、わたしの新しい歩みが始まります。わたしは神との間に平和を与えられている平和の使者として、この世にあって真実の平和を創り出すために遣わされていくのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、暗黒と死の陰に覆われていたこの世界に、天からのまことの光でこの世を照らしてくださり、救いの恵みをお与えくださいましたことを心から感謝いたします。この日にお生まれになられたみ子主イエス・キリストがすべての人の救い主であることを、世の多くの人々に信じさせてください。この世界は深く病み、痛み、悲しんでいます。争いや、憎しみ、分断が多くの人々の命を奪い、家々や自然を破壊し、人々の生活を破壊しています。主よ、どうかこの世界を哀れんでください。救ってください。真実の和解と平和をお与えください。クリスマスの日に天から与えられる大きな喜び、恵み、祝福を、多くの人々が経験することができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月17日説教「ヤコブからヨセフの子どもたちへ受け継がれた神の祝福」

2023年12月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記48章1~22節

    ヘブライ人への手紙11章17~22節

説教題:「ヤコブからヨセフの子どもたちへ受け継がれた神の祝福」

 エジプトに移住することになったヤコブ一族は、エジプト北部のゴシェンの地で、羊などの家畜を飼う民族として、400年以上の長い期間を寄留の民として過ごすことになりました。けれども、彼らはアブラハムから受け継いだ信仰を捨てることなく、エジプトの神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、のちのイスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神に対する信仰を持ち続けました。彼らの400年以上にわたるエジプトでの生活については聖書は全く語っていませんし、聖書以外の資料も残ってはいませんが、エジプト王朝の絶対的な権力のもとで、なぜ、どのようにして彼らが長くその信仰を維持することができたのかを考えてみれば、それは全く驚くほかはありません。この驚きについては、説教の終わりでもう一度触れたいと思います。

 前回読んだ46章には、世界規模の激しい飢饉が2年も続いたために、ついにヤコブが一族を挙げてエジプトに移住することになったことが書かれていました。次の47章には、ヤコブがエジプトの王ファラオと会見し、ゴシェンの地、またはラメセスの地に定住する許可を得たこと、それに、ヨセフが7年間続いた飢饉の中で知恵を発揮し、エジプトの繁栄のために貢献したことが語られています。

 きょうの礼拝で朗読された48章では、死ぬ時が近づいたヤコブがヨセフの二人の子どもを祝福したこと、また次の49章ではヤコブが12人の子どもたち全員を祝福したことと、ヤコブの死について描かれています。きょうは48章と49章から、ヤコブの祝福について学んでいくことにします。

 48章8~9節を読んでみましょう。【8~9節】。また、【20節】。49章では、ヤコブの長男ルベンから始まって、末の子ベニヤミンまでの12人の子どもたち一人一人の名前を挙げてヤコブが祝福の言葉を語ったことが記され、その最後の28節に、このように書かれています。【49章28節】(91ページ)。ヤコブはこのようにして、自分の子どもたちと孫にあたるヨセフの二人の子どもを祝福しました。族長ヤコブが死の直前に子どもたちを祝福したこと、そのことの意味、意義、重要性のことをまず取り上げてみたいと思います。

 信仰者がその人生の終わりに臨んで、最後になすべきことは何でしょうか。族長イサクがそうであったように、その子ヤコブも、すでに目がかすんで見えなくなり、足腰が弱って立たなくなり、体のすべての機能が衰えてきた時に、その最後の力を振り絞って、彼が死ぬ直前になすべきこと、それは子どもたちを祝福することでした。神からの祝福を子どもたちに受け継ぐこと、床に足を伸ばし、息絶えるその直前に、歯が抜け落ちたその口から洩れる最後の言葉が、神の祝福を祈る言葉であるということ、それこそが信仰者の生涯の最後になすべきことであり、また信仰者の生涯の中でもっとも偉大なわざであるのではないでしょうか。

 なぜならば、神の祝福はヤコブの死を越えて、信仰者の死を越えて、子どもたちに、次の世代へと受け継がれていく、最も偉大な財産であるからです。49章33節にこのように書かれています。【33節】(91ページ)。子どもたちに神の祝福を受け継いで、ヤコブの生涯は全うされました。彼の生涯は、47章28節によれば、エジプトへ移住してから17年、147年であったと書かれていますが、その信仰の歩みは試練に満ちたものでした。しかしまた、アブラハム、イサクから受け継いだ神の祝福を信じ続け、多くの子どもを賜り、事実、神の祝福をいっぱいに受けた生涯でありました。彼は死にます。しかし、受け継いだ神の祝福は、また彼が子どもたちのために祈った神の祝福は、彼の死を越えて、子どもたちへ、次の世代へ、イスラエルの民へ、そしてさらに、主イエス・キリストの教会へ、わたしたちへと受け継がれていくのです。永遠に消えることのない神の祝福、それを持ち運んだヤコブの生涯、そして彼の死の直前に、その神の祝福を子どもたちへと受け渡したヤコブ、これが創世記48章と49章に貫かれている大きな主題なのです。

 では、ヤコブはどのようにして神の祝福を受け渡したのかを、もう少し詳しく見ていきましょう。ヨセフは父ヤコブが病気だと聞いて、二人の子ども、マナセとエフライムを連れて、一族が移住してきたエジプト北部のゴシェンの地へと向かいました。2節にはこのように書かれています。「イスラエル(これはヤコブの新しい名前ですが)は力を奮い起こして、寝台の上に座った」。ヤコブは残されている命のすべてを振り絞るかのように、わずかな力を奮い起こして、神の祝福の担い手としての務めを果たそうとしています。彼は言います。【3~6節】。ヤコブはここで、28章10節以下に記されていたベテルで見た夢のことを思い起こしています。彼はその時、兄エサウから逃れて家を出、一人孤独な旅をしていました。ある夜に、神が夢に現れ、彼を祝福され、約束のみ言葉をお語りになったことを思い起こしています。そして今、彼が地上の旅路を終えようとしている、その最後の時に思い起こしているのが、彼自身の数々の失敗とか成功のことではなく、彼が経験した喜びや悲しみのことでもなく、あのベテルでの神の祝福の恵みなのです。その神の祝福こそが、彼のこれまでの全生涯を貫いていた揺るがない真実であり、彼の生涯を満たす永遠の真理であることを、彼は今告白しているのです。

 5節はのちのイスラエルの12部族の歴史と関連しています。ヨセフ部族は、のちになってエフライム部族とマナセ部族になってイスラエル12部族を形成することになります。本来のヤコブの12人の子どもたちに対する祝福は49章に書かれています。その12人の名前を確認しておきましょう。49章3節と4節が長男ルベンに対する祝福の言葉、5節から7節はシメオンとレビ、このレビ部族はカナン定着後は祭司の務めを担うことになるので、土地の分配からは除外され、その代わりに22節から26節のヨセフ部族がエフライム族とマナセ族の二つに分けられることになります。次が、8節から12節のユダ族、このユダに対する祝福の言葉は他よりも長くなっていますが、のちになってイスラエル王国が南北に分裂した際に、ユダは南王国を形成する中心的な部族となり、この部族からダビデ王が出ることになり、さらにはダビデの末裔から主イエスがお生まれになるわけです。10節以下を読んでみましょう。【10~12節】(90ページ)。

 13節はゼブルン、14節と15節はイサカル、16節と17節はダン、20節はアシュル、21節はナフタリ、そして27節は12番めの子ベニヤミン、それぞれに対する神の祝福の言葉が語られています。このように、ヤコブ・イスラエルは神に祝福された人であり、また神の祝福を持ち運び、それをのちの世代へと受け継がせる務めを果たし、その生涯の終わりに12人の子どもたちに神の祝福を受け渡し、その祝福の言葉によって来るべきメシア,主イエス・キリストを証しし、預言しました。ヤコブはこの使命を果たすことにおいて、もっとも祝福された信仰者であったと言えます。

 もう一度48章に戻りましょう。ヤコブがヨセフの二人の子どもを祝福した時に、不思議なことが起こりました。【13~19節】。ヨセフは長男マナセの方がより大きな祝福を受けるべきだと考えて父ヤコブの右手の方に座らせました。しかし、ヤコブは自分の手を交差させて、弟のエフライムを右手で祝福したのです。ヨセフは驚いて父の右手と左手を変えようとしました。父の目がかすんできてよく見えていないと思ったからです。けれども、ヤコブはこれでよい、これは神のみ心なのだと答えます。ヤコブの肉の目は見えなくなっていましたが、彼の信仰の目ははるかかなたの神のご計画を見ていたのです。すなわち、のちになってイスラエルが南北に分かれた際には、エフライム族は北王国を形成する中心的な部族となったのです。旧約聖書では北王国はしばしばエフライムと呼ばれています。

