9月10日説教「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

2023年9月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記43章1~34節

    ローマの信徒への手紙13章8~10節

説教題:「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

 兄弟たちによってエジプトに売り渡された族長ヤコブの子どもヨセフは、エジプト王ファラオが見た夢を解き明かし、7年間の大豊作のあとにやってくる7年間の大飢饉に備えて、エジプトの倉庫に穀物を蓄えさせるという知恵をファラオに示しました。それによって、彼はエジプトの総理大臣に任命さることになりました。ヨセフの夢解きの知恵と、その夢によって、将来の飢饉のために備えるという知恵もまた、主なる神から与えられたものでした。神は異教の地エジプトに売り飛ばされたヨセフと共にいてくださり、ヨセフを祝福し、彼の信仰を導き、やがてヨセフによってヤコブの家族全員を飢饉から救うことへと導かれました。それによって、のちの民イスラエルと教会をお用いになって、全世界のすべての人々を罪から救われるという大いなる救いのみわざを前進させてくださったのだということを、わたしたちは創世記のみ言葉から教えられます。

 42章では、世界を襲った大飢饉のために、カナン地方のヤコブ一家にも食物が途絶え、ヤコブの子どもたちがエジプトのヨセフのもとへ穀物を買うためにでかけたことが書かれていました。彼らはそれがヨセフとは知らずに、エジプトの大臣の前にひれ伏して、穀物を分けてくれるようにお願いしました。この第一回目のエジプト訪問によって、ヨセフが子どものころに見た夢、すなわち、37章7節に書かれていた夢、ヨセフの兄弟たちがみんな彼の周りに集まって、彼の前にひれ伏すという夢が、一部、実現することになりました。

 でも、それはまだ一部でした。12番目の子ども、ヨセフの弟で、ヨセフと同じ母ラケルから生まれた子、ベニヤミンはその時エジプトに同行してはいなかったからです。と言うのも、父ヤコブが末の子ベニヤミンを特別にかわいがり、かつてヨセフを失ったように、このたびはベニヤミンを失うかもしれないと、エジプト行きを認めなかったからでした。

 ヨセフが見た夢、それは神のみ心であり、神の救いのご計画なのですが、それが完全に実現されるためには、ベニヤミンが欠けています。また、それとの関連で、ヨセフにとって、また創世記全体に貫かれている神の救いのご計画で、どうしても解決されなければならない問題、それは父ヤコブと最愛の妻ラケルとの間にようやくにして生まれた年寄子であるヨセフとベニヤミンに対する偏った父の愛、偏愛が克服されなければならないということです。

 そして、実は、この二つのことが、43章に書かれている二度目のエジプト訪問のテーマでもあるのだということに、わたしたちは気づかされます。その二つのことに注目しながら、43章を読んでいきましょう。

 【1~2節】。世界的な大飢饉が7年間も続くことになります。パレスチナ地方のヤコブ一家にもその影響は及びました。エジプトから買い求めてきた穀物は1年もすれば食べつくしてしまいます。父ヤコブは、彼はこの章では新しい名前であるイスラエルとして6節、8節、11節に書かれていますが、彼は年老いてはいましたが、族長として、また一家の長として、その一族や家族が一人も飢饉で死ぬことがないようにと、気をつかっています。それは単に一族、一家の長としての責任からくる配慮であるのではありません。彼は、アブラハム、イサクから受け継いだ神との契約を忘れてはいません。神はこう言われました。「わたしはあなたとあなたの子孫とを永遠に祝福する。わたしはあなたの子孫の数を増し加え、空の星、海の砂ほどに増やし、あなたの子孫にこの地を永久の所有として受け継がせる」と。ヤコブはこの神の約束のみ言葉を信じるがゆえに、毎年繰り返される飢饉という試練の中にあっても、冷静に、また希望をもって家族と一族のために行動することができたのです。

 けれども、ヤコブには人間的な弱さがありました。末の息子ベニヤミンに対する特別な、偏った愛から、彼はまだ解放されてはいませんでした。かつて、おなじ偏愛から、ヨセフを特別にかわいがったために、兄たちの憎しみを買い、エジプトに売り飛ばされました。兄たちはヨセフは野獣にかみ殺されたと父には報告していました。ヤコブはヨセフに続いて最愛の子ベニヤミンをも失うこと恐れて、最初のエジプト行きには同行させませんでした。

 ところが、3節以下で、ユダが発言します。彼はこう言います。「最初のエジプト訪問の際に、自分たちの身の上をエジプトの責任者に話したところ、その人は次に来るときには末の子も一緒でなければならないと厳しく命じました。だから、ぜひベニヤミンを連れて行かせてください。もし、ベニヤミンにもしものことがあったら、自分が全責任を負いますから」と。

ここでのユダのベニヤミンに対する忠実で責任ある言葉と42章37節の最年長ルベンの言葉とを並べてみましょう。まず、【42章37節】。この言葉によっても、父ヤコブはベニヤミンを連れて行くことには同意しませんでした。次に、【43章9節】。父ヤコブは、このユダの言葉によって動かされました。それがなぜであったかについては、何も説明されていませんが、ルベンとユダの二人の子どもたちの弟ベニヤミンに対する愛と責任ある言葉を聞いて、自らの感情に任せた偏愛の愚かさを、ヤコブは気づかされたのだろうと思われます。また、ルベンとユダの言葉の中には、かつて父の偏愛を受けていた弟ヨセフを憎み、彼を売り飛ばそうとした兄たちの罪の告白がなされていると、読むこともできるでしょう。人間的な愛の破れが、このようにして克服されていくのです。そして、神の救いのご計画が進行されていくのです。

13、14節の父ヤコブの発言は、まさに奇跡的と言ってよいかもしれません。【13~14節】。ヤコブは末の子ベニヤミンに対する偏愛から解放されています。ルベンとユダという二人の子どもの忠実な兄弟愛に刺激されたからでしょうか。自分の命を捨てる覚悟までもって守るべき真理があることを知ったからでしょうか。それもあったでしょうが、ここでははっきりと「全能の神」が、「全能の神の憐みが」がと言われています。彼は今、全能の主なる神の憐みを知る者とされたのです。

ヤコブ自身も母の偏愛を受けて育ちました。父を欺いて兄エサウの長子の特権を奪いました。そのヤコブが、多くの試練を経験し、その中でも神に守られて、そのようにして神は彼の信仰を練り清められたのです。ただ主なる神の全能のみ力に頼り、人間のすべての欠けや破れをもお用いになってご自身の救いのご計画を進めてくださる全能の神の憐みを求める信仰者としてくださったのです。その全能の神にすべてをお委ねするヤコブとしてくださったのです。

主イエスはマタイ福音書10章37節以下で言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。ヤコブはこの信仰に生きる決断をしたのです。

そのようにして、ヤコブの子どもたち11人による二度目のエジプト行きが実行されました。【15~16節】。ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、彼らを自宅での昼食に招きました。ところが、ヨセフだとまだ気づいていない兄弟たちは、自分たちが特別扱いされているのを不安に感じました。最初のエジプト行きの時に、穀物の代金として持参した銀が自分たちの袋に戻されていたのを思い起こし、そのことがとがめられるのではないかと思ったからです。

そこで、彼らはヨセフの使いである執事にあらかじめそのことを尋ねます。執事は、彼らの袋に銀を戻したのがヨセフの命令によってしたことを知っていましたから、23節でこのように答えています。【23節】。これは族長たちの主なる神を知らない異邦人であるエジプトの執事の言葉ですが、わたしたちはここにも主なる神のお働きを見るように思います。主なる神が異邦人の口をお用いになって、ご自身の測りがたく限りない恵みと導きを語っておられるように思います。

23節の冒頭を直訳すると、「あなたがたに平安あれ。恐れるな」となります。この言葉は神ご自身がエジプト人の執事の口をお用いになって、ヤコブの子どもたちに語った言葉と読むことができます。神はご自分の民イスラエルの試練や危機の時に、しばしば同じみ言葉をお語りになりました。出エジプト記14章で、エジプトを脱出したイスラエルの民がエジプト軍に追いかけられ、行く手を海に阻まれた時に、神はモーセによってこう言われました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい。……主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14章13~14節参照)。また、バビロンに捕虜として連れ去られていたイスラエルの民に、神はイザヤの口をとおしてこう語られます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(43章1~2節)。そして、罪と滅びの中を歩んでいた世界の人々に最初のクリスマスの夜に語られたみ言葉は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ福音書2章10~11節参照)。

このようにして、神は今もなお、迷ったり、悩んだり、恐れと不安の中にあるわたしたち一人一人に対して、「恐れるな。安心せよ。平安があるように。わたしはいつもあなたと共にいる」と呼びかけてくださいます。

ヨセフと11人の兄弟たちとの食事が始まりました。ヨセフはまだ自分の身を明かしていません。でも、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンの顔を見るとこらえきれずに、別室に移って涙を流しました。このところの記述は非常に感動的です。【29~31節】。ヨセフはまだ自分の身を明かしてはいませんが、20数年ぶりの兄弟12人の再会、そしてただ一人の弟ベニヤミンとの再会がこのようにして実現しました。

これはまた、ヨセフが子どものころに見た夢の実現でもありました。26節と28節に、11人の兄弟たちがヨセフの前にひれ伏し、ヨセフを排したと繰り返されています。でも、ヨセフ自身はそのことを全く誇ってはいません。すべては神のみ心だからです。神の救いのご計画がこのようにして進められていくからです。神はお選びになった信仰者たちをお用いになって、ご計画にしたがって、万事を益となるように導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ。天地創造の初めから今に至るまで、そして終りの日にみ国が完成する日まで、あなたは永遠なる救いのご計画を進めてくださいます。主よどうぞ、今この時代にも、あなたのみ心が行なわれますように。弱っている人を励ましてください。迷っている人を導き返してください。倒れている人、壁の前でたたずんでいる人を、希望の光で照らしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月3日説教「三位一体なる神」

