11月26日説教「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

2023年11月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章6~8節

    使徒言行録10章24~33節

説教題:「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

 使徒言行録10章に描かれている、カイサリアのコルネリウス一族が主イエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けたという出来事は、初代教会の歴史の中で、非常に大きな意味を持つ出来事でした。主キリストの福音が、先に神に選ばれたユダヤ人にだけでなく、異邦人と言われていたユダヤ人以外の人にも語られ、信じられ、救いの出来事として起こったということ、またそのことが神ご自身のお導きによって起こったということ、しかも最初に建てられたエルサレム教会の指導者であったペトロの働きによってそのことが起こったということ、それらのことがここでは語られているのです。

 きょう朗読された24~33節では、コルネリウスとペトロが直接に出会ったことが語られています。そして、二人が出会うきっかけとなった、二人が見た幻について、それぞれの口からもう一度改めて報告されます。実は、同じような内容が11章ではエルサレム教会に報告するペトロの口で繰り返されています。つまり、異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロが見た幻によって、二人が出会うことになったという出来事が、ほとんど同じ内容で3回も繰り返されていることになります。このことが、初代教会にとっていかに大きな意味を持っていたかが分かります。

でもここでは、二人の出会いのきっかけになったことがただ同じように繰り返して語られているだけではなく、その出会いを導かれた主なる神の深いみ心がここで明らかにされているのです。その点に注目して読んでいきましょう。

 【24節】。ペトロが滞在していたヤッファからカイサリアまでは地中海沿岸に沿って50キロメートルほどありますから、どんなに急いでも一日二日はかかります。コルネリウスから派遣された3人の使いがヤッファに着き、そこでペトロに事情を話し、翌日ペトロがヤッファの信者たち数人を伴ってコルネリウスの家を訪問するという、往復100キロの道のりを行き来し、ユダヤ人と異邦人との出会いの場面が展開されていくことになります。神の導きにより、主イエス・キリストの福音が異邦人にも語られる場が、このようにして備えられていくのです。

 コルネリウスの家には家族のほか、親類、あるいはローマの兵士たちもいたでしょうが、多くの人たちがペトロの到着を待っていました。27節には、「大勢の人が集まっていた」とも書かれています。彼らはペトロの到着を待っていたと言うよりは、主キリストの福音が語られる時、彼らに救いの恵みが差し出される時を待っていたと言うべきでしょうが、ここに異邦人伝道の大きな成果がすでに備えられ、異邦人にも主キリストの福音が届けられるという、大きな扉が開かれようとしているのです。

 【25~26節】。コルネリウスがペトロの「足元にひれ伏して拝んだ」のは、ペトロを神のようにあがめたということなのか、それとも尊敬する宗教家に対する普通の歓迎の態度なのか、理解が分かれるところですが、しかしまたその両者には簡単に入れ替わるという危険性もあるように思われます。ある聖書注解者は、1930年から40年代にかけてのドイツでのことを思い起こしています。初めは一人の英雄を尊敬するしるしであった「ハイル・ヒトラー」と称える敬礼が,やがて神に等しい独裁者に対する絶対的服従のしるしとなっていったように、人間をいとも簡単に神のようにあがめるようになるという事例は、いつの時代にも数多くあります。

 ペトロはそのような危険を見ぬいていたのかもしれません。すぐにもコルネリウスの体を起こして、「わたしもただの人間です」と応えています。ここには、コルネリウスの間違った人間崇拝を指摘し、それを訂正するという意味だけではなく、ここで大きな主題となっているユダヤ人と異邦人の関係を背景にして考えてみると、もっと大きな意味が含まれているように思われます。すなわち、ペトロがここで言っていることは、主なる神のみ前ではすべての人間は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、みな同じ人間であり、みな同じ神によって創造され人間であり、そしてまた、みな同じ罪の人間であり、主キリストによって罪のゆるしを必要している人間なのだということが、ここでは明らかにされているのです。ユダヤ人も異邦人も共に罪を悔い改め、罪ゆるしの福音を聞き、一つの救われた教会の民とされるということがここから始まって行くのです。それゆえに、ここですでに、異邦人への福音宣教の扉が開かれているということに、わたしたちは気づかされます。唯一の主なる神のみ前に立つとき、すべての人間は、民族とか社会的地位とか、その他どのような違いをも超えて、共に主なる神を礼拝する一つの教会の民とされるのです。

 28節から、ペトロが集まった多くの異邦人に対して語りだします。ペトロはここで、9節以下に描かれていた、彼が見た幻について語っています。ところが、ここでは9節以下でわたしたちがすでに学んだような、ユダヤ人が重んじていたいわゆる「食物規定」、すなわち、宗教的に汚れた、食べてはならない生き物と、食べても良い生き物とを定めた律法のことではなく、人間の中での清い人間と清くない人間との区別のことが問題になっています。

 【28~29節】。ユダヤ人が外国人と交際してはならないと、はっきりと定めている律法は旧約聖書の中には見いだすことはできませんが、ユダヤ人が神とイスラエルとの契約に基づき、その信仰を守るために他の民族の宗教や慣習に習わないようにという趣旨の言葉は数多くあります。主イエスの時代には、ユダヤ人以外の異邦人との接触をできるだけ避けるようにとか、特にサマリア人は同じ民族でありながら外国人と交わって汚れた者になったので、あいさつもしてはならないというような考えが一般に広まっていました。また、異邦人は「食物規定」に定められているような宗教的に汚れた生き物を日常的に食べ、あるいは偶像に備えられたものに触れたり食べたりして、彼らの体も宗教的に汚れているので、彼らと接触すれば自分も汚れると言われていたようです。パウロの書簡からもそのような慣習があったことが伺われます。

 ところが、ペトロが幻を見たのと時を同じくして、彼があの幻の意味は何だろうかと深く思いを巡らしていたその時に、18節に書かれていたように、コルネリウスから派遣された使いがペトロのもとにやってきて、「ためらわずに一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」との神のみ声を聞き、神が異邦人と自分との交わりの時を備えたもうたのだということにペトロは気づいたのです。あの幻は「食物規定」を神ご自身が乗り越えさせ、すべての生き物、すべての食物は神によって清めされているのだということをペトロに示されただけでなく、すべての民、すべての民族、すべての人が、みな神によって清められ、神によって救いへと招かれていることを、自分にお示しくださったのだ。あの幻の本来の意味はそのことだったのだ。だから神は「ためらわずに異邦人の家に行きなさい」とお命じになったのだということに、ペトロは気づいたのです。ペトロはその神の招きを受けて、コルネリウスの家にやってきたのです。

 次に、30節以下では、コルネリウスがヤッファにペトロを呼びにやったのもまた主なる神の導きであったことが明らかにされます。【30~33節】。コルネリウスはここで、3節以下に書いてあった、彼が見た幻と神がお告げになったみ言葉を繰り返してペトロに告げています。コルネリウスもペトロも祈りの時に神の啓示を受け、幻を見、神のみ言葉を聞きました。異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロはすでに祈りによって神と交わり、また共に祈りによって交わっていたのです。一つの祈りの群れてされていたのです。

 ペトロがヤッファで皮なめし職人シモンの家に泊まっていたと33節で繰り返されていますが、このこともこれまでも何度か言われていました。9章43節と10章6節にも書かれていました。同じことが3回も繰り返されているのには理由があると考えられます。当時、皮なめし職人は最も尊敬されない職業の一つであったと言われます。そのような皮なめし職人であるシモンもヤッファの教会員の一人であり、エルサレム教会からの重要な客人であるペトロを泊めるという名誉を与えられていたのです。ここにはすでに、職業や民族、社会的な地位やその他どのような人間的な違いをも乗り越えて、すべてのキリスト者を一つの群れ、一つの教会として召し集められる主なる神のみ心が働いていたことを読み取ることができます。

 コルネリウスは自分が四日前に神から示された啓示によって、ペトロを自分の家に招くことになったいきさつについて説明をしました。ここに至って、コルネリウスとペトロは、自分たちが今ここで出会うことになったのはすべて神のお導きであったことを知らされました。ユダヤ人であるペトロが異邦人であるコルネリウスの家を訪問し、共に一つの神の救いのみわざにあずかることが許されたという、大きな恵みに気づかされたのでした。このようにして、主イエス・キリストの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも、すべての国民、すべての人にも差し出されるようになったのでした。神が天地万物を創造された時から始められていた全人類のための永遠の救いのご計画が、このようにして実現されていったのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが天地創造の初めからご計画しておられた全人類の救いのご計画が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就し、初代教会の働きをとおして具体化されていった次第を、わたしたちは使徒言行録から学ぶことができました。あなたの救いのみわざは、終わりの日のみ国が完成される日まで続けられます。どうか、この国においても、またアジアの諸国と全世界においても、あなたの救いのみわざが力強く押し進められますように。すべての人に主キリストの福音が届けられますように。

○全世界の唯一の主であり、愛と恵みと義であられる天の父よ、罪と悪に支配され、争いや分断、殺戮や破壊の止まないこの世界を哀れんでください。あなたからのまことの平和と共存をこの地にお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月19日説教「契約の民イスラエルのエジプト移住」

2023年11月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記46章1~7、28~34節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「契約の民イスラエルのエジプト移住」

 創世記37章から始まった「ヨセフ物語」は、彼の波乱に満ちた20数年の生涯を経て、きょう朗読された46章になって、当初は全く予想もされなかった結末へと至ることになりました。46章と47章には、ヨセフを頼ってエジプトへ移住することになったヤコブ(すなわちイスラエル)一族のことが描かれています。きょうはイスラエル一族のエジプト移住というテーマについて、創世記のみ言葉を読みながら考えたいと思います。

 ヨセフの20数年の生涯を今一度簡単に振り返ってみましょう。彼はヤコブ(イスラエル)の12人の子どもの中で11番目に生まれました。父ヤコブの年寄子でしたから、特別に父の寵愛を受けて育てられました。そのことで、兄たちの反感と憎しみをかい、ヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされることになりました。この時から、まだ若かったヨセフは父や兄弟たちから離れて、故郷のカンナの地からも離れ、異教の地エジプトでの孤独と不安の中での、試練と困難に満ちた歩みを始めることになりました。

 けれども、主なる神はエジプトの地でもヨセフと常に共にいてくださり、彼を恵み祝し、彼に知恵をお与えになったので、ヨセフはエジプト王ファラオによって用いられ、エジプト国内の最高の地位である宰相・総理大臣の地位に就くことになりました。そして、彼が預言したように全世界を襲った7年間の大飢饉のときに、食料を求めてカナンからエジプトのやってきた11人の兄弟たちと宰相になったヨセフとが、全く不思議やめぐりあわせによって、20数年ぶりで再会したのでした。わたしたちは前回45章でその時のヨセフの印象深い和解の言葉を聞きました。もう一度その個所を読んでみましょう。

 【45章4~8節】。ヨセフは自分をエジプトに売り飛ばした兄たちに対して、自分の方から和解の手を差し伸べ、彼らの憎しみや悪を許しています。このヨセフの愛に満ちた信仰は、主なる神が常にエジプトで自分と共にいてくださり、最も良き道を備えてくださったという、神の大いなる恵みへの感謝の応答としての信仰なのです。子どものころの生意気で一人よがりの夢見る少年と言われていた小年ヨセフが、今や神によってこのように変えられたのです。

 11人の兄弟たちが二度目に穀物を求めてエジプトにやってきたときに、ヨセフはこれからも5年は続くであろう飢饉に備えて、父ヤコブとその一家のエジプト以上を勧めました。父ヤコブはずっと以前に死んだと思っていたヨセフがエジプトでまだ生きていたことを知り、死ぬ前にぜひ彼の顔を見たいという願いもあったので、エジプトへの移住を決断しました。

