7月12日説教「正しい者は信仰によって生きる」

2026年7月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記15章1~6節

    ローマの信徒への手紙1章16~17節

説教題:「正しい者は信仰によって生きる」

 ローマの信徒への手紙の主題が1章16節と17節に提示されています。この手紙全体が、このテーマによって展開されていると言えます。きょうは17節の前半を中心に学びます。

原文のギリシャ語原典では、16節と17節は短い接続詞でつながれています。日本語には翻訳されていませんが、「なぜなら」「すなわち」という意味の言葉が17節の冒頭にあって、二つの文章をつないでいます。16節では、「福音は信じる人すべてに救いをもたらす神の力である」と言われ、続いて、なぜそうなのか、なぜ主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じると、その人に罪からの救いを与える神の力として働くのか。その理由は、「福音には神の義が啓示されているからである」と説明されているということになります。そこで、この2節を短くまとめると、「福音が信じるすべての人を救う神の力であるのは、その福音の中に神の義が啓示されているからである」となります。これがローマの信徒への手紙の主題であるということです。あるいは、順序を逆にして、「イエス・キリストの福音の中に神の義が啓示されている。証しされている。それゆえに、その福音を信じるすべての人に神の救いを与える力として働くのである」となります。もっと短く表現すれば、「神の義による救い」がこの手紙全体の主題であると言ってよいでしょう。神の義というテーマをめぐって、パウロはこの手紙を書いていると言えます。

そこできょうはまず、「神の義」について、聖書では「神の義」とは何を意味しているのか、その基本的な意味を正しく理解することから始めたいと思います。神の義は、旧約聖書においても新約聖書においても同じように重要なテーマであり、また特に宗教改革以後のプロテスタント教会が取り組んできた重要な課題であるのは言うまでもありません。

ではその神の義とは何かを、旧約聖書の主な箇所を引用して確かめたいのですが、実は、今わたしたちが使用している『新共同訳聖書』はヘブライ語で義を意味する「ツェデク、ツェダカー」を「義」とは翻訳していません。多くは「神の恵みの御業」と訳しています。200か所ほどある中の1か所だけを確認のために開いてみましょう。詩編5編9節です。【9節a】(837ページ)。ちなみに、『口語訳聖書』では、「あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください」となっていました。こちらの方が、原文の意味と内容を正確に伝えているように思われます。

そこで、旧約聖書の箇所を一つ一つ取り上げることはしませんが、全体として神の義とはどのような意味なのかをまとめておきましょう。旧約聖書のヘブライ語原典で「義」または「神の義」という言葉は230回以上用いられています。新約聖書では、パウロの書簡を中心に、「義」という言葉は200回以上用いられています。このことからも、聖書全体において義、神の義がいかに重要なテーマになっているかが推測できます。

旧約聖書で義を意味するヘブライ語「ツェデク、ツェダカー」は、「堅い、しっかりしている、規範にかなっている」という内容と考えられています。先ほど説明しましたように、『新共同訳聖書』では多くは「恵みの御業」と翻訳していますが、「正しい、正義、公平」などと訳されたり、また文脈によっては「勝利、救い、助け、平和、繁栄」とも訳される、非常に幅広い意味を持っています。

旧約聖書の中では、神が義なる神であるとか、また神の義について語られている個所は無数と言ってよいほどにたくさんあります、時には、人間の義のことも語られます。ただし、人間の義は神の義に正しく応答するときの人間の義であって、人間が義なる存在であるとは言われていません。ただおひとり、主なる神だけが義なる神なのであり、義を行われる神であり、人間に義の恩恵をもたらし、また人間に義の応答を生み出す、そのような義なる神だと言われています。

旧約聖書でその言葉が用いられている個所を文脈から読み解くと、「義」とは関係概念であるという特徴を第一に挙げることができると思います。もちろん、神ご自身が義なる方、義なる存在であると言われていますが、それはただ神だけが独立して義であると言われているのではなく、神はご自身が義であると同時に、人間に対して義なる関係を持ってくださる、あるいは人間をご自身の義の中に招き入れてくださるという意味で、「神の義」、または「神は義である」と言われています。つまり、義とは神と人間との関係が正しく、固く保たれているということ、そこに真実な交わりがあることを言うのであり、あるいはまた、神を中心にして人間と人間との関係が正しく、固く保たれている状態を言うのです。

そのようにして、神とイスラエルの民とが義なる関係にあるとき、たとえイスラエルが敵に攻撃され、困難な状況にあっても、神の義によってイスラエルは勝利を確信することができ、救いを与えられるのです。また、そのような人間と人間との義なる関係があるときに、たとえ貧しくても、試練の中にあっても、そこには真実の平和があるのであり、本当の意味での豊かで平安な社会が築かれるのです。

新約聖書でパウロが義という言葉を用いる際にも、このような旧約聖書の意味が受け継がれていると考えられます。パウロもまた義を関係概念としてとらえています。そのことを念頭に置きながら、パウロが17節で、「福音には、神の義が啓示されている」と語っている意味を探っていきましょう。

「神の義」の「の」の文法的な用法について考えてみましょう。日本語の「の」の文法的用法は一般的には属格、所有格と言われます。属格を更に厳密に規定すれば、主格的属格と目的格的属格に分けられます。「神の義」という表現を主格的属格と理解すれば、神の義とは神ご自身が義である、義なる方であるという意味になります。神はご自身が唯一の義なる方、義なる存在であり、また義なる神として行動される。それだけでなく、義は神の占有であり、ただ神だけの所有であり、ただ神だけがいつどのようなときにも、誰に対しても、永遠に義を貫かれる。それが「神の義」の意味です。

目的格的属格と理解すれば、神の義とは、人間に与えられる義、人間のために神が造り出してくださる義、神から人間に差し出された義という意味になります。この場合でも、人間はただ神から義を与えられる時にのみ、神のみ前で義とされるということが強調されることになります。

次に、パウロはそのような義が主イエスの福音の中に啓示されたと言います。「啓示」という言葉も聖書の中で、また神学的に重要な意味があります。啓示とは、神の隠されていた本質や存在が、あるいは真理や神のみ心、神の意志が明らかにされること、また人間の目にはまだ見えていない神のご計画を、神ご自身がそのふたを開けて、覆われていた覆いを取り去って、人間の目に見えるようにされること、これを啓示と言います。したがって、啓示の主体は常に神です。神が明らかにされ、神が覆いを取り除かれます。「啓示される」と受け身、受動態で言われるのはそのことを意味しています。人間は常に受け身です。人間はどのような知恵をもってしても、どのような高度な科学的な分析を行なっても、どのような修練や経験を積み重ねても、神の奥義を知ることはできません。ただ神自らがご自身を啓示されることによってのみ、人間は神の本質、神のみ心を知ることができます。

「福音の中に神の義が啓示された」とあります。福音については、すでに1節で言及されていました。2節から6節には、その福音についての説明がありました。神のみ子・主イエス・キリストが十字架の死と復活によって、全人類の罪を贖い、ゆるし、救われたという、喜ばしい知らせのことです。この主イエスの福音によって、旧約聖書の中でイスラエルの民に示されていた神の義が

今やもっとも鮮やかに、確かに、明らかにされたということです。神はかつてはイスラエルの預言者たちや祭司たち、王たちによってイスラエルの民にお示しになられた神の義を、今や神ご自身のみ子であられる主イエス・キリストによって、しかも主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活という驚くべき神の救いのみわざ、神の救いの出来事によって、今のわたしたちに神の義とは何であるのかを、すべてもらすことなくお語りになられた、明らかに示されたと、言うのです。

 ここでもう一つ注意しておくべきことは、「啓示されている」と、現在形で語られていることです。主イエスの十字架と復活の出来事は、今からおよそ2000年前にパレスチナの一角のエルサレムで起こった出来事でしたが、その時に神の義が啓示されたのでしたが、それが今現在に至るまでずっと続いて啓示されているということを、この現在形は言い表しています。今この時に、主イエス・キリストの福音が語られ、聞かれ、信じられるときに、信じる人に今も鮮やかに神の義が啓示されているのであり、それが神の救いの力として働くのだということです。

 17節のみ言葉は、「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と続いています。ここは翻訳の難しい箇所です。17節のギリシャ語原典を直訳すると、「神の義は福音の中に啓示されている、信仰から信仰へ」となって、少し言葉足らずなので、『新共同訳聖書』は「初めから終わりまで」とか「実現される」という言葉を補って翻訳しています。ここでも『口語訳』を参照すると、「神の義は福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」と訳しています。

 この箇所の理解については、次回にもう一度検討しますが、結論を先取りするならば、「神の義は福音の中に啓示されている」、そこで「わたしたちはそれをただ信仰によって受け取る」という意味に理解するのがよいと思われます。これが、宗教改革以来のわたしたちプロテスタント教会の共通した理解であるからです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によってわたしたちに明らかにされた神の義を、わたしたちは信仰によって、感謝して受け取ります。そうすることによって、神はわたしたち罪ある者たちをも義と認めてくださり、主イエスのゆえに、神のみ前で罪なき者、神の義にあずかる者とされ、神との永遠の交わりの中へと招き入れられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠から永遠い至るまで、少しも変わることはありません。あなたは唯一義なる方、正しく、まっすぐで、あなたに背く者たちをも変わることなく愛してくださる方です。どうか主よ、わたしたち一人一人をあなたの義にあずからせてください。また、あなたの義を証しする者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

7月5日説教「主人の帰りを待っている僕(しもべ)」

2026年7月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ダニエル書7章11~14節

    ルカによる福音書12章35~48節

説教題:「主人の帰りを待っている僕(しもべ)」

 ルカによる福音書12章40節で主イエスはこう言われます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。「人の子」とは、一般的には「人間から生まれた子」という意味ですが、旧約聖書のダニエル書では、終わりの日に完成される神の国において、神からすべての権威とみ国を託される王なるメシア・救い主を指しています。福音書の中で主イエスはご自分のことをしばしば「人の子」と言われましたが、それは一般的な「人間から生まれた子」という意味と、ダニエル書の預言で言われている終わりの日、終末の時に神の国を完成されるメシアなる「人の子」という意味の、両方を含んでいたと推測されています。きょうの箇所ではダニエル書の預言の意味が強調されていると言えます。

 主イエスはここで、ご自身が十字架で死なれ、三日目に復活され、40日目に天に上られた後、終わりの日に再びこの地に到来される「人の子」であり、預言者ダニエルの預言を成就する「人の子」であると証ししているのです。そして、弟子たちに対して、その終わりの日の神の国の完成の時に備えて生きるようにと勧めているのです。

 人の子、主イエス・キリストの再臨の時に備えて生きる、これが主イエスの十字架の死と復活以後の弟子たちの生き方であり、また今日のすべてのキリスト者の生き方でもあります。主イエスはすぐ前の31、32節でこのように約束してくださいました。【31~32節】。「神の国を求めなさい」という命令を聞きつつ、神は確かにみ国をくださるという約束を聞きつつ、神の国の完成の時を待ちつつ、その時に備えつつ、人の子・主イエスの再臨を待ち望みつつ生きる。これがすべてのキリスト者の生き方です。

 では、終わりの日、終末の時、人の子・主イエス・キリストはどのようなお働きをするのでしょうか。簡単にまとめておきましょう。使徒言行録1章によれば、主イエスは復活されたのち、40日間にわたって弟子たちにご自身の復活のお姿を現され、神の国について説教されました。そして、こう言われました。【11節】(213ページ)。主イエスが天から降って再び地においでになる再臨の時、主イエスご自身が説教されたように、すべての人を右と左に分け、救いと滅びに分ける、最後の審判が行われます。『使徒信条』によってわたしたちが告白しているように、「生きている者と死んでいる者とを裁かれます」。そのようにして、ダニエル書で預言されているように、主イエスは父なる神からすべての権威を授けられ、永遠の王国を完成されます。信じる者には永遠の命が授けられ、永遠に神と共にいる完全な救いが与えられます。ヨハネの黙示録21章に描かれているように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」新しい世界が完成されます。わたしたちキリスト者はみな、この終わりの日の完成に向かって一歩一歩進んでいるのです。来るべき主イエス・キリストとの再会を待ち望みつつ。

 主イエスはルカ福音書12章で、「人の子」主イエスの再臨を待ち望むわたしたちの姿勢について、教えておられます。では、35節以下の、目を覚まして、主人の帰りを待つ僕(しもべ)のたとえを学んでいきましょう。