2023年9月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(26回)
聖 書:申命記6章4~5節
    マタイによる福音書28章16~20節
説教題:「三位一体なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の基礎と中心について学んでいます。きょうは、前文の2段落、3つ目の文章、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」、この告白の中の「三位一体なる神」について、聖書のみ言葉から学んでいきます。
 まず、1890年(明治23年)に制定された『(旧)日本基督教会信仰告白』との比較ですが、この『信仰告白』では「その恩(めぐみ)によるに非(あら)ざれば罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていて、「三位一体なる神」という言葉がない以外は、今の『信仰の告白』とまったく同じです。1953年の『信仰の告白』で、なぜこの言葉が付け加えられたのかについての理由ははっきりしませんが、おそらくは古代教会と宗教改革時代からの教理的伝統を強調するためであったと推測できます。
 「三位一体」という言葉、またキリスト教の教理は、古代教会の神学者たちが様々な異端的な教えや間違った福音理解との戦いの中で、正しいキリスト教教理を形成していく段階で考え出された教理です。「三位一体」という言葉そのものは聖書の中にはありませんが、「三位一体論」という教理、教え、信仰理解は聖書の最も中心的で大切な真理であると言ってよいでしょう。
 「三位一体」という言葉を最初に用いたのは、紀元2世紀から3世紀にかけての神学者であるテルトゥリアヌスと言われています。彼は、父なる神と子なる神と聖霊なる神は三つの位格を持ちつつ、一つの実体であり、父、子、聖霊の三者は神性という一つの実体を共有すると説きました。その後、紀元4、5世紀に成立したと考えられる『アタナシオス信条』では、その全体で三位一体なる神について告白されています。それを要約すれば、「すべて信じて救われることを願う者は、唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめなければならない。父と子と聖霊の三つの位格を持つ唯一の神を三位一体の神として信じ、礼拝しなければならない」と告白されています。
 「三位一体論」はその後も宗教改革の時代から今日にいたるまで、キリスト教会の最も重要な教え、教理として熱心に論じられてきました。すべてのプロテスタンと教会とカトリック教会が「三位一体論」を重んじています。「三位一体論」を信じるかどうかが、正統的な教会か異端かを判別する基準になっていると言ってよいでしょう。
 現在のキリスト教3大異端と言われる統一教会(世界平和統一家庭連合)、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教はいずれも「三位一体論」を否定します。彼らはしばしばそれを否定する理由として、「三位一体」という言葉が聖書の中にはないからだと言いますが、しかし彼らは「三位一体論」を否定することによって、聖書には書かれていないより重要な誤った教えを数多く考え出しています。たとえば、主イエスは神ではないとすることによって、彼らの教派の創設者、教祖が主イエスの代わりに神になります。また、聖霊が神ではないとすることによって、人間の努力とか精神とか、あるいは人間の信仰的な行動が聖霊なる神に代わって重要視されます。それによって、主イエスの十字架と復活の福音によって救われるという信仰だけでは不十分であり、他の何かによって主イエスの救いの不十分さを補わなければならないと主張します。しかし、それはもはやキリスト教ではありません。「三位一体論」を否定するならば、だれも正しい信仰に至ることはできませんし、真実の救いに至ることもできないのです。
 「三位一体論」は古代教会の神学者たちが聖書の中で証しされている信仰の真理から必然的に導き出された教理であり、聖書で証しされている神について、より正確に、より深く理解するための教理です。さらに言えば、神の救いのみわざをより確実に、より強力にわたしたちのものとするための教理なのです。三位一体なる神の救いのみわざは完全であり、永遠です。
 では、聖書の中で「三位一体論」はどのように証しされ、教えられているかを、聖書の主な個所を読みながら確認していきましょう。旧約聖書のイスラエルの信仰から新約聖書の教会の信仰に至るまで一貫していることは、神は唯一の神であるということです。一神教、唯一信教が聖書の教えです。ただお一人の神を信じ、この神だけを礼拝します。他の神々が多数共存しているギリシャや東洋、日本の宗教観とは根本的に違っています。
 出エジプト記20章2~3節にはこう書かれています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしのほかに神があってはならない」。また、申命記6章4~5節では、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられています。神は唯一である。主なる神はただお一人である。これが旧約聖書以来の信仰の基本です。
 主イエスはマルコによる福音書12章28節位以下の箇所で、この申命記6章のみ言葉を引用しながら、「唯一の主なる神を愛し、またあなたの隣人を愛しなさい」と教えられました。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章30節で、「実に、神は唯一だからです」と教え、コリントの信徒への手紙一8章1節以下の箇所で、「唯一の神以外にいかなる神もいない。万物はこの唯一の父なる神から出て、わたしたちはこの神へ帰って行く」と書いています。
 「三位一体論」はこの唯一神教から出発します。この唯一信教の信仰を土台にし、そのうえで、主イエス・キリストが神であり、聖霊が神であると証しされている聖書の証言とを、どのように調整し、統一させるのか。つまり、父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと、聖霊なる神が、いずれもまことの永遠なる神であり、しかも三つの別々の神であるのではなく、一つの神、唯一の神であるという聖書の証言をどのように言い表すかが「三位一体論」の課題になるわけです。
 では次に、三位一体なる神についての具体的な聖書箇所を読んでみましょう。マタイ福音書28章18~20節にはこうあります。【18~20節】(60ページ)。今日、わたしたちが洗礼を受ける時もこの聖句が読まれますが、ここで「父と子と聖霊」の名前と言われる場合、普通ならば三つの名前ですから、「名によって」の名は複数形にならなければなりませんが、原文のギリシャ語では単数形になっています。つまり、父なる神の名前、子なる神、キリストの名前、そして聖霊なる神の名前は三つの別々の神の三つの名前なのではなく、一人の神の一つの名前であるということが、ここには暗示されているのです。
 主イエスご自身に「三位一体なる神」という認識があったのかどうかとか、この福音書が書かれた時に、これを書いた著者にその信仰があったのかどうかということは議論の余地があると言えますが、少なくとも初代教会が「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けていた際に、三つの別々の神を信じていたのではなかったということは明らかです。もちろん、わたしたちの場合も同様です。父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと聖霊なる神が、わたしたち人類の救いのために、またわたしの救いのために、受難と、十字架の死と、復活と、昇天と、聖霊降臨とによって、一つの救いのみわざをなしてくださった、その救いのみわざは完ぺきであった、完全であり永遠であり普遍であったということを、「三位一体論」は強調しているのです。父なる神としても、み子なる神としても、聖霊なる神としても、神はいつでもだれに対してもご自身の全ご人格をフル動員され、その愛と恵みとをすべてお用いになって、わたしの救いのためにお働きくださっておられる、そのことを「三位一体論」は強調しているのです。
 新約聖書からもう一箇所を読んでみましょう。コリントの信徒への手紙二13章13節です。【13節】(341ページ)。これは、初代教会以来、全世界の教会の礼拝で用いられている祝祷のみ言葉です。わたしたちはこの三位一体なる神の祝福を受けて、この世へと派遣されていきます。礼拝から始まるわたしたち信仰者の歩みは「三位一体なる神」の祝福によって包まれており、父なる神、み子なる神、聖霊なる神が常にわたしたちの歩みに伴っていてくださるのです。パウロはここでも、他のところでも「三位一体」という言葉を用いてはおりませんが、彼の手紙の至る箇所から「三位一体なる神」のお働きを読み取ることができます。
 最期に、エフェソの信徒への手紙1章3節以下を読んでみましょう。まず、【3~5節】(352ページ)。ここでは、父なる神のお働きが天地創造から始まり、み子主イエス・キリストによってわたしたちを救いの民としてお選びくださったことが告白されています。
 次の【6~12節】。ここでは、み子主イエス・キリストの十字架の血による贖いと、救いの完成に至るまでの執り成しのお働きが告白されています。
 そして、【13~14節】。ここでは、聖霊なる神のお働きが告白されています。終りの日に、神の国が完成され、わたしたち信仰者が神の国の民として神の栄光にあずかる者とされる確かな証印として、補償として、聖霊はわたしたちに与えられています。
 このようにして、「三位一体なる神」は、父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、そのすべてのご人格をお用いになり、わたしたち一人一人の救いの完成のためにお働きくださるのです。この「三位一体なる神」によらなければ、罪の中で死んでいる人は、本当の命を生きることはできませんし、またこの「三位一体なる神」以外の何かによっては、だれも本当の救いを与えられることはありません。したがってまた、この「三位一体なる神」によって、わたしたちすべてに確かな、そして完全な救いが与えられているのです。わたしたちは大きな感謝と喜びとをもって、「わたしは三位一体なる神を信じます」と告白するのです。

(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍であることを信じます。どうか、だれもあなたの救いから漏れることがありませんように。すべての人が主キリストと聖霊によるあなたの救いに招かれますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月28日説教「タビタ、起きなさい」

2023年8月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    使徒言行録9章36~42節

説教題:「タビタ、起きなさい」

 ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、世界最初の教会エルサレム教会のリーダーでもありました。彼の巡回伝道が使徒言行録9章32節から再開されます。ペトロはパレスチナとその周辺に建てられた諸教会の母なる存在であるエルサレム教会の代表者として、それらの諸教会を訪問し、教会の基礎を固めるために、さらには宣教活動を拡大するために、エルサレム教会から使命を託され、派遣されたのでした。8章14節からはサマリア教会を訪問したことが記録されていました。少し間があって、9章32節からはリダに住むキリスト者の訪問、そしてきょうの箇所では、ヤッファの集会を訪問したことが書かれています。リダもヤッファもまだ教会として整った群れにはなっていなかったと思われますが、ペトロがその二つの集会で行ったいやしの奇跡と死人をよみがえらせた奇跡は、その地域の福音宣教と教会の成長にとって大きな意味を持っていました。9章35節には、【35節】と書かれています。また、42節には、【42節】と書かれています。いずれも、一人の人がその重い病気をいやされ、死んでいた人が生き返らされたという奇跡以上に、主イエス・キリストの福音宣教によって、その地域全体に今や新しい神のご支配が始められ、神の救いの出来事が起こされ、神の国が接近してきたという、驚くべき神の救いのみわざを多くの人々が目にし、耳にするということが起こっているのです。ペトロはその神の大いなるみわざに仕えているのです。

 【36節】。リダという町はエルサレムから北東に約40キロメートル、ヤッファはさらに北東に20キロメートルほどの地中海沿岸の町です。ヤッファの町にだれがどのようにして主キリストの福音を宣べ伝えたのかについては記録はありませんが、おそらくはリダもそうであったと考えられていますが、8章1節に書かれていた、エルサレム教会に対する大迫害によって、市内から追放されたキリスト者たちがこれらの町にも散らされてきて、福音を宣べ伝えたのであろうと推測されます。わたしたちはここでもまた、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」(テモテへの第二の手紙2章9節参照)とのみ言葉を確認することができます。神の言葉は教会が経験する迫害や逆境の中でこそ、その力と命とを発揮するのです。

 「タビタ」は、当時のパレスチナ地方の一般的な言語であったアラム語と思われます。ギリシャ語では「ドルカス」と言い、その意味は「かもしか」であると説明されています。タビタはその名のように、美しく、軽やかな足で、活発に走り回り、教会の良い働き人、奉仕者として仕えていました。

 彼女は「婦人の弟子」と言われていますが、この言葉は新約聖書でここにしか用いられていませんので、教会の中でどのような役職であったのか、婦人の長老や執事であったのか、あるいは「使徒」という特別な役職を表すのか、はっきりとは分かりませんが、わたしたちがこの箇所で特に注目したいのは、ここには初代教会における婦人の働きについて、その数少ない記録が残されているということです。

古代社会においては、一般に婦人の社会的地位や働きについて表に現れることはほとんどありませんでした。そんな中で、使徒言行録とルカ福音書の著者であるルカは特に婦人たちの働きについて強調していることが確認できます。それはルカの個人的な見識によると言うだけでなく、主イエス・キリストの福音そのものが男女の違いとか、身分や年齢、その他の人間の違いを乗り越えているからにほかなりません。主イエス・キリストの福音を信じ、その信仰によって罪から救われている人はだれであれ、感謝と喜びとをもって神と隣人とに仕える人とされるのです。タビタがかもしかのような軽やかで活発な足を用いて「たくさんの善い行いや施しをしていた」のは、主イエスの福音によって罪ゆるされ、救われていることの感謝の応答です。

 日本キリスト教会は1963年から、「タビタの家」という、隠退された婦人教職や牧師夫人が共同生活をする福祉施設を造りました。現在は「タビタの会」と名称を変えて、同じような主旨の経済的支援の働きをしています。初代教会においても今日の教会においても、婦人たちの奉仕と働きは教会の大きな柱です。

主イエス・キリストの福音においては、また主の教会においては、男女の差別も、その働きにおける差別もありません。すべての信仰者に同じ神の霊が注がれているからです

 ところが、教会での中心的な働き人、奉仕者であったタビタが突然に病気でなくなるという不幸な出来事が起こりました。そのことはヤッファの教会にとってどんなにか大きな試練であり、損失であり、悲しみであったことでしょうか。

【37~39節】。一人の信仰者の死は教会全体の死であると宗教改革者ルターは言いました。ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を清め、屋上の間に安置しておきました。タビタの死を悲しむために多くの人たちが集まってきました。特に、生前タビタの愛の奉仕によって助けられ、慰められていたやもめたちの悲しみは大きかったと思われます。一人の信仰者の死はその親族や友人たちの悲しみであるだけでなく、確かに教会全体の悲しみであり、教会全体の死です。教会は一人の信仰者の死によって、教会全体の死を共に経験するのです。しかし、もちろんそれだけではありません。教会は主イエス・キリストの十字架と復活によって、主イエス・キリストご自身がすでに罪と死と滅びとに勝利しておられることを信じている仰者の群れとして、教会全体が終わりの日に約束されている復活と永遠の命を共に経験することを許されているのです。

