7月28日説教「教会はキリストのからだ(二)」

2024年7月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(34)

聖 書:サムエル記下7章8~16節

    コリントの信徒への手紙一12章12~31節

説教題:「教会はキリストのからだ(二)」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は、キリストの体、神に召された世々の聖徒の……待ち望みます」。

この箇所は、キリスト教教理では「教会論」と言われます。前回も触れましたが、この告白は1890年(明治23年)の(旧)『日本基督教会信仰の告白』にはありませんでした。1953年の『日本キリスト教会信仰の告白』で新たに付け加えられました。その背景にあったのは、戦時中わたしたちの教会が国家の戦争政策に迎合して、アジア侵略や教会合同へと進んでいったのは、教会論がしっかりと告白されていなかったからであり、教会と国家の関係があいまいで、主なる神と主イエス・キリストに従うよりも、国家に従うことを重んじたからであるとの反省から、この教会論が新たに付け加えられたのでした。

 先週行われた東京中会教職者研修会では、日本キリスト教会が日本基督教団を離脱した主な理由が「信仰告白」にあったことを確認しました。そして、「信仰告白」によって一致し、明確な教会論を持って、伝道し、教会を形成していくことを、先輩の牧師や長老たちが最も重要な目標としていたことを学びました。日本キリスト教会がこの日本の地で真実な教会を形成していくために、わたしたちもまたここで告白されている「教会論」をよく学ぶことが重要です。

 きょうも「教会はキリストのからだ」という冒頭の告白について学んでいきます。「教会はキリスの体である」という表現はパウロ書簡にしばしば用いられます。主な個所を挙げれば、ローマの信徒への手紙12章4~8節、コリントの信徒への手紙一12章12~30節、エフェソの信徒への手紙1章23節、同4章11~16節、コロサイの信徒への手紙1章18~20節などです。それらの多くの箇所から、主なポイントを挙げて学んでいくことにします。

 「キリストのからだ」の「の」は文法的に言えば主格的属格であると言えます。まず、属格についてですが、教会は主キリスト「の」ものです。主キリストの所有であり、主キリストに所属するものであるということです。したがって、教会に集まってきている会衆・信徒・教会員は主キリストの所有であり、だれか特定の指導者や牧師、監督のものではありません。もちろん、教会の外のだれか、国家の指導者とか、この世の権力者とかのものではありませんし、その所有でもありません。ただお一人、主イエス・キリストだけがご自身のお体である教会の「主」です。所有者です。

 したがって、教会が主のものであるという信仰は、教会にとっては大きな恵みであり、力であり、命であり、また慰め、励まし、希望でもあります。それらのすべてが、教会の所有者であられる主イエス・キリストにあるからです。教会は主キリストから救いの恵みとともに、それらのすべてを与えられるからです。教会がどのような嵐の中を航海する時でも、どのような困難な道を歩む時でも、あるいは試練や災いにあう時でも、教会の所有者は主キリストですから、教会は迷うことなく、恐れることなく、主キリストに身を委ね、主キリストに向かって、力強く、希望をもって進んでいくことができるのです。

 次に、「キリストのからだ」の「の」の主格についてですが、教会では主キリストが行動の主体です。教会にあっては、主キリストが聖霊によって、唯一の主として働いておられます。教会の群れを支配し、導き、養い、すべての行動をしておられるのは主キリストです。主キリストのほかのすべての信者、会衆は、教師であれ、あるいは監督と呼ばれる人であれ、すべての人は主キリストに仕える僕(しもべ)であり、奉仕者です。そうである時に、教会は主キリストのからだとして健全に、また生き生きとして機能し、成長するのです。

 では次に、「からだ」という言葉で表現されている内容について考えていきます。「からだ」とは人間の肉体のことです。前回もお話ししましたように、神のみ子が肉体を持った人間のお姿でこの世に誕生され、この世に生きられたことと深い関連があります。つまり、主イエスが人間としてこの世においでになり、苦難の道を歩まれ、十字架で血を流して死なれ、三日目に墓から復活され、40日目に天の父なる神のみもとへと昇天され、そして父なる神の右に永遠に座しておられる主イエスのお体、その主イエスのお体が今も目に見える形で、信じている人たちの群れによって具体化されているところ、それが「主キリストのからだ」である教会だということです。

 特に、三つのことを覚えましょう。一つには、教会は十字架につけられた主イエス・キリストの体であるということ。二つには、教会は墓から復活され、罪と死に勝利された主イエス・キリストの体であるということ。三つには、教会は天に昇られ、神の右に座しておられ、終わりの日にそこから再びおいでになる主イエス・キリストの体であるということ。教会はこの三つの主イエス・キリストのお体が今ここで目に見えるかたちで存在しているのです。