 ここではもう一つの不思議なことが起こっています。ヤコブはかつて若いころ、兄エサウを欺き、また目がかすんで見えなくなっていた父イサクをも欺いて、長男の特権を奪い取ったことがありました。創世記27章に書かれていました。しかし今、年老いて目が見えなくなったヤコブが、信仰の目で神の永遠のご計画を見ており、自分の子どもたちとヨセフの二人の孫たちを祝福しているのです。自分の意志や悪しき策略を用いて神の祝福を奪い取ったヤコブが、今や神のみ心に完全に服従し、神の祝福を語り、それを分け与えるヤコブへと変えられているという、奇跡をわたしたちは見るのです。神の祝福はこのようにして信仰者をみ心にかなう者へと造り変えていくのです。

 最後に、説教の冒頭で言及した驚きについて考えてみましょう。宗教も文化や生活習慣も全く違う異教の地エジプトで、400年以上にわたって自分たちの信仰を持ち続けることができたのは、いったいなぜなのか。歴史的資料や神学的考察からは直接答えを得ることはできないとしても、創世記を続けて学んできて、やがてその学びを終えようとしているわたしたちは、それは族長アブラハム、イサク、ヤコブによって受け継がれてきた神の祝福なのではないか、そして特に、創世記48章と49章で何度も繰り返して語られている神の祝福こそが、それを可能にさせたのではないか。そして、その神の祝福を、異教の地、ゴシェンでも、幾世代にもわたって自分たちの子どもへと受け継いでいった彼らの信仰の歩みが、それを可能にさせたのではないだろうか。創世記を学んできたわたしたちには、そのように思えるのです。

 人は言うかもしれません。神の祝福は少しも腹の足しにはならないではないか。神の祝福は世界の経済活動に何の影響も与えず、人類の発展のために何の貢献もできないではないかと。

 しかし、神の祝福はイスラエル12部族のエジプトでの400年余りの信仰を導いたのみならず、その後のイスラエルの民の千数百年の歩みをも導き、そしてついに、全世界の救い主、主イエス・キリストの到来へと、信仰の民を導いたという事実をわたしたちは見ているのです。

 主イエスは福音書の初めで弟子たちや人々を祝福してこう言われました。「幸いなるかな、心の貧しき人たち。神の国は彼らのものなり。幸いなるかな、心の清い人たち、彼らは神を見る。幸いなるかな、平和を創り出す人たち、彼らは神の子と呼ばれる」と(マタイ福音書5章3節以下参照)。わたしたちもまた主イエスによってこの祝福の中に招き入れられているのです。主イエスの祝福のみ言葉の中にこそ、真実の救いと命とがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたち一人一人を天からの豊かな祝福で満たしてください。全人類の救い主としてこの世にお生まれになった主イエス・キリストの救いの恵みが、この待降節の時、すべての人々に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月10日説教「神が主キリストによって告げ知らせた平和の福音」

2023年12月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    使徒言行録10章34~43節

説教題:「神が主キリストによって告げ知らせた平和の福音」

 使徒言行録10章の、異邦人コルネリウスの回心と言われる出来事を続けて読んできました。きょうは、コルネリウスの家でのペトロの説教の箇所を学びます。この説教は使徒言行録に記されているペトロのいくつかの説教の中で、異邦人に向けて語られた最初の説教です。初代教会で異邦人伝道がどのようにして始められたのかを知るうえでも、貴重な内容を含んでいます。

 ペトロの説教は、彼がどのようにして異邦人であるコルネリウスの家に説教者として招かれてきたのか、そのきっかけとなった出来事を思い起こしながら語り始めています。【34~35節】。「神が人を分け隔てなさらない」ことは、すでに28節で、コルネリウスの家に入ってすぐのあいさつの中でも語られていました。そしてこれが、10節以下に書かれていたペトロが見た幻の本来の意味なのです。今一度、彼が見た幻の本来の意味を確認しておきましょう。

 ペトロが見た幻は、旧約聖書で定められていた宗教的に汚れた動物、それゆえに食べてはならない動物と、食べてもよい清い動物の区別、いわゆる「食物規定」に関連していました。でもその本来の意味は、先に神に選ばれた民イスラエルとそうではない異邦人との区別のことであり、神がすべての食べ物が清いと言われたように、異邦人もまた今や神の選びの中に加えられ、清い民とされているということがそこで明らかにされたのです。これが、ペトロが見た幻の本来の意味であったということに、ペトロはあとで気づきました。と言うのは、主イエス・キリストの福音がイスラエルの民ユダヤ人にだけでなく、全人類に、すべての人に宣べ伝えられるようになったからです。もはや、イスラエルの民と異邦人との区別は不必要になったからです。

 だれであっても、神を恐れ、神を礼拝する人、神のみ言葉に聞き従う人を、民族の違いやその他の人間の側のあらゆる違いにかかわらず、神はすべての人を同じようにみ前にお招きくださるとペトロは語ります。天地万物を創造された主なる神はイスラエルの神であられるだけでなく、すべての民族、すべての人の神でもあられ、すべての人を罪から救い、神の国へとお招きになる唯一の主なる神です。神はそのことを人の子としてこの世にお遣わしになったみ子、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって明らかにされました。

 ペトロは続いて主イエス・キリストのことを語ります。【36~37】。36節では二つの重要なメッセージが語られています。一つは、「イエス・キリストこそがすべての人の主である」ということ、もう一つは、「主イエスは平和を告げ知らせた」ということです。この二つのことについて、もう少し詳しくみていきましょう。

 「イエスは主である」、これが初代教会の信仰告白の土台であり核であり、出発点であると言われています。聖書の中で一般的に用いられている「主イエス・キリスト」という表現は、その信仰告白を土台にしています。つまり、ガリラヤ地方のナザレでお生まれになったヨセフの子イエスは、全世界の唯一の主であり、神が旧約聖書で約束しておられた「油注がれたメシア・キリスト・救い主」であるという信仰がこの言葉で言い表されているのです。この「イエスは主である」という告白をもとにして、今日わたしたちが告白している『使徒信条』などの告白文章が形成されていったと考えられています。

 「主」という言葉には多くの意味が含まれます。第一には、「救い主」という意味です。キリストはギリシャ語ですが、もとのヘブライ語はメシアです。本来「油注がれた者」という意味ですが、イスラエルの民は神が油を注いだまことの王、まことの祭司、まことの預言者として、イスラエルを救ってくださるメシアを待ち望んでいました。主イエスこそがそのメシア・救い主・キリストであるという告白が「主イエス」という表現には含まれているのです。ペトロがこのあと説教の中でその主イエスの救いのみわざについて詳しく語っています。しかも、その中で重要なポイントをあらかじめ指摘しておくと、主イエスはイスラエルの民にとっての救い主であるだけでなく、全世界のすべての民、すべての人にとっての救い主であるということを、ペトロは強調しています。

 「主」という言葉のもう一つの意味は、すべての偶像の神々、偽りの神々が否定されているということ、また、人間が神に代わって自らこの世界の主として支配しようとする、人間のすべての悪しき権力が否定されているということです。主イエスのみ前にあっては、すべての偶像の神々、偽りの神々はその力と栄光を失います。人間はみな主イエスのみ前にあっては、罪の中で滅びるほかにない土くれに過ぎない者であることを知らされます。この世界にあるすべての被造物はこぞって主イエスのみ前に首(こうべ)をたれ、ひれ伏すほかにありません。

 次に、「主イエスは平和を告げ知らせた」というメッセージについてですが、これについてもペトロのこのあとの説教で詳しく語られるのですが、あらかじめポイントとなる二つのことに触れておきたいと思います。

一つは、平和とは、まず神と人間との間の平和のことです。それは、罪のゆるしによって与えられる神と人間との和解のことです。イザヤ書52章7節にはこう預言されています。

いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は

平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

 ルカによる福音書1章10節以下には、最初のクリスマスの日にその預言が成就したと書かれています。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。……すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高みところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』(10~14節参照)。

