2月28日説教「アブラハムの信仰が義と認められた」

2021年2月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記15章1~6節

    ローマの信徒への手紙4章1~12節

説教題:「アブラハムの信仰が義と認められた」

 創世記15章では、神がアブラハムにお与えになった二つの約束がテーマになっています。その一つは、1~6節で、神がアブラハムに祝福を受け継ぐ子孫をお与えになるという約束、二つには、7節以下で、神がアブラハムと彼の子孫に約束の地カナンを所有の地としてお与えになるという約束です。この二つの約束については、これまでにも二度聞いてきました。最初は12章1~3節、彼が最初に旅立った時に聞いたみ言葉です。次は13章14~17節、彼が甥のロトと別れたあとに聞いたみ言葉です。そして、きょうの個所で三度目になります。さらに、17章でも繰り返されます。

このアブラハムへの約束、これをアブラハム契約と言いますが、この約束はアブラハムの子イサクへ、さらにイサクの子ヤコブへと受け継がれていきます。神の約束のみ言葉は人を超え、世代を超え、時代を超えて、受け継がれていきます。そして、わたしたちが知っているように、アブラハム契約はイスラエルの民へと受け継がれ、主イエス・キリストによって全世界の教会へと受け継がれているのです。アブラハム契約は主イエス・キリストの福音によって完全な意味でわたしたち教会の民に成就されました。

 きょうは15章1~6節を学びますが、まず6節のみ言葉に注目したいと思います。【6節】。ここに書かれているみ言葉が、のちのキリスト教会の歴史の中で、いかに偉大なみ言葉となったかということについて、どれほど強調しても強調しすぎることはないと言ってよいでしょう。アブラハムからおよそ2千年後になって、使徒パウロはこのみ言葉をローマの信徒への手紙4章3節とガラテヤの信徒への手紙3章6節で取り上げ、彼の二通の手紙の主題をこのみ言葉を土台にして展開しています。ローマの信徒への手紙4章1~5節を読んでみましょう。【1~5節】(278ページ)。

そしてさらに、使徒パウロから1500年ほどあと、宗教改革者マルチン・ルターとジャン・カルヴァンはローマ・カトリック教会の中で長く見失われていたこのみ言葉の偉大さを再び見いだしました。彼らはそれを、「ただ信仰のみ」という標語で言い表しました。「ただ信仰のみによって、罪びとは神に義と認められ、罪ゆるされ、救われる」というキリスト教の教えの中心を彼らは再構築しました。これを一般に「信仰義認」と言います。

創世記15章に書かれているアブラハムの信仰、そして使徒パウロが主イエス・キリストの福音によってより明確にした福音的信仰、さらに宗教改革者たちが再発見したプロテスタント福音信仰を、彼ら宗教改革者たちは「ただ信仰のみ」という言葉で強調しましたが、それを彼らはまた、「ただ神の恵みのみ」「ただ神のみ言葉のみ」という言葉で深めました。アブラハムは神のみ言葉を聞き、それを信じました。神のみ言葉は神から一方的に与えられる神の恵みです。アブラハムはそれを信じて、神の恵みを受け入れました。神はそのアブラハムの信仰を義と認められ、彼に救いの恵みをお与えになりました。すべての信仰者は、わたしたちもまた、そのようにして、ただそのようにして、「神のみ言葉によって、神の恵みによって、それを信じる信仰によって」、罪ありながらも、神によって義と認められ、罪ゆるされ、救われるのです。

『日本キリスト教会信仰の告白』はそれをこのように告白しています。(礼拝堂の椅子のポケットに入っているプリントを参照してください)。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。これがアブラハムの信仰を受け継ぎ、使徒パウロが主キリストの福音を信じる信仰によって明確にし、宗教改革者たちが再発見したわたしたちの教会の信仰です。ここに、ただここにだけ、真実の救いがあり、アブラハムから受け継いだ神の祝福があり、神が約束しておられるみ国の民とされる保証があるのです。

では、どのような状況の中で、どのようにして、アブラハムの信仰が義と認められたのかを、1節から読んでいきましょう。【1節】。「主の言葉が臨んだ」という表現がここでは用いられています。これまでは、「主が言われた」という表現でしたが、「主の言葉が臨んだ」を直訳すると、「主の言葉がアブラムの上にあった」となり、神のみ言葉が上からアブラハムを覆い、彼を上から支配していることが強調されているように思われます。「幻の中で」という言葉も、同じことを強調していると思われます。アブラハムはこの時あたかも眠っているかのように、無意識のうちにと言うか、彼自身の意志とか思いとかをはるかに超えた神のみ言葉の圧倒的な力、神の意志、神のみ心がここでは強調されているのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているということにまず注目したいと思います。

神は言われます。「恐れるな、アブラムよ」と。と言うことは、アブラハムはこの時、何かを恐れていたということになります。何を恐れていたのかについては分かりません。生まれ故郷のカルデヤのウルを出発し、放浪の旅を続けて10年、20年が過ぎて、いまだに続く不安定な生活を恐れていたのか、あるいはいまだに神の約束は一つも実現していない、約束の地を所有することもできず、約束の祝福を受け継ぐ子どもも与えられないという神のみ言葉への不信からくる恐れなのか、その他さまざまな恐れが予想されますが、ここには何も説明されていません。

わたしたちはここに書かれているみ言葉から考えるのがよいでしょう。すなわち、「主の言葉がアブラムに臨んだ」、そのことのゆえに彼は恐れたのだと。それこそが聖書の言う「恐れ」なのだということに、わたしたちは気づかされます。神が人間アブラハムにみ言葉をお語りになる時、神のみ言葉が強い力をもってアブラハムの上を覆う時、彼は恐れざるを得ません。天におられる聖なる神が地に住む罪びとである人間に語りかけ、ご自身のお姿を現される時、人間は恐れざるを得ません。神が人間に出会われる時、神が人間にみ言葉をお語りになる時、わたしたちはみな恐れざるを得ません。その時わたしたちは「神よ、わたしは罪にけがれた者です。あなたのみ前では滅ぶべき者です。わたしを離れてください」と告白し、恐れおののきつつ、神のみ前にひれ伏さざるを得ません。そして、これがわたしたちの礼拝の姿勢です。

その時、神は「恐れるな」と言われるのです。「恐れるな」とは神の命令です。恐れを禁止するだけでなく、同時に恐れを取り除く、神の命令です。「あなたはもはや何ものをも恐れるには及ばない。恐れるべきではない。恐れなくもよい」。これは、慰めと憐れみに満ちた神の命令です。神の「恐れるな」との命令を聞く者は幸いです。その人はこのみ言葉によってすべての恐れから解放されるからです。神を恐れ、神から「恐れるな」とのみ言葉を聞く人は、他のいかなるものをも恐れるには及びません。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

神は続けてアブラハムに語られます。「わたしはあなたの盾である」と。盾とは敵の攻撃から身を守るものです。アブラハムを襲うであろう攻撃や誘惑、あるいはさまざまな恐れや不安、それらからアブラハムを守り、彼を幸いな道へと導くために、神はアブラハムの盾となって働かれるという約束です。

それゆえに、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と神は言われます。この場合の「報い」とは、アブラハムの何らかの功績に対する報酬ではなく、神から一方的に差し出される恵みのことです。神ご自身がアブラハムのために勝ち取ってくださった恵みのことです。それゆえに、その恵みはアブラハムが努力して得られるどんな恵みよりもはるかに大きな恵みであると言われているのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

神の大きな恵みを約束されたアブラハムは驚き、自分がそれを受けるに値しない者であることを告白せざるを得ません。【2~3節】。「あなたの子孫を永遠に祝福する」と約束された神は、いまだにアブラハムに子どもをお授けになりません。アブラハムはこの時すでに百歳近くになっており、妻のサライは11章30節によれば、子どもができない体質でした。彼らに子どもが生まれるという人間的な希望や可能性は全くありませんでした。当時の習慣によれば、家に家督を継ぐ男の子が生まれない場合には、家の奴隷の男の子を養子にすることが定められていました。アブラハムもまたそのようにして家を絶やさないようにするほかにないと考えていたのでした。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

【4~5節】。人間的に見れば、全く希望がなく可能性もないような、そのような人間の無力と絶望の中で、またもや神のみ言葉がアブラハムの上に臨みました。神の命と恵みに満ち溢れたみ言葉が、アブラハムの上を覆い、彼を包み、彼を希望と喜びに満たすのです。神のみ言葉は、無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。時あたかも、深夜、一面暗闇に閉ざされている世界で、神は「天を仰いで、空の星を見よ。その星の数を数えてみよ」とお命じになります。これは、何とも生き生きとした、印象深い情景であることでしょうか。おそらくは、4千年前にアブラハムが見た夜空の星と、今日わたしたちが見る夜空の星とは、ほとんど変わりはないでしょう。わたしたちはここに描かれている情景を、そっくりそのまま今日自ら再現することができるでしょう。「あなたの子孫はこのようになる。あなたが受ける恵みはこのように多く、大きい。あなたに約束されている祝福はこれほどに豊かで、光輝いている」。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中でわたしたちのためにも語られているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人にお与えくださった大きな恵みを、心から感謝いたします。わたしたちはあなたの恵みを受けるに値しない弱く貧しい者たちですが、あなたの限りない憐れみと愛とを覚えて、み前に恐れおののきつつ、ひれ伏す者であります。

〇主なる神よ、わたしたちがあなたの恵みの応えて、喜んであなたのみ心を行い、あなたのご栄光を現す者となりますように、お導きください。

〇神よ、日本とアジア、全世界に建てられている主キリストの教会とその地に住むすべての人々を憐れみ、顧みてください。特にも、小さな、弱い者たち、貧しく、傷ついている人たち、迷い、苦しんでいる人たちの上に、あなたの恵みと祝福が豊かに注がれますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月21日説教「初代教会の信者たちの生活」

20201年2月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記8章1~10節

    使徒言行録2章42から47節

説教題:「初代教会の信者たちの生活」

 使徒言行録2章42~47節には、ペンテコステの日に誕生したエルサレム教会(これを原始教会とか初代教会とも言います)の信者たちの生活についてまとめて報告されています。同じようなまとめがこのあとにも続きます。4章32節以下、ここでもきょうの個所と同様に信者たちの一致が強調されています。次は6章7節、9章31節でも、それまでの初代教会の歩みがまとめられています。使徒言行録の著者であるルカは、本職は医者だったと推測されますが、歴史家の能力をも発揮して、初代教会の歴史を一つの一つの段階を経て進展していく歴史書として記述しています。

ちなみに、日本語の聖書では2章42節と43節の間に段落をもうけていますが、42節から最初のまとめの報告が始まっているという理解が一般的です。42節では初代教会の主な特徴が4つ挙げられていて、43節からはその具体的な内容が書かれていると考えられるからです。前回、そのうちの1番目と4番目について学びましたから、きょうは2番目と3番目、「相互の交わり」と「パンを裂くこと」を中心に学んでいくことにします。

相互の交わりについては44節以下に詳しく書かれていますが、その前に43節を読んでみましょう。【43節】。「恐れ」とは、神に対する恐れのことです。教会は、エルサレム初代教会から今日のすべての教会に至るまで、神への恐れが満ちている場所です。この点において、教会はこの世の他のすべての社会や集団から区別されます。この世では、暴力的な権力者を恐れるとか、集団の損失を恐れたり、あるいは突然の事故や自然災害、また病気を恐れたり、老いや死を恐れるということもあります。けれども、それらの恐れは神を恐れる恐れとは根本的に違います。神を恐れるとは、人間やこの世にあるものすべてをはるかに超えた絶対他者であり、いと高き天にいます全知全能の神を唯一の主と崇め、この神が全地を永遠に支配しておられことを信じ、この神に服従するという信仰から生じる恐れのことです。それゆえに、この神を恐れ、この神に従う人は、他のいかなるものをも恐れる必要はなくなります。教会はこのような神への恐れに満ちている場所であり、それゆえに他のいかなるものをも恐れない信仰者の群れなのです。

この恐れは43節の後半によれば、「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われた」ことから生じたと書かれています。「不思議な業としるし」とは、神が使徒たちをお用いになってなされた驚くべき奇跡のみわざのことです。使徒言行録にはこのあと、そのような多くの奇跡のみわざが記されています。主イエスの場合がそうであったように、奇跡やしるしは神の国が到来したことの目に見えるしるしです。主イエスがこの世においでになられたことによって、それまで世界を支配していた悪やサタン、罪や悪しき霊がその力を失い、神の恵みのご支配が始まった、神の国が到来したことの目に見える、確かなしるしとして、驚くべき奇跡や不思議なみわざが行われました。それらの不思議と奇跡の中心が神のみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活であると言えるでしょう。