 ヤッファの教会がリダにいたペトロを呼び寄せたのは何のためであったのか、今の段階ではまだはっきりとは分かりません。あとになって分かるようになります。タビタの死をヤッファの教会員と共に悲しんでもらうためではありませんし、ペトロに葬儀の司式を依頼したのでもありません。ヤッファの人たちはペトロがリダの町で、長く中風で寝ていたアイネアを主キリストのみ名によって起き上がらせたという奇跡についてすでに耳にしていたに違いありません。十字架の死から三日目に復活された主イエス・キリストの福音を何度も聞いてきました。彼らがタビタの亡骸をすぐに葬らずに、屋上の間に安置しておいたのも、そしてペトロをリダから呼び寄せたのも、タビタの死を超えて、主なる神が何かをなしてくださるであろうとの彼らの信仰が背後にあったのではないかと、わたしたちは推測してもよいのではないでしょうか。

 【40~43節】。リダとヤッファとの距離は20キロメートルあまりですから、両方の町を行き来するには1日か2日はかかります。その間、ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を囲みながら愛する人の死を悲しみつつ、しかし何かを期待しつつ、ペトロの到着を待っていました。

 しかし、聖書は彼らがタビタが生き返ることを期待していたとか、ペトロにその力があるかとか、そのようなことについては一言も語っていません。タビタが生き返ることは彼らの期待に応えるために行われるのではありません。そのことは、ペトロがみんなを部屋の外に出し、ただ一人になって神に祈ったと書かれていることによって強調されています。タビタの生き返りは主なる神のみ心であり、主なる神のみ力によるのであり、主イエス・キリストを死から復活させたもうた神のみわざなのです。

 ここに描かれているタビタの生き返りの奇跡、これは正確には死からの復活ではありません。いわば蘇生、生き返りです。その人はいつかは地上の生を終えて死の時を迎えます。復活とは、もはや死を見ない、永遠の命への復活です。主イエス・キリストただお一人が、わたしたちに先立ってこの永遠の命へと復活されました。そして、わたしたち信仰者にも終わりの日に完成される神の国での永遠の命への復活を約束してくださいました。

 実は、聖書には死んだ人が生き返るという蘇生の奇跡がいくつか記録されています。旧約聖書では、列王記上17章17節以下に、預言者エリヤがザレパテのやもめの子を生き返らせた奇跡。列王記下4章32節以下に、預言者エリシャがシュネムの女の子を生き返らせたという奇跡。新約聖書では、ルカ福音書8章40節以下の、主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという奇跡。これはマタイ福音書9章とマルコ福音書5章に並行記事があります。これとは別に、ヨハネ福音書11章には、マリアとマルタの弟ラザロを主イエスが生き返らせたという奇跡。きょうの箇所、使徒言行録9章と、同じ使徒言行録20章7節以下に、パウロの説教を聞いていたユテコという若者が3階から落ちて死んだときに、パウロが彼を生き返らせたという奇跡。計6か所になります。

 これらの蘇生の奇跡に共通している重要なポイントを二つにまとめてみましょう。一つには、これらはみな人間の蘇生の奇跡であり、主イエスの復活とは本質的には違うということです。主イエスの復活はもはや再び死ぬことのない永遠の命への復活です。両者は厳密に区別されなければなりませんが、しかし両者は固く結びついてもいます。これらの奇跡は主イエスの復活によって信仰者に約束されている終わりの日の神の国における復活と永遠の命の先取りであり、その確かなしるしなのです。主イエスがご自身の十字架の死と復活によって罪と死とに勝利の宣言をしてくださいました。信仰者にとっては、死の牙はすでに抜き取られています。死はもはや信仰者には致命的な傷を与えません。死によって、信仰者が神から引き反されることはありません。パウロがローマの信徒への手紙8章で語っているように、ご自身の独り子さえも惜しまずにわたしたちのために死に渡された大いなる神の愛から、どのような迫害も艱難も剣も死も、わたしたちを引き離すことはできないからです。

 二つには、これらの蘇生の奇跡には全能の生ける神が働いておられるということです。無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神がそれらのみわざをなしておられます。預言者エリヤはこう神に祈りました。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」(列王記上17章21節)。神はその祈りを聞かれ、その子の命をお返しになりました。主イエスは会堂長に、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ(ルカ福音書8章50節)、彼の娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」と言われると、その子はすぐに起き上がりました。ペトロが「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は眼を開き、起き上がりました。

これらの奇跡には全能の主なる神のみ力が働いているのです。主イエスを復活させられた父なる神が働いておられるのです。その神はわたしたち信じる者たちの死すべき罪の体をも生かしてくださり、ついには終わりの日に、神の国において朽ちることのない永遠の命をお与えくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたち一人ひとりにもお与えください。わたしたちが朽ちるパンのためにではなく、永遠の命のために生きる者としてください。重荷を負っている人、試練の中にある人、孤独な人、迷っている人を、どうかあなたが顧みてくださり、あなたからの助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月20日説教「山上での主イエスの栄光の姿」

2023年8月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書9章28~36節

説教題:「山上での主イエスの栄光の姿」

 ルカによる福音書9章16節から27節は、この福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半とを分ける分水嶺と言われます。ルカ福音書を読み進んでいくと、この時から、主イエスはご自身でもはっきりと自覚をもってご受難と十字架への道を進んで行かれることを感じ取ることができます。また、この箇所で語られている三つのこと、つまり、ペトロの信仰告白と、主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるということ、これら三つのことは互いに深く関連しあっているということ、それがこの箇所のもう一つの重要なポイントであるということをわたしたちは学んできました。

 そして、きょうの礼拝で朗読された28節以下に記されている、後半の最初の場面、山上で主イエスのお姿が栄光に包まれたという山上での変貌と言われる箇所も、その前の三つのことと、別の意味で深く関連しあっています。これまでに学んできたことを振り返りながら、その関連性についてまず考えてみましょう。

 弟子のペトロが、「あなたこそが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白した主イエスは、第一回目の受難予告によって、ご自身が受難と十字架のメシアであることを明らかにされました。主イエスは人々が期待していたような政治的メシアではなく、罪や悪を剣や権力によって滅ぼす英雄的なメシアでもなく、国家や社会を繁栄に導くメシアでもない。全人類の罪のためにご自身が神の裁きを受け、苦しまれ、十字架で死なれるメシアである。それゆえに、そのメシア・キリストを信じる信仰者もまた、日々に自分の十字架を背負って、罪の自分に死につつ、神と隣人とのために自らをささげ、主イエスが進まれた道を生きるべきであると教えられました。

そして、その主イエスのお姿が山上で栄光に輝いたというこの箇所から、十字架の主イエスはまた同時に罪と死とに勝利され、復活された栄光の主であるということが明らかにされているのです。

 さらには、ご受難と十字架の主イエスをわたしの救い主と信じ、告白するキリスト者は、日々に自分の十字架を背負って生きることによって、主イエスが神の国で栄光の座につかれる時には、同じ栄光にあずかることが許されるという約束が、ここでは語られているのです。ここでは、いわゆる十字架の神学と栄光の神学とが結びつけられています。ご受難と十字架の主イエスは、同時に勝利と栄光の主イエスです。わたしたちキリスト者は苦難と十字架をくぐりぬけて、主イエスの勝利と栄光にあずかることが許されているのです。それが、きょうのみ言葉の中心的なメッセージです。

 では、28節から読んでいきましょう。【28節】。ルカ福音書は主イエスの祈りのお姿を多く描いていることをこれまでも確認してきました。主イエスが洗礼を受けられたとき、12弟子を選ばれたとき、そしてすぐ前の18節でも、主イエスは重要な場面で、あるいは重要な決断をなさるとき、いつも祈られました。父なる神のみ心を尋ね求め、それに従われました。わたしたちも祈りの大切さを今一度思い起こしたいと思います。

 次に、「山に登られた」とあります。山は旧約聖書でも新約聖書でも、神が人間と出会う場です。人里から離れ、人間たちの営みとこの世から離れ、ただ神とだけ向かい合う場です。主イエスはそのような場、そのような時を大切にされました。わたしたちはどうでしょうか。そのような場を、そのような時を持っているでしょうか。余りにも人間的なしがらみの中にがんじがらめに縛り付けられ、この世の有様に心も体も奪われてしまってはいないでしょうか。神と向かい合い、神と語り合うことが少なくなってはいないでしょうか。わたしたちはそのような場とそのような時を、もっと確保しなければなりません。

 主イエスはその際に三人の弟子たちを連れていかれました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、この三人は8章51節で、会堂長ヤイロの娘を主イエスが生き返らされたときにも、選ばれてその証人となりました。彼らは主イエスの重要な場面の証人として選ばれているのですが、彼らが選ばれたのは、彼らが他の弟子たちよりも信仰深かったからとか、優秀であったからでは必ずしもありません。と言うのも、32節には「ひどく眠かった」と書かれていて、彼らは主イエスと共に目覚めて祈っていることができなかったからです。彼らはそのような弱く、信仰の浅い人間の代表者なのです。そうでありながらも、主イエスによって選ばれて、この重要な場面の証人とされ、主イエスの栄光のお姿をその目で見ることを許されたのは、主イエスの一方的な恵みの選びによることです。

 【29~32節】。主イエスの「服は真っ白に輝いた」と書かれています。主イエスがこのときにどのようは服装をしておられたのかは分かりませんが、おそらくは粗末なものだったに違いありません。日夜、福音宣教のために旅を続けておられたのですから、服は擦り切れ、泥やほこりにまみれていたと思われます。また、そのお顔は汗で汚れ、みすぼらしかったと推測されます。人となられた神み子は、そのようにして身も心もすり減らすほどに,わたしたちの救いのために働かれました。

 その主イエスのお顔が今、山の上で突然に変わり、その服が真っ白に輝いたのです。白く輝く服装は神の使い、天使の服装です(ルカ福音書24章4節、ヨハネ福音書20章12節参照)。主イエスは汚れのない、罪がない、神からの使者としてのお姿を現されたのです。罪も汚れもない神のみ子が、罪のこの世に人のお姿でおいでくださり、人間の汗と労苦を身にまとわれ、わたしたちと共に歩まれる人の子となられたのです。そのようにしてわたしたちの救いを成し遂げられたのです。

 その時、旧約聖書の偉大な二人の人物が栄光に包まれて現れました。モーセとエリヤです。この二人は旧約聖書全体を代表しています。モーセは出エジプトの指導者、シナイ山で神から律法を授かりました。旧約聖書の律法を代表しています。エリヤはイスラエルの最初の預言者で、彼は死後その体が天に引き上げられました。終りの日に、メシアに先立って地上に再び現れるとマラキ書の最後で預言されています。彼は旧約聖書の預言者を代表しています。

 その二人が、エルサレムで主イエスが成し遂げようとしているおられる最期について話していたと書かれています。それは具体的には、主イエスの十字架の死と三日目の復活、そして40日目の昇天を指しています。それによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いが完成されます。モーセに代表される律法が成就され、エリヤに代表される預言が成就されます。旧約聖書を代表しているモーセとエリヤ自身がここに登場してそのことを証言しているのです。

 ペトロたちは眠りかけていましたが、栄光に輝く主イエスのお姿に目が開かれ、彼らは主イエスがご生涯の最後にエルサレムで成し遂げられるであろう救いのみわざをあらかじめ見ることを許され、その証人とされました。彼らが選ばれて主イエスの山上での変貌の証人とされたことの意味をさらに考えてみたいと思います。

 一つには、主イエスが最後に勝ち取られる勝利と栄光のお姿の証人とされたことです。それは、十字架の死と復活、そして昇天にとどまりません。来るべき神の国での主イエスの栄光のお姿の証人とされたということです。主イエスは神の栄光の輝きにその全身が包まれています。もはや、罪も死も痛みも苦しみもありません。すべてが神の栄光に包まれ、光り輝き、一片の暗さもありません。主イエスはそのような神の国の王であられます。彼らはそのことの証人です。

