9月5日説教「真の神であり、真の人」

2021年9月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「真の神であり、真の人」②

 「日本キリスト教会信仰の告白」はその冒頭で、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。この告白は、わたしたちが信じている唯一の救い主イエス・キリストは真の神であると同時に真の人であり、神と人との間に立たれる唯一の仲保者となられ、わたしたち人間を罪から救ってくださったという、キリスト教信仰の中心を言い表しています。特に、主イエス・キリストが真の神であり真の人であられることによって、その救いのみわざが完全になされたということを強調しています。別の言い方をすれば、もし主イエスが真の神であり同時に真の人でなかったなら、わたしたちの救いは不完全であり、わたしたち人間はなお罪と死の中に閉じ込められているほかなかったということです。

「真の神であり真の人」という告白は、紀元451年に制定された『カルケドン信条』の中で用いられた言葉です。この信条(信仰告白と同じ意味)は、初代教会のキリスト論論争に決着をつけ、今日に至るまでの正統的キリスト教会の信仰告白の基礎となったものです。その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

新約聖書の時代、紀元50年代から始まって、4、5世紀までの初代教会、古代教会では、イエス・キリストが神であること(神性)と人間であること(人性)とをめぐって、その両者の関係について、盛んに議論されていました。これをキリスト論論争と言います。その中で、教会はさまざまな異端的教えと戦ってきました。教会は何度か世界教会会議を招集し、その会議によって正しいキリスト教の教理を確立し、異端を退けてきました。そして、紀元451年に小アジアの北西にあるカルケドンで世界教会会議を開催し、そこでこれまでのキリスト論論争に終止符を打つべく、カルケドン信条を制定し、その中で「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」と告白したのです。

では、この告白の中身について、さらに具体的に学んでいきましょう。まず、この告白の全体としての意味について、二つのことを確認しておきたいと思います。一つは、「真の神であり、真の人」とは、主イエスは、いつでも、どこでも、永遠に、真の神であり、同時に、真の人であるということです。主イエスはある時点では人であったが、ある時からは神になったとか、ある時点までは神ではあったが、ある時から人になった、あるいは、この時には神であったが人ではなかったとか、別の時には人であったが神ではなかった、というような考えはすべて退けられます。

たとえば、ある人たちはこう考えました。主イエスはヨセフとマリアの子として誕生し、普通の人間として大きくなり、30歳になって公の宣教活動に入られる前、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときに、天から聖霊を注がれて神となったのだと。異端者たちがそのように考えたのには、それなりの理由がありました。彼らは神の尊厳性や超越性、永遠性を守らなければならないと考えたからです。神が人間の胎内から生まれるとか、神がおむつをした赤ちゃんであったとか、乳児から幼児へ、少年、青年と時間をかけて大人になるとか、そのようなことは神にとってはありえないと、彼らは考えたからです。彼らは主イエスの神性を重視するあまり、人性を軽視したと言わざるを得ません。

また、ある人たちはこう考えました。主イエスは神であられたが、十字架につかられたときには、神であることをやめて人間となり、人間として死んだのだと。これにも理由があります。神である方が十字架につけられたときに、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのか」と、弱者の弱音とも敗北ともとれる言葉を言うはずがないし、そもそも神が死ぬなどということはありえないではないかと考えたのです。

更にこう考えた人たちもいました。主イエスは神が仮のお姿で人間のようにしてこの世に現れたのであって、主イエスの誕生もご受難も十字架の死も仮の現象であったに過ぎないと。これらはいずれも、主イエスの神性を守る意図から人性を軽視するものですが、その反対に、主イエスの神性を否定して、人生を強調する考えもありました。

けれども、教会はそれらのすべてを異端として退け、主イエスが誕生から十字架の死に至るまで、さらには昇天されたのちも、常に、絶えず、永遠に、真の神であり同時に真の人であられたという告白を貫き通しました。

聖書に描かれているように、主イエスがおとめマリアから誕生されたときも、12歳で家族と一緒にエルサレム神殿で神を礼拝されたときも、30歳になられ公の宣教活動を始められる際に、荒れ野でサタンからの試みにあわれたときも、ガリラヤで「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、宣教の第一声を発せられたときも、ガリラヤ湖で嵐を静められたときも、ゲツセマネの園で血のように汗を滴らせながら徹夜の祈りをささげられたときも、そして、十字架の死の時も、墓に葬られたときも、三日目に墓の中から復活されたときも、40日目に天に昇られたときも、また今、天の父なる神の右に座して、わたしたちのために執り成しをしていてくださるときも、主イエス・キリストは真の神であり、真の人であられる、これがわたしたちの信仰です。

もう一つ確認しておくべきことは、「真の神であり、真の人」の「真の」という言葉は、「完全な」とか「全体として」という意味を含んでいるということです。つまり、主イエスはその半分が神で、半分が人であるというのではなく、また頭が神で、手や足は人間というのでもなく、あるいは心とか魂は神であるが、肉体は人間であるというのでもありません。その全ご人格が、そのお体も心もすべてが、全体が、完全に神であり同時に完全に人であるということを意味しています。

では次に、なぜ主イエス・キリストは「まことの神であり、まことの人」でなければならないのかを、別の側面から考えてみましょう。結論から言えば、説教の初めにもお話したように、もしそうでなければ、わたしたち人間の救いが完全ではなくなるからです。つまり、「真の神であり、真の人」であり、神と人との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間を完全に罪から救い出すことがおできになるということです。

教会はキリスト論論争が一段落した紀元5世紀以後も、さまざまな異端的な教えに悩まされ、それらと戦いつつ、正統的なキリスト教教理を確立するための努力を惜しみませんでした。そのような神学者の一人、紀元11世紀のカンタベリーの大主教アンセルムスは、『カルケドン信条』で告白されたキリスト論を論理的に深めた論文、ラテン語で『クール デウス ホモ』、日本語訳では『なにゆえに、神は人となられたか』という著書を著しました。この書では3つの段階に分けて論を進めています。

第一は、人間は神に対して罪を犯したために、その罪を償う責任を負っている。けれども、人間は神に対して罪を償う能力がない。第二は、神だけが罪を償う能力をお持ちであるが、神はご自分が罪を犯したのではないので、罪を償う責任がない。第三は、それゆえに、この二つのことを同時に満たすことができるのは、人間であって同時に神である方以外にはない。すなわち、「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間の罪の償いを完全に成し遂げ、罪から救い出すことがおできになる。そのために、神は人間となられたのだ、とアンセルムスは説明しました。

16世紀の宗教改革の時代、このアンセルムスの説をさらに深めたのが、1563年に制定されたハイデルベルク信仰問答です。その15問から18問で、神と人間との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストが、真の人となられてわたしたち罪びとが受けるべき神の裁きを代わって受けてくださり、また同時に、真の神として完全な服従と献身によってわたしたちの罪の償いを完全に成し遂げてくださったと教えています。わたしたちの教会はこの信仰を受け継いでいます。

では次に、「真の神」という告白について聖書から聞いていきましょう。詩編2編は、主イエスの到来を預言するメシア詩編と言われています。7節に、「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ』」と書かれています。このみ言葉は、新約聖書の多くの箇所に引用されています。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時に天から聞こえたみ声として、高い山の上で主イエスのお姿が光輝いたときの天からの言葉として、また使徒言行録13章のパウロの説教の中でなどで、主イエスが神のみ子であり、神の救いのみ心を行われる真の神であるということを証ししています。主イエスはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であられ、真の神です。

新約聖書では、至るとこところで、主イエスが神のみ子であり、神と等しい方であることを語っています。主イエスは誕生の時から十字架の死に至るまで、また三日目の復活と40日後の昇天、父なる神の右に座しておられる今に至るまで、そして、終わりの日に再び天から降りて来られ、神の国を完成される時まで、真の神であられます。

ルカによる福音書1章30節以下では、まだヨセフと結婚していなかったおとめマリアの胎内から生まれる子が、いと高き神のみ子であるということが繰り返して語られています。そのみ子は、人間の営みによらず、神から注がれる聖霊のみ力によって、全能なる神のみ力によってマリアの胎内に宿った神のみ子です。この神のみ子なる主イエスによって、神はご自身の救いのみわざを完全に成就されるのです。

ここで注意すべきことは、主イエスは誕生の時から完全に神であられたということです。人間が大人になって次第に成長し、悟りを開いて神になるというのではありません。あるいは、死んでから神になるというのでもありません。いと高き天におられる神が、地に降って来られ、人間のお姿をとって、この世においでくださったということなのです。ヨハネによる福音書1章14節ではそのことを、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言い表しています。神はご自身を低くされて地に降って来られ、人間となられました。聖なる神が地の罪びとたちの中に、罪びとの一人としておいでになったのです。永遠なる神が、地の滅びるべき人間の中にお住まいになり、そのようにしてわたしたち人間と共にいてくださる神となられ、わたしたち人間を愛してくださり、罪から救い出してくださったのです。「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストにこそ、わたしたちの救いのすべてがあるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがこの地を顧みてくださり、この地に住むわたしたち罪びとを愛してくださり、あなたのみ子・主イエス・キリストによって全人類の救いのみわざを成し遂げてくださったことを感謝いたします。どうぞ、暗黒の地に住む世界の民を主イエス・キリストの福音によって照らしてください。

〇天の神よ、あなたに選ばれて信仰へと召された教会の民が、この福音を携えて、全世界へと遣わされ、世界の人々に救いと和解を宣べ伝えることができますように。どうか、教会の民を強め、教会に集められているわたしたち一人一人を希望と喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月29日説教「裁きではなく、ゆるしを」

2021年8月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    ルカによる福音書6章37~42節

説教題:「裁きではなく、ゆるしを」

 ルカによる福音書6章20節以下で、主イエスが教えられた「平地の説教」を続けて学んでいます。27節~36節では、愛することについて、特に、わたしの敵をも全く無条件で愛する特別な愛について教えられていました。きょうの礼拝で朗読された37節からは、ゆるしについて、裁くのではなく、人をゆるし、人に与えることについて教えられています。愛とゆるし、この二つはキリスト教の教えの大きな特徴です。キリスト教は「愛の宗教である」とよく言われますが、より正確には、「愛とゆるしの宗教である」と言うべきでしょう。

 その際に、わたしたちが第一に確認しておくべきことは、聖書が語る愛とゆるしは、その起源、その土台、またその目標は、主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしたちに示された神の愛とゆるしにあるということです。神の愛とゆるしこそがわたしたちの愛とゆるしの起源、土台、また目標であるということです。

 そのことを語るみ言葉が、前回読んだ35節後半~36節です。【35節c~36節】。いと高き天におられる父なる神が、すべての人に対して、神から離れていた罪びとにも、神に背いていた悪人にも、情け深く、憐れみ深く、愛に満ちたお方であり、すべての罪をおゆるしになる神であられるから、そしてわたしたち一人一人が、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、その神の愛とゆるしにあずかっているのだから、さらにはまた、わたしたちも愛とゆるしへと招かれているのだから、主イエスはここで「あなたの敵を愛しなさい」と命じ、「人を裁くな、ゆるしなさい」と命じておられるのです。

 ここで確認しておくべきもう一つの重要な点は、神の憐れみを受けているわたしたちが、その神の憐れみを手本にして、それを真似て、わたしもまた憐れみ深くなることができるということではなくて、そこには神の憐れみによる人間の罪のゆるしと新しい人間の再創造があるということをとらえておくことが重要です。わたしたち人間はみな無慈悲で、自己中心的で、愛も思い遣りもない、罪多い者たちです。そうでありながら、神の大きな憐みによって神に愛されており、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされているのです。わたしたちはすでに神に愛されている者たちとして、すでに神によって罪ゆるされている者たちとして、「あなたの敵を愛しなさい」「人を裁くな。ゆるしなさい」という主イエスの戒めを聞いているのです。そのような新しい歩みへと招かれているのです。