次の44節からは、エルサレム教会・初代教会の相互の交わりについて具体的に描かれています。【44~45節】。「一つになって」という言葉は、初代教会の信者たちの一致と団結を言い表す専門用語で、使徒言行録では多く用いられています。1章15節、2章1節にも同じ言葉がありました。信者たちがいつも同じ場所で寝泊まりするという共同生活をしていたのではありませんでしたが、彼らは何かによって固く一つに結び合わされているかのように団結していたことが強調されたいます。その何かとは、言うまでもなく、教会の頭(かしら)である主イエス・キリストによる一致であり、主キリストによって罪ゆるされている救いの恵みによって与えられている一致であり、聖霊なる神によって結ばれた信仰の交わりによる一致です。罪のゆるしがあるところに真の一致があります。と言うのは、罪は神と人間との関係を破壊し、人間と人間との関係をも破壊するからです。主キリストの十字架の福音によって罪ゆるされ、神との交わりを回復され、神の民、神の家族とされるところにこそ、真の一致が与えられるのです。

「すべての物を共有にし」ていたことは、エルサレム教会の信者たちの生活の最も大きな特徴であったと言ってよいでしょう。4章32節でも「すべてを共有していた」と書かれています。これが具体的にどのようなことであったのかについては、理解に多少の違いがあります。これは一般に原始エルサレム教会の共産主義と呼ばれたりしますが、それが個人の財産の所有を全く禁止していたのかどうかが議論されています。45節の表現や5章のアナニアとサフィラ夫妻が土地を売ったがその代金をごまかして一部だけをささげたという記録などから推測すれば、信者たちはそれぞれの財産を所有しながら、必要に応じてそれを売却し、貧しい信者に分配していたと思われるので、厳密な意味で個人の所有を禁じていたのではないように思われます。キリスト教社会経済学者のマックス・ヴーバーはこれを「愛の共産主義」と名づけています。法的な意味での私有財産禁止とか、制度的な共産主義ではなく、神と臨人への愛によって、自由な愛の意志によって自分の財産を差し出し、教会全体のためにささげるということであったのではないかと、ヴーバーは推測しています。

いずれにしても、わたしたちがここから読み取ることができることは、初代教会の信者たちは所有欲から全く解放されていた、地上の財産を所有することを生きる第一の目的としてはいなかったということです。彼らは主イエスが言われたように、天に宝を積むことを第一にしていました。天にある朽ちることのない財産を受け継ぐことを喜びとしていました。それによって彼らは地上の朽ちる命ではなく、天に蓄えられている朽ちない永遠の命を追い求めていたのです。そして、自分の持ち物を惜しみなく教会全体のためにささげていたのです。

もう一つの初代教会の特徴は、パンを裂くことでした。46節にそのことが具体的に記されています。【46節】。パンを裂くとは、主イエスが制定された聖晩餐のことです。主イエスは十字架につけられる前日の木曜日の夕方、弟子たちと一緒に最後の晩餐を囲まれました。その晩餐はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの食事であったと共観福音書は記しています。その席で主イエスはパンを裂かれ、弟子たちに渡され、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしを記念するために、このように行いなさい」と言われ、またぶどう酒の杯を取られ、「この杯はあなたがたのために流すわたしの契約の血である」と言われました。初代教会はこれを聖晩餐として受け継ぎ、そして今日に至るまで2千年間世界の教会は聖餐式として受け継いできました。聖餐式は主イエスの十字架の死によって与えられた救いの恵みを目で見、口で味わい、共に一つの食卓を囲む一つの群れであることを体験することによって救いの恵みをより確かにする聖礼典です。

「家ごとに集まってパンを裂き」とあるように、エルサレム初代教会はまだ共に集まる会堂を持っていませんでしたから、家々に集まり、礼拝をささげ、聖餐式を守っていました。また、「喜びと真心をもって一緒に食事をし」とあるように、初代教会では聖餐と普通の食事(これを愛餐と呼んだりしますが)とを同時に行っていたらしいということが、パウロの書簡などからも推測されています。その後、聖晩餐と愛餐とは次第に分離されるようになり、聖餐式が教会の聖礼典として受け継がれるようになりました。でも、聖餐式が一つの食卓を囲む共同の食事であり、終わりの日の神の国での盛大な祝宴を先取りするものであるということは変わりません。

初代教会の信者たちは聖晩餐と愛餐を喜びと真心とをもって行っていました。彼らを満たしている喜びは、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって救われた喜びであり、また復活された主イエス・キリストが今ここで現臨しておられ、信じる者たちに復活の希望を与えてくださる喜びであり、そして終わりの日に完成される神の国での祝宴を先取りし、それに招かれていることの喜びです。教会はこの喜びに満たされている信仰共同体です。わたしたちの教会の礼拝と聖餐式にも同じ喜びが与えられています。

ここでもう一度、42節のまとめの句を読んでみましょう。【42節】。まず使徒の教えが挙げられています。使徒の教え、すなわち主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音の説教が教会の土台だということです。教会の礼拝では主のみ言葉の説教が語られ、そのみ言葉によって罪ゆるされた信仰者たちの愛の交わりがあり、そして聖餐式、共同の祈りもまたみ言葉の説教との密接はつながりの中で、そのみ言葉に導かれながら行われるのです。

特に、み言葉の説教と聖餐式とのつながりをわたしたちプロテスタント教会は重視してきました。と言うのは、かつてローマカトリック教会がこの二つを分離して、聖餐式だけを重んじていたからです。カトリック教会ではミサと言いますが、ミサだけで礼拝全体を指すようになり、み言葉の説教は行われなくなりました。み言葉の説教を取り戻したのが宗教改革です。宗教改革は福音の再発見であったとともに、礼拝の改革でもあったのです。み言葉の説教を耳で聞き、信じ、それに加えて聖餐式が目で見るしるしとして、わたしたちの信仰をより確かにし、強めるのです。み言葉の説教と聖餐式の結びつきが重要です。

最後に【47節】。教会の伝道のわざ、宣教のわざは、本来主なる神ご自身がなしてくださいます。わたしたち教会に連なる信仰者たちは、そのことを信じて主なる神にお仕えするのです。神ご自身が、日々、信じ救われる仲間を増し加えてくださいます。そのことを信じて、わたしたちは礼拝からこの世へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが聖霊によってお建てくださったこの教会をどうぞ守り導いてください。この時代の中で、この地域の中で、主イエス・キリストの福音を力強く宣教し、あなたの救いのみわざのためにお仕えしていくことができますように。

〇主なる神よ、日本と世界の教会を顧みてください。新型コロナウイルス感染症の拡大によって、共に集まる礼拝や聖餐や祈りが制限され、その他の教会の活動が制限され、多くの困難に直面しています。どうか世界の教会がこの試練の中で、いよいよ主なるあなたのみ言葉と聖霊のお導きに信頼して、あなたから託されている宣教の務めを果たしていくことができますように、勇気と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月14日説教「安息日の主、イエス・キリスト」

2021年2月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上21章1~7節

    ルカによる福音書6章1~5節

説教題:「安息日の主、イエス・キリスト」

 ルカによる福音書6章1節に、「ある安息日に」とあり、続く6節にも、「また、ほかの安息日に」と書かれています。ここには、安息日をめぐっての主イエスとファリサイ派・律法学者たちとの二つの論争が書かれています。彼らは主イエスと弟子たちが安息日の律法を守っていないと批判しています。安息日をめぐっての論争が二つ続けられていることには理由があります。ユダヤ人にとっては、安息日の律法を守ることは非常に重要であり、自分たちが神に選ばれた特別な民であることの根拠であったからです。もし、主イエスが安息日律法を正しく守っていないならば、彼はユダヤ人の宗教的指導者ではあり得ないし、旧約聖書で約束されたメシア・キリスト・救い主でもあり得ない、とファリサイ派・律法学者たちは考えたのです。しかし、主イエスはこの二つの安息日論争によって、主イエスこそが安息日の主として、安息日律法を完全に成就するメシア・キリスト・救い主であることを証しされました。

 安息日の律法とは、出エジプト記20章8~11節に、モーセの十戒の第四の戒めとして定められています。その個所を読んでみましょう。【8~11節】(126ページ)。また、申命記5章15節では、安息日を守る理由・目的としてこのように説明されています。【15節】(289ページ)。

 安息日とは、神の天地創造のみわざを覚え、自分たちの命と存在のすべてが造り主なる神のみ手の中にあることを感謝し、この神を礼拝するために備えられた日なのです。また、神がイスラエルの民を奴隷の家エジプトから導き出された神の救いのみわざを覚え、感謝して、神を礼拝する日なのです。イスラエルの民はこの安息日律法を守ることによって、神から与えられた命と祝福のうちに歩み、神の救いの恵みを受け、神との契約の民として生きていくのです。安息日律法を軽視したり、これを守らない人は、神から与えられる命と救いの恵みから除外されるだけでなく、イスラエル信仰共同体から除外されなければなりません。安息日律法を守ることこそが、彼らの信仰の源、命であり、彼らの信仰そのものでありました。

 イスラエルの民ユダヤ人にとっての安息日は土曜日でしたが、教会の民キリスト者にとっては日曜日が主イエス・キリストの復活を記念する新しい安息日となりました。曜日は変わりましたが、旧約聖書時代の安息日の基本的な意味は受け継がれました。さらには、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、安息日の意味はイスラエルの民だけでなく、全人類のすべての人に及ぶようになりました。全世界の教会の民もまた、新しい安息日である主の日の礼拝を守ることによって、神の民として生き続けていくのです。

 では、きょうのみ言葉を読んでいきましょう。【1~2節】。主イエスの時代のファリサイ派・律法学者たちは安息日律法を重んじていることを強調するために、旧約聖書に定められている安息日の規定をより細かくして、安息日に禁止されている仕事や行動を39項目挙げ、それにさらに39の細則をつけ、合計1500以上の規則を作っていました。それによれば、弟子たちの行動はいくつもの違反に当てはまります。麦の穂を摘むことは安息日に禁止されている収穫作業になります。手でもむことは脱穀やふるいにかける行為、あるいは食事の準備をする行為、これらも安息日律法に違反することになります。ファリサイ派・律法学者たちはそのことを非難します。

 ここで一つ確認しておくべきことがあります。弟子たちが歩きながら道端の麦の穂を摘んで食べる行為そのものが律法の違反になることではなかったということです。旧約聖書の律法によれば、それは貧しい人たちにゆるされていることでした。申命記23章25、26節を読んでみましょう。【25~26節】(317ページ)。さらに、【24章19~22節】(319ページ)。

神の律法は土地所有者の財産や収穫物を守るためにあるのではなく、むしろ財産を持たず、きょう食べるものにも事欠く貧しい人たちに対する神の愛と憐れみを示すため、また互いに分かち合う隣人愛を示すための律法だということが分かります。そして、最終的にはイスラエルの民を奴隷の家エジプトから強いみ手をもって導き出された神の栄光を現すための律法だということです。

この観点から、安息日律法をも考えなければなりません。すると、どうでしょうか。ファリサイ派・律法学者たちが安息日律法を聖書に書かれているよりもさらに細分化して、安息日に禁止されていることを細かく定め、人々に律法の重荷を負わせようとしていたこと、また細かな規定を一つ一つ守っていることを誇る人間の傲慢を養ってきていたこと、それは神が本来定められた律法の基本精神からは全く外れていたこということが明らかになってくるのではないでしょうか。神の律法は本来、神の豊かな救いの恵みに生きるために、また神の憐れみがいと小さな人にまで及ぶために、そして神の民が共に神の恵みと愛と憐れみの中で生きるために定められているのです。

安息日律法もそうです。神に創造されたわたしたち人間が神から与えられた祝福された命を生きるために、また神の救いの恵みからそれることなく、神の平安と喜びの中で共に生きる人間たちであるために、神は安息日律法をお定めになったのです。安息日は人間をさまざまな重荷から解放し、自由にし、すべての恐れや不安からわたしたちを解き放ち、喜びに満たすための律法なのです。

主イエスはファリサイ派・律法学者たちの批判にどのようにお答えになったでしょうか。【3~5節】。主イエスがここで取り上げておられるダビデの行動については、サムエル記上21章1節以下に書かれています。ダビデはサウル王から迫害を受け、逃れていましたが、彼はある日、祭司アヒメレクの所に行き、祭司以外は食べてはならない神にささげられた聖別されたパンを食べることを許されました。それは、彼が空腹であったからという理由によるだけでなく、ダビデが神とイスラエルの民全体に仕える祭司の働きをする者として認められたからでした。ダビデはのちになって、サウルに代わって全イスラエルの王となり、またエルサレムに神殿を建設しました。ダビデが神によって選ばれ、イスラエルを治める王として、また神と民とに仕える祭司として、この時すでに定められていたのです。