主イエスの十字架の福音によって人間の罪がゆるされ、神と人間との間に平和が実現したのです。

 平和のもう一つの意味は、神と人間との平和によってさらに人間と人間との間の平和もまた実現しました。人間の罪が取り除かれたところに、真の意味での人間と人間との間の平和、民族と民族との間の平和、世界全体の平和が実現するからです。共に神によって罪ゆるされている人たちとして、もはやお互いを裁き合う必要がなくなるからです。

 あるいはここには、ユダヤ人と異邦人との平和と言うことも暗示されているのかもしれません。エフェソの信徒への手紙2章11節以下では、主イエスの十字架の血によって、異邦人とユダヤ人と間の平和が与えられ、両者が一つの新しい人に造り上げられたと書かれています。主イエスの十字架の福音が、地上のすべての分断、分裂、差別、偏見を取り除き、真の和解と平和と創り出すからです。

 37節から、ペトロの説教は主イエスのご生涯とそのお働きについて進んでいきます。「あなたがたはご存じでしょう」とは、主イエスの地上でのお働きについてカイサリアの人たちがすでに聞き知っていたということです。カイサリアは地中海沿岸にありますが、南部のユダヤ地方と北部のガリラヤ地方の中間に位置していますから、もしかしたらコルネリウスの家に集まっている人の中には直接主イエスのお姿を見たことがある人もいたかもしれません。また、エルサレム教会の大迫害で市外へと散らされた一人のフィリポがすでにカイサリアにまで足を運んで福音を宣べ伝えていたと8章40節に書かれていましたから、彼から主イエスのことを聞いた人もいたでしょう。

 ペトロは38節から具体的に主イエスのお働き、救いのみわざについて説教します。【38~41節】。38節の「油注がれた者」が先ほど説明したヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストです。神が旧約聖書で約束されたまことの救い主のことです。ここでは、具体的に主イエスの洗礼を指していると考えられます。主イエスが洗礼をお受けになった時に、ルカ福音書3章21、22節にこのように書かれています。「イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た」。主イエスは父なる神からの聖霊を受けて、神の力と権威を与えられ、数々のいやしの奇跡を行われ、悪霊を支配され、神の国が到来し、神の恵みのご支配が始まったことを実証されました。

 そして、39節と40節では、主イエスの十字架の死と復活、復活の顕現について語られています。ペトロの説教は、これまでユダヤ人対象に語ってきた説教がいくつかありましたが、その説教も、またここでの異邦人に向けて語られた説教でも、その中心的な内容は主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。そのことは、対象がだれであれ、あるいは時代がどのように変わろうとも、全く変わりません。今日の教会でわたしたちが聞くべき説教も、主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。教会の福音宣教の働きが困難な時代であれ、世の人々の好みが変化し、教会に足を向ける人が少なくなった時代であれ、あるいは高度なテクノロジーが発達し、人間の生活の多くがデジタル化されたり、宇宙に飛行船が飛び交うようになったとしても、教会が語り、聞くべき言葉は、主イエス・キリストの十字架と復活の福音以外ではありません。

 なぜならば42節以下にこのようにあるからです。【42~43節】。主イエス・キリストこそが終末の時、この世が終わり、新しい神の国が完成される時に、「生きている者と死んだ者」のすべてを最終的にお裁きになるために、再びわたしたちの前に立たれる裁き主だからです。

 また、主イエス・キリストを信じる者は、だれであれ、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、若者であれ、老人であれ、悲しんでいる人であれ、孤独な人であれ、病や痛みや重荷に苦しむ人であれ、そのほかだれであれ、すべての人がその信仰によって罪ゆるされ、救われ、神の国での永遠の命を受け継ぐことが許されるからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画の中にわたしたち一人一人をも招き入れていてくださいますことを覚え、心から感謝し、あなたの尊いみ名をほめたたえます。だれもあなたの救いから漏れる人はいません。主よ、どうか教会の宣教の働きを強めてください。わたしたち一人一人をも主イエスの復活の証人としてお用いください。

○主なる神よ、あなたの義と平和とによって、この世界から争いや分断、殺戮や破壊、憎しみや怒り、不安や恐れを取り除いてください。主キリストにある喜びと平安とで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月10日説教「最も小さい者こそ、最も大きい」

2023年12月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編130編1~3節

    ルカによる福音書9章46~48節

説教題:「最も小さい者こそ、最も大きい」

 教会の暦では、きょうからアドヴェント(待降節)に入ります。アドヴェントとは、「到来、接近」を意味するラテン語に由来しています。全世界の救い主イエス・キリストの到来・接近のことです。日本語では、それを待ち望む人間の側から見て、主キリストの到来を待つ期間という意味で「待降節」と呼んでいます。

 また、教会の一年の暦は待降節から始まっています。きょうは待降節第一主日、次週から第二、第三、そしてその次の24日が降誕節(クリスマス)礼拝、その後、降誕後第一主日、第二、というように数えていきます。このように、教会の暦が待降節から始まるというのは、教会の本質を言い表しています。つまり、教会は常に待望する教会である。待ち望む信仰者たちの群れだということです。主キリストの降臨を待ち望む教会、そして、主キリストの再臨の時を待ち望む教会、神の国の完成の時を待ち望む教会、それが教会です。

 使徒パウロはそのような待ち望む信仰者と教会の特徴を、フィリピの信徒への手紙3章12以下でこう言っています。「わたしはすでにそれを得たとか、すでに完全な者となっているのでもない。ただ、何とかして捕らえようと努めている。なぜなら、自分が主キリストによって捕らえられているから。だから、なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が主キリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることだ」(12~14節参照)と。わたしたちもまた特にこの待降節に、天に約束されている永遠に朽ちない宝が与えられるのを切に待ち望みながら、教会の歩みを、また一人一人の信仰の歩みを続けていきたいと願います。

 ルカによる福音書を続けて学んでいますが、きょう朗読された箇所の少しあとの51節に、【51節】と書かれています。この51節から、主イエスのエルサレムに向かう旅が始まります。と言うことは、その前の46節から50節は、主イエスのガリラヤ地方での伝道の最後になります。その締めくくりと言うべき箇所です。

 しかし、その締めくくりの箇所では、ガリラヤ伝道の成果や実りがどれだけあったかとか、弟子たちがどれほどに訓練されて、来るべき神の国に入るための備えができたかとか、そのようなことがここで語られているのではなく、きょうの箇所では、弟子たちが「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」を論じ合っていて、主イエスにとがめられている様子と、49節以下でも主イエスのみ心に反したことを弟子たちが行なっていたことが書かれています。ここでは、ガリラヤ伝道の成果について語られているのではなく、むしろ弟子たちの未熟さ、不信仰が語られているというべきでしょう。ガリラヤ伝道も弟子たちの訓練も、いまだ未完成であり、いまだ道の途中であるということがここでは明らかにされているのです。しかしまた、そうであるからこそ、主イエスはエルサレムでのご受難と十字架の死へと向かって前進なさるのだと言わなければなりません。それによって、弟子たちの信仰もまた完成されるからです。

 【46節】。弟子たちがなぜこのようが議論をし始めたのか、その理由ははっきりしませんが、すぐ前の44節の、主イエスの2回目の受難予告との関連で考えてみると、その意図が浮かび上がってくるように思われます。主イエスは言われました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と。また、9章22節の1回目の受難予告では、【22節】と言われました。ところが、45節に書かれていたように、弟子たちにはこの主イエスのお言葉の意味がよく分かりませんでした。その意味が彼らには隠されていました。また、その本当の意味を知ることを弟子たちは恐れていたとも書かれています。

 つまり、主イエスのご受難と十字架の死を理解できず、それを正しく受け止めることができず、主イエスがこれから進もうとしておられるエルサレムへの道を恐れていた弟子たち。むしろ、その主イエスのみ心とは正反対のことを考えていた弟子たち。そのような弟子たちの無理解と不信仰をより明らかにしているのが46節から50節なのだということに気づかされるのです。

 では、そのような視点からきょうのみ言葉を学んでいきましょう。46節で「一番偉い」と翻訳されているもとのギリシャ語は「メガス」という言葉の比較級です。「メガス」は形が大きいとか、質的に豊かであるとか、あるいは社会的な地位が高いという意味でも用いられますが、きょうの箇所では大きいか小さいかが議論されているので、「偉い」という評価を抜きにして、単純に「大きい」と翻訳するのが良いと思われます。