 【46章1節】。ヤコブ(イスラエル)は旅立つ際にまず神を礼拝します。族長ヤコブにとってこの礼拝は大きな意味を持っていました。何か新しい決断をして、新しい道を歩み始めようとする際に、神のみ心を問うことは、信仰者にとって重要です。人間的な思いや、この世的な利害だけを考えて人生の道を選択するのではなく、神のみ心をたずね求めつつ決断をすることは、わたしたちにとっても重要です。わたしたちが大きな決断を迫られたとき、あるいは道に迷ったとき、困難や不安に襲われた時、わたしたちがなすべき第一のことは、神を礼拝すること、神のみ言葉に聞き、神に祈り、神に服従することです。

 ヤコブにとってのエジプト移住は、彼の人生の中で、しかもわずかに残されている人生の晩年で、非常に大きな決断であったと言えます。長く続く飢饉から一族の命を守ることが族長の務めであり、また死んだと思っていた最愛の息子ヨセフの顔を最後に見たいという切なる願いもありました。

けれども、ヤコブには不安も残っていました。父祖アブラハム、イサクから受け継いだ神の契約に生きることが、ヤコブにとっての最も重要な使命であるということを、彼は忘れてはいません。神は父祖アブラハムにこう約束されました。「わたしはこの地カナンをあなたとあなたの子孫の永久の所有として与えるであろう」(12章7節、13章15節参照)と。しかし、神の約束の地カナンを離れて、異教の地エジプトに移住することは、この神との契約を破ることになるのではないか。そうなれば、神からの祝福を失ってしまうのではないか。ヤコブは神のみ心を聞かなければなりません。そのために、彼は神を礼拝するのです。

【2~4節】。神はヤコブの祈りに直ちに応えてくださいます。ここでは、ヤコブ一族がエジプトに移住することは神のみ心であるとはっきりと語られています。飢饉を避けて、あるいは父と最愛の息子との20数年ぶりの再会とか、そのような人間的な理由をはるかに超えて、主なる神が彼らをエジプトへと導かれるというのです。そして、彼らはエジプトで大いなる国民となると神は約束されます。さらに、神は再び彼らを約束の地に連れ戻すと言われます。ヤコブ(イスラエル)一族のエジプト移住は神のご計画であり、しかも神は異教の地エジプトにあっても彼らと共にいてくださり、彼らを契約の民として導かれ、それだけでなく、そこで彼らを養い育て、彼らを大いなる民に成長させてくださると言われるのです。

実は、この神の約束はすでにアブラハムに対して神がお語りになった約束だったのです。【15章13~14節】(19ページ)。神の幾世代にもわたり、幾世紀にもわたる壮大な救いの歴史が、創世記から出エジプト記へと連続していくことになるのです。否、それだけではありません。神の永遠の救いの歴史は、やがて全人類のための救い主である主イエスの誕生へと連続していくということを、わたしたちは知っています。

次に、46章8~27節には、きょうは朗読をしませんでしたが、ここにはエジプトに移住したヤコブ、すなわちイスラエルの全家族のリストが挙げられています。イスラエルの12人の子どもたちとその家族、合計70人であったと書かれています。出エジプト記1章5節にも70人という数字が書かれています。申命記10章22節にはこう書かれています。「あなたの先祖は70人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた」。

400年後、あるいは別の記録では430年後に、モーセに率いられてエジプトを脱出した民は60万人であったと出エジプト記12章37節に書かれていますが、これは随分と誇張した数であろうと多くの学者は考えているのですが、それにしても70人で移住したイスラエルの民がエジプトでの400年間にこれほどに増えたということを、聖書は語っています。神がアブラハムに約束されたとおりです。

イスラエルの民がエジプトでどのような信仰生活を送っていたのかについては、聖書の記録はありませんが、わずか70人で異郷の地エジプトに移住した彼らが、どのようにして彼らの信仰を守りとおしたのかを考えると、それは驚くほかにありありません。長い歴史を持つエジプト王国で、わずか70人のイスラエルの民が、2代3代と時を経るにつれて、エジプトの文化や宗教の中に溶け込んで、やがてエジプト人と区別がつかなくなり、エジプトの中に解消してしまうに違いないと、だれもが予想するでしょう。しかし、彼らは400年以上もの間、エジプトでイスラエルの民として生き続け、神の約束の民、信仰の民として増え続け、しかも神の約束のみ言葉を忘れることなく、再び約束の地カナンへと連れ帰ると言われた神のみ言葉が成就される時を待ち望んだのでした。神はその民イスラエルを、エジプトの地にあっても絶えず導かれ、養われたのでした。

46章28節以下には、父ヤコブ(イスラエル)とその子ヨセフとの20数年ぶりの再会の場面が描かれています。ヤコブは、最愛の子ヨセフは野獣に食い殺されたと、他の子どもたちからの報告を受けていましたので、彼は20数年前に死んだと思い込んでいました。そのヨセフが生きていたとは、しかもこのエジプトでそのヨセフと再会できるとは、全く予想もできないことでした。【29~30節】。この父と子の感動的な再会の場面を、聖書は感情を抑えるように、控えめに描いているように思われます。文学好きなわたしなら、もっといろんな言葉や表現を用いて、この親子の再会について描くだろうと思いますが、聖書は人間的な感情や心の動きについてはごく控えめです。しかし、そうであるとしても、ここに人間の予想や願いをはるかに超えた、主なる神の見えざるみ手が働いていたという大きな事実は、だれにも読み取ることができます。神は人間の計画とか、可能性とか、予想をもはるかに超えて、まさに奇跡として、この再会を導かれたのです。

「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」。30節のヤコブの言葉は、まさにそのことを言っているのです。父ヤコブは死んだと思っていた最愛の息子ヨセフに生きて再会できました。いわば、死からよみがえった我が子ヨセフに出会ったのです。それによって、ヨセフの人生は満たされました。

わたしたちは新約聖書の中に同じような場面を見いだします。ルカによる福音書2章25節以下に書かれている出来事です。年老いた預言者シメオンは、エルサレムの神殿で幼子主イエスを抱き上げて、このように神をほめたたえました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と。

シメオンは長くメシア・救い主の到来を待ち望んでいました。その待望の時が今満ちたのです。救い主なる主イエス・キリストと出会ったとき、彼の待望の時が満たされ、それと同時に彼の人生、彼の一生が満たされました。救い主なる主イエス・キリストと出会うことによって、わたしたちの人生、一生もまた満たされるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは全人類を罪から救うためにみ子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。み子の十字架の死によって、すべての人の罪を贖い、救ってくださいました。あなたはまた、取るに足りない小さな者であるわたしたち一人一人を、あなたの救いの恵みの中に招き入れてくださいました。心から感謝いたします。

○主なる神よ、どうかわたしたちをあなたのご栄光を現わす者としてください。あなたの救いのみわざを証しする者としてください。

○全世界をご支配しておられる天の父なる神よ、この世界にあなたの義と平和をお与えください。戦いや破壊、憎しみや分断を取り去ってくださり、和解と共存をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月12日説教「わたしたちの国籍は天にある」

2023年11月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

               逝去者記念礼拝

聖 書:ヨブ記1章20~22節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの国籍は天にある」

 16世紀の宗教改革者たちは、地上にある教会を「戦闘の教会、戦いの教会」と呼び、すでに地上の歩みを終えて天に召された信者たちの教会を「勝利の教会」と呼びました。

今この秋田の地にあって、逝去者記念礼拝をささげているわたしたちは、「戦闘の教会、戦いの教会」です。秋田教会の130年余りの歩みを振り返ってみますと、まさに「戦いの教会」であったことが分ります。時には、迫害され、教会の看板を壊されたこともあったと、古い記録に残されています。リュックサックに聖書と讃美歌を入れて、南は湯沢、横手、大曲に、北は男鹿の北浦、能代、鷹巣、北秋田の阿仁合まで、何日間も出張伝道にでかけ、雨と風の中、汗と涙を流したことも数多くありました。時には、教会内の諸問題に心を痛めたこともありました。

わたしたち一人一人の信仰の歩みもまた、戦いの連続です。時に疑ったり、つまずいたり、自らの罪と弱さに苦悩したり、日々が試練と戦いの連続です。日本国内の諸教会、世界の諸教会も、まさに今「戦闘の教会、戦いの教会」です。時には、激しい戦いを強いられ、倒れそうになったりしながら、それでも、ただ神のみ言葉にしがみついて、罪が今なお支配しているこの神なき世界、邪悪と不義がはびこっているこの世界に、主イエス・キリストの福音だけを武器にして、果敢に戦い続けています。

なぜ、戦い続けるのでしょうか。それは、いまだ神の国が完成していないからです。いまだ神のご支配が完全には実現していないからです。それゆえに、教会は2千年の歴史を刻んできましたが、いまなおこの世に残っている罪や悪との戦いを続けなければなりません。いまだ、主イエス・キリストの福音をすべての人が信じるには至っていないからです。それゆえに、教会は主イエスの福音を携えて、今なお福音宣教という困難な戦いを続けなければなりません。

ではなぜ、それでもなお戦い続けるのですか。それは、確かな勝利の約束が与えられているからです。すでに、罪と悪と戦い、勝利された主イエス・キリストが天におられ、わたしたちの地上の戦いを導いておられるからです。この天におられる栄光の勝利者なる主イエス・キリストは、十字架でご自身の罪も汚れもない聖なる血潮を流されるまでに、わたしたちに代わって、罪と戦われました。そして、三日目に復活され、天の父なる神のみもとへと凱旋されました。「見よ、わたしは世の終わりまで、神の国が完成する時まで、いつもあなたがたと共にいる」と主イエスは約束してくださいます。この勝利が約束されているゆえに、わたしたちの戦いを決して見捨てないとの約束があるゆえに、地上の教会は、またその教会に集められているわたしたち信仰者たちは、困難な戦いを今なお続けているのです。

もう一つの理由があります。地上の「戦いの教会」は、天にある「勝利の教会」を証人として持っているからです。ヘブライ人への手紙12章1節で、この手紙の著者は旧約聖書に出てくる信仰者たちの名前とその信仰の歩みを振り返った後で、このように書いています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷と絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

天にある「勝利の教会」に移された信仰者たちが、今地上にあって厳しい信仰の戦いを続けている「戦いの教会」にとっての、力強い証人なのだと聖書は教えています。と言うのは、彼らはすでに地上での戦いを終えて、地上でのすべての労苦からも解き放たれ、天におられる栄光の勝利者なる主イエス・キリストに迎え入れられているからです。天にある「勝利の教会」は、今や永遠に主イエス・キリストと固く結ばれているからです。彼らを主イエス・キリストとの交わりから引き離すものは何もありません。罪も死も、この世の肉の関係も、思い煩いも、その他いかなるものも、彼らを主イエス・キリストから引き離すことはありません。

それゆえに、彼らはわたしたち地上の「戦いの教会」にとって、確かな勝利の証人なのです。彼らがすでに主キリストの勝利にあずかっているように、わたしたちもまた天にある確かな勝利を目指して、地上での戦いを続けていくのです。たとえその戦いが、どれほど困難であろうと、どれほど長く続こうと、忍耐強く、また喜びと希望とをもって、戦い続けていくのです。

秋田教会は130年余りの歩みの中で、分かっているだけで約140人の逝去会員がおられます。礼拝のあとでそのお名前が読み上げられますが、その方々お一人お一人がわたしたちの戦いの教会に約束されている勝利の証し人たちです。ヘブライ人への手紙が教えているように、わたしたちは彼ら身近な証人たちに囲まれているのですから、彼らがすでに受け取っている勝利をわたしたちもまた確信して、地上での戦いを続けていくのです。