主イエスは旧約聖書のこの出来事を引用したあとで、「人の子は安息日の主である」と宣言されました。「人の子」とは主イエスご自身のことです。このみ言葉には多く意味が含まれています。第一には、主イエスこそが人となられた神のみ子であれら、神が救いのご計画を完成されるためにこの世にお遣わしになったメシア・キリストであるということです。そして、第二には、ダビデ王よりも偉大な神のみ子・メシア・キリストが今ここにいるという宣言です。主イエスはイスラエルの王ダビデよりも偉大な神の国の王であられます。また、ダビデよりも偉大な大祭司であられます。神のみ子が人の子としてこの世においでになられた主イエスは、ダビデよりも偉大な王・大祭司として、安息日律法のすべてを成就されるという宣言がここでなされているのです。

ダビデはイスラエルの偉大な王でした。神はダビデをお選びになり、ダビデと契約を結ばれ、「わたしはあなたの身から出る子孫に跡を継がせ、あなたの王国を永遠に固く据える」と約束されました(サムエル記下7章12節以下参照)。これが、ダビデ契約と言われている神の契約です。そのダビデの家系から人の子としてお生まれになられた主イエスは神の国の永遠の王としてこの世においでになり、ダビデに対する神のお約束を完全に成就されました。ダビデはまた祭司の務めをも果たし、神とイスラエルの民とに仕えましたが、人の子としたお生まれになられた主イエスは永遠の大祭司としてご自身の命と清い血とをささげられ、すべての人の罪を永遠にあがなわれました。

この主イエスこそが、安息日の主であれらます。すなわち、神が安息日律法をお定めになられたその意図、目的を最終的に、完全に成就され、完成されたのです。主イエスによって、神の創造のみわざが完成されます。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、人間の罪のために破壊された神と人間との正しい関係が回復され、わたしたちすべての人間は神に愛され、神に導かれ、神のみ心を喜んで行っていく新しい人間に再創造されるのです。また、神の救いの恵みを感謝して受け取り、神と隣人とに心から仕え、神の栄光を現す人として歩みだすのです。主イエスは安息日の主として、安息日の律法を完全な意味で成就され、完成されました。

わたしたち信仰者は安息日の主であられる主イエスを、わたしの救い主と信じ、教会の頭(かしら)、全世界の唯一の主、来るべき神の国の永遠の王として礼拝することによって、安息日の恵みを受け取るのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、きょうの主の日にわたしたちを礼拝の民としてここに集めてくださったことを感謝いたします。この日に、全世界の教会においてあなたのご栄光が崇められ、あなたの救いのみわざが行われ、あなたの民に平安が与えられますように。

〇主なる神よ、わたしたちを憐れんでください。日本とこの世界を憐れんでください。日本と世界に建てられているキリスト教会を憐れんでください。多くの痛みと困難と試練の中にある全人類を憐れんでください。

〇主よ、わたしたちはあなたにあって望みを抱きます。あなたのゆるしと愛の中にあって、なおも一歩一歩、み国の完成に向かって歩みを続けることができます。どうぞ、あなたの民を励まし、導いてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月7日説教「天地の造り主、いと高き神、アブラハムの主なる神」

創世記14章17~24節

マタイによる福音書6章9~10節

2021年2月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記14章17~24節

    マタイによる福音書6章9~10節

説教題:「天地の造り主、いと高き神、アブラハムの主なる神」

 創世記14章は前の章とも後の章とも直接的な連続性はないように思われます。12章から14章までは、族長アブラハムが神に選ばれ、神と契約を結んで、信仰の旅に出たことが、そして神が約束されたカナンの地に着いたことが書かれていました。15章からは再びアブラハムと神との契約について書かれています。ところが14章ではアブラハムの名前が出るのは章の後半12節になってからで、前半では当時のカナン周辺の地域に広がる諸国の戦争について描かれています。

 ではまず、前半で語られている諸国の戦争について簡単にまとめてみましょう。次に、13節以下から、アブラハムがどのようにしてその戦争にかかわるようになったのか。また、アブラハムの信仰の歩みにとってそれがどのような意味を持つのかについて読み取っていきたいと思います。

 1節に4つの王国とその王の名前が挙げられています。シンアル、これはバビロンとも言います。11章にバベルの塔の物語が書かれていました。他の3つの国々をも含めてこの4つはペルシャ湾の北に広がるチグリス川・ユーフラテス川流域の国々です。これら4つの王国はエラムの王ケドルラオメルを頭(かしら)として連合し、中東地域からパレスチナ地域に至るまでを支配していました。これをケドルラオメル連合軍と呼ぶことにしましょう。

 2節にはパレスチナ地方の5つの王国の名前が挙げられています。これには、死海(塩の海)近くのソドム、ゴモラが含まれています。13章10節以下には、アブラハムの甥のロトがこの地を選んでソドムに移住したことが書かれていました。これら5つの国をパレスチナ同盟軍と名づけましょう。

 パレスチナの5つの国は12年間エラムの王ケドルラオメルに支配されていましたが、13年目にパレスチナ同盟を結んでケドルラオメル王に反旗を翻しました。そこで、その翌年にケドルラオメル連合軍はパレスチナ同盟の反乱を鎮圧するために軍を送り、パレスチナ同盟の国々を攻撃し、最終的には8節以下に書かれているように、シディムの谷・塩の海周辺が決戦場所となり、パレスチナ同盟軍はそこで敗戦して、ソドムとゴモラの国は連合軍によって略奪され、アブラハムの甥ロトも捕虜にされたということが12節までに書かれています。

 わたしたちはここから、アブラハムと同時代の紀元前18~17世紀の中東とパレスチナ地域の国々の大規模な戦争について知らされます。今からおよそ四千年前のアブラハムの時代にも、それ以前にもそれ以後にも、地球上から戦争が絶えたことはありませんでした。21世紀の今日においても、期せずしてきょうの聖書の個所と同じ中東やパレスチナ地域には争いの火種が数多く存在しています。また今日では、直接に兵器を使用しなくても、冷戦というかたちで、さまざまな戦い、争いがあるのをわたしたちは知っています。この地球上から戦争をなくするにはどうしたらよいのか。わたしたちは聖書のみ言葉に聞きつつ、平和のために日々祈りつつ、主イエスが教えられたように、平和を造り出す人の幸いにあずかりたいと願います(マタイによる福音書5章9節参照)。

 わたしたち信仰者の信仰の父と言われるアブラハムは、彼が住んでいる地域の戦争の時代の中で、どのようにその信仰を持ち続けていくのでしょうか。彼は平和を造り出す幸いな人となるのでしょうか。13~15節を読みましょう。【13~15節】。

 これは言うまでもないことですが、彼はケドルラオメル連合軍とパレスチナ同盟軍の戦争に最初から参加していたのでは全くありませんでした。彼は平和を愛する人でした。13節に「彼らはアブラムと同盟を結んでいた」とありますが、この同盟は戦争のための同盟ではなく、このカナンの地で互いに平和に過ごすための同盟でした。また13章に書かれていたように、彼は甥のロトとの間で土地をめぐってトラブルがあった時にも、争いを好まず、年下のロトの方によいと思われる土地を先に選択する権利を譲るほどに、自分の権利を捨てて、またこの世の財産に対する欲望を捨てて、平和を造り出すことに心がけていました。

 13節で、アブラハムは初めて「ヘブライ人」と呼ばれていますが、このことも彼が平和を愛する人物であったことと関連しているように思われます。ヘブライ人とは、本来一つの民族や国民の名称ではなく、定住した土地を持たず、放浪していた貧しい人々を指す言葉だったと推測されています。そのヘブライ人という言葉が、創世記ではアブラハム・イサク・ヤコブの族長たちを指す言葉となり、出エジプトの時代には、エジプトで400年以上の寄留生活と奴隷の民であったイスラエルの民を指す言葉となり、そしてヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちによって形成された出エジプトの民、神の契約の民、イスラエル12部族を指すようになりました。アブラハムは放浪の民へブライ人として、他の国と争うような土地を所有してはいませんでしたから、カナンの地でできるだけ平和に生きていくことが必要だったし、また可能であったと思われます。

 そのアブラハムがケドルラオメル連合軍と戦うようになったのは、14節にあるように、捕虜として連れ去られた甥のロトを救い出すためでした。アブラハムはロトとその家族および財産を取り戻すと、それ以上連合軍を追撃することはせずに、すぐに引き返しています。彼はパレスチナ地域や中東の支配者になるために、また彼自身の土地や財産を増やすために戦争に赴いたのではありませんでした。ロトを救出するという一つの目的のためでした。彼は平和を愛する信仰者であり続けました。

 ここでいくつかの疑問が生じてきます。一つには、ロトは自分から分かれてソドムの地を選んだのですから、いわば自業自得で、アブラハムはわざわざ危険をおかしてまでも救出する必要はなかったのではないのか。わずか318人の戦争を未だ経験したことがないにわか兵士で、連戦連勝のケドルラオメル連合軍と戦うなんて、まったく無謀なことではないのか。しかしそれにもかかわらず、アブラハムが勝利するとは、奇跡ではないのか。そのような問いを持ちながら、次の17節以下を読むと、ここには確かにわたしたちにはわからない主なる神のお働き、お導きがあったのだということに気づかされるのです。

 神はアブラハムと同じ信仰によって旅立ったロトをお見捨てにはなさいません。ロトには19章でソドムの滅亡の時まで、なおも悔い改めの期間が残されています。神はわずかな兵力しかなかったアブラハムを守り、導いて、敵を前後から挟み撃ちするという知恵を与えて、彼に勝利をお与えになったのです。そのような神の奇跡が、17節以下のアブラハムとメルキゼデクとの出会いの場面を生み出していきます。

 【17~24節】。ここにメルキゼデクという不思議な王が登場します。彼はサレムの王と言われていますが、サレムは2節のパレスチナ同盟には属していませんでした。彼がここで突然に現われて、「いと高き神の祭司でありサレムの王であった」と紹介され、彼が「天地の造り主、いと高き神」のみ名によってアブラハムを祝福し、それに対してアブラハムが「すべての物の十分の一を彼に贈った」と書かれているのはいったい何を語っているのでしょうか。この謎に満ちた場面を他の聖書の個所を参考にしながら読んでいきましょう。

 まず、サレムですが、詩編76編3節には、「神の幕屋はサレムにあり/神の宮はシオンにある」と書かれています。サレムとはエルサレムのことであることが分かります。またサレムとは、ヘブライ語のシャロームと同じ、平和を意味しています。エルサレムとは「神の平和」という意味です。メルキゼデクとは「義の王」あるいは「王の義」という意味です。この名前は詩編110編4節に出てきますが、新約聖書ヘブライ人への手紙ではこの詩編のみ言葉を引用して、主イエスこそが永遠の大祭司であるメルキゼデクに等しい祭司であると語っています。【ヘブライ人への手紙5章5~10節】(406ページ)。また、【7章1~4節】(407ページ)。

 ここに、新約聖書の理解が語られています。すなわち、メルキゼデクとは、義なる王であり永遠の王、また永遠の大祭司であられる主イエス・キリストを暗示しているのであり、アブラハムは彼自身そのことを知らないまま、来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストのみ前にひれ伏し、十分の一をささげて主イエスを礼拝したというのが、ヘブライ人への手紙の理解です。

 この手紙ではさらに続けて大祭司キリスト論を語ります。イスラエルの大祭司は年に一度エルサレム神殿の最も奥にある至聖所に入り、自分と民全体の罪をあがなうために動物の血を神にささげますが、まことの永遠の大祭司であられる主イエスは動物の血ではなく、ご自身の神のみ子としての汚れのない尊い血を十字架でおささげくださいました。この一回で完全な主イエス・キリストの血の贖いによって、全世界のすべての人の罪が永遠に洗い清められ、ゆるされ、救われるのだと教えています。

 創世記に戻って、サレムの王メルキゼデクは19節で「天地の造り主、いと高き神」によってアブラハムを祝福しています。その神がアブラハムの手に敵を渡されたのだと告白しています。メルキゼデクはカナンの王ですから、ヘブライ人ではありませんが、ここでは異邦人の口を通してヘブライ人の神が告白されているのです。22節ではアブラハム自身の口で「天地の造り主、いと高き神、主」と告白されており、メルキゼデクの告白がアブラハムによって承認され、繰り返されています。この告白はアブラハム時代の古い信仰告白でしたが、それが出エジプト以後にカナンに定着したイスラエルの民の信仰告白となり、さらには主イエス・キリストの教会の信仰告白となって受け継がれていったのです。

