2026年7月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:創世記15章1~6節
ローマの信徒への手紙1章16~17節
説教題:「正しい者は信仰によって生きる」
ローマの信徒への手紙の主題が1章16節と17節に提示されています。この手紙全体が、このテーマによって展開されていると言えます。きょうは17節の前半を中心に学びます。
原文のギリシャ語原典では、16節と17節は短い接続詞でつながれています。日本語には翻訳されていませんが、「なぜなら」「すなわち」という意味の言葉が17節の冒頭にあって、二つの文章をつないでいます。16節では、「福音は信じる人すべてに救いをもたらす神の力である」と言われ、続いて、なぜそうなのか、なぜ主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じると、その人に罪からの救いを与える神の力として働くのか。その理由は、「福音には神の義が啓示されているからである」と説明されているということになります。そこで、この2節を短くまとめると、「福音が信じるすべての人を救う神の力であるのは、その福音の中に神の義が啓示されているからである」となります。これがローマの信徒への手紙の主題であるということです。あるいは、順序を逆にして、「イエス・キリストの福音の中に神の義が啓示されている。証しされている。それゆえに、その福音を信じるすべての人に神の救いを与える力として働くのである」となります。もっと短く表現すれば、「神の義による救い」がこの手紙全体の主題であると言ってよいでしょう。神の義というテーマをめぐって、パウロはこの手紙を書いていると言えます。
そこできょうはまず、「神の義」について、聖書では「神の義」とは何を意味しているのか、その基本的な意味を正しく理解することから始めたいと思います。神の義は、旧約聖書においても新約聖書においても同じように重要なテーマであり、また特に宗教改革以後のプロテスタント教会が取り組んできた重要な課題であるのは言うまでもありません。
ではその神の義とは何かを、旧約聖書の主な箇所を引用して確かめたいのですが、実は、今わたしたちが使用している『新共同訳聖書』はヘブライ語で義を意味する「ツェデク、ツェダカー」を「義」とは翻訳していません。多くは「神の恵みの御業」と訳しています。200か所ほどある中の1か所だけを確認のために開いてみましょう。詩編5編9節です。【9節a】(837ページ)。ちなみに、『口語訳聖書』では、「あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください」となっていました。こちらの方が、原文の意味と内容を正確に伝えているように思われます。
そこで、旧約聖書の箇所を一つ一つ取り上げることはしませんが、全体として神の義とはどのような意味なのかをまとめておきましょう。旧約聖書のヘブライ語原典で「義」または「神の義」という言葉は230回以上用いられています。新約聖書では、パウロの書簡を中心に、「義」という言葉は200回以上用いられています。このことからも、聖書全体において義、神の義がいかに重要なテーマになっているかが推測できます。
旧約聖書で義を意味するヘブライ語「ツェデク、ツェダカー」は、「堅い、しっかりしている、規範にかなっている」という内容と考えられています。先ほど説明しましたように、『新共同訳聖書』では多くは「恵みの御業」と翻訳していますが、「正しい、正義、公平」などと訳されたり、また文脈によっては「勝利、救い、助け、平和、繁栄」とも訳される、非常に幅広い意味を持っています。
旧約聖書の中では、神が義なる神であるとか、また神の義について語られている個所は無数と言ってよいほどにたくさんあります、時には、人間の義のことも語られます。ただし、人間の義は神の義に正しく応答するときの人間の義であって、人間が義なる存在であるとは言われていません。ただおひとり、主なる神だけが義なる神なのであり、義を行われる神であり、人間に義の恩恵をもたらし、また人間に義の応答を生み出す、そのような義なる神だと言われています。
旧約聖書でその言葉が用いられている個所を文脈から読み解くと、「義」とは関係概念であるという特徴を第一に挙げることができると思います。もちろん、神ご自身が義なる方、義なる存在であると言われていますが、それはただ神だけが独立して義であると言われているのではなく、神はご自身が義であると同時に、人間に対して義なる関係を持ってくださる、あるいは人間をご自身の義の中に招き入れてくださるという意味で、「神の義」、または「神は義である」と言われています。つまり、義とは神と人間との関係が正しく、固く保たれているということ、そこに真実な交わりがあることを言うのであり、あるいはまた、神を中心にして人間と人間との関係が正しく、固く保たれている状態を言うのです。
そのようにして、神とイスラエルの民とが義なる関係にあるとき、たとえイスラエルが敵に攻撃され、困難な状況にあっても、神の義によってイスラエルは勝利を確信することができ、救いを与えられるのです。また、そのような人間と人間との義なる関係があるときに、たとえ貧しくても、試練の中にあっても、そこには真実の平和があるのであり、本当の意味での豊かで平安な社会が築かれるのです。
新約聖書でパウロが義という言葉を用いる際にも、このような旧約聖書の意味が受け継がれていると考えられます。パウロもまた義を関係概念としてとらえています。そのことを念頭に置きながら、パウロが17節で、「福音には、神の義が啓示されている」と語っている意味を探っていきましょう。