ヘブライ人への手紙は12章2節でこのように付け加えています。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのである」と。天にある「勝利の教会」も地上の「戦いの教会」も、共に一人の主、栄光の勝利者なる主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、礼拝しつつ歩んでいる一つの教会なのです。わたしたちは逝去者記念礼拝であるきょうの礼拝で、特にそのことを覚えていますが、きょうだけでなく毎週の主の日ごとの礼拝のすべてが、地にある「戦いの教会」と天にある「勝利の教会」とが、一つの教会として、一つの礼拝をささげているのだということを忘れずにいようと思います。さらには、まだこの教会に加えられていない人たち、家族や職場の同僚、友人、地域の人々、日本の国と全世界の人々、彼らもまたやがて一つの主の教会に加えられる日が来ることを願いながら、そしてやがて全世界のすべての人々が一つの主キリストの教会に連なる日が来ることを祈りながら、その人たちをも含めた礼拝をわたしたちは主の日ごとにささげているのです。

使徒パウロがフィリピにある教会に手紙を書いたのは紀元50年から60年にかけてと考えられていますが、誕生してまだ日が浅いフィリピの教会もまた、「戦いの教会」でした。18節、19節を読んでみましょう。【18~19節】。2千年前のパウロの時代も、今日も、教会の戦いは主イエス・キリストの十字架の福音をめぐっての戦いです。この世の多くの人たちは主キリストの十字架の福音によって生きるのではなく、自分自身の知恵や力、富や名声に頼り、この世にある朽ちるほかにないパンを求め、あるいは簡単に手に入る偶像の神々のご利益を期待します。罪のない神のみ子がわたしの罪のために十字架で苦しんでくださり、わたしの罪の救いのためにご自身の尊い命をおささげくださったという福音は、そのような人たちには愚かで無価値に思われます。そのような人たちは、自分自身の腹を神としているからです。この世の朽ち果てるものを追い求めているからです。

教会はいつの時代にも、十字架の福音をあざ笑ったり、それから目を背けたり、あからさまに否定したりする人たちとの戦いをしてきました。そして、主キリストの十字架の福音を信じる信仰によってこそ、あなたの罪はゆるされ、あなたは滅びから救われるということを、語ってきました。主キリストの十字架にこそ、わたしたち罪びとに対する神の偉大なる愛があり、全人類の唯一の救いがあり、すべての人に与えられる喜びと幸い、感謝と平安があるということを語ってきました。主キリストの十字架の福音だけが、地上の「戦いの教会」の武器です。この福音によって、教会に勝利が約束されているからです。

最後に、20節を読みましょう。【20節】。「わたしたちの本国は天にある」。これが、地上にある「戦いの教会」に属する民と、天にある「勝利の教会」に属する民との共通した告白です。天にある教会の民は今すでにその本国に帰還しました。地にある「戦いの教会」に属するわたしたちは、今なおこの地での歩みを続けていますが、ヘブライ人への手紙が教えているように、地上では旅人、寄留者として、本国である天に向かっての、最後に約束されている勝利に向かっての、信仰の歩みを続けていくのです。

「そこから主イエス・キリストが救い主として来られる」。これが、わたしたち信仰者のもう一つの告白です。主イエス・キリストが再び地に来られるとき、わたしたちの救いは完成し、神の国が完成します。わたしたちは栄光の勝利者であられる主イエス・キリストの再臨を待ち望みながら、地上での信仰の戦いを続けていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうの秋田教会逝去者記念礼拝にわたしたちをお招きくださり、あなたの命のみ言葉を聞かせてくださいました幸いを、心から感謝いたします。主なる神よ、あなたがこの教会に多くの先輩の兄弟姉妹たちをお集めくださり、この教会の130年余りの歩みをとおして、あなたのご栄光を現わしてくださいました恵みを覚え、あなたのみ名をほめたたえます。また、今この教会に招かれているわたしたちをも、恵み、祝し、あなたのみ国の民として、お導きくださっておりますことを、感謝いたします。どうか、この地にあって、主キリストの体なる教会を建てていくために、わたしたち一人一人をお用いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月5日説教「罪のうちに死んでいる人」

2023年11月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:創世記3章17~19節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「罪のうちに死んでいる人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「人は罪うちに死んでいて」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『信仰告白』の中で「罪」という言葉がどのように用いられているかを確認しておきましょう。最初の段落の2行目、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」、次は2段落の2行目、「功績なしに罪をゆるされ」、そしてきょうの箇所、最後に『使徒信条』の第3項、聖霊の項で、「罪のゆるし(を信じます)」、以上の計4回、「罪」という言葉が用いられています。

 これら4回の罪に関する告白に共通していることがあります。それは、罪という言葉がいずれの文章でも主語になってはいないということです。また、罪について単独で語られている箇所もないということも共通しています。「人となって、人類の罪のために十字架にかかり」という文章では、主イエス・キリストが全人類の、すなわち、わたしたちすべての人の罪のために、その罪の贖いを成し遂げ、罪をゆるすために、人間となってこの世界に来てくださった。そして、十字架で死んでくださった、ということが告白されているのであって、この文章の主語は主イエス・キリストです。ここでは、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざが告白されているのであって、人類の罪は、主イエス・キリストの十字架によってすでに贖われているのです。人間の罪はすでに主キリストによってゆるされている罪として語られているということが分ります。この文章のあとで、「罪をゆるされ」「罪のゆるしを信じる」と、2回「罪のゆるし」が繰り返して告白されているのも同じ理由によります。

 きょうの箇所では、口語文では文章の主語がはっきりしませんが、文語文では、「この三位一体なる神の恩恵(めぐみ)によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていましたから、「罪に死にたる人」が文章の主語だと分かります。でも、この文章は否定文になっており、「罪に死にたる人」が本来の主語なのではなく、「三位一体なる神の恩恵(めぐみ)」が意味上の主語だということが分ります。ここでは、三位一体なる神の恵みの大きさが強調されているので、このような文章になっていますが、「罪に死んでいる人」が本来の主語なのではありません。

したがって、この箇所でも、罪そのものについて語られているのではなく、三位一体なる神の大きな恵みによってすでにゆるされている罪について語られているのです。罪びとである人間そのものについて語られているのではなく、すでに神の国の民として招き入れられている「罪ゆるされている人」のことが語られているのです。「人間」も「罪の人間」も、あるいはまた「罪」も、信仰告白の主語にはなりえません。聖書の主語でもありません。すべての主語は、神であり、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられた神の救いの恵み、それが主語です。罪は、すでにゆるされている罪として語られている。これが『日本キリスト教会信仰の告白』の大きな特色なのです。

そのことを念頭に置きながら、では「罪のうちに死んでいる」とは何を告白しているのかをみていきましょう。「罪のうちに死んでいる」とは、罪によって死んでいる、あるいは罪の中で死んでいると言い換えることができるでしょう。つまり、罪は死であり、その罪に支配されている人は死んでいるということが、ここでは告白されています。また、だれか一部の人がそうであるというのではなく、人間はだれもがみな罪に支配されている罪びとであり、それゆえに死んだ人なのだということです。

旧約聖書でも新約聖書でも、聖書全体がそのことを証ししています。最初に、エフェソの信徒への手紙2章を読んでいきましょう。【1節】。【5節】。「罪のために死んでいた」という言葉が2度繰り返されています。死んでいた状態とはどのようなものであったかということが、2節では【2節】、3節では【3節】と、より詳しく説明されています。すなわち、罪のうちにあって、罪によって死んでいる人間とは、この世を支配している悪しき霊に従って生きている人、人間の肉の欲望のままに生きており、神のみ心を知らず、また神のみ心に従わず、それゆえに神の怒りを受けて滅びなければならない人間のことであり、しかもそれは生まれながらの、生まれて生きているすべての人間の、罪の姿なのだと聖書は語っているのです。

創世記2章には、神が人間を創造された時、土のちりで人を造り、それに命の息を吹き入れて人は生きる者となったと書かれています。したがって、人間は造り主なる神を離れては、また神から与えられる命の息を吹きこまれなければ、生きてはいけない土くれに過ぎないもの、人間はその肉だけでは朽ち果てるほかにない存在なのだと聖書は教えています。けれども、続く3章に書かれているように、人間アダムは神の戒めに背いて、禁じられていた木の実を取って食べました。それが原罪と言われる人間の罪です。神は罪を犯した人間に裁きをお与えになりました。創世記3章19節にはこのように書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」。このようにして、人間は罪を犯し、神から離れたために死すべき者となりました。

 使徒パウロはこのことをローマの信徒への手紙6章23節で、「罪が支払う報酬は死です」と言っています。また、少し前の5章12節ではこう書いています。「このようなわけで、一人の人によって(これはアダムを指していますが)罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」。ここには二つのことが言われています。一つには、最初の人間アダムが罪を犯したために、死が入り込んできて、アダムが死すべき者となったということ。もう一つには、最初の人アダムと同じように、彼以後のすべての人間も同じように神に対して罪を犯しているために、全人類にも死が入り込んできて、すべての人が死すべき者となったということです。

 このようにして、すべての人が、一人の例外もなく、皆生まれながらにして神に背いており、罪を犯しており、それゆえに神の裁きを受けて死すべき者となり、事実死んでいるのだという教えは、聖書全体に貫かれています。

 人間のこのような徹底した罪と死の姿について、1619年に制定された『ドルト信仰基準』はこのように告白しています。「すべての人は罪のうちにはらまれ、生まれながらにして怒りの子であり、救いに役立つ善を何一つなすことができず、悪に傾き、罪の奴隷になっている。聖霊の再生する恩恵がなければ、神に立ち帰ることも、その本性の堕落を改善することも、改善に身をゆだねることもできず、またそれを欲することもしない」。ここでは、人間は徹底的に堕落していて、人間の側からの救いの可能性は全くないと告白されています。宗教改革者たちはこれを人間の完全な堕落と表現しました。

 さて、「罪のうちにある人は、まことの命に生きることができず、死の中にある」というこの告白が持っている二つの側面を考えてみましょう。一つは、罪の人間はみな死に定められており、やがては死ぬべき者であるということです。罪の人間は永遠に生きることは許されていません。神の裁きを受けて死ななければなりません。聖書は人間の死を、自然的なものとか、偶発的なものとか、あるいは運命的なものとは見ていません。死は、人間の罪に対する神の恐るべき、また厳しい裁きであると聖書は語ります。

 それゆえに、死のうちにあるということのもう一つの意味は、罪に支配されている人間は、今すでに死んでいる者なのであるということです。今はまだ定められている死の最期を迎えてはいないけれども、その死に向かっている、神なき世界で希望のない死に向かっているということです。その意味で、罪の人間は今すでに死のうちにあるということです。

 ここでわたしたちは今一度エフェソの信徒への手紙2章のみ言葉に戻ろうと思います。【4~6節】。ここでは、人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の憐みと愛が、人間の罪に勝利したということが語られています。4節冒頭の「しかし」という言葉が、1~3節までの人間の罪と死の現実を逆転させています。1節の、「あなたがたは、以前は」という言葉を受けて、またそれを否定して、「しかし、今では」と語っているのです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、あなたがたは罪から救われているのであり、あなたがたの罪と死の現実はもはや過去のものとなったのだと語っているのです。実際に、注意深く読みますと、1~3節の文章はすべて過去形になっていることに気づきます。主イエス・キリストの救いのみわざによって、人間の罪と死は過去になったのです。

 ここで、もう一つのことに注目しなければなりません。人間の罪は主イエスによって罪ゆるされている罪として認識されるということは、主イエスによって罪ゆるされて初めて人間の罪がはっきりと認識されるということでもあります。つまり、人間の罪は罪なき神のみ子の十字架の死によらなければ解決されないほどに、大きく、また深刻であるということです。罪なき神のみ子の十字架の血によらなければ、他のどのような方法によっても、人間の罪のゆるしはあり得なかったのです。