 もう一つには、教会の民もまたこの栄光を約束されていることの証人です。教会の民はこの地上にあっては主イエスの十字架の福音によって生きることを許されていますが、しかしなおも、破れや弱さを持ち、この世からの迫害や辱めを受けなければなりません。けれども、教会は苦難と十字架をくぐりぬけて、神の栄光にあずかる約束を与えられています。終りの時、再び主イエスが来臨される時、教会は主の栄光のお姿に似た者とされ、欠けも破れもなく、汚れも弱さもない、栄光ある主イエスのお体と同じにされるという約束を与えられています。彼らはそのことの証人として選ばれているのです。

 ところが、ペトロをはじめ弟子たちは主イエスの山上での変貌の出来事を正しく理解してはいませんでした。【33~36節】。ペトロは主イエスの栄光のお姿をそのまま永久にそこにとどめておきたいと願いました。栄光に輝いた主イエスとモーセとエリヤとをその場に長くとどめておくために小屋を三つ建てることをペトロは提案します。けれども、それは正しい提案ではありませんでした。栄光に包まれていたモーセとエリヤの姿は雲の中に消え去りました。主イエスのお姿はなおも貧しい人の子としてそこに残っていました。主イエスはこののちもなおも、神から遣わされたメシア・キリストとして、わたしたちを罪から救うために、エルサレムへと、ご受難と十字架への道を進み行かなければなりません。その歩みをここでとどめることはできません。主イエスが栄光に輝くためにはご受難と十字架の道を通らなければなりません。

 教会もまた、最後の栄光の時を約束されている群れとして、なおも今は地上にあっては困難な福音宣教の務めを続けていかなければなりません。わたしたち信仰者は、終わりの日の栄光を約束されている者たちとして、なおも今は地上にあっては、弱さや破れを抱えながら、信仰の歩みを続けなければなりません。わたしたちはまだ神の栄光に完全に包まれ、覆われているのではありません。けれども、主イエスご自身がすでに罪と死とに勝利され、父なる神の右に出しておられ、栄光のお姿に変えられていることをわたしたちは知っています。そして、わたしたち一人一人をもその栄光の中に招き入れてくださることを信じています。主イエスの約束のみ言葉を聞きつつ、信じつつ、主の栄光のお姿を直接この目で仰ぎ見る時がくるまで、勇気と希望とをもって信仰の歩みを続けていきたいと思います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの弱くみすぼらしい現実を知っておられます。地上の教会の困難は信仰の戦いをご存じであられます。この世界の混乱と悲惨とをすべて見ておられます。主よ、どうかわたしたちを憐れんでください。この世界とわたしたちにあなたの救いのみわざを行ってください。わたしたちにあなたのみ心をお示しください。あなたのみ心がこの地に行われますように。そして、わたしたちがあなたの栄光の内に神の国の民として迎え入れられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月13日説教「ヨセフの夢の実現」

2023年8月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記42章1~29節

    ローマの信徒への手紙12章9~21節

説教題:「ヨセフの夢の実現」

 族長ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どものうち11番目に生まれた子どもヨセフを主人公とした物語が、創世記37章から終わりの50章までに語られています。ヨセフは父ヤコブの最愛の妻ラケルから、長く待ち望んだあとでようやく生まれた年寄り子でしたから、ことさらに父の寵愛を受けて育てられ、そのことが兄たちの憎しみを買うことになりました。兄たちは憎しみと嘲笑を込めてヨセフを「あの夢見るお方」と呼びました(37章19節)。ヨセフが自分の見た夢を兄たちや両親に自慢げに話していたからです。その夢はこうでした。【37章7節】(64ページ)。もう一つの夢は、【9節】。ヨセフに対する兄たちの憎しみと妬みの結果、ヨセフは兄たちによってエジプトに売られていくことになったのでした。

 それからおよそ20数年後、きょうの礼拝で朗読された42章6節にこのように書かれています。【6節】。そして、【9節a】。子どものころにヨセフが見た夢が、今、紆余曲折を経て、実現しているのです。けれども、そのことに気づいていたのはヨセフだけであり、しかもヨセフはそれを自慢げに兄たちに話すことをしていません。ヨセフは自分の夢が実現して、自分をエジプトに売り飛ばした兄たちに勝利したことを誇っているのでは決してありません。彼はここに神のご計画の実現を見ているのです。彼が見た夢を実現させたのは神です。ヨセフは神のみ心が行われていることを悟り、神への恐れをもって、神から自分に託されている兄弟同士の真の和解と、神の隠された救いのみわざが行われるために、何をなすべきかを思案しているのです。この42章でもすべての出来事を支配している主人公はヨセフではなく、主なる神なのです。ヨセフはその神に服従しているのです。

 では、どのようにしてヨセフの夢が実現され、神のみ心が行なわれていくのでしょうか。【1~2節】。エジプトと全世界を襲った大飢饉は、当然のことながらパレスチナ地方に住むヤコブ一家にも命の危険を及ぼすほどの影響を与えました。ヤコブは一家の長として、また一族の族長として、その家族の命を守る責任を自覚しています。ヤコブはエジプトには穀物があるということを聞いていました。彼がどうやってその情報を手に入れたのかについては何も書かれてはいませんが、そこにも神の隠れたみ心が働いていたと推測することはできます。でも、全国的な飢饉のときに、なぜエジプトに穀物があるのかについては、彼には知らされていません。しかし、41章をすでに読んできたわたしたちにはその理由が分かっています。

 41章53節以下にはこのように書かれていました。【53~57節】。これは、ヨセフがエジプト王ファラオの夢を解き明かし、7年の飢饉の前の7年の大豊作の期間に、穀物を蓄えさせておいたからであることをわたしたちは知っています。ヨセフは神から与えられた知恵によってファラオの夢を解き明かし、また神からの知恵によって大豊作のあとの飢饉に備えました。その知恵がファラオに認められてエジプトの総理大臣に任命されたのです。

 大豊作も飢饉も、いずれも主なる神のみわざです。神は創造されたすべての被造物を強いみ手をもって支配しておられます。大地を豊かに実らせるのは主なる神です。また大地を乾かすのも神です。そのようにして、神は豊作を喜ぶ人々にも、飢饉に苦しむ人々にも、主なる神であられることをお示しになり、わたしたち人間がすべてのものの造り主であられる神に服従し、その神がわたしたちを無くてならないものによって養ってくださることを信じるように導かれるのです。

 それゆえに、神はだれも飢えによって死ぬことを望んでおられません。2節でヤコブは「そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言っていますが、それはヤコブの願いである以上に、主なる神のみ心なのです。神は兄たちによってエジプトに売られたヨセフをお用いになり、神に選ばれた族長ヤコブとその家族のパンのために配慮なさいます。そして、彼らを飢えと死の危険から救い出されるのです。

 ヤコブは飢饉から一家を救うために10人の息子たちをエジプトへ派遣します。でも、一番末の子ども、最愛の妻ラケルから生まれたヨセフの弟ベニヤミンだけは、この危険な旅から除外しました。かつて、溺愛していたヨセフを失ってしまったときの記憶が父ヤコブにはまだ残っていました。4節にこのように書かれています。【4節】。しかし、これもまた父の偏った愛からの行動であったと言わなければなりません。かつて、父としてのヨセフに対する偏った愛が兄たちの憎しみを買い、ヨセフを失う結果になったのと同じ過ちを、ヤコブは繰り返しているのではないでしょうか。

そして事実、父ヤコブはヨセフとベニヤミンという二人の子どもに対する偏った愛から、大きな苦悩をもって解放されなければならない時がくるのだということを、わたしたちは次の43章で読むのです。あらかじめその個所を読んでみましょう。【43章14節】。このようにして、ヤコブは人間の偏った愛から、彼が何度も失敗を繰り返してきたあの人間への偏った愛から解放されていくのです。ただ、主なる神に対する全き服従こそが、族長として選ばれた信仰者ヤコブの進むべき唯一の道であることを知らされていくのです。主なる神を第一に愛することこそが、夫婦の愛、家族の愛、すべての人間への愛の土台であるべきことを知らされるのです。

 エジプトに遣わされたヤコブの10人の子どもたちは、エジプトで総理大臣の地位についていた弟ヨセフの前で地にひれ伏しています。ヨセフはすぐに兄たちだと気づきましたが、彼らは自分たちの前に立っているのが、かつて外国の商人に売り飛ばしたヨセフだとは全く予想することはできませんでした。

また、ヨセフは自分が子どものころに見た夢が20数年後の今エジプトで実現していることにも気づいていました。でも、ヨセフはそ知らぬふりをしています。むしろ、彼らに外国からのスパイ容疑をかけて、荒々しく取り扱っています。

 ヨセフはここで兄たちにかつての復讐をしようとしているのでしょうか。自分の夢が実現したことを兄たちに対して誇っているのでしょうか。いや、そうではありません。彼はここで神のみ心が成就しているのを悟ったのです。彼が子どものことに見た夢を実現させ、ヨセフと他の兄弟たちとを、数奇な運命をたどりながら、今エジプトで再会させてくださったのは、ほかでもなく主なる神であるのだということをヨセフは悟るのです。そして、神が父ヤコブの12人の子どもたち全員を、真実の和解へと導こうとされていることを知らされるのです。そのために、ヨセフはまだここに一緒にいない末の弟ベニヤミンとの再会をも果たさなければなりません。

 【18~22節】。ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちを真実の和解へと導く神のみわざがこれから始められようとしています。ヨセフは末の弟ベニヤミンをエジプトに連れてくることを兄たちに要求します。それまでは兄弟の一人を人質にして牢獄に監禁することにすると言います。それを聞いた兄たちは、かつて自分たちが弟ヨセフを憎み、彼一人だけを残し、彼を苦しめ、外国の商人に売り飛ばしたという罪に気づきました。最年長のルベンをはじめ兄たちは、弟ヨセフに対するかつての罪に気づき、その罪を悔いています。ここから兄弟たちの和解が始まります。

 ヨセフは兄たちが自分に対して犯したかつての罪を悔いていることを知り、彼らに知られないように、そっと涙を流したと24節に書かれています。ヨセフは彼らが穀物の代金として持参した銀をみな彼らの穀物袋の中に忍び込ませて返しました。そのことを知った彼らは、28節で「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と言って驚きました。兄たちもまた今回のエジプト行きと、エジプトの総理大臣との出会い、それが弟ヨセフだとはまだ気づいてはいませんでしたが、そしてエジプトの穀物によって飢饉から救われたことのすべてに、主なる神が働いておられることを感じ取っていました。

彼らは父ヤコブのもとに帰り、事のすべてを報告します。けれども、ヤコブにとっては彼らの報告は決して嬉しいものではありませんでした。ヤコブは36節でこう言います。【36節】。ヤコブは父親としてのヨセフとベニヤミンに対する偏った愛からいまだ解放されてはいません。わたしたちがすでに43章14節であらかじめ確認したように、二度目のエジプト訪問の時になってようやくヨセフは全能の神に服従することこそが、父親として、また神に選ばれた族長として、家族のみんなとイスラエルの民とを救うことになるということに気づくのです。

そしてまた、二度目のエジプト訪問で、ベニヤミンを含む11人の兄弟全員がヨセフの前にひれ伏すようになって、ヨセフが子どものころに見た夢が実現し、神のみ心が完全に成就するようになるのです。そのようにして、族長ヤコブとイスラエルの民全員が主なる神の救いのみわざを見るようになるまで、そしてすべての民が主なる唯一の神を礼拝するようになるまで、神の隠れた救いのみわざは続けられていきます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち人間の罪や憎しみや破れ、傷ついた愛の中で、ご自身の永遠の救いのみわざを前進させてくださいます。どうかわたしたちが自らの罪と破れとを知り、それを悔い改め、あなたの全能のみ力を信じて、あなたに服従する者としてください。この時代のさまざまな争い、混乱や分断、苦悩と試練の中にあっても、あなたのみ心が確かに行なわれていくことをわたしたちに信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月6日説教「平和を実現する人々は、幸いである」

2023年8月6日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和祈念礼拝)