 アブラハムの神、イスラエルの神、そして主イエス・キリストの父なる神は天地万物の創造主なる神です。天地のすべてはこの神によって成り、この神によって存在し、この神によって生きるべき道を見いだし、この神のご支配のもとにあります。また、この神はいと高きにいます神です。天におられる神です。この地上にあるすべての物よりもはるかに高く、はるかに力強く、はるかに大きく、偉大なる神、全能の神です。主イエスは「主の祈り」で「天にましますわれらの父よ」と祈りなさいと教えられました。わたしたちはどのようなは困難の中でも、どのような暗闇の中でも、心と目を高く天に向けて、「天にましますわれらの父よ」と祈ることがゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物とわたしたち一人一人をみ言葉によって創造されました。わたしたちの命はあなたの中にあります。あなたを離れてはわたしたちはまことの命を生きることはできません。主よどうか、わたしたちをあなたの恵みのご支配のうちに置いてください。あなたを離れて、罪と死と滅びへと向かうことがありませんように。

〇天の神よ、あなたはこの世界の悲惨な現実を天からご覧になっておられます。どうぞ、苦しみ、痛み、病んでいるこの世界を憐れんでください。あなたからのいやしと平安とをお与えください。

〇神よ、あなたがこの地にお建てくださった秋田教会を顧みてください。群れに連なる一人一人の信仰を養い、その道をお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月31日説教「初代教会の信者たちの生活」

2021年1月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教 聖 書:申命記6章4~15節     使徒言行録2章43~47節 説教題:「初代教会の信者たちの生活」  ペンテコステの日にエルサレムで世界最初の教会が誕生しました。この日に、ペトロの説教を聞き、罪を悔い改めて、主イエス・キリストのみ名によって洗礼を受けた人は三千人ほどであったと、使徒言行録2章41節に書かれています。主イエスの12弟子たちと主イエスの母マリアと兄弟たちを含めて、主にユダヤ人からなるこの教会を、一般にエルサレム教会と呼んでいます。もっとも、まだ教会堂も定まった集会場所もありませんが、彼らは主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって一つの教会の群れを形成しています。 42節からは、彼らエルサレム教会の信仰生活、教会生活について、まとめて報告されています。わたしたちはここから、最初に誕生した教会の様子を知ることができると同時に、今日のわたしたちの教会の在り方にとっても重要ないくつかのことを教えられます。この個所を2回に分けて学んでいくことにします。 【42節】。この42節を初めとして43節以下にも、信じる人たちが群を形成することを言い表す言葉が数多く用いられています。42節の「交わり」、44節の「皆一つになって」「共有にし」、45節の「分け合った」、46節の「心を一つにして」「集まって」「一緒に」、そして47節の「仲間に加え一つにされた」。彼らは信仰的に、精神的に、また実際的にも、一つの群れとなり、一つの共同体を形成しているということが強調されています。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人たちは、一つの群れを形成するのです。それは、彼ら自身の何かの共通点とか共通の利害関係とかによるのでは全くなく、彼らが信じている主がただお一人、彼らの群れの頭(かしら)、教会の頭がただお一人、主イエス・キリストであるからです。 わたしたちはここから、信じる人たちは群れを形成するということを第一に教えられます。わたしが主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白し、洗礼を受けるということはわたしの個人的な決断であり個人的な体験であるかのように考えがちですが、しかしそれは一つの主にある交わりの中にわたしが招き入れられること、わたしが群を形成する一人とされるということなのです。41節に「仲間に加わった」とあり、また47節にも「仲間に加え一つにされた」とあるように、わたしが信じてキリスト者になるということは主イエス・キリストの体なる教会の群れの中にわたしが加えられるということなのです。わたしが主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされ、神の民とされ、神と結び合わされ、主キリストの体なる教会と結び合わされる時、わたしたちは一つの群れとなって互いに結び合わされ、信仰共同体として結合されるのです。 日本キリスト教会では信仰告白がより具体的に教会を一つに結びつけると考えています。わたしが主イエス・キリストを信じるということは、より具体的にはわたしが『日本キリスト教会信仰の告白』を信じ、告白し、わたしがこの信仰告白の共同体の中に招きいれられるということであり、わたしたちはこの『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白することによって、共に一つの教会として結集するのです。 ここで、信仰共同体としての教会について少し違った視点から考えてみましょう。ドイツ語では教会の信仰共同体と、この世の社会共同体とを区別して別々の言葉で言い表します。信仰共同体はGemeinshaftと言い、社会共同体をGesellshaftと言います。信仰共同体・Gemeinshaftによって形成されている教会をGemeindeと言います。また、社会共同体・Gesellshaftを信仰共同体との違いを強調して、利益共同体と呼ぶこともあります。Gesellshaft社会共同体・利益共同体もGemeinshaft・信仰共同体も同じように一致や連帯を強調しますが、その目的とか内容は、両者は全く違います。Gesellshaftは社会の利益や幸福を追求するために一致します。しかし、Gemeinshaftの一致の目的は共同体内部にはありません。共同体の上におられる主イエス・キリストだけが一致の基礎であり土台であり、また目的です。さらに、両者の大きな違いは、Gesellshaft・利益共同体では共通の利益や幸福のために、時に個人の違いや個性が無視されたり、時にはまた人間の尊厳性が犠牲にされたりすることがあります。しかし、Gemeinshaft・信仰共同体ではその反対に、罪の中に見失われていた人間の存在や尊厳性が見いだされ、尊重されるようになります。というのも、わたしたちはみなかつては罪の奴隷であり、この世の何らかの束縛の中に生きており、神のみ前では見失われていた罪びとであったのに、主イエス・キリストの十字架の福音によって罪の暗闇から救い出され、神のみ子の尊い血潮によって買い取られ、贖われた価の高い一人一人であるということを知らされているからです。それによってわたしたちはすべての束縛から解放され、個としての存在意義を取り戻し、神のみ前でかけがえのない尊いわたしとされます。教会とはそのような神に見いだされた個と個とが主キリストによって一つに結び合わされている群なのです。 次に、42節には初代教会の4つの特徴が挙げられています。一つは使徒の教え、第二は相互の交わり、第三はパンを裂くこと、そして第4は祈り、これらのことを熱心にしていたとあり、43節からはその具体的な内容が書かれています。これらは今日のわたしたちの教会にも共通していることです。 まず、使徒の教えですが、使徒とはここでは主イエスの12弟子を指しています。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダに代わってマティアが選ばれたことが1章の終わりに書かれていましたが、彼らは主イエスと地上の歩みを共にし、直接に主イエスが語られた神の国の福音の説教を聞き、また主イエスの十字架と復活を目撃した証人たちでした。彼らはペンテコステの日に天から聖霊を注がれ、自らが主イエスの福音を語る人に変えられました。彼らの代表者ペトロの説教を聞いて信じた人たちによって最初の教会が建てられました。使徒たちは初代教会とのちの全世界のすべての教会の源であり基礎であり出発点です。 使徒の教えとは、その内容の具体的な例として14節以下のペトロの説教、またこの後に書かれているペトロの説教などによって知ることができます。その中心は、わたしたちがすでに学んだように、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。教会が誕生した紀元30年ころはまだ福音書は書かれていません。福音書が書かれたのは紀元60年以後と考えられ、パウロの書簡が書かれたのは50年代ですから、それ以前にはペトロを始め12弟子たちが語った説教が使徒の教えとして書きとどめられていったのではないかと推測されます。やがて使徒の教えは4、5世紀ころになって、今日わたしたちが告白している『使徒信条』にまとめられました。 使徒の教えに熱心であるとは使徒の教えに生きること、また使徒の教えを語り伝えることの両方を含んでいると思われます。初代教会は使徒の教え、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって生きる群であり、またそれを語り、宣教することによって生きる群でした。このことこそが、Gesellshaft ・社会共同体とGemeinshaft・信仰共同体とを明確に区別している最も大きな特徴と言ってよいでしょう。この世の共同体は自らの利益と幸福を求め、この世のパンを食べて生きている群れですが、教会は主イエス・キリストの福音を聞き、そのみ言葉が自分たちの罪をゆるし、新しい霊の命を与えることを信じ、またそのみ言葉を宣べ伝えることによって生きている群れ、信仰共同体です。  次の相互の交わりとパンを裂くことについては次回学ぶことにして、きょうは最後に、祈ることについて取り上げます。主イエスご自身が祈りの人であったということを、使徒言行録と同じ著者になるルカ福音書が強調しているということをわたしたちは学んでいます。ヨハネから洗礼をお受けになった時、荒れ野での誘惑と戦われた時、12弟子をお選びになった時、また一日のお働きの終わりに、主イエスは民衆を避け、弟子たちからも離れて、お一人になられ、父なる神に祈られました。また、弟子たちに祈りについてたびたび教えられ、祈りの手本として「主の祈り」を教えられました。 使徒言行録1章14節には、弟子たちが聖霊を受ける前に心を合わせて熱心に祈っていたと書かれていました。この日に誕生した教会は祈る群れ、祈りの共同体でした。そのことはこのあとの使徒言行録でも繰り返して強調されています。3章1節には、【1節】と書かれていますので、初代教会では当時のユダヤ教の伝統を受け継いで、日に3度、朝9時と昼と午後3時に祈りをささげていたことが推測できます。信者たちはエルサレムの神殿や信者の家に集まり、共同で祈りをささげていました。 教会が祈る群れであるということは、わたしたちの日本キリスト教会にも伝統的に受け継がれています。1872年(明治5年)3月10日に誕生した日本最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会は、宣教師たちが始めた新年初週祈祷会がそのきっかけでした。今でも、全国の諸教会では新年の最初の週に連日の祈祷会を行う習慣が残っています。また、毎週日時を定めて教会員が集い祈るという公同の祈祷会はほとんどの教会で行っています。 教会が祈りの群れであるとはどういうことを意味するでしょうか。祈りはまず第一に神への服従の行為です。教会は教会に集まっている信者たちの考えとか計画とかによって生きているのではありません。主なる神のみ心に聞き従い、その導きによって生きていきます。したがって、教会は絶えず神のみ心を伺わなければなりません。聖書のみ言葉に導かれつつ、神のみ旨を尋ね求め、神がお与えくださる恵みを感謝して受け取り、神が備えられる道を自由と喜びをもって進んでいくために、教会は絶えず祈り続けるのです。 祈りはまた神への願い求めです。信仰の歩みの中で経験するであろう試練や困難の中で神の守りと導きとを祈り求め、重い病や大きな禍の中で、他の何ものにも助けと救いを期待できないような時でも、全能の神が必ずや道を備えてくださることを信じて祈り求める、あるいはまた、悩める他者のために執り成しの祈りをする、日本、アジア、全世界の平和と救いのために祈る、祈りはわたしたちの信仰に無限の広がり、無限の豊かさ、無限の力を与えるのです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天におられて、わたしたちの必要のすべてをご存じであられます。また、わたしたちに今なくてならないものが何であるのかを知っておられ、それを備えていてくださいます。わたしたちがどのような時にも、あなたのみ心を信じて、祈り続ける信仰者としてください。 〇神よ、あなたが永遠の救いのご計画によってお建てくださったこの秋田教会を、どうぞ顧みてください。小さな、欠けの多い群れですが、あなたのご栄光を現し、この地で主キリストの福音を高く掲げて歩む群れとして成長させてください。群れに連なる一人一人の信仰をあなたが日々に養ってくださいますように。 〇礼拝後に行われる秋田教会定期総会の上に、主のお導きがありますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月24日説教「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

2021年1月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章3~10章

    ルカによる福音書5章33~39節

説教題:「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

 主イエスは徴税人レビに目をおとめになり、彼を弟子としてお招きになりました。人々から罪びととか守銭奴、売国奴と呼ばれ、だれからも相手にされなかった徴税人レビは、主イエスによって、信仰者レビに変えられました。弟子のレビに変えられました。自分の欲望のために生きていたレビ、この世の権力者に仕えていたレビは、今や神の国の王であられる主イエスにお仕えし、主イエスのために生きる人へと変えられました。レビは主イエスの救いに招かれた恵みに対する感謝のしるしとして、主イエスと弟子たち、また徴税人仲間や罪びとと呼ばれていた人たちをも招いて盛大な宴会を催しました。主イエスを中心にして、罪ゆるされた罪びとたちが共に祝いの食卓を囲んでいる、これは来るべき神の国での盛大な晩餐会を先取りするものです。