 【35節】。「腰に帯を締める」とは、聖書にしばしば用いられる表現です。何か重要な使命を果たすために支度を整える、備えるという意味で用いられます。ペトロの手紙一1章13節にはこうあります。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすらに待ちなさい」。ここでは「心に帯を締める」と言われています。それは、主イエス・キリストの再臨のときに与えられる救いの完成という大きな恵みに対して、常に心を開き、それを熱心に待ち望み、その最後の目標に向かって真っすぐに進むというキリスト者の生き方を言います。そこにはまた大きな喜びと恐れがあります。わたしには欠けや破れが多くあり、罪によって滅ぶしかなかったこのわたしが、神の恵みと憐れみによって罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされ、永遠の命を与えられるという、この大きな恵みを受け取るために、喜びと恐れとをもって待ち望むこと、それが心に帯を締めることです。

 エフェソの信徒への手紙6章14節では、信仰の闘いへの備えとして「真理の帯を腰に締めなさい」と言われています。きょうの主イエスの教えをより具体的に展開している個所なので、そこを読んでみましょう。【10~18節】(359ページ)。主イエス・キリストの再臨の時を、目を覚まして待っているということは、ただじっとして動かないでいるということではなく、このような激しい、果敢な、そして熱心な信仰の闘い、信仰の訓練を怠らないということなのです。神はそのために必要な武具を、すべて用意して、与えてくださいます。「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音」「信仰の盾」「救いの兜」「霊の剣」「神の言葉」そして「霊の助けによる絶えざる祈り」、神はこれらのすべての武具をわたしたち一人一人に備えてくださいます。

 「ともし火をともしていなさい」という勧めも、主イエス・キリストの再臨を待ち望む姿勢としてしばしば聖書に書かれています。マタイ福音書25章では、神の国のたとえとして、10人のおとめがあかりを持って花婿を迎えるたとえを主イエスは説教しておられます。あかりは暗闇を照らし、周囲がよく見えるようにします。あかりは主イエス・キリストの福音を表していると考えられます。神を見失って罪に支配されているこの世の暗闇を照らす主イエス・キリストの十字架と復活の福音、このあかりを照らしながら、わたしたちキリスト者は終わりの日の主キリストの再臨の時に至るまで、信仰の道を誤りなく進むことができます。主キリストの福音を高く掲げ、そのあかりに照らされることがなければ、わたしたちはたちまちこの世の闇の中にのまれてしまうほかはありません。主キリストの福音のあかりによってわたしたち自身が照らされ、またわたしの周囲をも明るく照らす時に、わたしが進むべき道が見えるようになってくるのです。

 36節からたとえが始まります。このたとえで「主人」とは、40節で「人の子」と言われている主イエスご自身のことを指していることは明らかです。主人は結婚式に出席するために、しばらくの間、家を留守にするという設定です。ここでも、終わりの日について語る際にしばしば用いられる二つのことに目を向けたいと思います。

 一つは、「婚宴」(結婚式)です。主イエスは終わりの日に完成される神の国のたとえに、何度も結婚式の比喩を用いました。結婚式は花婿と花嫁とが夫婦の誓約をしたことをみんなが祝う場です。終わりの日は主なる神と教会の民が愛によって結ばれた永遠の交わりを喜ぶ時なのです。その時には、もはや何ものも神と教会の民との関係を壊すことはできません。神が永遠に信じる者たちと共におられるからです。わたしたちが主の日ごとにささげている礼拝は、まさにこの終わりの日の神の国での結婚式の先取りなのです。

 もう一つのことは、家の主人である主イエスは、しばらくの間は家を留守にしているが、やがて必ず帰って来られるということです。ここことも、主イエスは神の国のたとえでしばしば語っておられます。主イエスは地上で救いのわざを行われたのち、天の父のみもとへとお帰りになりました。主イエスはこの地をお見捨てになられたのではもちろんありません。天において、地にあるわたしたち一人一人の救いと信仰のために執り成しの祈りをしておられます。そして、終わりの時には、再び地に降って来られ、信じるすべての人たちをみ国へと迎えてくださいます。わたしたち信仰者は主イエスが家を留守にしておられる間、主イエスから託されたタラント、賜物を生かして用い、託されている福音宣教の務めを忠実に果たしていくのです。

 37節を読んでみましょう。【37節】。この37節は「幸いなるかな」という言葉で始まっています。ルカ福音書6章の平地の説教、マタイ福音書5章の山上の説教で「幸いなるかな」と言われているのと同じです。天の神から与えられる最高の幸い、永遠の幸いのことです。なんとここでは、主人自らが僕(すなわち奴隷)のために食卓の給仕をしてくださると言われているのです。主人が奴隷のために食卓の奉仕をしてくださる、これはまさに主イエスの地上での歩みそのものでありました。主イエスは罪の奴隷であったわたしたちのために、ご自身が僕のように、奴隷のように、わたしたちのためにご自身の命をささげ尽くされ、わたしたちの救いのためにお働きくださったのでした。

 38節以下では「目を覚ましている」ことが再び強調されています。【38~40節】。ここでは、主人がいつ帰って来るのか、それは僕たちには分からないということが強調されているのです。主イエスの再臨の時、神の国が完成される時、その時がいつであるのかはわたしたちには分かりません。それは、神ご自身が、神のみ心によってお決めになることです。これまでのキリスト教会の歴史の中で、何度もその時を特定しようと試みたことがありました。今日でも、その日がいつであるのかを特定しようとする人たちがいます。けれども、その日、その時がいつであるのかは、ただ父なる神だけがご存じです。わたしたちは日々にその日、その時のために備えるのです。ある人は、終末に向かっているそのような緊張した時間を「待ちつつ、急ぎつつ」と表現しました。わたしたちは主イエスの再臨の時を、待ちつつ、、しかし急ぎつつ、その日に向かって歩み続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは終わりの日にみ国を完成させてくださり、わたしたちに朽ちることのない永遠の命をお与えくださいます。そして、その日に至るまで、わたしたちの信仰の歩みをお導きくださいます。そのことを信じて、忠実なあなたの僕として、あなたと隣人とに仕える信仰者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

6月28日説教「ローマ帝国の市民権を持つパウロ」

2026年6月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記22章1~14節

    使徒言行録16章35~40節

説教題:「ローマ帝国の市民権を持つパウロ」

 パウロの第二回世界伝道旅行の後半は、当時のローマ帝国マケドニア州にある植民都市フィリピから始められました。主イエス・キリストの福音が小アジアからエーゲ海を越えてはじめてヨーロッパに告げ広められることになりました。福音伝道の広がりは、また同時に迫害の広がりでもありました。パウロとシラスは町を混乱させたと訴えられ、捕らえられ、牢獄に入れられます。シラスはもともとはエルサレム教会の長老でしたが、マルコの代わりにパウロによって選ばれてこの伝道旅行に同行するようになったと、15章40節に書かれていました。彼自身の意志や意図では必ずしもありませんでしたが、パウロによって彼の同行者として選ばれたのでした。

それはまた同時に、この世からの迫害を受けるために選ばれたことでもありました。それは彼にとっては、不幸であり、苦難の道の選択であったと思われるかもしれませんが、しかし、そうではなく、彼はやがて不思議な神の奇跡によって、縛られていた手足の鎖がほどけ、牢獄の扉が開かれ、そこから解放されるという大きな恵みの経験をすることになったのでした。彼はこのような神の奇跡と大きな恵みの経験をするために、選ばれていたのだということを、この時に教えられたのです。

 この奇跡と恵みの経験の影響は、パウロとシラスの二人だけにとどまりませんでした。彼ら囚人の監視をしていた看守とその家族全体へと、途方もなく大きく広がっていったことが30節以下に書かれています。そして、看守とその家族みんなが、主イエス・キリストの福音を信じてバプテスマを受け、救われ、キリスト者となったのです。その印象的な場面を今一度読んでみたいと思います。【31~34節】。この世の鎖につながれたパウロとシラスでしたが、神の言葉は決してつながれてはいません。むしろ、この世からの迫害を通して、それを飛び越え、貫いて、主キリストの福音は前進し、救われる人を増し加えていくのです。

 きょうは35節以下を読んでいきます。【35~36節】。この記述は、前の部分と少しずれがあるように思われます。というのは、25節から書かれている大地震発生と牢獄の戸がみな開き、囚人たちが逃げてしまったと思って看守が自殺しようとしたこと、パウロがそれを思いとどまらせたこと、そして看守の家に行って家の者みんなが洗礼を受けたという34節までの記述は、真夜中から朝方にかけての出来事であったと思われますが、35節に「朝になると」とありますから、普通に考えれば、パウロとシラスは看守の家にいることになるのですが、ここでは二人は牢獄の中にいることになっているという点で、少しずれがあるように思われます。看守の家で洗礼式と食事が終わってから、彼らがもう一度牢獄に引き返したということなのか、そのあたりはよく分かりません。

ただ一つ確認できることは、36節で看守がパウロたちに「安心して行きなさい」と声をかけていることから、看守はすでに主イエスの福音を信じてキリスト者になっていたということです。「安心して行きなさい」は直訳すれば「平安のうちに行きなさい」ですが、この言葉は15章33節で、ユダとシラスがアンティオキア教会からエルサレム教会へと戻る際に交わした挨拶の言葉「平安のうちに見送られ」と同じ言い方であり、更にはルカによる福音書7章50節などでは、主イエスによって罪ゆるされた婦人に対して語られた言葉、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と同じです。「平安のうちに行きなさい」。この言葉は初代教会以来、キリスト者が出会い、分かれる際の挨拶の言葉となりました。

 そこでわたしたちは、34節から35節へと、多少のずれはありますが、連続した出来事として読んでいくことにします。真夜中の大地震で牢獄の扉がすべて開き、すべての囚人たちの鎖が外れてしまったにもかかわらず、だれ一人そこから逃亡しようとはしなかったと、26節から28節に書かれていました。彼らがなぜ逃げなかったのかについては説明されていませんが、パウロとシラスの賛美と祈りの声を共に聞いていたすべての囚人たちにとっても、神の奇跡によって起こった大地震によって、獄の扉がみな開き、自分たちを縛っていた鎖がみな外れてしまったことを経験した彼らは、自分たちはすでに神によって自由にされていると思われたのかもしれません。パウロとシラスもまだ牢獄の中にいましたけれど、すでに神によって鎖は外され、自由にされていました。

 【37~39節】。パウロたちを捕らえて、鞭で打ち、裁判にかけよとしたフィリピの町の高官たちは、パウロとシラスがローマの市民権を持っていると聞いて驚き、あわてました。当時の法律によれば、ローマの市民権を持つ者はその人権が尊重され、正式な裁判を受ける権利が保障され、むち打ちなどの残酷な刑は課せられてはいけないと定められていました。パウロたちが逮捕された時点では、事態が混乱していたために、パウロは自分たちがローマの市民権を持っていることを主張できなかったのではないかと推測されます。パウロがこの時になってそのことを主張したのはなぜであったのかは推測することしかできませんが、自分たちの名誉や人権の擁護を求めたというよりは、このあとのフィリピ教会の宣教活動や教会員のこの町での市民生活のことを考えて、キリスト教に対する市民の誤解を和らげようとしたのだと思われます。

 そこでパウロは、町の高官たちが自ら出向いて来て、ローマの市民権を持っている自分たちを不法に取り扱ったことを認めて、釈放するべきだと伝えます。パウロはここで、自らが持っているローマの市民権という権利を、最大限に活用しています。自分自身の利益のためではないことは今確認しましたが、ここにパウロにどのような意図があったのかを、さらに考えていきたいと思います。

 35節には、高官たちは「あの者どもを釈放せよ」と命じたことが書かれており、38節には、高官たちは「二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ」と書かれています。高官たちの恐れは、ローマの市民権を持つ者に対して法に従って正しく取り扱わなかったという自分たちの落ち度を感じていることからくる恐れであると同時に、自分たちが捕らえて鎖で拘束した彼らが、神の奇跡によって牢の扉が開き、鎖が外されたということへの恐れもあったのだろうと推測されます。それで、彼らを釈放するように命じたと思われます。