 しかし、今や、あなたがたは罪の奴隷ではない。神に愛されている者であると聖書は語ります。あなたがたは主イエス・キリストの救いの恵みによって、新しい復活の命に生かされている者である。あなたがたはすでに天にある神の国へと迎え入れられている。そのように聖書は語っているのです。

 十字架と復活の主イエス・キリストを信じる信仰者にとっては、罪びとに対する神の怒りは、すでに主イエスがわたしたちに代わって父なる神の裁きをお受けになったことによって取り除かれ、怒りではなく愛に変えられました。主イエスの復活によって、罪と死の棘(とげ)と牙(きば)は取り除かれました。宗教改革者たちが言ったように、わたしたちは常に罪ゆるされている罪びとです。地上にあっての寄留者であり、旅人ですが、神の国を目指して、天にある本来の故郷を望み見ながら、信仰の旅路を続けているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエスの十字架と復活によってわたしたちを罪の奴隷から贖い、解放してくださいました恵みを、心から感謝いたします。日々あなたのみ前に罪を悔い改めつつ、主イエスの救いを信じつつ、信仰の歩を終わりの日まで続けることができますように、お導きください。

○全世界を支配しておられる主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界において実現しますように。主キリストによるゆるしと和解がこの世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月29日説教「ペトロが見た幻」

2023年10月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記14章3~21節

    ルカによる福音書10章9~23節

説教題:「ペトロが見た幻」

 使徒言行録10章1節から11章18節までは、異邦人であるコルネリウスが回心してキリスト者になったという出来事が記されています。ここでは、初代教会にとって大きな問題であった重要なテーマがいくつか取り扱われています。それは三つにまとめられます。

 一つは、旧約聖書の律法に定められている食物規定をキリスト者も守らなければならないのかどうか。特に、ユダヤ人ではない異邦人であって、キリスト者になった場合はどうか、という課題がありました。食物規定というのは、レビ記11章や申命記14章に書かれていますが、イスラエルの民にとって食べてもよい清い生き物と食べてはならない、宗教的に汚れた生き物とが定められていました。これは、その生き物が何か体に害になるとか、それを食べたら病気になるというのではなく、神がイスラエルの民を神に選ばれた聖なる民として訓練するために定め、それを守るようにと命じた神の戒めでした。

 二つには、その食物規定と関連していますが、イスラエルの民は長く汚れた生き物を食べず、自らを聖なる民として保ってきましたが、異邦人はこれまで宗教的に汚れているとされた生き物を食べてきたので、その体に汚れがまといついている。だから、イスラエルの民は異邦人と食卓を共にすることを避けてきましたが、キリスト者になってからもこの慣習を続けるべきかどうかが初代教会にとって大きな問題とされました。

 三つめは、異邦人伝道という課題です。いわゆるユダヤ教はイスラエルの民、ユダヤ人だけが宣教の対象でした。しかし、主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人の救いを目指していることを自覚した初代教会は、先に選ばれたユダヤ人がまず第一に宣教の対象であると考えましたが、ユダヤ人以外の異邦人にも主キリストの福音を宣べ伝える使命を神から託されているのだということが、ここに記されているコルネリウスの回心の出来事によって、より明確にされたのです。

 以上の初代教会の課題を考えながら、きょうのみ言葉を読んでいくことにしましょう。前回学んだ1~8節では、カイサリアに駐留していたローマ軍の百人隊長コルネリウスはユダヤ教に正式に改宗はしていませんでしたが、旧約聖書の神を信じ、その教えを重んじる、いわゆる敬神家と呼ばれる信心深い異邦人でした。彼が午後3時の祈りをささげていると、神の使いが現れ、「ヤッファに滞在しているシモン・ペトロを家に招きなさい」との命令を聞きました。彼はすぐに使いをヤッファに送りました。

 同じころ、きょう朗読した9節に、3人の使いがヤッファに近づいたと書かれています。昼の12時、ペトロは祈るために屋上に上がりました。その時、ペトロは「天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りて来る」という幻を見ました」(11節)。

 コルネリウスとペトロにはいくつかの共通点があることに気づきます。第一に、二人とも祈りの時に神からの語りかけを聞いたということです。コルネリウスは午後3時の祈りの時(3節)、ペトロは昼の12時の祈りの時(9節)でした。いずれも当時の敬虔なユダヤ教の信者が毎日三度の祈りの習慣をもっていた時間帯です。神はユダヤ人キリスト者ペトロの祈りを、また敬神家の異邦人コルネリウスの祈りをもお聞きくださり、その祈りに応えてくださいました。

 第二には、二人とも神から与えられた幻を見たということです。3節に、「神の天使が入って来て、『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た」とありました。ペトロは天からつるされた大きな布のような入れ物を見ました。これも幻です。聖書で言われている幻とは、ぼんやりとした幻想とか幻影のことではありません。神がご自身を人間に現わされる際の、はっきりと目に見えたり、耳に聞こえたりする、神の顕現を意味します。罪に汚れている人間は聖なる神のお姿を直接に見ることはできませんので、聖書ではそれを幻を見たと表現しています。

 三つ目の共通点は、神から与えられた幻は目に見える形と同時に神の語りかけとが一緒になっているということです。目に見える形としては,3節では神の天使の姿、11節では天からつるされた大きな布でした。神の語りかけは4節以下と13節以下に書かれています。この両者が一緒になって神の顕現、神がコルネリウスとペトロとに出会ってくださったということの確かさを強調しているのです。

 そして、二人が見た幻に導かれて、コルネリウスとペトロとが24節以下で直接出会うことになるのです。

 さて、ペトロが見た幻がどんなものであったのか、それによって神はペトロに何をお語りになったのかをみていきましょう。11節に、「天が開き」と書かれています。これは、ペトロが見た現象が天におられる神からの啓示であること、神からの幻であることを意味しています。

 【12~14節】。ペトロが天からの声が神のみ言葉であることを直ちに理解しています。そして、「自分は旧約聖書に定められている食物規定を厳格に守っているので、清い生き物と汚れた生き物が一緒に入れ混じっている入れ物から食べることはしない」と彼は答えます。同じ入れ物に清いものと汚れたものとが一緒に入っていると、清いものに汚れが移り、皆汚れてしまうと考えられていたからです。ペトロはキリスト者となっていましたが、この時点ではまだ旧約聖書の律法を厳格に守るユダヤ人でした。

 しかしながら、天から聞こえてきた神のみ声はペトロの考えを根本からくつがえす内容でした。【15~16節】。この神のみ言葉は、神が創造されたすべての被造物は神によって清められているという意味に理解されます。福音書に書かれている主イエスのお言葉もこれと同じです。【マルコによる福音書7章18~20節】(74ページ)。主イエスは、口から体の中に入る食物で人が汚れることはない。かえって、人から出る悪い思いや人が語る悪い言葉こそが、その人と周りの人とを汚すのだと言われました。

 では、これらのみ言葉から結論づけられることは、旧約聖書の食物規定の律法は廃棄されたということなのでしょうか。主イエスご自身は、「私は律法を廃棄するために来たのではなく、律法を完成するために来たのだ」(マタイによる福音書5章17節)と言われましたが、それと矛盾することにはならないだろうかという疑問が出てきます。この点について少していねいに考えていくことにしましょう。

 この疑問に答えるために、そもそも旧約聖書の食物規定がどのように定められたのか、それが何を目指していたのかを、神のみ心は何であったのかを読み取っていかなければなりません。礼拝では申命記14章の食物規定の箇所を朗読しましたが、食物規定に触れているもう一つの箇所、レビ記20章を読んでみましょう。【24節c~26節】(195ページ)。

 ここには、神が清い動物と汚れた動物との区別をお与えになった根本的な理由、目的が語られています。それは、イスラエルの民自身が神によって他の諸民族から区別されていることを教え、自覚させるためであり、それによって彼らが他の諸民族の宗教や生活慣習に習うことなく、自らを神に属する聖なる民として生きるためであると語られています。食物規定はイスラエルの民の選びを確かにすることを目指していたことが語られています。

 ところが、今や、主イエスの到来によって、主イエスの十字架の福音によって、救いの道がイスラエルの民だけではなく、諸国民のすべての人々に対して開かれました。主イエスの十字架の福音を信じる信仰によってすべての民が神に選ばれた民とされ、すべての人が神の恵みの選びに招かれているのです。それゆえに、清い食物と汚れた食物の区別をする必要がなくなりました。神が主イエス・キリストによって、すべての人の罪をゆるし、すべての人を罪から洗い清め、聖なる一つの神の民としてくださったからです。

 ペトロは同じ幻を三度見ました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」というみ言葉を三度聞きました.それによって、ペトロは、ユダヤ人からは汚れた民と思われていた異邦人もまた神によって清められ民として、教会が受け入れるべきであるとの神のみ心を知らされたのです。

 ペトロはまだそのことをはっきりとは理解していませんでしたけれど、17節以下で、彼はそのことを確認することになりました。【17~22節】。コルネリウスの祈りの時に彼に現れて幻によって語られた聖霊なる神、またペトロの祈りの時にも彼に現れ、彼に幻を見せ、み言葉を語られた聖霊なる神、その神がこのようにして、23節以下に記されているように、コルネリウスとペトロに出会いの機会を備えてくださったのです。

ペンテコステの日に、弟子たちの上に注がれた聖霊によって、エルサレムに最初の教会が誕生し、その後教会が経験した数々の迫害にもかかわらず、否むしろそれらの迫害をお用いになって、教会を成長、拡大させてくださった聖霊が、今またユダヤ人だけでなく異邦人をも教会にお加えくださるためにお働きくださったのです。聖霊は今もなお世界の教会をとおして働いておられ、わたしたちの教会においても働いておられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子・主イエス・キリストによって全人類の救いのためになしてくださったみわざは、今もなお続けられていることを信じます。多くの困難を抱えている世界の教会を、また日本の教会を、そしてわたしたちの教会を、あなたか顧みてくださり、聖霊による力を増し加えてくださいますように。

○わたしたちは今特に、世界の平和のために祈ります。武器によって人間の命を奪い、家や自然を破壊することは、どのような理由であれ、あなたのみ心ではないと信じます。どうか、世界の為政者たちに戦争の愚かさとその罪とを覚えさせてくださいますように。和解と平和への道をあなたが備えてくださいますように、切に祈ります。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月15日説教「主イエスの二回目の受難予告」

2023年10月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書44章1~5節

    ルカによる福音書9章43~45節

説教題:「主イエスの二回目の受難予告」

 主イエスが、悪霊に取りつかれていた一人息子をいやされ、悪霊の支配から解放されたという奇跡に続いて、ルカによる福音書9章44節で主イエスは二回目の受難予告をされます。『新共同訳聖書』では43節を前半と後半とに分けて、その間に段落を設けて、「再び自分の死を予告する」という小見出しを付けていますが、これは42節までの奇跡のみわざと44節の受難予告とを分断させてしまうように思われるので、適切ではありません。

実は、この二つのことには深いつながりがあるのです。そのつながりは、わたしたちが18節から何度も確認してきたつながりと同じです。つまり、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の一回目の受難予告とがつながっているように、また23節以下の、キリスト者は日々に自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めが、その二つとがつながっているように、さらには28節以下の主イエスのお姿が山の上で栄光に輝いたという山上の変貌がそれにつながっているように、そして37節以下の悪霊に取りつかれた一人息子をいやされ、悪霊から解放されたという奇跡がそれにつながっているように、44節の二回目の受難予告もまたそれにつながっているのだということです。

ルカ福音書はそれぞれのつながりを強調しながら、一つ一つの主イエスのみ言葉、主イエスのみわざ、主イエスの出来事の意味を、より強め、深めているのです。わたしたちは聖書の記述の前後関係をていねいに考えながら、一つ一つの事柄の深い意味を探っていくことが求められています。