説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    マタイによる福音書5章1~12節

説教題:「平和を実現する人々は、幸いである」

 主イエスはある日、ガリラヤの山に登られ、弟子たちを集めて説教されました。マタイによる福音書5章1節以下は「山上の説教」と言われます。その中の9節で、主イエスはこう言われました。【9節】。きょうの、「世界の平和を祈念する礼拝」では、この9節のみ言葉を中心に、聖書が語る平和について学んでいきたいと思います。

この箇所の古い文語訳聖書では次のように訳されていました。「幸福(さいわい)なるかな、平和ならしめる者、その人は神の子と称えられん」。この方が、原典のギリシャ語の語順に近い翻訳です。つまり、「幸いである」という言葉が文章の先頭に置かれ、強調されているのです。旧約聖書の詩編1編1節では、「いかに幸いなことか」と訳されていますが、マタイ福音書のこの箇所も、「いかに幸いであることか、何と幸いであることか」と訳す方が、原典の意味を汲んでいます。

では、「幸いである」という言葉が強調されていることの意味は何でしょうか。だれが幸いであるか、どんな状況がより幸福と感じるのかは、人によって違うでしょうし、時代や場所によっても受けとめ方は違うでしょう。けれども、聖書が、「幸いなるかな、何と幸いであることか」と強調して告げる場合は、他者と比較してとか、その時代の価値観に照らして、ということではなく、この世のあらゆる幸いとは全く違った、天から与えられる幸いのことなのです。天におられるすべてのものの造り主なる神、すべての命あるものの主であられ、父であられる神から与えられる幸いのことなのです。

実際に、主イエスの説教を聞くためにガリラヤの山のふもとに集まってきている群衆や、主イエスの12弟子たちは、幸せな生活を営んでいた人たちもいたでしょうし、困難を抱えて、辛く苦しい毎日を送っていた人たちもいたでしょう。特にこの時代は、イスラエルは長く外国の支配下にあり、国の外からは異教的な弾圧に苦しめられ、国の内では権力をふるうヘロデ王家の圧政に苦しめられていました。多くの人々は自分たちが幸いであるとは感じていなかったと思われます。

また、今この時代の中で、そしてきょうの礼拝で、この主イエスの「あなたがたはさいわいなるかな」というみ言葉を聞いているわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが今生きているこの世界、この国、地域、家庭、わたし自身には、本当の幸いがあるでしょうか。むしろ、不安や恐れ、思い煩い、憎しみ、悲しみ、怒りの方が多くあるのではないでしょうか。

主イエスは今、そのようなすべての人たちに呼びかけておられるのです。「あなたがたは何と幸いであることか」と。なぜならば、主イエスの山上の説教は、天の父なる神からの語りかけであり、神の命と恵みに満ちたみ言葉の説教だからです。そして、神の恵みと命に満ちたみ言葉は、それを聞いている人の中に、新しい出来事を生み出していくからです。「幸いなるかな」との呼びかけを聞き、それを天の父なる神がお語りくださった神のみ言葉と信じる人に、神から与えられる幸いが創り出され、その人を実際に幸いな人として造り変えるのです。

なぜ、そいうことが起こるのかを深くさぐっていくと、ここで説教をしておられる主イエスご自身に行き着きます。主イエスは神のみ子として、クリスマスの日に、おとめマリアの胎から聖霊によってお生まれになりました。天におられる神が、地に下ってこられ、わたしたち人間と同じ肉のお姿でこの世においでくださいました。神はわたしたち罪の中にある人間たちと共におられるしるしとして、み子主イエスをこの世にお送りくださいました。それだけではありません。主イエスはご自身の罪も汚れもない肉のお体を、わたしたちの罪を贖うための供え物として十字架におささげくださったのです。それによって、わたしたちを罪の支配から救い出し、神の所有として買い戻してくださったのです。罪の奴隷であったわたしたちを神の子どもたちとしてくださったのです。

そのようにして、神のみ子・主イエス・キリストはわたしたちに「幸いなるかな」と語りかけ、わたしたちの中に天から与えられるまことの幸いを、永遠の幸いを創り出してくださるのです。

では次に、「平和を実現する人々」とはどのよう人々のことなのかを見ていきましょう。「平和」という聖書の用語は、旧約聖書ではヘブライ語の「シャローム」、新約聖書ではギリシャ語の「エイレーネー」です。この二つは、今日でもそれぞれの言語が用いられている国では、一般のあいさつの言葉として、日常で用いられているそうです。「こんにちは、おはよう、お元気ですか、またね」というあいさつとして、「シャローム」「エイレーネー」と声を掛け合うそうです。「あなたに平安があるように」という意味合いでしょうか。

ヘブライ語の「シャローム」は聖書では「平安、平和」と訳されるほか、「繁栄」「救い」とも訳されます。神と人間との関係において、あるいは国と国の関係、人間と人間の関係において、破れがなく、不和や争いがなく、満たされている関係にあること、精神的に不安や恐れがないこと、経済的には貧富の差による軋轢や富の独占がなく、肉体的には健康で活力に満たされていること、そのような状態を「シャローム」と言い表しました。ギリシャ語の「エイレーネー」も新約聖書の中では「シャローム」の意味を受け継いでいます。すべての点において神のみ心のままに調和と協力、分かち合いと豊かな交わりがある状態が「エイレーネー」です。

ところが、多くの場合、人間の罪によってこの平和が乱され、踏みにじられ、破壊されているという現実があることを聖書は語るのです。戦争、あらゆる争い、略奪、憎しみ、分断、それらはみな人間の罪が生み出すものです。人間が神の創造のみわざを破壊し、神の救いのみ心をそむき、神の義と公平を重んじないところに人間の罪があり、それが平和を破壊し、戦争を生み出します。

神がご自身の形に似せて創造された人間の命を尊重せず、その命を傷つけ、破壊する殺人が行われているところには平和はありません。神が創造された海、山、自然を砲弾で破壊し、その地の上を戦車のキャタビラで掘り返すところには平和はありません。核兵器や長距離弾道弾の恐怖におびえて暗い夜を過ごさなければならないところに平和はありません。だれもが他の人よりも多くを持とうとし、隣の貧しい人に目を向けないならば、その社会がどんなに富み栄えていても、そこには平和はありません。人間の罪が支配しているところには、国家であれ、社会であれ、家庭であれ、そこには平和はありません。

では、主イエスはどのようにして弟子たちを、またわたしたちを「平和を実現する幸いな人たち」とするのでしょうか。罪の中にあって、平和を破壊し、新たな戦争を生み出すことしかできないような、傲慢で不従順なわたしたち、自分を守るためにより強力な武器を持とうとしているわたし、他者をゆるすことができず、自分こそが正しいと主張しているわたし、心では平和を願いながら、世界平和のための祈りに乏しいわたし、平和のために立ち上がる勇気も力もないわたし、そのようなわたしに対しても、主イエスは「幸いなるかな、平和を実現する人たちは」と呼びかけてくださるのでしょうか。

9節後半の言葉に注目したいと思います。「その人たちは神の子と呼ばれる」。この文章は前半で語られたことの理由や根拠を示しています。新改訳聖書2017年版では、「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」と訳しています。つまり、主イエスはこう言われるのです。「あなたがたはかつては罪の奴隷になっていて、戦いや分裂しか生み出すことができない人たちであったが、今やあなたがたは罪の奴隷から解放され、神に属する者たちとされ、神の子どもたちとされているのであるから、そして今天の父なる神からの幸いを与えられているのだから、あなたがたは平和を実現する者たちとして新しく造り変えられているのだ」と。

ここでもう一度、わたしたちに「幸いなるかな」と呼びかけてくださる主イエスご自身に目を向けましょう。実は、主イエスこそがただお一人の神のみ子です。わたしたちは主イエスによって、いわば神の養子とされているのです。ヨハネの手紙一3章1節にはこのように書かれています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。わたしたちが神の子どもたちと呼ばれるために、父なる神はご自身の一人子なる主イエス・キリストを罪びとたちの手に渡され、全人類を罪から贖う供え物として十字架におささげくださった、それほどに大きな愛によってわたしたちを愛されたからなのだと、この手紙は語っているのです。

主イエスはご自身の十字架の死によって、神と人間との間を隔てていた罪を滅ぼしてくださいました、また、人間と人間、国と国との間を隔てていた敵意や憎しみを滅ぼしてくださいました。そのようにして、主イエスはいくつにも分裂していた人間とこの世界とを一つに結び合わせ、共に神と和解されている者たちとしてくださったのです。そして、この和解の福音を宣べ伝える務めをわたしたちに授けてくださったのです。わたしたちは平和の創造者であられる主イエスの十字架の福音を携えて、この世へと、世界へと派遣されていくのです。主イエス・キリストの十字架の福音こそが、どんな武器よりも、核兵器よりも、力強く、そして確かに、この世界と人間たちに、真実の平和をもたらすということを、語り伝えていくのです。これがキリスト教会の使命です。また、教会に招かれているわたしたち一人一人の使命です。

(執り成しの祈り)

(礼拝出席者全員で「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

2023年8月6日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

7月30日説教「聖霊なる神の働きー聖霊の実」

2023年7月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(25回)

聖 書:出エジプト記20章1~17節

    ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖霊の実」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の中で、聖霊なる神のお働きについて告白されている箇所を学んでいます。『信仰の告白』で聖霊について告白されているのは次の3箇所です。今学んでいる箇所の前文2段落目、二つ目の文章、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」。次は、同じ前文の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し……」。そして、後半の『使徒信条』では第三項目、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます」。この全体が聖霊なる神に関する告白と考えられます。

 このように見ると、日本キリスト教会は聖霊についてそれほど強調はしないと前回申し上げましたが、告白されている文章の量やその内容から言えば、父なる神、子なる神・主イエス・キリストとほとんど同じほどに聖霊なる神のお働きを重んじているというべきです。決して聖霊を軽んじているということではありません。ただ、実際には、礼拝説教の中で、あるいは聖書の学びの中で、聖霊を取り上げることは、確かに少ないというのは認めなければなりません。そこで、数少ない機会に、聖霊について正しい理解を深めるように心がける必要があります。

 きょうは、「聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」の後半部分、「御心を行わせる」という箇所を、聖書のみ言葉に導かれながら学びます。

「御心を行なわせる」の主語は聖霊です。また、「聖化し」の後にすぐ続けて「御心を行わせる」と続くので、「御心を行わせる」のは聖霊の聖化のお働きの一部、あるいはその結果という意味に理解すべきと考えられます。聖霊がわたしたち信仰者を日々に聖化し、この世に属する者からわたしたちを区別し、神に属する者たちとし、神にささげられた聖なる者たちとし、また主キリストに似た者たちとするという聖化のお働きは、わたしたち信仰者が神のみ心を行う者たちとして造り変えられていくということなのです。そして、聖霊の実を結ぶようになるということなのです。

 聖書はこのような聖化の働きと聖霊の実を結ぶことについてどう教えているでしょうか。【ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節】。ここでは、霊の導きに従って歩む信仰者の新しい生き方について語られています。それは、聖霊なる神のお働きによって聖化の道を歩む信仰者の新しい歩みのことです。ここで強調されていることは、信仰者が生きる主体となるのは常に聖霊なる神であるということです。わたしが自分の道を切り開いて歩まなければならないのではなく、またそうすべきでもなく、聖霊がわたしに働かれ、聖霊がわたしの道を導かれ、聖霊がわたしのすべての行動、考えの主体となってわたしを導かれるゆえに、わたしはその聖霊の導きに従うのだということです。『信仰の告白』では「御心を行なわせてくださいます」と表現しているのはそのことです。文語文では「御心を行なわしむ」となっていました。聖霊なる神の強い意志、導きが強調されています。わたしがこの聖霊なる神の強い意志を知り、信じ、それに服従する時、聖霊はわたしを神のみ心にかなった歩みへと造り変え、導いてくださるのです。