前回学んだルカ福音書5章30節では、それを見ていたファリサイ派や律法学者たちが主イエスの弟子たちに向かって、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難しましたが、きょう朗読された33節では、その周りにいた人々が今度は主イエスに向かって、「ヨハネの弟子たちは……食べたりしています」(33節)と非難しています。主イエスが罪びとと呼ばれていたレビを弟子としてお招きになり、また多くの罪びとたちと共に食事をしておられるということは、ユダヤ教指導者たちにとっても、またすべてのユダヤ人たちにとっても、理解しがたいことであり、宗教的指導者としてはふさわしくない行動だと思われました。

主イエスの福音はユダヤ人にとっても、またすべての人間にとっても、受け入れがたい教えであり、つまずきとなりました。なぜならば、人はみな自分の罪に気づくこと遅く、自らの罪を認めることはしたくないからです。自分はあの罪びとたちよりはよりまともな人間であり、まじめで正直であり、努力家であり、自分で自分を救うことができると考えるからです。主イエスから一方的な恵みとして与えられる救いよりは、自分で勝ち取った救いの方がより値が高いと考えるからです。

しかし、わたしたちはきょうの聖書のみ言葉から、主イエスから与えられる救いの恵みこそが、人間の救いにとって最も力があり命があり喜びがあり、他の何ものにも替えがたい尊いものであるということを教えられるのです。主イエスの救いを信じる信仰によって与えられる義は、ファリサイ派や律法学者の義よりもはるかに勝った義であるということを学び取っていきましょう。

33節にヨハネの弟子たちが断食していることが取り上げられています。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのために道を整える先駆者として、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。ヨハネと彼の弟子たちは、当時のユダヤ教で定められていたよりも頻繁に断食していたようです。旧約聖書では、大贖罪日と言われる日にすべてのユダヤ人は断食するように定められていました。レビ記23章27節以下にそのことが書かれています。大贖罪日にはイスラエルの全国民が主なる神のみ前に自分たちの罪を告白し、その罪を悲しみ、罪を悔い改めるしるしとして断食をし、神との交わりの回復を願い求めるのです。断食は食欲等の肉体的な欲望を捨てることによって、心と思いとをを神に集中させ、神との霊的な交わりを与えられるための信仰的な行為と考えられ、イスラエルでは重んじられていました。

ユダヤ人に定められていた年一回の断食日は、紀元前6世紀のバビロン捕囚以後には年数回に増やされ、主イエスの時代にはファリサイ派の間では一日3回の祈りとともに週に2回、月曜日と木曜日に断食するようになりました。ヨハネの弟子たちもそれと同じように断食していたと推測されます。しかしながら、ファリサイ派の断食には偽善的な要素が少なからずありました。彼らは自分たちの信仰深さを誇るために、多くの人々が見ている大通りで、顔を見苦しく装い、いかにも自分たちが深く罪を悔い改めているかのように見せて断食していました。それに対して、ヨハネの弟子たちは、近づきつつある神の最後の審判と神の国の完成の時に備えて、真実な罪の悔い改めのしるしとして断食をしていたと推測されます。

けれども、主イエスは偽善的なファリサイ派の断食も信仰的なヨハネグループの断食をも拒否され、定期的な断食は行っていませんでした。弟子たちにもそれを勧めませんでした。むしろ主イエスは徴税人や罪びとのようなユダヤ社会から見捨てられていた人たちと食事を共にされました。それはなぜでしょうか。主イエスは34節以下でその理由について婚礼のたとえと、服に布切れを継ぎ当てするたとえと、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋のたとえで説明されました。この三つのたとえで主イエスが強調しておられること、主イエスが語っておられる神の国の福音の大きな特徴について読み取っていきましょう。

まず、婚礼のたとえですが、イスラエルでは結婚は非常に重んじられていました。結婚は神の創造の秩序の具体化です。神が人間を男と女とに創造され、人間が共に生きる交わりの関係であるべきことの具体的な姿が結婚です。それゆえに、結婚は神とイスラエルの契約の関係の比喩として用いられます。旧約聖書ではしばしば神とイスラエルとの関係が夫婦の関係にたとえられています。また、イスラエルの家庭では結婚の祝いは一週間も続きます。

新約聖書では、結婚は終わりの日に完成される神の国での盛大な祝宴にたとえられています。主イエスの説教でも、使徒パウロの書簡でもそうです。終末の時、花婿である主イエス・キリストと花嫁である教会の民とが永遠に固く結ばれ、神の国において絶えることのない共同生活を続ける。そこには永遠の祝福と救いと喜びがある。主イエスは34節で、その永遠の喜びの祝宴が今すでに始まっているのだと言っておられます。【34節】。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになりました。神の国での結婚の祝宴がすでに始まっているのです。神が与えてくださる救いの恵みがすでに目の前に差し出されているのです。もはやだれも、自分の罪を悔いて、心や体を悩ます必要はありません。自分の力や努力で救いを手に入れる必要もありません。主イエスを信じる信仰によってすべての人に罪にゆるしと永遠の命が与えられているからです。

主イエスはさらに二つのたとえでこのことを強調されます。この二つのたとえに共通している点は、新しいものと古いものとの決定的な違いです。新しいものと古いものとは共存できません。一緒にすることはできません。新しい服から取った新しい布切れには弾力性があり、伸びちぢみしますが、古い着物には弾力性がありませんから、その両者を一緒に縫い合わせれば、伸び縮みの違いによって、継ぎ当てをした部分は破れてしまいます。そうすれが両方ともに使い物にならなくなってしまうでしょう。また、新しいぶどう酒は盛んに発酵し、空気が膨張します。しかし、古い革袋は伸縮性がありませんから、新しいぶどう酒をいれればやがて古い革袋を破って、ぶどう酒は無駄になってしまうでしょう。

主イエスがこの二つのたとえで強調しておられることを三つの点にまとめてみましょう。一つには、古いものと新しいものとは共存できない、一緒にすることはできないということです。新しい服から布を取って古い服に継ぎ当てをすることができないように、新しいぶどう酒を古い革袋に入れることができないように、花婿が共にいる婚礼の席には断食はふさわしくありません。主イエスが共におられる席では断食は必要ありません。

ここで、新しい、古いと言われているのは、単に時間的・時代的違いを指しているのではありません。時が経過して古くなったというのではなく、新しいものが、先の古いものとは全く異質な新しいものがやってきたゆえに、これまであったものがすべて古くなったという意味です。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになられた今はそれまでにあったものはすべて古くなったのです。主イエスが罪びとたちと共におられ、罪びとたちを神の国へとお招きになっておられるゆえに、律法によって救われようとするユダヤ教の教えは古くなり、この世の何かによって救いを得ようとするすべての試みも古くなり、それのすべての道は閉ざされてしまったのです。主イエスが始められた神の国での祝宴の喜びにはそれらのすべてはふさわしくありません。それゆえに、ファリサイ派の断食もヨハネの断食も、主イエスが共にいてくださる祝福と喜びの前ではふさわしくはありません。

第二には、新しいものが持っている力、エネルギーの大きさです。それは古いものを破壊せざるを得ないということです。新しい布、新しいぶどう酒が、古い着物、古い革袋を引き裂くように、主イエスの福音は、主イエスが罪びとたちと共にいてくださるという喜びは、断食の苦しみや嘆きを消し去り、否定し、人間の罪の縄目を解き放つ大きな力を発揮するのです。主イエスが語られた神の国の福音は古い世界の、古い秩序を破壊し、罪と死と滅びとに支配されていた古い世界と人間をそこから解放するのです。

第三に強調されている点は、主イエスが語られた神の国の福音は圧倒的な力で新しい人間を創造するということです。【38節】。この主イエスのみ言葉は、単に一つの真理を語っているのではありません。新しいぶどう酒は新しい革袋を必要としています。新しいぶどう酒はそれを入れる新しい革袋を創造していくのです。主イエスの福音は主イエスの福音に生きる新しい人を創造するのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙二5章17節でこのように書いています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。主イエス・キリストによって和解の福音を聞かされ、罪ゆるされたわたしたちは、主キリストの福音によって新しく創造された信仰者として、和解の福音を持ち運ぶ任務を託され、和解の言葉を託されているのです(同18~21節参照)。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪と死の世界をさまよっていたわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの福音によって見いだしてくださり、み前にお招きくださいます幸いを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに新しい命を注ぎこみ、わたしたちをあなたのみ心にかなって造り変えてください。あなたのみ心を行う人としてください。

○天の神よ、さまざまな試練や苦悩の中にあるこの世界と諸国の人々を憐れみ、顧みてください。重荷を負っている人たちを力づけ、励ましてください。悲しみ痛みの中にある人たちに、慰めと平安をお与えください。孤独な人や迷っている人には、あなたが共にいてくださり、希望の光をお与えください。

〇この世界は今、あなたの天からの助けとお導きとを必要としています。どうか、この世界を憐れんでください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月17日説教「アブラハムの選択」

2021年1月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記13章1~18節

    ローマの信徒への手紙4章1~12節

説教題:「アブラハムの選択」

 アブラハムは神が約束された地、カナンに到着しましたが、その地を襲った厳しい飢饉のために、エジプトに避難しました。自分と家族の命を養うためとはいえ、彼が神のみ言葉を聞かずに、神が約束されたカナンの地を離れて、エジプト行きを決断したことは、大きな失敗でした。さらに、彼は自分の妻を妹と偽って、妻サライをエジプト王ファラオの宮廷に売り飛ばすという失敗を重ねました。このようにしてアブラハムは神の約束のすべてを失ってしまいました。「この地をあなたの子孫に与える」という約束を、「あなたの子孫を大きな国民とする」という約束をも、そして「あなたはすべての信仰者の父となり、すべての国民の祝福の源となる」という約束をも、彼は投げ捨ててしまったのでした。

もしここで、主なる神が現れなかったならば、いわゆる「アブラハム契約」は効力を失い、彼ののちに続くすべての信仰者たち、今日のわたしたちをも含めてですが、その人たちに約束されていた神の祝福も受け継がれなかったであろうということを考えると、今学んでいる創世記のみ言葉が、また信仰の父アブラハムの生涯とその信仰の歩みが、今のわたしたちと実質的に関連しているということを思わざるを得ません。わたしたちは創世記に描かれているアブラハムの信仰の歩みを、わたし自身の信仰の歩みと重ね合わせながら、きょうの創世記13章のみ言葉を読んでいくことにしましょう。

【1節】。この1節で、アブラハムの信仰の歩みがなおも継続されていくということを、わたしたちは知らされます。アブラハム(この時はまだアブラムという名前でしたが)は、数々の失敗を繰り返しても、なおもアブラハムとして、神の契約を担う信仰の父として、その名が記録されています。それには、神の憐れみとゆるしがありました。というよりは、神の憐れみとゆるしなしには、アブラハムはアブラハムであり続けることはできないし、信仰の父として神の祝福の源となることはできないと言うべきでしょう。アブラハムは失敗します。つまずきます。疑います。迷い、倒れます。けれども、神は彼をお見捨てにはなりません。神は彼の罪をおゆるしになられます。神がなおも彼の信仰の道をお導きになるのです。そのようにして、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父とされます。そのようにして、すべての信仰者は、わたしたちも含めて、罪の中にあってもなおも信仰の道を、終わりの日の完成を目指して進み行くことが許されるのです。

「妻と共に」とあります。何と幸いなことでしょうか。自分を身の危険から守るために、妻サライの人権とか尊厳性とかを捨て、また神の約束を共に担っていくべき夫婦の関係を捨てて、妻を妹と偽ったアブラハムと、ひとたび夫に裏切られ、異教徒の王に身売りされたかのようにされた妻サライとが、ここで再び神のゆるしのもとで、共に生き、共に神の約束を担って信仰の道を歩み続けることを許されているということは、何と幸いなことでしょうか。

「エジプトを出て」とあります。この言葉も象徴的です。大飢饉のために、パンを求めて行ったエジプト、神の約束のみ言葉を忘れ、大きな失敗を繰り返して罪を犯したエジプト、この世的な誉と富とを得たけれど、神への信仰と正しい人間関係とが壊されていたエジプト、しかしそこから出て、いわゆる出エジプト、再び神の約束の地へと戻る、この出エジプトというテーマは、聖書の中で何度も繰り返されていきます。アブラハム時代から600年ほどあとの紀元前1200年代、モーセの時代の出エジプト、それからさらに800年ほど後の紀元前530年代、バビロン捕囚からの帰還、そしてまたその600年ほどあとの紀元1世紀、主イエスの時代、マタイによる福音書2章14節以下にはこのように書かれています。【14~15節】。(3ページ)。