 したがって、48節の主イエスのお言葉も、「最も小さい者こそ、最も大きい」と翻訳するべきと思われます。そうしないと、大きいか小さいかが問題になっている箇所に、人間の価値判断で偉いか偉くないかという別の評価が持ち込まれて、両者が混同されてしまうからです。後でまた触れますが、主イエスはここで、人間の目から見てどちらが偉いか、偉くないかとか、どちらが人間的に価値が高いか、低いかということを問題にしているのではなく、主なる神がその人を大きいと見てくださるのか、それとも小さいと見られるのかということが重要だからです。

 そのことをより深く理解するために、マタイ福音書の並行箇所を参考にしてみたいと思います。マタイ福音書18章1節にはこう書かれています。「その時、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」。それに対する主イエスのお答えが3節に書かれています。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(3~4節参照)。

 このマタイ福音書から明らかなように、ここで問題になっているのは、天の国、すなわち神の国にはどのような人が招かれているのか、また神の国においてはどのような人が大きいとされるのかということなのです。もっとも、ルカ福音書がきょうの箇所で「神の国では」という言葉を省いているから、ルカ福音書では神の国のことが論じられているのではなく、この世でのことが言われているのだと結論づけることは間違っています。この世でのことと来るべき神の国でのことは、全く違った別々の基準で見られるのではなく、この世でどのように生きるかということと、神の国で神ご自身がどのようにそれを見てくださるのかということは密接に結びついていることだと、聖書全体が教えているからです。

 したがって、わたしたちがルカ福音書を読む場合にも、ここでは神の国のことが問題にされているのだということを常に意識していることが必要です。もう一度確認しておきますが、主イエスはここで、人間としての価値とか、この世での社会的な評価とかを問題にしておられるのでは決してないということ、神ご自身がわたしたち一人一人をどうご覧になっておられるか、神がわたしたちに何を約束しておられるのか、また実際に神の国において神がわたしたちをどのようにお迎えくださるのか、そのことがここでは重要だということです。

 では次に、【47~48節】。弟子たちは主イエスには悟られないように、隠れて、「だれがいちばん大きいか」と議論していたようです。けれども、主イエスは弟子たちの心の中にある傲慢や欲望や競争心といった、人間の罪の根源をすべて見ておられ、知っておられます。そのような人間の罪が、他者を押しのけ、あるいは犠牲にし、あるいは否定し、自分一人だけが高くに登ろうとして、ついには神をも押しのけてしまう結果に至るということを主イエスは見ておられ、知っておられます。旧約聖書以来、聖書の全巻がそのような人間の罪について語っているからです。

 そのような罪に支配されている弟子たちには、主イエスの受難予告は理解できず、受け入れることはできません。罪なき神のみ子であられながら、ご自身が罪びとの一人に数えられ、それだけでなく、すべての罪びとたちの罪をお引き受けになって、罪びとたちの手から手へと引き渡され、偽りの裁判で裁かれ、弱々しく、全く小さな、無力な存在となられて、十字架で死んでいかれる主イエスを神から遣わされたメシア・救い主と信じ、受け入れることは、罪に支配されていた弟子たちにはできません。

 そこで、主イエスは一人の子どもをお招きになります。そして、この子どもを主イエスのみ名によって受け入れる人こそが、主イエスを信じ、受け入れる信仰者であると言われ、またそのような信仰者こそが神の国に招き入れられるのだと言われました。

 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる」とは、主イエスがこの子どもと同じ存在であることを信じる、あるいは主イエスをこの子どもと同じお方として信じ、受け入れるということを意味します。子どもは親や大人の手助けがなければ、自分で自分の衣食住を手に入れることはできず、死ぬほかにありません。全く力なく、無力で貧しく小さな存在です。その存在と命のすべてを親や大人に依存しています。主イエスはまさにそのような神のみ子であられました。天の父なる神の助けなしには何もなしえず、すべてを父なる神に依存し、父なる神に期待し、それゆえに、すべてにおいて父なる神に服従して生きるほかにない神のみ子として、主イエスはご受難と十字架への道を進まれたのです。

 主イエスがそのようにして、神のみ子として、最も小さな貧しい神の僕(しもべ)として、父なる神に全き服従をささげて十字架への道を進もうとしておられる時に、弟子たちはその道とは全く正反対の道を目指し、自らを高く、大きくしようと競い合っていたのです。けれども、主イエス・キリストの十字架はそのような人間の傲慢や欲望や競い合いのすべてを打ち砕き、その罪の道に終止符を打つのです。

 そのような主イエスを、神から遣わされたメシア・救い主として受け入れ、全人類の唯一の救い主と信じることが、わたしたちの信仰です。ご自身を全く無にされ、ご自身のすべてを父なる神にささげつくされ、そしてわたしたちのためにその命をおささげくださった主イエスこそが、わたしの救い主であると信じる信仰、主イエスの十字架の死にこそわたしの罪のゆるしと救いのすべてがあると信じる信仰、そのような信仰を主イエスは求めておられるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがわたしたちの罪のために、み子を十字架に引き渡され、それによってわたしたちの罪を贖い、救ってくださいましたことを感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたのみ前で謙遜になり、悔い改める者としてください。

○主なる神よ、あなたの義と平和によってこの世界に真の和解と共存をお与えください。

11月26日説教「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

2023年11月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章6~8節

    使徒言行録10章24~33節

説教題:「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

 使徒言行録10章に描かれている、カイサリアのコルネリウス一族が主イエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けたという出来事は、初代教会の歴史の中で、非常に大きな意味を持つ出来事でした。主キリストの福音が、先に神に選ばれたユダヤ人にだけでなく、異邦人と言われていたユダヤ人以外の人にも語られ、信じられ、救いの出来事として起こったということ、またそのことが神ご自身のお導きによって起こったということ、しかも最初に建てられたエルサレム教会の指導者であったペトロの働きによってそのことが起こったということ、それらのことがここでは語られているのです。

 きょう朗読された24~33節では、コルネリウスとペトロが直接に出会ったことが語られています。そして、二人が出会うきっかけとなった、二人が見た幻について、それぞれの口からもう一度改めて報告されます。実は、同じような内容が11章ではエルサレム教会に報告するペトロの口で繰り返されています。つまり、異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロが見た幻によって、二人が出会うことになったという出来事が、ほとんど同じ内容で3回も繰り返されていることになります。このことが、初代教会にとっていかに大きな意味を持っていたかが分かります。

でもここでは、二人の出会いのきっかけになったことがただ同じように繰り返して語られているだけではなく、その出会いを導かれた主なる神の深いみ心がここで明らかにされているのです。その点に注目して読んでいきましょう。

 【24節】。ペトロが滞在していたヤッファからカイサリアまでは地中海沿岸に沿って50キロメートルほどありますから、どんなに急いでも一日二日はかかります。コルネリウスから派遣された3人の使いがヤッファに着き、そこでペトロに事情を話し、翌日ペトロがヤッファの信者たち数人を伴ってコルネリウスの家を訪問するという、往復100キロの道のりを行き来し、ユダヤ人と異邦人との出会いの場面が展開されていくことになります。神の導きにより、主イエス・キリストの福音が異邦人にも語られる場が、このようにして備えられていくのです。

 コルネリウスの家には家族のほか、親類、あるいはローマの兵士たちもいたでしょうが、多くの人たちがペトロの到着を待っていました。27節には、「大勢の人が集まっていた」とも書かれています。彼らはペトロの到着を待っていたと言うよりは、主キリストの福音が語られる時、彼らに救いの恵みが差し出される時を待っていたと言うべきでしょうが、ここに異邦人伝道の大きな成果がすでに備えられ、異邦人にも主キリストの福音が届けられるという、大きな扉が開かれようとしているのです。

 【25~26節】。コルネリウスがペトロの「足元にひれ伏して拝んだ」のは、ペトロを神のようにあがめたということなのか、それとも尊敬する宗教家に対する普通の歓迎の態度なのか、理解が分かれるところですが、しかしまたその両者には簡単に入れ替わるという危険性もあるように思われます。ある聖書注解者は、1930年から40年代にかけてのドイツでのことを思い起こしています。初めは一人の英雄を尊敬するしるしであった「ハイル・ヒトラー」と称える敬礼が,やがて神に等しい独裁者に対する絶対的服従のしるしとなっていったように、人間をいとも簡単に神のようにあがめるようになるという事例は、いつの時代にも数多くあります。