「神の義」の「の」の文法的な用法について考えてみましょう。日本語の「の」の文法的用法は一般的には属格、所有格と言われます。属格を更に厳密に規定すれば、主格的属格と目的格的属格に分けられます。「神の義」という表現を主格的属格と理解すれば、神の義とは神ご自身が義である、義なる方であるという意味になります。神はご自身が唯一の義なる方、義なる存在であり、また義なる神として行動される。それだけでなく、義は神の占有であり、ただ神だけの所有であり、ただ神だけがいつどのようなときにも、誰に対しても、永遠に義を貫かれる。それが「神の義」の意味です。
目的格的属格と理解すれば、神の義とは、人間に与えられる義、人間のために神が造り出してくださる義、神から人間に差し出された義という意味になります。この場合でも、人間はただ神から義を与えられる時にのみ、神のみ前で義とされるということが強調されることになります。
次に、パウロはそのような義が主イエスの福音の中に啓示されたと言います。「啓示」という言葉も聖書の中で、また神学的に重要な意味があります。啓示とは、神の隠されていた本質や存在が、あるいは真理や神のみ心、神の意志が明らかにされること、また人間の目にはまだ見えていない神のご計画を、神ご自身がそのふたを開けて、覆われていた覆いを取り去って、人間の目に見えるようにされること、これを啓示と言います。したがって、啓示の主体は常に神です。神が明らかにされ、神が覆いを取り除かれます。「啓示される」と受け身、受動態で言われるのはそのことを意味しています。人間は常に受け身です。人間はどのような知恵をもってしても、どのような高度な科学的な分析を行なっても、どのような修練や経験を積み重ねても、神の奥義を知ることはできません。ただ神自らがご自身を啓示されることによってのみ、人間は神の本質、神のみ心を知ることができます。
「福音の中に神の義が啓示された」とあります。福音については、すでに1節で言及されていました。2節から6節には、その福音についての説明がありました。神のみ子・主イエス・キリストが十字架の死と復活によって、全人類の罪を贖い、ゆるし、救われたという、喜ばしい知らせのことです。この主イエスの福音によって、旧約聖書の中でイスラエルの民に示されていた神の義が
今やもっとも鮮やかに、確かに、明らかにされたということです。神はかつてはイスラエルの預言者たちや祭司たち、王たちによってイスラエルの民にお示しになられた神の義を、今や神ご自身のみ子であられる主イエス・キリストによって、しかも主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活という驚くべき神の救いのみわざ、神の救いの出来事によって、今のわたしたちに神の義とは何であるのかを、すべてもらすことなくお語りになられた、明らかに示されたと、言うのです。
ここでもう一つ注意しておくべきことは、「啓示されている」と、現在形で語られていることです。主イエスの十字架と復活の出来事は、今からおよそ2000年前にパレスチナの一角のエルサレムで起こった出来事でしたが、その時に神の義が啓示されたのでしたが、それが今現在に至るまでずっと続いて啓示されているということを、この現在形は言い表しています。今この時に、主イエス・キリストの福音が語られ、聞かれ、信じられるときに、信じる人に今も鮮やかに神の義が啓示されているのであり、それが神の救いの力として働くのだということです。
17節のみ言葉は、「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と続いています。ここは翻訳の難しい箇所です。17節のギリシャ語原典を直訳すると、「神の義は福音の中に啓示されている、信仰から信仰へ」となって、少し言葉足らずなので、『新共同訳聖書』は「初めから終わりまで」とか「実現される」という言葉を補って翻訳しています。ここでも『口語訳』を参照すると、「神の義は福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」と訳しています。
この箇所の理解については、次回にもう一度検討しますが、結論を先取りするならば、「神の義は福音の中に啓示されている」、そこで「わたしたちはそれをただ信仰によって受け取る」という意味に理解するのがよいと思われます。これが、宗教改革以来のわたしたちプロテスタント教会の共通した理解であるからです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によってわたしたちに明らかにされた神の義を、わたしたちは信仰によって、感謝して受け取ります。そうすることによって、神はわたしたち罪ある者たちをも義と認めてくださり、主イエスのゆえに、神のみ前で罪なき者、神の義にあずかる者とされ、神との永遠の交わりの中へと招き入れられるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠から永遠い至るまで、少しも変わることはありません。あなたは唯一義なる方、正しく、まっすぐで、あなたに背く者たちをも変わることなく愛してくださる方です。どうか主よ、わたしたち一人一人をあなたの義にあずからせてください。また、あなたの義を証しする者としてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