 この箇所で繰り返して語られているもう一つのことは、聖霊の導きによって歩む生き方は、肉によって歩む生き方と真っ向から対立するということです。【17節】と書かれています。「肉によって歩む」とは、生まれながらの人間の生き方のことです。それは罪に支配されています。罪に支配されているので、自分でこうしたいと願っていても、それを行うことができないという弱さを持っています。人間の心も意志も行動も、すべてが罪の奴隷とされているからです。

 ガラテヤの信徒への手紙の著者であるパウロは、彼自身がそのような弱さを持つ人間であることを強く自覚していました。彼はローマの信徒への手紙7章18節以下でこのように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(18~20節)。こう告白するパウロは24節でついにこう叫ばざるを得ません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(24~25節)。

 パウロはローマの信徒への手紙8章でも人間の肉と神の霊・聖霊との対立について語っています。パウロがそこで強調している点は、肉と霊の対立は、わたしたちにとって死と命の問題なのだということです。肉に従っている人は死ぬほかにない人であり、死んだ人なのだ。なぜなら、その人は神に敵対しているからだと彼は言います。反対に、霊に従っている人は生きる人であり、神から平安を与えられ、神の子たちとされると言います。人間はだれも自分自身を肉の支配から解放することはできません。罪と死の奴隷状態から自由になることはできないとパウロは繰り返します。

 わたしたちを罪と死の法則から解放されるのはただお一人、主イエス・キリストだけです。ご自身がわたしたち人間と同じ肉のお姿でこの世においでくださり、十字架と復活によってわたしたちを罪と死の法則から解放してくださった主イエス・キリストだけが、わたしたちに命をもたらす霊の法則へと導くことができるのだとパウロは言います。8章11節にはこのように書かれています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべきはずの体をも生かしてくださるでしょう」。

 そのようにして、主イエス・キリストの十字架の福音によって、罪と死の法則から自由にされる時、わたしたちは初めて神のみ心に喜んで従っていく者とされ、聖霊の実を豊かに結ぶことができるようにされていくのです。

 ではここで、パウロがガラテヤの使徒への手紙5章とローマの信徒への手紙8章で教えている聖化への道、聖霊の実を結ぶ歩みについて重要なポイントを4つにまとめてみましょう。

 第一点は、人間の生まれながらの肉と聖霊とは両立しない、両者は厳しく対立し、どちらか一方を選び取ならければならないということです。そしてそれは、わたしたちが命を選ぶのか、それとも死を選ぶのかという選択だということです。つまり、生まれながらの肉に従って死を選ぶのか、そうではなく、聖霊に従って生きる命の道を選ぶのかという選択なのです。肉に従って生きる時、人間のすべての行い、わざは、それがどんなに精魂込めてなされたとしても、それは神のみ心からは遠く離れており、罪と死と滅びに支配されているので、実りを結ぶことはできません。

 第二点は、わたしたちが生まれながらの肉の支配から解放されるためには、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰による以外にはないということです。わたしたちはだれも肉の支配に負けてしまう弱い者でしかありません。自分の力で肉の欲を制御することも、それを死滅させることもできません。わたしたちのために罪と死とに勝利された主イエス・キリストだけが、聖霊によって肉と罪と死の支配からわたしたちを解放してくださいます。従って、わたしたちの聖化への道、聖霊の実りを結ぶ歩みは、ただひたすら主イエス・キリストと共に歩む道であり、主イエス・キリストが備えられた道を歩むこと以外ではありません。

 第三点は、わたしたちが聖化への道を進むためには、常に罪のゆるしを土台にし、罪のゆるしと固く結びついていなければならないということです。『日本キリスト教会信仰の告白』でも、「キリストにあって義と認められ」に続いて「信じる人を聖化し」と告白されているように、信仰義認による罪のゆるしと聖化の道は切り離すことはできません。聖化は罪のゆるしのあとに続き、罪のゆるしを土台としています。わたしたちは日々主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、主キリストと固く結ばれ、肉の支配から解放されることによって、聖化への道を進むのです。

 第四点は、わたしたちは主イエス・キリストによって肉の支配と罪と死の法則から解放されているだけでなく、それらに対する勝利を約束されているゆえに、わたしたちは勇気と希望をもって肉の弱さと戦い、罪と死の法則に抵抗し、聖霊の導きに喜んで従うものとされるということです。そのようにして、神のみ心を行い、聖霊の実を豊に結ぶようにされていくのです。

 パウロがガラテヤの信徒への手紙5章22~23節で挙げている聖霊の実は、「霊の結ぶ実}と言われているように、聖霊なる神がわたしたちの中で働いてくださり、わたしたちの朽ち果てるべき肉の体をお用いになって、わたしたちにお与えくださる実です。

 「愛」「喜び」「平安」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」、これらの聖霊の実は、信仰者が他者との交わりの中で、他者に対して好意を示し、他者の徳を立て、他者に仕える生き方の中で与えられる聖霊の実です。これを、19~21節に書かれている肉のわざと比較してみるとその違いは直ちに明らかになります。肉のわざがすべて自分自身を楽しませ、自分自身の利益を求める生き方であることが分ります。聖霊に導かれて聖化の道を歩む信仰者は、主イエスがそうであられたように、愛と真実とをもって他者に仕えていく時に、豊かな聖霊の実を与えられるのです。

 わたしたちは最後になお一つのことを付け加えなければなりません。わたしたちの聖化の道は神の国の完成の日まで続けられるということです。その日には、神はわたしたちに朽ちず、汚れず、しぼまない、天に蓄えられている財産を受け継がせてくださるでしょう(ペトロの手紙一1章4節参照)。わたしたちは神が最後にお与えくださる天にある賞与を得るために、前のものに全身を向けつつ、目標を目指して走り続けるのです(フィリピの信徒への手紙3章13~14節参照)。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちがあなたのみ心に喜んで聞き従い、十字架の主キリストを仰ぎ見つつ、あなたの栄光を現わす歩みを続けることができますように。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月23日説教「起きて、床を取り上げなさい」

2023年7月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    使徒言行録9章31~35節

説教題:「起きて、床を取り上げなさい」

 使徒言行録9章31節にこのように書かれています。【31節】。これは、これまでの教会の歩みをまとめた文章です。使徒言行録の著者であるルカは、前にも何度かまとめの句を書いていました。すぐ前では、6章7節でこのようにまとめていました。【6章7節】(223ページ)。ここでは、初代エルサレム教会が2度のユダヤ人による迫害を経験しながらも、神の言葉が力強く広まっていったことが強調されていました。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない(テモテへの手紙二2章9節参照)ということをわたしたちはそこで確認してきました。

 きょうの31節でまず取り上げたいことは、聖霊なる神のお働きについてです。聖霊はペンテコステの日に弟子たちの上に豊かに注がれ、エルサレム教会を誕生させました。聖霊はそののちの教会のすべての歩みを導かれました。教会の宣教活動にも教会員の交わりと奉仕の働きにも、賛美や祈りにも、あるいはまた、迫害や試練の時にも、聖霊は常に教会と教会員一人一人の歩みと共にあり、その歩みをみ心のままに導かれました。

 聖霊は使徒言行録の最初から最後まで、教会と信仰者の歩みを導かれる主体です。そこで、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれます。今日のわたしたちの教会でも、聖霊のお働きは絶えず続けられています。この日本の異教の地にあっても、聖霊はすべての偶像の神々に対する勝利をわたしたちに確信させます。あらゆる困難や試練の中でも、わたしたちの歩みを力強く導かれ、希望と励ましを与えてくださいます。そして、終わりの日の完成へと導いてくださいます。

 31節では、「聖霊の慰めを受け」と書かれています。「慰め」と訳されているもとのギリシャ語は「パラクレーシス」であり、これは「傍らに呼び出された」という意味を持ち、「弁護」とか「慰め、励まし、呼びかけ」と訳されます。聖霊は常に教会のすべての歩みに伴っていてくださいます。わたしたち信仰者の傍らに立ち、時に、失望しているわたしに勇気と希望を与え、時に、道に迷っているわたしを正しい道へと呼び返し、時に、この世のことで心を煩わせているわたしを神のみ言葉へと差し向けてくださいます。そのようにして、聖霊は教会とわたしたち一人一人の信仰を終わりの日の完成へと導いてくださるのです。

 次に、「平和を保ち」とあります。わたしたちがこれまで学んできたように、初代教会は同胞のユダヤ人、あるいはユダヤ教から幾度も激しい迫害を受けました。エルサレム市内から多くの教会員が追放され、散らされるという大迫害もありました。そして、その迫害の急先鋒であったサウロ、すなわちパウロが復活の主イエスとの衝撃的な出会いによって、迫害者から福音の宣教者に変えられたという驚くべき出来事を9章の前半で読みました。教会は今、しばしの落ち着いた平安な時を迎えています。けれどもそれは、教会に迫害がなくなったという保証ではもちろんありません。12章1節で新たな迫害が始まることをわたしたちは読むことになるでしょう。それまでの少しの間の平和です。

この平和の期間もまた、教会の内的な充実と成長の時です。迫害の時に、神のみ言葉の力によって教会が成長したように、この平和の期間にも教会は成長し続けます。平和の中で休んでいるのではありません。神のみ言葉はいつも生きて働きます。聖霊はいつもわたしたちと共に歩まれます。教会は与えられた平和に感謝しながら、たゆみなくその歩みを続けます。

もう一つ31節で重要なことは、「主を畏れる」ということです。主なる神を恐れるという信仰は、旧約聖書時代からの信仰者の最も基本的、中心的な信仰の姿勢です。主なる神を恐れるとは、神を神とし、人間を人間とすること、そして主なる神以外のいかなるものをも神とはしないということです。主なる神への恐れがなければ、教会のわざは人間的なもの、この世的なものになり、終わりの日のみ国での真の実りを結ぶことはできません。教会の伝道活動、熱心な祈り、聖書の学び、信徒の交わり、一人一人の奉仕、あるいは喜びや悲しみを分かち合うこと、それらのすべてが主なる神への恐れをもってなされる時、人間の計画や思いや努力をはるかにまさった神のみわざが行われ、神の奇跡が行われ、豊かな祝福と実りが与えられるでしょう。

このように、聖霊なる神が共におられ、信仰者が神への恐れをもって共に仕える時に、教会は神のみ言葉の上に固く建てられ、また神のみ心かなって成長していくのです。

32節からは使徒ペトロの働きについてしばらく語られ、これは10章の終わりまで続きます。【32節】。ペトロの活動について最後に語られていたのは8章14節以下でした。そこでは、ペトロはヨハネと一緒に、誕生して間もないサマリア教会を視察するために、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者としての務めを果たしていました。この箇所で、ペトロが方々を巡り歩き、リダという町の信者たちを訪問したのも、同じ巡回視察の務めのためと思われます。

初期のころの教会は、エルサレム教会をいわば母なる教会と考える意識が強くありました。パレスチナ各地に建てられた諸教会は、だれかが勝手に自分の好みに合わせた教会を形成するのではなく、母なる教会、エルサレム教会に連なる一つの教会として、その信仰を受け継いだ教会でなければなりません。更にその源流をたどれば、エルサレムで起こった主イエス・キリストの十字架の死と復活という出来事から始まっているのであって、全教会は母なる教会、エルサレム教会に連なっていると考えられていました。

ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、またエルサレム教会のリーダーともなりました。彼はエルサレム教会を代表して各地に建てられた教会を巡回していたようです。このあと巡回する36節のヤッファ、10章24節のカイサリア、そして12章2節でエルサレム教会に戻るという道のりです。

リダの町はエルサレムから北東の方角へ40キロメートルほどに位置しています。この地に最初に伝道活動をしたのがだれであるかは知られていませんが、おそらくは8章1節に書かれていたエルサレム教会が受けた大迫害でエルサレムから追放された信者たちではないかと推測されます。サマリア教会もそうであったように、迫害で散らされて行った信者たちが、このようにして各地に宣教活動を展開していました。神は迫害という不幸な出来事をもお用いになって、教会の宣教活動を拡大させてくださるのです。