神の言葉と主イエスの福音に仕える宣教者は、時にはこの世からは迫害を受け、辱めや攻撃を受けますが、その迫害の中にあっても、主なる神を信じ、主なる神の助けとお働きを固く信じる時に、神は彼らのために不思議な奇跡を起こしてくださいます。そして、神の言葉と主イエスの福音をさらに前進させてくださいます。その時には、この世もまたその神の奇跡とお働きを見て、神を恐れ、神の言葉に仕える宣教者を恐れるということもまた起こり得るのです。

パウロがどのようにしてローマの市民権を得たのかについては分かっていません。パウロはディアスポラ・離散のユダヤ人であり、熱心なユダヤ教徒であり、初めはキリスト教会の迫害者でした。彼の生まれは小アジアのキリキア州タルソスという町でした。のちに彼が第三回世界伝道旅行を終えてエルサレムに帰った際、神殿を汚したという罪で逮捕された時に、使徒言行録22章27節以下にはこのように書かれています。【27~29節】(259ページ)。パウロが生まれながらの市民権を持っていたということは、彼の父からそれを受け継いだことを意味しています。

そして、パウロはエルサレムで逮捕されたこの時にもう一度自分がローマの市民権を持っているという特権を行使することになります。25章11節で、「私は皇帝に上訴します」とローマの地方総督であったフェストゥスに申し出ます。これもまたローマ市民権を持つ者に与えられていた権利でした。パウロはユダヤ人の最高法院での裁判を望まず、ローマで裁判を受けることを希望しました。それは、ローマでの裁判なら無罪になると期待していたからではありませんでした。パウロはエルサレムで捕らえられた夜に、夢を見ていたのでした。【23章11節】(260ページ)。パウロは当時の世界の中心都市であるローマで、世界の支配者であったローマ皇帝カイザルのすぐ前で、主イエス・キリストを証しするために、彼に与えられていた地上の権利を用いたのです。そして、そのローマで、世界の本当の主はローマ皇帝ではなく、全人類の救いのために十字架で死んでくださり、三日目の復活された主イエス・キリストこそが、すべての人の主であり、唯一の救い主であるという福音を、ローマで、皇帝のすぐ近くで、語ったのです。そのために、ローマの市民権という権利を行使したのです。フィリピでのことも、そのこととの関連で見ることができるでしょう。

 16章40節に戻りましょう。【40節】。リディアという婦人はフィリピで最初にキリスト者となった人であったことが14節以下に書かれていました。彼女とその家族全員が洗礼を受けたと書かれていました。それ以来、彼女の家は礼拝のために用いられていたことがここで分かります。「兄弟たち」とは、信仰者の仲間、教会の群れを意味する言葉です。小さいながら、リディアの家でフィリピ教会が形成されつつありました。おそらく彼女の家に信者たちが集まり、捕らえられたパウロとシラスのために祈っていたのでしょう。

 「彼らを励ましてから出発した」と書かれています。パウロとシラスがフィリピの町を出たのは、この町の高官たちの願いに従ったからだとみることもできますが、しかしそれだけではなく、二人はこの町に誕生した小さな群れを主なる神のみ手にお委ねして、更に福音宣教を前進させるために次の宣教の地へと、新たな使命と希望とを持って出発したのだとみるべきです。パウロたちの第二回世界伝道旅行は更に続きます。主イエス・キリストの福音は更に前進します。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは罪に支配されていたこの世界にみ子・主イエス・キリストをお遣わしくださり、み子の十字架の死と復活によって、罪と死とに勝利してくださいましたことを、感謝いたします。また、わたしたち一人一人をもその救いへとお招きくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人たちに届けられますように。そのために、世界各地に建てられている主キリストの体なる教会を、聖霊によって強めてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

6月14日説教「天からの不思議な食べ物マナ」

2026年6月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記16章1~16節

    ヨハネによる福音書6章26~35節

説教題:「天からの不思議な食べ物マナ」

 神の強いみ手によってエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民は、荒れ野、アラビア半島の砂漠地帯へと導かれました。彼らの荒れ野での放浪生活は40年間続きました。イスラエルの荒れ野での40年間は、彼らにとって大きな試練の連続でしたが、それはまた同時に、神から与えられた信仰の訓練の時でもありました。神はお選びになった愛する信仰者たちを、あえて苦難の道へと導かれます。それによって彼らに信仰の訓練をお与えになり、彼らがいよいよ主なる神に対する信頼と服従を深めるようになるためです。

 申命記8章で、モーセは荒れ野での40年間の旅を振り返りながら、このように説教しました。何回か読んだ箇所ですが、きょう学ぶテキストと直接に関連していますので、今一度読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。3節は、主イエスが公の宣教活動を始められる前に、荒れ野で40日間断食をされた後で、悪魔の試みにあわれた時に引用されたみ言葉です。マタイによる福音書4章3~4節にはこのように書かれています。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』。イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるのものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。また、5節は、ヘブライ人への手紙12章5~6節に引用されています。そこにはこのように書かれています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者をみな、鞭打たれるからである」。

 イスラエルの民が荒れ野の40年間の旅で経験し、学んだ試練や訓練は、そののちの彼らにとっての重要な教訓となったのです。また、新約聖書の民であるわたしたち教会の民にとっても、それは同様に、わたしたちの信仰の歩みにとっての大きな導きであり、励ましでもあります。

 では、【1~3節】。「共同体全体」という言葉は、神礼拝のために集められた群れ、礼拝の会衆を意味します。この言葉が用いられていることに暗示されているように、イスラエルの人々がエジプトの奴隷の家から解放されたその理由また目的は、真実の神礼拝の民となるためであるということを、わたしたちはここでも改めて確認します。更に、そののちに荒れ野で40年間の旅を続けることもまた、彼らがより一層真実の神礼拝の民となるための訓練の時であったということをも、確認できます。イスラエルの民は主なる神を唯一の救いの神として信じ、礼拝するために、一つの群れとして、神礼拝の会衆として集められました。また、これからのちにも、この唯一の救いの神だけを礼拝し、この神が礼拝で語られる一つ一つの言葉に聞き従って生きる民として歩み続けるのです。

 わたしたちキリスト者が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪から救われ、教会の民とされたのもまた、わたしたちが一つの神礼拝の民となるためであり、礼拝で語られる神の一つ一つの言葉に聞き従って生きるためなのです。

 1節の終わりに、「それはエジプトを出た年の第二の月の十五日であった」と書かれています。彼らがエジプトを脱出したのは、イスラエルの第一の月、正月、アビブの月の15日でした。アビブの月はバビロン捕囚以後にはニサンの月と呼ばれるようになりました。今日の太陽暦では3月末から4月にかけて、この日がイスラエルの誕生の時でした。それからちょうど1か月半後のことが、この16章に書かれています。シンの荒れ野がどこを指すのかははっきりしていませんが、アラビア半島の北西から、半島の西側の紅海に沿って南下する道を通っていると推測されています。

 そのシンの荒野でイスラエルの民は指導者モーセとアロンに対してつぶやいたと書かれています。15章23、24節でもそうでした。メラの水が苦くて飲めなかったので、彼らはモーセを批判し、つぶやきました。ここでもまた、彼らはモーセにつぶやき、不平を言い、よりはっきりと、自分たちの指導者であるモーセを批判しています。これはなんという悪意に満ちた、また不遜で、邪悪で、愚かでさえある不平の言葉であることでしょうか。エジプトでの10の災い、10の奇跡の時から民の先頭に立ってエジプト王ファラオと対決し、自分たちの救いのために戦ってきたモーセとアロンに対して、「あなたたちは我々をこの荒野に連れ出して、ここで全員を飢え死にさせようとしているではないか」と言って非難するとは。

 これは、指導者であるモーセとアロンに対するつぶやき、批判の言葉である以上に、彼らを奴隷の家から導き出された主なる神に対する不信仰であり、神の救いのみわざに対する反逆であるというべきです。1か月半前に自分たちに与えられた神の偉大な救のみわざを忘れ、その救いのみ力を疑う罪です。奴隷の家からの解放の奇跡、葦の海を二つに分けて、エジプト軍による追撃から逃れさせ、乾いた海の底を安全に渡らせた奇跡、そして、メラの苦い水を甘い水に変えた奇跡、それらの神の数々の偉大な奇跡を、彼らは早くも忘れてしまい、このようなつぶやき、疑い、非難の言葉を口にするとは、何という不信仰で、邪悪で、かたくなで、そして愚かでさえあるイスラエルの民であることか。二度も三度も、同じ罪を繰り返し、同じ不信仰と反逆を繰り返すイスラエルの民。

 イスラエルの民のつぶやきにはもう一つの罪の側面があります。それは、神によって立てられている自分たちの指導者たちに対する不従順ということです。モーセとアロンの兄弟は神によって召されてイスラエルの民の上に立てられ、エジプト脱出と荒れ野の旅の指導者とされました。また、実際に二人はそのために主なる神に忠実に仕え、また民全体のために働いてきました。モーセとアロンはイスラエルの民のために仕える神の代理者でした。神は二人の口を通して言葉を語られ、二人の働きを通してご自身の救いのみわざを行われました。イスラエルの民は主なる神に聞き従うように、モーセとアロンに聞き従うべきであり、主なる神を信頼するように二人に信頼しなければなりません。しかし、民は二人に対する信頼を投げ捨て、二人に対する服従を拒みました。それが彼らのもう一つの罪の実体でした。

 のちに、イスラエルの民が神の約束の地カナンに入って、一つの国家、一つの信仰共同体を形成していく時、彼らには王、祭司、預言者という指導者が立てられます。主なる神はこれらの地上の代理者である、王、祭司、預言者たちを通して、イスラエルを一つの礼拝の民、信仰の民として訓練され、み心にかなった一つの群れとして形成されます。民は主なる神に忠実であるように、地上の指導者である王、祭司、預言者に忠実に聞かなければなりません。荒れ野の40年間は、そのことを学ぶ期間でもあったのです。

 さて、このようにかたくなで罪深く、不信仰で反逆する民を、神はどうされたでしょうか。神は誰一人み心を行う者がなく、皆罪に汚れている人間を、お裁きになり、お見捨てになるのでしょうか。荒れ野のイスラエルの民をお見捨てになるのでしょうか。

【4~8節】。神はこれまでにも何度もイスラエルのつぶやき聞かれ、そのつど必要な助けと導きをお与えくださったことを、わたしたちは読んできました。今度もそうです。いや、今度はそのことが何度も繰り返して強調されていることが分かります。7節で、「主は、あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ」と書かれています。8節でも、同じ言葉が繰り返されています。さらに、11、12節には、主なる神ご自身の言葉として語られています。【11~12節】。神は何度も何度も、イスラエルのつぶやきを聞かれます。イスラエルの罪と反逆と不従順をゆるされ、彼らのつぶやきに耳を傾けられ、彼らの不平、不満、愚かな叫びにも、お答えくださいます。そのようにして、神は人間の果てしなく、底知れぬ、深い罪を、邪悪とかたくなさと愚かさに固められた恐るべき罪をもおゆるしくださるのです。その罪のゆるしのために、ご自身の一人子なるみ子を十字架におささげくださったのです。

神はイスラエルの民の叫びに応えて、彼らを空腹と飢えからお救いになるために、天からのパンと空からのうずらとをお与えくださいました。うずらと天からのパンについては13節以下で詳しく語られています。【13~16節】。

まず、うずらについてですが、うずらは世界各地に飛来する渡り鳥であり、その肉は今日でもヨーロッパや日本でも食べられています。おそらく、アラビア海や紅海から飛んできたうずらが、夕方に羽を休めるために砂漠地帯に降り立ったのだろうと推測されます。しかし、それは自然現象ではなく、主なる神がそのようにしてイスラエルの民に肉をお与えになったのだと言われています。

天からのパンについてですが、朝に荒れ野の地表に露が降りたようになり、それが渇くと、白くて甘い味がするコエンドロという砂漠に生える草の種のようなものであると31節に説明されています。【31節】。「マナ」とは、15節でイスラエルの人々が「これは何だろう」と言ったと書かれていますが、それがヘブライ語の発音では「マーン・フー」ですが、そこから「マーン」を日本語で「マナ」と発音されるようになりました。マナについては、今日、それが何であるのかと議論されますが、重要なのは、それが神から与えられた不思議な食物、パンであり、それが毎日毎日民全体を養うのに十分なほどに与えられたということです。欲張って二日分を集めると、それは翌日には虫がついて臭くなり、食べれなくなったと20節に書かれています。また、土曜日の安息日前の金曜日には、二日分集めても、それは臭くならなかったと24節に書かれています。