 では、37節から読んでいきましょう。【37節】。「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」、この主イエスの命令の背後には、常に自分を主と考え、自分だけは正しいとする人間の傲慢と、他の人を簡単に裁くことによって自分を防御し、自己主張しようとする人間の罪の姿があります。また、そのような人間の罪によって深く病んでおり、傷ついている現実社会があります。主イエスの時代もそうでした。主イエスは当時の宗教的指導者たちを非難してこう言われました。「あなたがたファリサイ派・律法学者たちは不幸だ。会堂では上席につき、広場では挨拶されることを好んでいる。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしない。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。そのような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と(ルカ福音書11章37節以下、20章46節以下参照)。他の人を裁き、その小さな悪をもゆるすことができず、互いに裁き合い、奪い合っている人間の罪の現実、深く病み、傷ついている社会の現実、それは主イエスの時代から2千年を経た今も変わりません。

 そのようなわたしたちに向かって、主イエスは「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」とお命じになります。そして、その命令のあとには、「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」という約束を語っておられます。後半の約束の個所はすべて受動態です。「裁かれない」「罪びとだと決められない」「ゆるされる」。この受動態の文章の意味上の主語は神だと考えられます。聖書の中で、意味上の主語が隠されている受動態の文章は数多くありますが、そのほとんどは神が主語と考えられています。つまり、「あなたがたは神によって裁かれない」「あなたがたは神によって罪びとだと決められない」「あなたがたは神によってゆるされる」という主イエスの約束がここでは語られているのです。

 わたしたちはここからさらに深く主イエス・キリストの福音を聞き取ることができます。わたしたちに「人を裁くな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、父なる神によって裁かれ、それによってわたしたちが受けるべき神の裁きを取り去ってくださったのだということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも裁くべきではないし、裁く必要はないのです。

また、わたしたちに「人を罪びとだと決めるな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき聖なる方であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、罪ありとされ、十字架につけられて神の呪いを受けてくださり、それによってわたしたちを呪いから解放してくださったということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも罪びとだと決めるべきではありません。

そしてまた、わたしたちに「ゆるしなさい」とお命じになった主イエスは、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちすべての罪びとたちの罪をおゆるしになるために、ご受難と十字架への道を進み行かれました。それゆえに、わたしたちはみな罪ゆるされ、罪の奴隷から解放されているのですから、すべての人をゆるすべきであり、ゆるすことができるということをわたしたちは知らされるのです。

 次の38節も同じ形式の文章ですが、「そうすれば」のあとに多くの約束が付け加えられています。【38節】。わたしたちはここでも、「そうすれば」以下の後半に注目したいと思います。神はわたしたち罪びとたちにご自身の最愛のみ子をすらお与えくださいました。わたしたちを罪から救うために、み子を十字架の死へと引き渡されました。わたしたちは何と大きな、豊かな、尊い恵みを与えられていることでしょうか。しかも、神はその恵みをわたしの体と心の隅の隅までもいっぱいにして、あふれるほどに与えてくださるというのです。わたしが他の人に惜しみなく与えれば与えるほどに、神はわたしにあふれるほどに豊かに与えてくださると言われる主イエスの約束は、わたしを感謝と喜びに満たし、わたしをすべての欲望と自我と傲慢から解放します。奪い取るのではなく、惜しみなく与える新しい人にわたしを再創造します。

 39節と40節は、マタイ福音書では違った文脈に置かれています。39節は、マタイ福音書では15章1節以下のファリサイ派と律法学者の偽善的な信仰を主イエスが非難される文脈に置かれています。また40節は、マタイ福音書10章24~25節では、教師であられる主イエスがこの世から迫害を受けるならば、弟子である者もそれと同じ道を行くことになるであろうという文脈に置かれています。

ルカ福音書のこの個所でも、主イエスは当時のユダヤ教の偽善的な指導者たちに対する批判を含め、正しく人を導く指導者のあり方を教えておられると理解してよいと思います。わたしたちキリスト者にとっての唯一の正しい指導者は、わたしのためにご自身の命を投げ出しくださった主イエス・キリストですから、いついかなる時にも、主イエスの導きに従い、主イエスがお示しくださる道を進むことこそが、わたしにとっての救いの道であり、命の道です。主イエスに聞き従っているならば、わたしたちは滅びの穴に落ち込むことはありません。

 41節以下を読んでみましょう。【41~42節】。マタイ福音書7章1~2節では、「人を裁くな」という主イエスの戒めにすぐ続いて、3節から「目の中にある丸太とおが屑のたとえ」が語られています。つまり、ルカ福音書では7章39節と40節がその間に挿入されていることになります。

人を簡単に裁こうとし、人をゆるすことができないわたしたちは、他人の欠点や過ちにはすぐに気づき、過敏に反応しますが、自分の欠点や失敗には目をつぶろうとします。自分にはもっと大きな欠点や欠けがあるのに、それには気づかずに他の人を裁こうとします。目の中にある丸太とおが屑という、グロテスクな比喩によって、主イエスはわたしの中にある罪の大きさに気づかせようとしておられます。自分の罪に気づかず、それを認めようとしない人間の愚かさ、かたくなさを語っておられます。

 それと同時に、罪を知らず、罪を認めず、依然として罪の中にとどまり続けようとするわたしたちのために、ただお一人、罪と戦うために十字架への道を進み行かれた主イエスへとわたしたちの目を注がせます。主イエスはわたしたちの目の中にあった大きな丸太をご自身の十字架の死によって取り除いてくださいました。わたしたちが信仰の目をもってわたしの隣人を見ることができるように、そしてその隣人のためにも主イエスは死んでくださったのだということを証しするようにとわたしたちを導いておられるのです。主イエス・キリストの十字架の福音を聞いているわたしたちは、裁きではなくゆるしの道を、奪い合うのではなく与え合う道を、そして共に罪ゆるされているゆるしの共同体としての道を、共に進む者たちとされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちに与えられているあなたの大きな恵みを信仰の目を開いて受け止め、それに心から感謝し、またそれをわたしの隣人に分け与えることができますように、わたしたちを導いてください。

〇天の神よ、この世界に戦いや奪い合いではなく、和解と分かち合いをお与えください。人々の心に裁きではなくゆるしをお与えください。

〇心や体に痛みを覚えている人たち、重荷を背負っている人たち、道に迷い、不安や恐れの中にある人たち、飢えと渇きの中で泣き叫んでいる子どもたち、その一人一人に、神よ、あなたが共にいてくださり、必要な助けを与え、慰めと励ましをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月22日説教「良いことばかりではないけれど」

聖書:申命記28章1~8節

 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6~10節

説教者:日本キリスト教会神学生 田中康尋

良いことばかりではないけれど 「祝福」。この言葉を、インターネットの画像検索で検索してみる。すると、「祝福」という言葉を題名に含む、たくさんの写真やイラストが出てくる。某宗教団体の合同結婚式の写真。そこに集まる数多くの新郎新婦の、皆同じ、明るい笑顔と、その異様な光景。 地上波のテレビでは見られることのない、アニメのヒロインたちの色鮮やかな画像。タイトルは、「この素晴らしい世界に祝福を」、「いっぱいの祝福」、「祝福のカンパネラ」。 野球の日本代表、侍ジャパンのその後についてのニュース。写真のタイトルは「練習前にナインから金メダル獲得を祝福された坂本」、「侍Jの強化本部長も祝福 教え子稲葉監督は『令和の監督の采配』」。 芸能ニュースを報じる、ネットニュース。コメントを求められた、芸能人たちの写真が並ぶ。有名な俳優どうしの電撃結婚を、共演者たちが祝福したらしい。 企業広告の画像。タイトルは「結婚祝いに祝福のメッセージを電報で NTT東日本」。 祝福に関連する、無数の写真や画像が、画面を埋め尽くす。そこに見られるのは、人々の満面の笑顔、白やパステル調の明るい色の花々。世界中で、新聞の1面やテレビのトップニュースが、毎日、感染症の深刻な話題で、埋め尽くされる、その傍らで、祝福は、これまでと変わらずに、人々の間で、生まれ続けている。 さて、そのことは、私たちの身の回りに目を移してみても、同じではないでしょうか。祝福の機会は、数多くあります。お子さんや、お孫さんが、新しい命として生まれた方、入学式や卒業式を迎えられた方、ご自分やご家族が結婚をされた方、病気が良くなった方、病院から退院された方、新しい生活のステージへ迎えられた方。そうした方々が、きっと皆さんの身の回りにも、いらっしゃることでしょうし、その方々に「おめでとう」と言葉をかけたことも、記憶にあるのではないでしょうか。秋田教会では、その週にお誕生日を迎えられる方をお祝いして、その方の好きな讃美歌を皆で歌うという習慣があります。この夏、私もそれをご一緒させていただいて、とても温かい、素晴らしい祝福の場であるなあと実感いたしました。そのように、教会の中であれ、外であれ、私たちの周りに、どれほど大きな苦労や、大きな悲しみがあろうとも、それは決して、祝福される機会や、また、祝福をする機会が減ったのではないのだ、ということを、忘れないようにしたいものです。 旧約聖書も、そのことを伝えようとしています。その言葉を聞いてみましょう。「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 「町にいても」、「野にいても」。私は、朝にジョギングをしていまして、この夏期伝道実習の間も、しばしば走りました。朝7時過ぎに、この教会を出て、そこの踏切を渡って、線路沿いに北へ、というか北西になりますか、その方向へ遊歩道がまっすぐ伸びています。そこをずーっと走っていって、泉外旭川の駅を超えて、さらに走って、JR貨物の駅を過ぎたあたりで遊歩道が終わります。そこからは、北へ向かって、高速道路の北インターに向かう幹線道路の歩道を走ります。今年の夏は、特に雲一つない晴れの暑い日が多かったですから、このあたりを走っているときが、一番過酷でしたね。そして、釣り具の上州屋と、グランマートの前を過ぎて、そして南部屋敷を通り越して、ガソリンスタンドのある大きな交差点に差し掛かります。その交差点では、いつも赤信号に引っかかってしまうんですが、信号が青になって走り出して、道路を渡ると、景色が一変するんですね。一面、だーっと田んぼが広がる。その中を走るのはとても気持ちがいいんです。交通量がぐんと減って、なんといっても、風が爽やか。ですから、何とか毎回、その景色、その風にたどり着けるように、頑張って走っていました。このように、市街地と田んぼの境目、町と野の境目には交差点とガソリンスタンドがあるだけですから、もし、ジョギングではなく、車で通るならば、この境目には、ほとんど気づくことなく、通り過ぎてしまうことでしょう。 「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、一説によれば、旧約聖書、申命記が記された時代よりも前から、人々の間で語り伝えられていた、いわば「民間伝承」のようなものではないか、と考えられています。その時代、「町」と「野」の境目は、もちろん、信号とガソリンスタンド1つを挟んで、のどかな田んぼが広がる、といったものではありませんでした。町、今でいうと小都市くらいの規模ですが、町と呼ばれるのは、城壁でぐるっと囲まれ、敵から守られた地域のことです。どうして、町の外に、そこまで警戒の目を向けるのか、と思われるかもしれません。それは、この時代にはそもそも国境の警備がされていないので、町の城壁の前まで外国の軍隊が攻め込んでくることが、普通にあったからです。旧約聖書の物語の中でも、例えば、イスラエルの軍隊がいわゆるカナン地方のある町を包囲したり、反対に、外国の軍隊がエルサレムを包囲したりする、というエピソードがあるのを、ご存じの方がいらっしゃるかと思います。そのように、町の城壁の手前までは、敵が簡単に来られてしまうのです。したがって、城壁の外側、「野」にあたる地域は、大変危険です。一歩でも町から野に出れば、身の安全は保障されません。町と、野では、城壁を隔てて、まったく別の世界が広がっているのです。城壁の中では、人々が日々、安心して、商売をしたり、買い物をしたり、あるいは、料理を作って、友人たちと語り合いながら食事をしたり、家族と楽しく過ごしたりする。一方、城壁の外では、人々が身の危険を感じつつ、荒涼とした土地で、僅かな作物が育てられる。時には、そこは、攻め込んできた敵たちに踏み荒らされる場となる。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、そのように考えてみると、なかなか信じがたいことを言っている、ということが、感じられると思います。「町」と「野」という、全く違った2つの世界、2つの状況を目の当たりにしながら、それでも、聖書のこの言葉は、その両方の中に神の祝福があるのだ、と訴えています。町の中では、人々が路地を行き交い、そこには日々、素敵な出会いや、美味しい食事や、お酒や、大きな仕事の成功や、新しい子どもの命の誕生といった、多くの喜ばしい出来事があります。そのような出来事を経験した人は、周りの人たちから「おめでとう」と祝福の言葉をかけられ、誰の目にも明らかな祝福の雰囲気と、喜びの場が、そこに生まれることでしょう。一方、城壁の外、野で「おめでとう」という言葉を聞くことは、ほとんどないでしょう。そもそも、そこには、言葉を掛け合うほどたくさんの人はいませんし、ましてや、親戚や友人に会うことは、滅多にありません。畑の作物が多めに採れたり、家畜の子が生まれたりすることは、たしかにあるかもしれません。しかし、それらの、野で起きた出来事に対して言われる「おめでとう」という言葉の数は、町の中での、人間どうしの結婚や、赤ちゃんの誕生のときに言われる「おめでとう」という言葉の数よりも、はるかに少ないに違いありません。ですから、「おめでとう」という祝福の言葉に関して言うならば、町の城壁の外側、つまり、「野」と呼ばれる地域は、祝福の少ない地域、祝福の空白地帯であると言えるでしょう。 私が先月、7月の初めに夏期伝道に来た頃、駒井牧師の車に乗せてもらって秋田市の郊外に出ますと、田んぼが一面に広がっていて、まだ膝下ぐらいの長さの稲が、青々と茂っていました。それが、最近、また郊外に行くことがあって見てみましたら、稲がもう余裕で膝の高さを超えて、高く育っていて、そしてもう穂を出していて、濃い緑ではなくて、黄色がかった、黄緑色の景色に変わっていました。今年の夏は天気が良い日が多かったので、育つのが早いのかなあと思いつつ、そしてまた、秋にはたくさんのお米が獲れるんだろうなあと期待しつつ、その風景を眺めてきました。さて、もし今年、例年よりもたくさんの上質なお米が収穫されたとしたら、そのことはきっとニュースになると思います。そのニュース、その記事のタイトルには、どんな言葉が使われると思いますか?「収穫」、「豊作」、「品質」、「期待の新品種」、「価格」など、様々考えられますよね。しかし、「祝福」という言葉が、そのニュースや新聞記事の見出しに使われることは、おそらくないと思います。芸能人の結婚や、スポーツの優勝のニュースなどで、毎日のように生み出され、毎日のように目にされる「祝福」という言葉は、町の外の出来事、田んぼで確かに起こっている、稲の生長という出来事については、使われることはありません。城壁が町の中と外を分け隔てていた聖書の時代にも、そして、交差点1つで郊外の田んぼに繋がっている現代にも、どちらも同じように、祝福の言葉が多く聞かれる場所と、そうではない場所があるのです。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 この言葉は、そう考えてみると、町の中にも、野にも、そのどちらにも神の祝福がある、ということを超えて、さらに、自分の置かれた場所にかかわらず、同じだけの祝福がそこにはあるのだという確信と、決意を含んだ言葉であるように思われます。自分の置かれた場にあって、一体何が祝福であるのか。そのことについて、聖書は具体的には語っていません。それは、祝福になりうる出来事は、どこにいても、私たちの周りに無限にあること、そして、それを自分自身で見つけ出して、神の「祝福」として捉えることが大切だ、ということを、教えているのではないでしょうか。聖書はその際、面白い言い方をしていまして、「籠もこね鉢も祝福される」と言っています。籠や鉢の中身ではなくて、入れ物自体が、もうすでに祝福されているというのです。その祝福された籠に、何が入ってきたとしても、丸ごと全部、祝福されることが決まっている。その籠に何を入れるか、それは自分自身で決めなければならないでしょう。さあ、あなたは今日、何をその籠に入れるでしょうか?