 ペトロはそのような危険を見ぬいていたのかもしれません。すぐにもコルネリウスの体を起こして、「わたしもただの人間です」と応えています。ここには、コルネリウスの間違った人間崇拝を指摘し、それを訂正するという意味だけではなく、ここで大きな主題となっているユダヤ人と異邦人の関係を背景にして考えてみると、もっと大きな意味が含まれているように思われます。すなわち、ペトロがここで言っていることは、主なる神のみ前ではすべての人間は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、みな同じ人間であり、みな同じ神によって創造され人間であり、そしてまた、みな同じ罪の人間であり、主キリストによって罪のゆるしを必要している人間なのだということが、ここでは明らかにされているのです。ユダヤ人も異邦人も共に罪を悔い改め、罪ゆるしの福音を聞き、一つの救われた教会の民とされるということがここから始まって行くのです。それゆえに、ここですでに、異邦人への福音宣教の扉が開かれているということに、わたしたちは気づかされます。唯一の主なる神のみ前に立つとき、すべての人間は、民族とか社会的地位とか、その他どのような違いをも超えて、共に主なる神を礼拝する一つの教会の民とされるのです。

 28節から、ペトロが集まった多くの異邦人に対して語りだします。ペトロはここで、9節以下に描かれていた、彼が見た幻について語っています。ところが、ここでは9節以下でわたしたちがすでに学んだような、ユダヤ人が重んじていたいわゆる「食物規定」、すなわち、宗教的に汚れた、食べてはならない生き物と、食べても良い生き物とを定めた律法のことではなく、人間の中での清い人間と清くない人間との区別のことが問題になっています。

 【28~29節】。ユダヤ人が外国人と交際してはならないと、はっきりと定めている律法は旧約聖書の中には見いだすことはできませんが、ユダヤ人が神とイスラエルとの契約に基づき、その信仰を守るために他の民族の宗教や慣習に習わないようにという趣旨の言葉は数多くあります。主イエスの時代には、ユダヤ人以外の異邦人との接触をできるだけ避けるようにとか、特にサマリア人は同じ民族でありながら外国人と交わって汚れた者になったので、あいさつもしてはならないというような考えが一般に広まっていました。また、異邦人は「食物規定」に定められているような宗教的に汚れた生き物を日常的に食べ、あるいは偶像に備えられたものに触れたり食べたりして、彼らの体も宗教的に汚れているので、彼らと接触すれば自分も汚れると言われていたようです。パウロの書簡からもそのような慣習があったことが伺われます。

 ところが、ペトロが幻を見たのと時を同じくして、彼があの幻の意味は何だろうかと深く思いを巡らしていたその時に、18節に書かれていたように、コルネリウスから派遣された使いがペトロのもとにやってきて、「ためらわずに一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」との神のみ声を聞き、神が異邦人と自分との交わりの時を備えたもうたのだということにペトロは気づいたのです。あの幻は「食物規定」を神ご自身が乗り越えさせ、すべての生き物、すべての食物は神によって清めされているのだということをペトロに示されただけでなく、すべての民、すべての民族、すべての人が、みな神によって清められ、神によって救いへと招かれていることを、自分にお示しくださったのだ。あの幻の本来の意味はそのことだったのだ。だから神は「ためらわずに異邦人の家に行きなさい」とお命じになったのだということに、ペトロは気づいたのです。ペトロはその神の招きを受けて、コルネリウスの家にやってきたのです。

 次に、30節以下では、コルネリウスがヤッファにペトロを呼びにやったのもまた主なる神の導きであったことが明らかにされます。【30~33節】。コルネリウスはここで、3節以下に書いてあった、彼が見た幻と神がお告げになったみ言葉を繰り返してペトロに告げています。コルネリウスもペトロも祈りの時に神の啓示を受け、幻を見、神のみ言葉を聞きました。異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロはすでに祈りによって神と交わり、また共に祈りによって交わっていたのです。一つの祈りの群れてされていたのです。

 ペトロがヤッファで皮なめし職人シモンの家に泊まっていたと33節で繰り返されていますが、このこともこれまでも何度か言われていました。9章43節と10章6節にも書かれていました。同じことが3回も繰り返されているのには理由があると考えられます。当時、皮なめし職人は最も尊敬されない職業の一つであったと言われます。そのような皮なめし職人であるシモンもヤッファの教会員の一人であり、エルサレム教会からの重要な客人であるペトロを泊めるという名誉を与えられていたのです。ここにはすでに、職業や民族、社会的な地位やその他どのような人間的な違いをも乗り越えて、すべてのキリスト者を一つの群れ、一つの教会として召し集められる主なる神のみ心が働いていたことを読み取ることができます。

 コルネリウスは自分が四日前に神から示された啓示によって、ペトロを自分の家に招くことになったいきさつについて説明をしました。ここに至って、コルネリウスとペトロは、自分たちが今ここで出会うことになったのはすべて神のお導きであったことを知らされました。ユダヤ人であるペトロが異邦人であるコルネリウスの家を訪問し、共に一つの神の救いのみわざにあずかることが許されたという、大きな恵みに気づかされたのでした。このようにして、主イエス・キリストの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも、すべての国民、すべての人にも差し出されるようになったのでした。神が天地万物を創造された時から始められていた全人類のための永遠の救いのご計画が、このようにして実現されていったのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが天地創造の初めからご計画しておられた全人類の救いのご計画が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就し、初代教会の働きをとおして具体化されていった次第を、わたしたちは使徒言行録から学ぶことができました。あなたの救いのみわざは、終わりの日のみ国が完成される日まで続けられます。どうか、この国においても、またアジアの諸国と全世界においても、あなたの救いのみわざが力強く押し進められますように。すべての人に主キリストの福音が届けられますように。

○全世界の唯一の主であり、愛と恵みと義であられる天の父よ、罪と悪に支配され、争いや分断、殺戮や破壊の止まないこの世界を哀れんでください。あなたからのまことの平和と共存をこの地にお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月19日説教「契約の民イスラエルのエジプト移住」

2023年11月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記46章1~7、28~34節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「契約の民イスラエルのエジプト移住」

 創世記37章から始まった「ヨセフ物語」は、彼の波乱に満ちた20数年の生涯を経て、きょう朗読された46章になって、当初は全く予想もされなかった結末へと至ることになりました。46章と47章には、ヨセフを頼ってエジプトへ移住することになったヤコブ(すなわちイスラエル)一族のことが描かれています。きょうはイスラエル一族のエジプト移住というテーマについて、創世記のみ言葉を読みながら考えたいと思います。

 ヨセフの20数年の生涯を今一度簡単に振り返ってみましょう。彼はヤコブ(イスラエル)の12人の子どもの中で11番目に生まれました。父ヤコブの年寄子でしたから、特別に父の寵愛を受けて育てられました。そのことで、兄たちの反感と憎しみをかい、ヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされることになりました。この時から、まだ若かったヨセフは父や兄弟たちから離れて、故郷のカンナの地からも離れ、異教の地エジプトでの孤独と不安の中での、試練と困難に満ちた歩みを始めることになりました。

 けれども、主なる神はエジプトの地でもヨセフと常に共にいてくださり、彼を恵み祝し、彼に知恵をお与えになったので、ヨセフはエジプト王ファラオによって用いられ、エジプト国内の最高の地位である宰相・総理大臣の地位に就くことになりました。そして、彼が預言したように全世界を襲った7年間の大飢饉のときに、食料を求めてカナンからエジプトのやってきた11人の兄弟たちと宰相になったヨセフとが、全く不思議やめぐりあわせによって、20数年ぶりで再会したのでした。わたしたちは前回45章でその時のヨセフの印象深い和解の言葉を聞きました。もう一度その個所を読んでみましょう。

 【45章4~8節】。ヨセフは自分をエジプトに売り飛ばした兄たちに対して、自分の方から和解の手を差し伸べ、彼らの憎しみや悪を許しています。このヨセフの愛に満ちた信仰は、主なる神が常にエジプトで自分と共にいてくださり、最も良き道を備えてくださったという、神の大いなる恵みへの感謝の応答としての信仰なのです。子どものころの生意気で一人よがりの夢見る少年と言われていた小年ヨセフが、今や神によってこのように変えられたのです。