 このようにして、イスラエルの民は40年の荒れ野の旅の間中、日々に必要なパンを神から与えられ、神に養われました。神がお定めになった集め方に従わなかった場合には、マナは与えられず、食べられなくなってしまいました。ここで重要なことは、神の不思議はパンであるマナを得るために、神の言葉、神の定めに聞き従わなければならないということにあります。神の定めに聞き従わずに集めたマナは、彼らを養うことがありませんでした。

 もう一つの重要な点は、安息日の戒めを守るということです。ここではまだモーセの十戒は定められていませんから、厳密な意味での安息日の律法はありませんでしたが、荒れ野においても、安息日ごとの神礼拝は守られていました。その安息日に、神を礼拝することよりもマナを集めることを優先するならば、マナを得ることはできません。【27節】。これによって、イスラエルの民は安息日が神礼拝のために聖別された日であることを学んだのです。そして、安息日に共に主なる神のみ前に集い、神を礼拝する礼拝の民となるべきことを学んだのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちの命にとって必要なものすべてを、日ごとに備えてくださいます。それ以上に、わたしたちを日々にあなたの命のみ言葉によって養い、導いてくださいます。どうか、わたしたちの信仰の道にあなたが常に伴ってくださり、わたしたちが迷うとき、苦しむとき、悲しむとき、孤独を感じるときにも、必要なみ言葉をお語りくださり、終わりの日に至るまで、わたしたちをあなたの民として守ってください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

6月7日説教「福音は信じる人すべてを救う神の力」

2026年6月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編42編1~12節

    ローマの信徒への手紙1章16~17節

説教題:「福音は信じる人すべてを救う神の力」

 きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙1章16節、17節には、この手紙の主題が書かれていると言われます。【16~17節】。この箇所を数回に分けて学んでいきます。きょうは16節を中心に学びます。

まず、パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りだします。この文章は「わたしは恥じない」という否定の言葉で始まります。ギリシャ語では「ウー」と発音する語が文頭に置かれています。英語のNo、日本語では「ない、否」という言葉にあたります。いきなり否定語で文章が始まるというのは、奇妙な感じがしますし、ドキッとします。事実、この表現は、強く、積極的な意味が強調されているのです。つまり、「恥ない」とは、その反対の、「誇りとする」とか、「自信と確信とを持って、断固として語る」という意味を強調しているのです。「わたしは福音を恥ない」という文章の内容に従って言い換えるならば、「わたしは福音を大胆に告白する」となります。

同じ言葉は、パウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙に何度か用いられています。テモテへの手紙二1章8節を読んでみましょう。【8節】(391ページ)。「恥じてはなりません」は直訳すると「あなたは恥じるな」であり、12節でも「わたしは恥じない」、16節では「彼は恥じない」と、手紙を書いているパウロと、それを受け取るテモテ、そしてパウロに助けの手を差し伸べたオネシフィロの家族、三者について「恥じない」という言葉が用いられています。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによって迫害を受け、手足を縛られ、囚人として獄につながれているパウロですが、彼自身はもちろん、パウロの身を案じるテモテもパウロの協力者たちも、すべての人たちに対して、パウロは「恥じるな」と命じているのです。

「恥じるな」とは、心理的に恥ずかしく思うなとか、尻込みをするなという消極的な意味で用いられているのではありません。どのような迫害や、困難や試練の中にあっても、いやそのような状況の中にあってこそ、その迫害と困難に立ち向かい、それと果敢に戦い、より一層大胆に、積極的に、喜びをもって、主イエスの福音を宣べ伝え、主イエスの福音を告白するということを強調した言い方なのです。

そのことを確認したうえで、パウロがなぜ「わたしは福音を恥じない」という表現を用いたのか、その理由を考えてみましょう。パウロはコリントの信徒への手紙一1章で、このように書いています。「主イエスの十字架の福音は、しるしを求めるユダヤ人にはつまずかせるものであり、知恵を求めるギリシャ人には愚かなものである」(18節以下参照)と。その十字架の福音を宣教するということは、この世の価値感や人間的な知恵によれば、それは恥でしかないと人々には思われるのです。「しかし、それにもかかわらず、わたしたちは十字架につけられた主キリストを宣べ伝える」と、パウロは続けて語ります。この世の多くの人たちからは愚かで、つまずかせるものであり、恥でしかないように思われる十字架の福音を、しかし、この世のあざけりや迫害の中で、大胆に、勇気をもって、わたしたちは語り続けるのだ、とパウロは強調します。

主イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝えるということは、いつの時代でも、どこの国においても、迫害と軽蔑と敵意とを受けることを余儀なくされます。そのような中で、それにもかかわらず、福音を語り続けていくためには、「わたしは福音を恥ない」という、断固とした決意と、忍耐強い抵抗と戦いの姿勢が必要とされます。また、主イエス・キリストの福音は、そのような勇気と決意とを、信じる人たちに与えるのです。

「わたしは福音を恥ない」という言葉は、すぐ前の14、15節との関連もあります。パウロはそこで、「わたしにはユダヤ人にもギリシャ人にも福音を告げ知らせる責任がある」と語り、それゆえにローマにいるあなたがたにもぜひ福音を告げ知らせたいと語っていました。彼は全世界のすべの民に主キリストの福音を宣教する務めが自分にあるということを強く自覚していました。彼は、コリントの信徒への手紙一9章16節以下で、「わたしが福音を宣べ伝えているのは、そうせずにはいられないからだ。もしわたしが福音を語らないなら、それはわたしにとって災いだ」とまで言っています。キリスト教会の熱心な迫害者であったパウロが、神に選ばれて、福音の宣教者として立てられてからは、その大きな恵みに感謝して、それに答えることが、彼の生涯の使命だと、彼は強く自覚していました。いや、それ以上に、福音を宣べ伝えることを彼の大きな負債のように感じていました。自分の残りの全生涯をそのために尽くしたとしても、到底支払いを完了することができないほどの大きな負債を、主イエス・キリストの十字架によって、自分に代わって支払ってもらっていると、彼は考えていたのです。それゆえに、パウロはどのような厳しい戦いや屈辱を強いられたとしても、苦難や試練を積み重ねたとしても、「わたしは福音を恥ない」と力強く断言するのです。

パウロがこれから訪問しようと計画しているローマとの関連を考えてみましょう。当時はローマ帝国の急成長の時代でした。全世界の文化、芸術、学問、哲学、そして宗教、権力がこの世界都市に集中していました。その中で、十字架につけられた主イエス・キリストの福音を語ることは、何を意味していたでしょうか。それは、明らかに大きなつまずきであり、愚かであり、恥であったでしょう。パレスチナの一角で、貧しい家畜小屋に生まれ、ローマの地方総督ポンティオ・ピラトのもとで裁かれ、人々のあざけりの中、十字架で死んでいった一人の不遇で哀れな男を、全世界の救い主と信じ、告白し、その方のために自らの命と生涯のすべてをささげるということは、ローマに住む人々にとっては、その都の権力者にとっては、どんなにか大きなつまずきであり、愚かであり、恥であったことでしょうか。

しかし、パウロは「わたしは福音を恥ない」を断言します。このような神のみ子の貧しさと、低さと、弱さの中にこそ、神の罪びとたちに対する偉大な愛があり、ゆるしがあるからです。このような主キリストにこそ、すべての人のための唯一の救いがあるからです。神のみ子主イエス・キリストご自身が、ご受難と十字架の死において、ご自身のすべての弱さと愚かさと恥の中で、しかし、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた」(ヘブライ人への手紙12章2節)のであれば、この主にお仕えする僕(しもべ)たちがどうしてそれとは違うことがあり得ましょうか。神のみ子がこのような低さと貧しさの中で、罪と死とに勝利されたのであれば、その主にお仕えする僕たちもまた、そのことを信じることが許されているに違いありません。

もしパウロが、幾度も迫害され、捕らえられ、鞭うたれ、鎖でつながれた時、彼自身の知恵や力、雄弁とか、あるいは人間的な、この世的な助けを期待していたのであれば、彼はあるいは恥じなければならなかったかもしれません。恐れなければならなかったかもしれません。しかし、彼はただひたすらに主キリストの十字架の福音にだけ信頼し、そこにのみ自分の助けと救いがあることを信じ、「わたしは福音を恥ない」という告白を貫きとおしたのです。

なぜ彼はそうしたのか。なぜ彼はそうできたのか。その理由が16節に続けて書かれています。【16節b】。パウロはこの神の力を信じていたからこそ、どのような困難な状況の中でも、この世からのどのような迫害や敵対の中でも、「わたしは福音を恥としない」ということができたのです。主イエス・キリストの十字架の福音にこそ、最も偉大で、最も驚くべき神の力が働き、すべての人に救いをもたらすからです。

では、その神の力とはどのような力のことでしょうか。まず確認しておくべきことは、それは神の力、神からやってくる力のことであり、他のどこからから来る力ではないということです。パウロ個人の力ではなく、他の誰かの力でもなく、あるいは他の何かの力でもない、神のみから来る、神ご自身だけが持っておられる力のことです。

わたしたちはさまざまなものの力について語ることができるでしょう。この時代であれば、ローマ皇帝カイザルの力について、ユダヤ人が恐れていたヘロデ大王の力について、19世紀にヨーロッパを席捲(せっけん)したナポレオンの力について、あるいは一瞬にして多くの命を奪う大量殺りく兵器の力について、または突然に襲い来る自然の力について、わたしたちはそれらの力や脅威について語ることができるでしょう。しかし、そこではまた同時に、それらの力の限界についても語ることができますし、語らなければなりません。

けれども、神の力については、どれだけ語ることができるでしょうか。それについては、おそらくわたしたちは全く不十分にしか語ることができません。誰も神の力を見極めることができませんし、それを語り尽くすこともできません。ただ、不十分な言葉で、「神は全能の神である」と語ることができるだけです。ましてや、神の力の限界などということについては、いったい誰が語りうるでしょうか。神の力は、この世のあらゆる力をはるかに超えていると言うことができるだけです。そして、さらに重要なことは、神の力はこの世にあるすべての力にその限界を与えるということです。

「救いをもたらす神の力」と言われています。神の偉大なる力、全能の力、無限の力が、今この時に、主イエス・キリストによって、わたしたち人間の救いのために働く福音として、その力を発揮したのだとパウロは言っています。神はご自身の偉大な力のすべてを、その全能なる力を、わたしたち人間を罪から救うために集中的にお用いになったのです。主イエス・キリストの十字架の福音は、それを聞き、信じる人に、偉大なる全能の力として働き、その人に救いをもたらします。主イエス・キリストの十字架の福音を語る神の言葉は、空しく語られることはありません。それは救いの出来事を生み出します。

創世記に書かれているように、神は言葉によって闇の中に光を創造され、混沌の中に天地万物と人間とを創造されました。神の言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。神の口から出る言葉は、空しく神のもとに帰ることはありません。神に立ち帰る罪びとたちに豊かなゆるしを与えます。

「信じる者すべてに」と言われています。神の救いの力は、ただ信仰によってのみわたしたちに届きます。わたしには何がなくても、あるいは何かが多くあったとしても、それには全く関係せず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神の救いの力がすべての人に与えられるのです。別の表現を用いるならば、ただ神の恵みと憐れみによって、すべての人の罪がゆるされ、神との豊かな霊にある交わりの中に招き入れられ、来たるべき神の国の民の一人とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは、とこしえからとこしえに至るまで絶えることはありません。また、あなたの救いの恵みは、全地のすべての人の上に限りなく与えられます。どうか主よ、この世界を憐れんでください。すべての人があなたの救いに招き入れられ、まことの命と平安に生きる者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月31日説教「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

2026年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章27~31節

    ルカによる福音書12章22~34節

説教題:「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

 ルカによる福音書12章22節以下で、主イエスはわたしたち人間を日々の思い煩いから解放するために、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われます。人間は、何としばしば、毎日毎日、きょうは何を食べようか、何を着ようかなどと、この世のさまざまなことで思い悩み、思い煩うことことか。主イエスはそのようなわたしたちの果てしない欲望や願い、あるいは迷いや不安をご存じです。わたしの心がいくつにも分裂して、この世の過ぎ去り行くものに縛り付けられ、ついには永遠なるものを見失い、神を見失っている現実を、主イエスは知っておられます。