(執り成しの祈り) すべて良きものの源である神様、あなたによって形作られ、命を与えられたすべてものと共に、祈り求めます。あなたの祝福が、すべての人に及びますように。感染症の拡大に対応するために働く、医療関係者の方々や、様々な決断をしなければならない方々に、あなたからの祝福と助けが豊かに与えられますように。不安と期待の中で新学期を迎える子どもたちに、そして、家族や親戚、友人と会うことが困難な中で暮らす、高齢の方々に、あなたからの豊かな祝福が届きますように。私たちが、キリストの愛に倣って、互いに助け合い、仕え合う者とされますように、その道を示してください。イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。

8月15日説教「アブラハムの執り成しの祈り」

2021年8月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記18章16~33節

    マタイよる福音書18章15~20節

説教題:「アブラハムの執り成しの祈り」

 アブラハムが故郷カルデアのウルを出発して神の約束の地カナンに旅立った時、彼は妻サラと甥のロトも一緒でした。ところが、カナンの地でアブラハムとロトの財産や家畜が余りにも増えたために一緒には住めなくなり、二人は別れることになったことが創世記13章に書かれていました。きょうの18章16節以下を学ぶにあたって、その時のことを今一度振り返ってみましょう。13章10節以下を読んでみましょう。【10~13節】(17ページ)。ここにすでに、ソドムとゴモラの滅びのことが予告されていました。そしてきょうの個所18章16節以下で、アブラハムはソドムとゴモラの罪が非常に重いので、神がその地をお裁きになるために調査をされるという神のご計画を知らされました。そこでアブラハムは23節から、ロトが住んでいるソドムのための執り成しの祈りをささげます。この執り成しの祈りは、ソドムの人々のためと言うよりは、その町に住んでいる甥のロトの救いのための執り成しの祈りであると考えてよいでしょう。いやそれだけでなく、アブラハムのこの執り成しの祈りは、わたしたちすべての人間たちのため、すなわち、罪びとであり、神の裁きを受けなければならないわたしたと一人一人の救いのための執り成しの祈りであるのだと言うべきでしょう。アブラハムはこの執り成しの祈りによっても、後の世のすべての信仰者たちの「信仰の父」としての役割を果たしているのです。  そこできょうは、アブラハムの執り成しの祈りの最後の個所から読んでいくことにしましょう。【32~33節】。神はアブラハムの執り成しの祈りに応えて、ソドムの町にわずか10人でも正しい人がいたら、その町を滅ぼさないと言われます。その10人の正しい人たちのゆえに、その町を憐れみ、その町をおゆるしになると言われます。当時、ソドムの町に何千人、何万人が住んでいたのかは分かりませんが、13章に書かれてあったように、カナンの地で最もよく潤っていた地域であったので、かなりの人が住んでいたと思われます。何千人、何万人の中のほんの10人の正しい人たちのゆえに、神は他の人々、とは言ってもそれがほとんどなのですが、その町の人々全部をゆるすと言われます。神は他の多くの悪しき人々、罪びとたちに目を留めることをなさらず、彼らをその罪のゆえに裁くことをなさらずに、わずか10人の正しい人たちに目をお留めになり、その10人の正しい人たち、神を信じる人たちのゆえに、その町全体をおゆるしになるのです。  神はまたきょうここに集められた小さな神を礼拝するわたしたちの群れにも目を留めてくださるに違いないと信じます。日本の1億2千万人の神を知らず、神無き人たちにではなく、また秋田県の94万人にではなく、わずか20人ばかりの神を礼拝する人たちに目を留めてくださるに違いないと信じます。そして、この20人の執り成しの祈りゆえに、この国を、この町をゆるしてくださるに違いないと信じます。  けれども、もしわたしたちの中で5人欠けたらどうでしょうか。神にすべてを委ねて神に従うことをせず、自分の欲望と傲慢な思いを捨てきれず、悔い改めることをせず、心かたくなにして罪の中にとどまっている人が5人いたらどうでしょうか。その欠けた5人のために、神はこの群を見捨て、この国を見捨てられるのでしょうか。いな、神は確かに残った15人のゆえに、なおもこの群を顧みてくださり、この国とこの町を滅ぼすことはなさらないと信じます。しかしもし、10人だけになったらどうでしょうか。「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と神は言われます。神は確かに10人の真実の礼拝者のゆえに、他のすべての人々をゆるしてくださるの違いないと信じます。  アブラハムは神への恐れのために正しい人の数を10人まで減らして、そこで神との対話を終えました。もしわたしたちがアブラハムよりも大胆にその数をさらに減らすとしたらどうでしょうか。もし、わたしたちの数が20人から10人減って10人だけしか残らなかったとしたら? 5人だけになったら? ただ一人だけになったら? それでも神はその一人のゆえに、他のすべての人々をおゆるしくださるのでしょうか。そしてさらに、神のお怒りを覚悟して,あえて問うとしたらどうでしょうか。もしここに、正しい人が一人もいないとしたらどうでしょうか。  ここまで数を減らしていくならば、わたしたちは絶望してしまわざるを得ません。いったい、わたしたちの中でだれが神のみ前に正しい10人に、そして一人に数えられることができるでしょうか。いったい、だれが神のみ前に正しく、罪のない義なる人として立つことができるでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章で詩編のみ言葉を引用しながらこう言っているではありませんか。「正しい者はいない。一人もいない。……、皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。……」(10~18節参照)。  おそらく、ソドム・ゴモラの町にも、わたしたちの礼拝の群れの中にも、神のみ前に正しく義なる人は一人もいないに違いありません。アブラハムが正しい人の数を10人まで絞って、それで終わりにしたのは、彼の謙虚さ、優しさなのかもしれませんし、神への恐れからだったのかもしれません。いずれにしても、たとえソドム・ゴモラの町に正しい人がただの一人もいないとしても、そしてまたわたしたちの中にもそうだとしても、それにもかかわらず、アブラハムは今ここで、ソドム・ゴモラのために執りなす人として立つことを許されている、神はそのアブラハムの執り成しの祈りをお聞きになっておられるということをわたしたちは大きな驚きをもって知らされるのです。それだけではありません。たとえ、わたしたちの中に正しい人がただの一人もいないとしても、わたしたちのすべてが倒れてしまわざるを得ないとしても、わたしたちの中にただお一人立ち続けてくださる方がおられる。わたしたちすべての罪びとたちのために、そのすべての罪をご自身の身に負われ、神の怒りと裁きを忍耐され、全き服従と全き献身によって、罪と死とに勝利された主イエス・キリストがおられ、その方が今も天においてわたしたちのために執り成しておられるということを、わたしたちは大きな驚きと感謝とをもって知らされるのです。ただお一人神のみ前に義なる方として、神のみ言葉をすべて成就された方として立っておられる主イエス・キリストが、今ここでわたしたちの礼拝の中心にも立っていてくださり、わたしたち一人一人を信仰によって義と認めてくださり、神の国の民として招きいれてくださるということを、わたしたちは大きな感謝と喜びとをもって知らされるのです。  では、アブラハムはどのようにしてソドムとゴモラのための、またわたしたちすべての信仰者たちのための執り成しの祈りへと導かれたのでしょうか。16節から見ていきましょう。【16節】。夏の暑い昼にアブラハムの天幕を訪れた3人の旅人たちは夕方涼しくなってからさらに旅を続けます。アブラハムは途中まで彼らを見送りました。これもまた旅人をあつくもてなす当時の習慣でした。しかしここではそれ以上の意味を持つことになりました。アブラハムはここで旅人たちのもう一つの目的を知らされます。  先に、アブラハムは旅人たちが彼の天幕を訪れた大切な目的を聞きました。それは、10節以下に書かれていたように、来年妻のサラに男の子が生まれるという神の約束についてでした。無から有を呼び出だし、死から命を創造される神が、年老いたアブラハムとサラに、奇跡によって、神の恵みによって、世継ぎとなる男の子が与えられるという知らせです。それに加えて、旅人たちのもう一つの目的は、17節以下に書かれているように、アブラハムが神に選ばれて、神が世界の歴史の中で行おうとしておられることの証人となり、世界のすべての民のための預言者としての務めを託されていることを彼に告げるということです。 【17~19節】を読んでみましょう。年老いたアブラハムとサラに男の子が生まれるという神の約束は、いわば彼らの家庭の中の出来事だと言えます。しかし、神の約束の成就は単に一つの家庭内のことにとどまらず、アブラハムに続く全世界の民、すなわち神の祝福を受け継ぐべきのちの世のすべての信仰者たちの信仰の歩みにかかわる出来事なのです。アブラハムの家庭内での出来事は、全世界の信仰の民と無関係ではありません。彼が神によって選ばれたのは、彼がのちの世の全世界の神の民に仕えるため、彼らに対して預言者としての務めを担うためでもあったということを、アブラハムはここで知らされます。 旅人は20節で続けて言います。【20~21節】。ここでは、旅人は「主」と呼ばれています。主なる神の使い、主なる神ご自身がアブラハムに預言者としての務めを与えます。彼はソドムとゴモラの滅亡という世界の出来事を傍観者として眺めていることはゆるされません。悪と罪に染まったソドムとゴモラの運命とその運命に神がどのようにかかわっておられるのかということの証人になるように、ここで召し出されているのです。アブラハムは一人の信仰者として、神に選ばれてすべて信じる人たちの信仰の父とされ、後の世の神の民の祝福の基となるように召し出されているアブラハムは、今新たに世界の出来事に対して、神がその出来事にどのようにかかわっておられるのかを知らされ、それゆえに彼自身がその出来事にどのようにどのように関与すべきなのかを悟るようにと招かれているのです。 そのアブラハムの務めが23節以下に書かれている、ソドムとゴモラのための執り成しの祈りなのです。アブラハムはすべて信じる信仰者たちの父として、世界のすべての罪びとたちのための執り成しの祈りの務めを授けられたのです。それによって、彼は世界の出来事に対して預言者としての、また祭司としての務めを果たしているのです。 そしてそれは、わたしたちキリスト者の務めでもあります。天におられる主イエス・キリストの執り成しによって、罪あるままで神の民とされ、この世界の出来事の証人となるべく召し出されているわたしたちキリスト者は、罪と死と滅びの中にあるこの世のために執り成しの祈りをする務めを託されていることを知らされます。神はわたしたちの執り成しの祈りを必ずやお聞きくださることを信じます。