「リダに住んでいる聖なる者たち」と書かれていますが、ここではまだ教会という群れを形成するには至っていなかったようです。信者たちは「聖なる者たち」と言われています。この世から区別され、主キリストによって神のものとされ、神にささげられる者となったという意味です。彼らがエルサレムから追い出され、散らされた者としてリダに住むようになったにしろ、あるいはもともとリダに住んでおり、この町でだれかの宣教活動によってキリスト者となったとしても、そしてリダに住民登録をしているとしても、彼らは主キリストの十字架の血によって買い戻され、神のものとされ、本来は神の国の住民であり、天に国籍を持つ者たちです。わたしたちすべてのキリスト者もまたそのような意味での「聖なる者たち」です。

【33~34節】。ペテロは巡回視察のためにこの町の信仰者の様子を見に来ただけではありません。この町でも、ペトロは主キリストの福音を宣教する伝道者として、主キリストの救いのみわざのために仕えます。長い間重い病気で苦しむ一人の人と出会い、その人を信仰と救いへと導きます。

「会った」と33節に書かれています。人と人が出会うという経験はわたしたちの人生にとってとても貴重です。多くの良き出会いの経験をとおして、わたしたちは成長していきます。けれども、人間が人間と出会うだけではまだ決定的な出来事が起こりません。その出会いをとおして、主キリストとの出会いへと導かれることこそが、重要です。ペトロはアイネアを主イエス・キリストとの出会いへと導きます。わたしたちの伝道活動もこのようにして行われます。

ペトロは単刀直入に、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と命じます。ペトロ自身がアイネアの病気をいやすのではありません。あるいはペトロが優秀な医者のところへ彼を連れて行くのでもありません。ペトロはただ主イエス・キリストを信じる信仰者として、主イエス・キリストこそが彼の病をいやしてくださることを信じて、命じているのです。命じているのはペトロですが、いやしのみわざを行っておられるのは主イエスです。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主としてわたしたちのすべての罪をゆるし、また病をいやしてくださいます。詩編103編の詩人は3~5節でこのように預言しています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒やし、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐みの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のように若さを新たにしてくださる」。主イエスはこの預言を成就されたのです。

アイネアに対するペトロの命令は3章6節で彼が神殿の境内に横たわっていた足の不自由な人に語りかけた言葉と似ています。3章6節にこう書かれていました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。それはまた、ルカ福音書5章24節で主イエスご自身が語られた言葉と似ています。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に、わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。ペトロのいやしのわざは、この主イエスご自身のみわざの継続と言ってよいでしょう。それらのすべてにおいていやしのみわざをなしておられるのは、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストご自身にほかなりません。ペトロをはじめ初代教会の使徒たちは主イエスによる罪のゆるしのしるしとして、このような病のいやしの賜物を与えられていました。

長い間寝たきりであったアイネアが起き上がり、それまで自分が寝ていた床を整えることは、主イエスを信じて罪をゆるされ、新しい信仰の歩みを始めたことの目に見えるしるしです。アイネア自身がそのことを体験したしるしであり、また周囲の人たちに対しても主イエスによる奇跡的ないやしと救いのみわざの目に見える、確かなしるしとなりました。それは、アイネアが長い間縛りつけられていた罪の奴隷からの解放のしるしであり、彼が縛りつけられていたすべての束縛からの解放のしるしです。

「アイネアはすぐに起き上がった」と書かれています。主イエスを救い主と信じる人は、すべての奴隷と束縛の鎖から解き放たれ、自由にされ、罪と死の中から起き上がることができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたがみ子の十字架の死と復活によって、死の床から起き上がらせてくださり、新しい命に生きる者としてくださったことを感謝いたします。願わくは、わたしたちを日々新たに造り変え、あなたのみ心を行う者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月16日説教「十字架を背負って主イエスに従う」

2023年7月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書9章21~27節

説教題:「十字架を背負って主イエスに従う」

 ルカによる福音書9章18節から27節までは、福音書の前半の頂点であると言われたり、あるいは前半と後半を分ける分水嶺とも言われます。また、18~20節で、弟子のペトロが主イエスに対して、「あなたは神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白したペトロの信仰告白と、21~22節の、主イエスの第1回目の受難予告、そして23~27節の、だれでも主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるとの主イエスの勧めと、この三つのことは互いに関連しあっており、その関連の中で読まなければならないということ、これらのことを今までにも確認してきました。きょうはそれらのことを考慮しながら、23節以下の三つ目のことを学んでいきます。

 18節から27節までに語られている三つのことの中心は、二つ目の21~22節の主イエスの受難予告にあります。この受難予告を中心にして、その前のペトロの信仰告白を読まなければなりませんし、また23節以下の主イエスの勧めをも読む必要があります。

 つまり、「あなたは神から派遣されたメイア・キリスト・救い主です」というペトロの信仰告白は、主イエスが受難予告で語っておられるように、ご受難と十字架のメシア・救い主であるということが明らかにされているのです。当時のユダヤ人たちが期待していたような、イスラエルを武力でローマ帝国から解放する英雄的な王としてのメシアではなく、また、多くの人が期待するような、わたしの人生を経済的にも精神的にも豊かにし、わたしの望みをかなえてくれるようなメシアでもなく、主イエスはご受難と十字架のメシアである、すなわち、全人類を罪から救うために苦難の道を歩まれ、最後にはご自身の命を犠牲にして十字架で死なれるメシアであるということを主イエスはここで明らかにされたのです。ペトロとのちの教会は十字架の主イエスこそが全世界の唯一の救い主であると告白すべきであり、教会は十字架の主イエスを信じ、告白することによって生きるべきであり、ただそうしてのみ、生きることができるのだということが、ここでは教えられえているのです。

 次に、主イエスの受難予告と23節以下の主イエスの勧めとの関連は、これについてはきょうの礼拝で詳しく学ぶことになりますが、その関連についてはすぐに明らかなように、わたしたちキリスト者が日々に自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるのは、主イエスご自身がわたしたちに先立ってその道を歩まれたからにほかなりません。

 そこで、わたしたちに先立って十字架への道を進まれた主イエスご自身のことをまず考えてみましょう。9章18節から27節までの箇所は、福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半の分水嶺であると紹介しましたが、このあとのルカ福音書を読むと、これ以後主イエスは確かにご自身の歩まれる道がエルサレムに向かっているということ、エルサレムでのご受難に向かっているということを深く意識しておられることが分ります。すぐに続いている28節以下の「山上の変貌」と言われる箇所もそうですし、44節の2回目の受難予告、そして51節にはこのように書かれています。【51節】。「天に上げられる時期」とは、主イエスのご受難と十字架の死、復活、そして昇天のすべてを含んでいます。それによって、神の救いの出来事が成就することを意味しています。主イエスは父なる神が備えられたこの道を、ご受難と十字架への道を、固い決意をもって進んで行かれます。それは、わたしたちの救いのためです。

 では、23節のみ言葉を読みましょう。【23節】。ここでは、主イエスの弟子であること、キリスト者であることが四つの表現によって言い表されています。一つには、「主イエスについていくこと」、二つに、「自分を捨てること」、三つは、「日々、自分の十字架を負うこと」、そして四つには、「主イエスに従うこと」。

 まず、一つ目の「わたしについて来る」は、直訳では「わたしのあとを行く」となります。主イエスをわたしの人生の先頭に立て、自分は主イエスの後をついて行くということです。わたしが自分の人生の先頭に立って、自分の道を切り開いていかなければならないのではなく、またそうする必要はなく、そうすべきでもないということです。わたしが自分の意志や知恵で選び取る道は、どれほどに慎重に選び、また熱心に努力しようが、それは罪の道であり、滅びに向かう道であるからです。わたしたちの心や思い、願い、また行動のすべては、神のみ心から離れており、神に背いているからです。主イエスの十字架がそのことを明らかにしました。わたしたち人間が自ら選び取ろうとするすべての道は神との交わりを破壊し、隣人との関係を破壊し、ついには自らを死と滅びへと至らせるほかにないのです。わたしたちの罪をゆるすために十字架の道を進み行かれた主イエスの後について行くことこそが、キリスト者とされたわたしたちが歩むべき道です。また、十字架の主イエスだけが、わたしたちの罪をゆるし、わたしたちが喜んで主イエスの後を行くことができる道へと、導いてくださるのです。

 二つ目には、「自分を捨てる」ことです。捨てるとは否定することです。これと同じ言葉が、主イエスのご受難の場面で用いられています。ルカ福音書22章56~57節を読んでみましょう。【56~57節】(156ページ)。ここで「打ち消して」と訳されている言葉と同じです。このときペトロは自分を守るために、自分を捨てるのではなく、逮捕されて裁判を受けている主イエスを否定し、捨てました。ペトロは十字架の主イエスにつまずき、十字架の主イエスを否定しました。自分の命と安全を守るために、十字架の主イエスを捨てました。主イエスの十字架の前では、そのようなすべての人間の罪が明らかにされるのです。

 では、自分を捨てるとはどういうことでしょうか。それはどのようにして可能になるのでしょうか。自分を捨てるためには、まず自分から解放されなければなりません。自分から自由にならなければなりません。自分の命と安全を守ることを第一に考える自分から、自分の地位や名誉や富を得ること第一とする自分から、自由になることです。そのような自分を否定し、わたしのために十字架につけられた主イエスをわたしの唯一の救い主として受け入れ、信じることです。それによって、わたしは罪に支配されていた自分から解放され、自由にされることができます。

 使徒パウロはそのことを、「古い罪の自分が十字架につけられて死んだ」(ローマの信徒への手紙6章6節参照)とか、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのだ」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)と言っています。主イエスの十字架によって罪の奴隷からは解放されたわたしは、喜んで神と隣人の僕(しもべ)として仕えるように変えられていくのです。

 三つめは、「日々、自分の十字架を背負うこと」です。「日々」と言われているように、それがキリスト者とされているわたしたちの毎日の信仰生活であるということです。この「日々」という言葉の意味を、「ペトロの信仰告白」で教えられていることとの関連で考えてみましょう。

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会です。信仰告白を重んじるとは、『日本キリスト教会信仰の告白』を礼拝の中で全員が唱和するとか、その『信仰の告白』について深く学ぶとかいうことだけではありません。わたしたち一人一人の日々の信仰生活が、「主イエスこそが神から遣わされたメシア・キリストであり、わたしたちの罪のために十字架で死なれた唯一の救い主である」という告白に生きるということ、日々の信仰の歩みで、今の時代の中で、自分が置かれている場で、そのことを証しして生きるということ、それが信仰告白を重んじる教会であるということなのです。

 「自分の十字架を背負う」とあるように、主イエスの十字架ではなく自分の、わたしの十字架を背負うと言われています。これはどういうことでしょうか。わたしが主イエスと同じように自分の罪の贖いのために十字架で死ななければならないということでしょうか。そうであるはずはありません。わたしの救いは主イエスがご自身の十字架の死で完全になし遂げられたのですから、わたしがそれに何かを付け加えなければならばいということでは全くありません。

 ある人たちは、わたしたちキリスト者がこの世で担わなければならない重荷や苦難、あるいはキリスト者が不当に負わされている重圧とか迫害のことではないかと考えます。でも、それは正確ではありません。十字架が持っている負のイメージをここで強調するべきではありません。むしろ、自分が背負うべき十字架はすでに主イエスがわたしのために背負って、ゴルゴタの処刑場まで歩まれた十字架であることを強調すべきでしょう。だから主イエスは言われました。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに平安が与えられる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11章29~30節参照)。

 わたしが背負うべき十字架はすでに主イエスが負ってくださった十字架です。そこから、わたしの十字架が理解されます。すなわち、すでに主イエスの十字架によって罪ゆるされたいるわたしが、罪ゆるされていることの確かなしるしとして背負う十字架です。それは感謝と喜びのしるしとしての十字架です。あるいはまた、主イエスが死と復活と昇天によって罪と死とに勝利され、わたしたちを天にある神の国へとお招きくださっておられることの確かなしるしとしての十字架です。それゆえにわたしは、日々罪の自分に死に、日々に悔い改めつつ、日々に主イエス・キリストによって新しい命に生かされながら、神の栄光のために仕え、神と隣人のために自らをささげて生きる道へと招かれているのです。