 そこで、主イエスはわたしたち目を、まず初めに、わたしの肉の目で見ることができる空の鳥や野の花へと向けさせます。それは、誰にでもできます。いつも身近に見ています。そして、そこから、空の鳥や野の花を日々に養い、美しく装ってくださる、造り主なる神へと、わたしたちの信仰の目を向けさせるのです。種を蒔くことも刈り取ることもしない空の鳥、また、紡ぎもせず糸を織ることもしない野の花。彼らをも日々に必要なものすべてを備えてくださる神。そして、その神は、あの空の鳥や野の花よりも、何十倍も、いや何万倍もの大きな愛をもって人間を創造された神。今もなお、その偉大なる愛によって守り導いておられる神。その神へとわたしたちの信仰の目を向けさせるのです。そのような神がいますのであるから、その神があなたにとって必要なものを日々に備えてくださらないことなどあるだろうか、と主イエスは言われるのです。そのようにして、主イエスはわたしたちをすべての思い悩み、思い煩いから解放してくださり、わたしたちの信仰の目を父なる神へと向けさせてくださるのです。

 28節以下で主イエスはこのように言われます。【28~30節】。「異邦人」とは、神に選ばれた信仰の民であるイスラエル、ユダヤ人以外の、信仰を持っていない諸国民、神を知らない人々を指しています。神を知らない人は、神がどれほどに人間一人一人を愛しておられるかを知りませんし、神が天地万物を創造され、人間をご自身のかたちに似せて、被造物の冠として創造されたことも知りません。ですから、彼らは神のご配慮を信じることができずに、すべてを自分の力で手に入れなければならないと考えて、毎日あくせくと動き回り、自分の欲望がかなえられなければ、思い悩み、不安になるのです。

 けれども、主イエスは言われます。「あなたがたは父なる神を知っているではないか。その神は、あなたがたに必要なものが何かを知っていてくださるではないか。あなたがたが本当は必要でないものまでも追い求めて心を煩わしているときに、あなたがたの父であられる神は、子どもであるあなたがたに今何が必要であるのかを最もよく知っておられるので、それを与えてくださらないはずがないではないか」と。

 30節の言葉でもう一つ注目したいのは、神が「あなたがたの父」と言われている個所です。神を「わたしの父、わたしたちの父」と呼ぶことは、旧約聖書では非常にまれでした。というのは、イスラエルの信仰においては、神はいと高き天におられる神であり、すべての造られたもの、被造物のはるか上に君臨しておられる絶対的な存在ですから、その神を人間の親子の関係で表現することは神の尊厳を損なうことになりかねないので、イスラエルでは避けられていました。

 新約聖書になってから、神を人間の親子関係と同じように、「父なる神」と呼ぶようになったのは、言うまでもなく、主イエスが神をご自分の父と呼ばれたからです。事実、主イエスは父なる神の御ひとり子であられます。すでにわたしたちが読んだ箇所ですが、10章21節以下を改めて読んでみましょう。【21~22節】(126ページ)。主イエスはここではっきりと神をご自身の父と呼ばれ、父であられる神が主イエスにその父のみ心をすべて明らかにされたと言っておられます。神のひとり子であられる主イエスによって、わたしたちもまた神を「天におられるわたしたちの父なる神よ」と、親しく呼びかけることが許されているのです。

 主イエスがきょうの箇所で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と言われたことの深い意味を、ここでわたしたちは気づかされます。主イエスによってわたしたちの父となってくださった神は、わたしたちに今最も必要なものが何であるのかを知っておられ、またそれをお与えくださる神なのだということです。わたしたちをこの世のすべての思い煩いから解放してくださり、まことの喜びと平安をお与えくださる神は、わたしたちを罪の奴隷からお救いくださるために、ご自身のひとり子であられる主イエスをご受難と十字架への道へとお導きになられたということを、わたしたちはここで気づかされるのです。

 わたしたち人間がまだ自らの罪に気づかずにいたときに、罪と戦うこともなく、罪から救われたいと願うことすらまだしていなかった時、いやむしろ、罪の中に安住し、自ら気づかずに死と滅びへと向かっていたときに、父なる神はわたしたちを罪から救い出すために、ひとり子なる主イエスをこの世にお遣わしくださり、主イエスの十字架の死によってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったのです。それによって、わたしたちの罪がゆるされること、そして神との交わりが回復されること、わたしたちが神の子どもたちをされること、神から与えられる永遠の命に生かされること。それこそが、わたしたち人間にとって今最も必要なことであるということを、わたしたちの父であられる神が知っておられ、そのことを実現されるために、み子主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださったのです。パウロはローマの信徒への手紙8章でこのように言います。「ご自身のひとり子さえも惜しまずにわたしたちの罪の贖いのための供え物としてお与えくださった神が、み子のみならず、万物をも賜らないはずがあろうか」(8章32節参照)と。

 そこで、主イエスは続けて31節でこのように言われます。【31節】。「神の国」とは、主なる神が唯一の王として支配しておられる王国を言います。主イエスが宣教された福音は「神の国の福音」と言われます。罪が支配し、人間の邪悪や悪の霊が満ちているこの世界に、今や神のみ子が来てくださり、十字架への道を進んでおられるこの時に、神の新しいご支配が始まった。神の愛と恵みによるご支配が始まった。だから、人は皆、自分の罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰りなさい。これが、主イエスが語られた神の国の福音です。

 主イエス・キリストの十字架と復活を信じるわたしたちキリスト者にとっては、神の国、神の愛と恵みのご支配はすでに始まっています。主イエスが十字架の死と復活によって、罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。この神の国の福音を信じているわたしたちにとっては、パウロが語っているように、み子だけでなく、万物がすでに与えられているのです。

 主イエスは32節でこのように続けます。【32節】。31節と32節は似たような構文になっています。まず、主イエスの命令文があり、そのあとに主イエスの約束が語られています。「神の国を求めよ」。「そうすれば、これらは与えられる」。「恐れるな」。「なぜなら、あなたがたの父は喜んで神の国をお与えくださる」。このように、主イエスがわたしたちに何かをお命じになるときには、いつもその命令には大きな恵みの約束が伴っています。主イエスは言われます。「求めよ」。「そうすれば、与えられる」。「探せ」。「そうすれば、見いだす」。「門をたたけ」。「そうすれば、開けてもらえる」。「祈れ」。「そうすれば、あなたの願いは聞かれる」。「悔い改めよ」。「そうすれば、神があなたの方に近づいてきてくださる」。「信じよ」。「そうすれば、救われる」。そのように、わたしたちが主イエスの言葉に聞き従う時、それは決して空しく終わることはありません。豊かな救いの約束を伴っているからです。

 31節と32節のもう一つの関連は、31節で「神の国を求めなさい」と命じられており、32節では「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束が語られています。わたしたちが神の国を求めることができるのは、わたしたちに神の国を与えようとされる父なる神の強い意志があるからであり、み心があるからなのです。わたしたちが、何よりもまず第一に、神の国を求めなさいと命じられているのは、このような神のみ心があるからなのです。

 主イエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」と呼びかけておられます。主イエスの弟子たちは選ばれた12人と、あと少しの仲間でした。主イエスに反対する勢力であるユダヤ人指導者たち、ファリサイ派、サドカイ派、またヘロデ王家の数に比べれば、本当に小さな群れでしかありませんでした。あるいはまた、当時世界を支配していたローマ帝国と比較するならば、大海に浮かぶ小さな木の葉にすぎませんでした。けれども、主イエスはそのような小さな群れにこそ、神の国をお与えになると言われるのです。なぜならば、彼らが主イエスの福音を信じ、神の愛と恵みのご支配を信じているからです。それゆえにまた、彼らは小さな群れではあっても、この世のどのように大きな権力であろうとも決して恐れるには及びません。天におられる主なる神が彼らの王であるからです。

 最後に、主イエスは33節以下でこのように言われます。【33~34節】。主イエスはわたしたちの目と心とを天に向けさせます。この地上の過ぎ去り行くものに目と心とを奪われ、あれも欲しい、これも手に入れようと、毎日思い煩っているわたしの目と心とを、地上のものから離して、父なる神がいましたもう天へと向けさせます。天にこそ、朽ちることのない永遠の宝が備えられているからです。

 きょうの主イエスの説教の前半、22節から語られていた内容と、終わりの部分31節以下で語られている内容とを比較してみてください。前半では、わたしたち人間が自分の命のことや体のことで、あれもこれも手に入れようと思い煩っていた様子が語られていました。ところが、わたしたちが主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれていることを知らされてからは、わたしが持っているものを喜んで隣人に分かち与えるように変えられていくことが語られています。神の国の福音に生きる人、主イエスの十字架の福音に生きる人は、そのようにして、すべての思い煩いから解放されます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが御ひとり子をわたしたちにお与えくださるほどに、わたしたち人間を愛してくださったことを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを、あなたがいます天へと向けさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月24日説教「ペンテコステの日のペトロの説教」

2026年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              ペンテコステ(聖霊降臨日)

聖 書:ヨエル書2章12~20節

    使徒言行録2章14~21節

説教題:「ペンテコステの日のペトロの説教」

 使徒言行録2章1節に書かれている「五旬祭」とは、イスラエルの三大祭りの一つで、旧約聖書では「七週の祭り」「初穂の祭り」などと呼ばれ、小麦の初穂を神にささげて感謝する祭りでした。主イエスの時代にはギリシャ語で「五十番目」を意味するペンテコステと呼ばれていました。50番目とは、イスラエル最大の祭りである過越祭から数えて50日目に祝われる祭りであったからです。

過越祭はイスラエル誕生の出来事であるエジプト脱出を祝う祭りであり、それから50日目の五旬祭は、約束の地カナンでの収穫の初穂を神にささげる祭りでした。そして、旧約聖書のこの二つの祭りは、新約聖書では主イエスによる救いの出来事と深く関連していました。すなわち、主イエスは過越祭の時期に、全人類を罪の奴隷から解放するためにささげられた過ぎ越しの小羊として、ご自身の命を十字架でおささげになりました。その十字架の出来事から50日目のペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊によって語られた主イエスの福音の説教を聞いて信じた人々3千人ほどが洗礼を受けてキリスト者となり、ここに世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生したのでした。主イエスの十字架の死と三日目の復活によって人間を罪の奴隷から解放する神の救いのみわざが、今やその収穫の初穂としての救われた人々の魂が、この日に主なる神にささげられ、教会が誕生したのです。神の永遠なる救いのご計画は、このようにして成就しました。

 きょうは、その日のペトロの説教についてご一緒に聞き、わたしたちもまたペンテコステに与えられた聖霊の恵みを共に受けたいと思います。4節に、【4節】とあり、また11節には、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」書かれていますが、聖霊に満たされて語った弟子たちの説教の一例が、12節で「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」と書かれている具体的な内容であると理解されます。

 ペトロは主イエスと地上の歩みを共にしていた時にも12弟子のリーダーでしたが、復活された主イエスが天に昇られたあと、そして聖霊によって誕生した初代教会においても指導的な立場にありました。けれども、ペトロは12弟子のリーダーとしての立場を、そのまま引き継いだのではありません。ペトロは主イエスの十字架の際に大きなつまずきを経験していました。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連行されて行った際、彼は周囲の人たちに「あなたもあの男と一緒だった」と言われた時、「いや、わたしは知らない。わたしはあの人を知らない。関係ない」と、3度までも主イエスを拒み、見捨てたのでした。ペテロは主イエスの十字架から逃げ去りました。もはや弟子と呼ばれる資格はありません。そのリーダーでもありません。

 けれども、復活された主イエスは彼をお見捨てにはなりませんでした。再び、弟子としてお招きになり、弟子たちのリーダーとしての新しい務めを授けられたのです。それだけではありません。それまでのペトロは主イエスの説教を聞く人でした。ところが、ペンテコステの日の聖霊降臨は、ペトロを説教者として誕生させたのです。ペトロは聖霊を注がれてからは、説教する人、主イエスの福音を語る人へと変えられたのです。ほかの弟子たちもみな同じです。みな主イエスの十字架から逃げ去り、主イエスを見捨てたのでしたが、彼らもまた聖霊を受けて、今新しく主イエスの復活の証人たちとして、福音の宣教者たちとして立てられたのです。聖霊は罪の中で死んでいた人を、再び立ち上がらせ、その人に新しい務めを授けます。