 11人の兄弟たちが二度目に穀物を求めてエジプトにやってきたときに、ヨセフはこれからも5年は続くであろう飢饉に備えて、父ヤコブとその一家のエジプト以上を勧めました。父ヤコブはずっと以前に死んだと思っていたヨセフがエジプトでまだ生きていたことを知り、死ぬ前にぜひ彼の顔を見たいという願いもあったので、エジプトへの移住を決断しました。

 【46章1節】。ヤコブ(イスラエル)は旅立つ際にまず神を礼拝します。族長ヤコブにとってこの礼拝は大きな意味を持っていました。何か新しい決断をして、新しい道を歩み始めようとする際に、神のみ心を問うことは、信仰者にとって重要です。人間的な思いや、この世的な利害だけを考えて人生の道を選択するのではなく、神のみ心をたずね求めつつ決断をすることは、わたしたちにとっても重要です。わたしたちが大きな決断を迫られたとき、あるいは道に迷ったとき、困難や不安に襲われた時、わたしたちがなすべき第一のことは、神を礼拝すること、神のみ言葉に聞き、神に祈り、神に服従することです。

 ヤコブにとってのエジプト移住は、彼の人生の中で、しかもわずかに残されている人生の晩年で、非常に大きな決断であったと言えます。長く続く飢饉から一族の命を守ることが族長の務めであり、また死んだと思っていた最愛の息子ヨセフの顔を最後に見たいという切なる願いもありました。

けれども、ヤコブには不安も残っていました。父祖アブラハム、イサクから受け継いだ神の契約に生きることが、ヤコブにとっての最も重要な使命であるということを、彼は忘れてはいません。神は父祖アブラハムにこう約束されました。「わたしはこの地カナンをあなたとあなたの子孫の永久の所有として与えるであろう」(12章7節、13章15節参照)と。しかし、神の約束の地カナンを離れて、異教の地エジプトに移住することは、この神との契約を破ることになるのではないか。そうなれば、神からの祝福を失ってしまうのではないか。ヤコブは神のみ心を聞かなければなりません。そのために、彼は神を礼拝するのです。

【2~4節】。神はヤコブの祈りに直ちに応えてくださいます。ここでは、ヤコブ一族がエジプトに移住することは神のみ心であるとはっきりと語られています。飢饉を避けて、あるいは父と最愛の息子との20数年ぶりの再会とか、そのような人間的な理由をはるかに超えて、主なる神が彼らをエジプトへと導かれるというのです。そして、彼らはエジプトで大いなる国民となると神は約束されます。さらに、神は再び彼らを約束の地に連れ戻すと言われます。ヤコブ(イスラエル)一族のエジプト移住は神のご計画であり、しかも神は異教の地エジプトにあっても彼らと共にいてくださり、彼らを契約の民として導かれ、それだけでなく、そこで彼らを養い育て、彼らを大いなる民に成長させてくださると言われるのです。

実は、この神の約束はすでにアブラハムに対して神がお語りになった約束だったのです。【15章13~14節】(19ページ)。神の幾世代にもわたり、幾世紀にもわたる壮大な救いの歴史が、創世記から出エジプト記へと連続していくことになるのです。否、それだけではありません。神の永遠の救いの歴史は、やがて全人類のための救い主である主イエスの誕生へと連続していくということを、わたしたちは知っています。

次に、46章8~27節には、きょうは朗読をしませんでしたが、ここにはエジプトに移住したヤコブ、すなわちイスラエルの全家族のリストが挙げられています。イスラエルの12人の子どもたちとその家族、合計70人であったと書かれています。出エジプト記1章5節にも70人という数字が書かれています。申命記10章22節にはこう書かれています。「あなたの先祖は70人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた」。

400年後、あるいは別の記録では430年後に、モーセに率いられてエジプトを脱出した民は60万人であったと出エジプト記12章37節に書かれていますが、これは随分と誇張した数であろうと多くの学者は考えているのですが、それにしても70人で移住したイスラエルの民がエジプトでの400年間にこれほどに増えたということを、聖書は語っています。神がアブラハムに約束されたとおりです。

イスラエルの民がエジプトでどのような信仰生活を送っていたのかについては、聖書の記録はありませんが、わずか70人で異郷の地エジプトに移住した彼らが、どのようにして彼らの信仰を守りとおしたのかを考えると、それは驚くほかにありありません。長い歴史を持つエジプト王国で、わずか70人のイスラエルの民が、2代3代と時を経るにつれて、エジプトの文化や宗教の中に溶け込んで、やがてエジプト人と区別がつかなくなり、エジプトの中に解消してしまうに違いないと、だれもが予想するでしょう。しかし、彼らは400年以上もの間、エジプトでイスラエルの民として生き続け、神の約束の民、信仰の民として増え続け、しかも神の約束のみ言葉を忘れることなく、再び約束の地カナンへと連れ帰ると言われた神のみ言葉が成就される時を待ち望んだのでした。神はその民イスラエルを、エジプトの地にあっても絶えず導かれ、養われたのでした。

46章28節以下には、父ヤコブ(イスラエル)とその子ヨセフとの20数年ぶりの再会の場面が描かれています。ヤコブは、最愛の子ヨセフは野獣に食い殺されたと、他の子どもたちからの報告を受けていましたので、彼は20数年前に死んだと思い込んでいました。そのヨセフが生きていたとは、しかもこのエジプトでそのヨセフと再会できるとは、全く予想もできないことでした。【29~30節】。この父と子の感動的な再会の場面を、聖書は感情を抑えるように、控えめに描いているように思われます。文学好きなわたしなら、もっといろんな言葉や表現を用いて、この親子の再会について描くだろうと思いますが、聖書は人間的な感情や心の動きについてはごく控えめです。しかし、そうであるとしても、ここに人間の予想や願いをはるかに超えた、主なる神の見えざるみ手が働いていたという大きな事実は、だれにも読み取ることができます。神は人間の計画とか、可能性とか、予想をもはるかに超えて、まさに奇跡として、この再会を導かれたのです。

「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」。30節のヤコブの言葉は、まさにそのことを言っているのです。父ヤコブは死んだと思っていた最愛の息子ヨセフに生きて再会できました。いわば、死からよみがえった我が子ヨセフに出会ったのです。それによって、ヨセフの人生は満たされました。

わたしたちは新約聖書の中に同じような場面を見いだします。ルカによる福音書2章25節以下に書かれている出来事です。年老いた預言者シメオンは、エルサレムの神殿で幼子主イエスを抱き上げて、このように神をほめたたえました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と。

シメオンは長くメシア・救い主の到来を待ち望んでいました。その待望の時が今満ちたのです。救い主なる主イエス・キリストと出会ったとき、彼の待望の時が満たされ、それと同時に彼の人生、彼の一生が満たされました。救い主なる主イエス・キリストと出会うことによって、わたしたちの人生、一生もまた満たされるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは全人類を罪から救うためにみ子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。み子の十字架の死によって、すべての人の罪を贖い、救ってくださいました。あなたはまた、取るに足りない小さな者であるわたしたち一人一人を、あなたの救いの恵みの中に招き入れてくださいました。心から感謝いたします。

○主なる神よ、どうかわたしたちをあなたのご栄光を現わす者としてください。あなたの救いのみわざを証しする者としてください。

○全世界をご支配しておられる天の父なる神よ、この世界にあなたの義と平和をお与えください。戦いや破壊、憎しみや分断を取り去ってくださり、和解と共存をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月12日説教「わたしたちの国籍は天にある」

2023年11月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

               逝去者記念礼拝

聖 書:ヨブ記1章20~22節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの国籍は天にある」

 16世紀の宗教改革者たちは、地上にある教会を「戦闘の教会、戦いの教会」と呼び、すでに地上の歩みを終えて天に召された信者たちの教会を「勝利の教会」と呼びました。

今この秋田の地にあって、逝去者記念礼拝をささげているわたしたちは、「戦闘の教会、戦いの教会」です。秋田教会の130年余りの歩みを振り返ってみますと、まさに「戦いの教会」であったことが分ります。時には、迫害され、教会の看板を壊されたこともあったと、古い記録に残されています。リュックサックに聖書と讃美歌を入れて、南は湯沢、横手、大曲に、北は男鹿の北浦、能代、鷹巣、北秋田の阿仁合まで、何日間も出張伝道にでかけ、雨と風の中、汗と涙を流したことも数多くありました。時には、教会内の諸問題に心を痛めたこともありました。