このような出エジプトのテーマは、神がわたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちをすべてのこの世の奴隷状態から解放し、罪と死と滅びの縄目から解き放って、自由と喜びと感謝に満たされた信仰の歩みへと導いてくださる神の救いのみわざを語っているのです。

「ネゲブ地方へ上った」とあります。ネゲブは12章9節でアブラハムが滞在していた神の約束の地カナンの南端の地です。彼は再び神の約束の地へと戻ってきました。いわゆる「アブラハム契約」はなおも継続されていくことになりました。アブラハムがパンを得るために捨てた約束の地を、神は再び彼にお与えくださいました。彼はこれから、再び与えられた約束の地で、神の憐れみ受け、罪ゆるされた信仰者として生きていくのですが、彼はその道を迷わずに進んでいくことができるでしょうか。罪ゆるされている信仰者にふさわしく、信仰の父としての名に恥じないように生きることができるでしょうか。それとも、彼は再び失敗を繰り返すのでしょうか。

それについては、少し気がかりなことがあります。1節の終わりに「ロトも一緒であった」とあります。また、2節には【2節】と書かれています。このことが、この章で展開される新しい事態を引き起こします。先に12章5節に、アブラハムがハランを出て神の約束の地へと旅立った時に甥のロトも連れていたことが書かれていました。アブラハムはこれまでロトと一緒に旅を続けてきました。二人は良き協力者であり、同労者でした。何よりも、同じ信仰の道を歩み、同じ神を礼拝する信仰にある兄弟でした。ところが、その二人の交わりを引き裂く事態が起こったのです。

その原因となったのは、アブラハムが持っていた多くの財産でした。5節では一緒に旅を続けてきたロトにもたくさんの財産があったと書かれています。多くの財産が与えられることは神の祝福だと考えられていました。そのことを神に感謝し、神と隣人のためにそれを用い、ささげるならば、地上の富は神の祝福となり、神の栄光を現すことにもなるでしょう。しかし、多くの場合、人は地上の富に心を奪われ、神から離れていきます。それによって、人間の交わりも壊されていきます。主イエスはマタイ福音書6章24節で、「だれも神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われました。アブラハムとロトにもそのことが当てはまります。地上の財産を多く持つに至った二人の関係はどうなるでしょうか。

アブラハム一族は家畜を連れて牧草地を旅する遊牧民でした。カナンの地では彼はまだその地を所有してはいません。天幕を移動しながら牧草を求めて旅する寄留者です。他にも多くの遊牧民がいます。カナンの原住民もいます。アブラハムもロトもあまりにも多くの財産を持つようになったために、二人は一緒に住むことができなくなりました。6節では2度もそのことが強調されています。【6節】。人間が余りにも多くのものを所有するがゆえに一緒に住むにはこの世界は狭すぎる、この言葉は現代のわたしたちの地球にも当てはまるのでしょうか。人間があまりにも豊かになり、偉大になり、あまりにも多くを所有するようになったがゆえに、人間はこの地球上から神をも追い出すのでしょうか。神が創造されたこの世界に、人間はついには神と共に住むことができなくなり、隣人と共に住むことができなくなってしまうのでしょう。全世界の人間が共に住むには、この地球はあまりにも小さいのでしょうか。主イエスが言われたように、わたしたちはだれも神と富とに兼ね仕えることは決してできないとのだいうことを忘れてはなりません。

7節に書かれているように、アブラハムとロトの家族の間に当然の結果として争いと分断が起こりました。そこで、年上のアブラハムがロトに提案をします。【8~9節】。アブラハムはロトとの争いを避けようとしています。アブラハムはロトよりも年上であり、家の主人ですから、自分に有利な提案をすることもできたし、ロトを追い出すこともできたでしょうし、あるいは力づくでロトをねじ伏せて彼の財産を奪うこともできたかもしれません。けれども、アブラハムは争いではなく和解の道を選びます。自分の権利を主張するのではなく。むしろロトの方に選択権を譲っています。

わたしたちはここで先にアブラハムに対して抱いていた不安が、取り越し苦労であったことを知らされます。エジプトで失敗を重ねたアブラハムでしたが、今回は失敗を繰り返しません。地上の富に心を奪われ、それによって行動することはありません。むしろ、自分の権利を放棄して、富を追い求める道を放棄します。アブラハムは甥のロトの方に選択権を譲りました。今回は、アブラハムは神と富との両方に仕えることはしません。富への道を放棄し、結果的に彼は神への道、信仰への道を選び取ることになりました。わたしたちは何かほっとする思いになり、アブラハムに心の中で拍手を送りたい気持ちになるのは、わたしだけでしょうか。

ロトはカナンの東の方、ヨルダン川流域の低地の豊かに潤っているように見えた地を選びました。その地はソドム、ゴモラの町がある、邪悪と罪とに満ちた地でしたが、ロトにはまだそれは見えてはいませんでした。12節に、「アブラムはカナン地方に住んだ」と書かれています。彼は神の約束の地に留まりました。彼は地上にある豊かさや富を放棄することによって、結果的には本当に選ぶべき道を選んだのでした。そこに、隠れた神のみ心が働いていた、神の導きがあったと聖書ははっきりとは語っていませんが、14節以下を読めばそこのことが確かであることを知らされます。

【14~18節】。アブラハムはこの神の約束のみ言葉を聞くために、豊かに潤ったヨルダンの低地を選んだロトと別れ、この地に留まったのでした。アブラハムは確かに自分の選択権を捨てたことによって、選ぶべき道を選んだのでした。それは、彼自身が選んだというよりは、神がそのように選ばせてくださった、神ご自身の選びであったと言うべきでしょう。

神はアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われます。見渡すという言葉は10節でロトについても用いられていました。ロトはこの世の豊かさや地上の幸いを見ていました。しかし、アブラハムは信仰の目を挙げて、神の約束を見るようにと促されています。彼はまだこの地の一角をも所有してはいません。この地では寄留者であり、旅人です。けれども、彼は神の約束によってすべてを所有しています。「わたしは永久にあなたとあなたの子孫にこの地を与える」。この神の約束によって、彼はすでにこの地を所有しています。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」。この神の約束によって、彼はすでにのちの時代のすべて信じる人々の信仰の父とされています。

これは、アブラハムの選択というよりは、神の選択、神の選びです。アブラハムがカナンの約束の地を選び取ったのではありません。神がアブラハムをお選びになり、生まれ故郷のカルデヤのウルから彼を呼び出され、約束の地へと導かれたのであり、神がエジプトでのアブラハムの失敗から彼をお選びになり、また今神がロトとの争いの中から彼をお選びになり、約束を更新されたのです。それゆえに、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父となり、祝福の基となったのです。そして、アブラハムの選びは、主イエス・キリストによってわたしたち一人一人の選びとなったのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたの選びと救いの恵みはとこしえからとこしえまで、決して変わることはありません。あなたは罪と失敗を繰り返すしかない、弱く貧しいわたしたちをも、あなたのみ国の民の一人としてお選びくださいました。どうか、わたしたちを永遠にあなたの契約の民の中に置いてくださいますように。あなたの選びを信じて、生涯あなたの僕(しもべ)として仕えさせてください。

〇世界と日本が今、大きな試練と苦しみの中でもがいています。あなたは天から一人一人の痛みや悲しみ、労苦や戦いを見ておられます。どうか、あなたからの顧みがありますように、あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月10日説教「エルサレム教会の誕生」

2021年1月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:出エジプト記13章3~10節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「エルサレレム教会の誕生」

 五旬祭(ペンテコステ)の日にイスラエルの首都エルサレムに世界最初の教会が誕生した次第について、使徒言行録2章が記録しています。これは、紀元30年ころ、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活されたのがユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時期でしたが、それからおよそ50日後、太陽暦では5月から6月にかけてのころでした。主イエスの神の国の福音を宣教するお働きは、主イエスの死後も、ペンテコステの日に誕生した教会によって継続されていきました。神の救いのみわざは天地創造の初めから、終わりの日の神の国が完成される時まで絶え間なく続けられます。今からおよそ2千年前の世界最初の教会誕生の時から、その後に全世界に誕生した教会の働きをとおして、またこの日本の地に、秋田の地に立てられた教会の働きをとおして、神の救いのみわざは絶え間なく継続されていくのです。わたしたちのこの小さな群れもまたその神の救いのみわざに仕えています。

 きょうは、使徒言行録2章37節以下のみ言葉から、教会誕生に関する重要なポイントを三つにまとめて学んでいきたいと思います。そのことは、今日のわたしたちの教会がどのようにして生きた教会として建てられていくのか、またその教会に集められているわたしたちはどのようにして教会の主なるイエス・キリストにお仕えし、神の救いのみわざにお仕えしていくべきなのかを知ることでもあります。

 その三つのポイントとは、一つは、聖霊なる神のお働きを信じること、二つには、神のみ言葉を聞くこと、そして三つには、主キリストのお体なる教会に召し集められているわたしたち信者一人一人の悔い改めと結集(一つの群れとして集められること)、この三つについて学んでいくことにします。

 では、最初の聖霊なる神のお働きについてですが、ペンテコステは聖霊降臨日という呼び方もあるように、この日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちが神の偉大な救いのみわざについて語りだしたことから、教会誕生へと進展していきました。聖霊降臨と教会誕生とは密接につながっています。聖霊は教会の命と存在の源です。聖霊はいまもなおわたしたちの教会が真実の教会であり続けるための恵みと力の源です。

聖霊降臨はまた主イエスのお約束の成就でもありました。使徒言行録1章8節で主イエスはこのように約束されました。【8節】。(213ページ)。同じようなことを主イエスはヨハネ福音書14~16章でも繰り返して約束しておられます。主イエスは天に昇られたあと、父なる神と共に弟子たちに聖霊を注いでくださり、聖霊は主イエスがお語りになったみ言葉を弟子たちに思いおこさせ、彼らを主イエスの証し人としてお立てくださるであろうと約束されました。聖霊は主イエスの約束のみ言葉と固く結びついて、信じ従うわたしたちの力となり、導きとなってくださいます。そして、わたしたち一人一人をも主イエス・キリストの証人として固くお立てくださいます。弟子のペトロの説教では、38節で「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語られています。主イエスを救い主と信じて洗礼を受けた一人一人には、それぞれにふさわしい聖霊の賜物が与えられます。わたしたちはその賜物を生かして主イエス・キリストの証人となって仕えていくのです。教会のすべての活動とわたしたち信仰者のすべての歩みは聖霊によって導かれているのです。

第二に重要なポイントは、神のみ言葉を聞くということです。聖霊降臨と教会誕生には神のみ言葉を聞くということが伴っています。37節にこのように書かれています。【37節】。ペンテコステの日に、聖霊によって神の救いのみ言葉を語ったペトロの説教が36節まで書かれていますが、その説教を聞いた人々にも聖霊が働きました。その時、ペトロの説教によって彼らは「大いに心を打たれ」ました。大いに心を打たれるとは、何か感動的な話を聞いたというようなことではなく、心が突き刺され、抉り出されるという強い意味を持っています。聖霊によって神のみ言葉を聞くということは、そのように激しく心が揺さぶられ、わたしの存在全体が根本から神によって問われるということなのです。なぜならば、ヘブライ人への手紙4章12節にはこのように書かれているからです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。神のみ言葉を語る時、また神のみ言葉を聞く時、そこに聖霊が働き、驚くべき力が発揮され、人間を根本から造り変えるのです。

ペンテコステの日にペトロが語った説教を、神の救いのみ言葉として聞く時に、そこに聖霊が働き、神の救いの出来事が起こされます。そのようにして教会が誕生します。教会は神の救いのみ言葉を聞き続けることによって、真実の教会として生き続けるのです。

では、ペンテコステの日に聖霊によって神のみ言葉を聞いた人々にどのようなことが起こったのでしょうか。ペトロは36節でこう説教しました。【36節】。この説教を聞いたユダヤ人たちは、ここで自分たちの罪が告発されていることを気づかされました。彼らは神がメシア・救い主としてイスラエルにお送りくださった主イエスを神を冒涜する者として十字架で処刑しました。その偽りの裁判に直接携わっていなかったユダヤ人もみながその罪にいわば連帯責任を負っているいるのです。彼らは神がお遣わしになったメシア・救い主を拒絶し、葬り去ったのです。ペトロの説教を聞いたユダヤ人たちに聖霊が働き、彼らにそのような罪の自覚を与えました。

しかし、ペトロの説教が語っているもう一つのことは、そのようなユダヤ人たちの罪にもかかわらず、その罪を超えて、神は主イエスを死からよみがえらせ、全世界のすべての人のメシア・救い主としてお立てになったということです。神はユダヤ人たちの罪に勝利されます。すべての人間の罪に勝利されます。人間の罪と死を罪のゆるしと復活の命に変えてくださったのです。ペトロの説教を聞いた彼らは、聖霊によって、自分たちが神の救いへと招かれていることを知らされたのです。そこで、彼らは「わたしたちはどうしたらよいのですか」とペトロに問いかけます。