 では、【14~16節】を読みましょう。聖霊を注がれた弟子たちが、エルサレムに集まってきていたいろんな国の言葉で語りだしたので、それを聞いた人々は驚き、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」と言って、あざ笑ったと13節に書かれていましたが、ペトロはまずその誤解を訂正しています。当時の信仰熱心なユダヤ人は朝9時と昼、そして夕方と、日に三度祈りをささげていたと伝えられています。朝9時の祈りをささげるまでは朝食をとらないという習慣もあったようです。ペトロは説明します。「ですから、この人たちは酒に酔っているのではない。これは、旧約聖書ヨエル書の預言で語られていたように、神の霊、聖霊を注がれた主イエスの弟子たちが、神がお示しくださった幻を語り、神の言葉を預言しているのだ」と。

 17~21節までは、ヨエル書3章1~5節からの引用です。ヨエル書が書かれた年代については諸説があり、紀元前9世紀から紀元前4世紀と、大きな幅があります。その預言の内容は一貫しており、終末論、すなわち世の終わりの時のことが預言されています。神が諸国を裁く時が迫ってきている。神の怒りの日が来る。だれも神の最後の裁きを避けることはできない。それゆえに、悔い改めて神に立ち帰れ。その日には、神はご自身の民の救いを完成させ、すべての人に神の霊を注ぐ。これがヨエルの預言です。ペトロはペンテコステの日に、このヨエルの預言が成就したのだと語ったのです。エルサレムに集まっていた主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らが新しい言葉で神の偉大な救いの出来事である主イエスの福音を語りだしたのは、ヨエルが預言した終末が今始まったことの確かなしるしなのだと説教したのです。

 17節の「終わりの時」とは、今あるこの世、この世界、この時代が終わるときのことを言います。それを一般に終末と言いますが、聖書の終末にはもっと重要な意味が含まれます。今あるこの世界が終わる時、新しい神の国が到来するということです。もはや人間の罪もなく、死も滅びもない、永遠に神が支配される神の王国、神の国が完成する。これが、聖書が教える終末です。ここには、聖書の時の理解が関係しています。聖書では、時には初めがあり、終わりがあると教えます。初めに、神は天地万物を創造されました。けれども、人間の罪によってこの世界は汚されてしまいました。終わりの時、神はもう一度すべてを新しくされます。その時、古い世界はすべて滅ぼされます。この地球も、自然も、宇宙も、太陽や月、星も、みな滅び去ります。これが、聖書が教える時の理解です。19、20節に書かれている「主なる神の不思議な業」とは、このような時の終わりに全世界が滅び去ることを語っています。今わたしたちが生きているこの時、この時代、この世界は、すべてその終わりへと向かっている。そして、終わりの日の神の国の完成へと向かっている。これが、聖書が教えている終末です。

 ペトロの説教で引用されているヨエル書の預言は、この終末の時に起こる出来事を語っているのです。その視点から、改めてヨエルの預言を読んでみましょう。【17~18節】。「わたしの霊」とは、神の霊、聖霊のことです。聖霊がすべての人に注がれることによって、終わりの時、終末、そして神の国が完結する、完成するということです。神の霊、聖霊は罪の中で死んでいた人に新しい命を与えるからです。古い世界を新しく再創造するからです。

 ここで、キリスト教の教えの最も大切な教理である「三位一体論」について少しお話をしておきましょう。キリスト教は、旧約聖書のイスラエルの信仰から、一神教、唯一神教を受け継ぎました。聖書の神は多くの神々の中の一つの神であるのではなく、天地万物を創造され、イスラエルを選ばれた神は唯一の神であり、神々と言われるものが他にあるとしても、それらはすべて偶像であり、偽りの神々であるという信仰です。その唯一神教を土台にしながら、神のみ子主イエス・キリストはまことの神であり、また聖霊もまことの神である。神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神として存在し、またお働きになられる。しかし三つの神であるのではなく、一つの本質、一つの実体をもつ神である。これが、キリスト教の「三位一体論」です。

 したがって、この三位一体論によれば、父なる神も子なる神イエス・キリストも聖霊なる神も、永遠の昔から唯一の神として存在していたことになります。

でも、旧約聖書の中には、はっきりとした姿でみ子なる神と聖霊なる神は現れません。新約聖書の時代になってから、クリスマスの時にみ子なる神主イエス・キリストがこの世界に人間のお姿で誕生され、そして今、聖霊なる神が、このペンテコステの日に、激しい風のように吹きつけ、地響きのように地を震わせ、炎のような舌のかたちで(2~3節参照)、弟子たちの上に注がれたのです。この聖霊なる神の働きがあって、三位一体なる神の救いのみわざが完了することになったのです。

 旧約聖書の時代にヨエルが預言した終末の時、古い時代の終わりと新しい神の国の完成の時が、今このようにして到来したのだと、ペトロは説教しています。父なる神が天地万物の創造によってお始めになった神の永遠の救いのご計画が、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして聖霊の降臨によって、今ペンテコステの日に完了したのです。

 ペンテコステの日の出来事について、ペトロの説教で語られていることをいくつかのポイントにまとめてみましょう。一つは、聖霊降臨は神の天地創造と永遠の救いのご計画の完成を意味すると同時に、終わりの日、終末の時の開始、始まりであるということです。わたしたちは今そのような時に生きているのです。

 第二には、すべての人に聖霊が注がれて、男と女、奴隷と自由人、その他すべての人間の違いが取り除かれ、それらからくる束縛や差別から解放され、人間は全く自由になり、一つの神の民とされるということです。その具体的な姿が教会です。聖霊の時、終末の時は教会の時として具体化されます。

 第三には、聖霊が注がれると、人はみな神の幻を見、神の言葉を預言するようにされます。今わたしたちの目の前に繰り広げられている世界の現実だけを見るのではなく、神が聖霊によってお示しになる新しい神の国を見るようにされ、神のみ心を悟るようにされるのです。

 そして第四に、21節に書かれているように、【21節】。「主の名を呼び求める」とは、主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、告白することを言います。わたしの罪のために、わたしに代わって苦難の道を歩まれた主イエス・キリスト、わたしの罪を贖うために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、わたしを新しい命に生かすために、罪と死とに勝利され、三日目に復活された主イエス・キリスト、この主イエス・キリストを聖霊に導かれてわたしの救い主と信じ、受け入れることによって、わたしは罪ゆるされ、永遠に主なる神と共にあり、神の国の民とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もないそのすべてを強いみ手をもって支え、導いておられます。また、あなた永遠の救いのご計画は、今もなお終わりの日の完成に向かって前進しています。どうか、あなたの命の霊をあなたの民の上に豊かに注いでください。そして、あなたの救いのみわざがいよいよ力強く行われますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月17日説教「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

2026年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章11~19節

    使徒言行録16章25~34節

説教題:「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

 パウロの第二回世界伝道旅行の後半、マケドニア州とギリシャ地方への伝道活動の最初の都市は、フィリピでした。フィリピでは、まず紫布の商売をしていたリディアという女性とその一家が洗礼を受けました。リディアの家はフィリピ教会の基礎となり、しばらくの期間、この家で集会が行われていました。

 次に、パウロは占いの霊に取りつかれていた女奴隷から、その悪しき霊を追い出し、彼女を自由にしましたが、彼女を金もうけの道具にしていた男たちがパウロを訴えたために、パウロとシラスの二人が捕らえられ、投獄されることになりました。きょうは16章25節から読んでいくことにしましょう。

 【25節】。パウロとシラスは何度も鞭で打たれ、足には足かせがはめられていたと22節以下に書かれていました。足かせは、囚人の両足を大きく広げ、固定する拷問の器具であり、睡眠を妨げるほどの痛みを伴います。二人はほかの囚人たちよりも厳しい監視下に置かれ、牢の一番奥に入れられていました。そのようにして、パウロとシラスは痛みと不安、恐れの中で眠られない夜を迎えたのでしたが、しかし彼らの心は沈んではいませんでした。彼らの魂、思い、そして彼らの唇、神賛美の歌声は、決して鎖につながれてはいませんでした。この世のいかなる鎖によっても、神の言葉は決してつながれてはいません。神の言葉の証人として仕える信仰者の口も決してつながれてはいません。パウロとシラスはそれらの鎖を引きちぎり、喜びと感謝と希望とをもって、神に祈りと賛美をささげていました。

 パウロたちの賛美と祈りの声が牢全体に響き渡り、ほかの囚人たちはこれを聞いていたと書かれています。神賛美と神への祈りとが、牢全体を聖なる空気で包み、そこに神のご臨在を感じさせるような雰囲気をわたしたちは感じます。それだけではありません。実際に神ご自身がそこにおられ、そこで力強く働いておられるということを、わたしたちは知らされるのです。

 「ほかの囚人たちはこれを聞き入っていた」とありますが、ここからわたしたちは、囚人たち以上に、神ご自身がパウロたちの賛美と祈りとを聞いておられたのだということに気づかされます。【26節】。これは偶然に起こった自然現象としての地震ではありません。これはパウロたちの祈りに対する主なる神のお答えなのです。主なる神のみわざです。神の言葉に仕えるキリスト者たちの勝利を証しするために働かれる全能の父なる神のみわざなのです。というのも、「すべての囚人の鎖も外れてしまった」と書かれているからです。普通の地震ならば、囚人たちの鎖が外れたり、パウロたちの足かせが外れるということは起こり得ないからです。

 神はこのような奇跡を行われることによって、ご自身の言葉はこの世の鎖によっては決してつながれることはないということを、また神の言葉の証人として仕えるキリスト者たちも決してこの世の鎖によってつながれたままでいることはないのだということを、それゆえに、神の言葉の証人として仕えるキリスト者こそが、まことの、永遠の自由に生きることを許されているのだということを、わたしたちにお示しになったのです。

 27節からは、この不思議な神の奇跡である大地震を経験した看守のことが書かれています。【27~28節】。当時のローマの法律によれば、囚人の監視にあたる看守が、もし囚人に逃亡されたら、その囚人が受けるべき刑罰を看守自身が受けなければならないと定められていました。パウロとシラス、それにほかの囚人たちも、地震で鎖が外れ、牢の扉が開き、みな逃げ出したとすれば、当然看守は死刑になります。それを悟った看守は自殺しようとします。しかし、パウロが急いでそれを止めます。パウロは今まさに死なんとしていた看守を命へと導いています。ここで、看守とパウロの立場が逆転していることが分かります。看守は死刑判決を受けるかもしれないパウロたちを、死の牢獄につなぎ留めておくための務めを担っていました。しかし、今パウロの方が、自らの死へと向かおうとしている看守を命へと導くために働いているのです。神の言葉に仕えるキリスト者は、このようにして、自らがまことの自由と命に生きる道へと導かれるとともに、他の人をも、死へと向かおうとしているこの世の人たちをも、まことの命へと導くために仕えることが許されるのです。

 自らの死から救われた看守は、そこに聖なる神のみ力が働いていることに気づき始めました。【29~30節】。「震えながらひれ伏し」とは、看守がその所に聖なる神のご臨在とご支配とを感じたことを言い表しています。彼はこの大地震が偶然に起こった自然現象なのではなく、天地万物を天からご支配しておられる神のお働きであり、牢の扉がみな開き、囚人たちの鎖が外され、自殺しようとしていた自分に止めるようにと声をかけてくれたパウロたちの導き、そのすべてが神のお働きであったことを悟ったのです。

 このようにして、聖なる神との出会いへと導かれた看守は、深い罪の自覚とともに、救われたいとの強い願いが生じてきました。そして、パウロとシラスに尋ねます。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。この問いかけは、弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの日に、ペトロの説教を聞いたエルサレムの人たちの場合と同じです。その箇所を読んでみましょう。【2章37~39節】(216ページ)。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じて洗礼を受ける。その信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われます。そのことはいつの時代にも、誰にとっても同様です。

 パウロとシラスは看守に答えました。【31節】。責任を感じて自殺しようとした看守は、パウロたちによって自殺を止められ、命を救われました。でも、それはまだ本当の救いではありません。その人が神のみ前に自らの罪を告白し、主イエス・キリストの福音を信じる信仰を告白することによって、彼は本当の救いを与えられます。

