6月16日説教「救い主が到来した喜びと幸い」

2024年6月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:マラキ書3章1~5節
    ルカによる福音書10章21~24節
説教題:「救い主が到来した喜びと幸い」

 主イエスは12人の弟子のほかに72人の弟子たちをお選びになり、彼らを神の国の福音を宣教するため、そしてこの世の失われた魂を収穫するための働き人として、派遣されました。ルカ福音書10章17節には、「72人は喜んで帰って来た」と書かれていましたが、それに対して主イエスは、彼らの福音宣教の働きの成功と成果よりも、さらに大きな喜びは「あなたがたの名が天に書き記されていることだ」と言われました。それに続いて、21節には、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」と書かれています。17節、20節、そしてきょうの箇所の21節に共通しているのが「喜び」という言葉です。
 この三つの喜びは少し性質が違っているように思われます。17節の喜び、それは20節の前半では「喜んではならない」と、主イエスによって否定されている喜びですが、それは72人の弟子たちが主イエスの名によって悪霊を屈服させたという、弟子たちの宣教の成果を喜ぶ喜びです。これも、大きな喜びであるには違いありません。主イエスがこの世に到来されたことによって、神の新しい恵みのご支配が始まって、悪霊やサタンが主イエスの前に力を失う、弟子たちはその新しい神のご支配、神の国の福音を宣教し、実際に彼らがそのことを経験しているのですから、それは弟子たちにとっての大きな喜びには違いありません。
 でも、主イエスは弟子たちのその喜びをひとたび否定されます。なぜなら、それよりも大きな喜びがあるからです。それが、ここで言われている第二の喜び、弟子たちの名が天に書き記されているという喜びです。この喜びは、地上にある成功や成果を喜ぶ喜びではなく、天にある喜び、天からやってくる喜びです。天にある喜びは地上のどのような変化によっても変わらない、永遠の喜びです。天の神によって永遠に覚えられている喜びです。主イエスは神の国の福音を宣教する弟子たちに、また、主の教会にお仕えするわたしたちに、この天にある喜びを約束してくださるのです。
 第三の21節の喜びは主イエスご自身の喜びです。【21節】。ここで「喜びにあふれて」と訳されている言葉は、17節や20節で「喜ぶ」と訳されている言葉とは少し違ったギリシャ語です。「大いに喜ぶ、歓喜する」という意味の言葉で、特別に大きな喜びを言い表しています。マタイ福音書5章12節ではこの二つの言葉が並んで用いられています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。
 このマタイ福音書のみ言葉からも分かるように、「大いに喜ぶ、歓喜する」という言葉は、悲しみや苦しみなど、喜びを否定し、喜びを奪い取るような、喜びとは全く反対の状態の中で、しかしそれらに反して、それらを突き破るようにして、喜びが勝利するという、激しい戦いや抵抗の中で勝利する喜びという意味合いを持っているように思われます。主イエスの「聖霊による喜びにあふれる」とは、だれもが決して喜ばないような、むしろ多くの人が忌み嫌ったり、憎んだり、避けて通ろうとするような、喜びとは反対のもののすべてを、否定し、そのすべてに勝利する、そのような喜びだということです。
 17節と20節で言われていた弟子たちの喜びは、この21節の主イエスの「大きな喜び、歓喜」の反映であるように思います。主イエスの大きな喜び、歓喜の反映として、いわばそこからあふれ出てくる喜びに、弟子たちも、そしてわたしたちもあずかっているのだということです。
 では、主イエスの大きな喜び、歓喜とはどのようなものなのか、それはどこからくるのかを見ていきましょう。21節の「これらのことを」が、何を指すのかは漠然としていますが、おおよその見当はつきます。72人の弟子たちに、神の国が到来して悪霊やサタンが主イエスのみ前に屈服していることが明らかにされたことを指していると考えられます。また、「知恵ある者や賢いものに隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われている「幼子のような者」は弟子たちのことであるということもおおよその見当がつきます。
 つまり、主イエスはここで、神の国の福音がこの世の知者や賢者にではなく、またこの世の支配者たちや権力者たちにでもなく、知恵も力もなく、貧しく弱く、小さな者である弟子たちにこそ示されたこと、彼らによって信じられていること、そのことを大いに喜んでいるのだということです。また、それこそが父なる神のみ心であることを大いに喜び、神をほめたたえているのです。
 そのことが、この福音書を読み進んでいくと、次第に明らかになることをわたしたちは知っています。当時のイスラエルと世界の支配者たちも、ユダヤ人のファリサイ派や祭司、長老たちという宗教家たちも、皆こぞって主イエスの福音を拒絶し、主イエスを神から遣わされたメシア・救い主として受け入れず、主イエスを偽りの裁判によって裁き、罪ありとして十字架刑に処して殺したのでした。当時の世界の最高の知恵と最高の権威が、吟味を重ねたうえで、主イエスを十字架につけたのです。
 わたしたちはここで使徒パウロの言葉を思い起こします。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には、神の力です。……神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(コリントの信徒への手紙一1章18節以下参照)。また、パウロはこうも書いています。「キリストは……自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6節以下参照)。