神のみ言葉の説教は、それを聖霊の導きによって聞く人たちにそのような二つのことを悟らせます。第一には罪の自覚です。人間は自分の知識や能力によってはだれも自分の罪に気づくことはありません。なぜならば、人間は生まれながらにして罪に傾いているからです。神を知らず、神に背いているからです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時、主イエス・キリストの福音を聞く時に、わたしたちは神のみ心に背き、神の恵みを受けるにふさわしくない自らの罪に気づかされます。

と同時に、神のみ言葉は人間の罪をゆるし、罪と死と滅びとに支配されていた人間を罪の奴隷から救い出す恵みと命のみ言葉であるということを、聖霊はわたしたちに信じさせてくださいます。人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の救いの恵みが人間のあらゆる罪や悪や無知や反逆をも乗り越えて前進していくのです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時に、わたしたちはそのような二つのことに気づかされ、この罪多き貧しいわたしもまた神の救いへと招かれていることを知らされるのです。そして、「わたしたちはどうしたらよいのか」という問いが生まれます。

ペトロは答えました。【38~39節】。ペトロの説教を聞いた人たちに聖霊が働き、彼らの心を刺し貫き、ヘブライ人への手紙のみ言葉で言えば「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して」、彼らに罪の自覚を与え、また神の救いを願い求める信仰を与えました。次に彼らがなすべきことは、悔い改めです。悔い改めとは、生きる方向を変えることです。これまでは、神なき世界で、神から離れて生きていた罪を認め、方向転換をして神の方に向かって進んでいくこと、これまでは、自分を中心に生きていた罪を告白し、神を中心とした生き方へと変わっていくこと、これまでは、この世が与えるパンだけによって生きてきた罪を知らされ、神のみ言葉にこそまことの命があることを信じること、それが悔い改めです。そして、神から差し出されている救いの恵みを感謝して受け取ること、それが救いです。

これが、ペンテコステの日に起こった出来事の重要なポイントの三つ目です。この日に誕生した教会は、神のみ言葉を聞きつつ、悔い改めつつ、そして神から与えられる恵みに感謝しつつ生きる信仰者の群れです。

ペトロは、悔い改め、信じた人たちに洗礼を受けることを勧めています。洗礼は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪ゆるされ、新しい命に生かされていることの目に見えるしるしとして、また体で体験するしるしとして行われます。洗礼はその救いの出来事がわたし個人のことであるだけでなく、教会全体にかかわる出来事であり、教会の誕生と教会の存続にかかわる出来事であるということを、教会の群れ全体で確認する儀式でもあります。

洗礼は主イエス・キリストのみ名による洗礼です。主キリストのみ名による洗礼とは、洗礼が主キリストのみ名のもとで行われる儀式・聖礼典であるという意味と、主キリストのみ名の中へと洗礼される、沈められるという意味をも持っています。すなわち、主キリストのみ名の中へと招きいれられる、主キリストのみ名と一体されるということです。使徒パウロはローマの信徒への手紙6章3~4節でこのように書いています。【3~4節】(281ページ)。また、コリントの信徒への手紙12章13節ではこう言っています。【13節】(316ページ)。つまり、主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主キリストと一つにされ、また同じように一人の主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは一つの聖霊に結ばれ、一つの主キリストの体とされているということです。聖霊は教会を一つの、召された群れとして結集させてくださいます。

ペンテコステの日に起こった聖霊の注ぎと教会の誕生は二千年後の今日も絶え間なく継続されています。わたしたちは主の日ごとの礼拝に集められ、神のみ言葉を聞き、悔い改めと信仰とをもって、主キリストの体なる教会にお仕えしていきましょう。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが永遠の救いのご計画によって、全世界に主イエス・キリストの教会をお建てくださり、教会の民をお集めくださいますことを感謝いたします。あなたはこの日本にも、この秋田の地にも、信じ救われた者たちをお集めくださり、きょうの主の日の礼拝をささげさせてくださいました。どうか、わたしたちがあなたのみ言葉に聞き従い、主キリストの福音の証し人としてあなたにお仕えしていく者としてください。

〇感染症の拡大によって大きな困難の中にある世界と日本を顧みてください。あなたの癒しと慰めとが苦しみと痛みの中にある一人一人の上にありますように。あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月3日説教「罪人をお招きになる主イエス」

2021年1月3日(日)秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章6~13節

    ルカによる福音書5章27~32節

説教題:「罪人をお招きになる主イエス」

 ルカによる福音書5章27節以下に書かれている徴税人レビが主イエスの弟子として召されたという記事は、共観福音書にほとんど同じ内容で報告されています。ただ、その名前は、ルカ福音書ではレビですが、マタイ福音書9章ではマタイとなっており、マルコ福音書2章ではアルファイの子レビとなっています。レビとマタイは同一人物で、主イエスの12弟子の一人だったと推測されています。ただし、マタイ福音書を書いたと考えられているマタイと徴税人マタイあるいはレビとは同じ人物ではありません。

 きょうは、徴税人レビの召命について記したみ言葉から、わたしたちが信仰者として、キリスト者として召されるとはどういうことなのか、またわたしたちは新しいこの一年を信仰者としてどのように生きていくべきなのかを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 では27節を読みましょう。【27節】。ここでまず「見て」という言葉に注目しましょう。前回学んだ20節にも同じ言葉がありました。【20節】。2節にもありました。【2節】。主イエスはガリラヤ湖の漁師が一晩中網を降ろしても一匹もとれずに、疲労困憊している様子をご覧になりました。長く寝たきりの友人をベッドのまま運んできて、屋根をはいでまで、何とかしてその人を主イエスのみもとへと連れていこうとした人たちの愛と奉仕を見ておられました。あるいはまた、徴税人レビが法外な税金を取り立てて私腹を肥やし、それゆえに人々から罪びと呼ばわりされていた様子をもご覧になっておられます。主イエスは一人一人のさまざまな様子をすべてをご覧になっておられます。主イエスはまた、わたしたちの日々の歩みのすべてをご覧になっておられます。そして、それぞれの状況ふさわしい救いの道を備え、それぞれの人にふさわしい救いの恵みをお与えくださいます。そのことを信じて、わたしたちは感謝と喜びと希望とをもって新しい年の歩みを始めることをゆるされています。

 以前にも確認しましたように、主イエスが何かをご覧になる時、そこに救いの出来事が起こります。主イエスの目が徴税人レビに注がれる時、彼の身に救いの奇跡が引き起こされます。彼が「収税所に座っているのを見て」と書かれています。「座る」とは、ある意味でその権力や特権にしがみついていることを意味します。収税所での仕事は彼にとって大変好ましく、捨てがたい椅子でした。この時代の徴税人について少し説明を加えておきます。税金はイスラエルを支配していたローマ帝国に払う住民税ですが、彼はその地域の徴税総額を入札によって競り落とし、実際にはその金額よりも多くを住民から徴収して、その差額を自分の懐に入れます。これは不正ということではなく、徴税人に認められていた権利のようなもので、人々はそのことをよく知っていました。それで、徴税人は神の民であるイスラエルを神なき異邦人に売り渡している不信仰のゆえに、また自らの権力によってお金をもうけている悪徳商人として、人々に嫌われ、罪びとと呼ばれていました。30節で、ファリサイ派や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難していることからもそのことが分かります。

 そのような徴税人を、多くのユダヤ人は、時に憎しみや、あるいは妬みの目で見ることがあっても、愛の目で彼を見る人はだれもいません。ところが、主イエスはそのような徴税人レビに目をおとめになります。主イエスの目は彼のすべてを捕えます。彼がこれまでに主イエスと会ったことがあるのか、主イエスの説教を聞いたことがあったのかということに関しては聖書は何も語りません。彼がどれほどにこの職業に固執していたか、あるいは、みんなから嫌われて孤独であったのか、何かに迷い道を求めていたのか、というようなことに関しても、何も語られてはいません。

 聖書はただこのように語ります。「『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)と。レビを見られた主イエスの目と彼に語りかけられた主イエスの招きのみ言葉が、すべてです。このような主イエスの招きが、全く何もないところで、全く何の条件とか理由とか保証とかもないところで、しかも、全く選ばれる可能性も資格もないレビに対して語られた主イエスの招きのみ言葉が、新しい出来事を生み出すのです。レビの信仰を生み出すのです。レビの服従を生み出すのです。

 ここでだれかは次のような疑問を投げかけるかもしれません。レビは彼が持っていたすべてのものを投げ捨てて主イエスに従ったと書かれているけれども、それは冷静な判断だったのか、彼はだれかにそのことについて相談しなかったのか、家族や友人たちには何も相談もなく、彼一人で直ちに判断したのは、あまりにも大胆で危険ではないか、と言うかもしれません。聖書がそのことについて何も語らないのは不親切ではないのか、と。

しかし、実は聖書は何も語っていないのではなく、十分語っているのです。主イエスの目が徴税人レビに注がれた時、そして主イエスの招きのみ言葉が彼に語られた時、そこにすべての答えがあります。主イエスは彼のすべてを見ておられ、知っておられるのです。彼の過去も現在も未来をも。レビが主イエスのことを十分に知らないとしても、主イエスは彼のことをすべて知っておられます。そして、主イエスは彼のすべてを受け入れ、引き受けておられるのです。それゆえに主イエスの招きのみ言葉は彼を強く捕らえ、彼に信仰の決断を可能にしているのです。彼が主イエスのみ言葉に聞き従う時、主イエスが彼に必要なすべてのものを備え、彼が歩むすべての道を導かれるからです。

レビはこのような主イエスの目と招きのみ言葉に捕らえられました。その時、彼が主イエスを信じて、主イエスに従うという信仰の奇跡が起こるのです。信仰とはいつの場合でも主イエスが引き越してくださる奇跡です。わたしが長い間熱心に求め続けてついに到達したと思っている信仰であれ、父や母から受け継いできた自然な道のりであれ、迷いと戦いの末に見いだした道であれ、信仰とはだれにとっても、主イエスが起こしてくださった奇跡であり、選ばれるに値しない罪多きわたしに主イエスの一方的な愛と選びによって与えられた奇跡としての信仰なのです。レビの場合がそうであったように。

29節から第二の場面が展開されます。第一の場面との密接な関連の中で展開されていきます。主イエスの一方的な愛と選びによって弟子として招かれたレビは、主イエスのためにすべてをささげてお仕えする信仰の道を歩みだしました。主イエスの恵みに感謝し、主イエスと隣人に奉仕する生活が始まります。彼は自分の家に主イエスをお招きし、食事のもてなしをします。徴税人仲間やユダヤ人社会から罪びとたちとして排除されていた人たちもこの食卓に招かれています。けれども、本来の食卓の主はレビではなく、主イエスです。その証拠に、30節のファリサイ派や律法学者の非難に対して答えておられるのは主イエスだからです。【30~32節】。罪びとたちをみ前にお招きになり、その罪をおゆるしになる主イエスこそがこの食卓の主なのです。この食卓は教会の聖餐式を暗示しています。終わりの日の神の国での大宴会を象徴しています。レビはこの食卓のために主イエスと隣人たちのために仕えています。それゆえに、持っているものすべてを捨てて主イエスに従った彼は何と幸いなことでしょう。彼には神の国が約束されているからです。

ところが、主イエスの招きと救いの出来事が起こる時、それを拒絶する人間の罪もまた明らかにされます。これは聖書全体に共通している原理のようなものです。神の救いのみわざが行われる時、その救いを拒み、それを喜ばない人間の罪もまたそこで明らかにされていくということが、聖書の中ではしばしば起こります。特に、福音書の主イエスの救いのみわざの際に、そのことが浮かび上がってきます。主イエスから与えられる救いの恵みが差し出される時、それを受け入れて喜び感謝する信仰者と、なおもかたくなに自分自身の罪の中に留まり続けようとし、それだけでなく、主イエスに反逆し、主イエスをこの世から取り除こうとさえする人間の罪があらわになってくるのです。

ファリサイ派と律法学者たちは主イエスと弟子たちが罪びとたちと一緒に食卓を囲んでいることが不思議であり、それはユダヤ人の宗教指導者にはふさわしくないと考えました。というのは、神の国の教えを説く教師たるものは、注意深く罪や汚れからその身を遠ざけるべきだと彼らは考えていたからです。ファリサイという彼らの名称は「分離された者たち」という意味を持っています。自分たちは神の国に最も近く、神の救いを得るのに最もふさわしい。だから、罪びとたちから分離されたグループであり、神を知らない異邦人のために働く徴税人や、律法を守らない罪びとたちとの交わりを避けるべきだと彼らは主張していたのです。