(執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたに選ばれ、召されて、すでに救いの恵みにあずかっているわたしたちが、その恵みに感謝して、あなたの救いのみわざの証人となり、すべての人たちの救いのために執り成しの祈りをささげる者となりますように。

〇天の神よ、どうぞこの世界を顧みてください。戦争や奪い合いのあるところに、和解と平和をお与えください。住む家を失い、貧困と混乱の中で不安におののく人々に、食料とテント、愛と分かち合いの心が届けられますように。感染症の拡大によって世界中の国々が大きな困難と試練の中にあります。神よ、どうぞあなたからのいやしと希望とが与えられますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月8日説教「平和を実現する人々は、幸いである」

2021年8月8日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和祈念礼拝)

説教(駒井 利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節   

  マタイによる福音書5章1~11節

説教題:「平和を実現する人々は、幸いである」  

日本の諸教会では、終戦記念日にあたる8月15日前後の日曜日を平和祈念礼拝として守る習慣があります。76年前の夏、日本で唯一の地上戦で多くの住民の犠牲を強いた沖縄戦、一瞬のうちに何万人もの命を奪い、都市全体を瓦礫と化した広島・長崎の原爆、そして8月15日の終戦、わたしたちはこの戦争の悲惨さ、恐ろしさ、悲劇、残忍さ、そして人間の暴力と暴虐さを決して忘れてはならないと思います。それはまた、日本の国が受けた被害・犠牲であるとともに、日本がアジアと世界に与えた恐怖と侵略であったということも、忘れてはなりません。戦争は勝者にも敗者にも多くの不幸と禍と痛みとをもたらします。しかしなお、それでも戦争はこの地球上からなくなることはありません。わたしたちはこの時に、秋田教会の世界平和祈念礼拝に招かれている一人として、真の平和とは何か、その平和のためにわたしたちに託されている務めは何かということについて、聖書のみ言葉から聞き、世界の平和のための祈りをあつくしたいと願っています。  マタイによる福音書5章に書かれている「山上の説教」の中の9節で、主イエスはこのように言われました。【9節】。3節から11節まで、「幸いである」という言葉が9回繰り返されていますが、それらの文章には二つの共通した特徴があります。その一つは、聖書が書かれたいるギリシャ語原典では「幸いである」という言葉が文頭に置かれ、強調された形になっている点です。古い時代の『文語訳聖書』ではこの個所の翻訳はこのようになっています。「幸福(さいわい)なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称(とな)えられん」。これは原典の意味合いをよく反映した翻訳であると言えます。ここで「幸いである」という言葉が強調されている点に注目して、現代の言い方にするならば、「何と幸いであることか、いかに幸いなことか」となるでしょう(旧約聖書の詩篇1編1節などで、「幸い」が強調されているカ所ではそのように訳されている)。 この強調点にはどのような意味があるのでしょうか。まず、これは主イエスからの呼びかけであるということです。その人が実際に幸いな状態にあるかどうかということによるのではなく、主イエスが神の独り子としての権威と愛と恵みとをもって、「あなたがたは幸いだ」と呼びかけてくださっておられるのです。ここで幸いだと呼びかけられている人を見てみると、3節では「心の貧しい人々」、4節では「悲しむ人々」、5節では「柔和な人々」、さらに10節では「義のために迫害されている人々」が幸いだと言われています。一般的に見れば、幸いだとは思えないような人たちに主イエスは「あなたがたは幸いだ」と呼びかけておられます。つまり、この世の価値基準による幸いではなく、あるいはまた人がこの世で手に入れることができる幸いでもなく、主イエスが天の父なる神からわたしたちに分かち与えてくださる天からの幸いのことなのです。 別の言葉を使えば、この幸いとは主イエスがわたしのために創り出してくださる幸いだと言ってよいでしょう。主イエスが幸いのないところにも新しい天からの幸いを創り出してくださるのです。それだけでなく、その幸いによって、禍や憂いや不幸をも幸いに変えてくださるのです。主イエスが「あなたがたは幸いだ」と呼びかけてくださるところ、そしてわたしたちがその呼びかけを聞くところに、主イエスはこのような幸いを創り出してくださるのです。 3節から11節までの幸いの呼びかけの文章でもう一つ特徴的なことは、日本語の翻訳では省略されることが多いのですが、後半の文章の初めに「なぜなら ば」という理由とか根拠を言い表す語が置かれているという点です。その点を強調して9節を訳してみると、「平和を実現する人たちは、何と幸いなことでしょう。というのは、その人たちは神の子と呼ばれるからです」となります。 3節~11節までの他のすべての文章でもそうですが、後半の理由づけ、根拠が大きな意味を持っていることに気づきます。3節後半「天の国はその人たちのものだから」、4節後半「その人たちは慰められるから」、9節後半「その人たちは神の子と呼ばれるから」、そして10節後半ではもう一度「天の国はその人たちのものだから」というように、幸いを根拠づけているのは天におられる神ご自身なのです。神がその人たちの味方でいてくださる、神がその人たちに最も必要なものを備えてくださる、神がその人たちのために働いてくださる、だから幸いだと呼びかけられているのです。  では、以上の二つの特徴的な点を考えながら、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われた主イエスのみ言葉の意味を更に深く読み取っていきましょう。  新約聖書が書かれている言語であるギリシャ語では、平和は「エイレーネー」と言います。旧約聖書のヘブライ語では「シャローム」です。この二つの言葉は今日でもギリシャ人やユダヤ人の日常のあいさつの言葉として用いられているそうです。日本語では「こんにちは」と言うところを「あなたに平和がありますように」とあいさつを交わすそうです。  聖書の中で用いられる「平和」という言葉には深い意味が込められています。平和とは、単に戦争がない状態をいうのではなく、また心の中の平安を指しているのでもなく、満ち足りていて欠けや破れがない状態、不安や恐れがなく、神と人間との関係また人間同士の関係が正しく保たれている状態を意味しています。 けれども、世界には真の平和はないと聖書は語っています。人間はいつも神のみ心に背き、神から離れて偽りの偶像の神々を礼拝し、神に対して罪を犯してきました。神との正しい関係が保たれなければ、人間同士の関係もおのずと壊れ、互いに欺きあい、奪い合い、分裂と戦いを繰り返すほかにありません。旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史、また世界の歴史は、そのような人間の罪と分裂と戦いの歴史であると言えましょう。  けれども、主なる神はそのような罪によって支配された暗黒の世界にやがて真の平和の君を派遣されると預言者イザヤは預言しました。イザヤ書9章にはこのように預言されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。……一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちに与えられた。……その名は、「永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない」(1~6節参照)と。  教会はこの預言が主イエス・キリストの到来によって成就されたと理解しました。主イエス・キリストは天の父なる神から遣わされたまことの平和の君として、この地に永遠の平和を打ち立てられると教会は信じ、告白しています。エフェソの信徒への手紙2章14節以下にはこのように書かれています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。……キリストは二つのものを一つにし、ご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(14~16節)。  主イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、それによってわたしたち人間の罪をゆるし、神と和解させてくださいました。神と人間との平和の関係を回復してくださったのです。主イエスの十字架の福音は和解と平和の福音です。ここから、わたしたち人間同士の平和が、この世界の平和が始まります。主イエス・キリストは真の平和とは何かをわたしたちにお示しくださり、その平和をお与えくださったのです。真の平和とは、人と人が、あるいは国と国が争わず、仲良くしているということだけではありません。武力や核兵器の均等によってかろうじて維持されるような平和でもありません。何よりもまず神と人との関係が正しくされていなければ、そこには真の、また永遠の平和はありません。なぜなら、人間の罪が新たな分裂と争いとを生み出していくからです。主イエス・キリストは十字架の死によって、人間の罪の力を打ち砕き、果てしなく続く人間の分裂と争いを終わらせ、神との和解を成し遂げてくださったのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じることにより、わたしたちは神によって罪をゆるされ、救われ、神の子どもたちとされるからです。 「平和を実現する人たち」とは、この平和の福音を信じ、その福音によって生きる人たちのことです。つまり、神からの罪のゆるしの恵みによって生きることを許されている人たちのことです。罪ゆるされている恵みに生きる人は、罪の力に抵抗します。主イエスがすでに罪に対して勝利されたことを知っているゆえに、また、主イエスによってすでに罪のとげが抜き取られ、その牙が折られていることを知っているゆえに、平和を脅かす罪の力に勇気をもって抵抗することができるのです。  「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。わたしたち一人一人もこの幸いへと招かれているのです。  

では、皆さんでご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。お渡ししているプリントをご覧ください。お立ちいただける方はお立ちください。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、 あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、 地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。 どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。 わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。 神よ、 わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。 憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、 分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、 絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、 悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。 主よ、 慰められるよりは慰めることを、 理解されるよりは理解することを、 愛されるよりは愛することを求めさせてください。 なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、 ゆるすことによってゆるされ、 自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。 主なる神よ、 わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。 深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。 あなたのみ心によっていやしてください。 わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。 (「聖フランシスコの平和の祈り」から)