 パウロは「からだ」という言葉で教会の特徴をいくつか語っています。エフェソの信徒への手紙2章11節以下では、主キリストの一つの体にすべての民、すべての人が一つに結合されていることが強調されています。主キリストはご自身の十字架の血によって神と人間との間にあった罪という壁を取り払い、神と人間とを一つに和解させてくださいました。それだけでなく、憎しみや争いによって敵対関係にあった民族や人間を、十字架の血によって和解させ、一つの新しい人へと造り上げてくださり、一つの主キリストの体である教会の民としてくださったとパウロは語ります。

14節では、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と書かれています。また、21、22節には次のように書かれています。【21、22節】(354ページ)。主キリストによって罪をゆるされ、神の民とされた全世界の信仰者は、一つの主キリストの体なる教会の民として、聖なる神殿となるのだと言われています。そして、そこで主なる神が働かれ、主キリストの救いのみわざが行われる神の家とされるのです。

 「教会が主キリストのからだ」と告白されるときには、主キリストによる世界の平和が告白されているのです。主キリストの十字架があらゆる敵意と憎しみとを滅ぼし、すべての分裂をその尊い神のみ子の血によって和解させたからです。今のこの時代に、世界の教会はこの平和の福音をもっと声高く語るべきです。また、わたしたちもこの教会から平和の使者として派遣されている一人一人として、遣わされていく家庭で、地域で、職場で、あらゆる場所で、主キリストの平和を創り出していく者でありたいと願います。

 きょうの礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一12章でも、教会が主キリストの一つの体であることに基づいて、教会の一致と一つの共同体であることが語られています。【12~13節】(316ページ)。

 前に読んだエフェソの信徒への手紙2章でもそうでしたが、パウロが主キリストの体である教会の一致を強調することには、二つの側面がありました。一つは、ユダヤ人キリスト者とそれ以外の異邦人キリスト者との一致です。初代教会ではこの両者の対立、分断の問題がかなり深刻であったことが知られています。特に、ユダヤ人でキリスト者になった人たちは、自分たちが先に神に選ばれた民であり、神から律法を授かって、長い伝統に生きていることを誇っていましたから、どうしても律法やユダヤ人の伝統を重んじる傾向ありました。

それに対して、パウロはユダヤ人であれギリシャ人であれ、すべての人は主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われるということを強調し、「主キリストのからだである教会」においては、みな一つの神の霊によって、一つの体に結ばれていることを語りました。

もう一つの側面は、さまざまな民族や職業、社会的地位や、持っている賜物の違う人たちが教会に集まってくるために、教会内の一致が乱される危険性があったからです。教会内の奉仕や務めの違いによって、分裂が生じる場合もあります。この務めのほうがより教会にとって重要であるとか、この奉仕活動がより重要であると主張し合うことによって、教会に分裂が生じることがあります。貧富の差や身分の違いから分裂することもあります。

しかし、パウロはそれらの違いは体の機能や働き、務めの違いであって、それらがみな寄り集まって一つの体を形成しているのだから、その違いによって分断が生じることはないと言います。いやむしろ、体の機能の中で、小さく、弱く見える器官が、より重要な役割を担っていることがあるのであり、どれ一つとして、体にとって不必要なものはなく、みな一つの体を形成している大切は一部なのだと、パウロは繰り返して語っています。22節以下を読んでみましょう。【22~25節】。24節で、「神は」と言われています。神ご自身が教会をそのようなものとしてお建てになり、導いておられるのです。

そこで、26節では、【26節】と付け加えられています。体の一つ一つの機能がそのように補い合っているというだけでなく、体の一つ一つの器官が、いわば血の通っている一つの体として、一つの痛みを全身で感じ、一つの欠けや破れを全身で補い合うように、そこに愛と祈りの交わりがあるということです。「主キリストのからだである教会」には、このようにして、主キリストご自身の十字架の血と愛とが流れているのです。

最後にもう一つ触れておきたいことは、「主キリストのからだである教会」は教会の頭(かしら)であられる主キリストに向かって、絶えず成長し続けるということです。エフェソの信徒への手紙4章15、16節を読んでみましょう。【15~16節】(356ページ)。教会は主キリストの体であり、またその体の頭は主キリストです。頭である主キリストから、体全体の命の源が流れてきます。頭であるキリストから、体に対するすべての指令と導きが与えられます。頭であるキリストが、体が経験するすべての迷いや災い、すべての危険や戦いから守ります。そして、体全体が頭であるキリストに向かって成長していきます。主イエス・キリストはわたしたちの信仰の創始者であり、また完成者であられます(ヘブライ人への手紙12章2節参照)。この主イエス・キリストが頭でいますゆえに、わたしたちはみな日々成長していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたち一人一人を主イエス・キリストの体なる教会に呼び集めてくださり、永遠のみ国を継ぐ者たちとしてくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。わたしたちが常に教会の頭なる主イエス・キリストを見上げ、主イエス・キリストに向かって日々成長していきますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に打ち立てられますように。この世の為政者たちが、唯一の主なる神であるあなたを恐れ、あなたのみ心を行う者となりますように。彼らの権力に対する欲望や敵対心を取り除いてくださり、共に生きる道を歩ませてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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