けれども、主イエスが語られた神の国の福音は彼らが考えていた律法による救いとは全く違っていました。主イエスは言われます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであり、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。これこそが主イエスの福音です。だれ一人神の律法の前で完全な人はいません。神の律法を守り行って救われる人はだれもいないのです。のちに使徒パウロが言うように、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマの信徒への手紙3章20節)。

主イエスはそのような罪人をお招きくださいました。そのような罪人に救いの道を備えてくださいました。「罪びとを招いて悔い改めさせるためである」と主イエスは言われます。まず、主イエスの招きがあります。主イエスの救いへの招きがすべての人に備えられています。その救いの道へと招かれた人は、自らの罪を知らされ、悔い改めて神に立ち返る信仰が与えられるのです。したがって、悔い改めとは、わたしが神に立ち返るよりも先に、主イエスがわたしを神のみ前にお招きくださっておられるということを知ること、主イエスがわたしのためにすべての救いのみわざをなしてくださったということを信じ、受け入れ、それに感謝することです。

宗教改革者たちが言ったように、「わたしたちはみな常に罪びとです。しかしまた、常に罪ゆるされている罪びとです」。それゆえに、わたしたちは日々悔い改めつつ、また日々主のお招きに感謝をもって応えつつ、この一年も主が備えたもう信仰の道を歩み続けていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを新しい年の最初の主の日の礼拝にお招きくださったことを心から感謝を致します。あなたの恵みと慈しみとは、とこしえからとこしえまで変わることはありません。どうか、あなたが創造された天地万物を豊かに祝福してください。大きな苦難と試練の中にあるこの世界のすべての人々にまことの救いをお与えください。また、特にあなたがお選びくださった教会の民を強めてください。勇気と希望とをもって、主キリストの福音を宣べ伝えていくことができるように、聖霊なる神のお導きを祈り求めます。どうか、あなたのみ心が全地に行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月27日説教「エジプトでのアブラハム」

2020年12月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章10~20節

    マタイによる福音書2章13~23節

説教題:「エジプトでのアブラハム」

 アブラハムは神のみ言葉に導かれて、生まれ故郷カルデアのウルを出発し、ユーフラテス川を北上してハランに移り、そこから南下して神が約束された地カナンに移っていきました。カナンに入ってからの彼の足跡は彼が築いた祭壇によってたどることができます。創世記12章7節には、最初の地シケムで、「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれており、また8節には、ベテルに移ってからは、「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。アブラハムは生涯、定住の場所を持たず、地上では旅人、寄留者として歩みました。けれども、何の目的も持たずにさまよう旅人ではなく、気まぐれに旅を楽しむ旅行者でもありませんでした。彼の歩みは祭壇から祭壇へ、礼拝から礼拝への歩みだったのです。彼は信仰の旅人でした。彼は神を礼拝し、神のみ言葉を聞き、神に導かれた旅人でした。

 アブラハムを信仰の父とするわたしたちキリスト者もまた、祭壇から祭壇へ、神礼拝から神礼拝へ、主の日から主の日へと続く歩みを続けます。わたしたちもまた礼拝で語られる神のみ言葉を聞きながら、そのみ言葉に導かれながら、この一年を歩みました。また、来る年もそのようにして歩みます。そして、神の約束の地を目指して、神が終わりの日に完成される神の国を目指して、地上では旅人、寄留者として生きるのです。

 9節に、「アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」と書かれています。ネゲブは神の約束の地カナンの最南端にあります。その南は砂漠が広がる乾燥地です。アブラハムがなぜネゲブという、住むには適しない乾燥した高地へと移動したのか、その理由は書かれていません。それが神の導きだったのか、あるいはそこに住んでいたカナン人に追われたので、草原地帯の北部から砂漠に近い南部のネゲブへと追われてきたのかもしれません。いずれにしても、アブラハムにとって重要なことは、神の約束の地に留まることでした。神が7節で、「あなたの子孫にこの地を与える」と約束された神のみ言葉に留まり続けることでした。

 ところが、次の10節を読むと、アブラハムは約束の地の南端に当たるネゲブからさらに南下しようとしたことを知らされます。【10節】。これまでは神の導きに従って生きてきたアブラハムでしたが、ここで彼自身が、自分の判断で、新しい道を歩もうとしています。神の約束の地カナンを捨てて、はるかに遠い異国の地エジプトに移ろうとしています。これは、信仰の父アブラハムにとって、神の約束の地に生きるアブラハムにとって、大きな誘惑であり、試練なのではないでしょうか。彼の前に今、パンの問題が、生活の問題が大きく立ちふさがっているのです。彼はそれをどのように解決し、乗り越えていくべきでしょうか。

 わたしたちがこれまで見てきたように、アブラハムの歩みは神のみ言葉に導かれていました。それが今、飢饉という生活の問題のために、彼自身と家族を飢えから救うためという、パンの問題が彼の歩みを変えようとしているのです。このアブラハムの選択は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」という神のみ言葉に背く罪になるのではないか。それとともに、神が約束された地から去ることは、神の約束を捨てることになるのではないか。この選択は信仰の父アブラハムにとっては失敗になるのではないか。

 多くの信仰者はそのような疑問や不安を抱くでしょう。確かに、カナンの地での飢饉はひどかったと強調されていますが、またナイル川流域のエジプトにはたくさんの食糧があるというニュースがアブラハムの耳にも届いていたでしょうし、家族を飢饉から救うためにはこの選択以外には考えられないと言えるでしょう。しかしながら、わたしたちの信仰の父であるアブラハムはここで神の約束のみ言葉を捨てることはしてほしくないと、多くの人は願うに違いありません。でも、アブラハムは失敗します。エジプト行きを決断します。

聖書はアブラハムのエジプト行きの決断を失敗であるとか、神に背く罪であると、あからさまに語ってはいません。それが人間の当然の選択であるかのように、冷静に、淡々と語っています。しかし、そのあとに続く彼の失敗をわたしたちは見逃すことはできません。

【11~13節】。最初の失敗が、すぐに次の失敗を生みます。神のみ言葉から離れ、神の約束の地から離れたアブラハムの心に不安が襲ってきました。彼は自分の妻が美しいことが気がかりです。そのことが自分の命取りになることを恐れています。彼はエジプトで起こることを予想しています。エジプト人は彼の妻の美しさに注目するでしょう。そして、妻を自分のものにしようとし、邪魔になる夫である彼を殺すでしょう。美しいものを手に入れるために、古代から現代に至るまで、人間は多くの血を流してきました。アブラハムはそのことをよく知っています。

そこで、彼は一つの策を考えました。妻の美しさを自分の命と利益のために利用することです。そのためにうそをつくことを考えます。妻を自分の妹だと偽ることです。そうすれば、美しい妹のためにエジプト人から自分も優遇されるに違いないと考えたのです。このアブラハムの考えは賢いように思えました。そのことを提案された妻サライも同意したようです。

そして、エジプトでは事実アブラハムが考えた通りに事が運びました。サライはエジプトの王ファラオの宮廷に召し入れられました。アブラハムは王から厚くもてなされ、多くの財産を手に入れることができました。彼の計画は見事に成功したように見えます。彼自身の目にも、エジプト人の目にも。そしてわたしたちの目にもそのように見えます。アブラハムのエジプト行きは決して失敗などではなく、むしろ成功だったのではないでしょうか。大飢饉から逃れてやってきたこのエジプトで、彼はあり余るほどのパンを手に入れただけでなく、幸いを得て、裕福になり、大成功をおさめたかのように思えます。だれの目にもそのように映ります。人生の成功者アブラハム、知恵あるアブラハム、幸運なアブラハム。彼はもう信仰の父アブラハムと呼ばれなくてもよいほどの多くの恵みを手に入れたのでしょうか。しかし、ここに突然に神がお姿を現されるまでは、だれにもそのように思われました。

【17節】。ここで突然に主なる神の激しい怒りと裁きが下されました。そして、神なしで進められてきたアブラハムの計画が神によって中止させられることになったのです。12章10節以下のエジプトでのアブラハムの生涯の中でただ一度、この17節で「主」という言葉が出てきます。そして、この主なる神が、エジプトでのアブラハムの計画とその成功談に突然に「ストップ」をかけるのです。いや、それだけでなく、アブラハムのエジプト行きとその時に彼が考えた計画のすべてが、実は大きな失敗であったのだということが、ここで明らかにされるのです。

わたしたちはアブラハムのこの失敗からいくつかのことを学ぶことができます。その一つは、彼が飢饉と飢えから逃れるためにエジプト行きを選択したことはやはり大きな失敗だったということです。彼はそこのことを神なしで決断しました。たとえ家族を飢えから救うためだったとしても、だから神のみ言葉に聞き従わなくてもよいということにはなりません。飢えの問題、パンの問題もまた神に聞き従うことで解決すべきであり、また神は解決の道を備えてくださいます。 

 また、アブラハムが神なしで選択した道は、結果的に神の約束の地を失うことにもなりました。それに加え、彼は妻のサライをも失ったのです。彼は自分の命を救うために、妻を犠牲にしました。妻の人格と尊厳性を投げ捨てました。妻との夫婦の関係を破棄しました。それだけではありません。神がアブラハムにお与えくださったもう一つの約束、「あなたの子孫は大きな民となる」という約束は、妻サライなしには果たされません。アブラハムはその約束をも投げ捨てたのです。多くの民の母となるべく神に選ばれていた妻サライをアブラハムはエジプト王に売り渡したのです。それは妻への愛に背く行為であるだけではなく、のち時代のアブラハムを信仰の父と仰ぐすべての信仰者たちに対する背きであり、それ以上に神ご自身に対する背きであり、罪であったのです。

 実に、ここでは神の約束そのものが、神がお立てくださったアブラハム契約そのものが、危機に瀕しているのです。神が永遠の初めから計画しておられた救いのみわざが中断されるという危機にあるのです。神がアブラハムをお選びになり、すべての国民の信仰の父とされたこと、神がアブラハムの子孫を増やし、大きな民とすること、また神がアブラハムの子孫にカナンの地を受け継がせるということ、その神の約束と契約のすべてが、今危機にさらされているのです。それゆえに、ここで神が登場されます。神がアブラハムの失敗の道に終止符を打たれます。それによって、神はご自身の救いのご計画を前進させられます。

 その時、事態が大きく動きました。【18~20節】。ファラオがこのとき神のご計画を理解していたのか、神の裁きを恐れて、信仰的な判断をしてこのような行動をとったのかについては、分かりません。はっきりしていることは、ここでも確かに神が働いておられるということです。神がファラオにこのような行動をとらせておられるということです。そして、神はアブラハムとサライを取り戻されました。彼らを約束の地へと、神の約束の中へと、連れ戻されました。13章1節に書かれているように、二人は約束のカナンへと戻っていきました。

 わたしたちはここでもう一つのことを確認しておきましょう。アブラハムの神、イスラエルの神は、ここエジプトの地でも神であられ、この地にもアブラハムと共におられたということです。アブラハムは神を捨てました。アブラハムは神の約束の地を捨てました。けれども、神はアブラハムを決してお見捨てにはなりませんでした。神がアブラハムとの契約をお忘れにはなりませんでした。アブラハムが失敗とつまずきを繰り返し、神の道からそれていった時にも、それによって神の約束を失い、また共に神の約束を担っていくべき二人が引き裂かれた時にも、神は彼らをお見捨てにはならず、ご自身がお立てくださった契約をお忘れにはなりませんでした。

 信仰の父アブラハムもまた失敗します。つまずきます。神に背くことがあります。けれども、それによって彼がのちの時代のすべて信じる者たちの信仰の父であることをやめるのではありません。なぜなら、神がそのようなアブラハムと共にいてくださり、彼の罪をおゆるしくださるからです。神はアブラハムの失敗の時にも彼と共におられ、彼の罪をゆるされ、彼との約束をお守りになりました。それゆに、アブラハムは確かにわたしたちすべての信仰者たちの信仰の父であり続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちのつまずきや不忠実や不信仰をもあなたはおゆるしくださり、この一年の一人一人の歩みをお恵みをもってお導きくださったことを、心から感謝いたします。どうぞ、わたしたちを終わりの日まであなたの契約の民としてお導きくださいますように。わたしたちに真実な悔い改めの心を与え、あなたへの信頼と服従を増し加え、あなたへの信仰を貫いていくことができますように。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、主キリストの福音が届けられますように。すべての人に天からの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。