8月1日説教「教会の大きな祈り」

2021年8月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書40章5~11節

    使徒言行録4章23~31節

説教題:「教会の大きな祈り」

 ペンテコステの日に誕生した世界最初の教会、エルサレム教会は、誕生してすぐにユダヤ人からの迫害を受けました。ペトロとヨハネは主イエス・キリストの福音を説教し、特に主イエスの復活を語ったために、新しい教えによって民衆を惑わした罪に問われ、逮捕され、ユダヤ最高議会での裁判を受けました。使徒言行録3章と4章に描かれている初代教会の宣教活動と最初の迫害の記録は、のちに全世界へと拡大されていくキリスト教会の本質、その基本的・典型的な姿であると言ってよいでしょう。ここには、教会とは何か、教会はどうあるべきかという、今日のわたしたちの教会にとっても共通する教会の本質が語られています。その点に注目しながら、4章23節以下のみ言葉を読んでいくことにしましょう。

 23節にこう書かれています。【23節】。二人とは、初代教会の指導者ペトロとヨハネのことです。彼らはエルサレム神殿の前で人々に施しを乞うていた生まれつき足が不自由な男の人に対して、「あなたが期待している金銀はわたしにはないが、わたしたちが持っているものをあなたにあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、彼はたちまち躍り上がって立ち上がり、神を賛美しながら神殿に入っていきました。主イエス・キリストのみ名によって、神の奇跡が起こったのです。神はユダヤ人たちによって棄てられ、十字架につけられた主イエスを、死者の中から復活させられた「死から命を創造される神」です。

3章12節以下のペトロの説教と、4章8節以下の裁判でのペトロの弁明、これも説教と言ってよいのですが、その説教の中心は、主イエス・キリストの十字架の死と復活であったということを、わたしたちはすでに何度も確認をしました。も一度その個所を読んでみましょう。【3章13~15節】。また【4章10~12節】。これ以後の使徒言行録に書かれているペトロやパウロの説教もすべてその中心は主イエス・キリストの十字架の死と復活です。そして、これがのちのすべての教会の説教の中心でもあります。もちろん、わたしたちの教会の説教も同様です。

 ところが、キリスト教会が力を込めて説教した主イエスの十字架と復活の福音はユダヤ人からの迫害を招くことになりました。主イエスの十字架と復活の福音は、当時のユダヤ教指導者たちにとっては耳触りの良いものではなかったからです。ユダヤ教2大教派の一つサドカイ派は復活を否定していましたから、主イエスの復活の福音は彼らの教えに反するものでした。ファリサイ派や律法学者は、律法を守り行うことによって神の国の民とされ救われると教えていましたので、主イエスの十字架の福音を聞いて信じることによってすべての人が救われるという福音は自分たちの教えを根本から否定するものでした。そこで彼らはペトロとヨハネを捕え、裁こうとしました。

けれども、ユダヤ最高議会は彼らを釈放せざるを得ませんでした。21節には、議員たちは「民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかった」と書かれています。他方、ペトロとヨハネはユダヤ最高議会の裁判の席でも恐れることなく大胆に主イエスの十字架と復活の福音を語り続けました。二人は主なる神に従うことによって、この世の権力者をも恐れない力と勇気とを与えられたのでした。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれないことを、彼らは証ししたのです。教会にとって迫害の時は、また同時に力強い証しの機会となり、さらなる福音の前進の時となったのでした。

 「二人は仲間のところへ行った」と書かれています。「仲間」とは、エルサレム教会の教会員、信者たち、教会の群れのことです。のちに使徒パウロは「兄弟姉妹たち」とか「聖徒たち」と呼びました。彼らはどのような種類の仲間なのか、何のために、どのようにして仲間になり、一つの群れとされたのでしょうか。そのことを考えることは教会の本質を考えることです。この仲間は、この世の何らかの利益を求めて集まった人たちではありません。趣味のグループでもありません。彼らは主イエス・キリストの福音を聞いて、信じ、それによってこの世から、ユダヤ人の中から選び分かたれて、教会の民とされた人たちです。それゆえに、この世のもろもろのグループとは根本的に違っています。彼らは主イエスの十字架と復活の説教を聞き、信じ、罪を悔い改め、洗礼を受け、罪ゆるされた仲間です。それゆえに、彼らは神の救いの恵みによって生かされ、聖霊によって一つに結ばれ、共に神を礼拝し、共に祈り合い、そしてまた苦難をも共にする仲間です。

 ペトロとヨハネは仲間のところに帰って自分たちに身に起こったことを報告しました。24節以下には、この時のエルサレム教会の祈りが記されています。【24節】。多くの聖書注解者は24~30節の祈りを「教会の大きな祈り、新約聖書の中でもっと偉大な祈り」と名づけています。誕生して間もない若い教会、その最初の宣教活動の中で経験しなければならなかった最初の迫害、しかしその時教会は、少しも恐れることなく、たじろぐことなく、黙することなく、むしろより一層大胆に、力強く、勇気と希望とに満ちて、このような大きな祈りをささげている。ささげることができた、ささげることをゆるされている、ということを、わたしたちは驚きをもって知らされるのです。

 「これを聞いた人たちは心を一つにし」とあります。ここでは教会の一致が強調されています。ペトロとヨハネが経験したことは教会のみんなの共有の経験です。二人の宣教活動、二人が受けた迫害、そのすべてを教会の仲間みんなが共有し、共に一つの大きな祈りへと導かれていくのです。

 彼らの祈りは、まず天地万物を創造された神への強い信頼から始まっています。その神は今もなお、強いみ手をもって造られた世界のすべてを治め、支配しておられます。何ひとつとして神のみ心とは無関係なことは起こり得ないという信仰がここでは言い表されています。この世からの迫害を最初に経験した教会は、その迫害からどのようにして逃れようかとか、迫害に合わないためにどうすべきかということを語り合ったのではありませんでした。彼らがなしたことは共同の祈りでした。共に神に祈ることでした。祈りこそが、迫害や困難を乗り越えて、教会がなお前進し、主イエスの福音を語り続ける勇気と希望とを与えられるための最も確かな武器なのです。

 そして、その祈りは神のみ言葉に導かれた祈りでした。25~26節は詩編2編1~2節のみ言葉です。【25~28節】。神は主イエスの十字架と復活によって、この詩編のみ言葉を成就されただけでなく、教会の迫害を通してもこの預言を成就されたのだと彼らは祈っています。祈りは自分たちの願いを神に押しつけるためのものではなく、神のみ心を尋ね求め、そのみ心に従うためのものです。それによって、新たな命と力とを神からいただくのです。

 この祈りには、これまでペトロが語った3回の説教、ペンテコステの説教、エルサレムの神殿前での説教、そしてユダヤ最高議会での説教のいずれにも共通しているポイントが二つあります。一つは、ユダヤ人指導者と異邦人指導者とが結束して神がお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を偽りの裁判によって裁き、十字架につけて殺したという、彼らの罪を明らかにしています。人間はみなメシア・救い主を受け入れないという罪で一致します。しかし第二には、神は彼らの罪と反逆とをお用いになって、ご自身の救いのみわざを成就されたのだということです。彼らのこのような罪と反逆によっても、神の救いのご計画は変更されず中止されず、彼らの罪を貫いて、彼らの罪をはるかに超えて、神は主イエスの十字架の死と復活によって全人類のための救いを成就されたのです。彼らは自ら知らずして神の救いのみわざに仕えることになったのです。

 神の救いのご計画は今もなお罪びとたちのどのような攻撃や反逆にもかかわらず、神のみ心のままに、終わりの日の神の国の完成の時に向かって前進していくのだということを、わたしたちもまた信じるべきであり、信じてよいのです。

 29節からは、教会が直面した新しい事態、迫害という困難な事態について祈っています。【29~30節】。教会は初めて経験したこの迫害という困難な事態をどうとらえ、どう対応したのでしょうか。29節の「彼らの脅しに目を留め」とは、教会が不信仰なやからによって脅かされている現状を神がご覧くださるようにという意味です。彼らはここで教会の迫害と主イエスのご受難とを重ね合わせているのです。教会が経験している迫害は主イエスが経験されたお苦しみの続きなのです。主イエスが罪と戦われ、苦しまれたように、教会も今罪の世と戦い、苦しんでいるのです。神は教会のその苦しみを、困難な戦いを知っていてくださいます。そのことが教会の大きな励ましであり力です。

 それゆえに、教会は迫害の中にあっても、なおも「思い切って大胆に御言葉を語ることができる」のです。教会はそのような力を祈りによって与えられます。人間的な知恵や力によってではなく、経済力とか団結力とかによってでもなく、祈りによってこそ、教会は困難な事態を乗り越えていく希望と力を与えられるのです。祈りによって、主なる神にすべてをお委ねし、神の助けと導きを信じ、願い求めることによって、教会は困難を乗り越え、前進していくことができるのです。

 最後に31節を読んでみましょう。【31節】。これは教会の祈りに対する神の応答です。揺れ動いたとは地震のことです。地震は神のご臨在のしるしです。そこに力強い神が臨在しておられ、働いておられることの確かなしるしです。聖霊が注がれることは、その神の力強いお働きが教会を動かす力として具体的に作用することの保証です。神は教会の祈りに確かに答えてくださいました。24節以下の祈りが「教会の大いなる祈り」と呼ばれるのは、その祈りの内容によるというよりは、この神の応答が驚くべき偉大なものであったからです。神は、いわば大地を揺るがすほどの大きな力をもって教会の祈りに応えてくださったのです。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはありません。それゆえに、わたしたちもまたどのような時代にあっても大胆に神のみ言葉を語ることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにも聖霊を注ぎ、あなたのみ言葉を大胆に語らせてください。全世界の教会を聖霊で満たし、主イエス・キリストの福音宣教の働きのために派遣してください。

○困難や試練の中にある教会、紛争や貧困、災害の中にあって苦しい戦いを強いられている教会を、あなたが特に顧みてくださり、勇気と希望と力をお与えください。

〇天の神よ、日本とアジアと世界の諸国が、いまなお新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされ、恐れ、傷つき、病んでいます。どうぞこの地を憐れんでください。いやしと慰めとは励ましとをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月25日説教「だれでも自分建築士」

聖書:イザヤ書66章1~2節

   コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章12~20節

説教者:田中康尋(日本キリスト教会神学生)

 ポートタワー・セリオン。秋田港に立つ、直線的な、すらりとした塔。 143メートルの高さに組み上げられた、白い鉄骨。それを覆うように張り付けられた、6272枚の強化ガラス。ここを訪れる家族やカップル、旅行者は、展望台に登り、空に突き出たガラス越しに景色を楽しむ。眼下には秋田市街、その先には鳥海山、そして隣のガラス越しには、一面に広がる日本海を眺望する。ガラス越しに見えるその景色を、ここを訪れる人々は、指さしながら、楽しく語り合う。そのガラスの壁は、外から見ると、大きな鏡のように、昼間は青空と雲を映して、その空の一部となって溶け込み、やがて、夕方になると、ガラスの壁は、オレンジ色の空と海を映し出す。そして、日が沈むと、このガラスの透明な壁は、内側から照らされる様々な色のイルミネーションの光をそのまま通し、港に明るさと彩りを作り出す。

秋田市街に戻ってみる。

赤れんが郷土館。元の秋田銀行本店。赤茶色のれんがを積み上げた、明治時代の近代的な壁。その厚い壁に穿たれた窓の上には、石造りの、ルネサンス様式に倣った繊細かつ重厚な装飾が施されている。明治の窓ガラスの脆さを補うように、それぞれの窓の外には、鉄でできた厚さ3ミリのシャッターが下りるようになっている。れんがの壁と、鉄のシャッター、入り口の重厚な木の扉、そして、中に入ると目の前に立ちはだかる、白い大理石のカウンター。それらはすべて、銀行の、そして顧客の大切な財産を収め、守り抜くためのもの。