以上のことに注目するならば、43節はその節全体が前の悪霊追放の奇跡と、あとの二回目の受難予告とを結びつける役割を果たしているということに気づきます。しかもそれは、ある意味で逆説的な意味あいを持ったつなぎの文章と言えます。つまり、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれ、イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」が、そのような偉大な神のみ力を与えられていた主イエスが、ここで二度目の受難予告をされているのだ。罪びとたちの手に引き渡されようとしているのだ。偉大な力と権威とを持っておられた神のみ子が、このように無力になり、罪びとたちによって葬り去られようとしているのだということを、ルカ福音書は強調しているのです。あるいは、このように言い換えてもよいかもしれません。悪霊に取りつれた人から悪霊を追い出され、悪霊をすらも支配される主イエスに人々が驚いているけれども、本当に驚かなければならない神の最も偉大なる奇跡は、人の子・主イエスが十字架につけられるということなのだ。それによって、神は全人類を罪から救ってくださったということこそが、世界中の人々が心を打たれ、驚き、そして見上げるべき神の救いのみわざなのだ。そのことをルカ福音書は強調しているのです。

 では、以上のことに注意を向けながら、43節を読んでみましょう。43節の前半では「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」とあり、後半では「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」と書かれてあります。ここではまず、主イエスの悪霊追放の奇跡が神の偉大な、驚くべきみわざであったことが強調されています。それは、すべての被造物を支配しておられる全能の主なる神だけがなしうるみわざです。それとともに、ここでは神と主イエスとが結びつけられています。主イエスは神のみ子であり、神であることがここでは告白されているのです。主イエスが悪霊を追い出され、悪霊を支配していることは、そこに神のみ力が働いていることの目に見えるしるしなのであり、神のご支配のしるしなのです。

 主イエスは11章20節でこのように言われます。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスは神のみ子として、悪霊に勝利され、罪と死とに勝利され、神の救いの恵みによってすべての人を支配される神の国の王として、この世においでくださいました。そして、エルサレムで十字架にかかり、ご自身の罪なき尊い血をおささげになることによって、全人類の罪の贖いを成し遂げられ、救いのみわざを成就されるのです。

 【44節】。これは主イエスによる二回目の受難予告ですが、主イエスはまず「この言葉をよく耳に入れておきなさい」とお命じになります。主イエスはしばしば弟子たちに「よく聞け」とお命じになりました。8章8節や14章35節では、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。主イエスがこのように繰り返して弟子たちに「聞け」とお命じになった理由は、第一には、弟子たちは、またわたしたち信仰者は、主イエスのみ言葉を聞いて生きる者だからです。主イエスから聞かなければ、わたしたちの信仰の歩みは始まりませんし、正しく歩むこともできません。主イエスのみ言葉を聞き、それに教えられ、導かれて生きるのが、わたしたち信仰者です。

 第二には、弟子たちも、またわたしたちも、しばしば主イエスのみ言葉を忘れたり、他の言葉に耳を傾けたりしてしまう弱い者だからです。そこで、主イエスは繰り返して「よく聞け。耳を傾けよ」とお命じになります。わたしたちはその主イエスの命令を聞くたびに、わたしがそれまでいかに主イエスのみ言葉から離れた生活をしていたか、主イエスの導きに従っていなかったかに気づかされ、自らの罪に気づかされるのです。

 主イエスがご自身の受難予告を三度もされた理由も同様です。特に、主イエスの受難予告は、主イエスがどのようなメシア・キリスト・救い主であるのかを明らかにしていますから、誤ったメシア待望やご利益宗教界からわたしたちを守るために、非常に重要な内容を含んでいます。それゆえに、主イエスは何度もご自身のご受難と十字架、復活についてあらかじめ語っておられるのです。弟子たちとわたしたちを正しい信仰へと導き返そうとされるのです。

 一回目の受難予告は9章22節にありました。【22節】。そして、三回目は18章31節以下にあります。【31~33節】(145ページ)。二回目の受難予告は最も短くなっています。二つの点を取り上げましょう。

 一つは、主イエスはご自身のことを「人の子」と表現されているのは三つの受難予告に共通しています。受難予告の箇所に限らず、福音書の中で主イエスはご自身のことを「人の子」と表現しておられます。ご自身が「神の子」であるとか、「メシア・キリスト・救い主」であると、ご自身の口で言われるケースはありません。それはおそらく、当時のユダヤ人の間にあった、誤ったメシア待望論と混同されたり、誤解されたりするのを防ぐためではなかったかと推測されています。

 「人の子」という表現は、一般的に人間を意味する場合もありますが、福音書の中では特別な意味あいで言われているように思われます。それは、神が人の子、人間となられたたという意味です。主イエスは神が人となられた神のみ子であるということがこの表現で暗示されていると考えられています。特に、旧約聖書イザヤ書で預言されているような、神から特別の使命を託されて創造され、選ばれた人の子、特にまた、神の使命を果たすために苦難の道を歩む主の僕(しもべ)としての人の子という意味も含まれているように思われます。主イエスは旧約聖書のすべての預言を成就する神のみ子であり、「人の子」なのです。

 次に、「人々の手に引き渡される」についてです。「引き渡される」という言葉は三回目の受難予告でも用いられています。この言葉は、新約聖書の中で特別の意味を持った、いわば専門用語です。福音書の中では主イエスの受難予告の箇所と受難の場面にしばしば用いられます。パウロの書簡でも用いられています。この言葉がイスカリオテのユダについて用いられるときには、「裏切る」と翻訳されます。22章22節で主イエスはユダについてこう言われます。「人の子は、定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。ここで「裏切る」と訳されている言葉と「引き渡す」と訳されているもとのギリシャ語は同じです。

 この「引き渡す」という言葉には次のような意味が込められています。主イエスは人となられた神のみ子でしたが、罪びとたちの手から手へと引き渡され、ついには十字架に引き渡されたということです。まず、イスカリオテのユダに引き渡されます。ユダは主イエスをユダヤ人指導者の祭司長、長老たちに引き渡します。彼らは主イエスをユダヤ最高議会の法廷に引き渡します。ユダヤ最高議会はその裁判の際に、異邦人であるローマの総督ピラトの手に引き渡します。そして、ピラトはローマの処刑方法であった十字架刑に主イエスを引き渡します。そのようにして、主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、次々に罪びとたちの手に引き渡され、時に吟味され、時に侮辱され、そして捨てられ。十字架で死なれたのです。ここには、神がお遣わしになったメシア・キリスト・救い主である主イエスを受け入れず、信じないで、罪ありとして裁く人間の傲慢と、深く大きな罪とが暗示されているのです。

 使徒パウロはこの同じ「引き渡す」という言葉を全く違った意味で用いています。ローマの信徒への手紙8章32節にこのように書かれています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。パウロはここで、主イエスが罪びとたちの手によって次々と引き渡されていったという人間の罪の連鎖、その罪の深さ、大きさをもはるかにに上回る神ご自身の「引き渡し」のみわざを見ているのです。神はご自身のみ子を罪のこの世にお与えになっただけでなく、そのみ子を罪びとたちの手によって、最後には十字架の死へと引き渡されたのです。主イエスを十字架に引き渡したのは罪びとである人間たちであるかのように思われましたが、しかし実はそこで、人間のすべての罪をはるかに超えた神の大いなる愛があったのです。神はご自身の最愛のみ子をわたしたち罪びとにお与えくださったほどにわたしたちを愛されたのです。神はこのようにして、人間の罪のわざを神の救いのみわざへと変えてくださいました。ここに、神の偉大なる愛の「引き渡し」があります。ここにこそ、全世界のすべての人が驚きをもって見上げ、あがめるべき神の大いなる奇跡のみわざがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち罪びとたちのためにご自身の最愛のみ子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛され、わたしたちを罪から救ってくださいました。もはや何ものも、あなたのこの大きな愛からわたしたちを引き離すことはできません。主よ、どうかわたしたちをあなたが愛される民として、み国の完成の時に至るまで、守り、支え、導いてください。

○主よ、世界は混乱と危機に満ちています。戦争や破壊、災害や略奪、貧困や飢餓に苦しむ人たちが、全世界至る地域に、数多くおります。どうかこの悩める世界をあなたが顧みてください。憐れんでください。為政者たちに戦争の愚かさを気づかせ、あなたの愛と恵み、義と平和を与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月8日説教「神によってエジプトに遣わされたヨセフ」

2023年10月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記45章1~28節

    使徒言行録7章9~16節

説教題:「神によってエジプトに遣わされたヨセフ」

 きょうの礼拝で朗読された創世記45章では、37章から始まったヨセフ物語のクライマックスとも言うべき感動的な場面が展開されています。ヨセフはここで、20数年前に分かれた11人の兄弟たちに自分の身を明かし、彼らとの涙の再会をします。1節に、「ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした」とあり、2節には、「ヨセフは声をあげて泣いた」と書かれています。また、14節、15節にはこう書かれています。【14~15節】。ヨセフにとって11人の兄弟たちとの再会がいかに感動的であったことか、特に、ただ一人の弟ベニヤミンとの再会がどれほどに感動的であったことか、熱い涙と抱擁なしにはなしえなかったものであったということを、聖書は繰り返して強調しています。

 彼らがどうして別れなければならなかったのか、20数年前に彼らにどのようなことがあったのかを知っているわたしたちには、彼らの感動と涙の意味はよく理解できます。少し過去へと振り返ってみましょう。

 族長ヤコブの年寄子として生まれたヨセフは、父からの特別な愛を受け、他の兄弟たちからはねたまれていました。しかも、生意気で、夢見る少年であったヨセフは、父と母と11人の兄弟たちがみな自分の前にひれ伏して自分を拝んでいる夢を見たと話したために、兄たちの怒りと憎しみは頂点に達し、ついに彼らはヨセフをエジプトに向かう商人たちに売り渡してしまいました。そして、父ヤコブにはヨセフは野獣に食い殺されてしまったと報告しました。それ以来、ヨセフの消息は20数年間、彼らには全く分かりませんでした。

 一方、ヨセフはエジプトの高官の奴隷として仕え、主人の信頼を得ていましたが、根拠のない嫌疑をかけられ、投獄されてしまいます。ヨセフは異教の地で、家族から離れ、生きるか死ぬかもわからないまま、暗い牢獄の中で不安と試練の日々を送ることになったのでした。

 しかし、主なる神はエジプトのヨセフとも共におられ、彼をお見捨てになりませんでした。彼をお用いになって、新しくエジプトの地において救いのみわざを前進させてくださいます。

 ヨセフは神から与えられた知恵によって、エジプト王ファラオの夢を解き明かし、その知恵が王に認められたために、ファラオに用いられてエジプト全土の総理大臣の位につかされました。ヨセフの知恵によって、7年間の豊作の間にエジプトの倉庫は穀物で満杯になり、続く7年間の飢饉に備えました。

 カナンの地にも飢饉は広がり、ヤコブはエジプトにある食料を買うために子どもたちを派遣します。第1回目には、末の子ベニヤミンを除いて10人の子どもたちで出かけました。彼らはエジプトで自分たちがひれ伏して食糧を買い求めた大臣が、かつて自分たちが売り渡したヨセフだとは全く気づいていませんでした。ヨセフは次に来るときには末の子も一緒に連れて来なければならないと命じました。

 そして翌年、ベニヤミンを加えた11人の子どもたちは再び食糧を求めてエジプトの大臣ヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフが子どものころに見た夢が実現しました。その2回目のエジプト訪問のことが、43~44章に詳しく記されています.その続きがきょうの45章です。そこで初めて、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かしました。3節にはこのように書かれています。【3節】。このようにして、兄弟12人全員の感動的な再会の場面が描かれていくのです。