 四つ目は「主イエスに従うこと」です。主イエス以外のだれをも、いかなるものをも、わたしの主とはしない、それらには従わないということです。ただ、主イエスにだけ聞き従うということです。なぜならば、これまでに学んだように、主イエスがわたしのためにご自身の尊い命をささげつくして開いてくださった命の道へ、幸いな道へとわたしを招いてくださっておられるからです。わたしはその道で、感謝と喜びに満たされつつ、主イエスによって託された務めを担っていくでしょう。「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」(5章10節参照)との主イエスの招きを聞くでしょう。「あなたの敵を愛しなさい」(6章27節参照)との命令を聞きます。「あなたのともし火を高く掲げて、すべての人に見えるようにしなさい」(8章16節参照)との勧めを聞きます。その他のすべての主イエスの招きの言葉、務めへの召し、幸いの約束、それらのすべてのみ言葉を、喜んで聞き、主イエスに従って行くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪から救うために苦難と十字架への道を歩まれた主イエスの大きな愛と恵みを心から感謝いたします。どうかわたしたちが、罪ゆるされ救われている信仰者として、あなたのご栄光を表す歩みを続けることができますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月9日説教「夢を解き明かすヨセフ」

2023年7月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記40章1~23節

    コリントの信徒への手紙二4章7~18節

説教題:「夢を解き明かすヨセフ」

 創世記37章から「ヨセフ物語」が始まります。これは創世記の最後50章まで続きます。ヨセフは族長ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どもの11番目に生まれた子です。彼は父ヤコブが年取ってから生まれた子であり、しかも愛する妻ラケルにようやくにして与えられた子でしたから、ヤコブはことさらに彼をかわいがり、他の子どもたちの中で特別扱いをして育てました。

 あるとき、ヨセフは夢を見ました。その夢で、兄たちがみんな自分の周りに集まり、自分の前にひれ伏していたと話しました。また別の夢で、父と母と11人の兄弟みんなが自分の前でひれ伏していたと話しました。これは何とも傲慢で、わがままで独りよがりな夢の内容です。父ヤコブはヨセフを叱り、兄たちはいよいよ彼を憎むようになったのは当然でした。ある日、兄たちは羊の放牧で家から遠く放れていたとき、ヨセフをエジプトに向かう商人に売り飛ばしました。しかし、父にはヨセフは野獣に食い殺されたと報告しました。以上が37章のあらすじです。

 39章では、ヨセフがエジプトの宮廷の役人ポティファルの家で奴隷として働いていたことが語られます。39章2節には、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と書かれています。同じような主なる神の導きについて、3節、4節、また21節、23節にも繰り返されています。兄たちの憎しみをかい、エジプトに売られ、奴隷となったヨセフでしたが、そのエジプトにあっても、神は常にヨセフと共におられ、彼の道を導かれたことが強調されています。

神はイスラエルの約束の地カナンだけでなく、異教の地、奴隷の地であるエジプトにあっても、ご自身が選ばれた民の一人をお忘れにはなりません。このことは、やがて400年以上もの時を経て、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される出エジプトの出来事を用意しているように思われます。

 ヨセフはポティファルの家で全財産の管理まで任せられるほどの信頼を得ていましたが、ある時彼の妻の策略によって無実の罪をきせられ、投獄されてしまいます。しかし、主なる神は獄につながれたヨセフをお見捨てにはなりませんでした。【39章21~23節】。かつて、兄たちによってエジプトに売り呼ばされたヨセフ、そして今またエジプトで獄に捕らわれの身となっているヨセフを、神はお用いになって、ご自身の救いのご計画をさらに進められるのです。

 次の40章では、夢を解くヨセフのことが語られます。41章でも、エジプトの王ファラオの夢を解くヨセフのことが語られます。きょうはこの2章から、夢を解き明かすヨセフについて学んでいくことにします。

 ヨセフがつながれていた牢獄に、エジプト王の給仕役の長と料理役の長が一緒に投獄されることになり、ある夜に二人とも同じ夢を見ました。その夢の不吉さにゆううつな顔をしている二人を見たヨセフが、彼らに尋ねます。【6~8節】。

ヨセフは二人の囚人仲間の顔色の変化に気づいています。今まではいつも自分が中心で、自分のことだけを気にして生きてきたヨセフでしたが、一人異教の地エジプトで労苦を重ね、少しずつ他者へと目が開かれていったのかもしれません。他者の心が理解できるように神によって変えられていったのでしょう。

夢を解き明かすことは古代エジプト時代では一つの学問でした。夢解きに関する多くの文献が残っているそうです。この二人の給仕役と料理役の長も、自分たちが見た不吉な夢の解き明かしを依頼すべき学者がたくさんいたと思われますが、ここは牢獄ですからそれも自由にできません。

 その時、ヨセフが発言します。「夢の解き明かしをなさるのはイスラエルの主なる神です。どうぞわたしにその夢を話してください。神からの知恵を与えられているわたしが解き明かしましょう」と。ここには、エジプトで重んじられていた夢解きの学問に対する軽蔑が含まれているのかもしれません。ヨセフの発言の意味はこうです。どんなに優れた知恵であっても、それは人間の限界ある能力によるものに過ぎない。イスラエルの神は人間の能力をはるかに超えて、未来に起こるべきことをすでに今見ておられ、あるいはまた、ご自身の計画を確かに実現に至らせる全能の力を持っておられる。そして、その夢解きの知恵を、選ばれた民であり、神の僕(しもべ)であるこの自分に霊的な賜物として授けてくださっておられる。ヨセフはそのように語るのです。

 聖書では、夢は神の啓示の手段の一つです。神は人間が寝ている間に、夢でご自身のみ心を、ご計画をお語りになります。ヨセフは兄たちから「あの夢見る者」と言われ、からかわれていましたが、彼が見た二つの夢、すなわち11人の兄弟たちと両親までもが自分の前にひれ伏すようになるという夢は、傲慢でわがままなヨセフの独りよがりの夢物語というのではなく、確かにそこに主なる神の隠されたご計画があったのであり、そのことが実際に創世記の終わりで実現するようになるということを、わたしたちはやがて読むようになるでしょう。

 ヨセフは神から与えられた知恵によって二人の夢を解き明かします。給仕役の長の夢は、三日後に彼がファラオのゆるしによって再び元の職務に戻されるという意味です。料理役の長の夢は、三日後に彼はファラオによって処刑され、木にかけられて、鳥がその肉をついばむという意味です。そして、三日後のファラオの誕生日には、実際にその二つのことが起こったと書かれています。

 ヨセフの夢解きがそのとおりになったので、釈放された給仕役の長がヨセフのことを王に執り成して、ユセフを牢から解放することを期待していたヨセフでしたが、給仕役の長はヨセフのことを忘れてしまったので、ヨセフはなおしばらく投獄されたままで、41章へと続いていきます。

41章でも、わたしたちはイスラエルの神、族長たちの神は、その後2年間の獄中のヨセフを決してお忘れにはならなかった、エジプト王ファラオの前に立つヨセフを絶えず支え、導かれたということを何度も確認することになるでしょう。給仕役の長がヨセフのことを忘れていたという事実が、かえってヨセフをエジプト王ファラオの前で神から与えられた知恵を示すきっかけとなるのです。

 2年後に、ファラオは不吉な二つの夢を見ました。一つは、良く肥えた七頭の雌牛がナイル川から上がってくると、その後に上がってきた醜い、やせ細った七頭の雌牛がそれを全部食べ尽くしたという夢でした。王がすぐ続けてみた夢は、良く実った七つの穂が、そのあとから出てきた実が入っていない干からびた七つの穂によってのみ込まれてしまったという、これもまた不吉な夢でした。

 不安に思った王は、エジプト中の魔術師や賢者を呼び集めて、夢の解き明かしをさせましたが、だれも解き明かすことができる者はいませんでした。その時になって、給仕役の長が2年前に牢獄で自分の夢を解いてもらったヨセフのことを思い出し、そのことを王に申し出ました。そこで、王は獄中からヨセフを呼び寄せることになりました。

 【14~16節】。16節のヨセフの言葉は40章8節の言葉を思い起こさせます。夢を解く知恵をヨセフにお与えくださるのは主なる神です。ヨセフはその神に仕える僕です。ヨセフはエジプト王ファラオの前でも、イスラエルの主なる神の証し人として立っています。自分自身はその主なる神の仕え人、僕であるにすぎないことを告白します。同じようなヨセフの信仰は、【25節】、【28節】、そして【32節】でも告白されています。ファラオとその国の歴史のすべてを支配し、導いておられるのは主なる神です。だれもそれに逆らうことも、そこから逃れることもできません。これがヨセフの信仰です。

 ヨセフはかつて父の寵愛を受けて、わがままで高慢な子どもに育ちました。兄たちからは憎まれました。でも、エジプトに売られ、そこで奴隷として仕え、また2年以上もの長い投獄生活を強いられ、そのような試練の中で、ヨセフは信仰の訓練を受けたのだと思います。異教の地にあっても、族長アブラハム、イサク、ヤコブが信じた主なる神を、ヨセフは信じ続けました。

 さて、ヨセフの知恵はファラオの夢を解くことにとどまらず、神がこれから計画しておられることに対する備えをする知恵にまで及びました。ファラオの夢は、7年間の大豊作と、その後の7年間の飢饉を予告しているとヨセフは語ります。この神の決定はだれにも変更できません。そこで、ヨセフは王に提案します。7年間の大豊作の期間に、収穫物の五分の一を国民から徴収して倉庫に蓄えさせ、その後の7年間の飢饉にあらかじめ備えておくようにと進言します。

 ヨセフのこの提案を聞いた王は、彼の知恵に感心し、ヨセフをエジプト全土の宰相、すなわち総理大臣に任命しました。【37~42節】。エジプト王ファラオがイスラエルの神についてこのように告白することは全くの驚きと言えます。神はこの世のもろもろの王にも、世界のもろもろの神々にも勝利しておられます。それらのすべてをお用いになって、ご自身の救いのお計画をお進めになります。

そののちヨセフは、王の勧めによってエジプト人と結婚し、7年間の大豊作の期間に国中の食料を集めて倉庫に貯蔵させました。【50~52節】。二人の子どもの名前に、ヨセフの信仰告白が言い表されています。エジプトで大成功をおさめ、最高の位につき、幸せの絶頂にいるときでも、ヨセフの信仰は揺るぎませんでした。彼が与えられた幸いのすべては、主なる神から与えられたものであり、彼が自分の手で得たものではありません。ヨセフの生涯は確かに苦労の多い、悩みに満ちた日々でした。その中で、神は彼に憐みを施し、彼の生涯を祝福されました。

 飢饉は世界中に広まり、世界の国々は食糧を求めてエジプトの大臣ヨセフのもとにやってくるようになりました。カナン地方にいた父ヤコブとその11人の子どもたちも、エジプトに穀物があるというニュースを耳にしていました。そのようにして、ヨセフが子どものころに見た夢が、図らずも実現することになるのです。すべては主なる神のご計画です。

 神の救いのご計画は、ヨセフの時代から400年以上を経たモーセの時代の出エジプトの出来事へ、さらにそれから千数百年を経て、主イエス・キリストの誕生へと前進していきます。主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を経て、その後の2千年の教会の歩みをとおして、さらに前進していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もなお造られたすべてのものをみ手のうちに治め、導いておられます。あなたはまた、永遠の救いのご計画により、全世界の歴史とわたしたち一人一人の歩みをも導いておられます。あなたは時に、わたしたちが経験する試練や苦難をとおして、あなたの尊いみ心を示したまいます。願わくは主なる神よ、どのような時にも、あなたが最もよい道をわたしたち一人一人に備えてくださることを信じ、あなたに聞き従って行く信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。