 この31節には、キリスト教信仰の二つの大きな特徴が語られています。一つは、わたしたちが救われるのは、主イエスを信じる信仰によってであるということです。これは、わたしたちがいつでも繰り返して聞いているキリスト教信仰の原点です。わたしたち人間の側に何らかの救いに至る道や可能性があるというのでは全くなく、救いはただ主イエスからのみ来る。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリストからのみ、わたしの救いは来る。わたしはその救いの恵みを信仰によって感謝して受け取る以外にないし、それで十分である。なぜならば、主イエス・キリストがわたしの救いのために必要なすべてのことをすでに成し遂げてくださったからである。これが、わたしたちの信仰の原点です。

 ここで語られているもう一つのことは、救いがその人一人だけでなく、家族全員に及ぶということです。このことについて、少し深く考えてみましょう。一人の人の信仰とその人に与えられている神の恵みが、その人だけでなく、家族全員に及ぶということは、旧約聖書の信仰の民イスラエルにおいては、疑うことができない事実でした。創世記12章で、神はアブラハムにこのように言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。……地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(2~3節参照)。

 アブラハムに与えられたこの祝福は、その子イサクへ、またその子ヤコブへと受け継がれ、彼らの家族全員に受け継がれました。更には、ヤコブすなわちイスラエルから彼の12人の子どもたち、イスラエルの12部族とその家族へと受け継がれ、そしてやがて、ダビデの遠い子孫であったヨセフとマリアによって主イエスへと受け継がれたのです。これは、神がイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。イスラエルの家に生まれた子どもは皆神の祝福を受け継ぎ、その信仰を受け継ぐのです。

 新約聖書になって、イスラエルだけでなく全世界のすべての人が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって救われるようになってからも、旧約聖書の信仰と救いの連帯性という考えは受け継がれていきました。たとえば、マタイによる福音書9章に書かれている、中風で寝たきりの人をベッドのまま運んできて、屋根をはぎ、天井からつるして主イエスに出会わせた人たちの信仰を主イエスがご覧になって、その病人をいやされたという場面では、病人の信仰は全く問題にされてはいません。運んできた人たちの信仰によって、その病人がいやされたのでした。ルカによる福音書9章に書かれている会堂長ヤイロの一人娘が重い病気であった時、主イエスがその家に向かう途中で亡くなったとの知らせが届きましたが、その時に主イエスはヤイロにこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と。そして、彼の家に着いてから主イエスがその娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」とお命じになると、彼女が生き返ったという奇跡が起こりました。これもまた、父親の信仰が主イエスの奇跡を生み出して、娘を生き返らせたという実例です。

 このような、信仰の連帯性、神の恵みの連帯性を示す実例は、新約聖書の中に数多く見出すことができます。神の救いの恵みは、その恵みの豊かさのゆえに、一人の人をはるかに超えて、その人の家族へ、その地域へ、町々村々へ、そして全世界へと広がっていくのです。そしてまた、この信仰があるからこそ、その恵みの豊かさを信じる信仰者が、自分の家族に、また周囲に、そして全世界へと、救いの恵みを告げ知らせ、それを広めていくということが実際に可能なのです。

 わたしたちはここでもう一つのことを確認しておらなければなりません。今お話ししたことが、いわば機械的に、自動的に起こるというのではなく、そこには神が教会に託しておられる宣教と信仰教育というべき教会の働きがあるということです。

 【32~34節】。パウロとシラスはその看守の家に行き、彼の家族に神の言葉を語り、主イエスの福音を語ったことが書かれています。彼と彼の家族は短い信仰準備教育を受け、それからその信仰を告白し、洗礼を受けたのです。教会はこのようにして、必要に応じて、神から託されている信仰教育を行うのですが、それは救いの恵みの豊かさに対する教会の信仰であり、また奉仕であると言えます。そして、教会は新しく加えられた信仰の仲間と共に、聖餐の食卓を共にし、共に救いの恵みを喜び合う群れを形成していくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉と主イエス・キリストの福音が持っている偉大な力と恵みの豊かさを、どうぞわたしたちにも信じさせてください。その力と恵みの豊かさによって、わたしたちの宣教の働きを強めてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月10日説教「荒れ野へと導かれたイスラエルの民」

2026年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記15章22~27節

    ヘブライ人への手紙3章7~15節

説教題:「荒れ野へと導かれたイスラエルの民」

 イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から脱出した出エジプトがいつの時代のことであったのかについては、諸説があって確定されていません。出エジプトの出来事は聖書の記述以外には、他の記録は全く発見されていません。エジプト側の記録にもありません。したがって、聖書の記述から推測する以外にありません。一つのヒントになるのが、出エジプト記1章11節に、「イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した」とあることから、このラメセスの町とは、エジプト第19王朝のファラオ、ラメセスⅡ世が建設したラメセスの家であろうと推測し、そこから出エジプトは紀元前1280年代であろうというのが、最も有力な説です。また、前回学んだ、いわゆる「紅海の奇跡」も、今日の紅海の海を指すのではなく、葦の草が生えている湖での奇跡であろうと考えられています。更に、わたしたちがこれから学ぼうとしている荒れ野の地名の多くについても、今日その場所を特定できていないものがほとんどで、荒れ野での40年間の行程を正確にたどることはできません。

 このように、歴史的に、また地理的には不明確な点が多くありますが、出エジプトという出来事そのものが持つ意義、その影響力、その救いの恵みの大きさ、偉大さについては、誰も疑うことはできません。旧約聖書の民であるイスラエルにとっては、出エジプトはイスラエルの民誕生の出来事であり、イスラエルに対する神の救いの恵みの原点であり、またイスラエルの信仰と命の原点でありました。彼らは荒れ野の40年間の旅を続け、ついに神の約束の地カナン到着し、そこで神の契約の民、信仰の民、神を礼拝する民として生きるのですが、彼らは常に繰り返して、この信仰と命の原点に立ち帰るべきことを忘れませんでした。それは、わたしたちキリスト者がいついかなる時にも、わたしたちの救いと信仰の原点である主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を忘れてはならないのと同様です。

 では、きょうは出エジプト記15章22節から読んでいきましょう。22節の初めに、「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた」と書かれています。イスラエルの民にとっては、出エジプトの出来事と、それに続く葦の海の奇跡は、同じほどの重要な意味を持っていました。葦の海の奇跡は、特に彼らの荒れ野の40年間の困難な旅を導く神の確かな保証となりました。すなわち、イスラエルの民が一方からはエジプトの強大な軍隊に追われ、もう一方では海が彼らの行く手を阻んで、もはや絶体絶命の危機にあったとき、神がその強いみ手によって海の水を二つに分け、彼らを安全に通らせたように、荒れ野の長く困難な旅をも、神は彼らが生きるのに必要なすべてのものを備えてくださり、彼らをカナンの地まで必ずや導いてくださるという約束を与えられているのです。荒れ野は砂漠地帯が広がり、人間が生きるために最低限必要な水や食料をほとんど得ることができません。畑を耕す土も野菜に必要な水もありません。けれども、彼らを荒れ野へと導かれた神は葦の海の奇跡を行われた神です。その神が荒れ野の40年間の旅にも、絶えず彼らと共にいてくださるという約束を、彼らは与えられているのです。それゆえに、彼らはこれから待ち受けるであろう多くの困難を少しも恐れることなく、葦の海の奇跡から荒れ野へと旅立っていくことができるのです。

 わたしたちは新しい一週の歩みを礼拝から始めます。この礼拝で、主なる神がイスラエルの民に対してなされた奇跡のみわざを聞き、また主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、その神の救いの救いの恵みから、一人一人の新しい一週の歩みを始めることを許されています。たとえ、わたしの一週の歩みにどのような困難が待ち受けていようとも、予期せぬ突然の試練があろうとも、わたしは恐れることはありません。神の救いの恵みから出発し、常に変わらずに神がわたしと共におられ、救いの恵みをもってわたしを導いてくださるからです。

 この神の約束は、前回学んだモーセとイスラエルの民が歌った葦の海の歌の中でもすでに暗示されていました。15章12節の【12節】は、葦の海の奇跡でエジプトの軍隊が海の底に沈んだことを歌っていますが、次の【13節】では、荒れ野の旅を神が導かれることを、また約束の地カナンでの神の聖なる住まいとなるエルサレム神殿をもあらかじめ暗示しているように思われます。神の出エジプトと葦の海での奇跡のみわざが、あまりにも大きくあり、偉大であり、救いの恵みに満ち溢れているために、その力と影響力とが荒れ野の40年間の旅にも、更には約束のカナンでの新しい生活全体にも及んでいるということを歌っているように思われます。

 そのようにして、モーセとイスラエルの民は荒れ野への第一歩を踏み出したのです。彼らはシュルの荒れ野から三日目にはマラに着いたと書かれていますが、この二つの地名を今日正確に特定することはできません。おそらくは、葦の海からシナイ半島の西、あるいは南の方角へと進んだと推測されます。この方角は、前にも触れましたが、エジプトからカナンの地、今日のパレスチナ地方へと向かう最短の道、すなわち地中海沿岸を北上するペリシテの道と呼ばれていたルートとは違っていたことは確かです。当時からよく整えられていたペリシテの道を通れば、どんなにゆっくりと移動しても1、2か月で約束の地へと到着できたのに、神はあえてイスラエルの民を荒れ野へと導かれ、40年もの長い間荒れ野をさまよわせたのでした。それは、イスラエルに対する神の愛の訓練のためにあったと、聖書は繰り返して語っています。今一度、申命記8章2~6節を読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。

 さて、荒れ野へと導かれたイスラエルの民は、三日間飲み水を得ることができずに、マラに着いた時、ようやく水のある場所を見つけましたが、そこの水は苦くて飲むことができなかったので、民はモーセに不平を言ったと書かれています。神の愛による訓練を受けているイスラエルの民は早くもその訓練につまずきました。彼らの不平は、この後にも何度も繰り返されます。【16章2節】。また【17章3節】(122ページ)。神の愛による訓練の期間は、イスラエルの繰り返しの不平の時でもあったのです。彼らは神の救いの恵みを忘れ、神の約束の言葉を疑い、何度も指導者モーセに不平を言い、神に背くのです。神の愛と救いの恵みがイスラエルに注がれる時、同時にイスラエルの不従順と罪が明らかにされるのです。神の愛と救いの恵みを受け取るに値しないイスラエルの罪、その愛と恵みに感謝をしないイスラエルの罪、すぐに忘れてしまい、不平や不満を言う罪、荒れ野の40年間の神の訓練の期間、そのようなイスラエルの不従順と罪が繰り返されます。

 しかし、神はこのような罪のイスラエルを決してお見捨てになることはありません。神はモーセに一本の木を示されました。モーセがその木を水に投げ込むと、水は甘くなり、飲めるようになったと25節に書かれています。神はここでも奇跡をもってイスラエルの民を救われました。彼らの命をつなぐ水をお与えくださいました。それだけでなく、25節後半にはこのように書かれています。【25節b~26節】。ここで「彼」と言われているのが、モーセ個人を指すのかイスラエルの民を指すのかははっきりしませんが、その両者と考えてよいでしょう。イスラエルの民の指導者として立てられているモーセに与えられた恵みは、民全体に与えられた恵みでもあります。神は苦い水を甘い水に変えられただけでなく、彼らに「掟と法」を与えられました。掟と法の内容が何であったかは書かれていませんが、イスラエルの民は神がお与えくださった奇跡の水、甘い水を飲んで肉体を癒し、力づけることが許されただけでなく、神の言葉である「掟と法」をも与えられ、彼らの魂がまことの命によって生きるための言葉を与えられたのです。この掟と法は、のちに20章でモーセの十戒として、また契約の書として具体的な文書になって彼らに与えられることになります。

 イスラエルの民は神がお語りくださる神の言葉に聞き従い、その神の言葉を彼らの歩みと生活の中で行うことによって、神のみ心を実現し、それによって神によって救われた民であることを証しするのです。それが、エジプトの奴隷の家から導き出されたイスラエルの民の信仰の歩みであり、そして葦の海の奇跡によって救われた神の民の新しい生き方になるのです。