 けれども、ここでわたしたちはもう一つのことに注目しなければなりません。ヨセフと11人の兄弟たちの再会を感動的にしているのは、彼らの不思議な運命のめぐりあわせとか、しばらく離れていた肉親の情とかによるのではなく、あるいはまた、ヨセフに対する兄たちの憎しみや悪意、ヨセフ自身が経験した多くの試練、あるいは幸運とかの、それぞれのこれまでの起伏に富んだ人生の歩みとかによるのでもなく、それらのすべてを越えて働いている主なる神のみ手、神のみ心、神の導きこそが、この章では何度も語られており、強調されているということ、それこそがこの章全体を大きな感動で包んでいるのだということ、そのことにわたしたちは気づかされるのです。

 そのことが4節以下で、ヨセフの信仰告白として語られています。【4~8節】。ここに語られている内容は、37章から始まったヨセフ物語の中心的な意味であり、テーマであり、それはまたヨセフのこれまでの信仰の歩みを振り返っての信仰告白でもあります。さらにまた、それは新約聖書と旧約聖書全体を貫いている聖書の中心的なテーマであると言ってもよいでしょう。もう一度確認してみましょう。【5節b】。【7節】。そして【8節a】。三度も同じ内容が繰り返されています。これらの文章の主語はいずれも神です。しかも、人間たちの様々な悪意や憎しみや罪、あるいは苦難や試練の数々を越えて、それらを貫いてみ心を行なわれた主なる神が、すべての文章の主語です。すべての出来事、すべての事柄の主語です。その主なる神がわたしをこのように導いてくださったのだということを、ヨセフは繰り返して告白しているのです。

 ヨセフは自分が兄たちによってエジプトに売り飛ばされたということを忘れてしまったのではありません。4節では、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフである」と言っています。にもかかわらず、自分は神によってここに遣わされたのであって、それは神があなたがたの命を救うために、あなたがたの子孫を地に残すため、そのようになさったのだと告白しているのです。これは一体どういう意味なのでしょうか、なぜ、ヨセフはそう言うことができたのでしょうか。そのことをきょうのみ言葉から読み取っていきましょう。

 まず第一に言えることは、ヨセフはここで人間のはかりごとや行動ではなく、神のご計画、神の摂理、神のみわざを見ているということです。なぜならば、神の永遠なる摂理に基づいた神のみわざこそが、人間たちのすべてのはかりごとや行動を越えて、ヨセフの人生を導き、また人間の歴史を導いているということをヨセフは信じ、また今その現実を実際に見ているからです。すなわち、兄弟たちがヨセフをねたみ、憎しみを募らせて彼に悪しき計略をたくらんだにもかかわらず、神は20年の歳月を経て、今ここに兄弟たち全員を和解へと導かれ、しかも、かつて兄弟たちによって命を狙われ、売られたヨセフを、今は彼らの命を救うヨセフとなしたもうたからです。人間たちのどのような悪しき計略や罪のわざも、また苦難や試練も、神のご計画、神の救いのみわざを変えることも、止めさせることもできないのです。むしろ、神はそれらのすべてをお用いなって、それらのすべてを神の救いのみわざとなしてくださるのです。

 創世記最後の章で、ヨセフはもう一度このように言います。【50章19~20節】(93ページ)。また、使徒パウロはローマの信徒への手紙8章28節でこのように書いています。「神を愛する者たち、つまり、御計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神がわたしたちの人生を導かれる主でありたもうとき、また神が歴史の支配者であられる時、わたしたちもまたヨセフと共に,パウロと共に、そのように信じ、告白することができるのです。

 わたしたちはさらに進んで、主イエス・キリストの十字架の福音に思いを至らせるでしょう。当時のユダヤ人指導者たちが、またローマの総督が、こぞって神を冒涜する者、世を混乱させる者として裁き、十字架刑に処した主イエスを、神は全世界のすべての人の罪を贖い、その罪をゆるす救い主としてお立てくださり、この主イエス・キリストによってご自身の救いのご計画を最後の完成へと至らせたもうたのです。そのようにして神は族長アブラハム、イサク、ヤコブとその12人の子どもたちによって着々と押し進められてきた救いのみわざを成就されたのです。

 創世記45章のヨセフの信仰告白の基礎になっているもう一つのことは、7節に暗示されています。【7節】。この言葉は、わたしたちが創世記12章から繰り返して聞いてきた神の約束のみ言葉を思い起こさせます。創世記12章2節で神はアブラハムにこのように言われました。【12章2節】(15ページ)。また13章16節ではこう約束されました。【13章16節】。これをアブラハム契約と言います。この契約はアブラハムの子イサクへ、さらにその子ヤコブへ、そしてヤコブの12人の子どもたちによって形成されるイスラエルの民ヘと受け継がれていきました。ヨセフは今その神の約束のみ言葉、神の契約を確認しているのです。神の約束はエジプトと全国を襲った大飢饉の中でも有効に生きています。神の約束のみ言葉は、今食糧難にあるヤコブ一家の命を救うだけでなく、全世界のすべての人を罪と死とから救い、まことの命へと、永遠の命へと導くことによって、その最終目的に達するのです。

 9節以下で、ヨセフは兄たちに言います。「カナンの地に帰ったら、父ヤコブを連れて、一族みんなでエジプトに移住してきなさい。エジプトの最も良い地をみんなのために用意するから」と。

 このようにして、ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたち全員がエジプトに移住することになったのでした。しかし、もちろんエジプトが彼らの最終目的地ではありません。さらにそれから400年以上のエジプトでの寄留の生活を経て、彼らイスラエルの民は指導者モーセと共にエジプトの奴隷の家を脱出し、荒れ野の40年間の旅を経て、神の約束の地カナンへと帰っていくことになります。それからさらに千数百年のイスラエルの民の歴史を導かれた主なる神は、ついにこの民の中からメシア・救い主をお遣わしになるという、壮大な神の救いの歴史が展開されていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは創世記のみ言葉をとおして、あなたの永遠なる救いのご計画を知らされました。あなたは今もなお、その救いの歴史を導いておられます。今この世界はあなたのみ心から離れ、不義と邪悪に満ちているように見えますが、あなたは見えざるみ手をもって、この世界とその中に住む一人一人の歩みを導いておられます。どうか、あなたのみ名があがめられ、あなたのみ心が地にも行われますように。

○主なる神よ、あなたがこの世からお選びくださり、お建てくださった主キリストの教会もまた、多くの破れを持ち、痛み、弱っています。どうぞ、あなたを信じる民を強めてください。あなたのみ言葉によって力と勇気と希望とをお与えください。この時代の中で、それぞれの建てられている国や地域で、主キリストの福音を大胆に語り、あなたのご栄光を現わしていくことができますように。その群れに連なっている一人一人にあなたからの豊かな祝福が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月1日説教「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

2023年10月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(27回)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付け加えた構成になっています。『使徒信条』は紀元4~5世紀ころにかけて完成したと考えられています。基本信条の一つに数えられ、世界のすべての教会が信じ、告白しています。

 『使徒信条』に付け加えられた前文では、『使徒信条』の中でままだ十分に告白されていない、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の特徴、特に宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の信仰と神学の特徴をより鮮明に言い表しています。

 今わたしたちが学んでいる箇所でもそのことが確認されます。「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。この箇所で用いられている「三位一体」という言葉は『使徒信条』では用いられていません。また、「神の恵みによらなければ」という表現も『使徒信条』にはありません。「三位一体」なる神の恵みによってのみ救われるという教理は、宗教改革者たちが聖書から再確認したプロテスタント教会の神学の中心です。

 きょうは、「三位一体論」というキリスト教会教理に触れながら、「神の恵みによってのみ」という宗教改革が強調した信仰について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『使徒信条』と「三位一体論」との関係ですが、『使徒信条』の中には三位一体という言葉は用いられてはいませんが、そこにはすでにその信仰が前提にされていることは確かです。『使徒信条』の第1項では、「わたしは、天地の造り主、全能なる神を信じます」と告白し、第二項では「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」、そして第三項で「わたしは、聖霊を信じます」と告白しています。これは、三つの別々の神を信じることを告白しているのではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一人の神であり、唯一の主なる神が、父として、子として、また聖霊として働いておられ、一つの救いのみわざをなしておられるという、「三位一体」なる神が告白されていることは言うまでもありません。

 『日本キリスト教会信仰の告白』がその前文で「三位一体」というキリスト教教理の用語を用いているのは、古代教会から中世の教会、宗教改革の時代から今日に至るまでの教会の教理の歴史を重んじていることの表明であり、またその中で「三位一体論」が成立し、構築され、今もなお試みられているキリスト教教理の確立に向けての営みに自分たちもまた参加していることの表明でもあるのです。さらに言うならば、近代になって、キリスト教教理の伝統から外れて、全く独自の教えを説いてキリスト教会を混乱させている異端的キリスト教(彼らは一様に三位一体論を認めません)に対する明確な反対の表明でもあるのです。

 では次に、「神の恵みによらなければ」という告白の意味について考えていきましょう。この言い方には,強い否定の意味があります。「この三位一体なる神の恵みによらなければ」、だれ一人として、また他のどのような手段や方法によっても、決して救われることはなく、永遠の命を与えられることはなく、神の国に入ることはできないという、強い否定です。と同時に、このただ一つの道だけがある、これ以外にはない、これで十分だという強い断定でもあります。

 宗教改革者たちはこれを、「神の恵みのみによって」と表現しました。「神の恵みのみ」は「聖書のみ」「信仰のみ」と共に、宗教改革の、いわば合言葉でした。彼らはこの「のみ」という言葉を用いて、他のものを厳格に排除し、そのものだけに固執し、それだけに集中することによって、自分たちの信仰をより鮮明にしようとしたのでした。と言うのは、当時のローマ・カトリック教会がそうであったように、いつの時代にも、「神の恵みによってのみ救われる」というキリスト教信仰の真理がゆがめられ、あいまいにされ、神の恵み以外の他の何かによっても救われると考えたり、あるいは罪人が救われるためには神の恵みのほかに、これもあれも必要だと考える、そのような誤った信仰が教会を誘惑するからです。

 そのような誤った信仰理解との戦いは、すでに新約聖書の時代から始まっていました。主イエス・キリストの十字架の福音による救いが示されているにもかかわらず、ユダヤ人キリスト者は律法を守り行うことや、契約の民のしるしとしての割礼を受けることを救いの条件に加えました。パウロをはじめとする初代教会の使徒たちは、「神の恵みのみ」の信仰をゆがめるそのような誤った理解を教会から取り除くために戦いました。

 ローマの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚が生じるだけだ」(20節参照)と。それに続けて23節以下でこう言います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(23~24節)。ここに、「神の恵みにより」「無償で」と書かれています。神の恵みとはどのようなものであるのかがここから分かります。また、別の視点から、11章6節では、神の恵みによるとはどういうことであるのかが語られています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうなれば、恵みはもはや恵みではなくなります」。

 以上の2箇所の聖書から、神の恵みとはどのようなものなのかを教えられます。第一に、神の恵みとは、無償で、値なしに与えられるということです。何らかの報酬として与えられるものでは全くありません。神の恵みを受けるに値しない、いやむしろ神に背く罪びとであるわたしたちに対して、神の側から一方的に、神の憐みによって、神からの贈り物として、差し出され、与えられる恵みなのです。わたしたちはそれをただ驚きと感謝とをもって受け取る以外にない恵み、それが神の恵みなのです。そして、その恵みによってわたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

 第二に、神の恵みは他のすべてのものを排除するということ、不必要とするということです。あるいはまた、神の恵みに何かを付け加えるならば、それはもはや神の恵みではなくなってしまうということです。神の恵みは神の恵みだけで十分であり、純粋に神の恵みだけであるときに、最も大きな救いの力を発揮し、すべての人を罪から救うのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』で「神の恵みによらなければ」と表現し、宗教改革者たちが「神の恵みのみ」と言ったのは、そのような内容を含んでいるのです。