 神はこのようにして、人間の知恵や力、この世の権威のすべてを打ち砕かれたのです。それらは人間を救うためには何も役に立たないことが明らかにされました。かえって、人間を神から遠ざけ、人間を傲慢な者にし、人間たちの間にも争いを生み出す以外にありません。それゆえに、神はご自身の深い知恵と救いのみ心をお示しになるために、この世の貧しく弱い人たち、無きに等しい人たちをお選びになったのです。ここにこそ、神の選びの愛の不思議さがあり、また驚くべき深いみ心があるのです。主イエスはこの神による愛の選びの不思議さとその驚くべき恵みとを覚えて、歓喜しておられるのです。
したがって、わたしたちもまた主イエスをわたしの救い主と信じて救われるために、自らの知恵によるのではなく、神のみ前に自らを低くし、貧しくして、ただひたすらに聖霊のお導きを信じ、人間の知恵には愚かに見える主イエスの十字架の福音を信じ、その信仰によって罪をゆるされることを感謝すること、この信仰によって生きることが勧められているのです。
 22節では、父なる神とそのみ子である主イエスとの密接な関係について語られています。【22節】。天の神はすべての人の目を引くような偉大な奇跡とか、だれの目にもはっきりと分かるような輝かしい衣装を身にまとった英雄の姿によってではなく、わたしたちがクリスマスのメッセージで聞いたように、貧しい家畜小屋の目立たない飼い葉おけの中に寝かされている幼子を、全世界のすべての人の救い主としてお与えになりました。ガリラヤ地方ナザレのイエスによって、そのご受難と十字架の死によって、ご自身の永遠の救いにご計画を成就なさいました。この主イエスに、ご自身のみ心のすべてを、ご自身の愛と義と恵みのすべてをお与えになりました。主イエスこそが、父なる神に至る「道であり、真理であり、命」です(ヨハネ福音書14章6節参照)。
ここにもまた、主イエスの歓喜があります。父なる神とみ子主イエスとのこのような密接な、深いお交わりの中にあって、神の救いのみわざはなし遂げられました。それゆえに、主イエスの十字架と復活による救いは永遠であり、完全であり、確かなのです。主イエスのその大きな喜び、歓喜は、わたしたち一人一人の救いの喜びへと反映されています。
次に、23節以下には、もう一つの主イエスの大きな喜び、歓喜について語られています。【23~24節】。マタイによる福音書では、このみ言葉はルカとは違った文脈で語られています。マタイ福音書13章では、主イエスが「種まきのたとえ」をお語りになった後で、なぜたとえを用いて神の国のことを話すのか、その理由について説明しておられます。それは、旧約聖書イザヤ書に預言されているように、「あなたがたは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」(マタイ13章14節以下参照)。そのイザヤの預言に続いて、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と語られています。
すなわち、主イエスはこのように言われるのです。「旧約聖書の時代には、イスラエルの預言者たちや信仰者たちには、いまだはっきりと目に見えるようには示されず、はっきりと聞いて信じることができるようには語られなかったけれども、今は、わたし、すなわち主イエスによって、あなたがた弟子たちの身近で、あなたがたと同じ人間の姿で、あなたがたと同じ人間の言葉でわたしが語っている。そして、あなたがたはそれを確かに見ることができ、それを確かに聞くことができるようにされている。それは何と幸いなことであることか」と主イエスは言われるのです。
弟子たちは、旧約聖書で長く待ち望まれていたメシア・救い主を今や直接に彼らの目で見ることができ、彼らの肉体をもって直接にメシアと交わりを持つことが許され、人となられた神のみ子の到来を肌で感じることができ、そして神のみ子の到来とともに始まった神の国の福音を聞かされており、新しい神のご支配の中に生きることが許されているのです。神の天地創造以来の多くの信仰者たち、アダムとエヴァに始まり、アブラハム、イサク、ヤコブの族長たち、ダビデやソロモン王、イザヤ、エレミヤなどの預言者たち、彼ら数えきれないほど多くの旧約聖書の信仰者たちが見たいと願いながら見れなかったメシアのお姿を、今弟子たちが見ることができている。また、彼ら多くの信仰者たちが聞きたいと願いながら聞くことができなかった神の国の福音、十字架と復活による救いの福音を、今弟子たちは聞くことが許されている。それは何と幸いなことであるか。それは何という大きな喜びであり、歓喜であることか。主イエスはそのように言われるのです。わたしたちもその喜びの中に招き入れられています。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ。あなたの永遠なる救いのご計画は主イエス・キリストによって成就しました。わたしたちは今その成就の時に生きており、主イエス・キリストによる救いの福音を聞かされております。その大きな幸いを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに、またすべての人に、その福音を信じる信仰をお与えください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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