わたしたち一人一人の信仰の歩みもまた、戦いの連続です。時に疑ったり、つまずいたり、自らの罪と弱さに苦悩したり、日々が試練と戦いの連続です。日本国内の諸教会、世界の諸教会も、まさに今「戦闘の教会、戦いの教会」です。時には、激しい戦いを強いられ、倒れそうになったりしながら、それでも、ただ神のみ言葉にしがみついて、罪が今なお支配しているこの神なき世界、邪悪と不義がはびこっているこの世界に、主イエス・キリストの福音だけを武器にして、果敢に戦い続けています。

なぜ、戦い続けるのでしょうか。それは、いまだ神の国が完成していないからです。いまだ神のご支配が完全には実現していないからです。それゆえに、教会は2千年の歴史を刻んできましたが、いまなおこの世に残っている罪や悪との戦いを続けなければなりません。いまだ、主イエス・キリストの福音をすべての人が信じるには至っていないからです。それゆえに、教会は主イエスの福音を携えて、今なお福音宣教という困難な戦いを続けなければなりません。

ではなぜ、それでもなお戦い続けるのですか。それは、確かな勝利の約束が与えられているからです。すでに、罪と悪と戦い、勝利された主イエス・キリストが天におられ、わたしたちの地上の戦いを導いておられるからです。この天におられる栄光の勝利者なる主イエス・キリストは、十字架でご自身の罪も汚れもない聖なる血潮を流されるまでに、わたしたちに代わって、罪と戦われました。そして、三日目に復活され、天の父なる神のみもとへと凱旋されました。「見よ、わたしは世の終わりまで、神の国が完成する時まで、いつもあなたがたと共にいる」と主イエスは約束してくださいます。この勝利が約束されているゆえに、わたしたちの戦いを決して見捨てないとの約束があるゆえに、地上の教会は、またその教会に集められているわたしたち信仰者たちは、困難な戦いを今なお続けているのです。

もう一つの理由があります。地上の「戦いの教会」は、天にある「勝利の教会」を証人として持っているからです。ヘブライ人への手紙12章1節で、この手紙の著者は旧約聖書に出てくる信仰者たちの名前とその信仰の歩みを振り返った後で、このように書いています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷と絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

天にある「勝利の教会」に移された信仰者たちが、今地上にあって厳しい信仰の戦いを続けている「戦いの教会」にとっての、力強い証人なのだと聖書は教えています。と言うのは、彼らはすでに地上での戦いを終えて、地上でのすべての労苦からも解き放たれ、天におられる栄光の勝利者なる主イエス・キリストに迎え入れられているからです。天にある「勝利の教会」は、今や永遠に主イエス・キリストと固く結ばれているからです。彼らを主イエス・キリストとの交わりから引き離すものは何もありません。罪も死も、この世の肉の関係も、思い煩いも、その他いかなるものも、彼らを主イエス・キリストから引き離すことはありません。

それゆえに、彼らはわたしたち地上の「戦いの教会」にとって、確かな勝利の証人なのです。彼らがすでに主キリストの勝利にあずかっているように、わたしたちもまた天にある確かな勝利を目指して、地上での戦いを続けていくのです。たとえその戦いが、どれほど困難であろうと、どれほど長く続こうと、忍耐強く、また喜びと希望とをもって、戦い続けていくのです。

秋田教会は130年余りの歩みの中で、分かっているだけで約140人の逝去会員がおられます。礼拝のあとでそのお名前が読み上げられますが、その方々お一人お一人がわたしたちの戦いの教会に約束されている勝利の証し人たちです。ヘブライ人への手紙が教えているように、わたしたちは彼ら身近な証人たちに囲まれているのですから、彼らがすでに受け取っている勝利をわたしたちもまた確信して、地上での戦いを続けていくのです。

ヘブライ人への手紙は12章2節でこのように付け加えています。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのである」と。天にある「勝利の教会」も地上の「戦いの教会」も、共に一人の主、栄光の勝利者なる主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、礼拝しつつ歩んでいる一つの教会なのです。わたしたちは逝去者記念礼拝であるきょうの礼拝で、特にそのことを覚えていますが、きょうだけでなく毎週の主の日ごとの礼拝のすべてが、地にある「戦いの教会」と天にある「勝利の教会」とが、一つの教会として、一つの礼拝をささげているのだということを忘れずにいようと思います。さらには、まだこの教会に加えられていない人たち、家族や職場の同僚、友人、地域の人々、日本の国と全世界の人々、彼らもまたやがて一つの主の教会に加えられる日が来ることを願いながら、そしてやがて全世界のすべての人々が一つの主キリストの教会に連なる日が来ることを祈りながら、その人たちをも含めた礼拝をわたしたちは主の日ごとにささげているのです。

使徒パウロがフィリピにある教会に手紙を書いたのは紀元50年から60年にかけてと考えられていますが、誕生してまだ日が浅いフィリピの教会もまた、「戦いの教会」でした。18節、19節を読んでみましょう。【18~19節】。2千年前のパウロの時代も、今日も、教会の戦いは主イエス・キリストの十字架の福音をめぐっての戦いです。この世の多くの人たちは主キリストの十字架の福音によって生きるのではなく、自分自身の知恵や力、富や名声に頼り、この世にある朽ちるほかにないパンを求め、あるいは簡単に手に入る偶像の神々のご利益を期待します。罪のない神のみ子がわたしの罪のために十字架で苦しんでくださり、わたしの罪の救いのためにご自身の尊い命をおささげくださったという福音は、そのような人たちには愚かで無価値に思われます。そのような人たちは、自分自身の腹を神としているからです。この世の朽ち果てるものを追い求めているからです。

教会はいつの時代にも、十字架の福音をあざ笑ったり、それから目を背けたり、あからさまに否定したりする人たちとの戦いをしてきました。そして、主キリストの十字架の福音を信じる信仰によってこそ、あなたの罪はゆるされ、あなたは滅びから救われるということを、語ってきました。主キリストの十字架にこそ、わたしたち罪びとに対する神の偉大なる愛があり、全人類の唯一の救いがあり、すべての人に与えられる喜びと幸い、感謝と平安があるということを語ってきました。主キリストの十字架の福音だけが、地上の「戦いの教会」の武器です。この福音によって、教会に勝利が約束されているからです。

最後に、20節を読みましょう。【20節】。「わたしたちの本国は天にある」。これが、地上にある「戦いの教会」に属する民と、天にある「勝利の教会」に属する民との共通した告白です。天にある教会の民は今すでにその本国に帰還しました。地にある「戦いの教会」に属するわたしたちは、今なおこの地での歩みを続けていますが、ヘブライ人への手紙が教えているように、地上では旅人、寄留者として、本国である天に向かっての、最後に約束されている勝利に向かっての、信仰の歩みを続けていくのです。

「そこから主イエス・キリストが救い主として来られる」。これが、わたしたち信仰者のもう一つの告白です。主イエス・キリストが再び地に来られるとき、わたしたちの救いは完成し、神の国が完成します。わたしたちは栄光の勝利者であられる主イエス・キリストの再臨を待ち望みながら、地上での信仰の戦いを続けていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうの秋田教会逝去者記念礼拝にわたしたちをお招きくださり、あなたの命のみ言葉を聞かせてくださいました幸いを、心から感謝いたします。主なる神よ、あなたがこの教会に多くの先輩の兄弟姉妹たちをお集めくださり、この教会の130年余りの歩みをとおして、あなたのご栄光を現わしてくださいました恵みを覚え、あなたのみ名をほめたたえます。また、今この教会に招かれているわたしたちをも、恵み、祝し、あなたのみ国の民として、お導きくださっておりますことを、感謝いたします。どうか、この地にあって、主キリストの体なる教会を建てていくために、わたしたち一人一人をお用いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月5日説教「罪のうちに死んでいる人」

2023年11月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:創世記3章17~19節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「罪のうちに死んでいる人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「人は罪うちに死んでいて」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『信仰告白』の中で「罪」という言葉がどのように用いられているかを確認しておきましょう。最初の段落の2行目、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」、次は2段落の2行目、「功績なしに罪をゆるされ」、そしてきょうの箇所、最後に『使徒信条』の第3項、聖霊の項で、「罪のゆるし(を信じます)」、以上の計4回、「罪」という言葉が用いられています。