さあ、そこから北へ移動して、日本キリスト教会 秋田教会。

かまぼこ型の屋根が乗った、桜色の建物。扉を開けて、礼拝堂に入れば、そこは、木の温かさを基調とした、正方形の空間。木材で作られた長椅子が並ぶ。その正面には、説教がされる講壇、その手前には聖餐卓、その左右に、献金台と洗礼台。視線を上にやれば、天井から吊り下げられた、照明が取り付けられている木製の大きな輪。そして、その上にはまた、木製のプロペラのような天井扇。そして、その上には、会堂全体に光を取り込む天窓。それらを取り囲むように、直線的な太い梁が天井や壁に、縦に、横に、斜めに、張り巡らされている。天井や壁の照明に用いられている、金色の金属や、透明なガラス、磨りガラスは、木材で統一された空間に、近現代の輝きを添えている。日曜日になると、木材で作られたこの空間は、礼拝に集まる人々の嘆きのため息、そして喜びの息吹、そうした様々な呼吸を人々と共にする。ここに集まった人々の発する、祈りの言葉や、讃美の歌声は、流れる空気と共に、天窓へと突き抜け、まるで教会の鐘が鳴るように、響き合いながら天に昇ってゆく。 磨りガラス、金属、木材。赤れんが、鉄、ガラス。強化ガラス、鉄骨。様々な建材。全てのものが許されている。全ての材料が、それぞれに目的を持っている。全ての構造が、そこにいる人や、そこにある物のために考えられている。

パウロは言います。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と。使徒パウロは、今でこそ有名なキリスト教の伝道師として知られていますが、彼の生きていた当時の本業は、テントの設営業者です。まあ、今でいえば、ここで涼しい顔をして偉そうに喋っている私のような伝道者ではなくて、むしろ、ギリシャの熱い太陽の下で日々汗して働く、建築関係の作業員さんです。そういう仕事をしていたからでしょうか、パウロは「神殿」ですとか、「建て上げる」といった建築に関係するイメージを、どうやら好んでいるような印象を受けます。私も大学時代に、警備員のアルバイトをしていたんですが、その影響で、今でも「安全」とか「犯罪」とかいう言葉を不意に聞くと、おっと思って反応してしまいます。私のようなアルバイトでさえそうなんですから、日々働いていたパウロは、なおさらのこと、建築関係の言葉には敏感だったんだろうなと思います。ですから、パウロが神殿をここで例えに出しているということには、特別な意味があるのでしょう。

神殿。エルサレムの町の東の端。キドロンの谷を挟んで、オリーブ山と向かい合った、この町の東の端に、谷底からせり上がる斜面に続いて、城壁が高くそびえる。その分厚い城壁で東西南北の四方を覆われた、その敷地のさらに中心にあるのが、真っ白な石を積み上げて建てられた、四角い神殿の建物。太陽が昇る東を向いて建てられたその建物の正面には、犠牲の動物を焼いて捧げる祭壇があり、さらに建物の中には、祭司と神が出会う場所となる、至聖所と呼ばれる小さな空間がありました。

エルサレムのこの神殿が、イスラエルで一番立派で丈夫な建物であることは、パウロの時代の誰もが認めることでした。しかし、その一方で、パウロをはじめとするユダヤ人にとって、この聖なる神殿という存在は、それがいつかは崩壊するというイメージをつねに連想させるものでもありました。実際、パウロの生きていた時代よりもずっと昔、紀元前6世紀には、当時の神殿が敵によって破壊されました。この出来事は、当時の人々にとって、イスラエルの国民としての誇りを打ちのめされた悲惨な出来事として記憶され、その記憶は、今日の旧約聖書に数多く見ることができます。また、紀元後、イエス・キリストの時代になっても、神殿の崩壊ということは、非常にデリケートな話題とされていたようです。例えば、イエス自身も神殿を指さして、その崩壊を予告したと伝えられています。また、彼が十字架にかけられた理由の一つは、神殿を破壊すると予告したというものでした。なお、イエスもパウロも死んだ後にこの予感は現実となり、西暦70年に、この神殿もまた崩壊することになります。そのように、「神殿」という言葉には、立派さや丈夫さというイメージと同時に、脆さや儚さ、危うさというイメージも含まれています。

さて、そこでもう一度、パウロの言葉を聞いてみましょう。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である。」わたしたちの体。その丈夫さと、脆さ、危うさ。その場所を、聖霊の神殿として建て上げなければならない。しかし、具体的にどうすればいいのか。今から何を建てるのか。どうやって建てるのか。誰のために建てるのか。「わたしには、すべてのことが許されている。」ということは、聖霊の神殿を建てるために、私は、建築計画の全てを決めなければならないのか。必要な材料を判断して、選び出さなければならないし、建築の方式を比較検討し、最も良い案を考え出さなければならないし、そこに住む聖霊の希望をあれこれと事細かに聞き出さなければならないということなのか?

まあ、それができる人はそうすればいいんでしょうが、私を含め、多くの方の場合、自分を建て上げることに関しては、プロはおろか、アマチュア以下、ほとんど知識も技術もないよ、というのが、正直なところではないでしょうか。しかし、そんな人のために、ちゃんと逃げ道を用意してくれるのが、聖書のいいところです。つまり、パウロは、こうも言っています。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」

キリストの体。それは、病気や障がいをもつ人に出会ったときに差し出されたキリストの手であり、招かれた子どもたちが駆け寄っていったキリストの足であり、さげすまれていた「罪人」や「徴税人」と一緒に食事をしたキリストの口です。それはまた、十字架にかかって、全ての人々に分け与えられるキリストのからだです。キリストの、この開かれた愛に倣い、それに連なるならば、その人の体はキリストの手の延長となり、足の延長となり、口の延長となるのではないでしょうか。

「わたしには、すべてのことが許されている。」私には、自分を建て上げる材料として、キリストの体を選ぶことが許されている。私には、キリストの生き方を建築方式として、私の神殿を建てることが許されている。こうして、私の神殿は、キリストの体の一部となる。それは、永遠に生ける神の神殿であり、そこには聖霊がとこしえに住まう。たとえ、私の目にはそう見えなくても。

(執り成しの祈り)

私たちのために執り成してくださるイエス・キリストに倣って、私たちも、隣人のために、祈りましょう。 私たちを愛してくださる神様、 体や心に、苦しみや悩みを抱えている人々に、あなたの愛を贈ってください。その人々が、あなたによって慰められ、希望をもって生きることができますように。 社会において責任ある仕事をしている人々に、あなたの愛を贈ってください。その人々が、公正さと安心を作り出すことができますように。 自分の価値を小さく感じている人々に、あなたの愛を贈ってください。その人々が、頭を上げて、新しい道を見つけることができますように。 世界の諸教会に、あなたの愛を贈ってください。それらの教会が、愛と真実なわざによって、神と人に仕えることができますように。 イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

7月18日説教「真の神であり、真の人」

2021年7月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節     

ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「真(まこと)の神であり、真(まこと)の人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。きょうはその4回目です。わたしたちの教会が戦後、日本基督教団を離脱して新しい歩みを始めてから70年、日本キリスト教会はどのような教会であることを目指してきたのかをご一緒に確認しながら、わたしたちの信仰を養っていきたいと願います。 信仰告白の冒頭の文章は、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは真(まこと)の神であり、真(まこと)の人です」。これを、1890年(明治23年)の(旧)『日本基督教会信仰告白』と比較してみると、二つの点で大きな違いがあります。(現行の『信仰告白』を参照して比べてください)。旧の方を紹介します。「吾等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の独子にして」と告白されています。「神と崇むる」が「主とあがめる」に変更され、「真の神であり、真の人です」が付け加えられています。ここに、新しい日本キリスト教会を建設した時に先輩たちが目指した教会の特徴が言い表されています。その一つが、「主告白」であるということを前回学びました。イエス・キリストは教会と全世界において、唯一の主であって、他の何ものも主ではない。国家であれ、元首であれ、天皇であれ、軍隊であれ、それらは主ではない。それゆえに、教会は主イエス・キリスト以外の何ものにも決して服従しない。礼拝しないと、いう告白をまず冒頭で告白した。それは、戦時中の反省から、再び教会が失敗を繰り返してはならないとの強い決意があったということを学びました。 「真の神であり、真の人」という告白が付け加えられたということに、もう一つの特徴があります。これについて、きょうから数回にわたって学んでいくことにします。 この告白が信仰告白の冒頭に置かれているということは、これ以降のすべての告白が「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」という告白を土台にして展開されていくということを意味しています。そして、その告白の中心的な意図をあらかじめ結論的に言うならば、主イエス・キリストは真の神であり真の人であるゆえに、わたしたち罪びとの救いを完全に成し遂げることがおできになる。わたしたちすべてを罪から救い、永遠の命の保証を固くし、終わりの日に神の国の民として招きいれてくださるという約束のすべてが確かにされているということです。もし、主イエス・キリストが真の神であり真の人であるというこの信仰告白が少しでもゆがめられたり、どちらかが否定されたりするならば、わたしたちの救いが不完全になってしまわざるを得ないということです。それほどに重要な意味を持つ告白だということです。  「真の神であり、真の人」という言葉はそのままでは聖書の中には見いだせません。この言葉は、紀元451年に小アジア(今のトルコ)の北西にあるカルケドンという町で開催された世界教会会議で決議され『カルケドン信条』の中にある言葉です。『カルケドン信条』は、『使徒信条』、『ニカイア信条』、『アタナシウス信条』とともに、世界信条、基本信条と言われ、全世界の正統的教会が受け入れています。日本キリスト教会はそれらの基本信条を告白している世界の、公同の教会の信仰を受け継ぎながら、それをさらに宗教改革時代のカルヴァンの流れをくむ改革教会の伝統によって深めることを目指している教会、教派であると言えます。  「真の神であり、真の人」という言葉が聖書の中にないのに、のちの教会が勝手に創作したということではありません。信仰告白は(信条と同じ意味で用いられますが)聖書で語られ、証しされている信仰の中心、その要約を教理の体系に沿って短くまとめたものですが、その中で用いられる語句や文章は聖書本文にあるものが多いと言えますが、聖書にはないが、教会の歴史の中で正統的な教理として教会会議などで認められた語句や文章も用いられます。「真の神であり、真の人」もその一つであり、また「三位一体」という教理の名称も聖書の中にはありませんが、正統的なキリスト教信仰の中心的教理であるということは言うまでもありません。  では、紀元451年に開催された世界教会会議、カルケドン会議に至るまでの背景について、なぜ「真の神であり、真の人」という信仰告白が生まれたのかについて簡単に見ていきましょう。  主イエスの十字架の死と復活が紀元30年代の初めころ、その年のペンテコステの祭りの時(5月から6月にかけて)、弟子たちの上に聖霊が注がれ、エルサレムに世界最初の教会が誕生しました。教会はエルサレムからパレスチナ全域へと広がっていき、紀元40年代後半からはパウロの計3回にわたる世界伝道旅行がなされ、紀元60年代には小アジアからギリシャ、ヨーロッパへと拡大していきました。聖書の中のパウロの書簡はその時代に書かれていますが、その中には、すでにそのころからキリスト教の教えが様々な異端的な教えとの厳しい戦いにさらされていたということをわたしたちは読み取ることができます。  パウロが最も激しく戦った相手は主キリストの十字架を否定するユダヤ教徒であり、またその伝統に縛られて、律法や割礼を重んじていたいたユダヤ主義的キリスト者でしたが、それとは別に、当時のギリシャ思想の影響を受けたグノーシス主義者と呼ばれる人たちがおりました。彼らは主イエスの人性(人間であること)を軽視する傾向にありました。主イエスの人間性が軽視されると、主イエスが人となられたこと、苦難を受けられ十字架で死なれたこと、そしてそのお体が復活したことの意味が薄められ、キリスト教信仰の中心である罪の贖いと罪からの救いがあいまいにされてしまいます。それはキリスト教会にとっての危機でした。パウロはそのようなグノーシス主義者たちに対して、主イエスは真の神であられたが、また同時に真の人となられたことを力説したのです。 聖書を読んでみましょう。【ローマの信徒への手紙1章3~4節】(273ページ)。また、【フィリピの信徒への手紙2章6~8節】(363ページ)。  パウロ以後も、教会は「キリストとはだれか、どのような方か」に関して、いわゆるキリスト論に関する論争を続けました。それは主イエスの神性(神であること)と人性(人間であっること)をめぐっての論争でした。紀元3~4世紀で最も影響力があった異端的教えはアリウス(250/56~336年ころ)という人の説でした。彼は、主イエスの神性(神であること)を否定し、天地万物を創造された神だけが唯一の神であり、主イエスは神によって造られた被造物の一つであって、神ではないと主張しました。このアリウスの説に同調する者も多く、大論争になったために、紀元325年に、先ほど紹介したカルケドンと同じ小アジアにあるニカイアという町で世界教会会議が開かれ(これが最初の世界教会会議と言われる)、そこでアリウスの説は異端として退けられ、『ニカイア信条』が採択されました。この信条の最も重要なポイントは、主イエスが父なる神と全く同質(本質が同じ)であるという告白です。すなわち、主イエスは真の神であるという信仰告白が確定されたのです。  ニカイア教会会議以降もキリスト論論争は続けられ、451年のカルケドン会議で制定された『カルケドン信条』が、古代教会のキリスト論論争に終止符を打つこととなりました。その最初の部分をご紹介します。「我らの主イエス・キリストは、唯一同じなるみ子であって、神性においても完全、また人性においても完全である。真の神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間である。神性においては父と同一本質であり、人性においては我らと同質にして、罪を除くすべてにおいて我らと等しい」。ここに、日本キリスト教会信仰の告白の中にある「真の神であり、真の人」という語句があります。  『カルケドン信条』によって告白された「真の神であり、真の人」という信仰は、こののち今日に至るまで、正統的なキリスト教会の中心的な信仰告白となりました。いつの時代にも、ある人は主イエス・キリストの人性を強調して神性を弱め、またある人は神性を強調するあまり人生を軽視するという異端的な教えが教会を惑わしましたが、教会はいつの時代にも、古代の教会が長い信仰の戦いの中で勝ち取ってきた「真の神であり、真の人」という信仰告白の上に固く立って、正統的な信仰を守り通してきました。この信仰によってのみ、わたしたちの罪びとの完全な救いがあり、また永遠の命があると告白してきました。  また、16世紀の宗教改革の時代には、カルヴァンや彼の流れをくむ改革教会は、「真の神であり、真の人」という信仰告白を仲保者キリスト論との関連で展開しました。その代表例が、1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』です。神と人との間の唯一の仲保者であられる主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」として、神の義の要求を完全に満たし、罪びとに対する神の怒りと裁きとを完全に耐え忍ばれ、そのようにしてわたしたちの罪のための完全な贖いとなってくださったのです。わたしたち人間が犯した罪を、真の人間として担ってくださり、また同時に、真の神として罪と死とに勝利してくださいました。この神と人との間の唯一の仲保者主イエス・キリストによって、わたしたちは罪あるままで神に義と認められ、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によってわたしの罪がゆるされ、救われるのです。『日本キリスト教会信仰の告白』はこのような改革教会の信仰を受け継いでいます。  主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」であるという信仰が、確かに聖書全体が語り、証ししている信仰であるということをわたしたちはあらゆる個所から確認することができます。  マルコによる福音書1章1節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。主イエスは神のみ子であられましたが、一人の人間として、罪びとの中に入って来られ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられました。ガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教されました。主イエスは神の権威によって、神の生けるみ言葉を説教されました。主イエスがお語りになるみ言葉は、力があり、すべて実現しました。主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。  マタイ福音書とルカ福音書によれば、主イエスはおとめマリアの胎に聖霊によって宿り、真の人間として誕生されました。主イエスは人の子として、時に怒り、時に涙を流され、時に額に血のような汗を滴らせながら祈られました。真の人として、十字架で苦しみを受けられ、死んで、葬られました。主イエスのご生涯は、「真の神であり、真の人」としてのご生涯でした。  「真の神であり、真の人」であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちと神との間の唯一の仲保者として、神とわたしたちの間に立っておられ、わたしたちの罪を完全に贖ってくださり、わたしたちに罪のゆるしと永遠の命の保証を与え、わたしたちを神の国へと招き入れてくださる、わたしの唯一の救い主であられます。  (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、み子主イエス・キリストがわたしたちを罪から救うために人となられ、十字架で死んでくだったことを感謝いたします。どうか、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの十字架の福音が宣べ伝えられますように。住イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月11日説教「あなたの敵を愛しなさい」