 では、もう一箇所、きょうの礼拝で朗読されたエフェソの信徒への手紙2章4節以下を開いてみましょう。ここには「恵み」という言葉が3度用いられています。5節に、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。7節では、「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです」。また8節では、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。神の恵みは豊かであり、限りなく広く、深く、数多くあります。その中で、ここで強調されているのは「救いの恵み」です。神の恵みの中で最も尊く、最も大きな恵みは「救いの恵み」です。罪の中で死んでいたわたしたちを、主キリストの十字架と復活の福音によって罪から救い、新しい命に生かし、来るべき神の国での勝利と栄光を約束してくださいました。その豊かな神の恵みの前で、わたしたちはだれも自らを誇ることはできません。わたしたちはただ信仰によって、主イエス・キリストがわたしのためになしてくださった救いのみわざを信じ、受け入れるのです。それがわたしたちの救いです。

 最後に、もう一度「三位一体なる神の恵みによらなければ」と告白されている、「三位一体なる神」という表現に注目してみましょう。別の言い方をすれば、「三位一体なる神」でなければ救われない、救いは完成されないということであり、また「三位一体なる神」の救いのみわざであるからこそ、それは完全であり、永遠であり、普遍的であるということを強調していることにもなります。

 『日本キリスト教会信仰の告白』でこれまでに告白されていた「三位一体なる神」のそれぞれのお働きについて振り返ってみましょう。冒頭の告白では、「わたしたちの唯一の主であるイエス・キリストがまことの神でありまことの人として、十字架で完全な犠牲をささげてくださり,復活して永遠の命の保証をお与えくださり、わたしの救いが完成される終わりの時まで、わたしのために執り成していてくださる」と告白されていました。

 次に、「父なる神の永遠の選びによって、この救いのみわざを信じるすべての人は、神によって義と認められ、罪ゆるされ、神の子どもたちとされる」と告白されていました。

 第三に、「聖霊なる神が、救われた信仰者を聖化し、神のみ心に喜んで従っていく人へと造り変えてくださる」ことが告白されていました。

 このようにして、お一人の神が、父なる神として、子なる神として、聖霊なる神として、三つの位格をフル稼働させるようにして、ご自身の全人格、すべての愛と恵みを注ぎ尽くすかのようにして、一つの救いのみわざのためにお働きくださっておられるのです。それゆえに、その救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍的であり,全人類を、すべての人を、罪から救う力を持つのだということが、ここで告白されているのです。その救いのみわざは、何かによって補われる必要は全くありません。また、それから何かを差し引いたり、付け加えたりする必要も全くありません。「この三位一体なる神の恵みによって」、わたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中で滅びにしか値しなかったわたしたちを、あなたがみ子の十字架の血によって罪から贖い、救いの恵みをお与えくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたを離れては、わたしたちはまことの命を生きることはできません。どうか、これからのちも日々あなたの命のみ言葉によってわたしたちを養い、み国が完成される日まで、わたしたちの信仰の歩みをお導きください。

○天の神様、病んでいる人を、またその人を介護する家族を励まし、支えてください。重荷を負って苦しんでいる人を助け、導いてください。孤独な人,道に迷っている人、飢え乾いている人、迫害されている人に、あなたが伴ってくださり、一人一人に希望と慰めと平安をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月24日説教「異邦人コルネリウスが見た幻」

2023年9月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    使徒言行録10章1~8節

説教題:「異邦人コルネリウスが見た幻」

 使徒言行録10章1節から、カイサリアでの「コルネリウスの回心」と言われる出来事が始まります。これは11章18節まで続きます。使徒言行録の中で、一つの出来事としては最も長く記録されており、出来事の経過が詳しく語られ、また同じ内容が繰り返して語られています。この出来事が使徒言行録の中で非常に重要な意味を持っていることを表しています。そして、最後に11章18節には、次のようなまとめの言葉が記され、この出来事の頂点に達します。そこをあらかじめ読んでみましょう。【11章18節】。

 神は、主イエス・キリストの福音によって、先に選ばれた民イスラエルだけでなく、異邦人にまで救いのみ手を差し伸べてくださった。そして、全世界の、すべての人々に対しても、まことの命に至る悔い改めの道を、罪からの救いの道を開いてくださった。そのことが、コルネリウスとその一家、また彼の友人たちも含めて、多数の異邦人が洗礼を受け、また聖霊の賜物が与えられるということによってはっきりと示されたのです。

 異邦人の回心については、すでに8章26節以下に、エチオピアの高官がピリポから洗礼を受けたという出来事が記されていましたので、そのこと自体は新しいことではありませんが、ここでコルネリウスの回心について多くのスペースを割いて報告されていることには、理由があります。と言うのは、初代教会においては、異邦人への伝道の道が開かれたことによって、それに伴っていくつかの重要な課題が浮かび上がってくることになったからです。その課題の一つが、旧約聖書の律法の問題です。律法では、神に選ばれた聖なるものと、そうではない宗教的に汚れたものとの区別を明確に定めています。異邦人伝道においては、その区別をどのようにして乗り越えるかが大きな課題となりました。その課題を念頭に置きながら、きょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~2節】。カイサリアはエルサレムから北西約100キロメートル、地中海に面したパレスチナ地方最大の港町でした。当時は、ローマ帝国に属するユダヤ州の首都が置かれ、ローマ軍が駐留していました。カイサリアにはすでに8章40節に書かれてあったように、エルサレム教会の大迫害によって市内から追放されたフィリポが福音を宣べ伝えていました。その後のフィリポの活動についてや、この町に教会がすでにあったのかどうかについては書かれていませんが、やがてこの町に異邦人の教会が建てられていくことになる、その次第について、わたしたちはこのあとで読むことになります。

この町の駐留ローマ軍の百人隊長(百人の兵士を指揮する隊長)で、コルネリウスとう人物についての紹介が2節に詳しく書かれています。彼は「イタリア隊」と呼ばれる部隊の隊長ですから、生粋のローマ人であったと思われます。ユダヤ人から見れば、神の選びの民ではない異邦人ということになります。

でも、彼は旧約聖書のイスラエルの民、ユダヤ人の宗教、ユダヤ教の神を信じていました。異邦人でありながらイスラエルの唯一の神を信じている人を一般には「敬神家」と呼びます。正式にユダヤ教に改宗するためには、割礼の儀式を受け、洗礼を受けることが必要でしたが、敬神家は正式な改宗者ではありませんでしたが、その信仰は非常に熱心でした。

イスラエルの民・ユダヤ人は紀元前8世紀ころから世界各地に散らされていきましたが、彼らをディアスポラ・ユダヤ人と呼びますが、彼らは散らされた地で会堂を立て、旧約聖書の律法を守り、主なる神を信じる信仰を貫いていきました。彼らディアスポラ・ユダヤ人の信仰の証しによって、旧約聖書が教えている唯一神教や神の天地創造の信仰、高い倫理観や道徳心、さらに固い共同体意識が各地の教養ある人々に強い影響を与えました。それらの敬神家は、正式にユダヤ教に改宗するには至っていませんでしたが、ユダヤ人の会堂に出入りし、ユダヤ人と一緒に礼拝し、ユダヤ人と同じように律法を守り、祈りの生活をし、旧約聖書の教えを学んでいました。

 コルネリウスはそのような敬神家の一人でした。彼の家族もみなイスラエルの神を敬っていました。彼はその信仰の証しとして、貧しい人々のために施しをし、日に三度の祈りをささげ、おそらくはエルサレム神殿への巡礼も欠かさず行っていたと思われます。彼は非常に熱心な敬神家でした。けれども、彼の信仰はそのままどれほどに熱心を極めたとしても、そこには真実の救いはないのだということを、わたしたちは言わなければなりません。いや、わたしたちがそう思うよりもはるか前に、神ご自身が彼を真実の信仰へと、まことの救いへとお導きくださるために道を備えておられるのです。主なる神はこの熱心な敬神家コルネリウスが主イエス・キリストの十字架の福音によって本当の意味で救われるために、また彼の家族と彼の周囲の親しい友人たちも本当の救いを経験するために、使徒ペトロをお用いになり、そのみわざをお進めになります。

 【3~8節】。「午後3時」はユダヤ人の祈り時でした。熱心なユダヤ人は朝9時と正午と午後3時に、神に祈りをささげる習慣がありました。敬神家のコルネリウスもその習慣を守っていました。その時、神の天使が現れました。「神の天使」と「幻」は、旧約聖書以来、神が人間に現れ、語りかけられる時の啓示の手段の一つです。そこでは、神ご自身が人間と出会われ、人間に語っておられます。

 4節の「怖くなって」と訳されている箇所は、「恐れる」という言葉です。聖書の中にしばしば書かれている、人間が神と出会う際に覚える、いわば「聖なる恐れ」のことです。罪に汚れている人間が聖なる神と真実の出会いをする際に覚えざるを得ない恐れのことです。わたしたち人間はだれもみな罪に汚れ、滅ぶべき者です。いと高きにおられる聖なる,永遠なる神、最高の裁き主なる神のみ前に立つときに、わたしたちはだれもみな恐れざるを得ません。このような聖なる恐れがなければ、そこには真実な神との出会いも起こりません。もし、神に対する聖なる恐れを失っていたら、その信仰は単なる教養とか、道徳や倫理とか、あるいはご利益主義的な信仰になってしまうでしょう。

 コルネリウスは聖なる恐れの中で、「コルネリウスよ」という呼びかけを聞き、彼は「主よ、何でしょうか」と応答します。主なる神を恐れ、そのお招きに応える時、神はわたしたち人間から恐れを取り除き、恐れに替えて喜びと感謝とをお与えくださいます。コルネリウスの場合もそうでした。

 神は彼の熱心な信仰とその証しである祈りと施しを覚えていてくださると天使は告げます。神はすべての人の信仰の歩みを、たとえそれが人々の目には隠されていても、だれにも気づかれなくても、そのすべてを見ておられ、覚えておられます。覚えるとは、よく見ておられるとか記憶にとどめておられるという意味だけでなく、神が彼の信仰の歩みとその行ない、奉仕に対して正しく報い、応えてくださるということでもあります。

 神はコルネリウスに対して、どのように報い、応えてくださるのでしょうか。彼自身はまだその恵みの大きさに気づいてはいませんが、神は彼の信仰のわざや祈りに、はるかにまさる大きな恵みをもって、お応えくださいます。コルネリウスはあとになってそのことに気づきます。すなわち、神が使徒ペトロをお用いになって、彼と彼の家族とがいまだ聞いたこともなく、見たこともないほどの限りなく大きな、豊かな救いの恵み、主イエス・キリストの十字架の福音と出会い、それによって悔改めへと導かれ、罪のゆるしを与えられ、朽ちることのない永遠の命を受けとるという、大きな恵みをもって神が応えてくださるということを、コルネリウスはやがて知ることになるのです。

 神はわたしたちの小さな、欠けの多い信仰に対しても、貧しい証しのわざや、たどたどしい祈りをもみな覚えていてくださり、それらに対してもわたしたちの願いにはるかにまさった大きな恵みをもって、お応えくださるということを、わたしたちは信じたいし、信じてよいのです。

 神の使いは、ヤッファにいるペトロを招くようにとコルネリウスに指示します。エルサレム周辺の町々に宣教活動をしていたペトロは、9章43節によればヤッファで皮なめし職人のシモンの家に滞在していたと書かれていました。ヤッファはカイサリアから地中海沿岸に沿って50キロメートルほど南にある町です。ヤッファではペトロが病気で死んだタビタを生き返らせたという奇跡について、すぐ前に書かれていました。ヤッファにはすでに信仰者の群れができていました。シモンもすでに洗礼を受け、その群れの一員だったと推測されます。