 これら4回の罪に関する告白に共通していることがあります。それは、罪という言葉がいずれの文章でも主語になってはいないということです。また、罪について単独で語られている箇所もないということも共通しています。「人となって、人類の罪のために十字架にかかり」という文章では、主イエス・キリストが全人類の、すなわち、わたしたちすべての人の罪のために、その罪の贖いを成し遂げ、罪をゆるすために、人間となってこの世界に来てくださった。そして、十字架で死んでくださった、ということが告白されているのであって、この文章の主語は主イエス・キリストです。ここでは、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざが告白されているのであって、人類の罪は、主イエス・キリストの十字架によってすでに贖われているのです。人間の罪はすでに主キリストによってゆるされている罪として語られているということが分ります。この文章のあとで、「罪をゆるされ」「罪のゆるしを信じる」と、2回「罪のゆるし」が繰り返して告白されているのも同じ理由によります。

 きょうの箇所では、口語文では文章の主語がはっきりしませんが、文語文では、「この三位一体なる神の恩恵(めぐみ)によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていましたから、「罪に死にたる人」が文章の主語だと分かります。でも、この文章は否定文になっており、「罪に死にたる人」が本来の主語なのではなく、「三位一体なる神の恩恵(めぐみ)」が意味上の主語だということが分ります。ここでは、三位一体なる神の恵みの大きさが強調されているので、このような文章になっていますが、「罪に死んでいる人」が本来の主語なのではありません。

したがって、この箇所でも、罪そのものについて語られているのではなく、三位一体なる神の大きな恵みによってすでにゆるされている罪について語られているのです。罪びとである人間そのものについて語られているのではなく、すでに神の国の民として招き入れられている「罪ゆるされている人」のことが語られているのです。「人間」も「罪の人間」も、あるいはまた「罪」も、信仰告白の主語にはなりえません。聖書の主語でもありません。すべての主語は、神であり、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられた神の救いの恵み、それが主語です。罪は、すでにゆるされている罪として語られている。これが『日本キリスト教会信仰の告白』の大きな特色なのです。

そのことを念頭に置きながら、では「罪のうちに死んでいる」とは何を告白しているのかをみていきましょう。「罪のうちに死んでいる」とは、罪によって死んでいる、あるいは罪の中で死んでいると言い換えることができるでしょう。つまり、罪は死であり、その罪に支配されている人は死んでいるということが、ここでは告白されています。また、だれか一部の人がそうであるというのではなく、人間はだれもがみな罪に支配されている罪びとであり、それゆえに死んだ人なのだということです。

旧約聖書でも新約聖書でも、聖書全体がそのことを証ししています。最初に、エフェソの信徒への手紙2章を読んでいきましょう。【1節】。【5節】。「罪のために死んでいた」という言葉が2度繰り返されています。死んでいた状態とはどのようなものであったかということが、2節では【2節】、3節では【3節】と、より詳しく説明されています。すなわち、罪のうちにあって、罪によって死んでいる人間とは、この世を支配している悪しき霊に従って生きている人、人間の肉の欲望のままに生きており、神のみ心を知らず、また神のみ心に従わず、それゆえに神の怒りを受けて滅びなければならない人間のことであり、しかもそれは生まれながらの、生まれて生きているすべての人間の、罪の姿なのだと聖書は語っているのです。

創世記2章には、神が人間を創造された時、土のちりで人を造り、それに命の息を吹き入れて人は生きる者となったと書かれています。したがって、人間は造り主なる神を離れては、また神から与えられる命の息を吹きこまれなければ、生きてはいけない土くれに過ぎないもの、人間はその肉だけでは朽ち果てるほかにない存在なのだと聖書は教えています。けれども、続く3章に書かれているように、人間アダムは神の戒めに背いて、禁じられていた木の実を取って食べました。それが原罪と言われる人間の罪です。神は罪を犯した人間に裁きをお与えになりました。創世記3章19節にはこのように書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」。このようにして、人間は罪を犯し、神から離れたために死すべき者となりました。

 使徒パウロはこのことをローマの信徒への手紙6章23節で、「罪が支払う報酬は死です」と言っています。また、少し前の5章12節ではこう書いています。「このようなわけで、一人の人によって(これはアダムを指していますが)罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」。ここには二つのことが言われています。一つには、最初の人間アダムが罪を犯したために、死が入り込んできて、アダムが死すべき者となったということ。もう一つには、最初の人アダムと同じように、彼以後のすべての人間も同じように神に対して罪を犯しているために、全人類にも死が入り込んできて、すべての人が死すべき者となったということです。

 このようにして、すべての人が、一人の例外もなく、皆生まれながらにして神に背いており、罪を犯しており、それゆえに神の裁きを受けて死すべき者となり、事実死んでいるのだという教えは、聖書全体に貫かれています。

 人間のこのような徹底した罪と死の姿について、1619年に制定された『ドルト信仰基準』はこのように告白しています。「すべての人は罪のうちにはらまれ、生まれながらにして怒りの子であり、救いに役立つ善を何一つなすことができず、悪に傾き、罪の奴隷になっている。聖霊の再生する恩恵がなければ、神に立ち帰ることも、その本性の堕落を改善することも、改善に身をゆだねることもできず、またそれを欲することもしない」。ここでは、人間は徹底的に堕落していて、人間の側からの救いの可能性は全くないと告白されています。宗教改革者たちはこれを人間の完全な堕落と表現しました。

 さて、「罪のうちにある人は、まことの命に生きることができず、死の中にある」というこの告白が持っている二つの側面を考えてみましょう。一つは、罪の人間はみな死に定められており、やがては死ぬべき者であるということです。罪の人間は永遠に生きることは許されていません。神の裁きを受けて死ななければなりません。聖書は人間の死を、自然的なものとか、偶発的なものとか、あるいは運命的なものとは見ていません。死は、人間の罪に対する神の恐るべき、また厳しい裁きであると聖書は語ります。

 それゆえに、死のうちにあるということのもう一つの意味は、罪に支配されている人間は、今すでに死んでいる者なのであるということです。今はまだ定められている死の最期を迎えてはいないけれども、その死に向かっている、神なき世界で希望のない死に向かっているということです。その意味で、罪の人間は今すでに死のうちにあるということです。

 ここでわたしたちは今一度エフェソの信徒への手紙2章のみ言葉に戻ろうと思います。【4~6節】。ここでは、人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の憐みと愛が、人間の罪に勝利したということが語られています。4節冒頭の「しかし」という言葉が、1~3節までの人間の罪と死の現実を逆転させています。1節の、「あなたがたは、以前は」という言葉を受けて、またそれを否定して、「しかし、今では」と語っているのです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、あなたがたは罪から救われているのであり、あなたがたの罪と死の現実はもはや過去のものとなったのだと語っているのです。実際に、注意深く読みますと、1~3節の文章はすべて過去形になっていることに気づきます。主イエス・キリストの救いのみわざによって、人間の罪と死は過去になったのです。

 ここで、もう一つのことに注目しなければなりません。人間の罪は主イエスによって罪ゆるされている罪として認識されるということは、主イエスによって罪ゆるされて初めて人間の罪がはっきりと認識されるということでもあります。つまり、人間の罪は罪なき神のみ子の十字架の死によらなければ解決されないほどに、大きく、また深刻であるということです。罪なき神のみ子の十字架の血によらなければ、他のどのような方法によっても、人間の罪のゆるしはあり得なかったのです。

 しかし、今や、あなたがたは罪の奴隷ではない。神に愛されている者であると聖書は語ります。あなたがたは主イエス・キリストの救いの恵みによって、新しい復活の命に生かされている者である。あなたがたはすでに天にある神の国へと迎え入れられている。そのように聖書は語っているのです。

 十字架と復活の主イエス・キリストを信じる信仰者にとっては、罪びとに対する神の怒りは、すでに主イエスがわたしたちに代わって父なる神の裁きをお受けになったことによって取り除かれ、怒りではなく愛に変えられました。主イエスの復活によって、罪と死の棘(とげ)と牙(きば)は取り除かれました。宗教改革者たちが言ったように、わたしたちは常に罪ゆるされている罪びとです。地上にあっての寄留者であり、旅人ですが、神の国を目指して、天にある本来の故郷を望み見ながら、信仰の旅路を続けているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエスの十字架と復活によってわたしたちを罪の奴隷から贖い、解放してくださいました恵みを、心から感謝いたします。日々あなたのみ前に罪を悔い改めつつ、主イエスの救いを信じつつ、信仰の歩を終わりの日まで続けることができますように、お導きください。

○全世界を支配しておられる主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界において実現しますように。主キリストによるゆるしと和解がこの世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。