2021年7月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記15章12~18節

    ルカによる福音書6章27~36節

説教題:「あなたの敵を愛しなさい」

 キリスト教は愛の宗教であると言われます。事実、愛は聖書の中心的な教えであると言えます。聖書の中には、「愛する」という動詞形と「愛」という名詞形の言葉が、旧約聖書と新約聖書で合計500回以上用いられていることからも、そのことが確認できます。愛という言葉が直接用いられていなくても、聖書はその全ページで愛について語り、また教えていると言ってよいでしょう。  聖書が語り、教えている愛は、まず第一には神の人間への愛です。神の人間への愛は、聖書の最初のページから読み取ることができます。創世記に書かれているように、神は人間をすべての被造物の頭(かしら)、冠として、ご自分のかたちに似せて、ご自分に最も近い生き物として創造されました。神はまた世界の民の中からイスラエルの民をお選びになりました。ここでははっきりと神の愛が語られています。申命記7章にはこのように書かれています。「主なる神があなたがたイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民とされたのは、あなたがたが大きな民であったからではない。あなたがたはどの民よりも貧弱であったが、ただ、あなたがたに対する主なる神の愛のゆえに、神はあなたがたを奴隷の家エジプトから導き出されたのだ」(6~8節参照)。人間に対するこのような神の愛は、新約聖書に至って、神がご自身のひとり子をわたしたち罪びとの救いのために十字架におささげくださったほどにわたしたちを愛されたということによって頂点に達しました。  聖書はまた、わたしたち人間が神を愛すべきこと、さらにはわたしたちが互いに愛し合うべきことをも教えています。申命記6章4、5節ではこのように命じられています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。また、レビ記19章18節では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられています。主イエスは、「神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」というこの二つの愛の戒めが旧約聖書の中で最も大切な戒めであり、旧約聖書全体の戒めがここに集約されているとお語りになりました(マタイ福音書22章37~40節参照)。旧約聖書と新約聖書の教え、そしてまた主イエスの教えの中心また全体が愛であるということを確認できたと思います。  そこで次に、きょうの聖書のテキストであるルカ福音書6章27節以下を読んでいくことにしましょう。この個所は、マタイ福音書5章からの主イエスの「山上の説教」に対応して「平地の説教」と呼ばれています。ここにはクリスチャンでなくても一般的によく知られた聖句がたくさんあります。「敵を愛しなさい」(27、35節)。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(29節)。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)。これらの聖句は、聖書を読んだことがない人でも、一般的な教訓として口に出すことがありますし、キリスト教の愛、キリスト教の倫理の特徴として取り上げられることもあります。 けれども、あまりにもよく知られているために、かえって安易に理解されたり、誤解されたりすることもあります。たとえば、キリスト教の愛を一つの理想として追い求めたり、あるいは人に愛を強要するためにこれらの聖句を持ち出したり、あるいはまた、非暴力主義とか無抵抗主義という言葉で説明されたりすることもあります。ドイツの哲学者ニーチェはこれらの主イエスの教えを「弱者の倫理」「敗北者の倫理」と批判しました。  しかし、わたしたちは主イエスのこれらの説教を正しく理解するために、主イエスご自身と主イエスの父なる神にまず目を向ける必要があります。主イエスは35、36節でこのように言われます。【35~36節】。このみ言葉から二つの重要な点を聞き取ることができます。一つには、主イエスがここで語っておられる愛は、本来は憐れみ深い天の父なる神から来るということです。二つには、主イエスはわたしたちを天の父なる神の子どもたちとなるように招いておられ、その神の愛へと招いておられるということです。つまり、わたしたちが真実の愛とは何かを考える場合、まず自分自身や人間から目を離して、天の神へと向けなればならない、主イエスへと目を向けなければならないということなのです。  わたしたち人間は、本来どのような者であるのか、またわたしたちの愛は本来どのようなものであるのかについて、32~34節で主イエスはこのように言われます。【32~34節】。自分を愛する人を愛する愛は罪びとの愛だと主イエスは言われます。自分によくしてくれる人に善いことをするのは罪びとの善意だと主イエスは言われます。返してもらうつもりで貸すのは罪びとの親切だと主イエスは言われます。それらはみな罪びとの愛であり、罪のこの世に属する愛であり、それがわたしたちの愛なのです。わたしたち人間の愛は、愛すべきものを愛します。美しいものとか、価値あるものとか、自分にとって何か益あるものを愛します。しかし、主イエスはそのような愛は真実の愛ではない、それがどんなにか強く、激しくあっても、それは罪びとの愛であって、罪と死と滅びとに支配されていると言われます。真実の愛とは何かを考える時、わたしたちはまず自らの愛の貧しさと破れを告白しなければなりません。主イエスがここでわたしたちに命じておられる愛は、そのような愛ではありません。天の父なる神、情け深く、憐れみ深い神から来る愛のことであり、そのような愛へと主イエスはわたしたちを招いておられるのです。  では、神の愛とはどのような愛なのでしょうか。その神の愛へとわたしたちを招くとはどういうことなのでしょうか。35節で、主イエスは父なる神を「いと高き方」と呼んでおられます。この神の呼び名は、旧約聖書の時代からイスラエルの民が用いていた伝統的な神のお名前の一つであり、その中には、神は人間が住んでいるこの地から遠く隔たった高い所におられ、この地上にあるどんなものよりもはるかに高く、偉大であり、力あり、聖なる方、永遠なる方であるという意味が含まれています。それゆえに、神は人間世界やこの地上にある価値基準、あるいは倫理や社会秩序をはるかに超えておられます。それゆえにまた、神は「恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」あることができるのです。そのような神の愛を、無条件の愛、無限の愛、一方的に神から与えられる愛ということができるでしょう。神の愛は、愛される対象によって左右されません。いやむしろ、神の愛は愛される価値がなく、小さなもの、貧しいものにこそ集中的に注がれるのです。  そして、そのような神の愛をわたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、いよいよはっきりと知らされました。いと高きにいます主なる神は、地に住むわたしたち罪びとと共にいますインマヌエルなる神となってくださり、天から下って来てくださいました。聖なる永遠の神が罪と死とに支配されているこの罪の世に人間のお姿でおいでくださったのです。ここに、すでに神の偉大な愛が現わされています。神はわたしたち人間がまだおのれの罪に気づかず、神を知らず、神に背いていた時に、ご自身のみ子主イエス・キリストをわたしたちの罪のための贖いの供え物として十字架におささげくださいました。ここに、神の無条件の愛、無限の愛、一方的に罪びとに注がれる愛があります。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる時、その神の愛が信じる者たちに注がれ、罪ゆるされ、救われるのです。  「あなたの敵を愛しなさい」と命じられる主イエスご自身が、罪なき神のみ子でありながら、敵対する者たちの侮辱とあざけりの中を十字架の死に至るまで従順に父なる神のみ心に服従され、わたしたち罪びとに対する愛を示されました。「あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」とお命じになった主イエスご自身が、十字架の上で「父よ、彼らをゆるしたまえ」と祈られ、わたしたち罪びとたちに対する無条件の愛、無限の愛をお示しくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストの愛によって、罪ゆるされ、救われるのです。これが35、36節で教えられている第一のことです。 第二のことは、主イエスはわたしたちを神の子たちとしてお招きくださり、神の偉大なる愛へとお招きくださるということです。神は恩を知らない者にも悪人にも、情け深く、憐れみ深いお方であるだけでなく、わたしたち信仰者をもそのような者になるようにとお招きになるのです。わたしたちをそのような者として造り変えてくださるのです。主イエス・キリストによって注がれた神の偉大な愛はわたしたちの罪をゆるし、わたしたちを神と結びつけ、わたしたちを神の子たちとするのです。  35節では、「あなた方はいと高き方の子となる」と言われ、36節では、「あなたがたの父が」と言われています。主イエスは説教を聞いている弟子たち、群衆、そしてわたしたちを、神の子たちと呼び、神をわたしたちの父と呼んでおられます。どのようにして、わたしたちは神の子たちとされるのでしょうか。もう少し深く探っていきましょう。ヨハネ福音書1章12、13節にこのように書かれています。【12、13節】(163ページ)。また、ヨハネの手紙一3章1~2節にはこう書かれています。【1節ab】(443ページ)。  わたしたちが神の子とされるのは、主イエスを信じる信仰によってであって、それ以外によるのではありません。また、わたしたちが神の子とされるのは神の大きな愛によるのであって、それ以外によるのではありません。父なる神の家から迷い出て、罪の支配下にあり、罪の子であったわたしたちを主イエスはご自身の十字架の死という尊い贖いの代価を支払って買い戻してくださいました。神の所有としてくださいました。この主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白することによって、わたしは神の子とされるのです。  神の子とされたわたしたちは、父なる神が情け深く、憐れみ深いように、わたしもまた隣人に対して愛と憐れみを示すことができます。なぜなら、わたしは罪の支配から解放され、自己中心的な自我から自由にされ、この世の欲望や所有欲からも解き放たれているからです。主イエス・キリストの十字架の福音に生かされているわたしたちは、喜んで神と隣人とに仕える者とされているからです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、愛の貧しさや破れを覚え、時に傷つき倒れるほかないるわたしたちを憐れんでください。わたしたちにあなたの真実な愛を注いでください。この世界をあなたの真実な愛で満たしてください。 〇主なる神よ、大きな試練の中にあって苦悩している日本とアジアと世界を顧みてください。あなたから与えられる慰めと平安といやしによって、まことの光と希望を見いだすことができますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月4日説教「約束の子イサク誕生の予告」