 シモンは皮なめし職人であると紹介されています。当時の社会では、皮なめしという職業は最も尊敬されない、汚れた職業と考えられていました。しかしながら、シモンは主イエス・キリストを信じる信仰という、最高に尊い宝を与えられていました。神によって罪ゆるされ、救われている、神の民の一人とされていました。そして、初代教会のリーダーである使徒ペトロに宿を提供するという名誉を与えられています。それは、何という大きな恵みであることでしょうか。

 ペトロがシモンの家に滞在していたということは、ペトロが次の9節以下で見ることになる幻と何らかの関係があるように思われます。ペトロはその幻によって、神が清められた生き物はすべて清く、それを食べても汚れることはないということを神から示され、それによって旧約聖書の律法で定められていた宗教的に清い生き物と汚れた生き物の区別が取り除かれることになるのですが、それに先立って、主イエス・キリストを信じる信仰によって、どの職業が尊いとか汚れているとかの区別が取り除かれているということを、ここではあらかじめ語られていると読むことができます。

 主イエス・キリストの福音は、職業の違いによるすべての差別を取り除きます。職業に就くキリスト者は、その職業の違いにかかわらず、すべてのキリスト者は自分の職業をとおして主なる神に仕え、主キリストの福音を証しする使命を託されています。また、主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、男と女の違いからくる差別はすべて取り除かれます。みな互いに主キリストによって愛され、罪ゆるされている兄弟姉妹たちとして隣人に仕えるように招かれています。主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、民族や言語の違い、社会制度や生活様式の違い、その他のどのような違いも、お互いを分断したり、上下関係にしたりすることはありません。みな主キリストにあってみな一つだからです。みな主キリストの救いの恵みに生かされているからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの福音によってわたしたちを一つの群れとして集めてくださったことを感謝いたします.どうか、この国と、アジアの諸国と、全世界とが、主キリストの福音によって一つに結ばれ、全き平和が築かれますように。

○分断や侵略によって多くの血が流され、多くの破壊がなされている国や地域に、あなたが和平と分かち合いとを与えてください。災害や食糧難によって犠牲にされている子どもたちや弱っている人たちに、助けの手が差し伸べられますように。そして、あなたからの平安と慰めが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月17日説教「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

2023年9月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    ルカによる福音書9章37~42節

説教題:「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

 ルカによる福音書9章37節にこのように書かれています。【37節】。「一同」とは、28節によれば、主イエスペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちです。主イエスはこの日に、この三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られました。すると、祈っておられるうちに、主イエスのお姿が真っ白に光輝きました。「山上の変貌」と言われる場面です。その時、旧約聖書時代の偉大な二人の預言者、モーセとエリヤが主イエスと話している様子を、弟子たちは見ました。

 この「山上の変貌」と言われる出来事は、主イエスの最後の勝利と栄光のお姿を、先取りしています。この出来事が、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子たる者は日々自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めの箇所に続けて描かれていることには、深い意味があります。すなわち、ご受難と十字架の主イエスは、また同時に復活と栄光の勝利者なる主イエスであられるということです。あるいはこう言い換えてもよいでしょう。主イエスはご受難と十字架の死の道を通って勝利と栄光に入られるのだと。そして、主イエスの弟子であるわたしたちキリスト者もまた、主イエスと同じように、苦難と十字架の死の道を通って勝利と栄光のみ国が約束されているのだと。

 前回わたしたちがそこで確認したもう一つの点は、旧約聖書の律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤが主イエスと共にいて、主イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期のことについて話し合っていたということは、主イエスがこれからエルサレムで成し遂げようとしておられる十字架の死と三日目の復活、40日目の昇天、そして50日目の聖霊降臨によって、旧約聖書で約束されていた神の律法と預言とのすべてが成就されるということが、ここであらかじめ明らかにされているのです。主イエスはその救いの完成される日に向かってなおも歩みを進めていかれます。

 その翌日、主イエスは山から入りてこられ、大勢の群衆が待っている所に再びおいでになります。山の上での主イエスの栄光のお姿は一瞬にして終わり、主イエスは再び貧しい人間のお姿で、地上で待っていた群衆の中に入られました。主イエスは天の父なる神から遣わされた人の子として、この地に住む罪びとや病める人々のただ中にお帰りになりました。そして、エルサレムでのご受難と十字架への道をお進みになられます。

 ここに至って、わたしたちはなぜ前の場面でペトロが主イエスとモーセとエリヤのために山の上に小屋を建てる提案をしたとき、それが間違った判断であったのか、その理由をはっきりと知らされます。主イエスの栄光と勝利の時はまだ来ていません。主イエスの栄光のお姿を山の上に留めておくことは、主イエスのご受難と十字架の死を回避すること、それを避けていくことになります。十字架の主イエスがなければ、栄光の主イエスもありません。それゆえに、主イエスは今なお、しばらくはこの地上にとどまり、エルサレムまでのご受難と十字架への道をお進みになるのです。今なおしばらくは、この地上の罪びとたちと病める人たちの中にとどまり続けられるのです。彼らの一人をもお見捨てにはなさいません。主イエスが山の上に留まり続けることをなさらずに、いまだ罪と悲惨の中にあるこの地上に下ってこられたのはそのためでした。

 【38節】。37節には、大勢の群衆が主イエスを出迎えたと書かれていましたが、この時点ではまだ主イエスと群衆との出会いは起こっていませんし、救いの出来事も起こりません。わたしたちが群集の中の一人として主イエスを見ているならば、そこではまだ真実の出会いは起こっていません。群衆の中から、一人飛び出して、一人で主イエスのみ前に立ち、主イエスと対話をするとき、そこに主イエスとの出会いが起こり、主イエスによる救いの道が開かれます。

 この男の人は群衆の中から飛び出し、主イエスのみ前に立ち、大声で叫びました。と言うのは、彼にはそうせずにはおれない緊急の大きな課題があったからです。今すぐに主イエスの助けを必要としていたからです。主イエス以外には、彼の願いをかなえることができないように思われたからです。

 彼はこれまでのいきさつを説明します。彼の一人息子が悪霊に取りつかれ、けいれんなどのてんかんの症状によってひどく苦しめられていたので、主イエスの弟子たちに悪霊を追い出してくれるようにお願いしたが、弟子たちにはそれができなかった。それで、主イエスに直接にお願いに上がったというのです。

まず、父親としてのこの男の人の苦悩と、その息子の悪霊による苦しみのことを考えてみましょう。父親にとってこの子は一人息子であると強調されています。イスラエル社会においては、長男はその家の全財産と信仰と神の祝福を受け継ぎます。一人息子は父にとって、その家と氏族にとっても、大切な存在です。もし、一人息子が病気で死ぬことになれば、その家に与えられている神の祝福をも失うことになります。父親は必死になって主イエスにお願いしています。

病気の息子にとっては、苦しい戦いの連続です。悪霊は人間の意志や力をはるかに越えた暴力的な威力を発揮して、この子を苦しめます。この当時は、人間の重い病気や身体的・精神的障害は悪霊、あるいはサタンが働いていて、神のご支配から人間を引き離し、悪霊自身の支配下に置いている状態と考えられていました。4章31節以下に、主イエスがカファルナウムの町で安息日に会堂で悪霊に取りつかれた人を神の権威によっていやされたことが、また8章26節以下にも、ゲラサ人の地で悪霊に取りつかれた男の人を悪霊から解放されたという奇跡が記されていました。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主として、神の権威によって悪霊を追い出され、その人を再び神の恵みのご支配の中へと招き入れられました。主イエスが悪霊を追い出されたことは、神の恵みのご支配が始まり、神の国が到来したことの目に見えるしるしでした

この父親が主イエスのみ前に立って、「わたしの子を見てやってください」とお願いをしたのは、弟子たちにはできなかったけれど、主イエスには確かに悪霊に勝利するみ力があると信じたからでした。主イエスは彼の願いをお聞きになります。

でも、その前に、主イエスは不信仰なこの時代と弟子たちの信仰の弱さを問題にされました。【41節】。9章1節によれば、12弟子たちが神の国の福音を宣教するために派遣されるにあたって、主イエスは彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権能をお授けになった」とありますが、にもかかわらず弟子たちに悪霊を追い出す力がなかったということは、彼らにはまだ信仰がなかったからでしょうか。でも、ルカ福音書のこの箇所では弟子たちの不信仰は直接には非難されておらず、この時代全体がよこしまで不信仰な時代だと言われています。だから、いまだに悪霊がこの世で力を発揮し、人間を神の恵みから遠ざけているのだと、主イエスは言われるのです。

主イエスはここで、「いつまで、わたしは不信仰なあなたがたと共にこの地上に留まり、あなたがたの不信仰に耐えねばならないのか」と言われます。「いつまで」という言葉には二重の意味が含まれています。一つには,この時代の不信仰と弟子たちの不信仰がいつまでも続くかのように思われるほどに大きく、深く、信仰であるという主イエスの嘆きの大きさの強調です。しかし、もう一つには、やがてその不信仰には終わりがくる、終わりの時が定められているということです。主イエスご自身がその不信仰の時代を終わらせてくださるからです。

それはいつの時でしょうか。主イエスがこの地上で弟子たちと一緒におられる期間、邪悪でよこしまで不信仰なこの時代の人々と主イエスが共におられる期間はいつまででしょうか。主イエスがわたしたちの不信仰に耐えねばならない期間は、いったいいつまでなのでしょうか。わたしたちはこう答えます。それは,主イエスのご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、わたしたちを罪の支配から解放してくださる時までだと。主イエスが再びこの地上に立ってくださり、神の国を完成させてくださる終りの日までだと。

主イエスはその子どもをご自身のみ前に連れてくるようにと命じます。主イエスは悪霊に取りつかれて苦しむその子を、決してお見捨てにはなりません。そのために、栄光に包まれた山の上から罪が今なお支配しているこの地上へと下ってこられたのですから。

弟子たちにはその子をいやすことができませんでした。悪霊の支配からその子を解放する信仰がまだ足りませんでした。でも、その子を主イエスのみもとへと連れてくるための手助けはできます。それはわたしたちにもできることです。病んでいる人や苦しんでいる人、迷っている人を主イエスのみもとへと連れてくる、これが今わたしたちにできる伝道の基本です。

【42節】。悪霊、汚れた霊は人間をはるかに上回る暴力的な力で人間を支配します。人間を神の恵みから遠ざけようと、驚異的な力をふるいます。人間はそれに立ち向かうことはできません。しかし、悪霊の抵抗は主イエスのみ前に引き出され、自らの最後を知った者のあがきでしかありません。主イエスは神のみ子として、父なる神から託された権威によって悪霊、汚れた霊を叱責されます。「サタンよ、引き下がれ。この人から出ていけ」とお命じになります。

主イエスはその子どもを悪霊の支配から解放され、神の恵みのもとへと連れ戻され、父親にお返しになりました。その一人息子は長い間の悪霊の支配から解放され、主イエスを信じた父親と共に主なる神の恵みのもとへと連れ戻されたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、わたしたちを罪と死の奴隷から救い出してくださり、あなたの民の一人としてわたしたちを教会の群れの中にお加えくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再びあなたを離れて、罪の支配に屈することがありませんように。喜んであなたのみ言葉に聞き従い、忠実な僕としてあなたにお仕えする者としてください。

○主なる神よ、この世界とそこに住む人間たちを顧みてください。あなたから離れて、滅びへと向かうことがありませんように。わたしたちの間から争いや憎しみ、独善や傲慢を取り除いてください。ゆるし合ういや分かち合いの心をお与えください。あなたから与えられる義と平和で、この国を、アジアの諸国を、そして全世界を満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。