 わたしたちはここで、旧約聖書の民イスラエルと新約聖書の民教会の大きな特徴を確認することができます。それは、主なる神のみ声に聞き従う民、その神の命令に耳を傾け、その神がお与えになるすべての掟を守って生きる民であるということです。これこそがわたしたちの信仰の大きな特徴です。別の言葉で言えば、言葉の宗教であるということです。神の言葉に生きる宗教だということです。

 世界には多種多様な宗教があります。言葉を発せず、黙想し、瞑想を深めることによって悟りへと至ると説く宗教もあれば、修行や苦行を積み重ね、肉体を極限まで苦しませることによって魂の平安を求める宗教、あるいは善行や社会貢献などによって徳を高めることを重んじる宗教など、さまざまです。しかし、わたしたちが信じているキリスト教という宗教、その信仰はそれらとは違っています。わたしたちは神の言葉を聞き、それを信じ、それに従うことによって生きるのです。主体、主導権は、神の言葉にあります。神は「掟と法」によって、それはわたしたちにとっては聖書ですが、それによって語られます。日々新たに、その人その人に、その時その時に、わたしたちが真実に生きた者となるために、必要な言葉をお語りになります。わたしたちはそれに聞き従うことによって、神によって守られ、導かれて生きるのです。どのような試練や危険や恐れの中にあっても、神はわたしと共に歩んでくださいます。

 最後に【27節】。エリムがどこを指すのか分かっていませんが、この後のイスラエルの民の道のりから推測するなら、アラビア半島(今のサウジアラビア)の西側、紅海に面して南下し、モーセの山(シナイ山)に至る途中に位置すると推測されています。「12の泉」「70本のなつめやし」、12も70も聖書ではいわゆる「聖なる数、完全数」なので、これから続くであろうイスラエルの荒れ野の旅のすべてに、神の恵みと導きとが一つも欠けることなく、豊かに注がれるであろうことを暗示しているのかもしれません。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは日々にわたしたちの命に必要なすべてのものを備えてくださいますことを感謝いたします。わたしたちはあなたから多くをいただいておりながら、その恵みに気づくこと遅く、感謝することの少ない者であることを、懺悔いたします。どうかわたしたちの信仰の目を開いてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月3日説教「ローマに福音を告げ知らせる責任」

2026年5月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ローマの信徒への手紙1章8~15節

説教題:「ローマに福音を告げ知らせる責任」

 パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、彼の第三回世界伝道旅行の終わりころ、コリントの町に滞在していた紀元58年ころと推測されています。この時点で、パウロはまだローマに行ったことはなく、ローマの教会との交流もほとんどありませんでした。ちなみに、ギリシャ地方のコリントからイタリア半島のローマまでは、直線距離でアドリア海を挟んで北西に1200キロ以上も離れています。

 そのローマにある教会になぜパウロが手紙を書くことになったのか、その理由が1章8節以下に書かれています。ここには、パウロがどんなにかローマ行を熱望していたか、そのパウロの熱い思いが語られています。なぜパウロがこの手紙を書いたのか、またなぜ彼がローマの教会を尋ねたいと願ったのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。

まず、8節でパウロは、「あなた方の信仰が全世界に言い伝えられていることを神に感謝する」と書いています。ローマに主キリストの教会が建てられている、そこに主イエス・キリストを主と信じ、唯一の救い主と信じている信仰者の群れが形成されている。そのことが全世界的な、大きな意味を持つことなのだというのです。ここからわたしたちは、ローマに主キリストの教会が存在しているということに対して、パウロが特別な重要性を見いだしていたということに気づかされます。

当時から、「すべての道はローマに通じる」と言われており、ローマの町はローマ帝国の首都であると同時に、全世界の中心都市であり、全世界のあらゆる民族が集まり、あらゆる文化、思想、経済、そしてこの世の権力のすべてがここに集中していました。ローマ皇帝カイザルがここから世界を支配していました。そのローマに、一握りの小さな信仰者の群れが存在している。この地上の世界にルーツを持つのではなく、神の国に本来の国籍を持ち、この世の権力に従うのではなく、十字架につけられ三日目に復活された主イエス・キリストに全き服従を誓い、復活して天に昇られた主イエス・キリストを唯一の主と信じる小さな信仰者の群れが存在している。そのことの、大きな、驚くべき意味を、パウロは知っています。そして、彼らと同じ信仰を持つパウロが、彼らと直接に会って信仰の交わりを深め、彼らの信仰の闘いに共に参加し、同じ信仰を共に告白したい、そのようにパウロは願ったのです。

この手紙を書いたもう一つの直接的な理由が15章22節以下に書かれています。それによれば、パウロは、当時世界の果てと考えられていた、ヨーロッパ大陸の西の果てイスパニア(今のスペイン)にまで福音宣教の足を延ばしたいと願っていましたが、そのためにローマを拠点にして、ローマ教会の支援を受けてイスパニア伝道を始めたいという計画があったのでした。パウロがそう願ったのは、ローマの教会に自分の働きのために支援をお願いしたいとの思いからだけではありません。ローマの教会が他の教会のために仕える教会になるということは、その教会にとって大きな祝福となるからです。世界の中心都市であるローマに建てられた教会が、世界に仕える教会となることによって、ローマの教会はいよいよ祝福された教会となるのです。

そのようなわけで、パウロはまだ会ったことがないローマの教会に、自分のことを知ってもらうために、いやそれ以上に、彼が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかをあらかじめ知ってもらうために、この手紙を書いたのです。

パウロがどれほど熱心にローマ教会訪問を強く願っていたかは、きょうの箇所にそのことが繰り返して書かれていることから十分知ることができます。9、10節では、「わたしが祈るときにはいつも……願っています」【9~10節】。11節でも、「あなたがたにぜひ会いたい」、15節では、「ローマにいるあなたがたにも……告げ知らせたい」【15節】き。これらから、パウロがどんなにかローマ教会訪問を強く願っていたかが伝わってきます。ローマ行きはパウロの長年の祈りであり、切望であったのでした。

パウロがこれほどまでにローマ教会訪問の思いを繰り返して語ることには、今挙げた理由のほかにもあったことが、13節から推測されます。【13節】。パウロのローマ行の計画が何回も妨げられてきたと彼は言います。何によって妨げられたのかは分かりません。彼が他の地域での宣教活動に忙しかったからか、あるいは外部から何らかの妨害があったからか、彼自身の心境のことかは分かりません。ある人はこう推測します。パウロは世界の大都市であるローマで宣教することを怖がっていたので、何かにと理由をつけて行きたがらなかったのだと言っている人たちが周囲にいたのではないか。あるいは、パウロは他の人が建てた教会へは行きたがらなかったのではないか。自分が建てたコリントの教会へ何度も出かけていくのに、ローマの教会はそうではないから積極的に行こうとしなかったと言っている人たちがいたのではないか。そういう人たちに対して、パウロはここで弁明しているのではないか。そのように推測する人もいます。

どのような理由にせよ、パウロのローマ行きの願いは決して失われることはありませんでした。妨げられれば妨げられるほどに、その思いはいよいよ強まるばかりです。もしパウロの願いが、人間の思いから出たものならば、彼自身の名誉とか自己保身とかがその理由であったのであれば、その願いは妨げにあって、やがて消え去るほかになかったでしょう。けれども、そうではなかったことは確かです。妨げにあえばあうほどに、彼の願いは強くなっていったのでした。それは、彼自身の願いというよりは、彼が仕えていた主イエス・キリストと父なる神に押し出されて、主キリストの福音を宣べ伝えるという、彼に託された使命感から湧き上がる熱意だったというべきなのでしょう。もっと言えば、それは神のみ心によることであり、主キリストのご命令によることなのです。神のみ心、神の救いのご計画は、あらゆる困難やこの世の鎖をも断ちきって、前進するからです。

そのことを、9~10節から読み取ることができます。【9~10節】。パウロはここで、ローマ教会訪問計画が決して一時的な思いつきではなく、偽りでもないこと、真実で切実なものであること証しする証人として神を立てています。更に、その神とは、彼が全身全霊を傾けて、み子イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために仕えている神であると言っています。この神が、パウロのローマ教会訪問の願いと計画が真実であることを証明してくださるということは、そもそもそれが神のみ旨なのであり、神のご計画であるということをパウロが信じていたということにほかなりません。パウロがローマに行くこと、そこで主キリストの福音を宣べ伝えることは、彼を使徒として召してくださった神、特にユダヤ人以外の異邦人に福音を語るように召してくださった神ご自身の意志なのだと、パウロは固く信じていたのです。それゆえに、その計画はどのような妨害にあおうとも、変更されることはないのです。

10節で「何とかしていつかは神の御心によって」というパウロの祈りは、わたしたちが『主の祈り』の第二の祈願で、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る祈りと同じです。どのような困難な状況にあっても、前方にどのような厚い壁が立ちふさがっていようとも、「神よ、あなたのみ心がなりますように」と祈ることは、パウロに許されている祈りであるとともに、わたしたちにも許されており、また命じられてもいる祈りです。

パウロのローマ行きの祈りがどのようにしてかなえられたかは、使徒言行録21章以下で知ることができます。それは、誰も、おそらくはパウロ自身も予測できなかった、全く奇しき神のご計画でした。第三回世界伝道旅行を終えてエルサレムに帰って来たパウロは、ユダヤ人たちによって捕らえられ、裁判を受けることになったのですが、ローマの市民権を持っていたパウロは皇帝の法廷に上訴します。数年後、彼は囚人として、ローマに護送されることになったのでした。

ローマに着いたパウロがその後どうなったのかについては、使徒言行録は何も記してはいませんが、すぐ前のページの使徒言行録28章30~31節にはこのように書かれています。【30~31節】。ここには、「まったく自由に何の妨げもなく」と書かれています。ローマ行きを何度も妨げられてきたパウロでしたが、今やそのローマで、何の妨げもなく、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができたのでした。神のみ心はこのようにして実現したのです。

11節からは、ローマ教会訪問の具体的な目的が書かれています。【11~12節】。「霊の賜物を分け与えて力づけ、お互いの信仰を励まし合う」ことがその目的です。これこそが、教会と教会が交わる際の、また信仰者と信仰者が交わる際の、最も大きな目的です。お互いの安否を問い合うとか、それぞれの町の特産品を交換するとか、教会の情報や課題を分かち合うことも有益ではあります。しかし更に大きな恵みは、霊の賜物を分かち合うこと、同じ信仰に立つ者たちとして励まし合うことにあります。

「霊の賜物」とは、神から一人一人に与えられた、あるいはまた教会に与えられた恵みのことです。その人が自分の能力や努力で手に入れたものではなく、むしろ、自分が神のみ前に貧しく無力なものに過ぎないことを知り、ただひたすら神から与えられた恵みによって生きようとする者に、神から賜る恵みのことです。主イエスはそれをタラントと言われました。霊の賜物、恵み、タラントを神から与えられ、それを感謝する人は、他の人にそれを分かち与えます。分かち与える人は、いよいよ豊かに与えられます。

「信仰による励まし合い」も同じです。パウロにとっても、またローマの教会にとっても、その時代の中で、その地にあって、信仰に生きるということは、多くの労苦に満ちていました。信仰の闘いの連続でした。もし、自分の信仰のことだけを考えていたら、やがて疲れ、倒れてしまうかもしれません。けれども、同じ信仰の闘いをしている者たちが、互いに祈り合い、支え合い、直接に顔を合わせてその信仰を確認し合うことは、どんなにか大きな励ましであり、慰めとなることでしょうか。

使徒パウロは一人で立っているのではありません。ローマの教会もそうです。共に主キリストによって立つことを許されているということを確認し合うことによって、共に励ましを与えられるのです。

最後に、14節の「果たすべき責任がある」という言葉に注目したいと思います。直訳すれば「負債(つまり借金)がある」という意味です。この言葉はしばしば人間の罪を言いあらわす際に用いられます。主イエス・キリストによって1万タラント(数百億円)もの大きな罪の負債をゆるしていただいたパウロは、またわたしたちは、他の人たちを罪のゆるしへと導くための負債を負っているということです。わたしたちはみな主キリストの福音を宣べ伝えるという、喜ばしい責任を負っているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエス・キリストの福音が全世界のあらゆる町々村々に宣べ伝えられ、主キリストの教会が建てられています。あなたはそのすべての宣教活動を導き、支えておられます。主よ、どうかその一つひとつの教会をあなたがいよいよ祝福してくださり、あなたを信じる民を増し加えてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。