2021年7月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記18章1~15節    

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「約束の子イサク誕生の予告」  

きょうの礼拝で朗読された創世記18章14節のみ言葉にまず注目したいと思います。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。「主に不可能なことがあろうか」、この疑問文は、反語的な問いかけであって、「否、そんなことはない、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない」ということを強調しています。神の約束のみ言葉を聞いて25年近くになり、今ようやくそれが実現されるという神の確かなみ言葉を聞かされた年老いたアブラハムとサラは、何と幸いなことでしょうか。ルカによる福音書1章37節で、同じように「神にできないことは何一つない」というみ言葉を聞かされた主イエスの母となるおとめマリアは、何と幸いなことでしょうか。そして、また、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というみ言葉を礼拝の冒頭で聞かされているわたしたちは、何と幸いなことでしょうか。わたしたちはこのみ言葉を聞き、信じるために、きょうの礼拝に招かれているのです。このみ言葉を聞くことができる場、またこのことを信じる信仰へと招かれる場は、教会の礼拝以外にはありません。もし、わたしの耳に他のすべての言葉が聞こえず、あるいは他のすべての言葉が空しく消え去っていくしかないと思われる時でも、この神のみ言葉が強く響いているならば、それは何と幸いなことでしょうか。また、もしわたしが他のすべての言葉が信じられなくなり、絶望するほかない時でも、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というこのみ言葉が信じられているならば、何と幸いなことでしょうか。  わたしたち人間にとっては、不可能なことは何一つないということは決して当てはまりません。むしろ、わたしたちはたくさんの不可能に取り囲まれており、時としてそのことがわたしを苦しめ、不安にし、いらだたせます。わたしが長く願ってきたこと、努力してきたこと、それらの多くは未だに実現していませんし、将来とも実現の可能性がないように思われます。その中には、いくつかの非常に切実な願いがあり、また信仰的な願いや祈りもあります。確かに、わたしたち人間は多くの不可能に取り囲まれているのです。真剣に人生に取り組もうとすればするほど、まじめに生きようとすればするほど、自分の能力の及ばないことがどんなに多くあるかを知らされると言ってよいでしょう。  しかし、わたしたち人間にとってはそうであることが確かだとしても、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない、神のみ言葉には不可能はない、神がお語りになったことはことごとく実現するということを、聖書はくり返して語っています。そして、たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたちにも、その神のみ言葉を聞き、「神には何も不可能はない」ということを信じる可能性は残されているという事実をわたしたちは思い起こすべきです。おそらくは、これこそがわたしたちに与えられている最大の可能性なのではないでしょうか。「主なる神には不可能はない」という聖書のみ言葉を聞き、それを信じることができるという大きな可能性へと、わたしたちはきょうの礼拝で招かれているのです。  では、アブラハムにとってこのみ言葉はどのような意味を持つのでしょうか。彼は75歳の時、神の約束のみ言葉を最初に聞き、それを信じて故郷カルデアのウルを旅立ち、神が示されたカナンの地へと移り住みました。神の約束の一つは、アブラハムの子孫を星の数ほどに増やし、神の祝福を受け継がせるということ、もう一つは、カナンの地を彼と彼の子孫との永遠の嗣業の地として受け継がせるということでした。けれども、それから25年近くが過ぎても神の約束はまだその実現を見ていませんでした。アブラハムも妻サラも年老いて、人間としての能力からみれば、子孫を授かるということは全く不可能な年齢に達していました。  そのようにして、アブラハムには全く可能性がなくなった時に、「主にとって不可能なことがあろうか」というみ言葉が語られ、「来年の今ごろ、あなたの妻サラには必ず男の子が生まれている」という神の約束の成就のみ言葉が語られているのです。わたしたちはここに至って、神の約束の実現が25年間もの長い間延期されてきたのは、アブラハムがこの神のみ言葉を聞き、信じるためであったのだということに気づかされるのです。「主なる神にとっては何一つ不可能はない」。アブラハムの不可能性のただ中で、全能なる神の可能性について語られているのです。いや、それだけではありません。このみ言葉はアブラハム個人に対して語られているだけでなく、すべての時代のすべての信仰者にとっての永遠の真理として語られている偉大な神のみ言葉なのだということに気づかされるのです。  さらにここで気づかされるもう一つのことは、全能なる神の可能性ついて語られる時、アブラハムの不可能が可能に変えられることになったということです。100歳と90歳という高齢の夫婦に神の奇跡によって子どもが与えられるようになるというのです。あらゆる不可能に取り囲まれているわたしたち人間に対して全能なる神の可能性が語られる時、わたしの不可能が可能に変えられるということなのです。そのようにして、神のみ言葉を聞き、信じるわたしたちのために、神は無から有を呼び出だし、死から命を生み出されます。  18章の冒頭を読んでみましょう。【1節a】。主なる神がアブラハムに現れて、彼と出会われることから、不可能のただ中にいたアブラハムに新しい可能性が開かれました。たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたち人間に神が出会ってくださり、神の命のみ言葉を語ってくださり、それをわたしたちが聞き、信じる、そこからわたしたちの新しい可能性の道が開かれていきます。  神はここで3人の旅人の姿でアブラハムに出会われます。神は時に天使の姿で、あるいは人間の姿で、あるいはまた自然現象の雲や風、火、雷などによっても信仰者と出会ってくださいます。アブラハムは初めはそれが神の使い、あるいは神ご自身だとは気づいていなかったようです。いつの時点で気づいたのかは聖書の記述からは分かりません。2節では「三人の人」と書かれています。そのあとでは「その人たちは、彼らは」と言われています。10節でそのうちの一人が語ります。ところが、13節になって「主はアブラハムに言われた」と書かれ、14節では「わたしはここに戻ってくる」と言っています。16節以下のソドムに関する箇所では、16節では「その人たち」、17節では「主は」、19章1節では「二人の御使い」と言われていますが、それらはすべて神ご自身のことです。  パレスチナ地方の南部の夏の時期は非常に暑く、当時の遊牧民は昼にはテントの中で休んでいるのが一般的でした。アブラハムはテントの入り口で目を上げて3人の旅人が彼に向かって立っているのを見ました。昼の暑い中を旅行することはめずらしいことですし、またアブラハムがたまたま目を上げたら目の前に3人の旅人が立っていたということも不思議です。アブラハム自身はまだそのことに全く気づいてはいなかったのですが、神はこのようにして彼と出会われたのです。ヘブライ人の手紙13章1~2節には、おそらくこの場面を想起して、このように書かれています。「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」。  旅人や客人を丁寧にもてなすことは古代近東諸国の遊牧民では一般的な慣習でした。そのことは、アブラハムとイスラエルの民にとっては特に意味あることであったということをわたしたちは知っています。アブラハム自身、このカナンの地で長く寄留者、旅人として過ごしてきました。また、イスラエルの民は400年間エジプトで寄留者として過ごし、そののちに主なる神によってそこから導き出されたという経験を持っていたからです。そこで彼らは旅人や寄留者をもてなすことを神から命じられていたのです。それは、神の導きと救いのみわざを忘れないためです。  アブラハムが3人の旅人たちを最大限の愛をもってもてなす様子が、生き生きと描かれています。彼はまず旅人の足を洗います。客人を木陰で休ませてから、急いで食事の用意に取りかかります。料理を並べてからは客人のそばで給仕をします。アブラハムは100歳近い老人とは思えないほどに、俊敏に行動していることがここでは強調されています。2節には「アブラハムはすぐに天幕の入口から走り出て迎え」とあり、6節には「アブラハムは急いで天幕に戻り」、サラには「早く」と命じ、7節でも「牛の群れのところに走って行き」、「急いで料理させた」と書かれています。アブラハムは若者のように、新しい命を注ぎ込まれた人のように行動し、客人たちをもてなしています。イザヤ書40章31節のみ言葉を思い起こします。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神を信じる信仰者に与えられる力、命、希望です。 食卓でのアブラハムと客人の会話を読んでみましょう。【10~15節】。この突然の訪問者はアブラハムの妻がサラという名前であることを知っています。また、二人には子どもがいないということ、子どもが与えられるという神の約束が二人に語られていたということをもこの訪問者は知っているようです。それだけでなく、一年後には子どもが与えられるという話を聞いた時に、サラが天幕の入り口で笑ったということまでをも、彼らは見ています。それもそのはずです。主なる神はすべてを見ておられ、すべてをなさいます。神はアブラハムに対する約束を必ず実行されます。彼らの不可能を超えて、彼らの不信仰を超えて。 サラが笑ったのは、不信仰の笑いです。神のみ言葉がこの年老いたわたしの身に成就することなどあり得ないと考え、神には不可能なことは何一つないということを信じることができない疑いの笑いです。この個所では、アブラハム自身の反応については書かれていませんが、17章17節には、神の約束のみ言葉を聞いた時にアブラハムも笑ったと書かれていました。アブラハムにとっても妻サラにとっても、自分たちの現状を知っている彼らにとっては、「主に不可能なことがあろうか」というみ言葉を聞くことは大きな驚きであり、信じがたいことであるには違いありません。神のみ言葉の真実の前では、人間の不信仰と罪が浮き彫りになります。しかしまた、神はそのような人間たちの不信仰と罪の中で、彼らを通して、み言葉を成就さるのです。神にとっては不可能なことは何一つありません。わたしたちはそのことを信じる信仰へと招かれています。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天においてすべてのみ心を行われます。また、あなたは天において地の出来事のすべてをご覧になっておられ、すべてのことを知っておられます。主なる神よ、どうぞわたしたちを顧みてください。わたしたちを憐れんで、罪の世からわたしたちをお救いください。あなたがこの地ですべての人たちのために救いのみわざを行ってください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。